カネヤマ果樹園 雑記帳<三代目のブログ>

 喪中故年賀を自粛していた正月ですが、街中の松飾りも取れて昨日で“松の内”も明けましたので、ここに謹んで寒中お見舞い申し上げます。

 昨年の本ブログへのアクセスは、3年前にコロナ禍で皆さんホームワークや家に居ることが多かったための37万件、そして一昨年も35万件と増加した件数には届きませんが、これはむしろコロナ禍からいつもの日常活動が戻ってきたことの証左でしょう。
その昨年は10月に母が亡くなったため、忌中の49日間ブログ掲載を休止したこともあって一ヶ月以上も休止したにもかかわらず、それでもコロナ禍以前を上回る28万件近いアクセスをいただきました。誠にありがとうございました。

 本年もどうぞ宜しくお願い致します。

(掲載した写真は、写真だと少し分かり辛いかもしれませんが、昨年11月28日に雪雲が掛かった西山方面に現れた、“虹と雪のバラード”ならぬ、雪雲に反射する“ダブルレインボー”です。昔から幸運のサインと云われるそうですので、どうぞ皆さまにとっても良い年でありますように!
それと、今年2024年の初日の出です。
マンションの部屋から初日の出が見れることを昨年知り、生まれて初めて外出せずに、家のベランダから初日の出を望むことが出来ました。)

【追記】
元日に起きた能登半島地震。松本は震度4、しかも震源地から離れた長野県中部地方ですが、何故か北陸地方を除き唯一3レベルの長周期振動が記録されるなど、松本も結構長く横揺れが続きました。それにしても、正月元日から大地震に見舞われるなんて・・・。しかも奇跡的に旅客機からは全員が脱出出来たとはいえ、羽田空港で飛行機事故まで起こるとは・・・。
しかし今年は辰年。地の底からでも、昇竜の如く後は昇るだけ!・・・そう信じて頑張るしかありません。
石川県を始め、北陸の被災された皆さま、謹んでお見舞い申し上げます。負けるな!ガンバレ北陸!
【追記その2】
第438話『私たちの時代』-2007年能登半島地震を経て、乗り越えて行った人たち・・・。
当時、2007年に起きた能登半島地震に向き合った門前の若者や地元の人たちのことを記録した、フジTVのドキュメンタリーを視聴して、東日本大震災の後で敢えて掲載した記事です。宜しかったら438を検索してみてください。今度も少しでも参考になれば・・・。

 次女のところの孫たちの世話で手が離せない家内に代わって、長女の方のサポートが少し必要になったため、11月末、私メがコユキを連れて数日ですが上京する機会がありました(コユキだけになってからは、ペット用のリュックに入って一緒にあずさで上京しています)。


