カネヤマ果樹園 雑記帳<三代目のブログ>

 山中温泉から永平寺町に至る間に通ったのが坂井市。県境のトンネルが「丸岡・山中温泉」という名の通り、「丸岡」は「福井県坂井市丸岡町」で、あの“現存12天守”の一つである丸岡城の在る場所です。
そこで、渋る奥さまのOKを得て、「丸岡城」へ初めて寄ってみることにしました。永平寺からは16㎞程で20数分との表示で、すぐに到着。松本城などと比べると、意外な程小ぢんまりとしていて、アクセス路も駐車場も狭く、駐車に少し手間取りました。

 重要文化財の丸岡城。元々は織田信長が一向一揆への備えとして柴田勝家に命じ、甥の柴田勝豊が築城したと云われ、織田家の城であった犬山城と共に戦国時代の古い様式で建てられており、現存する天守閣の中では最古とPRされてきました。小高い丘の上に建てられた平山城で二層3階の望楼型天守閣。旧法では国宝指定されていたのが、新法では重文指定となったため、地元では国宝再指定を目指して運動がされています。
松江城が5番目の国宝のお城になったのは、築城年が特定された資料が発見されたため。そこで、丸岡城も市の教育委員会の主導により近年学術調査がされました。その結果、
『丸岡城天守学術調査では、天守の柱や梁(はり)など主要部材について、年輪、放射性炭素年代測定、酸素同位体比の3つの年代調査を実施したのですが、その結果、主要な部材はなんと、戦国時代ではなく江戸時代の1620年代後半以降の用材だということが判明。つまり築城は、早くても寛永年間(1624年~1644年)ということになったのです。
当時の城主は本多成重(ほんだなりしげ=日本一短い手紙として有名な「一筆啓上 火の用心 お仙泣かすな 馬肥やせ」の「お仙」は幼児だった本多成重のこと。父・本多重次が長篠の戦いの陣中から妻に宛てた手紙)。
「丸岡城調査研究委員会」は、丸岡藩が寛永元年(1624年)に立藩したことを契機として、初代藩主である本多成重の時代に整備された可能性が高いと判断したのです。』
と、期待とは逆の結果になってしまいました。
そのため、解説文では、
『丸岡城の築城時期については、従前の、柴田勝豊が築城したとする「1576年(天正4年)説」と、初代丸岡藩主「本多成重」(ほんだなりしげ)が入城後に築城したとする「1613年(慶長18年)以降説」がありました。そして、2019年(平成31年)3月、丸岡城が建てられたのは江戸時代だったことが判明します。
16世紀に松本城(長野県松本市)が建てられていると考えられているため、丸岡城の天守閣は最古ではなくなった可能性があります。最古ではなくても、江戸時代の柱を多く現在まで残していることなど、丸岡城の建造物としての偉大さは変わりません。』
しかし、ズルイのは「最古の天守閣ではなかった」という解説文は、天守閣の最上階まで急な階段(松本城よりも急で、登山の岩場の様に補助の掴まる縄まで用意されている)を上り切らないと書かれてはいないのです。
一階や城址公園には「最古の天守閣」というPRが至る所にあり、最上階まで登って初めて「最古ではなかった」という紹介に出会うのです。
最古であることが国宝指定の要素では無い筈なので、
 「ちゃんとしておいた方がイイんじゃないかい?ちょっとズルくネェ?」と思った次第です。
それにしても、丸岡城の所在は福井県坂井市。ここは江戸時代には福井藩から分かれた丸岡藩であり、そのお城が丸岡城。どうして丸岡市でなく坂井市なのか。信州でも松代藩が長野市になっている様なモンなのでしょうか?何か政治的な背景があったのか、ちょっと不思議な気がしました。
丸岡城は確かに小ぢんまりしたお城ではありますが、珍しい五角形のお堀など魅力的な城跡です。ここ福井県には、他にも“天空の城”越前大野、内陸の郡上八幡など魅力的な城下町が点在しています。
 さて、先述の通り、丸岡城のもう一つのポイントは「一筆啓上」です。それは、有名な『一筆啓上 火の用心 お仙泣かすな 馬肥せ』で、家康の家臣、本多重次が陣中から妻に宛てた手紙で、手紙にある「お仙」はやがて初代丸岡藩主となる本多成重とされています。
そこで、丸岡ではそれに因んで1993年から「日本一短い手紙コンクール」が行われています。他のお城とは一味違った文学的活動が、この小ぢんまりした丸岡城に相応しく、最古の天守閣かどうかなどよりも歴史的にも現在的にも遥かに価値があって、実に魅力的な町興しのコンテンツです。微笑ましくも何とも羨ましく感じられました。
 余談ですが、永平寺から丸岡城へ向かう途中、「一乗谷」への行先案内板がありました。
 「そうか、朝倉氏の一乗谷も近いんだ・・・」
山中温泉は石川県ではありますが、福井県に接しているので、ここまで来れば福井県の一乗谷も雲海に浮かぶ越前大野城も車で小一時間(郡上八幡は下呂から1時間足らずで行くことが出来ます)。もし、また来る機会があれば足を延ばしてみても良いかもしれません。個人的には、「兵どもの夢の跡」を訪ねて、いつか必ず一乗谷へも是非行ってみたいと思います。

