カネヤマ果樹園 雑記帳<三代目のブログ>

 現在合唱が衰退している理由は必ずしも少子高齢化やコロナ禍だけではなく、他にも色々考えられるのではないかと思います。
例えば、昔から長野県は合唱が盛んな地域だったのですが、それが地元の松本のケースでいうと、初期の頃のサイトウキネン音楽祭での松本市内の小中学校の吹奏楽バンドの子供たちによる吹奏楽パレードでは、最後に松本城で行われる合同演奏で“あの世界のマエストロ”オザワさんの指揮で演奏が“出来る”ということが、それこそ子供たちの一生の思い出として、小中学校での吹奏楽人気を大いに盛り上げ、その結果小さな頃からピアノや才能教育でバイオリンに親しんだ子供も多い“楽都”松本の小中学校で、もし音楽系クラブに入るのなら「合唱よりも吹奏楽を!」という傾向になった様な気がします。
事実、嘗てはNコンの全国大会でも上位に入る長野県の小中学校もあったのですが、今では関東甲信越大会止まり。全国への出場校は小中校とも東京都の学校が殆ど独占しています(しかも全国大会でも金賞の常連で、その結果最近では特に小学校では毎年の様に+1校の増枠が関東甲信越ブロックに割り当てられているのにも関わらず・・・です)。
片や吹奏楽では、全国コンクールで金賞を取る中信地区の中学校や高校も(指導者次第ではありますが、その先生が異動するとその学校が)現れてきています。
 また全国的に見てみると、TVの影響も無視できません。
例えば、日本テレビの「笑ってこらえて」の中で「吹奏楽の旅」として、全日本吹奏楽コンクールへの挑戦する高校の吹奏楽部の練習模様が密着取材されて、“感動的な”ドキュメンタリー風に放送されていることも、“吹奏楽の甲子園”として人気に拍車を掛けた(その反動として、音楽愛好家である生徒たちの合唱への興味関心が結果的に薄れ、合唱部への入部が減った)様に感じています。
そして合唱事体でいうと、世の中に“アカペラブーム”を巻き起こしたと云われる、フジTVの“ハモネプ”と呼ばれる「青春アカペラ甲子園 全国ハモネプリーグ」の影響です。
事実、嘗て100名を超えていた大学の混声合唱団が現在は20名足らずとなっているのに対し、片や同じ大学のハモネプのサークルの団員は今や優に100名を超えているのだとか・・・。上手くいけばTVにも出て有名になれるかもしれないし、派手で今風の“カッコ良さげ”で何となく体育会系風の合唱団の様に厳しくは無さそうなのも、そうした人気の理由なのでしょうか?
私も昔TVで見たことがありますが、確かに中には感心する程上手いグループもありましたが、少人数故に個々人に掛かるウェイトが高く、また生演奏収録のためかメンバーのピッチが揃わず“ハモっていない”グループも多く、そんな合唱を聞かされると“虫ずが走る”様で気持ちが悪くてしょうがない。最後には我慢出来ずにスイッチを切ってしまいました(以来一度も見ていません)。
 それとは別に、Mrs. GREEN APPLEの「僕のこと」が後に学校の合唱コンクールやコーラス部(埼玉栄高校や神奈川県立湘南高等学校など)によって合唱バージョン(混声4部合唱など)に編曲されて、カバー・演奏されています。たまたまYouTubeでそれを見つけて「イイ曲だなぁ・・・」と思い、そこから更にYouTubeで「僕のこと」を歌っている「ミリオン再生合唱団」というグループの演奏に行きつきました。
このグループはYouTubeやTikTokなどのSNS・音楽プラットフォームでミリオン再生(100万回再生以上)を達成した、歌の上手いクリエイターやアーティストたち20人によって結成されているというグループ。そしてこのグループが歌っている動画から、フジTVの「オールスター合唱バトル」というスペシャル番組を知り、昨年の年末に放送された第7回をTVで初めて視聴しました。(以下、各々の紹介記事から写真を拝借しました)

