カネヤマ果樹園 雑記帳<三代目のブログ>

 高校駅伝の行われた、その12月21日の午後。松本市民芸術館で上方落語の桂二葉独演会が開催され、前売り券を事前に購入してあったことから聴きに出掛けました。
数ヶ月前に購入したので、独演会の開催日が毎年楽しみにしている全国高校駅伝の当日だったとは“露知らず”、結果“後の祭り”ではあったのですが、戦前から女子の長野東は優勝争いをすると思っていましたが、片や3連覇の掛かった男子の佐久長聖は今年は無理で、せいぜい入賞争いだろうと予想していましたので、結果、午前中の長野東優勝の女子の部はしっかりTVで観戦出来たことから、予定通り落語を聴きに出掛けた次第(結果は案の定・・・イヤ、残念ながらそれ以下でした)。


 上方落語の噺家、桂二葉。2021年に女性初のNHK新人落語大賞優勝者です(因みに今年、春風亭一花さんが女流噺家二人目の優勝者となりました)。
上方落語会の人気者で、その実力も丁稚の定吉や、憎めないアホな人物が登場する所謂「与太郎噺」を演じさせればまさに天下一品。
TVの人気番組への出演もあって、今や関西だけではなく全国的にもチケットが即完売の売れっ子噺家です。そんな彼女が、昨年の12月に続いて今年も松本で独演会を開催。
大阪は東住吉出身というチャキチャキの浪速っ子が、地方には珍しい古典芸能専門の北野演芸座の在る長野市ならまだともかく、全く縁の無さそうなこの松本に来て二年連続で独演会を開いてくれるのですから、地方に暮らす落語ファンとしては本当に有り難い限りです。
会場は昨年同様市民芸術館の小ホール。300席弱のホールですが、さすがに今や全国的な人気噺家ですので、おそらく追っかけも含め地方の落語ファンで今回も満席の盛況でした。

