カネヤマ果樹園 雑記帳<三代目のブログ>

 孫たちが「バァバとジィジのおうちにまた行きたい!」(最近何かで「じぃじが 建てた家でも ばぁばんち」という様な川柳を見た気がしますが、我が家も順番はこの通りだそうです)とのことで、11月の最後の三連休に一家全員で、松本に二泊三日で来てくれました。
 二泊三日といっても、初日は横浜からの移動で、三日目は松本から横浜へ帰るので、フルに自由なのは中一日だけ。
当初は、我々が事前に予行演習もしながら、婿殿が仕事の都合でお盆に行けなかった白馬岩岳マウンテンリゾートに行って、「マウンテンハーバー」で眼前に拡がる白馬三山の絶景(上手くいけば三段紅葉)を見たいという希望だったのですが、チェックしたところ岩岳の(グリーンシーズンの)営業は11月中旬で終了(期間を置いて12月からスキーシーズンの営業開始)とのこと。確かに考えてみれば、早ければ10月末。遅くも11月に入れば上高地やこの北アでは三段紅葉が見られる時期ですし、11月末の三連休には信州は里の紅葉でさえもう見頃を過ぎているかもしれません。
そこで紅葉は諦めて、孫たちを連れて行った先は、昨年の3月にも行った駒ヶ根に在る養命酒の運営する「くらすわの森」でした。
養命酒の工場に隣接する森の中に作られた「くらすわの森」のベストシーズンは、おそらくせせらぎに沿って遊歩道を歩きながらの森林浴が楽しめる夏だと思うのですが、この晩秋、初冬の時期に他に孫たちを連れて行ける様な施設や場所は、この信州では残念ながら他に思い当たりませんでした。

 今回も一台で移動すべく、三列シートのアルファードを一日レンタル。二度目なので勝手も分かり、スムーズに運転し到着です。「くらすわの森」は駒ケ根ICではなく、駒ケ根SAのスマートICからだと僅か数分というのも有難い。
この日は三連休の中日ということもありますが結構混んでいて、平日だった前回は停められた第一駐車場は既に満車で、結局第三駐車場に駐車しました。しかも中京方面を中心に県外車も多く、結構な集客力だと感心しきり。
婿殿は初めてなので、先ずは雑木林の中のフォレストリングをぐるっと一周回ってみることにしました。


11時を過ぎていたので、先にランチを食べることにしましたが、前回のビュッフェのレストランはパスし、個人的にはランチプレートのあるカフェでと思ったのですが、今回娘たちが選んだのはミートデリのイートインでした。
     (以上の写真は「くらすわの森」紹介頁からお借りしました)
こちらは養命酒の手掛ける自社ブランドの信州十四豚(これでジューシーポークと読ませるのだとか)の自家製ソーセージやハムを販売し、その場でも食べられる場所。長~いソーセージを自家製のバンズで挟んだホットドッグセットなどを注文。少し塩味を効かせたソーセージはプリプリ、皮もパリパリでとても美味しかったです(ただ、男性陣にはチト“おしょうびん”だったので、ミートデリの戸外のキッチンカーでのグリルドソーセージも、味見を兼ねて追加で注文しました。因みに外のテラス席ではワンコもOKです)。

