カネヤマ果樹園 雑記帳<三代目のブログ>

 昨年次女の二人目の出産や母の葬儀などもあって、夏以降二度キャンセルせざるを得なかった軽井沢へリベンジに出掛けました。
いつもの追分のドッグヴィラに二泊して、今回は奥さまの目的であるアウトレットで毎日“買い物三昧”です(・・・と言うか、もうスキーもしないので他にすることがありません)。
当然ですが私メも一緒に買い物について行こうとすると、それではゆっくり買い物が出来ないとのこと。
そこで止む無く、独りで買い物をしたいという奥さまとは別れ、私メは特に買いたいモノも無いので、久し振りに旧軽を歩いてみることにしました。
そして、昔万平ホテルからの帰り道で偶然入ったことがあって、とても気に入った喫茶店「ピコ」にもまた行ってみようと思います。

 駅前通りを歩いてロータリーを超え、旧軽、軽井沢銀座通りへ向かいます。
避暑地である軽井沢は、それこそ“東京都軽井沢町”と揶揄される程、夏は原宿の様な感じで、別送族よりもむしろ若い人たちでごった返していますが、さすがにこの時期は閑散としています。
アウトレットも初売りが終わり、冬のバーゲンも2月10日前後にならないと始まらないそうなので、この1月末の軽井沢が一番空いている時期だとか。せいぜい歩いているのは、アウトレットでの爆買い目当てで来たであろうインバウンドの外国人観光客。それも大声で話している中国語や韓国語のグループや家族連れが目立ちます。
 江戸時代の中山道。“沓掛時次郎”で知られる隣の沓掛宿(現中軽井沢)や、全国の追分節のルーツとなったその次の追分宿程有名ではありませんが、軽井沢にも日本橋から数えて18番目の宿場が置かれ、中山道随一の難所であった碓氷峠を越えて、或いは超える前に軽井沢宿で一服する旅人の多くが利用したという、江戸時代に休泊茶屋だった旅籠鶴屋に始まるという老舗の「つるや旅館」。
そして明治に入って軽井沢が避暑地になってからは、多くの文人等で賑わう中で堀辰雄もここに投宿し、軽井沢が舞台の小説「美しい村」を書いたと謂います。そしてその滞在中に、後の「風立ちぬ」のヒロインのモデルとなった“黄色い麦わら帽子を被った”彼女に出会ったとも・・・。
 軽井沢銀座通り商店街の端、そのつるや旅館のすぐ隣に、如何にも軽井沢らしい、苔むした木立の広い庭がとても印象的な「クレソン・リバーサイド・ストーリー」という素敵なレストランがありました。
何でも昔三陽商会の保養所だった場所に最近オープンしたという、外観からも分かる木の温もりが活かされた素敵な建物です。残念ながら、12月から4月までは冬期休業中とのこと。新緑の木々に囲まれた季節は、さぞ素敵だろうと思いました。
 そこから旧軽銀座通りを離れ、有名な町営テニスコートの横を通って、「軽井沢ユニオンチャーチ」へ。
ここは明治30年に創設され、別荘に住む外国人・宣教師たちに愛されてきた歴史ある教会だそうです。今の建物は、創設後ヴォーリズの設計により建て替えられた木造の教会で、窓から差し込む光と白樺の木をクロスさせた正面中央の十字架が素朴で美しく、誰もおられませんでしたが、教会内部は自由に見学も出来、質素な木の長椅子に腰掛けて思いを巡らします。
静かで厳かな、でも暖かな雰囲気の中、まだクリスマスの飾り付けが残されていてとても素敵な雰囲気でした。勿論自身はキリスト教徒ではありませんが、京都での学生時代に、大学の合唱団の他にも属していたルネサンス時代の宗教曲を中心に演奏していた室内合唱団で、モテットやミサ曲、マドリガルなども歌った身としては教会音楽には親近感もあり、自然と祈りの気分になります。教会のベンチに座って、白い冬にこの教会で聴く讃美歌もきっと素敵だろうと思います。