 最初の枕は、今回も松本に因んで二葉さんが大好きな松本一本ネギとマサムラのベビーシューの話題からスタートです。
彼女は松本での独演会開催のオファーがあると、松本一本ネギが旬を迎える年末の時期に絶対に設定してもらうということで、この日の楽屋も松本一本ネギとベビーシューの差し入れが混ざり合って異様な匂いとか。また長野市の北野文芸座での高座でも、松本での独演会同様に、同じ長野県なので松本一本ネギやら松本のことを誉めちぎっていたら客席が、
 「何やこうしらーっとした雰囲気が、何でか段々漂ってきましてん・・・」
と、ここ松本の客席を大いに沸かしてくれました。因みに、さすがにもう売れっ子ですので、白木みのるネタはこの日はありませんでした。
今回の出し物は、先ず開口一番で桂白鹿さんが前座噺の「平林」で開演し、続いて二葉さんが「上燗屋」から二席続けての「粗忽長屋」。そして仲入り後にトリで上方落語の演目「打飼盗人」でした。
 歌舞伎の女形同様に、落語もこれまで殆ど男性が演じて来ただけに、女流噺家には主人公を女に代えて演じるケースや女性が中心の新作落語を演じる噺家もいる中で、彼女は飽くまで古典落語に拘っています。
甲高い声の持ち主である彼女が、噺の中で声色を落として男性の親方や老人を演じる際に多少の違和感を感じたとしても、相方の与太郎や丁稚が登場すると、即座に見事なアホや子供に化けて演じ、これがまさに秀逸なのです。男の噺家に負けていないどころか、むしろ凌駕して客席を沸かせます。
今回も、初めて聴く「上燗屋」の酔っ払いのオッサンぶりがそうでした。続いての柳家小さんの十八番と云われた「粗忽長屋」。上方風に浅草の観音さまを住吉さんに変えて、八さん熊さんのボケたやり取りが上手い。この日の仲入り後のトリに演じたのは、江戸落語では「夏泥」というネタの、上方落語の「打飼盗人(うちがえぬすっと)」。これも初めて聴くネタでしたが、生粋の難波言葉が心地良い。
 桂二葉さんは、子供の頃からアホをしても怒られない男の子が羨ましかったとか。そして「自分がアホやという自信は子どもの時からあったけど、言えずに来た。でも落語でならできる。自分なら嘘(うそ)なくアホができる」と感じて、噺家を目指したのだそうです。
名人米朝の弟子になる師匠の米二師匠は、自分の弟子の中では二葉さんが一番根性があるとのこと。
また、ざこば師匠が主催していた米朝一門の寄席「動楽亭」落語会では、これまで女性噺家が演じたことが無かったため、弟弟子が高座に出ても彼女はずっと出れずにいて、しかし前座仕事に何年も通って黙々と働いていたら、兄弟子がざこば師匠に進言してくれて、その先輩の助言で漸く出演が決まって泣いたのだとか。
また、上方落語の若手噺家のコンテストで準優勝したのに、表彰式でブスッとしている彼女に兄弟子が理由を聞くと、「負けた時にニコニコ出来ひん!」と応えたのだそうです。だからこその、落語大賞受賞後の記者会見での感想を聞かれ「ジジイども、見たか!?・・・と思うてます」なのです。
そんな彼女が売れっ子になって、尊敬する鶴瓶師匠から「イイ経験になるから(出てみたら)」と薦められて受けたというフジTVの昼の「ぽかぽか」の曜日のレギュラーを2年余りで卒業したのですが、その理由を後で知ったのが、
「出演していても上手く喋れなくて、こんなんでお金貰ろうたらアカン!」
と自ら降板を申し出たのだとか・・・。
お節介な落語好きのジジイとしては、「その意気やヨシ‼」。押しも押されぬ上方落語の金看板として、一所懸命稽古して古典落語のネタを増やした方がヨロシおます!
  (紹介頁から拝借した、三味線を弾く公美子さんと太鼓を叩く二葉さん)
 今回は、お囃子を録音ではなくて、生演奏としていつもお願いしているという三味線の豊田公美子さんも同行され、最初の出囃子がいつもの彼女の出囃子「♪いっさいいっさいろん」ではなく、「♪アルプス一万尺」を演奏。
枕の中で今回の生のお囃子を紹介された中で、以前から高座をするために地方行った先では、例えば名古屋では「燃えよドラゴンズ」、広島でもカープの応援歌を出囃子に演奏して貰って好評だったので、旅先の高座では出来るだけその土地に縁のある曲を出囃子にアレンジして貰うのだと紹介しながら、ここ松本ではその「♪アルプス一万尺」の出囃子を受けて、元歌の歌詞にある「♪小槍の上でアルペン踊りを・・・」の部分を二人共「子ヤギ」だとずっと思い込んでいて、以前特急電車の中での移動中に、向かい合わせの席で公美子さんとお酒を飲みながら、二人で何故か“手遊び歌”をすることになって、この「アルプス一万尺」を歌いながらへべれけに酔っぱらってずっとやっていたら、隣の席に座ってずっと静かに本を読んでいた女性が、さも迷惑そうに「それ、子ヤギじゃなくて小槍ですから!」とボソッと、しかしピシッと言われたのだとか・・・。

 そんなアホ話の枕も本当に楽しい、桂二葉さんのここ松本での独演会。是非一本ネギの季節に毎年来てください。今回も土付きの松本一本ネギを楽屋に差し入れしようかと本当に迷ったのですが・・・。いつか必ずそうしたいと真剣に思っています。
終演後、芸術館から家路への道を歩きながら、ホンワカ暖かな気持ちでの今年の笑い納めとなった、今回の「桂二葉松本独演会」でした。