その後、養命酒の工場に隣接する敷地13万㎡という広大な森の中の遊歩道を歩いて、前回3月に来た時は降雪の翌日だったためぬかるんでいるからと諦めた滑り台「丘の上のスライダー」と、遊歩道の先に在る「森のライブラリー」へも行ってみました。
20mちょっとのローラースライダーの滑り台では、最初は怖がっていた下の孫も母親と一緒に滑るなどして慣れると、孫たちも喜んで「もう一回、もう一回!」と何度も一人で滑っていました。
そこで、その間に独りで木道の遊歩道を歩いて、「森のライブラリー」へ行ってみました。童話の世界に在る様な、森の中に佇む特徴的な二階建ての木製の建物で、子供用の絵本なども含め蔵書は1000冊とか。中も木がふんだんに使われていて、ウッディーで気持ちの良い空間です。園の森を眺めて座る様になっていて、一人ずつ読書用のLEDライトが付いています。ただ、ここまで来られる人は多くなく、地元の高校生たちでしょうか、この辺りにはフリーの学習スペースが余り無いのか、ここで(無料で)何人もが勉強をしていたのはご愛敬でした。冬はともかく夏は森林浴で木の香りを嗅ぎながらですので、学習効果もさぞ高まるだろうと思います。
 滑り台に戻り、遊歩道を歩いてまた皆でフォレストリングへ行って、マルシェとショップでお土産などを購入。
そして最後にインフォメーションの建物の屋上が展望台になっているので、上ってみました。
背後の駒ヶ岳(木曽駒。伊那谷では単に駒ヶ岳か、東の甲斐駒に対し西駒とも呼んでいます)と、そして正面に拡がる“南アルプスの女王”仙丈を始めとする南アルプス(標高第2位の北岳、奥穂と並んで3位の間ノ岳も)の絶景を眺めてから帰ることにしました。
 帰る途中少し足を延ばして、最近オープンしたばかりの話題のスポット、「諏訪湖テラス」に行ってみることにしました。ここは予定より一年遅れて開通した諏訪湖SAのスマートICから出てすぐの場所。諏訪湖畔に建てられた、地元岡谷の有名お菓子屋さんが手掛ける施設です。
オープンして間もない話題の施設ということで、県外車も含め観光客の車がひっきり無しに訪れます。係員が2名いて誘導しているのですが、たまたま我々は運良く駐車出来ましたが、駐車台数はそう多くは無いので常に満車状態。偶然駐車スペースが空いたタイミングでなければ、せっかく来ても駐車出来ずに諦める車が殆どでした。
我々もせっかくなので中に入ったのですが、ショップとカフェがあって、屋上部分には展望テラスと諏訪湖らしく足湯もあるのですが、如何せん狭過ぎ。展望テラスも足湯もせいぜい10人も集まれば一杯で、座る余地もありません。岩岳マウンテンリゾートなどの白馬エリアや志賀高原の横手山や竜王など、各地にこうした展望テラスがオープンして人気を集めていますが、そうした最近人気の施設と比べると規模が小さ過ぎて、ここは観光施設としては微妙・・・。作ったのが“町のお菓子屋”さんでは資金力の問題か、いずれにしてもショボ過ぎます(どうせなら共同展開する地元の仲間を集めて倍位の規模にした方が、現在のお菓子とカフェだけの店舗より集客的にも選択肢が増えて効果的だったのでは?)。些か前宣伝がオーバーだったのか、評判倒れの感は否めません。少なくともまた来たいという気には残念乍らなれませんでした。むしろ諏訪湖を眺めるのなら、道を挟んだ諏訪湖畔へ行った方がよっぽどゆったりと湖畔の景観を楽しむことが出来るでしょう(その前に良く考えてみれば、高速をわざわざ降りずとも、諏訪湖SAの方が高台からの展望も良いので遥かにマシでした)。
     (こちらの写真も「諏訪湖テラス」の紹介頁からお借りしました)
 それにしてもここのスマートICは、諏訪湖SAが高台にあるため止むを得ないのでしょうが、湖畔までの標高差数十メートルを下るのに山をくり抜いたトンネルが新設されるなど、大工事。
確かにこのスマートICの開通により、岡谷側からの諏訪湖畔へのアクセス(岡谷ICからだと岡谷の市街地を抜ける必要があり、諏訪湖へは遠い)と、諏訪湖の西側に在る観光施設(諏訪ガラスの里や原田泰治美術館など)へのアクセスは格段に便利になりますので、宿泊施設などが林立する東側に比べ、観光開発という意味においては(嘗て地元でも“半日村”などと揶揄されて)遅れている湖畔西側(通称“西街道”)の開発には(もし新たに開発する意欲があるのであれば)効果があるかもしれません。しかし、茅野市側の蓼科高原や白樺湖、霧ヶ峰へのビーナスラインへは現行の諏訪ICからの方が早いので、あまり効果は期待出来ません。大混雑する年一回(新作花火を入れれば二回)の諏訪湖の花火大会の時は、諏訪湖の西側から高速へ乗るのには確かに便利になるかもしれません。しかし、これまでの事業費は総額97億円だそうですが、ここまでして地元自治体も負担してスマートICを設ける必要があったのでしょうか(まぁ、合併効果という意味でその結果の是非は別として、「平成の大合併」では各自治体が自己主張ばかりで、県内で唯一合併が無かった諏訪広域ですので、今回のスマートICで岡谷市と諏訪市が連携したのであれば決して悪いことではありませんが・・・)。
そうであれば、もう諦めにも近いJR中央線の上諏訪~下諏訪エリアの複線化と、諏訪湖側にも改札口を設けるなどしての、このエリアで一番みすぼらしく感じる上諏訪駅の改築と駅周辺の活性化に資金を投じた方が良いのではないかと、諏訪に本社がある会社にお世話になり且つ数年間とはいえ諏訪の社宅にも暮らした身からすると、生粋の“諏訪人”からすれば要らぬお節介と言われるかもしれませんが、個人的には真剣にそう思うのです。
ましてや、例えそれが“棚ぼた”であれ、二年後の朝ドラ「巡るスワン」の舞台として願っても無いチャンスが“降って来た”のですから、だからこそ余計それを諏訪の地域活性化への起爆剤にして、少なくとも一過性に終わらぬ様にと・・・。