 調べてみると、山中温泉は石川県でも福井県寄りで、国道364号線のトンネルを抜けるとそこはもう福井県。山中温泉から永平寺までは僅か30㎞足らずで、車で40分程。県内の金沢へ行くよりも時間的にも遥かに近いのです。
永平寺には私メは昔職場旅行で行ったことがあるのですが、奥さまは無いというので、せっかくですから(奥さまは、「のんびりと、湯治に来たんだろうがっ!!」とブー垂れておられましたが、聞こえなかったことにして・・・)永平寺に行ってみることにしました。
 山中温泉から峠道の国道364号線を走り、県境の「丸岡・山中温泉トンネル」を抜けると福井県坂井市。その隣町が永平寺町で、確かに40分掛からずで到着。門前町入り口の町営駐車場に駐車して歩いて行きましたが、それ程混んではおらず、よりお寺に近いバスターミナル横の民間の駐車場でも十分空きがありました。
先ずは土産物店が並ぶ門前町ではなく、永平寺川沿いの参道を歩き、10万坪という七堂伽藍の境内に入って樹齢500年の杉並木を通って通用門へ。
マスク着用は勿論ですが、入り口で検温とアルコール消毒を済ませてから拝観料を払って吉祥閣という研修道場からお寺の中へ入ります。そこで簡単な説明を受けた後、順路に沿って拝観へ。
事前にネットで調べた時に、カートやキャリーバッグに入っていればワンコ連れでの参拝可能とあり、実際に犬連れで参拝された方の紹介記事もあったのですが、伽藍は全て回廊で結ばれているとはいえ上り下りの階段が多いので、結果的には(ワンコの代参ならともかく)お留守番で置いてきて正解だと思いました。