一番感激したミリオン再生合唱団は、何よりメンバー一人一人が上手いし声質がイイ!しかも、弱音やハモるべきところはしっかりとお互いの声を聞き合って見事なハーモニーを響かせているのです。
正直、このミリオン再生合唱団を聴いたら、それまでなかなか良いと思ってYouTubeで何度か聞いていた、東京音楽大学(国内外の音楽コンクールの結果からも明らかですが、最近とみに評価を上げている音楽大学です)の、声楽、弦楽器、打楽器、ピアノ、作曲の各専攻の学生有志によって結成されている、歌と弦楽オーケストラによる楽団「J-POP CLASSIC CLUB TOKYO」も全く色褪せてしまいました。
そして何より「オールスター合唱バトル」をTVで視聴して感心したこと。それは番組内でも紹介されていた、裏方スタッフである合唱編曲者の方に依る、単なる4部ではない、何重にも和声が積み重ねられているコーラス部分の編曲が素晴らしいし、ミリオン再生合唱団に限らずですが、この合唱バトルに参加される素人では無い人たちが、皆かなりの時間を費やして練習を重ねて来たことが一目(耳?)瞭然で分かるのです。
そして最初の「僕のこと」を切っ掛けに、他の「愛をこめて花束を」や「浪漫飛行」などのミリオン再生合唱団の歌う楽曲もYouTubeで聴くことが出来ましたが、やはり生収録の「合唱バトル」では気になったハーモニーの多少の乱れも、さすがにYouTube用に録音し直されたバージョンでは完璧と言って良いレベルの仕上がりになっていました。
片や「合唱バトル」でその正反対で酷かったのは「オペラ合唱団」でした。一人一人は海外の有名歌劇場に所属する様な超一流の売れっ子ではないにしても、当然全員が音大声楽科の出身のプロのオペラ歌手でしょうから、一人一人の声が素晴らしいのは当然なのですが、これが合唱となると一人一人の単なる“目立ちたがり”の様な自己主張が強過ぎてハーモニーになっていないので、合唱としては酷過ぎるのです(ピッチではなく、各員の声質がハーモニーとして同調していないで、時にお互いの張り合う声が邪魔し合っている)。
むしろ歌の上手い芸人の人たちや元々地声の良い演歌歌手の皆さんの合唱の方が、“ハモろう”としてお互いの声をしっかりと意識し合っていて、合唱のハーモニーとしては余程素晴らしかったと思います。
採点結果は世の中の合唱コンクールと違って、“ハモネプ”同様に飽くまで民間放送のバラエティー番組ですからどうでも良いし、むしろ採点などしなくても良いくらいに感じました。
 因みに、興味を持ったこのミリオン再生合唱団の発声は、ゴスペルに代表される様なパワーコーラスというのだそうですが、頭声発声を意識するが余りかどうか分かりませんが、ややもすると喉を締め付けてしまって苦しそうに聞こえる発声や胸に籠ってしまう様な発声よりも、むしろのびのびとした発声に大いに心惹かれました。
今回そのミリオン再生合唱団の発声方法である地声でのパワーコーラスに興味を持ち調べてみると、明治以降日本の学校教育で推進されてきたであろう西洋化の中での学校音楽でいうと、学習指導要領及びその解説から平成23年には「頭声発声」(軽く頭に抜ける声)の言葉が消えたのだそうです。
地声での合唱と聞いて思い出したのは、最近ではあまり耳にしませんが、1970年代から80年代に良く聞いた「芸能山城組」です。
このグループはWikipediaに依ると『民族音楽を主題にした楽曲を発表している日本のアーティストグループ』という説明でしたが、発声のベースが地声でした。そしてその歌声は、シンガポール赴任時代に毎年旅行で行ったインドネシアのバリ島のケチャ(ケチャックダンス)を連想させました。