 先日、高校卒業50周年の記念式典とパーティーがあり、友人と待ち合わせて参加して来ました。我々が卒業したのは昭和50年、1975年になります。

 その前に希望者の校内ツアーがあり、我々が高校生だった頃の建物は、現在国の有形登録文化財に指定されている、安田講堂を模した第一棟と講堂しか今は残っていないのですが、長女の高校時代の文化祭と、その当時の教頭先生に頼まれて高校の評議員を務めた時以来で、久し振りに校内に入ってみることにしました。
屋上に立派な天文台を備えた第二棟の校舎など25年前に新築された建物群には立派な体育館もあり、当時バレー部の練習で低い天井の梁に当たらぬ様にトスをしていた東・西体育館や汚い部室(今がキレイかは不明)、そして高校生活最後の文化祭に向けて音楽部で毎日合唱の練習をした音楽室の姿は、今では記憶の中にしか残っていませんでした。
因みに、昭和初期の旧制中学時代にこの深志ヶ丘に移転するまでは松本城の二の丸に校舎と本丸には校庭があり、当時の生徒たちは休み時間にふざけて天守閣の屋根で逆立ちをしたりお堀で泳いだりしたとも伝わります。市川量造を始めとする市民の努力により維新後の廃城を免れたものの、当時荒廃していた松本城の修理を訴えて修理保存会を立ち上げ、その実行に導いたのは初代校長であった小林有也先生でした。そして高校の正面玄関の横に立つ先生の胸像が、「世の悪風に染むことなかれ」と、来年で創立150年を迎える今も生徒たちをしっかりと見守ってくれています。
そのツアーの中で、懐かしい講堂と一年生の時には晩年のクロが居て頭を撫でた一棟の中を歩き、それこそ高校時代以来だった一棟の屋上にも上ってみました。
ここは、入学して間もなく、放課後新入生全員が屋上に集められて、応援団に依る応援練習が行われた、高校入学して初めての“行事”のそれこそ鮮烈な思い出の場所なのです。
卒業30周年の時はまだ会社勤めだったので、何か都合がつかずに参加出来ませんでした。ですので、今回会う同期の友人の多くは、それこそ半世紀ぶりに顔を合わせた友人で、風貌こそお互いに変わってはいても、他人事でなく自分も昨日何を食べたかの献立は思い出せなくても、お互い名前を確認し合うと一瞬にして時空を超えて、「お前、そういえばあの時にさぁ・・・」と50年前のことは不思議と覚えているのです。

