カネヤマ果樹園 雑記帳<三代目のブログ>

 四柱神社の参集殿で定期的に落語会が催されていて、先代から続く昔からの縁で、今でも三代目となる古今亭圓菊師匠が来演されている様なのですが、失礼ながら特に好きな師匠でも無かった(現在の古今亭一門で個人的に聞きたいと思うのは、やはり2代目圓菊師匠の弟子である菊之丞や文菊といった兄弟子の師匠方に分があります)ので、今まで行ったことは無かったのですが、今回の「新春初笑い」と称した1月の例会は、私メの大好きな柳家さん喬師匠が来演し二人会とのこと。
・・・となれば、これは行かねばなりますまい。東京の定席だと、トリを務める主任以外の高座では持ち時間が15分と限られるので、大ネタを本寸法で聴くことは出来ませんが、独演会やこうした地方の落語会ならそうした大ネタを聴くことが出来るのです。
当日聴きに行けるか直前まで予定が分からなかったのですが、毎月2週間ほど手伝いに横浜の次女の所行っている家内が松本に戻っていて、この日留守番をしてくれるというので、思い切って行くことにして、前日四柱神社の社務所に行って前売り券(シニア割引で3000円でした)を購入しました。
 当日、開場に合わせて四柱神社へ。会場は境内の参集殿2階の大講堂です。父は四柱神社の総代でしたので、何度も来ていたでしょうし、その縁で娘たちも高校時代、二年参りの時に巫女さんのアルバイトをさせていただいたので、入ったことがあったと思いますが、私メが参集殿に入るのは初めてです。講堂での定員は120名とのことでしたので、いつもの松本落語会の会場となる瑞松寺の倍でしょうか。
やはり年配の方々中心でしたが、午後2時の開演には9割方椅子席が埋まったでしょうか。

 勧進元である宮司さんの開演前の挨拶があり、2003年から、3代目圓菊襲名前の「菊生」名で、真打昇進後隔月で開催しているという落語会で、宮司さんが圓菊師匠の父・2代目古今亭圓菊師匠と知り合い、同神社で落語会を開くようになったのだそうです。その後、古今亭菊生として3代目が真打ちになったのと、この参集殿が完成したタイミングでまた落語会を再会したとのこと。ですので、結構歴史のある落語会でした。

 さて、四柱神社の宮司さんの挨拶後開演で、先ずは開口一番は前座、林家たたみさんの「庭蟹(洒落番頭)」。
続いて、お目当ての柳家さん喬師匠が登壇すると、「待ってました!」と客席から声が掛かり、いつもの師匠らしく、恒例の「・・・ホントかよ!?・・・と思いますね」と呟いて、早速客先を沸かせます。その後時節の挨拶をされてから、これまたお約束の「では、皆さまごきげんよう!」・・・。そして、今回松本に訪れての感想や長野市出身の小さん師匠との思い出など、独演会や今日の様な「二人会」でしか聞けない、ところどころにくすぐりを入れたエピソードに心和みます。
 「あぁ、生のさん喬師匠は本当にイイなぁ・・・。」
と、定席での主任としての大トリや独演会以外では、なかなか聞けない枕を十二分に楽しみます。
ネタも勿論ですが、声を張り上げるでもなく(声は通るのでちゃんと聞こえるのですが)、この何とも言えぬペーソスというか、ぼそぼそと囁くような枕がさん喬師匠の堪らない魅力です。そして、時々ぼそっと散りばめる“毒舌”的な皮肉もイイ。
そして以前BSだったか、師匠が演芸番組で日本舞踊を踊られたことがあったのですが、話しぶりだけではなく、ちょっとした所作にも気品と色気すら感じられるのも、さん喬師匠が日本舞踊藤間流の名取だからなのでしょう。
「文七元結」や「芝浜」、「唐茄子屋政談」、「福禄寿」といった,
“さん喬噺”とさえ謂われる程の人情噺が評判の師匠であり、それは確かにその通りなのですが、しかし滑稽噺も実にイイんです。例えば師匠の「棒鱈」なんてまさに捧腹絶倒モノです。
TVの演芸番組、またCDなどの録音やYouTubeなども含め、これまで色々聞かせて頂いた噺家さんの中で、私のイチオシ、一番好きな噺家がこの柳家さん喬師匠なのです。
そして個人的には、落語界の次期“人間国宝”は絶対にさん喬師匠しかいないと思っているのですが(既に紫綬褒章を受章されています)、小さん、小三治と同じ柳家一門ばかりが人間国宝では、江戸落語のバランスが崩れるということなのでしょうか・・・。
 さて、この日の最初のネタは、そんな滑稽噺の「ちりとてちん」で、大いに客席を沸かせてくれました。
続いて、この四柱神社の落語界の主役という古今亭圓菊師匠が登場。
前置きで、「今日は古典落語の大御所のさん喬師匠なので」と遠慮されて、釣り仲間という創作落語の旗手、三遊亭圓丈師匠から教えてもらったという新作落語「悲しみは埼玉に向けて」の一席で仲入りです。