 1244年に宗祖道元禅師により開かれた、曹洞宗大本山の永平寺。
座禅を中心とした修行をするための場所として山奥に建てられた寺であり、今でも二百名近い曹洞宗の修行僧が朝3時半から夜9時まで日夜修行に励む道場そのもの。總持寺と並ぶ曹洞宗の大本山ですが、曹洞宗の「第一道場」とされる修行の場です。従って、素人目にも観光の寺とは趣を異にします。学生時代に親しんだ京都奈良のお寺とは違い(どのお寺もそれぞれの宗派に沿った祈りを捧げる場ではあるのですが)、何だかここは「寺が活きている」気がします(そういう意味では、長野の善光寺もそれに近いのかもしれません)。
そうした禅宗の教えが醸し出すのか、静謐な雰囲気が境内に漂い、境内に入ると自然と背筋を伸ばし、修行の邪魔をせぬ様にと静かに拝観を「させて頂く」という気持ちに自然になるから不思議です。
最初の建物「吉祥閣」から最初に向かうのが「傘松閣」。156畳の大広間と昭和初期に活躍していた日本画家による230枚の花鳥風月の天井画に圧倒されます。
その横の山門は境内最古の建物で、入門する者がその覚悟を問われ、許可された者だけが、正式に入門する時と修行を終えて永平寺を出る時の生涯二度しか通ることが許されない“永平寺の玄関口”なのだとか。
その後、長い階段の回廊を上り、ご本尊を安置する仏殿、最上段にある説法などのお勤めが行われる法堂を廻って、回廊を下って伽藍を一周します。廊下も階段も、毎朝濡れ雑巾で清掃されているのでしょう。キレイに磨かれ、塵一つ落ちていません。そうやって修行されることで、心の中も浄化されていくのでしょう。
永平寺もちょうど紅葉の盛り。山門からは「ゆく年くる年」で除夜の鐘が放送される鐘楼が望めます。回廊を歩きながら、すれ違うお坊さんは皆さん静かにお辞儀をされて行かれますので、自然と我々もお辞儀を返します。そうしたことも含め、座禅をせずとも、拝観する誰もが静かに呼吸を正し、自然と背筋を伸ばして心を静めていく気がします。
加賀、越前と言えば、一揆の嵐が吹き荒れた一向宗の本拠地でもあった筈。770年前に、この山深い里に禅宗である永平寺を招いた越前の人たちに想いを馳せます。
何年か前、NHKの新日本風土記で永平寺が特集されたことがありました。その中で修行に励む若い雲水さんと町の人々の交流が描かれていましたが、770年の時を経て、里の人々の中にも信仰と永平寺への尊敬が普段の生活の中にお寺さんと一体となって息づいていました。
 参拝を終え、門前町で永平寺名物の越前おろしそばをいただきました。そこは老舗というお蕎麦屋さんで、新蕎麦で自慢の二八蕎麦と仰っていたのですが、
 「う~ん、こんなモンかなぁ・・・?」
特に新ソバの香りもなく、二八の喉越しも今一つ。辛味大根も坂城のネズミ大根の方が遥かに辛いし、ぶっかけのつゆも甘すぎて・・・。禅宗らしく、胡麻豆腐も小鉢で添えられていたのですが、二つ食べられた奥さま曰く「普通・・・」とのこと。
 「信州から来て、蕎麦を食べてはアカンかったか・・・?」
もっと評判の高いお蕎麦屋さんが他にあったのかもしれませんが、感動した永平寺に比べ、チョッピリ残念な“名物”でした。

 翌朝、ワンコたちの早朝散歩の後、朝食を食べてからワンコたちをドッグバギーに載せて温泉街を散策してみました。
山代、山中、片山津の加賀温泉郷の中で、開湯1300年と云われる山中温泉。奥の細道の旅の途中で、終点の大垣を前に旅の疲れを癒すべく、芭蕉が九日間逗留した温泉で、
 「山中や 菊を手折らぬ 湯の匂い」
(薬効のある山中温泉のお湯ならば、菊の露など飲まなくても700年の不老長寿が得られるに違いない)とその名湯ぶりを称え、またここで、これまで同行して来た曾良と別れる際に、
 「今日よりや  書付け消さん  笠の露」
(今日より一人旅となるから、笠に書いた「同行二人」の書付を、落ちる涙で消すことにしよう)と詠んだそうです。

 山中温泉は大聖寺川に沿った温泉街で、文字通り山の中にあり(10月に、町の近くで熊が出没して全国ニュースにもなりました)、そのメインストリートが“ゆげ街道”と呼ばれています。
町の観光案内のパンフレットに依れば、
『総湯「菊の湯」からこおろぎ橋付近まで約600メートルの目抜き通りです。山中漆器や九谷焼などのギャラリー、カフェやお食事処が数多く軒を連ね、人気のコロッケ店など個性ある魅力的なお店もたくさんあります。電柱がなく幅の広い歩道が整備されており、温泉街の情緒を感じながらのんびりと散策ができます。』
とのこと。