 そして、この校舎の屋上に立って松本の市街地を眺めて思い出すのは、飲兵衛のバイブル「居酒屋百名山」などで私淑する高校の大先輩でもある太田和彦氏が、「ニッポン居酒屋放浪記 立志編」の中の「松本の塩イカに望郷つのり」の文中で曰く・・・、
『母校深志高校へ行ってみることにした。
下駄ばきで高台の坂を登り通学した三年間は忘れ難い青春だ。バンカラで自由な校風は、山奥の中学の洟タレ小僧だった自分を大きく成長させた。(中略)
屋上へ上った。眼下には松本平が一望できる。今日はよく晴れて乗鞍岳や遠く南アルプスも見える。あの先が東京だ。いつかはこの町を出るんだと、自分の将来を考えながらここに立っていた日々を思い出した。(後略)』
『青春時代を過ごした信州松本は、充実した三年間だったが、上京してからは信州的なものがすっかり嫌になった。井の中の蛙が大海に出たのだろう。そして三十年、今松本の酒場を訪ねてきた。冷やかしてやれという気分で歩きまわるうち、いつしかそれは消えていった。
私の好きな古い町並みや建物は松本によく残っていた。知らない地方都市に
へ行かなくても足元に在ったのだ。三十年の歳月が故郷を見る目を温かくさせているのかもしれない。誰でも若い時は自分の故郷は恥ずかしいものだ。脱皮してみてそれが判る。故郷に反撥してその気風を疎んだのは、昔の自分がそこに在ったからだ。松本はいい町だと今は自信をもって言える。(後略)』
と、正しく太田和彦氏が書いたのと半世紀前は私自身も同じ心境だったのです。

 しかし、私が太田和彦氏とその後の置かれた立場が少々違うのは、それは私自身が本ブログの2009年の第40話「ふるさとは・・・」の中で書いたのですが・・・、
『 犀星が、青年期に「美しき川は流れたり。そのほとりに我は住みぬ」と誇らしげに謳いながら、後年「ふるさとは遠きにありて思うもの・・・(中略)帰るところにあるまじや」と(反語的であれ)自分自身に対し、突き放さざるを得なかった「ふるさと」。
 誰しも、高校生の頃は、山に囲まれた「何も無い(と思えた)ふるさと」から、山の向こうにあるであろう可能性という「無限に拡がる世界(都会)」へ憧れて、希望を胸に故郷を後にして都会へ出て行く・・・のではないでしょうか。
私も、自身の決断(幼い頃から、今は亡き祖母から事ある度に「お前は帰って来るだでな!」と「帰るべき」を深層心理にまで埋め込まれた結果)とはいえ、“都会”から故郷である“田舎”の松本に帰ってきて暫くは、何か仕事などで面白くないことがあったり、一方で都会の華やかさの中で活き活きとしている友人を見るにつけ、とかく他責で自身の不満を「家」を含めた故郷「松本」のせいにしていたような気がします。
 そんな折(四半世紀以上も前)、ふとしたことで手にとったエッセイ(筆者は失念。そんな有名な方ではなく、その本も全国の特徴ある地方都市を紹介する紀行文だったような)の中で「信州松本」が取り上げられていて、「(松本城に代表される)歴史や文化があり、北アルプスの峰々に抱かれたこんな街で、○○銀行や△△社に就職し、休日に「まるも」で珈琲を飲みながら(山を仰ぎ見て)暮らせる松本の人たちは幸せだ。」という趣旨だったように記憶しています(おそらく市内を散策した後、「まるも」で珈琲を飲みながらその原稿を書いているのではと思われるような文章でした)。
そして、今もその時の心象風景が鮮やかに甦ってくるのは、本当に冗談のようですが、まさに自分自身がその△△社に勤務(もし長野県にUターンするとしたら、県か市の公務員か、民間だと当時はその2社くらいしか実際に新卒採用はありませんでした)し、クラシック音楽の流れる、まさしくその「まるも」で休日に一人コーヒーを飲みながら、その本を偶然手にしていたのです。
ですので、「そうか・・・、そうなんだよなぁ!」と甚く自身に合点が行き、(それまでは故郷「松本」のせいにして逃げていた)その時の自分の心にその“納得”が深く静かに染み込んでいったのを、まるで昨日のことのように覚えています。
 娘達は、上は昨年東京で就職しましたし、下も東京の大学に進学し、卒業後はおそらく彼女も戻っては来ないでしょう。
私とは違って、子供の頃から海外でも暮らした彼等ですので、この狭い松本に縛られる必要もないと思います。
しかし、若い頃は「何も無い」と感ずる故郷ですが、それは都会に「今あるもの」の方が遥かに魅力的だから。でも、故郷に昔から「あった」ものがいつか見えてきた時に、帰るところがあることの幸せを、やがて(彼女等も)感ずる時がきっと来ると思います。後年(定年後でいいので)帰る故郷があり、それが(彼女等にとっては)この松本だった幸せを噛み締める日が。そして、その時は間違いなくもう居ないであろう親たちの暮らした痕跡を、この街でデジャヴュのようになぞる時が・・・。
そしてその時まで、彼女等にとってのふるさとは「遠きにありて思うもの」であってイイのだと思うのです。』
という、私自身の“松本”への懺悔の気持ちだったのだろうと思います。
 「あぁ、人様に誇れるような大きなことは何も無かったけど、そうは言っても色んな事があったなぁ・・・」
そんな想いが、一棟の校舎の屋上から嘗て自分も青春の頃に見た大好きな松本の街と山々を眺めながら、まさに半世紀・・・同じ様に歳月を重ねた友人たちの懐かしい横顔と共に、50年に亘る時間が走馬灯の様に頭の中を駆け巡ったのでありました。