 仲入り後は、先に圓菊師匠が「やはり古典落語はイイですね」と前置きされて、今度はご自身も古典落語の中から「安兵衛狐」を一席。
そして、この日のトリとしてさん喬師匠が演じられた人情噺は、大ネタ“八五郎出世”の中の「妾馬」でした。
実は、2017年「松本落語501回」に500回記念として柳家権太楼師匠とお二人で来られた何とも贅沢な落語会があったのですが、そこでトリにさん喬師匠が演じられたのが、やはり同じ「妾馬」だったのです。
ですので、せっかくの“さん喬噺”のこの機会に、定評ある人情噺ではあるのですが、同じネタでちょっぴり残念でした。
でも、クラシックの名演は何度聞いても素晴らしい様に、八五郎が妹のとよに言い聞かせる様に語り掛ける場面など、今回の「妾馬」も実に良かった・・・。
新旧の他の噺家でもこの「妾馬」は聞いていますが、生まれた赤ん坊を八五郎が実際に抱いてあやす場面などは師匠が独自に工夫し挿入した場面の様に感じます。分かっていても、途中ホロリとさせられてあっという間にサゲ・・・。
何度聞いてもさん喬師匠の「妾馬」はイイ!
本寸法で滑稽噺と人情噺の二話、“さん喬噺”を楽しませてもらった落語会でした。
【注記】
当日、怒鳴りつけたい程、落語会で不愉快な出来事がありました。
さん喬師匠の高座中、しかも仲入り前後の二話とも、高座中に携帯の呼び出し音が鳴ったのです。しかも信じられない様に、後半のトリの噺の中で、3度も4度も・・・。
前半の時は、開演前にちゃんと注意もあったのにも拘らずでしたので、いくら何でも本人も反省して、仲入りの間に電源を切るかサイレントモードにしたと思ったのですが、あろうことか後半も・・・。
その不逞の輩は80代の御老人。知り合いと思しき隣の男性も小声で注意を促したり、周囲の客も都度睨みつけたりしたのですが、馬耳東風・・・。最後は掛けた相手が何度呼び出しても出ないので諦めたようで、4度くらいで終わった様ですが、それにしても啞然とするばかりでした。
 「いい加減にしろヨっ!」
と、心底怒鳴り付けたくなりました。こんなんじゃ、松本市民の民度が疑われます。
途中、さん喬師匠が酒席での八五郎に「携帯鳴ってるよ!」と噺の中で云わせて、笑いを取りながら気を使って注意までしてくれたのですが・・・。
その老人は、終演後まだ拍手が続く中、そそくさと逃げる様に会場から出て行ってしまったので、誰も注意出来なかったかもしれませんが・・・。
恥ずかしくて、情けなくて・・・こんなんじゃ、もう二度と師匠は松本なんかに来てくれないだろうと思いました。
せっかくの“さん喬噺”を台無しにされ、本当にがっかりして会場を後にしました。
居合わせた客でさえこうなのですから、超売れっ子講談師の神田白山が、先日ある高座での講談途中で観客の携帯電話が鳴ってしまい、このアクシデントに伯山は怒って講談を中断し、10分間近く注意喚起したそうですが、同じ場面に遭遇して、恐らく演者からすれば怒りは客以上だったろうと感じた次第です。

