カネヤマ果樹園 雑記帳<三代目のブログ>

 1月21日の朝刊に、二人の方の訃報が掲載されていました。
一人はクラウディオ・アバド。言わずと知れた世界の巨匠。帝王カラヤンの後の首席を託されて、機能的で民主的なオケに変貌させたBPOを始め、演奏者と聴衆双方から敬愛されたという名指揮者。
昨年ルツェルン祝祭管を率いて来日する予定が、体調不良でキャンセルされていました。病を患っていたとはいえ、まだ80歳でした。大好きなモーツァルトの20番で、彼が若い頃にVPOを振ってグルダと協演した録音は、何枚も持っている中での我が愛聴盤です。
       
 そして、もうひと方は詩人の吉野弘さん。これまで、本ブログの中でも「夕焼け」(第506話)や「祝婚歌」(第631話)を取り上げていました。父と同じ87歳だったとのこと。
思えば、高校時代初めて歌った合唱曲が高田三郎作曲の「心の四季」。この時は抜粋でしたが、大学時代に全曲を演奏会で歌い、その中で一番惹かれた詩が終曲の「真昼の星」でした。

   『真昼の星』  吉野弘     
 
  ひかえめな 素朴な星は
  真昼の空の 遥かな奥に
  きらめいている
  目立たぬように―

  はにかみがちな 綺麗な心が
  ほのかな光を 見せまいとしてとして
  明るい日向を
  包むように―

  かがやきを包もうとする星たちは
  真昼の空の 遥かな奥に
  きらめいている
                       ひそやかに 静かに―

 山形県酒田出身の吉野さん。東北人らしいと言えば語弊があるかもしれませんが、「真昼の星」に代表されるような控えめな優しさと、「夕焼け」に詠んだような、とりわけ敗者や弱者への限りなく優しい眼差しが好きでした。
乾いた大地に染み込む雨の如く、当時の、時に揺れ動く若者の心を優しく潤してくれた詩の数々・・・。ありがとうございました。
謹んでご冥福をお祈りいたします。 ― 合掌

 僅か1ヶ月前だというのに、記憶の中では些か古い話題になってしまいましたが、1月19日に広島で行われた第19回都道府県対抗駅伝男子は、5年振りに見事長野県チームが大会単独最多となる6回目の優勝を飾りました。

 優勝候補は埼玉、広島、兵庫などとされて、それ程戦前は下馬評の高くなかった長野の復活優勝の立役者は、何と言っても、佐久長聖高OBでもあり、区間賞の3区上野祐一郎選手(DeNA)と、最長7区で逆転し優勝テープを切った二年連続区間賞のアンカー、矢野圭吾選手(日体大)だと評されていますが、一番の勝因は中高一般とバランスが取れた(特に中学生は2人共ジュニアオリンピック出場者)布陣を久し振りにひけたことと、短い8.5kmという3区に本来中距離のスピードランナーである上野選手を配した采配ではないでしょうか。そして更には、過去優勝から遠ざかったシーズンは、佐久長聖高が都大路でも入賞できずに惨敗した年だっただけに、年末に3年振りに5位入賞を果たしたことで、1区の高森健吾選手(14秒差の14位)を始め、7区間中3区間を走る長聖高の3選手が上位で襷を繋げたことが、トップ争いのベースとなったのだと思います。
その意味で、長聖が都大路で頑張ることが、長野県チームの命運を握っていると言っても過言ではありません。
佐久長聖高校を強豪校にゼロから育て上げた名将両角前監督(現東海大監督)から引き継いで、監督就任三年目に都大路で始めて入賞し、また高校より一足先に胴上げを経験した高見澤監督に期待します。

 今年は、佐藤悠、村澤、大迫といったトップ選手(いずれも長聖OB)が故障などで出場しなかった(但し、ふるさと枠での出場は1名のみ)中で、見事“駅伝強豪県長野”が復活し、久し振りにスカッとした一日でした。
女子チームも、中高生が一時期トップ争いをするなど(結果は、最終区で逆転されての10位でしたが)、来年以降が楽しみです。
但し、県内出身者の“ふるさと枠”での出場は男子は1名、区間の多い女子は2名のみですので、県内に実業団チームの無い長野県は、大迫・矢野選手等が卒業してしまう来年の大学生に、有力ランナーがいないと苦しくなります(怪我に泣かされ続けている、東海大新3年生となる両角駿選手の復活に期待します。何しろ、記憶が正しければ、県大会のエース区間である1区の記録は、佐藤悠でも村澤でも大迫でもなく、彼が持っているのですから)。
そこで、土台となる長聖や女子の長野東高が毎年頑張って、OB選手を大学にコンスタントに送り込む必要があります。その点からも、今や全国から強豪校が集い、新チームとしての来シーズンを占う選抜大会となる、3月の「春の高校伊那駅伝」に注目です。佐久長聖、長野東もぜ~んぶまとめて、“頑張れナガノ!”。

