カネヤマ果樹園 雑記帳<三代目のブログ>

 空梅雨気味だった梅雨明け後、今度は逆に梅雨の戻りの様な日が続き、なかなか快晴の日が望めない中で、やはり曇りや雨マークばかりの日々の間で、たまたま未明から午前中まで晴れマークが並んだ7月29日の金曜日。この日を逃してはならじと、塩尻と辰野町の間にある霧訪山(1305m)へ登ってみることにしました。

 霧が訪れる山と書いて「きりとうやま」。なかなかロマンチックな名前が付けられた山です。里山ですが、数年前の「信州の里山総選挙」なるもので1位を獲得し、また昨年だったかの登山専門の雑誌“ヤマケイ”で絶景の里山として紹介されるなどして最近人気の山で、そのため最近は地元だけではなく県外からも登山客が訪れるのだとか。
まだ人気になる前ですが、何年も前に昔の会社の同僚から「初心者向きだけど、頂上からは360°の展望が効いてイイ山だ」と薦められた記憶がありました。
霧訪山の主な登山ルートは3つあるようですが、ネットで得られた登山コースの地図で一番分かり易かったこともあり、今回の初登山は一番距離の短い北小野地区からの小野コース 

信濃二宮小野神社・弥彦神社の左脇から山の方向に向かう細い道があり、そこを入り、両小野中学校(塩尻市の北小野と辰野町の小野地区からなる、組合立の中学校)の裏手に登山道の入り口があります。地図には僅か4~5台停められる駐車スペースとありましたが、その後整備されたのか、10台は優に停められそうですし、また仮設トイレまでありました。また入り口には、分かり易い駐車場を示す看板や登山ルートの地図などもキチンと表示されていました。
後で分かったのは、駐車場までの矢印を始め、唐山道に沿った頂上までの距離を示す100m毎の工程表など、地元の両小野中学の子供たちが手書きで制作したモノで、それ以外にも「霧訪山友会」の方々なのでしょう、きちんと整備された登山道など、霧訪山が地元の大切な里山として地域の皆さんから愛されていることが良く分かりました。
 8時過ぎに着いた時には駐車場には既に5台程停められていて、平日でしたがやはり人気の山の様です。
8:30ちょうどに駐車場を出発し、100m歩いて赤松に覆われた登山口に到着。ストック(トレッキングポール)を忘れた人のためか、貸し出し用の木製の杖が20本近く用意されていました。
頂上まで1500mの看板に見送られて登山開始です。登山口から、いきなり257段と書かれた階段の急登が始まります。しかし、硬質ゴム製だと思いますが、よくぞ階段状にステップを埋め込んだものです。登山道を整備された地元の方々に頭が下がります。
階段を登り切って、1100mという看板辺りから赤松の根が張った登山道が階段変わりとなって、急登ですが意外と歩を進め易い気がします(ここまで20分)。御嶽信仰の石碑やその先に送電線の鉄塔が立っていて、そこが「かっとり城跡」とあり、鉄塔の立っている平らな場所が戦国時代の小笠原氏の家臣の山城跡らしいのです。ここ辺りがコースの中間地点で、少し展望が開け、辰野の小野地区が眼下に見渡せます(9:00)。
そこからなだらかな登りが少し続き、青いトタンで覆われた三角屋根の非難小屋(十分風雨が防げます)を過ぎて暫くすると、後半の急登が始まります。
登山道は最初から茸の止め山なので、コース以外へは侵入禁止とのことから、両側にロープが張られていて、中には三ヶ所程鎖の場所もあるなど結構な急登であってもロープや鎖の助けで登ることが出来ます。100m毎に、「山頂まで〇〇m」という手書きの標識に励まされて、コースタイム通りの1時間10分で霧訪山1305mの山頂に到着しました。
山頂の直前までずっと林の中だったので、本当に展望が開けるのかと疑心暗鬼だったのですが、山頂はあまり広くこそありませんが入笠山と同じ様に木々が切り払われていてパッと視界が開け、“一望千里”のキャッチフレーズの通り360°の展望が開けていました。ただ、北と中央アルプスは雲が掛かり、南も僅かに仙丈が望める程度。八ヶ岳も雲の中。残念ながら、やはり夏山は雲が掛かってその姿を拝むことはこの時期はなかなか難しい。
すると、塩尻の下西条と善知鳥峠の分水嶺の別ルートからという二組の方々がそれぞれ登って来られました。少しお話ししましたが、かっとりコースは最短ですが急登なので避ける人も多いのだとか。後で調べたら駐車場からの標高差が430mでしたので、確かにちょっとした登山気分が味わえます。登山口へはJR(飯田線ですが)小野駅からも歩いて行けますので、人気の里山登山で県外から来られるというのも良く分かります。
 下りも、それこそロープを頼りに急坂に気を付けながら歩を進め、コースタイム通り50分で無事下山して駐車場へ戻りました。
今まで気になっていた初めての霧訪山。評判に違わぬ楽しめた山行でした。もし今度来る時は、松本からだと小野地区までは車で結構遠かったので、手前の塩尻の下西条からのコースで登ってみようと思います。
帰りに弥彦神社の手水舎の湧水が美味しいと聞いたので、そこで喉を潤してから松本へ戻りました。
 後で考えてみれば、毎年登る三城からの百曲がりコースでの美ヶ原(百曲がり園地まで。但し、広小場までの1㎞程は緩やかですが・・・)が標高差500mちょっとで距離3㎞を2時間なのですから、かっとりコースの霧訪山が標高差430mの1.6㎞を1時間10分というのは、小学校の算数的にも距離は(直線として)斜辺で底辺ではないので倍までいかずとも(注)、傾斜角的に急勾配になって当然でした。その意味でも、身近な里山とはいえ、霧訪山の「かっとりコース」が登り応えがあったのもナルホドで、“然もありなん”と納得した次第。
【注記】
小学校で出て来る三角形は底辺と高さだけですが、高さと斜辺が分かっている場合に三角関数で計算すると、
美ヶ原=9°で、霧訪山(かっとりコース)=15°と計算出来ます。
但し、広小場からの本格的な百曲がりは道がつづら折りでジグザグ故に距離があります(1700m)ので計算上は12°となりますが、(直線距離が分からないので)実際の傾斜角的には同じくらいだと思います。