また、京都のお寺、例えば我が家の菩提寺の総本山である智恩院には京都に行く度にお詣りしており、御影堂での朝の法話にも参加したことがありますが、いつぞやは檀家さんの法要がちょうど営まれていて、そうした際の何十人ものお坊さんの読経を聞いていると、勿論お経にはメロディーがある訳では無いのですが、抑揚がある経文をそれぞれのお坊さんの低かったり少し高い地声が混ざり合うと、時に倍音が聞えて来る瞬間があり、ケチャもそうですが男声合唱を聞いている様な不思議な感覚になります(ですので、世間では退屈だという評判の葬儀の儀式も、仏式なら最低3人のお坊さんが読経されるので決して嫌いであありません)。

 果たして、地声発声でのパワーコーラスが小中学校の音楽教育に導入され得るのか、はたまたされているのか、そして進展するのかは素人である私には分かりませんし、パワーコーラスであれ頭声発声であれ、何よりも声が良い人たちがお互いをしっかりと聞き合えば良いハーモニーが出来るのだろうと思います。
しかし聴いていて感じたのは、少なくともYouTubeで聴くミリオン再生合唱団の合唱は決して地声で“がなりたてる”だけではなく、ハモるべきところはしっかりとハモっている。例えば弱音(PP)部分は普通の合唱同様にハモり合っていてとても美しい。ですので、個人的には今まで聞いたことのある地声だけ(?)のゴスペルコーラスとは何だか違う気がするのです。
私自身がパワーコーラスそのものを理解していないのですが、ただこの僅か20名たらずのミリオン再生合唱団の合唱を聞いて感じたのは、ハモネプよりも余程合唱としても素晴らしいし、個々人の歌唱も生きているし、何よりハモることの楽しさが聞いている方にまで伝わってくる気がして、大袈裟ではありますが、何だか衰退しているという近年の合唱界への一筋の光明を見つけた様な気さえしたのでありました。

 合唱界に多くの試練を与えたコロナ禍。私もそんな影響を松本で聴いた演奏会で実感していました。
それは、コロナ禍が明けた3年前に松本で行われた早慶グリークラブの演奏会でした。その時のブログ記事(第1757話)から抜粋します。

『大学の男声合唱団と云えば、ネット検索に依れば「最初1899年には日本で関西学院大学グリークラブが誕生、続いて同志社大学にもグリークラブが誕生し,1902年に慶応義塾大学ワグネルソサエティが結成され、おもに大学合唱団が中心になっていた。』とあるように、東京混声など歴史と伝統あるプロの合唱団もありますが、少なくとも私が学生の頃は、男声合唱ではマチュアである大学のグリークラブがトップ水準を誇っていて、100人近い団員を抱えた大学のグリークラブが幾つもあり、例えば当時発売されていた合唱曲の東芝EMIの「現代合唱曲シリーズ」のレコードでは、男声合唱曲は関学やワグネルなどのグリークラブが演奏を担当していました。そうした大学のグリークラブの出身のOBが、例えば早稲田からはボニージャックスが、そして慶應からはダークダックスが活躍するなどしたそんな全盛期も、それが現在ではそうした老舗の大学グリークラブも、例えばこの早稲田もワグネルも団員が今や僅か20人足らずという状況で、往年の全盛期を知る人間としては見る影もない程の寂しさでした。
当時は各パート20人以上もいたのが、今や5人ほど。そうした人数の減少が全体の声量も比例して減ってしまうのは当然のこと。早稲田はベースの低音部が良く、逆にワグネルはテナーの高音部が良かったので、合同ステージで合計40人になって漸く各パートのバランスも良くなり、何とか聞けるレベルになったでしょうか。それにしても、合同演奏では全員マスクをしながらの歌唱で、聴いている方も何だか息苦しく感じてしまう程。合唱に限りませんが、コロナ禍での音楽の演奏の大変さに同情を禁じ得ませんでした。』
 そんな“逆風”の中、合唱の素晴らしさ、そして何より“プロ合唱団”の凄さを実感した演奏会もありました。
それは2年前の2024年の12月に行われた東京混声合唱団(以下「東混」)の松本公演(第1959話)でした。同じく抜粋すると、
