カネヤマ果樹園 雑記帳<三代目のブログ>

 前回の「三屋清左衛門残日録」をきっかけ、久し振りにまた読み返している藤沢周平作品。
映画化された作品も幾つかある中で、例えば山田洋二監督が映画化をした「たそがれ清兵衛」。しかし、原作では「たそがれ清兵衛」の由来である下城の時刻になるとすぐに家に帰るところ以外は、むしろ「たそがれ清兵衛」に一緒に収められている「祝い人助八」(ほいとすけはち)が映画のストーリーと殆ど重なっている(他に「竹光始末」も)のは良く知られたところだと思います(映画で、幕末に時代設定をした以外は)。
 久し振りに文庫版で「たそがれ清兵衛」に収められた全8作を読み返してみて、それぞれに趣がある中で、今回一番印象深かった作品は「日和見与次郎」でした。
本作では、与次郎を取り巻く、従姉の織尾もですし、また与次郎の妻の瑞江も魅力的に描かれています。藤沢作品では、主人公の生きざまと共にそれを彩る女性たちも実に印象的です。
 「これ、絶対映像化すればイイ作品になるだろうけどなぁ・・・。三作(注)で終わらずに、山田洋二監督の四部作目にしてくれないかなぁ・・・。」

 藩の権力争いで父の与していた派閥が敗れたために、家禄を半減された藤江家。父からの遺言で、藩の派閥争いには二度と加わるなという亡き父の教えの下、“日和見”と揶揄されても中立を貫く与次郎。
その貧乏侍の藤江家に嫁ぎ、貧乏暮らしのために本来の育ちの良さで子供の頃から明るかった瑞江からその明るさが消えたと思い、肩身の狭さを感じている与次郎。しかし、或る日与次郎の留守に訪ねて来た義兄と妹である妻瑞江のやり取りで、
 「いつまでもこんな長屋に住んで、外回りの小役人では仕方あるまい。」
と、自分の側の派閥に入る様に勧める兄に、
 「兄さまから見れば見るに忍び無い粗末な暮らしかもしれませんが、今の穏やかな暮らしが続けば出世などしなくともようございます。与次郎どのをそういう危険なあつまりに誘うのはやめて頂きます。」
と、きっぱりと派閥入りを断る姿に、凛とした清々しさを感じます。

 昔、縁談が決まった10歳も年上の美しい従姉の織尾に、自身の思慕の思いを告げずにはいられなかった15歳の年の藤江与次郎。その後すぐにそれを恥じて、付文を返してもらう際に、織尾から
 「このことは二人だけの秘密にします。でも、手紙は良く書けていましたよ。わたしの旦那さまが決まった後では、残念ながら手遅れでしたが・・・。」

 織尾の嫁ぎ先だった杉崎は若手の出世頭として藩主から重用され、藩の財政改革案を決定すべき重責を担い、藩を二分する権力争いに巻き込まれ改革案が取り上げられなかった派閥の黒幕から一族全員が惨殺され、屋敷を焼かれてしまうのですが、与次郎は杉崎の身に危険が迫りうることを知りながら何もしなかった自身を責め、処分された一派の陰に隠れ何もお咎めが無かったその黒幕に対し、従姉夫婦の仇を討ち果たす物語です。

 青春時代の甘酸っぱさと、慕う従姉を守ってやれなかった自責の念。
仇を討ち、闇の中を疾走しながら織尾の声が聞こえた気がした与次郎。
 「与次郎どの、今夜はずいぶんと手際のよろしいこと、お見事ですよ。見たのは私一人・・・。二人だけの秘密にしましょうね。」
 見事に仇を討った爽快さよりも、甘酸っぱさと悔恨の念でのほろ苦さを感じながら歯を食いしばって走る与次郎と共に、こちらも読後の余韻に暫く包まれていました。
【注記】
藤沢周平作品を山田洋二監督が映像化した時代劇三部作。第一作目の「たそがれ清兵衛」。二作目は「隠し剣 孤影抄」に収録されている「隠し剣 鬼の爪」と「邪剣竜尾返し」、更に短編「雪明かり」をベースにした「隠し剣 鬼の爪」。そして最後の三作目は、短編「盲目剣谺返し」を基に描いた「武士の一分」。