 カラマツの林を抜けると石畳の坂道があり、つづら折りの急勾配の藪原側の峠道がいよいよ始まります。

靴(しかもトレッキングシューズ)を履いている我々現代人ならいざ知らず、江戸時代の旅人は草鞋(わらじ)履きですので、さぞ山道は大変だったでしょう。雨が降った後のぬかるんだ道は尚更です。復元された石畳の道も濡れていると滑り易く、却って歩き辛さを感じます。途中熊除けの鐘が何ヶ所かにあるので、お借りした鈴だけではなく鐘も鳴らしながら歩を進めます。
途中、道から少し上部に広場の様な平らな処があり、ここが丸山公園で、昔織田勢(木曽氏)と武田勢の古戦場跡とか。中山道を歩いた松尾芭蕉(「更科紀行」と「野ざらし紀行」の二回)の句碑や石仏が立ち並んでいます。

  『 ひばりより 上にやすろう 峠かな 』 芭蕉
       (清水横の説明版:英泉画「三十六藪原 鳥居峠硯清水」)
ここで初めて眺望が開け、今登って来た藪原宿を眼下に望むことが出来ました。更に登って行くと、平家討伐の旗揚げをした木曽義仲が、峠の頂上で“霊峰”御嶽へ奉納する戦勝祈願を書かせる為に硯の水に用いたという義仲硯水があり、その先に御嶽神社があります。ここに峠名の由来となった鳥居がありますが、これは木曽義元が松本の小笠原氏と戦う際に御嶽に戦勝祈願をして勝利したお礼に建てたものだそうです。勿論、今の鳥居は往時のモノではなく何代目かの鳥居でしょう。そこを過ぎると平坦な道となり、道沿いに太い栃の木が何本も群生していて、その一本に子宝伝承の「子産みのトチ」の木もありました。