『今回の演奏会を「松本公演」と銘打ってある通り、この日の東混は全部で26名とほぼフルメンバーでの来演(コンマスのソプラノ松崎さんは所用か、姿が見えませんでしたが・・・)。さすがは全員が藝大声楽科を始めとする音大出のメンバーで、オペラのソリストも務められる様なプロの声楽家の皆さんですので、26名の声量はその人数の倍、否三倍以上のアマチュア合唱団のそれに匹敵します。しかし何と言っても一番の魅力は、その声量の豊かさではなく、むしろ最弱音のppp(ピアニッシシモ)です。響きの良いこの音文ホールの天井から、まさにハーモニーが静かに降り注いで来るかの如き美しさ。全員が絶対音感をお持ちの筈のプロの方々ですのでむしろ当たり前なのですが、学生時代に合唱をやっていた身からすると、途中からピアノが入って来ても全くピッチがずれていないのに何度も感動してしまいました。』
『続いての第二部が「東京混声合唱団が送るシアターピース」として、東混の1973年の委嘱作である柴田南雄の「追分節考」。まさに東混の十八番とも言って良い難曲で、一人一人がプロの声楽家である東混だからこそ歌える曲であり、殆どのアマチュア合唱団では演奏困難です(決して自分たちだけの自己満足ではなく、聴衆にチケット代金を払って聴いて貰える水準として演奏するのは・・・)。
(中略)今回初めて生での演奏を聴くことが出来ました。会場の通路を馬子に扮した男声陣が練り歩くかの様に歌うので、恐らく聴衆一人一人の席で聴く歌声の強弱が違うであろうこの曲の、会場で聴く生演奏の面白さと共にプロの合唱団の凄さを改めて実感した次第。』
 勿論、アマチュア合唱団とメンバー全員が音大の声楽科出身者で構成するプロの合唱団を比較するのはナンセンスかもしれません。
しかし、アマチュアの合唱団がプロの合唱団を凌駕する程の輝きを放っていた時代が間違いなくあったのです。そしてその一役を担っていたのが、大学の男声合唱団、グリークラブでした。そして大学を卒業した合唱愛好家が、社会人のアマチュア合唱団としてしのぎを削っていた頃がアマチュア合唱の全盛期であり、その頃製作されていたLPレコードが、そうした我が国のトップレベルのマチュア合唱団が演奏する「現代合唱曲シリーズ」だったのです。
勿論、全員が音大の声楽科卒のプロの合唱団とアマチュア合唱団では、一人一人の技量、特に声量は段違いです。でもそれを例えば東混は20数人ですが、全盛期のアマチュア合唱団は100名近い団員が全員でそれをカバーしていましたし、以前知り合いのマエストロが云われた、決して人数だけではなくマチュアだからこその強みとして、以前もご紹介した様に、
『「演奏会に向けた練習時間が長く取れ、全員が真摯に集中した時のアマオケの演奏は、ややもするとビジネスライクで無味乾燥的になりかねないプロオケの演奏を、時として凌ぐ」のです。(数年前に「えっ、アマオケを振られるんですか?」と怪訝/不遜な態度の私に、尊敬するマエストロが諭すように穏やかに言われた言葉を思い出し、猛省しながら噛み締めていました)』
もあるとは思います。
しかし、嘗て我が国の男声合唱界の頂点に君臨していた、当時の東西4大学のグリークラブ全盛期を実体験として知る者にとってのこの二つの演奏会は、現在のアマチュア合唱団が例え“練習時間が長く取れ、全員が真摯に集中”しても演奏レベルはこの程度なのかと、残念ながら現在のアマチュア合唱界の凋落ぶりを、残酷な程に殊更印象付けられたモノでしかなかったのです。

 7月中旬、大学時代のサークル(混声合唱団)の同期と後輩のメンバーが同期会を兼ねて松本へやって来てくれました。
私が不義理で京都などでの同期会へは一切行かないので、学生時代にサークルの夏合宿を毎年栂池で実施していたこともあり、彼らが久し振りに信州への旅行を兼ねてやって来てくれました。それに合わせて松本在住の先輩後輩も夜の飲み会と昼のランチにも合流してくれたので、久し振りの“松本OB会”も併せて実施することが出来ました。
 さて、その際に聞いてびっくりしたこと。それは、コロナ禍も手伝っての大学の合唱界への“逆風”でした。