ご存知の様に、明治期に軽井沢が避暑地として有名になる第一歩を記したA・C・ショー師が宣教師として赴任して来て以来、ここユニオンチャーチの他にも歴史ある教会が幾つも木立の中に溶け込む様に佇んでいて、賑わいの夏の観光地軽井沢とはまた違った、静かで凛とした雰囲気を醸し出しています。
 そこから更に万平ホテルへの通りへ出て、この辺りだろうと周辺を歩き回って、昔万平ホテルからの帰りに偶然見つけて入った素敵な喫茶店を探したのですが、残念ながらどうしても見つけることが出来ませんでした。
その喫茶店は「ピコ」という名前の通り小さなお店で、訪れたのは実に15年も前だった様ですが、恐縮ながら当時のブログ記事(第129話)から抜粋すると、
『管球アンプとアルテックA5(の他にElectro-Voiceが一対)での音楽が静かに流れるこじんまりした喫茶店で、ご夫婦で経営されていて観光客というより地元の方々の「憩いの場」という感じでした。
壁にはジョン・レノンの版画が飾られていて、奥様曰く、今までそこに座って音楽を聴かれていれたご婦人は、息子さんがショーン君と幼馴染とのこと。
喫茶店の庭にはテラス席もあり、夏は犬連れのお客さんで一杯になるとか。奥さまの仰るには、「アスファルトが熱いからワンちゃん達が可哀想で、いつもサービスで水をあげると、あっという間に飲み干しちゃう」のだそうです。
そして、冬の軽井沢はそれまでの喧騒が嘘のように消え、庭先に鹿や猪(時にはウリ坊を連れて)が散歩にくるのだとか。
 そして、マスターが戻られての会話。
元々はメーカーの無線技術者で、以前はアマチュア無線の雑誌の「CQ」にも執筆していたそうで、引退後の今は、喫茶店経営の傍ら管球アンプの自作や修理を頼まれるとかで、暫しオーディオ談義。近くのブティックにも連れて行かれ、自作のアンプを聴かせてもらいました。』
当時のオーナご夫妻のお歳から拝察すると、もう既にリタイアされたのかもしれません。とても居心地の良い素敵な喫茶店だったのですが、15年という時の流れには逆らえず、残念ながら再会は叶いませんでした。でも・・・、
 「あのオーディオたちは、今もどこかで元気に活躍してるんだろうな、きっと!」
 その後、せっかくなので暇に任せて矢ヶ崎公園の大賀ホールまで行ってみました。
今後の演奏会予定を見たかったのですが、軽井沢での演奏会シーズンは世間とは逆で、Xmasシーズンを除けば別荘族が戻る冬はオフシーズンなのか、1月から3月までの間には、地元のアマチュア団体以外に殆どめぼしい演奏会予定はありませんでした。
一昨年、驚くべきことにクリスマス恒例のBCJのメサイアが、いつもの軽井沢ではなく(そのため軽井沢のBCJのメサイアは例年より10日以上も早く、且つソリストなどメンバーも変えて行われました)松本の音文(ハーモニーホール)であったのですが、昨年はまた大賀ホールに戻りました(但し、「イブは必ずサントリーホールで」が、毎年の恒例)。
ですので、いつものドッグヴィラに泊まって、いつか必ず軽井沢でBCJのメサイアを聞いてみたいと思います。但し、唯一の懸念は、松本から軽井沢までの峠の雪道の運転だけなのですが・・・。
 しかし暖冬の今季は、大賀ホールの在る矢ヶ崎公園の池は全面結氷しておらず、また周囲にも1月末というのに全く雪も無く、信州でも寒いエリアの軽井沢でこうなのですから、ましてや諏訪湖で御神渡が見られる筈も無い・・・などと思いながら、アウトレットでの家内とのランチに合流すべく、軽井沢のシンボル(多分)の台形の離山と、その背後の雄大な浅間山を見ながら大賀ホールを後にしました。
【注記】
因みに、2月上旬に渡米する長女を羽田で見送って、東京から帰って来た6日は降雪の影響で中央東線のあずさが昼過ぎまで運休したため、止む無く北陸新幹線の長野経由で戻ったのですが、通過した軽井沢駅周辺は一週間前とは一変し、20㎝を超える雪で真っ白の銀世界でした。
むしろ、これが本来の冬の軽井沢の姿なのかもしれませんが・・・。

