カネヤマ果樹園 雑記帳<三代目のブログ>

 日々 “育児”に奮闘する次女の気分転換を兼ねて、暇な我々年寄り夫婦の方が横浜に出向き、元町駅で次女と孫娘と待ち合わせ。
コロナ禍で3年ぶりの制限無しのGW中の外出とあって、元町駅には列車が着く度にたくさんのお客さんがホームから改札へ上がって来ます。しかも、若い子たちが多いのに驚きます。どうやら、中華街方面へ向かう人が多そうですが、我々は一歳半の孫娘をベビーカーに乗せて、歩いてすぐの山下公園へ。

公園では、横浜市の「第45回花壇コンクール」の作品が公園内に並べられていて華やかさを演出していて、また芝公園同様に山下公園でもちょうどバラ園のたくさんのバラが華やかに見頃を迎えたところ。
それらを愛でながら、快晴の青空の下。広い芝生の上で小さい子を連れた家族連れやワンコを連れた方々など、皆さん思い思いに潮風に吹かれながら山下公園を楽しんでいました。“山国”の人間にとっては「海はイイなぁ・・・」。(但しそれは飽くまで「見るのは」であって、地に足のつかぬ海で、“板子一枚”船に「乗る」のも「泳ぐ」のも“山の民”は怖いのです)
さて、山下公園と云えば・・・、年寄り的には、氷川丸とマリンタワーでしょうか。みなとみらいもすぐそこですし、客船ターミナルの大桟橋には、残念ながらこの日は大型客船の停泊はありませんでしたが、GW中には5月6日のクイーン・エリザベス(3代目)、翌7日には日本で建造された“あの”ダイヤモンド・プリンセスと、日本発着のクルーズでは最大級という17万tのMSCベリッシマ、そして日本船籍の飛鳥Ⅱとにっぽん丸の4隻が同時着岸とのこと。いやぁ、乗り物好きとしては見てみたかったですね。
ワンコ連れOKのクルーズってないのでしょうか、ね。最近の大型フェリーの中には、ペットと一緒に泊まれる客室を備えた航路も出始めていますが・・・。
余談ながら、これからの観光業(飲食業も含め)のターゲットは、インバウンドは別とすると、シルバーエイジとペット連れだとずっと思っているのですが、その割には“町ぐるみ”の軽井沢を除くと、住んでいる松本を含めどこに行ってもペット連れにまだまだ決して優しくない・・・と感じています。
 この日の女性陣のお目当ては、「ホテルニューグランド」のコーヒー・ラウンジ「ザ・カフェ」でのランチの由。
事前の予約枠が満杯だったとのことで、当日枠で食べられるようにと、到着後真っ先にホテルに直行してウェイティングリストに記入し、凡その可能時間を確認した上で山下公園に来ていました。
念のため少し早めにホテルに戻ると、その「ザ・カフェ」の前には既に20組以上のお客さんがウェイティング中。今からだと2時間近く待つかもしれないと受付で説明されていて、我々は早めに受付しておいて大正解でした。実際予定時刻より15分早く戻ったのですが、既に一度呼ばれていたらしく、すぐに席を用意していただいて席に着くことが出来ました。
 “みなと横浜”を代表する歴史的なホテル「ニューグランド」。H/P的に紹介すると、