 東京滞在中、寄席の四つの定席は残念ながら聴きたいと思う噺家はどこにも出演していなかったので、滞在中唯一の外出で、前回の上京中に行けなかった「山種美術館」の特別展「聖地巡礼展」を見に行ってきました。
今回の美術展では、絵画における“聖地巡礼”を「作品の題材となった地や、画家と縁の深い場所に赴くこと」として、山種美術館が所蔵する日本画の主題とした場所を、画家が語った制作の経緯や残された現地でのスケッチと、それらを基に撮影された現地の写真なども併せて展示されているのです。
例えば、美術館的には今回展示の“目玉”とも云える、昭和期に描かれた絵画で初めて重要文化財指定となった速水御舟「名樹散椿」では、描かれた京都の地蔵院「椿寺」の名木「五色八重散椿」の当時の写真と、その椿が枯れた後に再び見事な枝を伸ばした現在の二代目の写真など、展示された各絵画にその制作の経緯や現地での当時のスケッチに加えて、制作当時や現在に映されたその場所の写真が飾られていました。因みに、この椿は豊臣秀吉が献木したと謂われていて、普通ポトっと花が落ちるために武士に嫌われた椿と違って、花弁が一枚一枚散るのだとか・・・。
展示されている絵画自体は、御舟の「名樹散椿」を始め、殆どは山種で一度は見ているので或る意味再会なのですが、今回の展示の中で個人的に一番関心があったのは、東山魁夷の「京洛の四季」の中の「年暮る」です。
画伯が川端康成から「今描かないと“京都”は無くなります」と言われことを契機に描いたという、1968年に発表された「京洛の四季」の4枚のシリーズは、既に12年前にこの山種美術館で見ているのですが、今回の展示での目的は、既に一度視ている絵画そのものではなく、描かれている東山の町屋を描いた風景が旧京都ホテル(現ホテルオークラ)から見た景色というのは知っていましたが、その中に描かれている大屋根の本堂がどのお寺なのかを、今回はその現物の写真を見て自分の目で実際に特定したかったのです。
     (*以下掲載の写真は、美術館で購入したポストカードです)
 今回行ったのは平日でしたが、さすがは人気の山種美術館。事前のオンライン予約こそ不要でその場で直接入場が可能でしたが、私メ同様シルバー世代を中心に結構混んでいました。しかもヒトゴトながら嬉しかったのは、中に欧米系のご一家が小中学生くらいの姉弟のお子さんたちも含め、英語のパンフレットを参考に熱心に鑑賞されていたこと。インバウンドの観光客ではなく、おそらく日本に住まわれている外国人ご一家だと思われますが、有名な観光地巡りではない、こうした日本画の鑑賞を通じて日本観光をされている姿に大いに感心した次第。
   