 以前にも書いたと思いますが、以前住んでいた沢村は城山山系に遮られているので、北アルプスの峰々を見ることは出来ませんでした。
松本に生まれて60年、終活で渚のマンションに引っ越して、人生で初めて常念を始めとする松本平からの北アの峰々を朝に夕に眺めることが出来る様になり、季節ごとに、或いは日々、そして一日の中でも朝昼夕と刻々と変わりゆく北アルプスの様子を都度眺めては、信州松本に生まれ、そして信州松本に暮らす喜びを感じています。

 春夏秋冬、季節が移り行く北アルプスの情景は、それぞれの季節ごとにまたそれぞれの美しさがあります。
残雪の映える春、夕映えを背景にして黒い屏風の様に聳える峰々の夏、秋晴れの真っ青な空を背景にくっきりと映える北アの峰々、そして雪化粧の白き峰々を赤く染める真冬のモルゲンロート・・・。

 その四季折々の中で、夕映えが美しいのはやはり夏でしょう。
黒い屏風の様な北アルプスの峰と、その背後に拡がるバラ色の夕焼け。その赤と黒の対比が、刻一刻とその色と表情を少しずつ変えながら、二度と同じ夕景の無い唯一無二の、まさに“一期一会”とも云える景観です。
今年も、5月を過ぎると残雪が消えて、山麓にも木々が芽吹き、それまでの遠目で黒っぽかった山肌に青味が加わった夏山の装いになると、キレイな夕焼けが見られる様になります。
そして夏至をピークに太陽が高くなるに従って、日の出と日の入りの地点が段々北上していくのに伴い、松本平からは“西山”と呼ばれる北アルプスに沈む夕日が、冬は乗鞍岳よりも南の鉢盛山近くまで下がっていたのが、段々と北上して常念岳辺りまで上がって行きます。それに伴い、沈む夕日の真っ赤に染まるエリアも夏が近づくに従って、乗鞍から常念の方へと少しずつ移っていき、そしてそこをピークに、また冬至に向けて少しずつ南下していくのです(この途中、松本平では里山辺の薄川に架かる金華橋付近で、槍ヶ岳に沈む夕日“ダイヤモンド槍”を見ることが出来ます)。
今年も、7月から秋口の10月に掛けて、何度か美しい夕焼けを見ることが出来ました。


 そこで今回は、今年マンションのベランダから撮り貯めた写真の中から、名付けて“北アの夕焼け八景”。一つとして同じ情景の無い、松本平から望む常念岳を中心とする北アルプスの夕映えをご覧ください。
そして最後の写真は、10月24日に撮影した秋晴れの北アルプスですが、森林限界以下から麓までの山肌は、冒頭の新緑で青味がかっていた5月の頃と比べると、何となく秋の色付いた紅っぽい色が混ざっている様な気がするのですが・・・。
(掲載した写真は、最初の5月8日の残雪の北アルプスを筆頭にして、順番に7月18日、21日、23日、24日。段を変えて同じ7月24日、続いて9月6日、10月8日の「天使の梯子」(Angel's ladder)、10月12日。いずれもマンションの我が家のベランダから見た北アルプスの夕景です)