 1月14日の夕食後。年末の葬儀から続いた疲れと、強制適用休肝日ゆえすることも無く、「じゃあ、寝るワ・・・」と寝室に行ったのですが、まだ夜9時を回ったところだったので、10時からの太田和彦さんの「ふらり旅」(BS11)を見ようとTVを付けました。地上波はバラエティばかりで見るモノも(気も)無く、ニュースでの元首相経験者の都知事選立候補も「何で、原発も無く、電力の最大消費地の東京で、脱原発が都知事選の争点になるのかなぁ?だったら堂々と国政に訴えればイイのに!」と思い見る気もせず、チャンネルをBSに切り替えると、NHK-BSプレミアムで放送されていた“時代劇”・・・、と思ったら時代劇の撮影所風景。

 本来、プレミアムシネマでは、ここ数年の話題作を取り上げている筈ですが、出演者も地味で、「鎌田行進曲」的画面にも記憶がありません。
どうやら、舞台は懐かしい京都にある東映の太秦撮影所らしいことは画面から分かりました。興味が湧き、食い入るように見始めて、「ふらり旅」も見ずに、結局最後まで見終えてしまいました。

 キャスティングも含め後で分かったこと。
主演は福本清三さん。香美山なる東映撮影所の時代劇の“斬られ役”専門の年老いた役者が主人公。時代劇が衰退する中、脇役の仕事も亡くなり、太秦の映画村でのチャンバラショーなどに出演。女優見習いのヒロイン伊賀さつき(山本千尋)の真剣さに負けて師弟関係となり、殺陣を教え、その後、彼女が一躍スターとなってプロデューサーを説得し、大御所の時代劇俳優である尾上清十郎(松方弘樹)と共に、相手役に既に引退し田舎で隠居していた彼を指名して時代劇を撮影。最後二人との殺陣のシーンで、見事な斬られ役を演じるというストーリー。画面がそれまでの撮影風景から映画の画面に切り替わる中で、斬られた後、反り返るように倒れる香美山。横たわる彼に散り掛かる桜の花びらが印象的なラストシーンでした。

 「太秦ライムライト」という題名のこの映画は、地元京都で劇団を主宰する大野さんという方が、衰退する京都映画の復興の一助にと、自身もプロデューサーとなり、チャプリンの名作「ライムライト」を下敷きに、京都市なども名を連ねた製作委員会が主体となって官民挙げての寄付などで製作したもので、記憶に無いのも当然で、公開は今年初夏の予定とか。それが、あろうことか、公開前にTV版を編集し、NHK-BSで先行放送されたものだったのです。

 主演の福本さんは、実際に55年間実際に“斬られ役”俳優を務め、映画「ラストサムライ」や、殆どのTV時代劇に出演。“5万回斬られた男”との異名を持つ、“日本一の斬られ役”で、今回初主演とのこと。
 小林稔持、萬田久子、松方弘樹等が脇を固め、地味ながらも余韻を感じさせてくれる作品でした。

 14日から15日に掛けての季節外れの南岸低気圧により、関東甲信を襲った大雪。松本は8日に続いて2週連続の降雪で、それぞれ49㎝、70数㎝という記録的な大雪となりました。中でも信州に比べ温暖で大雪経験の無かった山梨県は陸の孤島となり、そのため新宿と松本を結ぶ特急あずさは19日までの5日間に亘り全面運休となりました(飯山や白馬から、ラッセル車を山梨まで出動させれば良いのにと思いましたが、果たして?)。