  『 木曽の栃 うき世の人の 土産かな 』 芭蕉
そう云えば、滋賀の大津で討ち死にした義仲の墓のある義仲寺に、その義仲を慕った芭蕉の庵と、自身の遺言による芭蕉の墓もありましたが、義仲に縁の木曽路を歩きながら芭蕉も彼を偲んだことでしょう。
ここでトンネル以前に峠を越えていた旧国道などと交わり、そこを過ぎた先に「峰の茶屋」という休憩所がります。さすがに今は無人で茶屋ではありませんが、キレイに磨かれた板張りの立派な小屋で、トイレと水場もあり、さすがに飲むのは控えて手と顔を洗わせてもらいましたが、手が切れる程に冷たくて生き返る様でした。
茶屋で休んだ江戸時代の旅人同様に、我々もここでエネルギー補給に行動食を取りながら暫し休憩。
この辺りが1197mという鳥居峠の中山道の頂上で、ここからが奈良井宿に向けての下り坂になります。
 今まで登って来た藪原側と比べると、奈良井側はかなり細く、旧街道が当時のまま保存整備されている訳では無いにしても、これでは参勤交代や皇女和宮の行列が通ったとは思えない程荒れ果てていて、また奈良井側は沢が幾つも有り、昨年の8月豪雨の影響もあってか、沢筋に架かる橋や木道が結構痛んでいて、藪原側の中山道に比べてその整備状態は余り良くありませんでした。
途中、石碑だけでしたが一里塚跡を過ぎて、「中の茶屋」という落書きだらけの荒れ果てた掘っ立て小屋があり、ここは「葬り沢」と呼ばれ、武田勝頼が織田勢の地元木曽義昌のゲリラ戦に敗れた武田家滅亡の始まりとなった戦いで、武田勢の戦死者500人が沢に葬り去られたことから名付けられたという薄暗くて不気味な場所もあり、夜道はさぞ怖くて歩けなかっただろうと思いました。
道も案内板も良く整備されていた藪原宿からの峠道でしたが、その標識一つとっても新しくて見やすかった藪原側に比べ、奈良井側のそれは古ぼけて字も剥げ掛かっていて、所々判読不能な有様。合併せずに単独での存続を選んだ木祖村と、片や平成の合併で塩尻市に合併した旧楢川村(贄川・平沢、奈良井)。隅々まで目が届く(観光資源も藪原宿とスキー場くらいの)木祖村と、大きくなったが故に(奈良井宿そのものは観光的には人気ですが)外れの細かな処に目が届かなくなった自治体との差でしょうか?・・・。峠を挟んでの余りの差を感じて、峠道を下りながらそんなことを考えていました。
 コロナ禍前で、まだインバウンドの外国人観光客もたくさん歩いていた同じ中山道“木曽11宿”最後の馬籠から妻籠への馬籠峠(第1439・1440話)に対し、今回の鳥居峠は最初から最後まで我々以外に僅か3人とすれ違っただけ。
奈良井宿が近付くにつれ、漸く道も整備され、昔も行き交う旅人を見送ったであろう石仏や藪原同様に復元した石畳の道も現れ、いよいよ峠道も終盤です。
舗装された車道からまた旧中山道の細い道を通り、宿の外れにある鎮神社近くで鳥居峠の峠道は終わり、奈良井宿へ入ります。
人気の無かった峠道とは打って変わって、人気の奈良井宿は7月の三連休最終日を楽しむ観光客で、“奈良井千軒”と云われた往時の賑わいを取り戻したようでした。
 ここまで出発してから2時間10分。奈良井駅がJR東海の駅で最高地点の934mとのことなので、藪原からだと中山道の鳥居峠は標高差240m程だと思いますが、藪原駅から6・4㎞の行程をほぼコースタイム通りの2時間半、宿の途中にある観光案内所で忘れずに藪原宿でお借りした「熊除け鈴」を返却(保証料の2000円を受け取り)してから、奈良井駅近くの朝車を停めた駐車場に到着しました。ちょうど昼時でしたので宿場のお蕎麦屋さんで昼食にしましたが、値段も味も観光客相手で感心しませんでした(昔、馬籠のレストランでで出された乾ソバでのざる蕎麦よりはまだマシか・・・)が、更に酷かったのは、壁に掛かっていた俳画の額。
そこには「そばはまだ 花でもてなす 山家かな  ばせを」とありますが、これって本来は、
  『 蕎麦はまだ 花でもてなす 山路かな 』 芭蕉
の筈。そして、その前書きに「弟子の斗従という人が伊賀上野の山家という地籍にあった芭蕉の住まいに、山路を歩いて訪ねて来た折の句」(新蕎麦にはまだ早いので、せめて山路に咲くソバの花で客人をもてなそうという趣旨)とされていますので、この俳画を描いた人が「山路」を地名の「山家」と勘違いしたのでしょう。しかし、そうと知らずに飾るのも、プロの蕎麦屋としては何とも恥ずかしくまた情けない(これじゃあ、「所詮観光客相手の蕎麦屋か」と思われても仕方が無いか・・・)。
 今回の峠歩きは、やはり登山に比べると遥かに楽でした。もし旅行に初めて来て古を偲びながら峠を歩いて宿場を観光するなら良いと思いますが、残念ながら途中の眺望も良くないので、弥次さん喜多さんや水戸黄門さまご一行同様に「中山道屈指の難所を歩いた」という以外は然程満足感や達成感は無く、多分トレッキング気分で再度歩くことは無かろうと思いました。