【追記】

そして、美ヶ原も頂上部分は少し白かった11月3日。2000m辺りまで雪が降りてきている様でした。ただ、この日北アルプスの上の方は一日中雲が掛かっていて、里にも少し俄か雨が降ったのですが、明けて4日の朝。雲が取れた北アルプスは、乗鞍やそして常念も真っ白く雪化粧をしていました。いよいよ山は冬の装いです。

  “猛暑”と云われ、35℃を超える気温も当たり前の様に感じた今年の日本列島。長期予報でも10月も暑いと予想されていたのですが、秋分の日辺りからここ信州松本もめっきり涼しくなって、その名の通り真っ赤な彼岸花を黄色く色付いた田んぼの畦道に今年もちゃんと見掛けるようになりました。昔からの“暑さ寒さも彼岸まで”という格言も猛暑の今年はどうかと思いましたが、そんな今年もさすがという感じで、季節はちゃんと巡ってしっかりと秋めいてきました。
“秋の行楽シーズン”ではありますが、必ずしも行楽地に行かずとも、身近でも秋の気配を感じられる様になりました。そんな街角で、そして里山で、見つけた身近な“小さな秋”です。

 最初に、清掃と水汲みに行っている市内の「源智の井戸」。
春は枝垂桜で彩られる井戸は、秋にはピンク色の萩の花が井戸端を飾ります(9月16日撮影)。
久し振りに歩いた城山遊歩道。アルプス公園手前、鳥居山の東屋で少し休憩です。眼下に見下ろす松本平には刈り入れを待つ黄色の田んぼが一面に拡がり、実りの秋を迎えています。そして手前には出始めた秋の訪れを告げるススキの穂が(9月24日撮影)。
新米の価格高騰もあって、茶碗に付いた米粒に「一年間しっかりと手を掛けなきゃお米は採れねえだで、一粒だって無駄にしちゃいけんヨ!」と良く叱られた祖母の口癖ではありませんが、減反減反でまるで悪者の様に言われてきた田んぼの稲穂に、本当に何十年振りかで暖かな視線が注がれた今年の実りの秋だったのではないでしょうか。
そして数日後にまた遊歩道を歩いてみると、たった数日の間に黄色の田んぼが減って茶色く変わっていて、松本平では大分稲刈りが進んでいることが分かりました。ススキはこの二日後に仲秋の名月を迎えましたので、さしづめ“今が盛り”でしょうか(10月4日、同じ場所で)。
 家の近くのお宅の金木犀。秋になって金木犀が咲いていることに気が付くのは、先ずは目では無く鼻からでしょう。どこからともなくあの芳香が風に乗って来て、初めて金木犀の花が咲いたことに気が付きます。
最近は松本でも時々金木犀を見掛けますが、子供の頃は松本で金木犀を見たことはありませんでした。ですので、人生で初めて金木犀というものを認識したのは、トイレの芳香剤の匂いだったのです。
高校を卒業して、初めて信州を離れ京都の大学に進学し、キャンパス内の部室棟に行く通路の途中に大きな金木犀があって、秋になって“あの芳香剤の香り”を嗅いで、初めて臭覚ではなく視覚でも金木犀を認識したのでした(9月30日撮影)。
そして、先日もご紹介した秋の代名詞、新栗の小布施の「栗の小径」で見掛けた、今にも零れ落ちそうな栗の実です(9月30日撮影)。
 そして、最後は紅葉です。信州の紅葉の名所、、北アルプスの三段紅葉や北八の白駒池の紅葉ではなく、また街中の松本城でもなく、朝のワンコの散歩道で拾った柿の葉です。
柿の葉の色付きは結構面白くて、赤い葉や黄色い葉もあり、そして緑色が蛇の目の斑点の様に残った葉っぱが多くて、一枚として同じ色や模様の無い柿の木の紅葉と黄葉です(10月8日撮影)。
先日の日経の記事で、『三重大の42年間の観測の結果、夏が3週間長くなり、冬の期間が変わらなかった結果、その分春と秋が短くなっている』との報道が在りました。我々の肌感覚もそれに近い様な気がしますので、それが科学的にも裏付けられたということでしょうか。そんな短い秋で、松本は先週から最高気温が20℃を下回り、最低が一桁という毎日が続いています。
いよいよ秋も深まり、冬の足音が少ずつ近づいて来ているのかもしれません。
(ワンコの散歩コースの赤く色付いた蔦の葉です。10月19日撮影)
 そして、おまけです。松本では久し振りに朝からまとまった雨が降った10月26日。どうやら山では雪だった所もあったようで、北アルプスが白馬方面までくっきり望めた29日。乗鞍岳とそして大町の餓鬼岳か爺ヶ岳辺りから北の峰々が白くなっていて、今シーズンの初冠雪だった様です。一足早く山はもう、秋から冬へ駆け足で・・・。
(10月29日撮影)