 新年 明けましておめでとうございます。
 『山高く 水清くして 風光る』(平林荘子)
2026年、信州松本より謹んで新春のお慶びを申し上げます。

 我が家では初めて年末から次女と孫たちが松本へ来てくれ、また2年近く振りに長女もNYから帰国。そして次女の婿殿も大晦日までの病院勤務を終え、元旦に横浜から松本に来てくれて、今年は皆揃っての賑やかなお正月を松本で迎えることが出来ました。
今年最初に掲載した写真は、薄っすらと雪を被って白く雪化粧をした、水清き“湧水の街”松本の名水「源智の井戸」の祠と縁起物の南天です。
 今年も先ずは、マンションのベランダから鉢伏山に登る初日の出に今年一年の平穏無事を祈りました。
三重大学の40数年間に亘る調査で、温暖化で夏が3週間長くなりその分春と秋が短くなっても、冬の長さは変わらないのだとか。
信州松本の冬らしい、モルゲンロートに染まる常念岳を始めとする北アルプスの峰々を眺められるのも幸せなことなのかもしれません。




   (原田泰治「ふるさとの四季・冬」)

 新年の2026年は午年です。決して立ち止まることなく、ギャロップの様に何事も軽快に駆け抜けて行ける年になります様に。
私個人は、今年も“山高き”松本に暮らす幸せを感じながら、“水清き”松本の象徴でもある「源智の井戸」のボランティア清掃等に精を出す“普通の”年になりそうです。
        (アルプス公園から“霧の海”越しに臨む真冬の常念岳)
 最後に、今年一年の皆さまのご多幸を、ここ信州松本より謹んでお祈り申し上げます。復興途上の能登半島や地震の不安の尽きない東北北海道、そして世界に目を転じれば、なかなか区切りの見えないウクライナとガザ。そんな人々にもどうか一日も早く穏やかな“普通の”日常が戻って、以前と変わらない“普通の年”になりますように。

 本年も、どうぞ宜しくお願いいたします。

                     カネヤマ果樹園一同+コユキ&クルミ💛

 今年一年、特段の大きなイベントも出来事も無く、淡々と暮れようとしている我が家の2025年です。しかし、その平々凡々が一番の“何より”だったのかもしれません。

 私事では、昨年12月から参加した地元町会有志の皆さんに依る「源智の井戸」清掃ボランティア。中心市街地の高齢化とドーナツ化に伴う担い手不足に依り維持することが困難となり、年度末の3月末を以って解散することになっていて、私の投書した「市長への手紙」を切っ掛けに、結果私一人が残って4月からの清掃ボランティアとして引き継ぐことになりました。そのため地域の行政窓口の職員の方々と協力し、ボランティアを募集した結果30人を超える方々が集まって下さり、ここで思いがけず同じ様に困っていたという他の井戸とも連携が始まるなど、行政と連携しながら「まつもと城下町湧水群」維持管理に向けて、まだホンの小さな光ですが、一年前の今頃には想像すら出来なかった様な、将来への発展可能性をも見えてきた一年でした。
この年末には、昨年までの地元町会の方々に代わって井戸の大掃除をして、注連縄も新しく張り替え、また正月用の松飾りのお松は地元町会で準備してくださり、無事に新年を迎える準備が整いました。