 そんな記録的な大雪で、交通網の混乱は勿論ですが、生活面などにも様々な想定外の影響がありました。
先ず、15日は首都圏との道路・鉄道が寸断され朝日新聞は配達なし。日経は地元での印刷のため問題なし。翌日朝日の配達があったと思ったら、名古屋からの配送とか。また、15日は屋根のアンテナが雪に埋まったのでしょう。地上波は問題なかったのですが、BS放送が受信不能(翌日雪が落ちたのか、自然に解消)でした。
 14日金曜日は、長野県内の大雪警報発令に伴い、早めに帰宅指示が出ましたが、上田からの帰路の三才山峠では、大型トラックが3箇所で雪のために動けずに立往生。そのため管理事務所の大型重機がワイヤーで引き揚げていて、片側通行の大渋滞。いつもの倍の時間が掛かって漸く帰宅出来ました。帰宅後、夜の雪の中で駐車場前だけは雪掻きをしておいたのですが、翌15日土曜日、早朝起きてみると殆ど無意味状態。この日も一日降り続いた中で、ご近所も総出で朝から終日の雪掻き。
1998年の大雪で駐車場の屋根が潰れた経験から、漸く降り止んだ16日の日曜日に先ずは駐車場の屋根の雪下ろし。そして家の周りの通路確保と、翌日のごみ捨てに備えて、町会のごみステーション周辺の雪掻き。犬たちの散歩のための庭の通路は、2週連続の大雪で1mを超える雪の壁です。
家の前の道路は、2回市の重機が雪掻きをしてくれましたが、道路脇に寄せられた雪を早めに除かないと凍ってしまいますので、その都度また雪掻きです。操作される業者の方も申し訳なさそうでしたが、道路の除雪が優先なので、そこは各住民の責任です。

 通勤路の三才山峠は有料道路で優先的に除雪されるため、17日月曜日には通行止めも解除されて朝から通行可能となっていましたが、会社の駐車場が除雪のための重機が確保出来ず、17日月曜日と翌18日の火曜日の二日間に亘り会社が臨時休業になってしまいました。軽井沢の99㎝を筆頭に、東信地方の方が今回の積雪は多かったようです。不幸中の幸いで、そのため平日の銀行回りをすることが出来ましたが、その二日間も、銀行と食料品の買い出しを除いてほぼ終日の雪掻きでした。いつも週末にまとめ買いをするスーパーは、確保に努力もされたと思いますが、生鮮も含めて思いの外品揃えがされていました。棚が空だったのは、卵やメーカー製のパン類くらいでしょうか。むしろ、センター配送であろうコンビニの方が品薄感が強かったように思います。

 後回しにしてあった誰も居ない母屋の方は、18日の火曜日に漸く雪掻きが終わりましたが、3日間の朝晩の冷え込みで積もった雪の表面が凍って固くなっていたので、スコップで四角形の塊りに切り分け、まるで大きな角砂糖のようにして雪掻きです。むしろ溶けて湿って重くなるよりも、却って雪掻きが捗りました。
 4日間に亘った雪掻きも漸く一段落して周りの様子を見てみると、行き場を失ったスズメが電線に鈴なりにとまっています。また溶けた屋根の雪が夜凍って、たくさんのツララが出来ていて、日毎伸びて成長しています。
そして、18日に市役所に住民票を取りに行った際にお堀端を通ると、松本城がモノトーンの風情ある佇まいを見せていました。この時期の大雪の唯一の恩恵でしょうか。観光客の方が誰も居ないのがチト残念ですが・・・。

 どの世界でも、人一倍の努力をし、名を成した人の言は一聴に値するにしても、尚且つ名文家というのはそうは多くないもの。しかも、物書きとはある意味対極にあるスポーツ界では尚更ではないでしょうか(全く競技経験も無いのに、訳知り顔でエラそうに書く某スポーツライターのことではありません)。

 そんなスポーツ界にあって、以前から「名文家だなぁ」と個人的に感心させられていたのが豊田泰光さんです。ご存知の通り、水戸商業から当時の西鉄に入団し、稲尾、中西等と共に知将三原監督の元、ライオンズの黄金時代を担った一員。
 その氏が、週刊ベースボールに10数年に亘って掲載した見開きのコラム(『豊田泰光のオレが許さん』)に、以前毎号掲載していた記事を時々拝読し、その筆力にいつも感心していたのですが、最近では、日本経済新聞のスポーツ欄に週一回のコラム『チェンジアップ』を執筆されいきました。そして、今年79歳になられるのを機に、足掛け16年に亘ったというその執筆を「筆を折る」こととし、12月末を以ってライターとしても引退されました。