『この横浜・山下町に位置する「ホテルニューグランド」は、1927年に開業した正統派クラシックホテルで、海外との窓口として歩んできたホテルには異国情緒溢れる雰囲気が漂います。
名物料理と言えば「シーフード ドリア」「スパゲッティ ナポリタン」「プリン・ア・ラ・モード」など誰もが知っているメニュー。これらは全て「ホテルニューグランド」発祥のメニュー!
これらは全て「ホテルニューグランド」のコーヒーハウス「ザ・カフェ」で提供されています。』
先ずは、シーフードドリア。これは、
『初代総料理長を務めたサリー・ワイルが考案した料理です。サリー・ワイルは、メニューに「コック長はメニュー外のいかなる料理にもご用命に応じます」と記し、お客様の要望に合わせて様々な料理を作って提供していました。ある時、滞在していた銀行家から、「体調が良くないので、何かのど越しの良いものを」という要望を受け、即興で創作した一皿をお出ししました。その時作ったのは、バターライスに海老のクリーム煮を乗せ、グラタンソースにチーズをかけてオーブンで焼いたもの。好評だったこの料理は、"Shrimp Doria"(海老と御飯の混合)として、レギュラーメニューになり、ホテルニューグランドの名物料理の一つになりました。』
続いて、今や日本中の喫茶店のメニューの定番となっている、スパゲッティのナポリタン。こちらは、
『2代目総料理長 入江茂忠が、接収時代、茹でたスパゲッティに塩、胡椒、トマトケチャップを和えた物を米兵が食べているのを知り、アレンジを加えて生み出した一品。終戦後、1945年8月30日に到着した連合国軍最高司令官ダグラス・マッカーサーによって米軍による占領が開始され、以降1952年までの間、ホテルニューグランドはGHQ将校の宿舎として接収されました。戦後厚木に降り立ったマッカーサーが最初に宿泊したのもこのニューグランド。GHQの彼らの持ち込んだ軍用保存食の中にスパゲッティとトマトケチャップがあり、米兵たちは茹でたスパゲッティに塩・胡椒で味付けをし、トマトケチャップで和えた物をよく食べていたそうです。接収解除後、ホテルには彼らが持ち込んだ大量のスパゲッティが残されていたことから、戦後2代目の総料理長を担った入江茂忠は「ホテルで提供するに相応しいスパゲッティ料理を作ろう」と、苦心の改良を重ねました。もともと、当ホテルでは、初代総料理長サリー・ワイルより受け継いだカルーソー(仔牛の細切り肉とトマトベースのデミグラスに合わせた料理)やボロネーゼなどのスパゲッティ料理があり、入江は新たなメニューとして、トマト本来の味わいを生かしたホテルならではの料理を提供しようと、ニンニクと玉葱の微塵切りを飴色になるまでよく炒め、生のトマト、水煮のトマト、トマトペーストを加え、ローリエとオリーブオイルを入れてソースを作り、スパゲッティと合わせ、この料理を「スパゲッティ ナポリタン」としてお客様へお出ししたのです。』
そして最後、プリン・ア・ラモードはアメリカ人将校夫人たちを喜ばせたいと、当時のパティシエが考案した一品だとか。