 9月下旬、コユキとクルミをお世話いただいた保護犬団体の里親会が埼玉県のドッグランを貸し切りにして行われ、コユキとクルミを連れて日帰りで参加して来ました。
コユキを世話してくださった西東京にお住いのボランティア(仮ママ)さんのお宅に、昨年の11月末にクルミを引き取りに伺って以降初めての里親会ですので、すっかり我が家に馴染んで暮らしているクルミの様子を仮ママさんに報告し、そして実際の元気な姿をお見せするのが一番の目的でした。

         (我が家に来て4ヶ月頃のクルミ、コユキと一緒に)
クルミは元繁殖犬ですが、以前もご紹介した様に、劣悪な環境から不要犬として救い出された推定6歳のシーズーです。仮ママさんが引き取った時には、カットもされたことが無いのか、伸びた毛が絡まって体中が毛玉の様になっていたため、止む無くバリカンで刈りあげたのだそうです。しかも左の後ろ脚が骨折したまま放っておかれたのか、固まってしまい曲げることが出来ず、足を引きずって歩くしかない状態で、動物病院で診て貰ってももう手術は無理とのことでした。
また、ブリーダーから十分に食事も与えられなかったのか、シーズーの標準体重は4~6kgですが、保護された時には痩せこけていて2kg台だったのです。そして人が怖いのか、仮ママさんのお宅でも食べる時以外はクレートに籠ったままの臆病なワンコでした。
本来シーズーは大人しいので、通常だとすぐに引き取り手が決まる様な人気の犬種だそうですが、クルミは脚が悪いこともあるため、なかなか引き取り手が見つからないだろうとのことから、私たちはナナが虹の橋を渡った時はもう今年で推定14歳になるコユキで最後にしようと家内とはお互い話をしていたのですが、里親宅の家庭訪問も兼ねて、コユキをわざわざ松本まで連れて来ていただいた時に、我が家にシーズーのナナが先住犬で居たこともあって仮ママさんからクルミを勧められ、昨年11月上旬に行われた前回の里親会の時にクルミにも会って、結局我が家の最後のワンコとして引き取ることを決断したのでした(第1963話&1977話参照)。
        (しっぽを振りながら、我が物顔した最近のクルミです)
松本へ来てからも、掛かり付けの動物病院でレントゲンを撮って貰ったのですが、複雑骨折でいったいどうなっているのか専門家でも良く分からないとのこと。しかし、不衛生な環境下に居たための肌荒れ以外、検査結果はすこぶる健康で、他に悪い所は見当たらないとのことでした。仮ママさんが「劣悪な環境でも生き延びて来たワンコですので、存外強い子かもしれませんヨ!」と仰っていた通りだったのかもしれません。
クルミは食欲の塊の様な子で、今では4.8kgとシーズーの標準体重になりました。荒れていた肌も、毎月のトリミングの際の薬浴で、すっかりキレイになりました。不自由な足を気にせず家の中を走り回ったり、推定6歳とまだ若いこともあってオモチャを咥えて遊んだりと、我が家ではヤンチャぶりを発揮しています。
 我が家に来てもう6年、推定14歳で元気に暮らしているコユキと、そして保護されてから1年近く経って、そんな風にすっかり見違えたクルミとを仮ママさんに見せて安心して貰おうと、埼玉のドッグランへは中央道と圏央道を乗り継いで片道3時間掛かるので、開催時間の10時を目指して朝7時に松本を出発しました。
