有賀泰治の公式ブログです。日々の行動や情報、会社での出来事などを更新しております。

2017/04/04


経営方針共有勉強会 4月
《 修業 》 -2


『働く・修業』 2月、3月、4月と三か月にわたって、人生にとって活気ある年代の«三分の一»の時間を費やす “ 働く”、このテーマを皆さんに考えてもらうようにしました。
一度しかない人生その最も生きがいのある時間をどのように送るかが、その人に成長をもたらすといわれています。
自分の人生を見つめなおす機会となればと思います。
・・・・・・・・・・・・・・・2017年4月1日
・・・・・・・・・・・・・・・有賀泰治

7、どんなところにいても、やれると思って頑張ったら結果はついてくる。
・・・・・佐藤正樹/佐藤繊維社長

佐藤繊維は山形県寒河江市(さがえ)にある紡績工場だ。紡績すなわち繊維をより合わせて糸を作ること。佐藤繊維が得意としているのは羊やアンゴラヤギから作ったウール、モヘアを使った特殊な製品である。社長の佐藤正樹は4代目。彼のひいおじいちゃん、長之助は羊を飼育し、羊毛を原料として山形で紡績工場を始めた人だ。以来、佐藤家は寒河江で紡績を家業とし、同時にニット製品の企画、製造も行なっている。
佐藤繊維の糸を買うのはエルメス、ルイ・ヴィトン、シャネル、ニナ・リッチといった、一流ブランドのデザイナーたちである。世界に通用する企業なのである。
佐藤は東京の文化服装学院を卒業後、中堅のアパレルメーカーに入社、売上は100億円ほどはあったが会社は倒産。その後実家を継ぐために山形へ戻った。
当時、実家の紡績工場で作っていた糸は安物で、とても威張れるような商品じゃなかった。どれも商社の指示に従って作ったもので、下請け仕事ばかりでした。
イタリアでショックを受ける
「糸を買っているイタリアの工場から招待をうけ、オーナーから工場を案内してもらい、高級品から特殊な糸まで、作り方を教えてもらったんです。そしてそのオーナーは僕に言いました。
『私の工場は世界のファッション産業の大本を作っている。一流のファッションデザイナーでも糸は作れない。彼らは私の工場に糸を見に来て、それを基にデザインしている。私の糸がなければ一流ブランドはやっていけない』
彼は本当のプライドを持っている人でした。僕はショックでした。」
イタリアの工場にある機械と佐藤繊維にある機械は全く同じものだったこと、同じ条件にあるにもかかわらず、佐藤繊維は高級品も特殊な糸を作ることができなかった。
「山形の工場に戻ってから、すぐにみんなを集めて言いました。『いつまでも安物ばかり作っていては、会社はつぶれる。それでなくても市場は中国製でいっぱいだ。これからは僕たちで新製品を開発する。世界のファッション界に発信するつもりで糸を作る。フィレンツェの工場の機械はうちの工場と全く変わらない。僕たちだってやればできる。しかしイタリアの真似はしない、イタリア人の精神を真似よう』そういった演説をして、特殊な糸の開発を始めたのです」
威勢はよかったが、開発は遅々として進まなかった。従業員たちにとって自ら築き上げ、守ってきた制作のスタイルはアイデンティティであり、それを変えることはプライドが許さなかった。