        (*奥田元宗「奥入瀬(秋)」の一部分のポストカード)
 さて斯く言う私メも、北から南へと地域ごとに展示されている作品を見て行く中で、これまた再会となる、 “元宗の赤”と云われる元となった奥田元宗の「奥入瀬(秋)と「松島暮色」。また、所蔵作品の中では最近の作品である桜を描いた石田武「千鳥ヶ淵」(2005年)。そして前回視て大変感動し今回再会となる「吉野」(2000年)の桜に改めて魅入り、その場で暫し足が止まります。
この石田武という画家は、京都出身で実家が西陣織職人をやっており、自身も京都市立美術工芸学校にて図案科を専攻。しかし、卒業後は動物図鑑など博物画のイラストレーターをしていたのだとか。
図案科で洋画や日本画も学んでいたとはいえ、50歳を過ぎてから独学で本格的に日本画を始め、2年後の1973年に第2回山種美術館賞で大賞を受賞したのだそうです。
今回の展示の中にも、先述の桜を描いた2点だけではなく、奥田元宗の「奥入瀬(秋)」に並んで大作の4枚の連作という「四季奥入瀬」の中から「秋韻」も展示されていました。
他にも、石本正「飛騨の酒倉」は、瀬戸川と説明にありましたので、5年前に行った街中を流れる清流と白壁の土蔵の街がとても印象的だった飛騨古川です。ということは、描かれている“酒倉”は飛騨古川の地酒「蓬莱」の酒蔵でしょうか。また新潟の蒲原を描いた横山操「蒲原落雁」は、冬の雪原となった田んぼの刈った稲を架けて干すハザ木が印象的。信州では稲を刈り取った後の田んぼに三脚に脚を組んで長い棒(ハゼん棒)を渡し、そこに稲束を架けて行くのですが、初めて新潟から山形へ村上から先は高速が無く、一般道を走った時に、枝卸しをした本物の木々が数メートル間隔で何本も植えられていて、それが稲を架ける“ハザ木”だと知って、同じ稲作でも地方によってその違いにとても驚いたことがありました。
他にも、北野天満宮の樹齢600年の大欅の老木を描いたという山口華揚の「木精」(こだま)は、説明書きに由れば「この木を写生した日の夕方、北野天満宮から路面電車で2駅の居酒屋神馬(しんめ)に行き、すっかり酔ってしまい、帰宅途中に再び北野天満宮に寄り、大欅の根元でひと眠りしてしまった」という華揚の逸話が紹介されていました。
因みにその「神馬」は、酒飲みのバイブルでもある高校の大先輩太田和彦センセの著書「居酒屋百名山」にも登場する京都の伝説の老舗居酒屋です。その著作の中に紹介されている、その最盛期を支え96歳で亡くなるまで店に立っていたという名物女将「とみ」さんのエピソードとして、分け隔ての無い気風で警察や顔役にまで一目も二目も置かれ、『チンピラが舞台の切符を何枚か売り付けに来ると、黙って10枚買って「見に行かんからやるわ」とその場で返し、以降チンピラはおとなしく飲んで帰るようになった。』という逸話を紹介していました。また、『祇園ばかりが京都ではない。京都にも庶民生活があり、居酒屋で酒を飲む』として、嘗て「神馬」の常連だった京都在住の文化人を何人か挙げているのですが、以前読んだ時は気に留めなかったその中に山口華揚の名も確かにありました。
 そして、京都といえば東山魁夷の「京洛の四季」。
鷹ヶ峯の桜を選んだ「春静」、夏の修学院離宮の松を描いた「緑潤う」。小倉山のモミジのそれぞれ紅葉と黄葉を描いた「秋彩」、そして今回のお目当ての冬の京都を描いた「年暮る」。
その「年暮る」の解説で、実際に旧京都ホテルから撮られた東山魁夷が描いた頃の同じ東山方面が撮影されたモノクロの写真からは、位置的にも確かに「要法寺」の大屋根であろうことが確認出来ました。
以前あの界隈をウォーキングがてら歩いた時に、「これかな?」と勘違いした「妙傳寺」は二条通に近い所に在るのですが(妙傳寺の本堂の屋根は東西向きなので、「年暮る」の中に描かれているお寺の南北の大屋根とは違うのが分かります)、また実際の「要法寺」はもっと南の東山三条に近い場所に在りました。
そして、今回現物の「年暮る」に再会して感じたのは、「こんなに雪の粒が大きく描かれていたんだ」ということ。実物を見ないと気が付かない、新たな発見でした。県立信濃美術館の東山魁夷館にも全く同じ構図(但し川端通を走る自動車は描かれていません)の「年暮る」の習作があって、こちらも10年前に見ているので、「年暮る」を見るのは今回が3度目なのですが、習作は青色が薄くて少し黄味掛かっているので受ける印象が全く異なります。全体に青色が強調されたこの「年暮る」の方が、しんしんと雪が降る大晦日のしーんと静まり返った様子が、この青色だからこそより伝わってくる気がします。
そのため、この絵を視ていていつも感じるのは、NHK「ゆく年くる年」中継で必ず登場する知恩院の除夜の鐘の音が、知恩院自体は京都ホテルから望む東山方面を描いたこの絵の中には勿論描かれてはいないのですが、この絵の中の静まり返った京の街から聞こえて来る気がすることでしょうか・・・。
 今年も色々あった年でした。母が逝き、ナナも虹の橋を渡っていきました。患ったとはいえ、それぞれ天寿を全うしてくれただろうことがせめてもの救いでしょうか。今年は喪中故、静かに“ゆく年”を偲び、そして“くる年”を想う・・・。

 皆様におかれましては、どうぞ良い年をお迎えください。
                                      
                            カネヤマ果樹園一同+コユキ

喪中につき、年賀のご挨拶を失礼させていただきます。
去る10月13日、20年を超える病気療養を経て、母が老衰のため95歳の天寿を全うして永眠致しました。
生前母に賜りましたご厚情に謹んで感謝申し上げますと共に、来る2024年も変わらぬご厚誼のほど宜しくお願い申し上げます。