 一方、昨年12月に正式に我が家の家族の一員として迎えることになった保護犬のシーズー「くるみ」。
保護犬ボランティアのコユキも世話していただいた仮親さんに依ると、クルミは「劣悪な環境」から救い出されたワンコで、骨折をそのまま放っておかれたせいで、左の後ろ脚が曲がらずに伸びきったまま。当初は散歩も無理かと心配しましたが、これが“跳んでも八分・・・”。
 「劣悪な環境下で生き延びてきた子ですから、存外強い子かもしれませんヨ!?」
と仮親さんが言われた通り、慣れてくると“お転婆娘”の本領発揮で家の中を元気に走り回るようになり、食欲旺盛で保護されていた時の痩せこけていた体も、「これ以上太らせないように!」と獣医さんから注意される程に順調以上に!?成長しました。今では先住犬のコユキと仲良く暮らしていて、夜は(信州の冬は寒いせいでしょうか)二匹でくっ付いて寝ています。
              (夕映えの常念岳と北アルプス)
 一昨年に二人目の孫が生まれてから、毎月二週間次女の所に家政婦で行っていた奥さまも、上の孫が4月から幼稚園に入園したことから、手伝いに行くのは隔月になったのですが、逆に幼稚園の春休み、夏休み、年末年始の冬休みには(例え数日間でも、ジジババに任せっ切りの生活に味を占め?)次女が孫たちを連れて松本へやってくるようになりました。“ジジババ”的には有難い限りなのですが、そのお陰で今年の自分たちの旅行は箱根に行ったのみ(なお奥さまは長女に会いに今年もNYに行かれましたが・・・)。
そんなこともあって、お陰さまで大きなトピックスも無い(そのためブログネタには苦労する日々・・・)、そんな“平和”な一年でした。
               (東山魁夷「年暮る」)
 さて今年の本ブログへのアクセスは昨年の37万件を大きく超えて遂に年間40万の大台を突破。しかもその中で2月と5月は月のアクセス件数が4万件超えたこともあり、有難いことに今日の時点で41万件に達し、今年も過去最高のアクセス件数を更新することが出来ました。いずれにせよ、ご愛読いただき本当にありがとうございました。

 それでは皆さま、どうぞ良いお年をお迎えください。

                     カネヤマ果樹園一同+コユキ&クルミ💛

 孫たちが「バァバとジィジのおうちにまた行きたい!」(最近何かで「じぃじが 建てた家でも ばぁばんち」という様な川柳を見た気がしますが、我が家も順番はこの通りだそうです)とのことで、11月の最後の三連休に一家全員で、松本に二泊三日で来てくれました。
 二泊三日といっても、初日は横浜からの移動で、三日目は松本から横浜へ帰るので、フルに自由なのは中一日だけ。
当初は、我々が事前に予行演習もしながら、婿殿が仕事の都合でお盆に行けなかった白馬岩岳マウンテンリゾートに行って、「マウンテンハーバー」で眼前に拡がる白馬三山の絶景(上手くいけば三段紅葉)を見たいという希望だったのですが、チェックしたところ岩岳の(グリーンシーズンの)営業は11月中旬で終了(期間を置いて12月からスキーシーズンの営業開始)とのこと。確かに考えてみれば、早ければ10月末。遅くも11月に入れば上高地やこの北アでは三段紅葉が見られる時期ですし、11月末の三連休には信州は里の紅葉でさえもう見頃を過ぎているかもしれません。
そこで紅葉は諦めて、孫たちを連れて行った先は、昨年の3月にも行った駒ヶ根に在る養命酒の運営する「くらすわの森」でした。
養命酒の工場に隣接する森の中に作られた「くらすわの森」のベストシーズンは、おそらくせせらぎに沿って遊歩道を歩きながらの森林浴が楽しめる夏だと思うのですが、この晩秋、初冬の時期に他に孫たちを連れて行ける様な施設や場所は、この信州では残念ながら他に思い当たりませんでした。

 今回も一台で移動すべく、三列シートのアルファードを一日レンタル。二度目なので勝手も分かり、スムーズに運転し到着です。「くらすわの森」は駒ケ根ICではなく、駒ケ根SAのスマートICからだと僅か数分というのも有難い。
この日は三連休の中日ということもありますが結構混んでいて、平日だった前回は停められた第一駐車場は既に満車で、結局第三駐車場に駐車しました。しかも中京方面を中心に県外車も多く、結構な集客力だと感心しきり。
婿殿は初めてなので、先ずは雑木林の中のフォレストリングをぐるっと一周回ってみることにしました。