 余談ですが、そんな歴史を知って思い出したのは、終戦後GHQの高官として占領中の日本に駐在したアーレイ・バーク提督の逸話でした。
彼は駆逐艦艦長としてソロモン海戦を始め太平洋戦争を生き抜いた猛将で、海戦で多くの親友や部下を失ったために、公式の場でも日本人を“Jap”や“Yellow Monkey”と罵る程の大の日本人嫌い。終戦後、GHQの高官として、氏はこのニューグランドでは無く帝国ホテルに滞在していたそうですが、滞在中の花瓶に活けた一輪の花をきっかけとなって、同じくソロモン海戦で駆逐艦艦長だったご主人が艦と共に沈み戦死されたという戦争未亡人のメイドの方との交流を通じ、やがて大の親日家に変わっていき、我が国の独立回復をGHQの立場から本国政府に進言し続けるなど、戦後の日本復興に貢献したという有名なエピソード。
ホテルニューグランド発祥のメニューの歴史を読みながら、有名無名かを問わず、きっとこのニューグランドでもそうした数え切れない程の交流があったのだろうと勝手に思いを巡らせていました。
 閑話休題。彼女たちのオーダーは、娘がシーフードドリア(3162円)、家内は海老フライのタルタルソース(3036円)で、それぞれスープ、コーヒー/紅茶、パン/ライスのAセット(1898円)を付けて。私メは、4月27日~5月31日の期間限定という「大人のお子様ランチ」(4807円)をチョイスです。
お子様メニューもあるとのことでしたが、孫娘は用意してあった離乳食で構わないとのことでした。
先ずは全員パンとこの日のスープ、ジャガイモのポタージュから。
「大人のお子様ランチ」は先述したこのホテル発祥のシーフードドリアとナポリタンにハンバーグステーキを加え、デザートにア・ラ・モードではありませんがプリンが付く、キャッチフレーズ“大人だって食べたいお子様ランチ”です。
オリジナルのナポリタンは酸味が効いた、今やどこでも食べられる“普通”のナポリタンでしたが、ドリアは実に優しい味付けで、これは美味しい!娘も絶賛していました。
しかし、個々の味そのものよりも、むしろGHQが駐在していたこのホテルで、戦後間もない日本を感じながら我が国の“洋食の歴史”も味わう・・・そんな話のネタにもなるそれぞれのメニューでしょうか。
家内のチョイスした海老フライも、大ぶりな車エビのエビフライがプリプリだったとのこと。どれもさすがでした。デザートはセットメニューにレモンケーキ。奥さまがプリンも食べられましたが、固めで昔懐かしいいプリンで美味しかったそうです。
せっかくだったので、本当ならもう少しゆっくりと雰囲気も楽しみたかったのですが、私の背中側に座っていた女性が、孫娘が時々声を上げたりすると、キッと睨むのだとか。あちらにすればせっかくのニューグランドでのランチを独り静かに楽しみたいと思われたのでしょう。そこで我々は、食べ終わってから早々に席を立ちました。
 某県庁所在地の公園で遊ぶ子供たちへの“上級住民”からの騒音クレームではありませんが、確かに大声で騒いでも全く注意もしない無責任な親もいますし、また外を見たい子供を電車の座席に靴も脱がせずに土足で立たせている無神経な親などを見ると私も一言注意をしたくなりますが、電車や買い物での赤ちゃん連れの若いママさんたちへの心無い批判や非難を、娘からもですが色々見聞きするにつけ、実際は子育てで大変な思いをして常に周囲にも気を使っているお母さんの方が圧倒的に多いのです。
少子化対策を制度論で議論する前に、子供たちは未来のこの国を背負っていく“国の宝”ですから、子育てに寛容で優しい社会でありたいと思います。そしてそれは決して甘やかすのではなく、私たちが子供の頃は当たり前のように他人の子供であってもきちんと叱るべき時には叱ることも含め、昔の様に地域の皆で子供たちを見守り育ててくれた、多少は“お節介な”そんな社会であるべきだと思います。
マンションにも小さな子供たちがたくさんいますので、決して“小煩い老人クレーマー”と勘違いされぬよう、先ずは身近な実践から・・・(家内からは「嫌がられるから、絶対にやめた方がイイ!」と言われるのですが)。
 新婚時代に見栄を張って、一度この「ホテルニューグランド」に泊まったことがあったのですが、家内曰く、その時はまだこうした“一流ホテル”には慣れていなくて何となく落ち着けなかったとのこと。
そんな田舎のジジババは、今回は次女と孫のお陰で、ミナトヨコハマの“赤い靴”の山下公園とホテルニューグランドでのGWのひと時をゆったりと楽しむことが出来ました。