 お宮参りの前日、奥さまはいつもの表参道の美容院へ。
終ってから家内と待ち合わせて、新宿高島屋の呉服売り場で、娘たちの時の七五三の時に紛失したのか、翌日の孫のお宮参りで使うのに足りないグッズを買いに行く予定です。
そこで、待ち合わせまでの空いた時間に、特に他にすることも無いので、ホンじゃまと、一人で新宿の中古CDショップで掘り出し物を探してみることにしました。
そのCD屋さんは「ディスクユニオン」という中古のCDやLPを販売している店で、幾つも店舗がある中で、ここディスクユニオン新宿店はクラシックの専門店です。確か紀伊国屋のすぐ隣のビルの5階くらいだったと記憶していたので「このビルの筈!」と探したのですが、フロア案内にも見当たらず、念のためその界隈を探してもそれらしきショップ案内を見つけることは出来ませんでした。
当てが外れてしまい、「さて、どうしよう・・・?」ということで、紀伊国屋の文庫と新書売り場を少し見たのですが、特にこれはという本も見当たらなかったので、
 「それじゃあ、久し振りにベルクにでも寄ってみますか・・・」

 新宿駅のルミネエスト地下1階。新宿駅東口改札から、地下鉄の丸ノ内線方面へ下る階段手前にある拘りのビア&カフェ「ベルク」。
BERGという店名の読み方からしてもドイツ風な雰囲気で、モーニングから、ランチ、そして夜の居酒屋風に一人飲みまで。雑多な新宿らしい、カオスの様な混沌とした狭い店内なのですが、店内には「ナンパ禁止」の貼紙がある様に、女性一人でも入り易く(きっと飲み易く)、どんなに混んでいても、テーブル席は無理ですが、カウンターの立ち飲み席は間を詰めて場所を開けてくれたり、また終わると長居をせずにさっとどいてくれたりと、それが常連さんの暗黙のルールになっていて、一人でも居心地の良い店です。きっと一人でも、また誰とも話さずとも、ここに来れば“都会の孤独”を感じることなく、「ヨシ、明日からまた頑張ろう!」と無言のエールを貰える様な、そんな店が「ベルク」・・・です(と、私メは東京への出張時にしか行けませんでしたが、勝手にそう思っていました)。
会社員時代、出張帰りにあずさまの発車時刻までに時間がある時は、良くここで時間潰しをしていました。当時は私もまだ喫煙者で、肩身が段々狭くなる中で、喫煙場所を探さなくてもベルクに来れば普通にタバコが吸えましたし、或る意味、田舎からのお上りさんにとっては居心地の良い“新宿のオアシス”でした。
この日もたくさんのお客さんで店内は込み合っています。
長居をするほどの時間は無かったので、生ビールを一杯だけ注文。これが税抜き350円だったか、本当に安いんです。そして、嬉しいことに「松本ビール」という松本ブルワリーの地ビールも今回ラインアップされていました。
久しぶりのベルクの雰囲気を楽しみながら、ビールというより店内の雰囲気を味わいます。それにしても、相変わらずの盛況で何よりでした。これなら、もし何年後かに来ても、きっとまた楽しむことが出来ると思います。
 その後新宿高島屋に向かい、家内の来る前に呉服売り場の場所を確認すべく事前にチェック。
家内が合流し、本来は七五三の和装小物のセットの中で、見当たらない着物の胸元に入れる小さな箱型の小物入れの「筥迫(はこせこ)」を探していたのですが個別には売られておらず、呉服売り場の年配の担当者の方にお聞きしたところ、昨今のお宮参りと七五三の様子を教えていただき、「筥迫」は七五三の和装の着物用に使う小物だそうで、お宮参りなら「むしろこちらの方が必要でしょう」と、勧めていただいた帽子と涎掛けのセットを購入しました。
それにしても、事前に見た地元のローカルデパートとは大違い・・・でした。但し、一番の違いは都会と田舎という規模からしての品揃えといったハードの差ではなく、むしろソフトの差・・・でした。
というのは、都会の老舗デパートの呉服売り場では、とっくに本来の定年を過ぎた様なベテランのスタッフの方を何人か揃えていて、お客さんにアドバイスをする、或いは客の質問にも昔と今の違いを踏まえてちゃんと答えられる・・・。まさに亀の甲より年の劫で、その豊富な知識の量が田舎のデパートとは全然違うのです。
昔は、地方のデパートにだって絶対にそうした地元の特色ある“しきたり”や独特の慣習を良く知ったベテランスタッフがいた筈なのです。そしてそれこそが老舗への信頼だった筈。
いくら市場としてのニーズとデマンドの差とはいえ、人件費削減か、高いベテランスタッフを切って安い若手に切り替える・・・。そうした有能の人材を簡単に切ってきたからこそ、いくら売り場を今でも確保していても真の客のニーズを捉え切れず、本来なら、そして昔なら、いとも簡単につかんでいただろう地元のニーズを逃がしてしまって、オンラインや首都圏のデパートに取られてしまっている・・・そんな身から出たサビの“いたちごっこ”の繰り返しなのではないでしょうか・・・。
もしそれがコストに見合っているなら、別に何の後悔もする必要はないのですが、地元で購入するつもりで、「筥迫(はこせこ)」を探して聞いても「えっ?」と絶句したきり何も答えられなかった田舎の“老舗”デパートの若い店員さんと、「あっ、それは・・・」とすぐに答えてくれ、しかも最近のお宮参りと七五三の状況をふまえてアドバイスをしてくれた“お婆ちゃん”スタッフとの差に、そんな感想を持った次第です。
 昔、本ブログに “町の電気屋さん”の生き残り策としての、大手家電量販への対抗策は、サザエさんに登場する“三河屋”の三平さんの御用聞き、それは例えば老夫婦世帯の切れた蛍光灯の交換作業とか、そういった町の小さなニーズを如何に取り込むかだと書いた記憶があるのですが、衰退する田舎の老舗デパートも、もしかするとそうした地元の町の小さなニーズを取りこぼして、全てを時代の“せい”にしてきたツケで、それは“身から出たサビ”、或る意味時代変化についていけなかった“自業自得”なのかもしれない・・・と新宿の老舗デパートで家内の買い物に付き合いながら感じた次第。