我々の所属していた混声合唱団は現在団員が20名ほど。そして、全日本合唱コンクールで優勝(金賞受賞)したこともある男声合唱団はナント解散してしまったとのこと。憧れのグリークラブだっただけに、ショックで信じられませんでした。しかし、ミサや礼拝などで聖歌隊として定期的に奉唱するミッション系大学の合唱団を除くと、関西の有力大学の男声のグリークラブや混声合唱団は今どこも皆同じ様な状況なのだそうです。
 そんな現状とは対照的に我々の学生時代を過ごした1970年代後半は、アマチュア合唱の全盛期と言っても決して過言では無かったと思います。

事実、男声合唱では関学や同志社、早稲田や慶應といった東西の大学のグリークラブが我が国の合唱界の頂点でしたし、混声でも社会人のアマチュア合唱団(「京都エコー」など当時の有力なアマチュア合唱団から選抜されて結成された、架空の“日本アカデミー合唱団”)が歌って東芝EMIの「現代合唱曲シリーズ」のLPレコードが当時発売されていました(手持ちのLPの中の「現代合唱曲シリーズ」。混声合唱組曲「水のいのち」と「岬の墓」で「筑後川」も収録)。そのシリーズの中の男声合唱の曲は、その多くが東西有力大学のグリークラブの演奏でした(同じく「現代合唱曲シリーズ」がその後「合唱名曲コレクション」としてCDで再版された中の、男声合唱の「雪明りの路」で「富士山」、「在りし日の歌」、「冬の日の記憶」が収録されていて、合唱は関学グリー、日本アカデミー合唱団、同志社グリーです)。
 その“逆風”の原因には、現代社会の少子高齢化の影響もありましょう。また趣味的サークルというより体育系に近い合唱団という性格が、現代の若者気質には段々馴染めなくなってきているのかもしれません。
私の頃の学生時代、各大学の合唱団は混声も同声も皆100人近い団員を有していました。それが次第に減少し、そして決定的にダメージを与えたのがコロナ禍だったと言います。
集団で密になること、口を開けて大きな声で歌うこと・・・。合唱練習での当然の営みが、「密を避ける」、「飛沫感染を防ぐ」というコロナの感染対策に逆行し、中にはコロナそのものの感染源として疑われたケースもあったそうです。
そんな中で合唱を続けるために、プロからアマチュアの合唱団まで、合唱界では実に様々な努力がなされていました。
コロナ禍の当時の合唱界では、練習や演奏会の大幅な自粛、マスク着用の義務化、ソーシャルディスタンスの確保など、多大なる制限と向き合うために、全日本合唱連盟などが示した指針やガイドラインに基づき、前後左右の十分な間隔(前後約2m・左右約1m)の確保や、飛沫防止用マスク・フェイスシールドの着用が行われ、学校や合唱団ではオンラインでのリモート合唱(動画の組み合わせ)の導入など、昔合唱に携わったことがある人間からすると(あんなフェイスガードを付けたら、歌いながらの息継ぎはぞ苦しかろうと)正視するのがつら過ぎる様な、涙ぐましい努力がされていたことを思い出します。
因みに、そんなコロナ禍当時の状況を、例えばプロの合唱団である東京混声や東京藝大の声楽科の皆さんなどのリモート合唱を、当時配信されたYouTubeで今でも視ることができます。

 そんな最近の合唱界について、全くのど素人ながら最近感じていたことも含めて、少し考えてみたいと思います。

 今年のOMF、セイジ・オザワ松本フェスティバル。
知り合いから、「オーケストラコンサートのチケットがダブってしまったので、聴きに行かないか」と誘っていただきました。
そのコンサートはオーケストラコンサートのBプロで、客演のフランソワ=グザヴィエ・ロトの指揮するブルックナーの交響曲第8番ハ短調WAB 108(ハース版)。80分以上にも及ぶある意味“超”大作で、ブルックナーの交響曲の中での最高傑作と評されています。演奏は勿論サイトウ・キネン・オーケストラ(SKO)です。