 豊田さんは、野球選手や引退後のコーチ(確か当時のサンケイ)を辞められた後で、新聞社のスポーツ紙に野球評論家として執筆することになり、最初は新聞社の担当の方々に真っ赤になるほど原稿を添削され、自身の野球以外の無知を恥じ、その後本を漁る様に読んだり必死に勉強をされたりしたのだとか。元々文才をお持ちだったのでしょうが、そんな努力もあってか、なかなかの文筆家でした。特に感心させられたのは、文章の「起承転結」の中でも、そのスポーツで超一流の人ならではの、事実としての経験に裏打ちされた「転」の面白さ(意外性)と「結」の説得力。
また、決してご自身の専門であるスポーツのことに留まらず、そのスポーツを通じながらも、普遍的な躾や子育て、ビジネス(プロとして金を稼ぐ)や経営、学校教育など多方面に渡り示唆に富むことが(但し、随分頑固そうですし、その発言から過去も色々舌禍もあったようですが)書かれていて、「なるほどなぁ」と納得し、「上手いなぁ」と感嘆しきりでした。
どんなジャンルであっても、その道で一流を極めた 人の言は、その道を通じての一流の教育論であったり、経営論であったり、そして人生論までも拡がっています。その根底に流れていたのは、最後の12月26日のコラムに記されていた「野球には品格と気骨が必要」という件(くだり)同様に、氏自身も「品格と気骨の人」であったような気がします。日経も最後のコラム(豊田さんへのインタビュー記事)に寄せて、『(豊田氏の)辛口評論は野球界への愛情の裏返しだった。』とその序文で結んでいました。

 スポーツ界では、もう一人感心したのが、四年ほど前だったでしょうか、同じく日経の『私の履歴書』に連載されたゴルフの青木功氏。
私自身はゴルフはやりませんので技術的なことは皆目分かりませんが、日本のゴルフ界で初めて海外に飛び出した「世界の青木」の一面、内面が垣間見えた気がしました。書くことにあまり慣れておられないのか、文章は先述の豊田さんほどこなれてはいませんでしたが、内容はこれまた一流の教育論であったり、経営論であったり、そしてまた人生論でありました。
 因みに、例えば日経新聞『私の履歴書』への執筆者で言えば、失礼ながらその後の、例えば最近政界で再びお名前が出た細川護熙元総理よりも遥かに面白く読ませていただきました(記憶の範囲ですが、「私の履歴書」でこれまで一番面白かったのは、読売新聞主筆のナベツネさんこと渡辺恒雄氏。また感動したのは、味の素会長の故江頭邦雄氏。そして、頭に来て途中で読むのを止めたのは作家の渡辺淳一氏でした)。

 豊田さん、長い間お疲れ様でした。またどこかで、スポットでの辛口評論を読ませていただけることを期待しています。

 第806話でご紹介した上田市塩田平の「前山寺のくるみおはぎ」。
今年の提供は、11月末で既に終了していますが、11月上旬に紅葉を愛でながらいただいた際に向付けとして一緒に出された、紫蘇を巻いた梅漬け。祖母の漬けた甘いカリカリの梅漬けに似ていると、奥様は大層懐かしがって何箱かお土産に買って帰りました。
 その後、お客様等にも思いの外好評だったようで、お正月の客呼びなどでのお茶受けにまた使いたいので、会社の帰りに買って来て欲しいとの仰せ。会社からは車で10分ちょっとですが、夕刻は閉まっているでしょうから、年末最終日、早めに終わる仕事納めの後に立ち寄って買って帰ることにしました。
念のために事前にお電話したところ、通常は「くるみおはぎ」と一緒に供するので、おはぎの期間終了後は常備していないとのこと。
そこで、事情をお話しすると喜んでいただき、「時間をいただければ、ご指定の日時までにご用意しておきます」との有り難い仰せに、恐縮しつつも謹んでご親切に甘えさせていただくことにしました。

 ところが、年末急な葬儀となり忌引き休暇を取得。
家内が、出来れば急にお焼香や新御霊(あらみたま。第818話参照)で来られた方へのお茶うけや、お返しに付けてお渡しするのに良いので用意しておきたいとのこと。
だったら、上田まで取りに行って来ようか思いましたが、念のため電話をして事情を説明させていただくと、そこはさすがにお寺さんです。
事情を察していただき、しかも追加させていただいての15箱を、何と宅配便で送っていただけることになりました。
宗派こそ違えど(我が家は浄土宗、前山寺は真言宗智山派の古刹)、前山寺のご住職の奥さまの手による自家製ですので、仏事の席に相応しく、また上品で、来られたお客さまにも勿論好評でした。まさに深謝でありました。