「うちの従業員はみんなを地元で生まれ、地元で育った人間ばかりです。そして昔は寒河江では繊維は花形産業でした。うちは地元のトップメーカーですから、入社してきたのは地元の高校の繊維科を首席で卒業してきた職人ばかりだったんです。誰もが30年以上の経験を持ち、頑固揃い。そういう職人を変えるのは大変な苦労なんですよ。
例えば、従業員に『イタリアで作っているような細いウールを作ろう』と言ったら、『社長、うちの機械のギヤはそんな糸は作れない』と答える『じゃあ、ギヤを鉄工所へ行って作り直してもらおう』と提案したら、『いや、ずいぶんと大きなギヤになるから、うちの機械のギヤボックスにははまらない』と言う。『じゃあ、ギヤボックスを外せばいいじゃないか』と言うと、『いや、社長、ギヤが大きすぎて床のコンクリートにぶつかるかもしれない・・・』
要するに、何を言っても、できない理由ばかりを考えてくる。そんな体質の会社だった。
新しいことにチャレンジするのを恐れている。やる前からできない理由を探すのが癖になっている。・・・それでは会社はダメになる」
佐藤はあきらめずに何度も何度も説得した。時には職人と一緒に鉄工場まで出かけて行って、機械を改修することまでやった。そうして、数年たって、やっと新しい糸ができた。それはウールの糸のところどころにワタがついた形の特殊な糸で、佐藤はその糸に「マグマ」と名付けた。商品名のついた糸を作ったのははじめてのことだった。・・・結局その糸はうまく製品にならず散々だったが、どうしても付加価値のある製品を作らないと会社はつぶれると思った。
‘90年代から中国製の糸、ニット生地が世界を席巻した。日本の糸屋、ニット屋も中国製の輸入が激増していく中で、次々と潰れてしまったのである。その中で、佐藤繊維が今も生き残れることができたのは特殊な糸を開発したからだった。そして、ついに、彼の努力が実る。
「モヘア52番という糸を作ることができました。モヘアとはアンゴラヤギの毛でカシミアと並ぶ高級品です。52番とは糸の太さ、数字が増すにつれ糸は細くなる。うちが開発するまで、モヘア糸は27番が最も細い糸で、それもイタリア製品でした。番手を上げるのにはものすごい技術がいる。1番手上げるのには、2~3年かかるというのが業界の常識だったのです。それをうちは最新式の機械でなく、古い機械を探してきて、手作り工程を増やしたことで、細い糸を作るのに成功した。」
今では佐藤繊維には世界中のデザイナーから問い合わせがくる。モヘア糸だけでなく、彼が開発したすべての糸、そして企画製造したニット製品も市場で評判となっていつ。商社の下請けだった、地方のちっぽけな工場は一流ブランドと直接、取引できる世界的企業に変身したのである。
「ものづくりの修業は永遠に終わりません。これからもずっと続きます。だだ、ひとつだけで自分の中で変わったのは、それは僕自身の考え方が変わったこと、若い頃自分は山形の田舎で、しかもちっぽけな企業ではファッションの仕事なんてできるはずないと思っていたところがありました。でも、やればできます。どんなところにいても、小さな会社でも関係ありません。山形にいても世界と取引できる。それがわかったことが僕にとってはとても大きかった」