しかし、個人的にはブルックナーは苦手。例えば交響曲のジャンルで言えば、子供の頃に先ずは俗に三大交響曲と云われる“運命”、“未完成”、“新世界”に始まり、大好きなブラームスやシベリウス、そしてチャイコフスキーやシューマン、シューベルト、やがてマーラー・・・と次第にその範囲を拡げて聴いて来ても、ブルックナーには殆ど手を(耳を)出しませんでした。せいぜい、手持ちのLPやCDの中にも“ロマンチック”と7番がある程度。ましてや、これまで生演奏でブルックナーは一度も聴いたことはありませんし、今までは正直聴こうとも思いませんでした。
ただ、宗教曲の傑作テ・デウムだけは何度かCD等で聴いています。大地から湧きあがる様な荘厳な合唱の響き。特に終曲のフーガはベートーヴェンの“第九”の第4楽章のそれを彷彿とさせます。
ですので、ウィーンの教会オルガニストだったという彼の経歴もあって、個人的にはブルックナーの音楽はキリスト教と切っても切れない関係があり、だからクリスチャンでない自分には(何となくその表題だけで世俗的に感じられる4番以外は)彼の交響曲の根底にあるであろう、その精神性をどうしても理解出来ないのだと勝手に思っていました。

 そんな中で頂いた、ブルックナーの8番のコンサートチケットでした。
80分を超える大作ですが4楽章形式ですので休憩は無く、全曲通して演奏されます。そして、この日のプログラムはこの1曲のみ。指揮者のロトはフランス人の指揮者でドイツの楽団で研鑽を積み、問題行動で解任騒ぎも過去にはあった様ですが、カリスマ性を備えた指揮者だという評価。
演奏が始まっての感想。それはSKOの巧さとパワーでしょうか。16型の対抗配置で並んだ弦楽器群の奏でる、これが日本のオケかと思える様な(しかも結構女性奏者もいるのに)パワーに満ち溢れた圧倒的な迫力。今年もいつもの様にコンマスの席には豊島さんが、そしてその隣には矢部さんが座っていましたが、既に結成以来代替わりもしていて、若いメンバーも結構加わっているので、嘗ての様な斎藤英雄氏の指導で阿吽の呼吸で併せられるという、“弦の桐朋”出身のメンバーばかりでは無い筈です。そして、嘗てはマエストロ“世界のオザワ”の呼び掛けで集まった、手兵のBSOメンバー中心に世界中の腕利きばかりだった管楽器群も、夏のオフシーズンとはいえメンバーも変わっている筈です。
そして8本という指定のホルンは勿論ですが、金管楽器群の煌びやかさと門管楽器群のベルベットの様な柔らかさに、「本当に巧いなぁ・・・」と溜息しか出ませんでした。
 ただ、個人的に勝手なイメージとしてのブルックナーのシンフォニー。
教会のオルガニストらしい、神への信仰の元に何重にも重ね合わされたパイプオルガンの様な重厚なハーモニー・・・。それは、多分にブルックナーの指揮者と言えば、浮かんで来るのはギュンター・ヴァントやチェリビダッケ、そして日本ではマタチッチと朝比奈隆といったマエストロ達から受ける印象も重なっての、ある意味先入観も多分にあるのかもしれませんが・・・。
しかし、この日のロトの指揮から紡ぎ出される音楽は、宗教感や精神性ではなく、むしろフランス音楽的なミュンシュ、マルティノンに代表される様な鮮やかな色彩感・・・でした。しかもテンポも速い。それが上述のマエストロたちのブルックナーの様な重厚感を感じさせない理由だったのかもしれません。
確かにオケも巧い、演奏は鮮やかというか煌びやかで華やか・・・・。
初めて生で聴くブルックナーではあったのですが、「ウーン、そうか、これがブルックナーの8番なのか・・・?」。
唯一、指揮者の意思、意図が感じられたのは、最後終わった後に30秒近くタクトをそのままで降ろさなかったこと。我々聴衆も誰一人“フライング・ブラヴォー”を叫ぶ輩も無く、その指揮者のタクトが降ろされるのを、ホールの全員が息を潜めてじっと待っていた、まるで息苦しくさえ感じられた“永遠”の30秒間だったでしょうか。
やがてタクトが静かに下ろされると、客席からはブラヴォーの嵐! 