 今年の登山シーズン開幕で登った入笠山と美ヶ原。今回は登山ではないのですが、旧中山道の難所と云われた木曽路の鳥居峠を歩いてみることにしました。
鳥居峠は、中山道六十九次の内の木曽路十一宿と云われた中で、奈良井宿と藪原宿の間にある標高1197mの峠で、分水嶺です。鳥居峠から北に流れる奈良井川は、梓川と合流して犀川となって、その後千曲川と合流し、最後は信濃川と名を変えて日本海へ。一方、南に流れる川は木曽川として太平洋に注ぐ、いずれも県歌「信濃の国」に謳われる“国の固め”でもあります。
お江戸日本橋からだと、奈良井が34番目で藪原が35番目の宿場ですので、京都三条大橋(滋賀の守山で東海道と合流)のほぼ中間辺りになります。
同じ江戸と京都を起点とし、片や弥次喜多道中で知られる東海道五十三次よりも長く、また山道の多い中山道ですが、東海道の様に途中大井川での雨に因る川止めが無いことから、“姫街道”とも呼ばれた程に女子を中心に利用する旅人も多かったとか。幕末になって皇女和宮が江戸への降嫁のために京から江戸へ下った道でもあります。
ただ浅田次郎の時代小説「一路」では、岐阜田名部の名門旗本である蒔坂家の古式に則った中山道を進む参勤交代行で、道中の難所として描かれているのは木曽福島宿手前の与川崩れと雪の和田峠であって、肝心のこの鳥居峠は「木曽の桟も超えた勢いで一気に越えた」と僅か一行で描かれていました(但し、与川超えの結果、福島宿を守る役人たちと一行との感動的な場面が描かれるのは、一気の鳥居峠越えで一行が宿を取った奈良井宿でした)。
因みに、木材は重要な資源であり、木曽は織田の時代から時の政権の直轄地であり、江戸時代は徳川御三家の尾張藩でした。従って木曽福島宿は尾張藩であり、贄川宿が尾張藩と松本藩との境だったそうです。
鳥居峠は(修学旅行の無かった)高校時代にクラスの遠足で歩いて以来、実に45年振り(数える意味もありませんが)です。皆で松本から電車で来て、あの時も藪原から峠を越えるルートで歩き、奈良井宿の資料館が自宅という同級生が居てクラス全員で見学させてもらいました(彼は田舎に戻らず都会で就職したため、妹さんが今でもその資料館を守ってらっしゃいます)。
 難所の峠を控えての体力を備えるために江戸からの旅人が泊まったことから、“奈良井千軒”と呼ばれ繁盛したという奈良井宿。今回はその逆で、京から江戸に下る旅人が泊まった藪原宿から峠を越えて奈良井宿へのルートを選択。車は駐車場の広い奈良井に停めてJRで藪原に行き、藪原から奈良井へ峠を越えて戻ることにしました。