8、「勉強してこい」とお客様に追い返された・・・その答えを追い続けることが私の修業です。
売上トップは嬉しいが、すべてじゃない。
部下を育てたことのほうが手応えを感じた
・・・・・大久保政彦/ビジネスコンサルタント

営業マン向けのコーチングとコンサルタントをやっている。だが、彼は以前腕利きの自動車セールスマンとして知られる人だった。とくにホンダのディーラーで働いていた1996年には年間173台という、そのディーラーではトップの実績を達成している。全国的にはもっと台数を売っているセールスマンは大勢いるが、彼はすべて個人のお客様に限って売った販売台数です。そして、彼は「売った数よりもその背景を知ることが大切」と語る。売った時の環境や背景の分析を忘れてはならないと思っているからだ。

部下を育てたことが誇り
販売ナンバーワンになったのは、課長になり、初めて部下を預かった年でした。新人4人を育てながら、自分もセールスマンとして結果を残さなくてはならなかった。課長としてやったのは二つ、自分の営業スタイルをすべて見せること、そして、彼らの営業についていくが、彼らを差し置いて話をまとめることはやらないと決めたこと。・・・私の誇りは実績を残しながら、その時に部下を4人を育てたことに誇りに思っています。」

9、思う存分働けるのは20年、後悔なんてしたくない。
ワクワクして会社を作って働きました。

・・・・・森 正文/一休社長

1962年生まれの森は上智大学をでた後、日本生命に入社した。資金運用部門に配属され、3年後はニューヨークへ。リーマン・ブラザーズ投資顧問へ派遣され、バリバリ働いた。帰国後は財務企画室に勤務。どこから見ても順風満帆で、しかもエリートコースにいた。ところが、30歳の時、会社の健康診断でC型肝炎と診断され、人生が変わる。完治するまでの4年間、森は憂鬱な生活を送った。つまり、修業時代とは仕事を教わったとか、技術を高めたということでなく、重い病気との長い闘いだったのである。
森は病気が回復した後、日本生命に3年間、在籍し‘98年7月に起業した。
「独立前にも落ち込んだことがあった・・・会社を作るために資金がいると思い、株に投資した。根拠のない株に投資し、アレヨアレヨという間に、2000万円、損をした。
起業した森は当初、コンサルタント業を名乗った。だが、誰もが仕事を頼みに来ない。他の事業も起こしたがどれも鼓動に乗らず、なかなかうまくいかない。まさに気息奄々(きそきえんえん)といった状態で会社を運営していた。そんな時、一軒の高級ホテルを訪ね、空いた部屋をオークションに出してもらったところ、たちまち売れてしまったのである。それが高級ホテルの予約サイト、一休の始まりだった。その後その一休を知ってもらうことに大変苦労したが、今では契約しているホテル・旅館が約1200軒、登録者数は200万人を超えました。
一休に登録すれば本来の料金よりも安い値段で高級ホテルに泊まることができるのだ。
重要なのは彼がホテルや登録者から会費を徴収しなかったことだろう。つまり、一休がスタートしたことで、ホテルも宿泊者も自分の懐をいためることなく、得をすることができるのだ。そう、期せずして彼は「みんなが喜び」かつ「世の中の役に立つ」仕事を始めたことになる。
ただし、彼は冷めた目で見ているところがあり、今の時代、どんな商品であれ、自分たちがずっと売れ続けるもんなどない。いずれ、同業者やライバルが現れる。
だから、新しいビジネスを手がけながらも、じっと様子を見ることが必要だな、と思っている。だが、ここのところ営業ばかりやっていたので、じっとしていることが苦手になってしまった。今は、現実の仕事をしながら、次の仕事を探すってことじゃないかな。
30歳という時期に4年も病気と付き合った闘病体験が大きな修業となり、それを乗り切ったことで、確かな自信を得た。大病をしたことは修業であり、かつ仕事のプロになるための一里塚だった。

10、あの時、人間には味方がいることがわかった。
どんなに苦しい時でも、誰かが必ず応援してくれます。
・・・・・橋本雅治/イデアインターナショナル社長

イデアインターナショナルは文具、家電製品からオーガニック化粧品まで幅広く雑貨の企画開発を行っている。とはいえ、イデアは工場を持っているわけではない。生産は外部工場に委託するファブレスメーカーとして市場を席捲し、大阪証券取引所ヘラクレスにも上場している。
橋本雅治はイデアの創業者で現代表だ。彼の人生をたどってみると、大学卒業後、入社した会社ではトップセールスマンとなり、将来を嘱望された。しかし、実家の仕事が傾きかけたので、父や母を救うために帰郷する。苦労を重ねて家業の立て直しに力を尽くしたが、うまくいかず、経営権を手放す羽目になった。その後、就職したものの、恩ある上司の失脚とともに会社を去る。イデアは失意の末に起業した会社だった。彼の人生はまさに七転び八起きで、修業の連続だった。