 母の食欲が落ちて微熱がある・・・。

 本来は連絡のあったその翌日から、半年以上前から予約してあった、4年ぶりとなる那須へ3泊四日で旅行へ行く予定でした。そして、今回もその滞在中に既に紅葉が始まっているであろう那須岳(茶臼岳)登山を計画していました。
いつもなら、事前に観光スポットやグルメ情報などをキメ細かくチェックするのですが、今回は“虫の知らせ”か何となく気が乗らず、前回一度行っていることもあって、「ペニーレインとか、また行けばイイや!」と殆ど調べていませんでした。しかも、直前になって列島に寒気が南下して、信州の北アルプスでも登山者の遭難が多発しましたが、那須連山の朝日岳でも70代の高齢者4人が遭難し低体温症で死亡するなどしたことも、(同じシルバーエイジの登山者として)何となく気が進まない理由だったかもしれません。
(因みに、二人目を出産した次女の所に“家政婦”として直前まで手伝いに行っていた家内が、朝日岳での遭難のニュースで、この後全く同じ場所に行く予定だと言ったら、「冗談じゃない!」と叱られたとか。因みに、登山口から1時間ほど登った峰の茶屋の非難小屋から右に行けばその朝日岳、左に行けば通称那須岳とも呼ばれる那須連山の主峰茶臼岳です。普段なら“百名山”とはいえ、小学生でも登れる山なのですが・・・)
それが、直前になっての冒頭に記した母の容態変化もあって、家内が「行くの・・・、ヤメようヨ!?」
因みに施設の担当医師や看護師の方々の意見もふまえて今後の介護計画をスタッフの方々と話し合うなど、直ぐにどうこうではなく、その時点での母の状態は安定していたのですが、そうは言っても万が一を考えて断念。
そこで那須旅行とは比べるべくもありませんが、前から久しぶりの那須行(思えば4年前の前回は、その時点で掛かり付けの獣医師から余命宣告をされ、先生からは何かあったらすぐに連絡を取り合うことを約束しての、ナナとの最後の“思い出作り“のつもりの旅行だったのです。因みに、その後コユキが来てくれて、ナナは先生も驚く回復で更に4年生き長らえてくれましたが・・・)を楽しみにしていた家内への多少の罪滅ぼしになればと、せめて半日だけも秋の恒例でもある小布施に行って、「桜井甘精堂」の洋菓子部門「栗の木テラス」で新栗モンブランを食べて来ることにしました。
(因みに、小布施滞在中でしたが、母の様子を心配して電話して来た長女が、我々が小布施に居ると知って、一瞬絶句していたとか・・・)

          (小布施の街中で見つけた“小さな秋”)
 松本からは小布施へは小布施SAのスマートICで下道に降りられるので、ゆっくり走っても片道1時間ちょっとでしょうか。8時半前に家を出て、予定通り10時開店の30分前に到着。先に記帳する家内を降ろし、私メはコユキを連れて、店舗から徒歩2分というすぐ近くの桜井甘精堂の有料駐車場へ(店舗で2000円以上購入すると、2時間無料になります。因みに、昨年は長女と家内が本店でお菓子を買ったら、そのまま車を停めて置いてOKとのことでしたので、お言葉に甘えて本店の駐車場に停めたままで「栗の木テラス」に食べに行きました)。
すると、家内が戻って来て6番目だったとのこと。店内に10卓程テーブル席がある筈ですので、それなら間違いなく一巡目で食べられそうです。こちらではポットで紅茶がサーブされるので(コーヒーもです!)、どのお客さんも食べ(飲み?)終って離席するのに小一時間は優に要します。
 それまでコユキを連れて近くを散歩。桜井甘精堂の喫茶室もですが、ワンコは入れないので、我々が食べている間は可哀想ですがコユキは車でお留守番です(真夏では無いので、車中でも大丈夫)。
松本も然りですが、町自身が“ Dog friendly ”を掲げる軽井沢以外は、ここ小布施もワンコ連れで入れるお店は殆どありません(信州のみならず、京都も那須も伊豆も、軽井沢以外はどこも似たようなモノ・・・です)。
少子高齢化時代で我々の様なワンコ連れの年寄りが増える中、観光的には如何にそうした客を呼び込むかがカギだと思うのですが、一見さんのインバウンド需要を取り込む方が(稼ぐには)手っ取り早いのでしょうか?
 時間になり、行列は20人を越えました。客層は、我々の様なシニアのカップルか年配の女性グループ客が殆どです。それにしても、平日なのに小布施の集客力には驚きます。長野県内で一番面積が小さくて人口密度の高い町が、この小布施です。
順番に名前を呼ばれて一巡目で着席。どのお客さんもですが、我々もこの時期の目玉の新栗のモンブラン(520円)。そして奥さまが紅茶のウバ、私メはコーヒー。どちらも600円ほど(紅茶の種類によっては800円位まで)ですが、それぞれポットに入っていて、コーヒーも優に3杯注げましたので、むしろ安くてお得だと思います。
近くの小布施堂の栗の点心「朱雀」は相変わらずの人気の様で、現在はオンライン予約のみとのこと。ただ、我々は10年前に一度食したのですが、正直「もうイイね・・・」となり、それ以降は小布施で栗菓子では一番の老舗である桜井甘精堂の小ぶりの洋菓子のモンブランの方が好みで、この新栗の時期に何度か食べに来ています。