調べてみると、朝8時台の電車を逃すと11時台まで電車がありません。そこで、8時40分奈良井発の電車に乗ることにして、念のため7時前に家を出て、いつも通り洗馬経由で国道19号に合流するルートで向かいました。すると、前回は工事中だった、「是より南 木曽路」という石碑のある手前辺りからの「桜沢トンネル」が開通していました。
旧道の奈良井川に沿ってくねくねとカーブの多かった日出塩と贄川の間をぶち抜いた、1・5㎞の桜沢トンネルが昨秋に開通し、真新しいキレイなトンネルであっという間に通過。ここで時間短縮したことも手伝ってか、8時前に奈良井の無料駐車場へ到着しました。途中コンビニで購入したサンドイッチで朝食を取り、トイレ休憩で身支度を整え、8時40分発(始発駅は松本)の中央西線の中津行に乗車しました。電車は峠の下をトンネルで通過し、僅か6分で藪原に到着です。そこを昔の旅人同様に3時間近く掛かって歩くのです。
木祖村の藪原宿。木曽川の源流の地という意味も込め、村名には木曽の「曽」ではなく「祖」の字を当てています。奈良井と藪原からの峠道を比べると、駅から中山道へは藪原からの道順が少し分かり辛く、事前にマップをプリントアウトして来たのですが、駅に置かれていた「藪原宿案内図」がとても分かり易く、それを頂いて歩くことにしました。
因みに、案内図に使われているのは、渓斎英泉(けいさいえいせん)と歌川広重(うたがわひろしげ)の合作「木曽海道六拾九次之内」(注)の中の、英泉の「三十六藪原 鳥居峠硯清水」と名付けられた藪原宿の浮世絵です。因みに描かれている山は、峠から望む霊峰御嶽山とのこと。

 以前馬籠峠を歩いた時(第1349&1350話)に、熊除けの鐘が峠道の途中何ヶ所かに置かれていたので、今回の鳥居峠にも登山用に購入してある「熊除けの鈴」を持って行こうと思って探したのですが、引っ越しで「熊除け鈴」が見つからず、そのため事前に調べると、「塩尻観光協会」のH/Pに木祖村観光協会の「藪原宿にぎわい広場 笑ん館」という多目的交流施設(パンとかも買えます)があり、ここで「熊除け鈴」(桧笠も)無料で借りられるとのことでした。8時半からオープンしていて、そこで手続き(氏名や連絡先等を記入し、デポジットとして保証料2000円で奈良井の観光会館で返却すれば返金される仕組み。桧笠も同様で外国人観光客が喜びそうです。逆ルートでは、奈良井で借りて藪原で返却するのも可)をして、念のために鈴をお借りしました。本当に有難い仕組みだと感謝です(因みに、峠道にも3ヶ所熊除けの鐘がありました)。
心配した道順ですが、起点となる場所には丁寧な案内表示板が設置されていて実に分かり易く、これなら迷うことも無いと感心しました。
 江戸時代から続き、今でも高級品である木曽路の名産お六櫛発祥の地である藪原宿に沿って歩きます。宿場の外れに在った “十六代九郎衛門”の「湯川酒造」の前を通り、飛騨街道との追分から坂道を登って水神様を祀る水場(飲めるとの表示が有り、美味しい清水でした。因みに奈良井宿の水場は、全て「念のため一度沸かして飲んでください」との但し書きがあったので、残念ながら諦めました)で一息入れ、いよいよ旧中山道へ。藪原駅から、奈良井駅までの6.4㎞の行程の内、藪原駅からこの石畳分岐までが2.1㎞とのこと。ここから峠の頂上までは1.8㎞です。
【注記】
広重の代表作となった「東海道五拾三次之内」の大ヒットに気を良くした出版元が、 “二匹目のドジョウ”を狙って広重と渓斎英泉の合作で描かせた街道物の浮世絵シリーズの第二作としての中山道です。
(左:藪原宿 右:奈良井宿 どちらも英泉画で、奈良井宿の山は木曽駒です)

ここでは中山道は「木曽街道六拾九次」として、江戸日本橋と京三条大橋を結ぶ中山道の各宿に取材し、出発点としての日本橋と板橋から大津までの69の宿場の全70枚が描かれています。