ちょうど紅葉の盛りを迎えていたので、ワンコと自分たちの朝食の後、先ずは山中温泉の景勝地である大聖寺川の渓谷の鶴仙渓を歩いてみることにしました。川沿いには遊歩道も設けられていましたが、階段が多くてドッグバギーでは無理だったので、「こうろぎ橋」付近の紅葉を愛でてから、温泉街に戻って「ゆげ街道」を.散策しました。
こうろぎ橋付近から「総湯 菊の湯」辺りまで600mの「ゆげ街道」は、国道364号線に沿った山中温泉街の南側半分。聞けば、平成に入ってから、道路幅6mから倍以上へと拡幅するのに併せて全店舗を再構築と大改修を行い、電線を地中化するなどして10年近くを掛けて温泉情緒ある街並みに変貌させ、「ゆげ街道」と名付けたのだとか。
山中温泉そのものは先述の通り1300年の歴史があっても、ご多分に漏れずバブル崩壊で大手鉄道資本が経営するホテルが破綻するなど温泉地として衰退する中で、危機感を持った町全体が一体となって活性化に取り組んできたのだそうです。ゆげ街道と呼ばれる道沿いには、温泉旅館の他に、九谷焼や山中漆などの土産物店、ギャラリー、飲食店などが道の両側に軒を連ねています。
勿論、若者向けの安価なホテルチェーンの進出などの効果もあったのかもしれませんが、元々あった温泉地としての歴史や九谷焼や山中漆発祥の地という文化、鶴仙渓という自然などの資産を中心に、観光地全体としての魅力をふまえ、温泉街の散策を楽しめるようなギャラリーや喫茶、食べ歩きの店など、若者向けの店舗を融合させてきた結果なのだろうと思います。
山中温泉の大きな旅館の駐車場を見ると、関西系のナンバーの車が過半数を占めています。やはり、関東からは車で来るには加賀温泉郷は遠過ぎると云えます。勿論、北陸新幹線効果で金沢観光とセットで関東圏から車ではなく電車で来られている方も多いのかもしれません。
実際に歩いてみて感じたのも、思いの外観光客が多く、それも意外な程若い人たちが多いことでした。例えば、閑散とした松本の浅間温泉や上諏訪温泉と比べると雲泥の差。同じ温泉地、しかも“山の中”の温泉地で一体何が違うのだろう?と散策しながらずっと考えていました。山中温泉も歴史ある総湯を除けば、個々のコンテンツそのものはそれ程大したモノではないのです。美しい渓谷はどこにでもあるでしょうし、山中座も古くはなく、九谷焼や山中塗の他は、別に地元出身でもない片岡鶴太郎のギャラリー、食べ歩きは人気のコロッケにお団子・・・。美味しかったけれど別に唯一無二ではない。
片や、松本の浅間温泉や美ヶ原温泉、また上諏訪温泉にも個々には大人気で予約が取れなかったり、ユニークな取り組みで話題となっている温泉旅館もありますが、果たして街全体ではどうか?やはり、一体となって温泉街全体としての魅力を高めないと(例え名所旧跡が無くとも、そぞろ歩きが楽しい街にしないと)ダメなのではないかと感じました。信州の温泉地も個々には魅力のある温泉や、飲食店、自然などのスポットはありますので、それを如何に連携・連動させてエリア一体となった魅力創りを以て、先ずは若者向けに発信する・・・。若い人が来れば、ヤングファミリーも来る。やがて家族連れも来る・・・。年寄りたちもワンコもついて来る・・・。
山中温泉を歩いてみて、今観光で若い人たちが多いという熱海と何となく似た印象がしました。
 夕方、ワンコたちを部屋において、紅葉のライトアップがされるという鶴仙渓の遊歩道をもう一度歩いてみることにしました。
こうろぎ橋から大聖寺川の川沿いの遊歩道を歩きます。木製の「こうろぎ橋」から渓谷に沿って、草月流の家元がデザインしたという現代風の「あやとり橋」まで歩いてみましたが、熊騒動のせいか、歩いている人はあまり居ませんでした(確かに、毎朝熊注意を呼び掛ける拡声器での町内放送や、ホテルのフロントでも早朝の渓谷や山間の散策は控える様にとの注意はありましたが・・・)。そのため、散歩を希望した奥さまは、何か音がする度に、
 「ク、熊じゃないよね!?」
と怖がるので、せっかくの景観を楽しみながら散策する気分には全くなれませんでした(・・・トホホ・・・)。