 「フーン、そうなんだ。これが心酔する“ブルックナー・マニア”が評価する“ブル8”なのか?・・・」
 余談ですが、最近では(多分コロナ禍以降?)サントリーホールなどでの海外からの有名オケや松本でのN響のコンサートでも、ちゃんと事前アナウンスも含め認められていたカーテンコール中の写真撮影。どうしてOMFではOKにしないのだろう。
しかも、マエストロ・オザワ亡き後、止むを得ないとも思いますし、チケットが海外の有名オケ並みにまで高騰してしまったことも影響しているのかもしれませんが、嘗てテント村が出現するのが恒例だったメインのオーケストラコンサートですが、今やチケットが売れ残っているという現実も含め、例年通りの最後に県花リンドウをオケメンバーがステージ前のお客さんに渡すだけでなく、もっと聴衆フレンドリーであっても良いのに・・・。そんな疑問を感じて、多少モヤモヤしながら会場の県文(キッセイ文化ホール)を後にしました。
蛇足ではありますが、チケットを譲って頂いた方にそれ相応のお礼をさせてお頂いたのは勿論言うまでもありません。

 12月に購入した二代目のメリタのコーヒーメーカー、ノアプラス。
後継モデルのノアプラスは保温機能のステンレスポットの蓋の部分が改良されました。その際、第2050話でご紹介した通り、

『メリタのコーヒーメーカーは、ノアプラスという製品で2021年に発売されたモデルですので最新ではありませんが現行モデルで、価格帯的に見ると、今まで使っていたメリタの機種の後継モデルの筈。勿論ペーパーフィルター方式で、容量が700mlでカップ2~5杯分。ポットは保温性に優れたステンレス製の真空二重構造。カルキ除去機能はありませんが、新たに蒸らし機能が付いていて、何よりもワンタッチ式の蓋に改善されて液漏れがしにくく、また蓋を分解して内部を掃除することが可能なので、前回の様な蓋の内部にコーヒー滓が詰まることを防げることが一番のポイントです。
今まで10年間使っていたメリタの旧モデルは、ポットは同じステンレス製なので保温性はあったのですが、フィルター部分はプラスチックだったのが、新しいモデルではこちらも外側がステンレス製に変更されています。
最大の改善点の蓋の部分。内部が分解出来て洗えるようになったのが耐久性の面でも一番のポイントかもしれませんが、蓋がこれまでは回して嵌める方式で結構力尽くで締めなければならず、また注ぎ口のゴムのパッキンの装着も何となく調整が微妙で、質実剛健ながら高品質な機能性といったドイツ製品のイメージからすると、10年持ったのですから確かに耐久性はともかくとして、造作は意外に大雑把で“原始的”に感じていたのですが、さすがに今回は10年も経っているので、新モデルはかなり改善されてスマートになっている点が個人的には一番のメリットだと感じています。』
・・・の筈だったのですが、最初からだったかどうか記憶が定かではないのですが、初期の頃から蓋のプラスチック部分とステンレスの結合部分から液漏れがするのです。
 そこで、メリタの「お客様相談室」宛に状況を記載して問い合わせをしたところ、すぐに次の様な回答がありました(写真も撮ったのですが、相談室宛てのメールは文章だけで写真添付は出来ませんでした)。
『ポットからの液だれについて
 ポットには仕様上つなぎ目(溝)がございますが、この溝はポットの内部とは連結しておりません。
 このため、内部のコーヒーが隙間から漏れることは、通常は構造上発生致しません。
 ポットを傾けたときにポット本体を伝って流れたコーヒーや、洗った際のお水がポットの溝に溜まると、
 次にご使用になられたときに、透明の液体やコーヒー色の液体が隙間から漏れてくることがございます。
 ポットを洗浄後に、縦に伏せず、横に寝かせて水を切っていただくことで解消される場合がございます。
 洗浄後、横に寝かせて乾燥後、内部に残った水分を拭き上げてのご使用をお試しくださいませ。
 不具合や劣化により漏れてくることも考えられますが、お問合せのお客様の多くがこちらで解決するケースでございますので、ぜひ一度ご確認ください。
 なお、お取扱説明書にも記載のございます通り、すすぐ際、ポットの外装に水をかけて洗ったり、ポット本体をお水に浸す(洗いタライにつけるなど)は避けていただきます様お願い申し上げます。
 ポットのステンレスとプラスチックの隙間にお水が浸水してしまいますと、上記の症状が出ることがございます。 
■ポット蓋裏のパッキンについて
 ポットの蓋の裏にはパッキンがついておりますが、以下の場合、コーヒーがポット内に適切に入らずに蓋から漏れてくることがございます。
 ・パッキンの表裏が逆になっている