橋本が目をつけたのはデジタル式の置き時計で、しかもLED表示のものだった。その頃、シチズン、セイコーといった大手は機械式の腕時計、置き時計こそ自社開発していたものの、デジタル製品はすべて香港メーカーに任せていたのである。そこで、橋本はデザインや仕様を開発し、設計図を携えて香港にいった。スタイリッシュな置き時計を作ってやろうと思ったのだ。・・・・・・
「この時の経験から二つの教訓を得ました。固定化された業界に売って出るには、
ひとつ、既存の業界の人が考えないような新しい商品を作る。
ふたつ、既存の業界が主に販売している場所以外で新しい商品を売る。これを守っていればヒット商品は産まれます」
時計でヒットを飛ばした橋本はインテリア雑貨、家電製品、ステイショナリーなど、次々と開発し、今ではオーガニックコスメまで手がけるようになった。
では、成功、失敗、成功と起伏あるビジネス人生を歩んできた橋本にとって、修業時代とプロフェッショナルになったと自覚したのはいつのことだったのだろうか。
「実家の結婚式場がつぶれそうになったのを乗り越えた時、私は一人前になったと思いました。あの時は和議申請といって債権者に債権を90%カットする案を了解していただき、他の経営者に会社を委ねたのです。
「 和議申請をしてからスポンサーが見つかるまで、1年間は結婚式場の営業を続け、私も働きました。倒産の瀬戸際でした。和議申請すると、今までのコメも魚も肉も、ツケでは売ってくれません。仕入れはすべて現金前払いになるのです。債権者の中には、夜中の4時に電話してきて、この書類にハンコをつけなどと脅す人もいました。そりゃあ、先方の立場になってみれば怒るでしょう。債権を90%もカットされたわけですから。私も街に出たらうつむき加減で歩いていました。そんなふうに肩身の狭い日々だったのですが、応援してくれる人もいたのです。酒屋さんは和議申請の後でも、困っているだろう、ツケでいいよとそれまでと同じ条件で酒やビールを持ってきてくれました。また、スポンサーになってくれた方もいちばん苦しい時に応援してくれた。
あの時、人間には味方がいることがわかった。どんなに苦しい時でも、誰かが必ず応援してくれます。私は今でもそういう人たちに感謝してます。苦しい時に感謝することを覚えました。つらいことを乗り越えた自身よりも、他人に感謝できる自分を見つけたときのほうが大きかった。」

11、責任のある仕事を任されるようになり、他人の言葉ではなく、自分の言葉で交渉できた時、自分の存在がはっきりして、自らの役割に自信を持てた。
・・・・・斎藤峰明/エルメス本社マーケティング担当役員

エルメスは息長く使える、上質の品物ばかりを製作、販売している。本社はパリにあり、同社が出しているケリー・バック、バーキンをはじめとする数々の製品は世界中の女性が憧れを持って、見つめている。
斎藤峰明はフランス人以外で初めて、同本社の役員となった。
彼の修業時代はと即座に答えた。
「高校を卒業して、19歳でフランスに行った時です。あれが私の修業時代でした」
「私にとって、いちばん大きかったのは、フランスに来て、『自分の生きる道は何か』に気づいたことでした。日本にいた時はフランスに行くのが目的で、そのために一生懸命、勉強をした。しかし、パリに来てしまうと、とたんに目標がなくなってしまい、いったい自分の役割はなんだろうかと悩み続けた。
ふと、パリの朝市に行くと、野菜や魚を売っているおじさんや、おばさんは生き生きとして働いていて、生きてる実感が伝わってくる。それに比べて、当時の私はそこにふわふわといるだけです。なんの役割もない、私がいなくたって、誰も困らない。
高校時代、人生とはこうだと哲学の本を読んでわかったつもりになっていたけれど、何にもわかってなかったと気づいた。あの頃は、生きている実感のない、甘ちょろい人間だった。
そうして、ずいぶん悩んだことがよかったかもしれません。経歴のためではなく、自分のために勉強しなくてはならないと思い、大学へ行った。そして、実社会に出たら、自分の道は自分で切り開かなくてはならないとわかった。最初に悩んだからこそ、自分が働く意味に気づくことができた。
でも19歳で海外での一人暮らしを始めることは冒険だし、危険です。若い人には旅行にはどんどん行ってもらいたいと思いますが、海外での裸一貫の生活は、私はすすめようとは思いません。なぜなら自分のアイデンティティが固まらないうちに、一人で異国に移り住むということは、大人になることと、異文化への対応の二つの壁を、同時に乗り越えなければならないからです。」