  “師走の都大路を走る”。
12月24日に京都で行われた、恒例の全国高校駅伝。男子は佐久長聖高校、女子は鹿児島の神村学園が優勝しました。
佐久長聖は、1997年兵庫の西脇工業以来26年ぶりとなる、留学生の居ない日本人選手だけのチームで大会記録を更新しての優勝。女子の神村学園は最終区1分20秒という大差を最後のゴール直前で“差し切り”、1秒差での劇的な逆転優勝でした。
特に女子は、1分以上の大差を付けながら、僅か1秒差で逆転を許した仙台育英のアンカー選手がゴール後泣き崩れ、立ち上がることも出来ない程のショックで残酷な程打ちひしがれていたのが印象的でした。
しかし乍ら想うに、では仮に総合成績(タイム)が変わらなかったとして、仙台育英も2区を走った留学生選手の区間賞で首位に立ちましたが、もしお互いこの同一区間にケニア人留学生を使い、そこで神村学園優勝の立役者となったカリバ選手が独走し、その後最終区までに仙台育英が徐々に追い上げても最後追い切れず、結果ゴール前1秒差で負けて同じ2位だったとしたら、果たして仙台育英の受ける印象はどうだったのでしょうか?アンカーの女子選手は勝てなかった悔しさは勿論あるでしょうが、或る程度追い上げたという達成感を果たしてゴール後に感じられたのでしょうか???

 高校駅伝大会に初めてケニア人留学生選手を出場させたのは、誰あろうその仙台育英自身でした。
仙台育英高校が大会史上初めてケニア人留学生を2名ずつ出場させて、男女初優勝を飾ったのが1992年。以降、留学生選手の起用に関して後追いでの規制ルールが生まれ、1995年にはチーム1名のみとなり、最初から留学生が独走して圧倒的な差が付いてレースそのものの興味が無くなるとして、2008年からは最長区間である1区での留学生起用が禁止され、更に2024年の大会からは最短の3㎞区間のみでの留学生起用となるとのこと。

 考えてみると、今年の神村学園も、仙台育英も、そして最近の倉敷や嘗ての名門で復活した世羅も、そして少し前の豊川も、全て留学生頼みで勝ってきた(もし関係者に異論があるとすれば、少なくとも留学生起用で“強くなってきた”)高校です。
因みに過去10年での日本人選手だけでの優勝は、男子では佐久長聖の2回だけ。女子は昨年の長野東まで4回です(仙台育英は2021年に一度だけ留学生を使わずに優勝しています)。因みに、長野東は県立高校で且つ全員が県内出身者というのも、いくら“駅伝長野”(但し、どちらかというと都道府県対抗で最多優勝を誇る男子で云われる言葉ですが)とはいえ、本当に凄い快挙だと思います。
因みに、その“駅伝長野”の長野県男子チームは昨年末の佐久長聖の“都大路”優勝の勢いに乗って、今年の2024都道府県対抗駅伝でも二度目となる三連覇を達成し、ぶっちぎりで通算10回目(2位は兵庫県の5回)の全国優勝を飾りました。

 さて、高校駅伝男子で過去最多11回の優勝を誇る嘗ての名門広島世羅は、長い低迷から復活した2006年以降の優勝6回は全て留学生を擁し、同様に8回優勝の仙台育英も全て留学生、最近の倉敷も3回全て留学生がチームの圧倒的切り札として活躍しています。また女子でも優勝5回の仙台育英は4回、また最近はあまり名前を聞きませんが、過去4回優勝の豊川も全てケニア人留学生を擁していました。
その愛知県の豊川高校では、2009年だったか優勝に貢献した留学生選手が失踪し行方不明になったケースなど、中には留学生選手を優勝するための単なる道具としか見ていないと感じられる様な事例さえ散見されたのも事実です。ただ、今年の神村学園はその留学生のカリバ選手がキャプテンで、精神的にも自らチームを引っ張っていましたし、監督始め選手も学校も彼女を“助っ人”としてではなく、ちゃんとチームの“仲間”としてサポートしているのが感じられ、優勝インタビューを見ながら少しは安堵したのを覚えています。

 駅伝に限らず、バスケット、ラグビーやサッカーなどでも勝つために海外から留学生を招聘している高校が多くあります。
中でも、圧倒的走力のケニア人留学生が出場する駅伝や、2mを超えるセネガル人留学生選手がリバウンドを拾いまくるなど、長身選手が圧倒的に有利なバスケットボールではとりわけそれが顕著(嘗ての名門、秋田の県立前能代工業は残念ながらそうしたチームに押され低迷を余儀なくされています)ですし、チーム強化の“即効性”になります(しいては高校の知名度アップによる、最終的に特に私立高校は学園経営というビジネスとしての生徒確保に繋がるのでしょう)。
勿論、ラグビーやバスケットの様に、卒業後も日本に定着し日本代表として活躍する選手もいますし、国際化の流れの中で日本で生まれ育った外国人の親を持つ子供たちが、その身体的能力を活かして日本代表としても活躍するケースが陸上やサッカー、バスケットなど色んな競技で出て来ています。
また留学生の中には、持って生まれた能力を活かし、競技を続けるためには貧しい母国を離れ恵まれた環境を求めて来日する選手もいるでしょうし、そうした力のある留学生選手と競うことで、日本人選手も力を付けるという相乗効果の面も無いことはないでしょう。