11時を過ぎていたので、先にランチを食べることにしましたが、前回のビュッフェのレストランはパスし、個人的にはランチプレートのあるカフェでと思ったのですが、今回娘たちが選んだのはミートデリのイートインでした。
     (以上の写真は「くらすわの森」紹介頁からお借りしました)
こちらは養命酒の手掛ける自社ブランドの信州十四豚(これでジューシーポークと読ませるのだとか)の自家製ソーセージやハムを販売し、その場でも食べられる場所。長~いソーセージを自家製のバンズで挟んだホットドッグセットなどを注文。少し塩味を効かせたソーセージはプリプリ、皮もパリパリでとても美味しかったです(ただ、男性陣にはチト“おしょうびん”だったので、ミートデリの戸外のキッチンカーでのグリルドソーセージも、味見を兼ねて追加で注文しました。因みに外のテラス席ではワンコもOKです)。

その後、養命酒の工場に隣接する敷地13万㎡という広大な森の中の遊歩道を歩いて、前回3月に来た時は降雪の翌日だったためぬかるんでいるからと諦めた滑り台「丘の上のスライダー」と、遊歩道の先に在る「森のライブラリー」へも行ってみました。
20mちょっとのローラースライダーの滑り台では、最初は怖がっていた下の孫も母親と一緒に滑るなどして慣れると、孫たちも喜んで「もう一回、もう一回!」と何度も一人で滑っていました。
そこで、その間に独りで木道の遊歩道を歩いて、「森のライブラリー」へ行ってみました。童話の世界に在る様な、森の中に佇む特徴的な二階建ての木製の建物で、子供用の絵本なども含め蔵書は1000冊とか。中も木がふんだんに使われていて、ウッディーで気持ちの良い空間です。園の森を眺めて座る様になっていて、一人ずつ読書用のLEDライトが付いています。ただ、ここまで来られる人は多くなく、地元の高校生たちでしょうか、この辺りにはフリーの学習スペースが余り無いのか、ここで(無料で)何人もが勉強をしていたのはご愛敬でした。冬はともかく夏は森林浴で木の香りを嗅ぎながらですので、学習効果もさぞ高まるだろうと思います。
 滑り台に戻り、遊歩道を歩いてまた皆でフォレストリングへ行って、マルシェとショップでお土産などを購入。
そして最後にインフォメーションの建物の屋上が展望台になっているので、上ってみました。
背後の駒ヶ岳(木曽駒。伊那谷では単に駒ヶ岳か、東の甲斐駒に対し西駒とも呼んでいます)と、そして正面に拡がる“南アルプスの女王”仙丈を始めとする南アルプス(標高第2位の北岳、奥穂と並んで3位の間ノ岳も)の絶景を眺めてから帰ることにしました。
 帰る途中少し足を延ばして、最近オープンしたばかりの話題のスポット、「諏訪湖テラス」に行ってみることにしました。ここは予定より一年遅れて開通した諏訪湖SAのスマートICから出てすぐの場所。諏訪湖畔に建てられた、地元岡谷の有名お菓子屋さんが手掛ける施設です。
オープンして間もない話題の施設ということで、県外車も含め観光客の車がひっきり無しに訪れます。係員が2名いて誘導しているのですが、たまたま我々は運良く駐車出来ましたが、駐車台数はそう多くは無いので常に満車状態。偶然駐車スペースが空いたタイミングでなければ、せっかく来ても駐車出来ずに諦める車が殆どでした。