 現役唯一の人間国宝の落語家だった柳家小三治師匠(本名・郡山剛蔵さん)が7日、心不全のため亡くなりました。まだ81歳でした。
師匠の柳家小さん、桂米朝に次ぐ三人目の“人間国宝”であり、“昭和の名人”と云われた噺家でした。
高座を大事にした噺家なので、あまり録音や録画に触れる機会が無く、勿論生で聴いたことも無いのですが、図書館のCDコーナーにある古い録音で、「芝浜」と「高砂や」を聴いたくらいでした。
それが、最近なのか、「令和の新シリーズ 小三治の落語CD」と題された全6巻のCDがコーナーに並んでいたので、その中の2枚組の「ま・く・ら」2巻をたまたま借りて聞いていたのですが、その借りて聞いていた間に師匠の訃報が飛び込んで来たのです。
訃報を伝えるTVのテロップに、「えっ・・・」と一瞬絶句。そして、ちょうど師匠のCDを借りていた、まさかの偶然に唖然・・・。

 本来落語のまくらはネタへの導入部分なのですが、小三治師匠の「まくら」は「まくら」そのものが芸で、その「まくら」を聞きに来る客も多いという“伝説”があり、その結果「ま・く・ら」と題した師匠の「まくら」だけを集めた本やCDが出版されているのです。前述の「芝浜」などの古典落語のCDは、当然ネタがメインのCD故、まくらを楽しむことは出来ません。
そこで、1999年から2011年までに行われた「朝日名人会」での音源から厳選されたという、この全集に収められた師匠の十八番と云われる「猫の皿」や「鰻の幇間」、「厩火事」といった古典落語のネタではなく、先ずはこの「ま・く・ら」のCDを借りた次第です。

 2巻4枚のCDには、「あの人とってもこまるのよ」と「人形町末広の思い出」(注)と題された「まくら」が2題入っているのですが、その「まくら」がそれぞれ1時間半~2時間・・・。これって「まくら」じゃない・・・。それもその筈で、最初から「まくら」だけを演ずる前提の独演会だったのだそうです。
他の独演会の高座でも、まくらを1時間近くしゃべった後でネタを15分話して終わりという様な高座もあったといいます。そのネタは前座ネタである「道灌」だったとも・・・。是非一度師匠の演ずるその「道灌」を一度聴いてみたかったと思います。というのも、師匠の弟子である柳家三三師匠が落語監修をした尾瀬あきら氏の「どうらく息子」で、酒に溺れた夢六師匠復活の高座ネタが「道灌」でした。
 落語ではなく、ピアニストを頼んで好きな歌を歌うだけのステージもあったという師匠だけに、「あの人とってもこまるのよ」では好きだという師匠の歌う中田喜直の曲も収録されているのですが、正直、師匠の歌を聞きたいとは然程思えませんでした(残念ながら、所詮は素人の域)。
一方の「人形町末広の思い出」には前座時代からの思い出が語られますが、芸に厳しかった「名人圓生」に憧れ、その三遊亭圓生からも可愛がられて一時は圓生一門より自分の方が上手かったという亡き圓生のモノマネ。一字一句変えてはいけないという圓生に稽古をつけてもらった「蒟蒻問答」で、後で正蔵(彦六)師匠と師匠の小さんに圓生の間違いを指摘されて直し、或る日その「蒟蒻問答」を高座に掛けていた時に、人形町末広の楽屋に圓生、小さん、正蔵の師匠三人が火鉢を囲んで黙って自分の口座を聴いているのを見て、高座で一体どうしたらいいのかと七転八倒し冷や汗をかいたというエピソード。“圓生のモノマネ”と兄弟子に馬鹿にされ“脱圓生”を目指したことや、やがては小さん師匠の云う「了見」を自然と目指すことになったことなど、「“放し飼い”にしてくれたのが良かった」という師匠小さんの思い出。更には、“兄さん”と慕った志ん朝師匠との弥次喜多道中の様な欧州旅行でのハプニング・・・などなど。
因みに、日常の世間話の様な師匠独特の「まくら」を話すようになったきっかけは、昔ラジオ東海で数年間深夜放送のDJ(ナナハンを乗り回し、スキーやオーディオなどの多趣味で知られる師匠が、好きなクラシック曲を何でも放送中に掛けても良いというので引き受けた)をしていた時に、毎回の深夜放送では台本が無いので、その日にあったことや感じたことなど、そんな世間話をただ喋っていたことだったという裏話も・・・。聴きながら、ライブでの聴衆同様に笑い転げていました。