 また、四十九日の法要に備え、お茶受けに何箱か事前にお願いして会社帰りにお寺に伺って買って来ました。
この時期、観光で訪れる参拝客も無く、境内はひっそりと。庫裏の前の庭の池もすっかり凍っていました。
春のお彼岸からのくるみおはぎの提供が始まり、そして桜や藤など“花の寺”の時期を迎えると、前山寺もやがてまたその賑わいを取り戻すのでしょう。

 些か時間が経ってしまいましたが、昨年末の、暮れも押し迫っての12月21日の土曜日にマチネで行われた、ザ・ハーモニーホール(松本市音楽文化ホール。略称“音文”)での、オーケストラ・アンサンブル金沢(OEK)の松本公演。

 2011年にも予定されていたコンサートでしたが、地震による天井損傷とその後の改修工事を経て、今年の4月にリニューアルオープンした大ホールで、その時と同じプログラムで、2年振りに6回目となる松本公演です。
今回は、OEKによるベートーヴェンの交響曲全曲演奏の棹尾を飾っての第5番「運命」。音楽監督の井上道義氏が松本でOEKを振るのは初めてで、且つ運命は日頃演奏されない(「好きではない」との由)そうですが、そこを音文の企画ディレクターのNさんが「最後の一曲だから」と何とかマエストロを口説き落としたのだとか。また、カップリングのブラームスの“ダブルコンチェルト”も、ソリスト2名を一曲だけのために揃えるのは不経済なのでしょう。演奏会で取り上げられるのは珍しい曲目です。
30年以上前でしょうか。帝王カラヤンだからこそ実現できたであろうBPOを振ってのベートーヴェンのトリプルコンチェルト。ソリストには、オイストラフ、ロストロポービッチ、リヒテルという当代きっての大物を揃えて大いに話題となりました。これに対抗して、セルが手勢のクリーブランド管で、オイストラフ、ロストロポービッチを迎えて録音したのがブラームスのダブルコンチェルトでした。今回は、OEKのチェロ首席奏者であるチェコ出身のルドヴィート・カンタ氏とそのご友人のヴァイオリニストのエヴァルト・ダネル氏(元スロヴァキア・フィルのコンマス)がソロを務められます。
そのため、レジデンスオーケストラでありながら金沢でも滅多に聴かれない曲目とのことから、今回はOEK会員の40名の方々も団体でわざわざ松本まで山を越えて聴きに来られていました。

 待ちに待った二年振りとなるOEK松本公演に、最初の団員の登場から最後一人の退場まで、客席からは暖かな拍手が鳴り止みませんでした。
演奏は、先に“運命”で、休憩を挟み後半に“ダブルコンチェルト”。休憩時間中に、マエストロがマイクを持ってステージに来られ、笑いを誘いながらの軽妙なトークで、OEK会員の方々や曲紹介も。最近の指揮者は、飯盛範親さんも然りでしたが、指揮だけではなく、演奏会全体を盛り上げる工夫や努力をされています。生で井上さんの指揮振りを見るのは初めて。失礼ながら流麗とは言いがたく、意外とギクシャクした棒ですが、力強い棒でありました。その風貌もあって、エンターテナーなマエストロです。休憩中のトークで、「あんまりやらないんだけど、今日の運命は良かった!」と仰っておられましたが、3楽章から間髪入れずにアタッカで入った4楽章まで、メリハリのある小気味良い「運命」でした。
 ホールの器とその響きもありますが、木管などは一本なのに、OEKは迫力を感じます。700席の音文には、編成以上にパワーがあり弦も艶やかなOEKはうってつけ。金沢と松本は友好都市でもありますので、毎年の来演を期待します。

 ブラームスの最後の管弦楽曲でもあるダブルコンチェルトの後、ソロお二人でのアンコール。日本語で「BBと来たので、3Bのもう一人の曲を・・・」と前置きされて演奏された短い曲。「どこかで聞いた曲だなぁ・・・」
思い出したのは、娘たちがピアノを習っていた頃耳に馴染んだ、バッハの「ミュゼット」でした(何故か、いつものような張り紙でのアンコール曲紹介はありませんでしたが)。
音文らしい、心暖まるコンサートでした。

 普通の日本人なら、殆どが仏教徒とはいえ、初詣は神社にお参りし、神前結婚でお葬式は仏教で、またクリスマスもお祝いし・・・という生活だと思いますが、葬儀となると当然のことながら仏教一色となります。