 お宮参り出席に際して長女のマンションに滞在中、モーニングを兼ねて我々もお気に入りの六本木『VERVE』へ長女が連れて行ってくれました。

 彼女がMBA時代に暮らしたシリコンバレーのパルアルトで、良く通っていたというカフェ。日本に進出し、何店舗か展開している中での六本木店。六本木という場所柄か、半分は日本在住の外国人の皆さん。従って我々は全くの場違いなのですが、確かに自家焙煎のコーヒーは試飲出来るその日のスペシャリティーや夏の水出しコーヒーも含め、結構私好みの酸味の利いた種類があって、意外と好み。しかも、他店の二倍はありそうなコーヒーカップ故、例え一杯800円でもリーズナブルに感じられるのです。しかも、若いスタッフの皆さんがキビキビしていて、解放感ある店内と相俟って実に気持ちがイイんです。
そういう意味で云えば、我々の様な田舎モノに些か似つかわしくないのは十二分に分かっていても、最近日本でも流行りの同じ西海岸発の“Blue bottle coffee ”よりも遥かに好み。コスパの良いコーヒーに比べ、ホットサンドは確かに本当に美味しいのですが、我々年金生活者にとってはちょっと高いかなぁ・・・(でもホントに美味しい!写真・・・食べかけの途中です。スイマセン!)。
しかも、テラス席だけではなく、一階の店内フロアもワンコOKなのが有難い。勿論、ちゃんと静かに出来る、そうしたワンコだけですが・・・。もし時にそれを乱そうものなら、暗黙のルールとして、そうしたワンコのオーナーは皆さん黙って自主的に退散されるのでしょうけれど・・・。
場所柄なのか、客層が良いのがこの店の特徴なのかもしれません。

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