 東大工学部卒のヘヴィメタ専門誌の編集長にして落語の評論もされる(というより、個人的にはブラスロックくらいならともかくヘヴィメタは一切聴かないので、落語に関する評論でしか氏を知らないのですが)広瀬和生氏の言を借りれば、小三治師匠は、
『落語という「形式」を語るのではなく、高座の上に「人々の日常」を描き出す。そこにあるのは誰もが共感する「人間という存在のかわいさ」。声のトーンや表情のちょっとした変化だけで笑わせてしまうのはまさに「名人芸」だ。』
写真(注:落語協会のH/Pから拝借しました)からも分かる通り、照れながら高座でニコッと微笑む顔が本当に可愛いとさえ感じられる小三治師匠なのでした。

 最後の高座は10月2日、東京・府中の森芸術劇場での「猫の皿」。更に、亡くなった数日後にも高座に上る予定だったという、最後まで現役を通した“昭和の名人”噺家小三治師匠。まさにアッパレなPPKでした。
謹んでご冥福をお祈りいたします-合掌。
【注記】
「人形町末広」は1867年開業という、江戸時代以来の客席全て畳敷きの落語定席で、1970年に閉場。(写真はカード会員誌の2016年「落語特集」に掲載)

 9月末、松本市役所に或る届け出に行きました。
その前に県の申請した書類に不備があり、松本の合庁の県の担当の方から電話があり、丁寧に説明を頂いた上で「市役所に行って〇〇の届をして証明書をもらってきてください」とのことでした。
住民票の様な一般的な申請書ではないので、先ず窓口(コンシェルジュ)で確認し、指示いただいた市民課窓口へ。そこで依頼内容を伝えると、だったらと、同じ市民課の別窓口へ案内されて男性の担当の方が担当してくださいました。
その方曰く、
 「この届出には〇〇の“写し”が必要ですが、原本は法務局にあります。」
とのこと。
松本市の地番に関することだったので、
 「法務局へ行かないとダメなんですか?松本市の地番に関することなのに、ここ(市役所)では分からないのでしょうか?」
とお聞きすると、
 「原本は法務局に在り、後で市にも“写し”が法務局から送られては来ます。」
 「提出しなければいけない書類は、市役所にある“写し”でも宜しいのですか?」
 「ええ。でも市には後で送られて来るので・・・。」
と言われたので、申請書にはちゃんと取得時期を記入していますので、些かイヤミっぽく・・・、
 「あの、当該物件を取得したのは今から24年前ですが、20年経ってもまだ法務局から市には送られて来ないのでしょうか???」
 「あー、ええと・・・、それだと市民税課にあるかもしれませんネ・・・。」
 「“写し”というのは“コピー”で宜しいんですよね。原本ではなく、市民税課にあるその“写し”のコピーを頂ければ宜しいんですよね!?」
 「・・・えぇ~・・・ハイ・・・それでも結構です・・・」
 「“それでは”いけないのですか??」
 「いえ・・・大丈夫です・・・」

 そこで、市民税課の場所をお聞きして、別棟2階にある市民税課に伺い、趣旨を説明すると、親切に対応いただいた男性職員の方が
 「私も以前市民課に居ましたが、確かにこの書類の写しが必要ですよね。」
 「有料になりますけど、コピーを差し上げますね。」
と300円の手数料を払って、“写し”をくださいました。
そして、また一階に戻り市民課で書類を提出しました。
20分ほど待って手続きが終了し、必要な証明書を無事入手することが出来ました。
すると、その際、証明書と一緒に先ほど提出した“写し”が戻 って来ました。
 「えっ?・・・あのう・・・この“写し”は必要無いんですか???」
 「ハイ、確認出来ましたのでもう結構です。」
 「証明書の発行手数料300円いただきます」
 「・・・」