 近親者(一般的には、親兄弟、配偶者や子供、義父母など、血族・姻族の2親等まで)が亡くなって「喪」に服する期間を「喪中」と言いますが、果たしてその間は何をどうすれば良いのか、或いは何をしてはいけないのか・・・。年賀欠礼くらいは知っていても、あとは当然分からぬことばかりです。
そこで、セレモニーセンター(葬祭場)の担当者の方から教えていただいたり、自分でネット検索して調べてみたり・・・。

 神道では死は「穢れ」とされ、儀礼的禁忌状態を「忌中」と呼び、50日間が「忌」に服する期間とされますが、仏教では、御霊が仏になるまでの49日間、故人のために近親者が祈りに専念する期間が「忌中」となります。
そして、元々は儒教から生じた(従って、儒教精神の強い朝鮮半島では、例えば北の最初の指導者の死後2代目は3年間喪に服し、公式の場に姿を見せなかった)とされる「喪中」は、亡くなった月を含めた13ヶ月間であり、実質1年間(従って、我が家では昨年の12月から今年の12月までが喪中)です。
本来は江戸時代までの慣習を明治7年の太政官令で、実父母、子など親等別に服喪期間(日数)まで法制化されていたようですが、戦後廃止されており、現在でも慣習として近親者は一周忌明けまでが一般的に喪中とされています。
そしてこの間は、基本的には慶事(お祝い事)を執り行わず、慶事にも参加しないことになります。但し、コミュニケーションが不可欠な現代社会においては、お付き合いの必要性により、喪中であっても必要なことは参加して良いそうです(例えば、既に申し込んで延期出来ないお祝い事などがもしあれば、必要なら親戚筋に事前に根回しをして了解を得るなど、要するに個人で考えて判断するしかなさそうです)。但し、その場合も地域性(しきたり)を考慮することは必要かもしれません。

 我が家の場合、暮も押し迫った23日でしたので、幸い年賀状はまだ投函していなかったのですが、準備等で喪中ハガキまでは手が回らず、会葬御礼と年賀欠礼の広告を地元紙に年末掲載したものの、新年になって年賀状を頂いた方々や毎年頂く県外の方々には、寒の入り後に「寒中見舞い」(ネット検索すると無料のサンプルがたくさん掲載されています)でその旨のご挨拶をさせていただきました。
また、後で知って自宅へ会葬いただいたり、わざわざ送っていただいたりした方や、松本地方だけに残る「新御霊」(注記)の返礼の品の手配などの対応を年末済ませました。

 神道では50日間は「忌」で、死は穢れとされるので、正月の初詣は勿論、神社への参拝や神事への参加はご法度。忌中明けには、神棚を隠した半紙を取っても良いようです(これまで神道で行われた部下の家のご葬儀に二度参列したことがあります。こうしたご家庭では忌中開けに氏子である神社でそのお払い、厄払いまでされるかもしれませんが、普通の家ではそこまでは不要でしょう)。
一方、仏教では死は穢れではなく、49日後には仏になるので、その間でもお寺へのお参りは問題ないそうです。当家は浄土宗ですので、総本山は知恩院。浄土宗七本山に数えられる善光寺も問題なさそうです。

 そう言えば、今回初めて分かったこと。
32年前の祖父の葬儀の法要に、今はご住職も引退された高校一年の時の担任の先生が、当家の菩提寺と一緒に同じ浄土宗のお寺として来てくださり、法要が終わってから私にお数珠をくださいました。
それは、小さい黒い珠が二重に連なった女性持ちのような数珠でした。その時は良く見る大きな珠の数珠の方が立派なのにと思いましたが、今回セレモニーセンターの方から、浄土宗での位牌や仏壇(例えば浄土宗では金の装飾は用いない)なども含め宗派により形式も異なる(従って、檀家として各家の宗派に則った仏具を購入する必要があるそうです)との説明いただいた中で、数珠についても教えていただいたのは、浄土宗では二連の数珠が正式なのだとか。
先生は、同じ浄土宗として正式な黒檀の数珠を私にくださったのでした。お年を召されたとはいえ、まだご存命ですので、改めて自身の無知を恥じ、先生にお詫びをし、また深謝でありました。
【注記】
新御霊(あらみたま)。長野県内でも松本平だけに残る風習。
その年に亡くなった新仏のいる家に、親戚・同姓など近しい者が、年の暮れにお参りに行くこと。
本来は、死者の霊がお盆同様に正月にも家に戻るとされ、新仏のいる家が正月を迎えることが出来ないので、「お寂しい暮になりましたが」と慰めにお参りをするもの。我が家周辺の地区では、その家の主人は葬儀に参列するので、新御霊のお参りは専ら夫人がその家を代表して訪問する慣わし。