長女が一緒だった昨年は、彼女のリクエストで小布施ワインに行って婿殿用に何本か購入したり、久し振りの中島千波美術館も拝観に行ったりしたのですが、今回はドライブも兼ねてコユキも一緒なのでワンコ連れでは行く所も無く、少し散歩をしてから事前に確認してあった、唯一テラス席でワンコ連れでも食べられるというお蕎麦屋さん「富蔵屋」に事前に記帳をしての順番待ちで、蕎麦でのランチです。そのテラス席(といっても木製のテラスではなく、店舗前の道路端に置かれたテーブル席が二つと店舗沿いに片面の長テーブル席があるだけでしたが、ワンコ連れで食べられるだけまだマシでしょうか・・・。
H/P上はもっとたくさんメニューがあったのですが、コロナ禍故か、選択肢も少なくなっていて、奥さまが「田舎三味おはぎ御膳」(2400円位でした)で、クルミとゴマのおはぎが付いた、くるみだれ・辛味大根・とろろの三種類のそばつゆの蕎麦。私は田舎そばの大盛り(2200円位だったか)にしました。田舎そばは、そばの実を殻付きのまま丸ごと挽いた所謂“挽きぐるみ”で、黒っぽい蕎麦。個人的には、どちらかというと更科よりは昔ながらの田舎の方が好みでしょうか。
どちらも量はたっぷりですし、三昧には薬味に辛味大根も付いていたので私メが薬味に頂いたのですが、蕎麦の味は新そば前ですし、蕎麦処の信州なら並みレベルかな・・・。ただ値段が大盛りで2000円超えは、多少観光地価格かもしれません。
 テラス席には、首都圏から来られたという、やはりミニチュアピンシャー連れの我々より年配のご夫婦がおられ、“ワンコ連れ同士”で暫し犬談義です。軽井沢に前泊して来られたそうで、やはりワンコ連れOKの店を探してこちらに辿り着いたとのこと。我々が地元の松本と知り、信州の観光のことも色々聞かれたのですが、
 「スイマセン。軽井沢は本当に特別で、信州でドッグフレンドリーな処は残念ながら他には余り無いんです。」

 ランチを済ませてからの帰路、小布施SAにも隣接している道の駅に立ち寄り、SAのスマートICから高速に乗って松本へ戻り、母の様子を確認してから帰宅しました。

 都道府県対抗となるスポーツ大会の中で長野県選抜や代表校がトップ争いを出来る競技は、ウィンタースポーツを除けば残念ながらそう多くはありません。勿論、個人競技では時々世界のトップクラスの選手が誕生するのはどの県でもあり得ることですが、ことチームスポーツになるとそうはいきません。そこには競技環境であったり、指導者であったり、歴史や伝統といった色々な要素が必要になります。
長野県において、そんな数少ない競技の一つが駅伝です。元々、地区対抗の実に71回を数える長野県縦断駅伝が戦後間もない1952年から戦後復興のため「若者たちの体力と精神力を養う」ことを目的に開催されていて、今では信州における晩秋の風物詩。過去そうした中からマラソンでのオリンピック選手(伊藤国光、中山竹通)も誕生しています。今では中学生からの男女混合で、近隣市町村同士のチームが編成されています。
そうした土壌があったにせよ、駅伝の強豪県として対抗出来るようになったのは、やはり男子チームの佐久長聖高校の存在が大きいと思います。