 ・パッキンが装着されていない(紛失している)
 ・パッキンが軸からずれている等、しっかりと装着されていない
 ・パッキンが劣化や食洗器、ハイター、熱湯等の使用で硬化している。
パッキンの装着手順や、ご使用上のご注意点につきましては、付属の取扱説明書にてご確認をお願いいたします。
■ポットの装着について
誠に恐れ入りますが、SKT-55(ノアプラス)は、「ポットを最後に」装着いただくのが正しい手順です。
弊社のコーヒーメーカーは、ポットの蓋が、内部フィルターのしずく漏れ防止弁を押し上げて、弁が開きコーヒーが落ちる仕組みです。
このため、ポットが本体にセット(最初から置いてある)された状態で内部フィルターを装着/粉を入れるなどを行うと、弁の開閉が正しく行われず、ポットを外したときにコーヒーが垂れてくることがございます。
ポットは「内部フィルターをセット、粉をいれた後、最後に」本体にセットしてください。
(作り始める前に、必ず先に一度、本体からポットを外してください。内部フィルターをセットし、ペーパーを敷いて粉をいれた後、一番最後にポットを本体に置いてお試しくださいませ)
なお、ポットは通常、開封直後(購入日から7日以内)の初期不良等を除き、ご購入から1年以内の場合でもメーカー保証の対象外でございます。
お手数をおかけいたしますが、まずは、上記の点についてご確認をお願いいたします。』
 説明にある通り『開封直後(購入日から7日以内)の初期不良等を除き、ご購入から1年以内の場合でもメーカー保証の対象外』とのことですので、最初から液漏れ状態が続いていたとはいえ、既にもう半年近くも経っていますし、最初からだったというその状態を証明することも出来ません。
ただ、不満を感じていた先代モデルの蓋の部分がこの二代目で改善されたと評価していただけに、もしこうした状況が発生しているとすれば、メーカーに勤務していた身からすると大いに気になるところですので、念のため回答メールに
その液漏れ状態の写真を添付してお送りしましたが、その後“なしの礫”で
一ヶ月以上経ったので、再度「お客様相談室」宛てにその旨連絡したところ、回答メールは送信専用で、そのメールへは返信不能とのこと。
そこで今回ご案内いただいたメール送信先に再度写真を添付してお送りしたとこと、すぐに回答があり、
『以前ご案内した①ポットを横に寝かせて水切り、②ポット蓋裏パッキンの向き確認、③ポットの装着タイミングをご確認いただいても改善なく、添付画像の状態になるということでしたら通常の状態ではないため、ポット現品を弊社にお送りいただき、点検をさせていただけませんでしょうか』
とのこと。
しかし、その①~③のどの状態でも無かったので、もしダメなら新たにポットだけ買い替えたい旨を記載して、案内頂いたテクニカルセンターへお送りしました。すると送付した翌々日に返送されて来たのです。
送付先のメリタのテクニカルセンターは千葉県の柏でしたので、輸送時間を考えると、到着したその日の内に即チェック、状態を見極め、即断即決でその日の内に返送されたことになります。
しかも開封してビックリ!送られて来たのは修理品ではなく、全くの新品でした。まさか新品に交換してくださったとは・・・!?
というのも、購入から半年以上も経っており、『開封直後(購入日から7日以内)の初期不良等を除き、ご購入から1年以内の場合でもメーカー保証の対象外』という条件もあり、仮に初期不良だったとしても、7日以内の初期不良を証明する術が購入側に無かっただけに予想外でした。もしかすると、修理のプロが見れば一目瞭然で、初期不良だと認識が出来たのかもしれません。しかしそうは言っても、ユーザーからすると今回の対応には感謝しかありませんでした。
早速、お客様相談室宛てに迅速な対応と思いがけぬ新品への交換のお礼の言葉と、担当頂いて丁寧なお詫びの文書(それが例え定型文だとしても)まで一緒に送ってくださった、今回の修理担当の方への感謝の伝言も併せてお送りしました。
 正直、個人的には交換を期待したというより、修理して貰えればそれで良かったのと、何より製造段階の不良であれば製造現場へのフィードバックが今後の改善への参考になるだろうという、メーカー出身者の思いもあったのですが、予想以上の迅速かつ丁寧な対応を頂き、今回のメリタジャパンの姿勢を大いに感謝した次第です。
ありがとうございました。 “ Well Done!Melitta.”
【追記】
交換いただいたポット。驚く程の全くの別物で、液漏れが全然しないのはいうまでもありません。

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