我々もせっかくなので中に入ったのですが、ショップとカフェがあって、屋上部分には展望テラスと諏訪湖らしく足湯もあるのですが、如何せん狭過ぎ。展望テラスも足湯もせいぜい10人も集まれば一杯で、座る余地もありません。岩岳マウンテンリゾートなどの白馬エリアや志賀高原の横手山や竜王など、各地にこうした展望テラスがオープンして人気を集めていますが、そうした最近人気の施設と比べると規模が小さ過ぎて、ここは観光施設としては微妙・・・。作ったのが“町のお菓子屋”さんでは資金力の問題か、いずれにしてもショボ過ぎます(どうせなら共同展開する地元の仲間を集めて倍位の規模にした方が、現在のお菓子とカフェだけの店舗より集客的にも選択肢が増えて効果的だったのでは?)。些か前宣伝がオーバーだったのか、評判倒れの感は否めません。少なくともまた来たいという気には残念乍らなれませんでした。むしろ諏訪湖を眺めるのなら、道を挟んだ諏訪湖畔へ行った方がよっぽどゆったりと湖畔の景観を楽しむことが出来るでしょう(その前に良く考えてみれば、高速をわざわざ降りずとも、諏訪湖SAの方が高台からの展望も良いので遥かにマシでした)。
     (こちらの写真も「諏訪湖テラス」の紹介頁からお借りしました)
 それにしてもここのスマートICは、諏訪湖SAが高台にあるため止むを得ないのでしょうが、湖畔までの標高差数十メートルを下るのに山をくり抜いたトンネルが新設されるなど、大工事。
確かにこのスマートICの開通により、岡谷側からの諏訪湖畔へのアクセス(岡谷ICからだと岡谷の市街地を抜ける必要があり、諏訪湖へは遠い)と、諏訪湖の西側に在る観光施設(諏訪ガラスの里や原田泰治美術館など)へのアクセスは格段に便利になりますので、宿泊施設などが林立する東側に比べ、観光開発という意味においては(嘗て地元でも“半日村”などと揶揄されて)遅れている湖畔西側(通称“西街道”)の開発には(もし新たに開発する意欲があるのであれば)効果があるかもしれません。しかし、茅野市側の蓼科高原や白樺湖、霧ヶ峰へのビーナスラインへは現行の諏訪ICからの方が早いので、あまり効果は期待出来ません。大混雑する年一回(新作花火を入れれば二回)の諏訪湖の花火大会の時は、諏訪湖の西側から高速へ乗るのには確かに便利になるかもしれません。しかし、これまでの事業費は総額97億円だそうですが、ここまでして地元自治体も負担してスマートICを設ける必要があったのでしょうか(まぁ、合併効果という意味でその結果の是非は別として、「平成の大合併」では各自治体が自己主張ばかりで、県内で唯一合併が無かった諏訪広域ですので、今回のスマートICで岡谷市と諏訪市が連携したのであれば決して悪いことではありませんが・・・)。
そうであれば、もう諦めにも近いJR中央線の上諏訪~下諏訪エリアの複線化と、諏訪湖側にも改札口を設けるなどしての、このエリアで一番みすぼらしく感じる上諏訪駅の改築と駅周辺の活性化に資金を投じた方が良いのではないかと、諏訪に本社がある会社にお世話になり且つ数年間とはいえ諏訪の社宅にも暮らした身からすると、生粋の“諏訪人”からすれば要らぬお節介と言われるかもしれませんが、個人的には真剣にそう思うのです。
ましてや、例えそれが“棚ぼた”であれ、二年後の朝ドラ「巡るスワン」の舞台として願っても無いチャンスが“降って来た”のですから、だからこそ余計それを諏訪の地域活性化への起爆剤にして、少なくとも一過性に終わらぬ様にと・・・。