 東京滞在中の前半、4月27日に予約してあった狭山市の動物病院へ。
前回ご紹介した様に、コユキが繁殖犬の時にブリーダーに声帯を切られたことが原因で、我が家でのトライアル期間中に過呼吸気味になり、コユキを保護していただいた埼玉の保護団体の提携先だった狭山市の動物病院で緊急手術をしていただいたのですが、ナナが亡くなった後の精神状態も手伝ってか最近元気もなく、またハァハァという呼吸も荒くなっ多様な気もすることから、術後に担当頂いた院長先生から「もし再発したら診せに来るように」と仰って頂いていたこともあり、今回せっかくの機会なので東京滞在中にまた狭山の動物病院で再診していただくことにして、4年前に手術をしていただいた院長先生に上京する前に連絡し、事前に再診日時と念のため手術の予約もさせていただきました。

 東京から狭山へは、川越行の西武新宿線です。ワンコ連れと云うこともあり、本川越行の西武特急「小江戸」号(レッドアロー)で行くことにしました。特急で本川越までは僅か40分程。
動物病院での午前中の診察で、前回は声帯切除の影響で軟口蓋過長になっていて手術をしていただいており、今回軟口蓋は全く問題が無いとのことだったのですが、やはり他の場所の息道が腫れて狭くなっていて呼吸し辛くなっているとのことで、念のため手術の枠を事前に予約して確保していたこともあり、そのまま手術をしていただき午後4時過ぎに改めて迎えに来ることになりました。そのため4時間以上時間が空きました。
 「さてと、それまでどうやって時間潰そうか?・・・。どこかに行く?」
ランチ休憩がてら、近くに在った星野珈琲で休憩を兼ねて早昼を摂りながら検討です。そして、出た結論は、
 「乗って来た特急の終点だった川越に行ってみようか!?」

 川越は“小江戸”と呼ばれ、東京からも近いので近年では人気の観光地になっています。ただ、首都圏に住んでいればですが、首都圏在住でなければわざわざ訪れる場所では無いように思います。その意味では、今回のコユキのことが無ければ、我々も信州から川越に観光目的で来るという機会は、おそらく一生無かったかもしれません。
“世に小京都は数あれど、小江戸は川越ばかりなり”と云われるのだそうですが、長野県にも飯田や飯山など“小京都”と呼ばれる街がありますが、例え武家屋敷や宿場などの江戸時代の町並みが残っていても、確かに川越以外に“小江戸”というのはあまり聞いたことがありません。
駅に戻り、電車に乗って狭山から川越(西武線は「本川越」。JRが「川越」、東武は「川越市駅」と、川越駅が三つあります)へ。普通列車でも10分も掛かりませんでした。
本川越の駅からは、駅前の通りを一本道でそのまま行くと、連雀町で途中の川越熊野神社に立ち寄ってご挨拶を兼ねてお参りし、次の仲町からが古い蔵造りの町並みがずっと札ノ辻まで続いています。途中、川越と云えば必ず登場する川越のランドマーク「時の鐘」。江戸時代初期に藩主だった酒井忠勝が建立した鐘楼で、今でも日に4回鳴って時を告げているのだとか。
蔵造りの町並みは、松本の中町も同様ですが、川越も何度か大火に見舞われ、その時に蔵が焼け残ったことから、類焼を防ぐために蔵だけでなく一般の商家も耐火性の高い“土蔵造り”が採用され、結果として蔵造りの町並みになったのだとか。川越は、中町の“なまこ壁”の蔵とは違い、蔵全体が黒い壁で作られているのが特徴でしょうか。因みに、川越は、福島県喜多方市、岡山県倉敷市とともに「日本三大蔵の町」なのだそうです。
松本は、中町通りだけなので「日本三大蔵の町」としては規模が小さいのでしょうか、チト残念!
 行ったのは4月27日の木曜日の平日で、まだGW前ではあったのですが、首都圏から近く日帰り観光が可能と云うこともあるのか、想像以上に観光客が多く、また外国人も多くて、中国語と韓国語が飛び交っていました。
皆さん、食べ歩きを楽しまれていて、個人的には川越と云えば芋!というイメージなのですが、必ずしもそうでもない様で、中には京都の清水坂にもある浅漬けキュウリの一本バーを食べている観光客もたくさんいました。
我々は狭山でランチを済ませてきてしまったこともあり(どうせなら川越で食べれば良かったかも)、娘たちや(東京での滞在中の)自家用とお友達へのお土産用に、芋ケンピと試食をして美味しかった丸ごと玉ネギのお漬物と福神漬けに姫キュウリの浅漬けを購入(玉ネギの漬物は娘たちと婿殿に好評でした)し、駅に戻り電車に乗って早めに病院で待つことにしました。
 午後の診察時間になって、一番で先生にタブレットの写真を見せて頂きながら手術の状況の説明いただき、無事に手術が済んだとのことで、安心してまたみんなで特急に乗って東京に戻りました。
「コユキ、大変だったね。でももう大丈夫!もう苦しくないからネ、楽になるからね!お疲れ様!」