 あっという間に明けた今年の梅雨。
マンションから見える北アルプスの峰々も、日一日と夏山に変化していくのが分かります。梅雨明けで、冬山なぞ無理な我が家にとっても登山(トレッキング?)シーズンの到来です。
奥さまの通うピラティスの先生はベテランの岳人で、山行では専ら一人自由なテント派ですが、今年は既にどこの山小屋も9月まで予約が一杯で、登山口の駐車場も朝早くから満車状態とのこと。コロナ禍故か、人の集まる市街地の密を避けて山に人が向かうのでしょうか。一度は行きたい燕や蝶は山小屋泊なので、ワンコが居ては難しく、今年も諦め。そこでいつも通りの日帰り登山で、我々のシーズン開幕は、トレーニングを兼ねて先ずは諏訪の入笠山からスタートすることにしました。
 早かった梅雨明けも手伝い、天候を見ながら晴れ予報だった平日の木曜日である6月30日に富士見パノラマリゾートへ。朝早めに出たのですが、100万本の日本すずらんが湿原に群生するというすずらんの花のシーズンも終わったことから、夏休み前のこの時期のゴンドラリフトの営業開始は8時半とのこと(すずらん祭りの期間中は8時からの由)。そこで、時間潰しに途中岡谷ICで高速を降り、下道の西街道(諏訪湖西岸)から19号で富士見町へ向かい、ちょうど8時半に駐車場へ到着しました。
ゴンドラで一気に1780mの山頂駅へ。因みに奥さまがモンベル会員なので、栂池や八方同様この入笠のゴンドラも会員割引がありますが、但し入笠は1名(会員)のみ。
我々同様トレッキングや湿原のハイキングを楽しむグループの他にも、ここ入笠はスキーゲレンデを活かした日本最大級のマウンテンバイクのダウンヒルコースがあり、全国大会も開かれるなど今やMTVの聖地とか。この日もテント泊をしながら朝から練習する選手が何人もいました。

 入笠山の山頂が1955mでゴンドラの終点が1780mですが、湿原は1734mですので、標高差200mちょっとの1時間の登山(トレッキング)コースです。200mなら大したことは無さそうですが、これが湿原からだと結構な急登で、短いとはいえ鎖場もありシーズン開始のトレーニングには最適です。

 山頂駅から林間コースを歩いて、すずらんのシーズンの後にアヤメの咲いている湿原を抜け、山彦荘から沢沿いの樹林帯のコースを歩いて登山口へ。途中クリンソウ(九輪草:日本原産のサクラソウ科の山野草で、五重塔などの仏閣の上の部分の九輪に似ていることからの命名)の群生がありました。マナスル山荘横の登山口から、我々はお花畑を通らずにそのまま登山コースへ入ります。そこから30分で山頂です。途中、台湾へ戻る途中なのか、アサギマダラのつがいが羽を休めていて、彼らの長旅の無事を祈ります(写真には一匹しか写っていませんが)。
 迂回コースもありますが、そのまま岩場コースから山頂へ。ほぼコースタイム通り。家内は結構しんどかったようで、私メのペースが早過ぎて却って疲れるとお叱り。
この日は天気予報を見て来たこともありますが、雲に隠れた北アルプス以外は、中央アルプスの木曽駒、そして目の前の八ヶ岳、甲斐駒を中心とする南アルプスも、その向こうには富士山も望むことが出来ました。平日でしたが、山頂は我々同様の中高年の登山客でそれなりの賑わいでした。
          (雄大な裾野を拡げる八ヶ岳連峰)
   (右から仙丈、間ノ岳、鋸、甲斐駒の南アルプス、その左背後に富士山) 
 帰路の途中で、茅野の日帰り温泉の一つ、八ヶ岳を望む「望岳の湯」でさっぱりと登山の汗を流し、更にせっかく来たので諏訪に在る「角上魚類」にも寄って買い物をしてから松本に戻りました。

 大相撲初場所は、まるで初夢が正夢となった様な御嶽海の3度目の優勝で幕を閉じました。場所前の事前の報道で、29歳になった御嶽海が、
 「20代最後の場所なので、大関取り目指して頑張りたい」
という抱負を聞いて、一体今まで何度裏切られて来たのか!?と、どうせ今場所もと(そうは言っても毎場所期待半分ではありますが)それ程期待しなかったのですが、初日から見事8連勝で給金直し。
 「でも、どうせまた負けるよナ~・・・。負けると、またズルズル連敗するんだよナ~・・・」
2度も平幕優勝して、大関になっていない力士は過去にいません。ですので、以前も書いたのですが、
『二度の幕内優勝と三役在位が通算26場所と、その素質を高く評価される長野県木曽郡上松町出身(注)の関脇御嶽海。
これまで何度も大関昇進の可能性がありながらことごとく失敗し、同じフィリピンハーフの先輩力士の高安、学士力士の先輩正代、後輩貴景勝、隣県富山出身の朝乃山・・・と、後からチャンスを掴んだ力士が皆追い越して先に大関に昇進。気が付けば、もう28歳・・・。
(中略)こうしたことを考えると、歯痒いと、それこそ毎場所歯軋りをしているであろう北の富士(「何度も裏切られたが」と言われながら、今場所も優勝した新横綱照ノ富士の対抗馬に御嶽海を挙げられていたのですが)や舞の海といった解説者の方々のみならず、TV桟敷で何度も溜息をつく我々地元ファンなのであります。
(中略)だから、もう少し“多め”に場所前に稽古して、毎場所優勝争いをする様な地力が付いてから大関に昇進すればイイと思います(そうでなければ、今のままでイイ。カド番で毎日ヒヤヒヤするのは心臓に悪い!)。
でも、そんな日がいつか来ることを願って・・・、一応“ガンバレ御嶽海‼”』