 先日、高校卒業50周年の記念式典とパーティーがあり、友人と待ち合わせて参加して来ました。我々が卒業したのは昭和50年、1975年になります。

 その前に希望者の校内ツアーがあり、我々が高校生だった頃の建物は、現在国の有形登録文化財に指定されている、安田講堂を模した第一棟と講堂しか今は残っていないのですが、長女の高校時代の文化祭と、その当時の教頭先生に頼まれて高校の評議員を務めた時以来で、久し振りに校内に入ってみることにしました。
屋上に立派な天文台を備えた第二棟の校舎など25年前に新築された建物群には立派な体育館もあり、当時バレー部の練習で低い天井の梁に当たらぬ様にトスをしていた東・西体育館や汚い部室(今がキレイかは不明)、そして高校生活最後の文化祭に向けて音楽部で毎日合唱の練習をした音楽室の姿は、今では記憶の中にしか残っていませんでした。
因みに、昭和初期の旧制中学時代にこの深志ヶ丘に移転するまでは松本城の二の丸に校舎と本丸には校庭があり、当時の生徒たちは休み時間にふざけて天守閣の屋根で逆立ちをしたりお堀で泳いだりしたとも伝わります。市川量造を始めとする市民の努力により維新後の廃城を免れたものの、当時荒廃していた松本城の修理を訴えて修理保存会を立ち上げ、その実行に導いたのは初代校長であった小林有也先生でした。そして高校の正面玄関の横に立つ先生の胸像が、「世の悪風に染むことなかれ」と、来年で創立150年を迎える今も生徒たちをしっかりと見守ってくれています。
そのツアーの中で、懐かしい講堂と一年生の時には晩年のクロが居て頭を撫でた一棟の中を歩き、それこそ高校時代以来だった一棟の屋上にも上ってみました。
ここは、入学して間もなく、放課後新入生全員が屋上に集められて、応援団に依る応援練習が行われた、高校入学して初めての“行事”のそれこそ鮮烈な思い出の場所なのです。
卒業30周年の時はまだ会社勤めだったので、何か都合がつかずに参加出来ませんでした。ですので、今回会う同期の友人の多くは、それこそ半世紀ぶりに顔を合わせた友人で、風貌こそお互いに変わってはいても、他人事でなく自分も昨日何を食べたかの献立は思い出せなくても、お互い名前を確認し合うと一瞬にして時空を超えて、「お前、そういえばあの時にさぁ・・・」と50年前のことは不思議と覚えているのです。

 そして、この校舎の屋上に立って松本の市街地を眺めて思い出すのは、飲兵衛のバイブル「居酒屋百名山」などで私淑する高校の大先輩でもある太田和彦氏が、「ニッポン居酒屋放浪記 立志編」の中の「松本の塩イカに望郷つのり」の文中で曰く・・・、
『母校深志高校へ行ってみることにした。
下駄ばきで高台の坂を登り通学した三年間は忘れ難い青春だ。バンカラで自由な校風は、山奥の中学の洟タレ小僧だった自分を大きく成長させた。(中略)
屋上へ上った。眼下には松本平が一望できる。今日はよく晴れて乗鞍岳や遠く南アルプスも見える。あの先が東京だ。いつかはこの町を出るんだと、自分の将来を考えながらここに立っていた日々を思い出した。(後略)』
『青春時代を過ごした信州松本は、充実した三年間だったが、上京してからは信州的なものがすっかり嫌になった。井の中の蛙が大海に出たのだろう。そして三十年、今松本の酒場を訪ねてきた。冷やかしてやれという気分で歩きまわるうち、いつしかそれは消えていった。
私の好きな古い町並みや建物は松本によく残っていた。知らない地方都市に
へ行かなくても足元に在ったのだ。三十年の歳月が故郷を見る目を温かくさせているのかもしれない。誰でも若い時は自分の故郷は恥ずかしいものだ。脱皮してみてそれが判る。故郷に反撥してその気風を疎んだのは、昔の自分がそこに在ったからだ。松本はいい町だと今は自信をもって言える。(後略)』
と、正しく太田和彦氏が書いたのと半世紀前は私自身も同じ心境だったのです。