 手術をしているコユキの様子を心配しながらではありましたが、思いがけず予定もしていなかった“小江戸”観光が出来た一日でした。

 今回の東京滞在で先ず行ったのは、クラシックの生のコンサートでも生落語の寄席でもなく、美術展でした。

 向かった先は皇居の近く、竹橋に在る「東京国立近代美術館」。こちらでは、開館70年の記念展として、「重要文化財の秘密~問題作が傑作となるまで~」と題した特別展が3月の17日から5月14日まで開催されていて、もしその間に上京する機会があれば是非見たいと思っていました。
やはり同じ様に思う方が多いのでしょう。この日は平日だったのですがかなりの人気で、一定時間毎に入場人数の制限をして鑑賞が行われていました(コロナ禍の影響もあるのか、以前の東博に比べると制限人数がかなり少なめの様に感じます)。
事前にオンライン予約をしてあると直ぐに入場待ちの列に並べるのですが、予約していない場合は、先ずはその窓口で観覧料を払ってチケットと整理券を貰う必要があります。事前予約していない人の方が多いためにその整理券を貰うのに長蛇の列で結構時間が掛かっていたので、家内がその場でスマホからWEB予約をして、列から抜け出して入場待ちの列の方に並ぶことが出来ました。そうすると入場時に係の方がスマホから読み取ってくれ、チケットを係の方から受け取って入館出来ました。
この日が平日だから大丈夫だろうと思っていたのですが、こうした人気の美術展は、例え平日であっても事前にオンライン予約をしてから行った方が絶対良いと感じた次第です。
 さて、今回の創立70周年の特別展「重要文化財の秘密」は、美術館のH/Pに拠ると、
『東京国立近代美術館は1952年12月に開館し、2022年度は開館70周年にあたります。これを記念して、明治以降の絵画・彫刻・工芸のうち、重要文化財に指定された作品のみによる豪華な展覧会を開催します。
とはいえ、ただの名品展ではありません。今でこそ「傑作」の呼び声高い作品も、発表された当初は、それまでにない新しい表現を打ち立てた「問題作」でもありました。そうした作品が、どのような評価の変遷を経て、重要文化財に指定されるに至ったのかという美術史の秘密にも迫ります。
重要文化財は保護の観点から貸出や公開が限られるため、本展はそれらをまとめて見ることのできる得がたい機会となります。これら第一級の作品を通して、日本の近代美術の魅力を再発見していただくことができるでしょう。』
という様に、今回の見どころは、史上初、展示作品全てが明治以降の重要文化財であることです。更に、
『明治以降の絵画・彫刻・工芸の重要文化財のみで構成される展覧会は今回が初となります。明治以降の絵画・彫刻・工芸については、2022年11月現在で68件が重要文化財に指定されていますが、まだ国宝はありません。本展ではそのうち51点を展示します。』
(期間中入れ替えがされるので、一度に全51作品を見ることは出来ません)
 明治以降の近代日本画、西洋文化を取り入れた洋画や彫刻、そして日本を海外に知らしめるべく伝統技巧を凝らした美術工芸・・・。
色々特別展としてのポイントはあるのでしょうけれど、見終わった後での先ずは個人的な感想は「目の前にあるのは、まるで美術の教科書そのもの・・・だ!」ということでしょうか。
明治維新後のフェノロサと岡倉天心に始まる、近代化の中での日本美術界の歴史そのもの・・・が目の前に展開されているのです。
1950年に制定された「文化財保護法」を受けて、1955年に明治以降の近代美術作品として、初めて重要文化財に指定された第一号の4作品の一つである狩野芳崖の「悲母観音」(東京藝大所蔵)を皮切りに(以降掲載した写真は文中に記載した順番です)、それらが教科書の写真ではなく、或いは記念切手の図案でもなく、教科書で見た通りの高橋由一の「鮭」(東京藝大所蔵)、浅井忠の「収穫」(同左)、黒田清輝「湖畔」(東博所蔵)、そして岸田劉生の「麗子微笑」(同左)などの実物が、現物として次から次へと目の前に展開していく不思議・・・。