12、
・・・・・高野 登/ザ・リッツ・カールトン・ホテル・カンパニー元日本社長

上質のサービスで知られているザ・リッツ・カールトン。高野 登は日本支社長として日々の業務に励むだけでなく、数々の著作、講演を通じて同ホテルの成り立ちやその精神を紹介している。2009年には同社を退職し、長野市長選にでた。しかし、落選。現在は「高野塾」という私塾を開き、社会人を対象に、サービスやビジネスの講義を行っている。
「修業とはなにも自分だけが成長することでない。自分の修業が他人に伝わり、他人もスキルアップすることは全体の成長につながる。自分の修業が他人の役に立つことは大きな成果であり、そして、他人の役に立つことは、自分にとっても成長だ。」
高野がホテルマンとして優秀なのは「他人が成長した姿を見て」感動できるということだ。ホテルマンの実力とは自分らのサービスを誇示することでない。他人の笑顔を見て心から満足できることだ。
そして、新たな修業体験をした。リッツ・カールトンを退職し、長野市長選に打って出たのである。結果は惜敗。
選挙を通じて、僕が修業になったと思うのは、自分は周囲の人間に対しての見方、感じ方を間違えていたのではないかということ。
今まで富裕層を相手にするホテルにいましたし、経営者とあったりすることが多かった。すると、どうしても人材をどう育てるか、人材をどう見るかという、人間をその人の持つ仕事の能力で判断しがちだった。でも、それは間違いでした。人間を仕事の能力だけで判断するのは見方が浅いとわかった。
例えば地方の現実を変えていくには仕事の能力が高いだけでは無理です。大切なのは、その人が持っている圧倒的な人間力です。皆が苦しい時でも明るさを失わない人、どういうわけか、そばにいて話を聞きたくなる人、主張するわけではないけれど、物事を進めるには進める相談したくなる人・・・・・。
いわば“ 人物 ”です。人々に夢を与えることができるのは、そういう“人物”と呼べる人だけが地方の持つ現実を変えていくことができる。世の中を動かすのは人材でなく、“人物”なんです。
市長選で僕が連呼していたフレーズはオノ・ヨーコの言葉でした。
『ひとりで見る夢は夢でしかないが、みんなでみれば現実になる』喉がかれるほど、彼女の言葉を連呼していました。

13、”おもてなし”の本質とは??~
・・・・・名旅館・加賀屋女将の流儀~

「サービスの本質は 『正確性とホスピタリティー』」、小田真弓(和倉温泉 加賀屋女将)
昨今、「おもてなし」の重要性が高まっているように思いますが、加賀屋流のおもてなしの神髄とはどういうものでしょうか。
(小田) 
私どもはサービスの本質は「正確性とホスピタリティー」にあると考え、
「サービスとは、プロとして訓練された社員が、給料をいただいて、お客様のために正確にお役に立って、お客様から感激と満足感を引き出すこと」と定義しています。
 お食事の時間、列車の時間、モーニングコール、食べ物の好き嫌いなど、お客様に関係するあらゆる情報を正確に掴む。
それから相手を思いやる気持ちですね。これが欠けてはいけません。
 滝川クリステルさんが東京オリンピックの招致の際に使われたことで、「おもてなし」という言葉が流行しましたけれども、「おもてなしとは、自分の意を表さないで、さり気なく相手の意を読み取り、相手に気づかれないように先回りして、その意に沿う行動をして差し上げること」だと考えています。
 主人は「体を動かすだけじゃなくて、脳みそにも汗をかけ」ってよく言っていますが、常に自分の脳を刺激して、このお客様は何を求めていらっしゃるのか、どういうサービスをしたら喜ばれるのかを考えなければなりません。
 毎日が同じことの繰り返しですけれども、それが当たり前になって、マンネリになってしまったらダメ。
 お越しになるお客様は毎日違うわけですから、日々新たな気持ちで対応していかなきゃいけないなと思います。