 しかし、私が太田和彦氏とその後の置かれた立場が少々違うのは、それは私自身が本ブログの2009年の第40話「ふるさとは・・・」の中で書いたのですが・・・、
『 犀星が、青年期に「美しき川は流れたり。そのほとりに我は住みぬ」と誇らしげに謳いながら、後年「ふるさとは遠きにありて思うもの・・・(中略)帰るところにあるまじや」と(反語的であれ)自分自身に対し、突き放さざるを得なかった「ふるさと」。
 誰しも、高校生の頃は、山に囲まれた「何も無い(と思えた)ふるさと」から、山の向こうにあるであろう可能性という「無限に拡がる世界(都会)」へ憧れて、希望を胸に故郷を後にして都会へ出て行く・・・のではないでしょうか。
私も、自身の決断(幼い頃から、今は亡き祖母から事ある度に「お前は帰って来るだでな!」と「帰るべき」を深層心理にまで埋め込まれた結果)とはいえ、“都会”から故郷である“田舎”の松本に帰ってきて暫くは、何か仕事などで面白くないことがあったり、一方で都会の華やかさの中で活き活きとしている友人を見るにつけ、とかく他責で自身の不満を「家」を含めた故郷「松本」のせいにしていたような気がします。
 そんな折(四半世紀以上も前)、ふとしたことで手にとったエッセイ(筆者は失念。そんな有名な方ではなく、その本も全国の特徴ある地方都市を紹介する紀行文だったような)の中で「信州松本」が取り上げられていて、「(松本城に代表される)歴史や文化があり、北アルプスの峰々に抱かれたこんな街で、○○銀行や△△社に就職し、休日に「まるも」で珈琲を飲みながら(山を仰ぎ見て)暮らせる松本の人たちは幸せだ。」という趣旨だったように記憶しています(おそらく市内を散策した後、「まるも」で珈琲を飲みながらその原稿を書いているのではと思われるような文章でした)。
そして、今もその時の心象風景が鮮やかに甦ってくるのは、本当に冗談のようですが、まさに自分自身がその△△社に勤務(もし長野県にUターンするとしたら、県か市の公務員か、民間だと当時はその2社くらいしか実際に新卒採用はありませんでした)し、クラシック音楽の流れる、まさしくその「まるも」で休日に一人コーヒーを飲みながら、その本を偶然手にしていたのです。
ですので、「そうか・・・、そうなんだよなぁ!」と甚く自身に合点が行き、(それまでは故郷「松本」のせいにして逃げていた)その時の自分の心にその“納得”が深く静かに染み込んでいったのを、まるで昨日のことのように覚えています。
 娘達は、上は昨年東京で就職しましたし、下も東京の大学に進学し、卒業後はおそらく彼女も戻っては来ないでしょう。
私とは違って、子供の頃から海外でも暮らした彼等ですので、この狭い松本に縛られる必要もないと思います。
しかし、若い頃は「何も無い」と感ずる故郷ですが、それは都会に「今あるもの」の方が遥かに魅力的だから。でも、故郷に昔から「あった」ものがいつか見えてきた時に、帰るところがあることの幸せを、やがて(彼女等も)感ずる時がきっと来ると思います。後年(定年後でいいので)帰る故郷があり、それが(彼女等にとっては)この松本だった幸せを噛み締める日が。そして、その時は間違いなくもう居ないであろう親たちの暮らした痕跡を、この街でデジャヴュのようになぞる時が・・・。
そしてその時まで、彼女等にとってのふるさとは「遠きにありて思うもの」であってイイのだと思うのです。』
という、私自身の“松本”への懺悔の気持ちだったのだろうと思います。
 「あぁ、人様に誇れるような大きなことは何も無かったけど、そうは言っても色んな事があったなぁ・・・」
そんな想いが、一棟の校舎の屋上から嘗て自分も青春の頃に見た大好きな松本の街と山々を眺めながら、まさに半世紀・・・同じ様に歳月を重ねた友人たちの懐かしい横顔と共に、50年に亘る時間が走馬灯の様に頭の中を駆け巡ったのでありました。

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