それは、特に彫刻で例えて言うならば、高村光雲の「老猿」(東博所蔵)や朝倉文夫の「墓守」などが(萩原守衛「北條虎吉像」は所蔵している穂高の「碌山館」で若い頃見たことがありますので)、教科書や図録の平面写真ではなく、周囲360°のあらゆる方向から眺められるという何だか信じられない様な、現物だからこその感覚・・・とでもいえば良いでしょうか。
因みに、個人的に今回の展示の中で一番感動した作品は、初めて見た朝倉文夫作「墓守」(台東区朝倉彫塑館所蔵)でした。“東洋のロダン”と称された作家の最高傑作です。文化庁のD/Bに依れば、
『両手を背後に組み、わずかにうつむいて微笑する老人の立像。明治から昭和にかけて日本の彫刻界を主導してきた朝倉文夫の作品である。
モデルは、学生時代より馴染みのあった谷中天王寺の墓守であるという。朝倉によればモデル台に立たせると固くなるためブラブラ歩いて面白いと思った姿勢をとり、家のものが指す将棋を見て無心に笑っている自然な姿を横からとらえて作った』塑像とのこと。
その像からは何とも言えぬ哀愁が漂っていて、何だか魅入られたような感じでその前から暫く動けず、その後周囲を回って色々な角度からじっくりと眺めてみました。
         (「母子」上村松園:「わだつみのいろこの宮」青木繁)
 そして余談ですが、今回の美術展で個人的に一番感慨深かったこと。
それは、所蔵元の了解如何であろうことから勿論全てではありませんでしたが、展示品の実に7割(目録に拠ると、撮影不可は51作品中16作品のみで、その大半が今回の特別展用に借りて展示されている、例えば永青文庫や大原美術館などの他の美術館の所蔵作品)がフラッシュや動画以外の撮影OKだったことでした。
           (「褐色蟹貼付台付鉢」初代宮川香山)                    
海外では当たり前でも、国内だと、やれ傷むなどとして(おそらく一番の理由は、勝手にネット上などで使用されたくないという所蔵する側の著作権ではないかと思います)厳しく撮影禁止と云う展覧会が多い中で、いくら経年劣化の少ない明治以降の近代作品とはいえ、今回絵画も含め7割もの作品が撮影OKだったことに驚き、喜び、今回の国立近代美術館のまさに画期的なその“英断”に先ずは拍手を送りたくなりました。
クラシックのコンサートでも、カーテンコールでの撮影がOKだったサントリーホールのシュターツカペレ・ベルリン(第1786話)同様、コロナ禍後の集客拡大目的もあるのでしょうか。しかし、大変良いことだと思います。いずれにしても大歓迎です。今回も多くの拝観者の方々がスマホ等で撮影をされていました。会場で、中には驚いて「えっ、本当に撮影していいんですか?」と尋ねられる方もおられ、展示作品名のパネルにカメラマークが表示されている作品は撮影可能な旨教えてさしあげました。因みに、入り口にある「出品目録」には、逆に撮影不可の作品に×印のカメラマーク(注:赤丸で囲ったのは筆者です)が表示されていました。 
少なくとも、私メや私以上に海外経験豊富な長女の知る限りにおいて、美術展で展示している絵画作品の撮影を禁止している美術館は日本くらい(但し、国内でも劣化のリスクが少ない考古資料は、例えば茅野市尖石博物館の国宝土偶や東博所蔵の国宝や重文の埴輪群などは撮影OK)で、かのルーブルの“世界の至宝”「モナリザ」を始め、欧米の美術館は殆どが写真撮影OKの筈ですので、保存上問題となるフラッシュなど照明器具を使った撮影やビジネス目的での写真撮影は禁止するのは当然としても、個人が記念や記録として用いたい私的な写真撮影については、今回撮影を認めていた(但し今回もフラッシュ使用や動画撮影は不可)国立近代美術館の様に、こうした取り組みが国立のみならず日本国内の公立や私立の美術館にも拡がっていけば良いと思います。