 社会全体が、もはや“国際化”などという言葉自体が不自然な程ボーダレスな世界になっていますし、例え極東の島国であっても、あらゆる分野においてそうした状況がますます加速していくのは間違いないでしょう・・・。
(先日行われた今年のミスインターナショナルで、ミス日本にウクライナ人女性が選ばれたことに賛否両論がある様ですが、コンクールが「大和民族」であるミス“日本人”を選ぶのではなく、ミス“日本”選出であり、5歳から日本で暮らして日本国籍がある彼女が、周囲も心配したという、出場することで批判されるだろうことを重々承知の上で「日本で育った自分の“日本人”としてのアイデンティティーを確認したかった」という彼女を応援したくなりましたし、こうした“日本人”が間違い無くこれまで以上に“極自然”に増えて行くと思います。)
しかし、そうであれば、迎える側も単なる“助っ人”としてではなく、チームの“仲間”として授業中もほったらかしにせず(何か問題が起きたら即退学処分で帰国させるのではなく)、ちゃんと日本の生活に馴染める様に日本語を含めしっかりとサポートしてあげることが必要でしょう。
そうすれば、中には日本の生活に馴染んで(帰化するかどうか別にして)卒業後も日本に定住する選手ももっと出て来るかもしれません。そうした意味での国際化が、“スポーツにおける真の国際化”に繋がるのではないでしょうか。

 落語にはその季節季節に相応しい噺、いわゆる季節ネタがあります。例えば春なら花見、夏なら花火とか怪談、秋なら秋刀魚でしょうか。そして冬なら雪や正月だったり・・・。
そうした中で、12月の師走に相応しいのは、14日が討ち入りだった忠臣蔵ネタや、噺の中に除夜の鐘が登場する「芝浜」や「文七元結」。特にこの二つの人情噺は、人気の高い大ネタとして、例えば東京の定席の一つ、上野鈴本演芸場では12月に一週間ずつ、日ごと噺家が替わりながら「芝浜」と「文七元結」が大トリとして掛けられています。
因みに昨年末の鈴本では、『年の瀬に芝浜を聴く会』として12月中席で、大好きな柳家さん喬師匠や、他にも春風亭一之輔、そのお師匠でもある春風亭正朝といった各師匠。そして『暮れに鈴本で聴く 文七元結』と銘打った下席では、柳家喬太郎、古今亭菊之丞、柳家三三といった人気の芸達者な各師匠が登場するとのこと(東京に居れば・・・と、羨ましい限りです)。
本来であれば、どのネタを話すかは、高座に上がって客席の様子を見てから決める・・・というのが原則なのですが、この時だけは最初から、トリでどの噺家がこのネタを演じると事前にアナウンスがされているのです。従って、落語ファンにとっては「待ってました!」ともいうべき日でもあります。
本当に、一度で良いので、さん喬師匠の「芝浜」や「文七元結」を生で聴いてみたいと思っています。
 その師走、12月の「松本落語会」の第563回例会は、二代目桂小文治師匠が来演とのこと。プロフィールを拝見すると、十八番の中に「芝浜」とあり、家内も横浜の次女の所に手助けに家政婦に行っていて留守でしたので、もしかすればと期待して聴きに行くことにしました。
「松本落語会」は東京から噺家を招いて毎月例会を開催しており、昨年50周年を迎えたという、地方の落語界では屈指の歴史を誇ります。私メも落語に嵌まってから何回か聴きに行っていますが、こんな地方で、しかも常設の寄席がある訳でも無いのに、50年も続いているというのは正直信じられません。しかも、松本は夜の落語会だと、噺家の皆さんは宿泊してもらわざるを得ず、その分余計に費用が嵩むので、いくらチケットに反映するとしても、噺家の方々も翌日まで二日間拘束される訳ですから、そのスケジュール調整を含め招く側としても大変な筈です。これが長野市の北野文芸座なら、新幹線があるので夜終ってからでも東京へ戻れるのですから、売れっ子の噺家呼ぶのは無理だと思えるのですが、500回記念の例会(何故か501回でしたが)には、柳家さん喬師匠と柳家権太楼師匠が“二人会”として来られたのですから、そこは50年という歴史の「松本落語会」を重鎮の各師匠方も重んじられているのだと思えるのです。