 昨年11月からほぼ2ヶ月間に亘った母屋の片付け。
奥さまと二人で二週間ほどぶっ続けで毎日母屋の片付けや整理に追われ、「このままやれば何とかなるかも・・・」と家の中が或る程度方向性として目処が付いて来た際に、今後の英気を養うべく、少し骨休めをすることにしました。
年を取ると、こういう場合の“骨休め”は温泉です。ノンビリと温泉に浸かってリラックス・・・。云わば“湯治”でしょうか。勿論、信州にもたくさん温泉はあるのですが、出来れば日常を忘れて美味しいモノも食べたい!・・・となると、山国信州ではなく、お魚の美味しい海の近くの温泉へ・・・ということになります(本当は、元々この時期に計画をしていたので、結果、やっぱり行こうと実行しただけですが・・・)。

 そこで色々検討して選んだ先は北陸。例えば、高校野球の地区割でも「北信越」と云われる様に、新潟、富山、石川、福井は長野と同じエリアですし、ブリ街道と呼ばれる様に富山の氷見のブリや、臨海学校などで“信州の海”とも称される新潟は昔から馴染みがあります。職場旅行でも能登や金沢、山城温泉や東尋坊、永平寺などへも行きました。そこで探してみると、ドッグヴィラの在る施設が石川県の加賀温泉郷の一つである山中温泉に見つかりました。
石川県なら金沢も近い筈。そこで、今回は、北陸の加賀温泉郷を目指して行ってみることにしました。
松本から石川県の加賀市にある山中温泉までは幾つかルートがあるのですが、どれもNAVI上で凡そ250㎞で5時間の行程。最短ルートは、安房トンネルを抜け、富山から北陸自動車道に乗るか、高山経由で東海北陸自動車道から富山県の砺波で北陸道に合流するコース。或いは、松本から“塩の道”を行って新潟県の糸魚川から北陸道に乗るコース。
昔、金沢経由で和倉温泉と山城温泉に二泊し、輪島と永平寺も観光した職場旅行では、長野経由でずっと高速道を走るので、バスの運転手さんに聞くと、観光バスだと、安房トンネルを抜けるカーブの多い山道よりも、松本からずっと高速を走った方がお客さんは快適だし距離は長くなるが然程時間は変わらないという回答でした。また、以前(7年前のまだ長野新幹線時代)、バスツアーに申し込んで東京から新幹線で来られたツアーに合流した時は、途中飛騨高山と冬ライトアップをしている雪の白川郷を観光して金沢に泊まるツアー(第717話)でしたので、当然のことながら高山から東海北陸自動車道で白川郷から砺波へ北上するルートでした。
今までは自分では運転はしていないものの、松本から金沢はそれ程遠いという感覚は無く、以前も下呂へは行っていますし(第1323話)、スタッドレスタイヤを履いていても雪の安房峠越えをする気はありませんが、この時点(11月)ではまだ雪のシーズンには早かったのでそれ程心配はしていませんでした。但し、既に松本から見る白馬方面の後立山連峰は既に真っ白なので、白馬を超えていく塩の道ルートは日本海からの吹き溜まりで平地でもみぞれや降雪もあり得るので、冬タイヤ装着前ではパスです。