 前回とは話が前後するのですが、長女の婿殿がNYからの香港出張の帰りに日本に立ち寄って、東京の彼女のマンションに暫く滞在。その後、4月中旬にNYへ戻る際、5月のGW明けまでの二週間ちょっと、彼女も婿殿と一緒にNYへ行くとのこと。
しかしその間娘がマンションを無人に出来ない事情があって、彼女の不在中のマンションの留守番を頼まれたとから、今回は長期間となるため、家内だけではなく私メとコユキも一緒に皆で東京に滞在することになりました。
というのも、これまでも一週間程度は家内が手伝い等を頼まれて娘の所に上京することはあっても、二週間以上も不在となるとコユキのことも心配なことから、だったら(別に、我々が松本で何か予定や計画がある訳でも無いので)皆で東京に滞在しようということになり、前回ご紹介させて頂いた様にコユキがリュックでのトレーニングをしていたこともあって、今回は長期間だと都心の駐車場代がバカ高となる車を止めて、コユキも初めての特急あずさで一緒に上京することになりました。
JRは290円「普通手回り品切符」を改札窓口で購入すればワンコも当日乗り降り自由で乗車OKですし、地下鉄や私鉄、バスはクレートなどで(リュックも)顔がしっかり隠すことが出来れば(JRも同様ですが)ワンコは無料で乗車可能です。
因みに、掲載した写真の「手回り品切符」は、世話になった父方の叔父がGW中に急逝したため、5月4日と5日に家内と二人で通夜と葬儀に出席すべく、何とか往復共臨時のあずさの切符が取れたので、急遽コユキも連れて一緒に二日間のトンボ返りで松本へ一時帰省することとなったのですが、その時の松本から東京へまた戻る際の切符です。

 そして今回長期での東京滞在となったので、コユキが繁殖犬の時にブリーダーに声帯を切られたことが原因で我が家でのトライアル期間中に過呼吸気味になり、コユキを保護していただいた埼玉の保護団体の提携先だった狭山市の動物病院で緊急手術をしていただいたこともあって、ナナが亡くなった後の精神状態も手伝ってか最近元気もなく、またハァハァという荒い呼吸も気になることから、4年前の術後に先生から「もし再発したら診せに来るように」と仰って頂いていたこともあり、今回せっかくの機会なので、この東京滞在中に、4年前手術をしていただいた狭山の動物病院で再診していただくことにして、その時に担当していただいた院長先生に上京する前に連絡して、事前に再診日時と念のために手術の予約もさせていただきました。
そのため、今回の二週間ちょっとの東京滞在中、唯一の予定がコユキの動物病院での再診(とその結果に伴う手術)です。
そして、東京滞在中にそれ以外に特別の予定が無いことから、次女の婿殿が病院の当直で不在の日に、次女が孫娘を連れて東京の長女のマンションに一緒に泊まりに来ることと、平日ジジババが観光も兼ねて逆に一日横浜へも行くことになりました。
他にも、何もせずにマンションのワンルームに一日居てもしょうがないので、せっかくですから都会でのウォーキングや東京でしか出来ないことを見つけて過ごそすことにしました。

 今年のGWはコロナ禍明けで4年ぶりのGWはインバウンドの観光客も含め人出はかなり多そうですが、我々も多少の計画をもって都内の小観光をする予定です。我々リタイア組は、本来はカレンダーなど関係無しの“毎日が日曜日”なのですが、今年は我々も“世間並”に人出や混雑を気にしてのGWになりました。