 都道府県対抗駅伝は1983年に京都で始まった女子駅伝に比べ男子の歴史は新しく、1996年から広島で開催されていますが、長野県チームが初優勝したのは2004年です。この年は佐久長聖のエース上野裕一郎選手が活躍。以降、長野県は3連覇を含め、全国でダントツの9回の優勝を誇ります。続くのは兵庫の5回。これは何を意味しているか?広島は第1回大会優勝のみ。宮城、岡山に至ってはゼロ。何を言いたいのか・・・?
この都道府県対抗駅伝は、日本国籍の無い留学生選手は出場出来ません。従って、日本人選手のみでの実力勝負。しかも全7区中3人を占める高校生区間(残りは中学生2名、大学・社会人2名)が最重要になるため、高校駅伝の“都大路”での強豪校がある都道府県が優勝候補になるのですが、それが留学生に頼った優勝校だと都道府県対抗では全く効力が発揮できないのです。先述の嘗て“神の領域”云々と自画自賛した高校のある県が全く優勝していないのはそうした背景です。一方で兵庫県が強いのは、留学生ランナーが登場した以降様相は一変しましたが、それまでは西脇工業VS報徳学園の熾烈な県代表争いで“兵庫を制する者は全国を制す”とまで言われていたからです。
片や長野が強いのは、確かにゼロから佐久長聖を強豪校に育て上げた両角前監督(茅野市出身。東海大三高卒で現東海大駅伝部監督)と、その指導を引き継いだ教え子の高見澤現監督(木曽郡大桑村出身)の力が大きいのですが、各地の指導者が連携して小学生の頃から素質のある子供たちの発掘や強化に取り組み、そんな子供たちを佐久長聖に送り込んで来たからです。実業団チームの無い長野県ですので、地元の高校出身の大学生や“ふるさと選手”枠の社会人選手しか選べません。勢い、地元選手を育てるしかないのです。
そうした長野県の状況は女子も同様ですが、私立校である佐久長聖の男子に比べ女子は長い間活躍出来ずにいました。それが、公立高校でありながら県立長野東が長野県の高校教員だった玉城前監督(現日体大男子駅伝部監督)の長年に亘る一貫した指導(長野東の前任校である諏訪実も県内の実力校に育てました)で力をつけ、これまた県内から有望な子供たちが公立校ながら長野東に集まるようになり、やがてその卒業生が大学や社会人で活躍するようになって全体としても力が付いて来ました。玉城前監督の後は、長野東が県立高校故に県教員である信州大学OB(大学時代に選手として全国大学駅伝に出場経験があるそうです)の横打監督がその土壌を引き継ぎ、そして遂に昨年暮の都大路で念願の初優勝。長野東は県立の公立高校で選手全員が地元長野県出身の子供たちで、勿論留学生もいません。そんな高校が、全国から有望選手を集め更に留学生もいる私立高に勝っての全国優勝!これを快挙と言わずして何と言えば良いのでしょうか、まさにアッパレ!の一言でした。

 そして年が明け、コロナ禍で3年ぶりの開催となった都道府県対抗駅伝。先ずは15日に都大路で行われた女子駅伝です。
男子の佐久長聖同様にオール長野東で臨む女子(中学生も高校は長野東に進学するでしょうから)は、直前になって1区にエントリーしていた長野東OGで初のオリンピアン萩谷選手(エディオン所属。佐久市出身)が体調不良でか走れず、高校駅伝で最後逆転のゴールテープを切ったエース村岡選手(松本市出身)に交代。しかし、プレッシャーか或いは気負い過ぎか、途中まで先頭グループで頑張っていたのですが、最後は失速。その後もなかなか挽回出来ず、名城大から日本郵政に進んで今回アンカーを任された和田選手(長野市出身)まで選手は皆頑張ったのですが、結局初の表彰台には届かずに11位に終わりました。でもOGが社会人でも活躍するようになったので、女子チームもいずれは優勝争いをする時が来るだろうと確信しています。
 男子は22日に広島での開催。長野県は全国最多の8回の優勝を誇り、前回3年前にも優勝しているので連覇が掛かります。
正月の実業団のニューイヤー駅伝や箱根駅伝から僅か3週間なので、エントリーはしても結局疾走を見合わせる主力選手も多く、結局選手層の厚さがモノを言います。長野は佐久長聖の高校生と、大学生はOBの木村選手(専修大。松本市出身)と伊藤選手(早大。駒ケ根市出身)、社会人でナント立教大の上野監督(佐久市出身)がエントリー。結局木村選手は箱根同様故障で走れず、箱根を走った伊藤選手が3区、“日本一早い駅伝監督”の上野監督がアンカーの布陣。些か不安を感じましたが、伊藤選手もトップとの差を詰め、佐久長聖の3選手が区間新連発の見事な走り。更に6区中学生もガッツ溢れる走りで最終7区までに50秒近い貯金。後は抜かれなくても良いだけなので、最後2位埼玉の選手には詰められたものの、想定内で上野選手も無理をせずに盤石の走り。
最後のゴール2㎞位手前だったでしょうか、先頭を走るアンカーの上野選手に沿道から大きな声で「後ろとは35秒差、気を抜くな!!」と声を掛けたのは、間違いなく東海大の両角速監督でした。言わずもがな、上野選手の佐久長聖時代の恩師で、その後東海大監督に就任するまでは長野県チームの監督を務めていました。今は東海大監督の立場で、各県チームに選ばれて走る自校の選手の応援や高校生のスカウティングも含め、他大学の監督同様に今回のレースを観戦するという事前報道がありましたが、当日現場にいるので沿道での長野県チームの伝令役を引き受けたのか或いは自主的な声掛けだったのかは分かりませんが、現在の立場上長野県チームには直接関わらずとも“オールナガノ”で支えている感じがして何だか胸が熱くなりました。また、ゴールには当時富士通所属で“駅伝長野”初優勝時のアンカーを務めた現上田西の帯刀監督もチームスタッフとして参加されていました。
上野“監督”も最後まで危な気なく、自チームの持つ大会記録を“1秒”更新しての新記録で9回目の優勝。これまたアッパレ!な“駅伝王国長野”の今シーズンの掉尾を飾る見事な優勝でした。