追記
修業
フランス料理店で修行した
フランス料理店で修業した
「行」というのは、文字通り「行い」という意味合いが強く、一方の「業」は「技」という意味。「目にもとまらぬ早業で」なんて使い方のとき、「業」は「わざ」と読みます。
修行:仏道や学問武芸などを修める
修業:技術の習得のために努力する
ということ。つまり。「フランス料理店で修業した」正しいです。

今月の言葉

人間の偉さは、その人の苦しみと正比例する 
・・・・・森信三(哲学者/教育者)

いまの私たちにとって最も重要な問題は、経済の立て直しよりも、心の立て直しではないでしょうか。
たった一人の人の為に尽くせる心。
それを取り戻すことこそ急務だと思うのです
・・・・・鍵山秀三郎(日本を美しくする会相談役)

実力を発揮できるかどうかは、普段の生活にかかっている
・・・・・杉山芙沙子(一般社団法人次世代SMILE協会代表理事/杉山愛選手の母)

人生は、常に目の前に起こる物事を100%消化して、納得して前に進んでいるわけではなくて、時にはこれでいいのかな、分からないなと思いながら一歩ずつ前進している
・・・・・長倉洋海(フォト・ジャーナリスト)

災難や苦難に遭ったら、嘆かず、腐らず、恨まず、愚痴をこぼさず、ひたすら前向きに明るく努力を続けていく。
これから将来、よいことが起こるために
この苦難があるのだと耐え、与えられた苦難に感謝する。
よいことが起きれば、驕らず、偉ぶらず、謙虚さを失わず、自分がこんなによい機会に恵まれていいのだろうか、
自分にはもったいないことだと感謝する。
これが素晴らしい人生を生きるための絶対条件
・・・・・稲盛和夫(京セラ名誉会長)

野球が“野球道”へと繋がったように、一つを極めることは自分の財産になる
・・・・・小久保裕紀(元福岡ソフトバンクホークス選手)

進んだ先に光があるかどうかは分からない。
だけど自分が通った道はたぶん少し明るくなって、次の人は通れるようになるだろうと思って進んでいく
・・・・・天野篤(順天堂大学医学部教授/天皇陛下の執刀医)

「やっておいてよかった」「やっておけばよかった」
僅か二文字の違いだけども、
その差はどこまでも大きい
・・・・・鍵山秀三郎(日本を美しくする会相談役)

去る時の弁解はいくらでもできる。
しかし、一言も発せず
黙して忍ぶ事の貴さをしらねばならない
・・・・・横田南嶺(鎌倉円覚寺管長)

その時は分からなくても、
時間が経てば一つの出来事に
意味があったことに気づく日がやってくる
・・・・・鈴木秀子(文学博士)

小さい光でいい 独自の光であれ
・・・・・坂村真民(仏教詩人)

人生は夢をもって それを全情熱で追い 
決してごまかしたり へこたれたりせず 
あくまで全精力をもって やり抜くことである
・・・・・平澤興(京都大学元総長)

このたった一回しかない人生を、精の限り、魂の限り、
一所懸命努力につぐ努力をしていこう、そしてその成果を周囲の人たち、いや地球人類のために使っていこう
・・・・・稲盛和夫(京セラ名誉会長)

逆境はつねにいつでも自分の敵ではない。
ときには恩師となって人生を尊いものを教えてくれることがある。
心の親となって自分の本質を守り育ててくれる。
不幸、病気、逆境は大成する人格を育てる落ち葉である
・・・・・常岡一郎(修養団体「中心社」創設者)

女神を引き寄せる人
幸運の女神は、笑顔と謙虚な人のところに近寄ってくる
・・・・・王貞治(世界のホームラン王)


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プロフィール

有賀泰治

車検の『アップル車検』
自動車販売の『カーベル』
キズ、へこみの『キズナース』
中古タイヤ、カー用品の『ガレージ・オプション』
事故・故障対応の『レッカーサービス』
自動車をはじめとしたすべての損害保険・生命保険の『保険部門』

上質なカーメンテナンスを自社で全て提供する自動車会社
㈱アルガオートサービスは自動車関連の事業を営んでいます。

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