 3年ぶりに人出が戻った、今年のGW。
我が家はその期間中ずっと東京にいたのですが、GWが明けて戻って来ると、北アルプスの峰々の雪がすっかり消え、GW前にはまだ残っていた“常念坊”の雪形も無くなっていました。

 (写真は2月の雪山と、4月桜の頃のアルプス公園からの残雪の北アルプス)
また冬の間は鉢盛山辺りまでと随分南に下がっていた太陽も、大分北に上がって来て、GW明けには常念付近に日が沈む様になっていて、大分夏山の夕焼けの雰囲気に近くなっていました。
そして里山も新緑の装い。黄緑から深緑まで濃淡様々な緑色に彩られていて、日本語は世界で一番“緑”を表す言葉が多いというのも納得の美しさです。そして、ちょうどこの時期は、里山が白く染まるくらいにアカシア(ニセアカシア。正式にはハリエンジュ)の白い花が山を覆い尽くしています。
 5月12日、奥さまのご命令で、洋服ダンスを整理して着ていない服を捨てたいとのこと。既にリタイアした時とマンションへの引っ越し時にも洋服はずいぶん整理したのですが、マンションのクローゼットが一杯なので更に整理したいとの仰せ。
併せて、前の一戸建ての家とは違って狭いマンションですので、無理やりクローゼットに入れていた古い二つタンス(一つは、若い頃社宅に住んだ時に購入して一緒にシンガポールにも行った、懐かしいシステム収納家具の一部。昔の家具なので、しっかりしている代わりにかなり重い)を廃棄して代わりに新しいタンスを購入し、二つを一つに纏めることになりました。何でも取っておきたい私としては、「イヤ、これまだ着れるから・・・」とか「痩せたら、また着るから・・・」とか言うのですが、家内からは「ここ何年も一度も着たことない!」或いは「そんなにビールばっかり飲んでて、痩せられる訳が無い!」と全て否定され、結局半分近くを捨てるハメになりました(トホホ・・・、でもこうして断捨離が少しずつ進んでいきます・・・)。
 そこで空いた二つの古いタンスを、もう軽トラは処分して無いので、トランクスペースがある3ナンバーよりも、むしろ後部座席を倒してフラットにすると軽でもSUVで天井が高く荷台スペースが広くなるハスラーの方に何とか二つ積み込んで、松本クリーンセンターに大型粗大ごみとして持ち込んで処分してもらうことにしました。
 途中、マンションでは昔の自宅の様に自宅で洗車出来ないので、冬の間の塩カル(融雪剤)で汚れた車を(荷物を積んだまま)深ヶ丘のGSで洗車してもらい、山田を超えて平瀬に在る市営の松本クリーンセンターへ。母屋の片付けやマンションへの引っ越しで、何十回と通った道です。
途中、快晴のこの日、余りに山がキレイに見えたので、北アルプスの展望スポット(道路沿いのただの空き地なのですが、北アルプスの絶景が望めるので、アマチュア写真家の皆さんが良く写真を撮っている場所です))に立ち寄って、私もスマホで写真撮影。
GW頃から始まった田植えで、まだ田植えが済んでいなくて、水が張られ代掻きが終わった田んぼがちょうど池の様に見え、この時期だけの風物詩として、下界では水鏡の様になった田んぼの水鏡の様な水面に残雪の北アルプスの峰々が映っているだろうと思います。
 ちょうどその時、偶然FDAの定期便が松本空港へ着陸するために、峰々の上を少しずつ高度を下げながら飛行していました。
着陸態勢を取る機体を眺めながら、嘗てTDA(東亜国内航空)が一番最初に松本空港と大阪伊丹空港間に定期便を飛ばしたのですが、その時に、クルーの間で松本空港へのフライトが“日本で一番美しい路線”と謂われたという眼下に北アルプスを眺めながら、きっとあのFDAのフライトも、今絶景の信州の空を楽しんでいるのだろうと想像していました。

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