 11月中旬。途中、ランチとワンコたちのトイレ休憩も入れて、余裕を見て9時半に出発。NAVIの示したルートは、やはり富山経由のルートです。数年前に、松本市が主催して家族を介護している人たちを対象とした慰労を兼ねた和倉温泉に泊まる研修ツアーに奥さまが参加した時も、富山経由だった由。
ただ、途中の国道471号線が今夏の豪雨災害で通行止めになっている箇所があり、迂回路が設けられているとのこと。
安房トンネルを超えて平湯までは順調です。そこから高山方面ではなく、富山神岡方面へ。奥飛騨温泉郷の温泉街を抜け、奥飛騨温泉郷の道の駅でトイレ休憩です。

 その後も上高地へ至る山岳路の様な山道が続き、途中所々で夏の豪雨災害の復旧工事での片側通行区間があり、思いの外時間が取られます。
神通川水系を下っていくと、途中歴史教科書でも読んだ神岡鉱山やカミオアカンデの横を走り、漸く道が広くなったら富山平野です。
我が国初の公害病であったイタイイタイ病を教科書で知る程度の知識では、神岡鉱山に掲げられていた「環境保全に配慮する」という宣言も、その後の経営努力や改善効果を知らない私メには何だか皮肉にしか感じませんでした。
高速道に乗る前に、以前奥様が和倉温泉に行く時に立ち寄ったという富山の回転寿司でランチを食べて、漸く北陸自動車道へ合流です。

 富山から金沢は意外と近かったのですが、金沢から白山を過ぎると高速道路から海が見えます。山国の人間は、海を見ると異様にテンションが高まります(かと言っても、精神的には山の方が安心ですが)。
空港の在る小松を過ぎると漸く加賀市に入り、途中寄る所もあったので片山図ではなく加賀ICで高速を降りて山中温泉へ向かいました。

 休憩時間を含め、ほぼ6時間半。北陸道は、昔倒れた父を鶴岡へ迎えに行った上越から山形まではかなり路面が痛んでいた記憶があるのですが、今回は路面も補修もされていて快適なドライブでした。
しかし、他の高速道に比べるとSAやPAが些か貧弱な気がしました。ドッグランの在るSAは、富山から新潟へ行く途中の氷見だけで、富山から加賀の間にはありませんでした。
また高速道はともかく、平湯から富山までの遠いこと。松本から富山の手前までは、(上り下りは別として)何だかずうっと上高地へ行く山道を走っているイメージなのです。富山平野に出れば道路も広くなり、視界も開けるのですが、そこまでがずっと山の中。
そして富山から高速道路に乗ってしまえば、金沢はすぐなのですが、金沢を過ぎてから加賀温泉郷までも意外と遠いこと。
今回も高速道ではオートクルーズ(ACC)で快適でしたが、なにしろ高速に乗るまでが遠い。観光バスのプロのドライバーが、長野経由でずっと高速道を選択したのも、自身が楽だからではないかと思える程で、走った距離以上に疲れた“ロングドライブ”でした。
我が家の近所のサービスアパートに富山ナンバーの車が停まっていて、恐らく単身赴任なのか週末は車がありませんが、毎週この道を松本から富山まで走っているかと思うと、家族に会える喜びに勝るものは無いとはいえ、その大変さに同情を禁じえません。ですので、加賀温泉郷はと言うよりも、それに至る松本から富山までの道のりが想像以上に遠かった・・・!

 コロナ禍の中で行われた、今年の箱根駅伝。
正月三が日は他に楽しみも無いので、駅伝ファン(スポーツ何でもファン)としては箱根駅伝の開催は有難かったのですが、沿道での観戦自粛が呼び掛けられ、恒例のチア合戦や優勝チームの出迎えや胴上げも無い異例のレース。そんな異常さが生んだとしか思えない、あり得ない様な最終10区での3分19秒の大逆転劇。劇的と言えば確かに劇的であり、その意味で成し遂げた立役者の選手たちはヒーローとしてスポットが当たるのは当然です。