 せっかくの全国旅行支援なので・・・ということで、11月末に、大混雑の京都を避けて“国のまほろば”奈良へ行くという長女に付いて行ってきました。そして、これまた「せっかくなので・・・」というお義母さんの希望で、12月に入ってから家内が一緒に二泊予定で松本の旅館「翔峰」へ。
義母は足が弱くなってしまったので、遠出は無理。そこで近間の美ヶ原温泉にしたのですが、この「翔峰」はアルピコ(旧松本電鉄)系列の宿泊施設で、オランダ人女性が女将さんに抜擢されて、全国的にも話題にもなりました。一泊二食付きですので、昼食はついていません。そこで、お昼に旅行支援キャンパーンの一環で戴ける観光クーポンを使って、お蕎麦が食べたいとのこと。しかも、せっかくなので旅館内や里山辺(美ヶ原温泉)ではなく、どこか松本市内の蕎麦店でとの希望の由。
 そのため、私メもお昼だけ一緒にお相伴に与(あずか)ることになりました。市内であれば義弟の営むお蕎麦屋さんがあるのですが、母や叔母がまさしくそうなのですが、麺類を除く小麦粉消費全国一という長野県の特に戦前生まれの信州人が希望する様に「蕎麦には必ず天婦羅が付かないとダメ!」なのです。長野県は山国で油分が摂り難かったことが背景の様ですが(第137話参照)、山国で魚介類は無くても、野菜でもキノコでも何でも天婦羅にさえすれば立派な“お御馳走”(信州弁では“おごっそ”と言います)なのです。従って、蕎麦には天麩羅がマストなので、天婦羅の無い義弟の店を始め、そうした蕎麦店は除外。そこで、ネット検索をして、メニューに天婦羅や天ざるがありそうな店を検出し、その中から選んだのは、市街地で近いということもあって、本町通の「そば切りみよ田」。前回、長野駅ビル内の「そば処みよた」(第1775話)は長野市に本社のある日穀製粉の直営店で、松本店も日穀製粉が南松本に工場があることから、以前は同じく直営店だったのですが、その後王滝グループが経営権を取得して名前はそのままで経営している店。パルコ近くに支店も出すなどして、今では観光客の方々に人気の行列店になり、昔より質を落とした(つなぎを増やした)長野の「みよた」より蕎麦の質は遥かに上だと思います。
お酒の肴向けの一品もあって、昼だけ営業の蕎麦屋が多い(昼だけで十分経営可能ということなのでしょう)中では貴重な店で、手打ちそばに加えて県外からの方々が喜びそうな馬刺しや塩イカ(本来とはちょっとレシピが違うのですが)といった郷土食もあります。更には、奈川名物のとうじそば(投汁蕎麦)も松本で食べられる数少ない蕎麦店でもあります。

 さて、開店時間を少し過ぎていたこともあって、着いた時は平日とはいえ既に順番待ち。さすがに人気店です。幸い外に順番待ち用の椅子が出ていたので、足の悪い義母には救い。
20分ちょっと待って入店。我々は二巡目ということですが、蕎麦は他の食事に比べて回転が速いのが(特に熱くないザルなら一層)助かります。せっかちで気の短い江戸っ子に好まれたというのもむべなる哉・・・です。
 注文は、お義母さんが案の定で天婦羅そば、家内が鴨つけそば、私メがさるの大盛り。天婦羅は冷たい天ざると温かい汁蕎麦(かけ)とお皿に別盛りの天婦羅の二種類がありました(別に汁蕎麦に載せた掻き揚げそばもあり)。
小木曽製粉を始め、自社で製粉工場を持つ王滝グループの蕎麦は、御岳の裾野の文字通り王滝村の開田高原を始めとする地元産の蕎麦粉の筈で、二八のそばは細打ちでコシがあり、結構私の好みでしたが、やはり新そばの香りは無く、また更科ではなく田舎風の蕎麦であっても、新そばの時期はやや緑がかって見える筈なのに、今年の新そばは何処で食べても香りもですが色も新そばらしい感じが全くありません。
もしかすると、自分の記憶違いか、或いは個人の(加齢に伴う?)味覚の衰えか、はたまたその年々の栽培環境の違いか、更には温暖化の影響か・・・理由、原因は定かではありませんが、今年の新そば巡りは残念ながらここで諦め、終了することにします。