 えっ、一体何なのだろう・・・。決して600円を問題にしているのではありません。
申請手続き上の確認のために“写し”の確認が必要なのは分かります。
その写しは市役所から2㎞も離れた(国の)法務局に(原本が)あるから取りに行けと言われた市民課の男性担当者。片や、“写し”のコピーをすぐに取ってくれた市民税課の職員。
ただ、“写し”が同じ市役所内にあるのなら、(確認に必要な手数料を払っても良いから)無駄なコピーを取らず、職場間で確認できないのでしょうか?(今回で云えば、申請者を待たせて、市民課の担当が市民税課まで“写し”の確認へ行って来る)。
決して300円が問題では無く、紙の使用量を削減しようとどこの自治体も環境対策の“お題目”上は取り組んでいる筈・・・。
もしこれが民間企業なら、書類の在る「法務部へ書類の確認に行ってくるね!」とか、「経理に行って伝票を確認してもらうね!」となるのが普通ではないでしょうか?・・・。
建て替えせずに老朽化した半世紀以上も昔の庁舎を使っている、松本市役所故の不便さはあるのでしょうが、市民課から市民税課へは、東庁舎の一階から、横断歩道を渡った西庁舎の二階の市民税課まで歩いて数分の距離。市と県、市と国といった、権限や管轄の異なるお役所ならともかく、市民課も市民税課も同じ松本市役所内の別職場なのです。

 市の職員は“Civil Servant」”、市民へ仕え捧げる人です。
松本市が大好きで、生まれ育った松本のために貢献したいという高い志を以て奉職した皆さんである筈です。勿論、イヤなこともあれば、日々「コンチクショウ!」と思うこともあるでしょう。
しかし、利益創出のために社内では一円を削り出しながら、外部のお客様には如何に満足をしていただけるかを日夜考えている民間企業ではあり得ない対応ではないでしょうか???
トップが替わろうと、こんな職員じゃ何も変わらないだろうな・・・と思えた、呆れてガッカリの松本市役所でした。

 正直、そんな文句の一つも言いたいところ・・・。
しかし出来る筈もなく、はぁ~・・・と溜息をついて、自分の胸の中でブツブツ嫌味を言って市役所を後にしました。
 「イヨッ、見事なお役所仕事。はぁ~あ・・・、アッパレ!!」

 10月3日の日曜日。いつもの早朝ウォーキングです。
朝7時半頃自宅を出て、旧開智学校から松本城公園を通って、四柱神社から天神の深志神社まで。駅周辺でモーニングを食べて少し英気を養って帰りの登り坂へと、往復8~9㎞のコースです。

 朝8時。お城の開門までは30分あるので、まだ松本城の観光客は疎ら。緊急事態宣言が解除され、週末は松本にもかなりの観光客が来られていますが、まだ街中も静かです。
いつも通りに大名町から女鳥羽川沿いの縄手通りへ。正面鳥居から境内に入って先ずは四柱神社へお参りです。
すると、まだ閉まってはいましたが露店が幾つも並んでいて、境内には提灯と大きな幟も飾られていました。
 「あっ、そうか・・・。神道祭りだ!」
曜日に関係なく、毎年10月の1日から3日まで行われる、松本四柱神社の例大祭である神道祭り。正しくは神道祭(しんとうさい)ですが、子供の頃から「神道祭り(しんとまつり)」と呼んでいましたし、四柱神社のことも「神道神社(しんとじんじゃ)」と呼んでいたかもしれません。

 神社庁の四柱神社のH/Pに依れば、
『明治天皇御親政に当り、惟神の大道を中外に宣布し給う思召しを以て、筑摩県庁の所在地である松本に、明治7年2月神道中教院(宮村町長松院跡、後神道事務分局)が設立され、院内に天之御中主神・高皇産霊神・神皇産霊神・天照大神の四柱の大神が奉斎されてきたが、明治12年10月、新たに一社を興し、四柱神社として、現在地に厳かに鎮斎され、隣接して神道事務分局も新築せられたのである。その経費は、中南信全域(旧筑摩県)の神職、県庁その他諸官衙、一般篤志家の浄財と奔走によった。翌十三年六月、当地方に初めて行幸があり同月四日、新築新装なったばかりの神道事務分局を行在所を定められ、松本に陛下をお迎えできたのであった。この由緒ある社殿及び事務局の建物の一切が明治二十一年一月四日の松本大火に類焼、以来仮殿に奉斎されて来たが、大正十三年に至りようやく御鎮座当初と同じく中南信全域の奉賛を得て、現在の社殿が再建された。ちなみに、前述の縁由によって、当地方では四柱神社と申し上げず「しんとう」(神道)の呼び名で広く一般市民に親しまれている。加えて当神社例祭も"神道祭″と呼ばれ、松本平を代表する盛大秋祭として斎行されている。』
とのこと。
要するに、明治になって国家神道として神道を国教化するにあたって、松本でも天照大神を始め四祭神を奉る四柱神社が明治12年の10月に建てられ、翌13年には明治天皇の行幸時に四柱神社が行在所になったということで、四柱神社そのものも新しいのですが、10月の創建を記念した例大祭が神道祭ということです。
明治になっての最初の藩知事となった最後の松本藩主戸田光則の主導により、松本は、新政府の王政復古に伴う国家神道化に関連した廃仏毀釈運動が全国でも最も激しく行われた地の一つと云われ、その吹き荒れた廃仏毀釈の凄まじい嵐の中で、180あった松本藩内の寺の内8割にも及ぶ140の寺が廃寺になったと云われますが、その反動で神道がもてはやされた証が、この四柱神社創建とその例大祭の盛り上がりだったとも言えるのかもしれません。