 しかし今年は・・・。それは見ている自分が単に年を取ったせいなのか、しかも人生の半分以上を超えての“下り坂”故なのか、はたまた今年の異常な“コロナ禍”のせいなのか、今年の箱根駅伝を見終えての感想は・・・「残酷すぎる!」。
そして気になったのは、ヒーローとなった選手たちではなく、おそらく“敗戦の責任”を一人で背負うであろう、最終10区で大逆転をされた創価大小野寺選手であり、山登りの5区で4度立ち止まってしまった青学の竹石選手など、敗因の原因を作ってしまった選手たちでした。

 「彼らは大丈夫だろうか?立ち直れるのだろうか?また前を向けるのだろうか?」
 「それにしても、“駅伝の神様”は余りに残酷過ぎる!」

 レース後の報道に依れば、創価大の小野寺選手はツイッターで「ごめんなさい」と誤った後、「全部受け止めて来年強くなって戻ってきます。」と記したとのこと。それを知ってホッとしました。来年はシード校故に、本選出場は間違いないので、是非鍛錬し鍛え上げ、学内選考に勝ってリベンジの走りをして欲しいと思います。
どの大学もゴールでの出迎えを自粛し寮でレースを見守っていた中で、TVで放送された創価大の選手たち。最終区残り2㎞でのまさかの逆転時はさすがに茫然としていましたが、最後小野寺選手が2位でゴールした時には皆で拍手をしていた光景に些かなりとも救われた思いでした。
彼は3年生ですので、もう一度やり直すことが出来ます。しかし、3年生の時に失速し、昨年はエントリーもされず、そのため卒業せずに留年してまでして再度同じ5区山登りに挑んだ青学の竹石選手。誰のせいでもない、自分自身に敗因があり、飽くまで自己責任とはいえ残酷な、余りに残酷な・・・。
正直、今までTV画面からは目立ちたがりに見えて好きではなかった青学の原監督ですが、今回直前の故障で走れなかった主将の神林選手に対し、指導者としての自責から、レース前に選手全員に「仮に品川の八ツ山橋で歩いて駄目になっても俺は神林を使いたい。もし棄権してシードを逃して来年予選会からになっても構わない!」とまで言ったといい、レース後目を真っ赤にして彼へエールを送る監督を見て、「イイ監督だなぁ・・・」と素直に感動したのですが、もしそうであれば、「箱根の借りは箱根で」というリベンジの機会がもう無い竹石選手にも、一日目の「ゲームオーバー」ではなく、レース後に一言でもTV画面を通じて(きっと直接的には労いの言葉を掛けたでしょうけれど)エールを送って欲しかった・・・。
5区で区間17位だった彼一人が往路での青学失速の原因ではなく、2区と3区も同じく区間14位と沈んだのに、往路の最終区で立ち止まってしまった彼が結果的に目立ってしまったが故に・・・。

 それにしても再三にわたり沿道での応援を避ける様にとのアナウンスがされ、一生に一度、場合によっては競技から引退する4年生は最初で最後の晴れ舞台に、声を枯らして沿道で直接応援したかったであろう家族や関係者の人たちが皆主催者側の指導を踏まえてTV画面を通じて応援をしている中で、沿道に繰り出した“赤の他人”たち、その数18万人とか。
だったら、余程そうした一般の人たちは入場禁止などの制限をして、むしろ家族や大学関係者たちだけが沿道で一生に一度しかない応援が出来るようにしてあげた方がどれだけ良かったかと思わざるを得ませんでした。
そりゃ、もし自分の家の前の道路を走るならいざ知らず、臆面も無くTV画面に向かって手を振ってTV桟敷の前の全国5000万人にご自身のその馬鹿面を晒すジイサン、バアサン、オッサン、オバサンに若者たち・・・。
そんなアホな輩どもを見るにつけ、コロナ感染第一波の時の“民度の高さ”など一体どこに消えたのか、「ナルホド、これじゃ感染拡大が収まる筈も無い」と新年早々逆に得心出来たのは、或る意味全く以て情けない限りでした。

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