 ところが、今場所は最後まで横綱との優勝争い。そのため、そうは言ってもと、せめて千秋楽の大一番だけはしっかり生で見て応援しようと思ってTVを着けたら、もう既に表彰式が始まっていて・・・、
 「えっ、御嶽海が勝ったんだ・・・」
前日の一番で、古傷を痛めたであろう横綱が、当たり負けし土俵際でも粘れずにあっけなく押し出されたのは痛々しかった・・・のですが、しかし、それにしても「長野県出身で雷電以来227年振りの大関」で、まさかTVの相撲中継で伝説の「雷電為衛門」まで出て来るとは・・・。
強すぎて横綱になれなかったという雷電は、小県(ちいさがた)郡大石村(その後、滋野村から東部町を経て現在の東御市)出身(注)ですが、それを言うなら江戸時代故「長野県では」ではなく「信濃国」か若しくは「信州」でしょうか・・・。
ただ、NHKのアナウンサー氏が雷電に続けて、数少ない長野県出身の最近の幕内力士として「大鷲」関の名前を挙げ、解説の北の富士さんもちゃんと覚えていてくれたのは、チョッピリ嬉しく感じました。そして、その北の富士さんもファンを公言しているという、お母さまのマルガリータさんも久し振りにTV画面に登場(インタビューで、御嶽海の「コロナ禍なので、もう少し静かにしていてもらいたいのにスイマセン」というコメントもなかなかウィットが効いていて良し!でしょうか。)

 閑話休題・・・で、御嶽海は、押し出しや寄り切りで相手力士が土俵を割った際、決してダメを押すことをせずに、土俵下に落ちない様にすっと支える心優しき関取です。
大関になった以上は、怪我や一時の勢いだけで陥落したりカド番続きの大関ではなく、少なくとも毎場所優勝争いに絡むよう、今まで以上に稽古に精進し、綱を張らなくても良いので、嘗ての清国(些か古過ぎますかなぁ・・・)の様に、その品格で是非“令和の名大関”と謂われて欲しいと願っています。
 「ガンバレ、大関(イヨッ!)御嶽海‼!」
(それにしても、御嶽海を大関って呼べるなんてなぁ・・・実に感慨深いですね!新年早々、長野県民へのビッグなお年玉のプレゼントでした。アリガトウ御嶽海‼)

 正式な大関昇進を受けて、部屋の大先輩でもある北の富士さんが、一言。
 『今夜は私もお祝いに一杯やりたくなった。近くのホテルのバーにでも行って「マルガリータ」でも飲みますか。』
イヨッ、座布団一枚!
【注記】
平成の合併で、東部町と北御牧村が合併して出来た市。御牧は平安時代に置かれた朝廷直轄の勅旨牧に由来。東御(とうみ)市は、全国の市の中で読みが難解の地名なのだそうですが、御牧村なら分かっても東御では何のことやら・・・。他にも、例えば長野県内では大町市に合併した美麻村(みあさむら)など、平成の大合併でそうした歴史的由緒ある地名が次々と忘れられていきます。
因みに、東御市の旧東部町の出身であるその雷電は、江戸時代の松江藩のお抱え力士だったのですが、それは家康の孫で松江藩松平家の祖となった直正公(現存する国宝5城の内の二城の城主だったことになりますね)が松本から松江に移封された縁で、茶人大名でも知られる松平家7代目不昧公が雷電を松江藩のお抱え力士にしたのだと云います。

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