 堅い話はさておき、幼少時代、農家の子供が親に手を引かれ、松本の“町に行く”ことが出来たのは唯一この神道祭りの時だけでした(もしかすると違うのかもしれませんが、幼少期の自分の記憶では。例えば、初詣も昔は必ず地元の産土神でした)。
子供の目には“大都会”の様にさえ思えた、人出の多い賑やかな“町”を歩き、露店の並ぶ縄手通りから四柱神社へお参りし(この頃はまだ施しを求める傷痍軍人の方々が街頭におられました)、せいぜいラーメン(支那そば)か信州蕎麦だったと思いますが、年に一度の“外食”で“ご馳走”を食べるのが唯一の楽しみだったと記憶しています。そういう意味で、子供心にはお正月よりむしろ神道祭りの方が楽しみだったと思います。
今では色んなイベントがあり、我が家の子供たちは(彼女等の幼少時代はシンガポールだったこともありますが)神道祭りには一度も行ったことは無かったかもしれません。少なくとも、年に一度の神道祭りを楽しみに“町へ行く”という様な昔のワクワクした感覚は、今の時代は全くありません。従って、我が家同様に、神道祭りの市中の熱気も昔ほどでは無いのでしょうが、それでも神道祭りと聞くと、少なくとも私メは昔を思い出して何となく高揚感を多少は感じる気がします。
 昔ほどでは無いにしても、露店が並び、提灯や幟が飾られて、いつもの境内とは違って華やいだ雰囲気。朝早く、まだお祭り前の準備で、禰宜さんたちや巫女さんたちが境内を掃き清めたり、神事の準備をしたりと忙しそうに動き回っておられました。
参拝のためにいつもの様に手水舎で清めていると、どこからか「因幡の白兎」のメロディーが聞こえてきました。四柱という四祭神の中に天照大神はいても、国を譲った大国主命はおられなかった筈・・・。
 「えっ、何で大国主?」
すると、昔の神道祭りでの記憶には無かったのですが、境内に人形の舞台が作られていて、その舞台が「因幡の白兎」の場面だったのです。ウサギを助ける大黒様とワニに皮をむかれて真っ赤になったウサギなどの人形と共に、その縁起と歌詞も掲示されていて、正しくは唱歌「大黒様」がその題名と知りました。
 『♪大きな袋を肩にかけ 大黒様が来かかると ここに因幡の白うさぎ 皮をむかれて 赤裸』
という懐かしい歌詞。
因みに、剥いだ皮を口にくわえたワニはちゃんと鮫でした。余談ですが、中国地方では今でも鮫の切り身がワニと呼ばれてスーパーなどで販売されているそうですが、子供の頃、この昔ばなしを初めて聞いた時に、どうしてこの日本に熱帯のワニがいるのかと訝しんだ(ウソだと思った)記憶があります。

 お参りした後で、そんな賑やかに飾られた境内を歩いていると、何となく昔の子供時代にタイムスリップした様な、子供の頃の“神道祭り”のワクワクした気持ちが少し湧いてくる様な自分がそこに居て、懐かしく感じて暫し境内に佇んでいました。

 二度の幕内優勝と三役在位が通算26場所と、その素質を高く評価される長野県木曽郡上松町出身(注)の関脇御嶽海。
これまで何度も大関昇進の可能性がありながらことごとく失敗し、同じフィリピンハーフの先輩力士の高安、学士力士の先輩正代、後輩貴景勝・・・と、後からチャンスを掴んだ力士が皆追い越して先に大関に昇進。気が付けば、もう28歳・・・。