横浜の次女の家に行く時に通る八王子からの圏央道は、東名に合流する蛯名JCT付近が慢性的に渋滞しているのですが、八王子JCTから埼玉方面への圏央道は混雑も無くスムーズで、予定より早く着きそうだったので、手前の狭山PAで少し休憩して時間調整。開始時刻の10分前に無事到着しました。
いつもの里親会の会場「ゆりはなドッグラン」は、ウッドチップが敷き詰められた面積700坪という広いドッグランで、この日は保護団体で貸し切りにして里親会が開催されます。
関東一円から集まったワンコたちが優に50匹以上はいたでしょうか。柴などの日本犬やまた雑種の子も居て、この日来ているワンコたちは全て保護犬なのです。中には視力が無い子もいますが、どの子も安住の地を見つけ、里親さんから本当に大切に扱われていることが分かります。
コユキも声帯を切られた元繁殖犬で、不要犬として捨てられて保健所に保護されたワンコですし、クルミも同様。他のワンコたちもきっとそれぞれ色んな事情を抱えたワンコたちでしょう。そうした事情故か、保護犬は犬種に関係無く、皆大人しいのが特徴とか。
この日もラブラドールやハスキーなどの大型犬から、チワワやヨーキーの様な小型犬まで何十匹もいて、どのワンコもドッグラン内ではリードも付けられていませんが、ケンカをしている様なワンコは一匹も居ませんでした。
仮ママさんもクルミをみて、
 「あらっ、すっかり見違えちゃって!」
 「ねっ、ほらあのクルミちゃんヨ!」
と、その見違える程の変わり様にビックリされ、またとても喜んで、保護された時のクルミを知っているらしい他のボランティアさんを呼んでくださいました。
1ヶ月ちょっととはいえ、生まれて以来初めて優しくして貰った仮ママさんのことを、以前のコユキもそうでしたが、クルミも全く覚えていない様子。すると、他の仮ママさんの方が、
 「それでイイんですヨ!覚えていないというのは、それだけ里親さんのお宅に馴染み、そしてなついている証拠なんですから・・・」
と嬉しそうに仰っておられたのが、とても印象的でした。
 集まったワンコたちの中には、物おじせずにドッグランの中をあちこち歩き回ったり、走ったり、じゃれ合ったりする子もいるのに、臆病な我が家のワンコたちはビビリで、片時も私たちから離れません。コユキは家内の膝の上に乗ったままですし、クルミは他のワンコが寄って来ると嫌がって、家でのヤンチャぶりはどこへ行ったのか、私たちの脚の間に入って隠れてしまいます。
ただ、クルミも最初は物珍し気に少し歩いていたのですが、園内に敷き詰められているウッドチップは凸凹していて、左後ろ脚が曲がらないクルミは踏ん張れないので、他のワンコと違ってクルミには歩き辛いのかもしれません。
そのため、お昼時間に仮ママさんにその旨ご挨拶してから、一足お先に失礼させていただくことにしました。
 因みに、来る時に大月付近の中央道下り線で多重衝突事故があって大渋滞していた余波か、或いは長野県内の中央道と長野道で以前二つの大きな事故があって、たまたまこの日に長野県警に依るその実況見分とやらで、長野県内二ヶ所が数時間通行止めになっているためか、帰路にナビが示したルートは、あろうことか関越道から藤岡JCTで上信越道を経由して更埴JCTから長野道という迂回ルートで、3時間半の行程でした。
高速道での走行はずっとACCを使用し、且つ長野県内に入るまでは100㎞制限で、しかも関越道は3車線だったので走り易かったとはいえ、些か疲れた狭山への日帰り往復でした。

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