 前話でご報告した通り、昔からの信州の“そば処”である美麻新行地区。
昔の記憶では、松本から旧美麻村に行くには、白馬方面へのスキーでいつも通る国道148号線の木崎湖畔の海ノ口から入って行く道しか知らなかったのですが、NAVIの指示に従って、長野冬季五輪でメイン会場の長野市とスキーとジャンプ会場となった白馬村とのアクセス改善のために改善整備された所謂“オリンピック道路”の一つ県道31号線を使って、大町市街地の山岳博物館近くを過ぎて北大町から県道にアクセスすればすぐでした。
 「あっ、美麻ってこんなに近かったんだ・・・!」。
この道沿いに、NHKの朝ドラ「おひさま」のロケ地の「中山高原」があります。春は黄色い菜の花、夏は真っ白な蕎麦の花が高原の丘陵一面に咲きドラマの中でも紹介されて有名になり、ロケで使われた水車小屋だったかのセットも残されていて、一躍人気の観光地となりました。
この中山高原は、元々旧大町スキー場だった場所なのだそうです。道理で朝ドラのロケで知るまで、「中山高原」という名前を聞いたことも無かった筈です。その大町スキー場は昭和初期には既にスキー場として開発されたそうで、戦後のスキーブームを受けてこの新行地区の農家はスキー客受け入れの民宿を営んでいて、その民宿のお客さんに提供していた食事が蕎麦だったのだとか。最盛期には実に18軒もの民宿があったそうで、夏は大学生の合宿などで賑わったのだとか。確かに、私も学生時代の合唱団の夏合宿は同じ大北地域である栂池高原の民宿でした。
しかし、スキーブームが去り、また温暖化に因る雪不足で大町スキー場は閉鎖。そのため、新行地区の民宿は廃業せざるを得ず、その内の4軒が宿泊客の食事で蕎麦を振舞っていたことから、蕎麦屋を始めたのだそうです。
元々新行地区は900mという標高の高い地域で、且つ火山灰土の痩せた土地だったために稲作には余り適さず、蕎麦の栽培に適していた土地。そのため、今では“そば処”として知られるこの新行や、同じ中信地域の奈川や唐沢集落などの地域は、どこも嫁入り修行の一つとして、蕎麦打ちは嫁いだお母さんたちの生活のための必須条件でした。そう云えば、松本の人気蕎麦店となった「野麦」。現在は二代目となって、観光客相手の行列店ですが、昔はお婆さんが一人ひっそりと蕎麦を打っていましたが、店名からしてご出身は旧奈川村だったのでしょうか。他にも松本の市街地に「野麦路」という蕎麦屋もあります。因みに、そうした“そば処”程ではありませんが、松本の岡田で生まれ育った私の祖母も、蕎麦は不揃いで短かったとはいえ、自分で黒い“田舎蕎麦”や“おざざ”と呼ぶうどんを打っていました。

 因みに「科野」と呼ばれていた奈良時代、信濃の国は朝廷への税として麻が納められるなど、「信濃布」と呼ばれた麻の産地で、この美麻や麻績という地名はその名残でもあるのですが、会社員時代に美麻出身の部下が職場に居て、平成の合併で美麻村が大町市との合併を選んだ時に、
 「地名だって文化財なんだから、美麻なんていう、それこそ文字通り美しくて歴史ある名前が消えちゃうのは何とも勿体無い!」
と、住む人たちの事情も知らずに憤慨して話したことがあったのですが、当時村会議員をされていたという彼のお父上のお話として、地元でも賛否両論あったのだと聞きました。
勿論、その地に住む方々の住民サービス向上は重要ですし、住民でもない赤の他人が「あぁでもない、こうでもない」と言う必要は全く無いのかもしれません。しかし、以前旧中山道の鳥居峠を歩いた時に、合併せずに自立を選んだ藪原(木祖村)と片や塩尻市と合併した奈良井(漆器の平沢とで旧楢川村)と、鳥居峠を挟んで、旧街道の道そのものだけではなく、標識や休憩所などの整備の余りの差に愕然としたこと(第1353話)を思い出すと、果たして住む人たちにとって一体どちらが良かったのか正直良く分からなくなります。