 横綱輪島の出身の地でもあり、昔から相撲が盛んな土地柄の石川県(現役では遠藤)は別格として、他は相撲不毛の地だった甲信越・北信越出身力士たち。先ずは富山県出身の元大関朝乃山、新潟県出身の豊山、山梨県出身の竜電。そして歴史上何かある度に、江戸時代の無敵雷電まで遡る、それ以上に大相撲不毛の地だった長野県で現役唯一出身の御嶽海(昔平幕ですが、190㎝の長身を生かした吊り出しを武器に、前頭上位までいった大鷲という長野県出身の関取がいて、結構好きな力士でした。今は故郷の佐久に戻り、ちゃんこ屋さんを経営されています。全くの下戸で、現役時代に好きなコーヒーを飲みに “チャリンコでの喫茶店巡り”が趣味と新聞報道で見た記憶があります)。
まさかのうぬぼれか、コロナ禍での自業自得の不祥事で出場停止と降格(中には再起不能も?)の憂き目にあった、先述の一時輝いていた甲信越出身の力士たち。
本人が引退宣言するまで降格の無い横綱とは異なり、せっかく大関に昇進しても、常勝でなければ、一場所でも負け越せば翌場所はカド番を勤めねばならず、常に陥落するリスクのある大関。
せっかく努力して大関になったのに、昇進前の勢いは何処へやらの“クンロク大関”と世間的に責められるくらいだったら、そうした責任の無い平幕の方が余程イイ!とばかりの、片や“暖簾に腕押し”気味の我らが御嶽海。
アマチュア横綱を勤め、天才的と評される相撲勘をはじめ、誰もがその素質を認め期待するのに、怪我をしてもしょうがないとばかり、追い込む程の稽古をせずに、常に稽古不足と批判され続ける御嶽海(実際、以前の本場所の立ち合いのぶつかりで額を切り、翌日「当たると痛いから」と立ち合いでぶつかるのを避けて親方衆から批判を浴びました)。
「怪我をして欲しくない」と大相撲入りを反対し続けたという、本人より人気のお母さんと云われるフィリピン人の陽気なマリアさん。彼もバラエティー番組などにも呼ばれることもりますが、お母さんに似て、茶目っ気もあって憎めない、愛すべきキャラクター。
TV桟敷でいくら応援し、いくらその取り組みを批判してどんなに歯痒いと言われようが、相撲を取るのは本人。負け越しやケガで降格を(結果、物理的な実入りが減ることも含め)受け入れざるを得ないのも、飽くまで本人。

 こうしたことを考えると、歯痒いと、それこそ毎場所歯軋りをしているであろう北の富士(「何度も裏切られたが」と言われながら、今場所も優勝した新横綱照ノ富士の対抗馬に御嶽海を挙げられていたのですが)や舞の海といった解説者の方々のみならず、TV桟敷で何度も溜息をつく我々地元ファンなのであります。
 「あ~ぁ、だからやっぱり期待しちゃいけなかったんだ・・・」
但し、そうは言っても毎日それだと精神的に良くないので、最近は過度の期待をせず、一喜一憂する本割もTVでは生で視ず、結果だけを後で確認する様にしています。
だから、もう少し“多め”に場所前に稽古して、毎場所優勝争いをする様な地力が付いてから大関に昇進すればイイと思います(そうでなければ、今のままでイイ。カド番で毎日ヒヤヒヤするのは心臓に悪い!)。
でも、そんな日がいつか来ることを願って・・・、一応“ガンバレ御嶽海‼”
【注記】
昭和53年(1978年)の「やまびこ国体」で旧木曽福島町(現木曽町)
が相撲会場となって、今も使われている立派な相撲場が作られて以来、木曽は長野県内での相撲のメッカとなっています。
そして、御嶽海の母校である長野県の木曽町中学校相撲部が、今夏の全国中学校相撲選手権大会で見事団体での準優勝を果たしました。決勝進出は21年ぶりの快挙だそうです。目標にしていた日本一こそ逃しましたが、同校相撲部は、前身の福島中学校時代から全国大会の常連。ただ、決勝進出となると、2000年に全国制覇をして以来のことだったそうです。
長野県出身の二人目の現役関取となるような、御嶽海の後輩が育つのも間もなくかもしれません。

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