 9年近い病気療養の末に父が亡くなったのが、暮も押し迫った12月23日の午後1時過ぎ。
それからは、悲しんでいる間も無く、どう進めれば良いのか分からないことばかりのパニック状態でした。しかし考えてみれば、慣れていることの方が不幸続きでむしろ問題でしょうから、知らなくて当然。ここで少し振り返ってみることにします。万が一の時の参考になれば幸いです。

 先ず、市内の菩提寺へ一報(我が家は浄土宗です)。お寺のスケジュールが最優先で、通夜(浄土宗は納棺通夜)と告別式および火葬の日取りが決まります。父がセレモニーセンター(葬祭場)の互助会員になっていたので、そこで葬儀を行うことをご住職にお伝えし、そちらへも連絡すると、既にお寺から連絡が行っていて、日程が確保されていました。また、親戚、地域によると思いますが同姓、隣組など、遺族に代わって段取りを仕切ってもらう方に相談します。
我が家の場合は、古くからの同姓の長老(新宅の叔父)に報告。すぐに駆け付けてくれて、一緒にその日の午後には葬祭場の担当者との打ち合わせ。
祭壇から始まり、自宅で行う納棺通夜の準備。一周忌までの一連の流れがパンフレットになっていて、担当の方から説明を受け、全てそれに従って進めていきます。(先方も、こうした場面では、喪主側が何も知らず、あたふた、バタバタしていて当然という前提で進めてくれます。しかし、決めるのは飽くまで喪主側。時間も限られる中で、あらゆる事が並行して動いて行きますが、とにかく一つ一つ順番に決めていくことが肝要です)
 例えば、母屋の神棚に半紙を垂らして、忌中は神様にお隠れいただくなど、まさに知らぬことばかりでした。我が家では20年ほど前に祖母が亡くなりましたが、殆ど記憶がありませんし、あってもその時とは変わっていたり。
例えば納棺の際の荒縄など今は無く、代わりに葬儀屋さんが用意した白黒の水引を襷掛けで肩に掛けますし、納棺後のお清めも、昔は塩も糠も自宅で用意しましたが、一連の道具は全て持ってきてくれます。ぬるま湯と手を拭くタオル、法要の際の座布団(お寺さん用には紫色の座布団ですが、さすが我が家は古いので母屋に2枚ありました)を30枚用意しただけ。木魚なども仏壇に供えてありますが、法要用に一式持ってきてくれました。また、絶やさぬようにとされる通夜のお線香も、今は10時間持続する(実際は12時間近く持ちました)という専用の線香(蚊取り線香のような渦巻き型)を用意いただきました。
 年末のこの時期で心苦しくも、親戚、同姓、父の近しい友人、町会への日程の連絡。納棺までは中一日空いたので、その間には娘たちも急遽戻って来てくれて最後のお別れを済ませ、また近しい親戚がお見舞いにも来てくれたり、地元紙のお悔やみ欄への掲載、弔辞のお願いや、生花・供物の手配、告別式受付の手配、納棺通夜(振る舞い)、火葬、告別式、精進落しの出席人数読み、それに合わせた引き物手配などなど、する(≒決める)ことが山のようにあります。
 23日に亡くなり、自宅での納棺通夜が25日。火葬場、葬祭場とも幸い我が家からは車で5分程度で、26日午前中に出棺、火葬。移動して午後告別式と精進落しで、無事終了。これも父の人徳だったのでしょう、お陰さまで私たちの予想以上に賑やかに父を見送ることが出来ました(もし30日以降だと、年明け3日まで火葬場などもお休みでした)。
 考えてみると、亡くなった23日以降、目が回るような忙しさで、家内共々、葬儀が終わった26日まで昼食は殆ど食べていませんでした(空腹感も無し)。
皆さんをお送りした後、手伝ってくれた娘たちや日帰りで駆け付けてくれた娘婿も一緒に慌しく帰京して行き、妹一家と我が家に帰って漸く一息。ふぅ~っと溜息をつきながら浮かんできたのは、何故か“Sturm und Drang シュトゥラム・ウント・ドランク”・・・正に疾風怒濤のような4日間が、あっと言う間に過ぎて行きました。
 その間、ずっと走りながら考えているような感じでしたが、その中でふと気が付いたのは、色々な準備や対応など、私だけではなく、家内も娘たちも同じように気になるらしく、聞いてきたり、意見をしてきたり・・・。
船頭が多いと現場が混乱するので、自分一人では対応仕切れない部分や、同じ意見の場合は「ウン、任せた!」。しかし、同じ部分が気になったり、同じ場面で仕切ったり・・・大助かりでしたが、似た者同士と時に苦笑するばかりでした。
それにしても、昔の農村では会場(自宅で行った祖父の葬儀など)も勿論ですが、今のようにケータリングサービスも無かったので、供物用の餅つきから精進料理の調理なども含めて全て同姓・隣組総出で準備したのですから、(特にご夫人方は)今とは想像できないくらい、もっと大変だっただろうと思います。