 さて、前回食べられなかった美麻新行地区の「山品」。お店には平日の水曜日で12時半前に着いたにも拘らず、既にその日打った蕎麦が足りなくなりそうなので受付終了とのことで、全くの徒労に終わりました。
そこで、人間ダメと言われれば余計食べたくなるのが道理で、(奥さまの強い決意もあって)リベンジで翌週また行くことにしました。
恐らく週末は前回以上に混むでしょうから、行ったのは平日で今回は火曜日。「山品」の開店時間の11時に合わせて行くことにしました。
準備に多少手間取り出発するのが少し遅くなってしまい、到着したのは11時20分。既に車は何台も駐車していて、この日も地元ナンバーよりも県外車などの方が多かったのですが、今回は順番待ちの行列も無くすぐに座敷に通されました。
昔はお婆さん一人で切り盛りされていた筈ですが、地元民だけではなく、最近では観光客がわんさか訪れる人気店になったためか、そば打ちは息子さんに任せ、お婆さんだけではなく地元のお母さん方が何人もで接客に当たられていました。注文を取りに来られたお母さんに、
 「先週の水曜日に来たら、受付終了で食べれなかったんです。今日、漸くいただけます!」
と言うと、
 「あぁ、その日私はお休みを貰ってたんですけど、何だかお客さんが凄かったみたいですね。でも今日は空いてますから、全然大丈夫ですよ!」
「山品」は個人経営のお蕎麦屋さんですが、地元のお母さん方が対応されているのが、何となく富士見町乙事の「おっこと亭」を思い出しました。
 「山品」は昔の民宿の名残が感じられ、茅葺(今はトタン屋根で覆われています)の古民家を使って、ふすまの座敷を何部屋も繋げた畳敷きの座敷に10卓程の座卓が置かれています。昔からの蕎麦処として知られた美麻地区の新行ですので、所狭しと有名人の方々の色紙が記念に飾られていました。
冷たいざるそばだけでなく、暖かい汁蕎麦も、山菜やキノコに月見、はたまたニシンまで何種類もあり、蕎麦以外にも季節柄でキノコやそばがき、そして信州らしいイナゴや蜂の子などの一品もあるようです。
我々は、地粉というもり(蕎麦)の竹で編んだざるでの大盛り(1000円)と家内はせいろの(普通)盛り(800円)、それに一方の名物と言う蕎麦粉の薄焼き(800円)も注文。
湯呑茶碗と小鉢の漬物が運ばれてきて、蕎麦茶は座敷のサーバーからセルフサービスで「ご自由にどうぞ」とのこと。
自家製の漬物は、家内は有明に比べてこちらの方が美味しいとのことでしたが、私は有明の方が好みでしょうか。野沢菜漬けといえば、昔母も連れて行った唐沢集落で、大皿で出してくれたべっこう色の野沢菜漬けは本当に美味でした。
二八という蕎麦は細打ちで、コシもあって美味しいのですが、やはり期待したほどの香りはありません。新そばって昔からこんなモノだったのでしょうか…?(過去の思い出が美しいのと同様で、どうやら自分の過去の記憶が美化しているのかもしれせん)。
うす焼きは、それこそガレットの様なイメージかと思いきや、決して薄くはなく結構な厚み。刻みネギを混ぜた砂糖味噌が、それこそお祖母ちゃんの味で、素朴ではありますが何とも昔懐かしい田舎の味なのです。そこで、二人共思わず、
 「美味しいネ!」
 「うん、旨いなぁ!」
と、念願だった蕎麦よりもむしろこの薄焼きに感激したのでした。そばがきもメニューにはありましたが、蕎麦と共にどうやらこのうす焼きがここ「山品」の名物というのも納得の美味しさでした。
後から来られた5人連れのお年寄りのグループは、きっと顔見知りのご近所の皆さんなのでしょう。「この前は悪かったいね!」などとお婆さんと世間話をしながら、注文で選んだのが全員温かい汁蕎麦でニシンとキノコというのが、美麻地区には多分山を下りないと蕎麦屋以外には他の飲食店が無いのかもしれません。恐らく今まで暑い夏はざる蕎麦ばかりで、冷たい蕎麦はもう食べ飽きたので、(寒くなった秋には)たまには違った温かいメニューも食べたい!という様な感じで、何とも可笑しく感じました。
そばは二八のみでしたが、帰りにお婆さんにお聞きすると。12月に入ったら十割も始めるとのこと。
 「新そばの時期は二八でも十分美味しいでね。雪が降ったらお客さんも空くで、二八の他に十割も始めるで・・・。雪が降ったら、また来てください。」
 池田町から北は北安曇郡です。真冬にスキーに行くと、明科や穂高の南安曇郡から松川や池田の北安曇に入ると、本当に一気に雪の量が多くなります。更に青木湖を過ぎて佐野坂を超えると、まさに雪国になります。
白馬から後立山連峰は既に真っ白。この美麻新行にも雪が舞い降りるとは、きっと間もなくなのでしょう。

 「ごちそうさまでした。十割とうす焼きを食べにまた来ます!」

| 1 / 45 | 次へ≫