 因みに、長野県で亡くなる人が最も多いのは、寒さが一段と厳しくなる12月なのだとか。お年寄りにはこたえるのでしょう。今回お願いしたセレモニーセンターは松本を中心に幾つも葬祭場を展開していますが、その時点での葬儀受付が140件を超えたのだそうです。

 亡父の葬儀も終わり、家内ではありませんが、心にぽっかりと穴が開いたような気がしつつも、これで終わらず、翌日は事前に確認の上、菩提寺へのご挨拶と四十九日法要(中陰供養)の確認。法要までにはそれまでの白木に代わる塗りの位牌、墓石への戒名の刻印、法要後の食事会場の手配と案内、当日の祭壇や引き物の手配。その他に、相続の確認の上、平日しか開いていない市役所・銀行などの手続きを含め、忌中明けの日までは結構慌しい日々が続きます。

 願わくば、こうした状況もふまえ、Civil servant の公僕であろうとするならば、既に実施している自治体(例えば次女の住む成田市)もあることから、交替制で人数が少なくても良いので、申請手続きのために市役所が(また銀行も)土日も開けていただけると助かります(せめて土曜日だけでも)。
忌引き休暇が年末年始休暇に掛かったこともありますが(死亡後の数日間は葬儀などの対応で忙殺)、手続きのために年が明けてから計3日間ほど平日に会社を休み、市役所、銀行(銀行によっては、店舗がクローズされる15時以降でも、事前にお願いすれば対応していただけます)、JAなど、どこも一度では終わらずに、同じ窓口に何度も足を運ばなくてはなりませんでした。

 考えてみれば当然なのかもしれませんが、儀式も含め、「それまで存在していた人が居なくなる」ということは大変なことなのだと実感した次第です。      

2014/02/10

【告知】ブログ再開します
 おかげさまで父の四十九日法要も昨日無事終わり、ここで忌中明けとなりましたので、その間慎んでおりました本ブログを明日より再開させていただきます。それ以前に用意していた内容も含め、些か“薹が立った”話題もありますが、何卒ご容赦ください(そのため、2月中は間隔を早め一日おきに掲載いたします)。

 写真は、松本市役所の展望室からの松本城越しに仰ぐ冬の北アルプス。
“北アルプスの城下町”の象徴的な風景です(先日父の手続きに伺った際に、本庁舎6階の展望室へ上がってみると、残念ながら荷物置き場になっていました。ここは松本市の公式サイト上にある「アルプスと国宝松本城ライブカメラ」が設置されているほどの絶景ポイントで、市内で唯一、屋上から復元された太鼓門越しに天守閣と常念を中心とした北アルプスが望めるのですが、危険防止のためかドアも閉鎖されていて屋上へは出られず、窓越しでの撮影です)。

 常念岳を中心に凛として聳える峰々は、まさに岳都松本のシンボルでもあります。昔から、松本平の人たちは、辛い時や悲しい時も、疲れた時や苦しい時も、日々常念を望み、その雄姿に勇気付けられ頑張ってきたのでしょうか。
「負けずに、今年も頑張らなくっちゃ!」そんな声が聞こえてきそうです。

 遅れ馳せながら、今年一年の皆さまのご多幸を、ここ信州松本より謹んでお祈り申し上げます。皆さまにとりまして、どうか良い年になりますように。
本年もどうぞ宜しくお願いいたします。
                        カネヤマ果樹園一同+チロル&ナナ