 閑話休題。
さて、12月の例会は、コロナ禍以前に戻って、12月14日に源智の井戸の横に在る瑞松寺で行われました。ただ、マスク着用はまだ継続されています。会場は畳の部屋ですが、60人程の椅子席です。
今回は、「桂小文治独演会」と銘打って、噺家さんだけではなく、珍しくお囃子のお師匠さんも参加されるのですが、それもその筈で桂小文治師匠の奥様で落語芸術協会のお囃子方の第一人者、筆頭である古田尚美師匠とのこと。そして、小文治師匠のお弟子さんで、前座の桂しゅう治さんも同行。
 今回はお囃子さんも同行されているので、趣向を凝らして先ずは鳴り物の紹介。例えば、夏の出し物である幽霊が登場する時の三味線や太鼓など。また、一番太鼓や、終了後の追い出し太鼓など。更には、文楽、志ん生といった昭和の大名人や現役落語家の出囃子の紹介もありました。
さて落語では、最初に前座桂しゅう治さんの「浮世床」から。この噺は「湯屋番」の様な滑稽噺で、例えば「寿限無」などに代表される様な前座噺の短編ではありませんが、大学の落研出身らしくメリハリも効いて達者に演じておられました(注:掲載の写真は小文治師匠のH/Pからお借りしました)。
余談ですが、この前座さんで感心したこと。それは落語ではなく、出囃子の太鼓。現役の落語家であれば、前座修行の寄席で何度もやっているでしょうから出来るのは当然としても、前座は本来ネタ増やしで、噺だって色々覚えなくてはいけないでしょうに、文楽や、志ん生、志ん朝といった今は亡き昭和の名人の方々の出囃子までちゃんと叩いていたのには感心しました。
続いて小文治師匠。ちょうど12月例会のこの日が12月14日で「忠臣蔵討ち入り」だったこともあり、歌舞伎の「仮名手本忠臣蔵」に引っ掛けて芝居噺である「七段目」が演じられました。芝居の場面では勿論三味線が入ります。そして仲入りです。



 






  「松本落語会」の例会では、仲入りの休憩中に、その日の演者の噺家さんのサイン入り色紙が抽選で配られるのですが、ナント初めて当たって色紙を頂きました。
仲入り後は、この日の例会のトリは残念ながら、「芝浜」ではなく、途中鳴り物が入ることもあり、また冒頭年末の仕事納めのための大掃除が題材になっていることもあってか、「御神酒徳利」でした。
小文治師匠を聴くのは初めてで、師匠プロフィールの十八番の中にあって期待していた「芝浜」は残念ながらこの日は聴けませんでしたが、なかなかの芸達者な師匠で、また今回お囃子方の奥さまが同行されたので、寄席の鳴り物の知識を拡げることが出来ましたし、また地方寄席恒例の録音ではなく、定席の寄席同様に生のお囃子で上がられる高座の雰囲気を楽しむことも出来た、久し振りの瑞松寺での「松本落語会」でした。

 11月19日。4年前に縁あってコユキを我が家にお世話してくださった、埼玉のワンコ保護団体の“里親会”が狭山市のドッグランで開かれたので信州から参加して来ました。
コユキを世話してくださった保護団体は色々事情があって解散されたのですが、コユキの“仮ママ”さんと、同じ保護団体で一緒に活動されていたもう一人の“仮ママ”さんのお二人は、別の埼玉の保護団体さんに加入されて活動を再会されるようになっていて、今回はその団体さんの里親さんたちと、コユキ同様そのボランティアさんにお世話いただいた里親さんの皆さんが合同で参加されました。因みに新しく加入された団体は、これまで里親会は実施されておらず、以前の団体の“仮ママ”さんお二人が主体となって初めて開催されたとのことでした。

 今回はコロナ禍もあって、3年ぶりの開催になります。前回はナナも一緒に参加しましたが、今年はコユキだけでの参加です。
埼玉が拠点の保護団体ですので、殆どの里親さん方は首都圏在住のご家族で、遠方からは今回も我が家だけかもしれませんが、コユキの時も何組か申し込みがあった中で、わざわざ家庭訪問にも来ていただいて、縁あって遠方である松本の我が家を選んでくださいました。家内は長女の所にサポートに行っていて、東京から直接の参加なので、そのため今回は私メがコユキと一緒に松本から車で参加します。
 予定より20分ほど遅れて朝7時半前に出て、途中談合坂SAに立ち寄り、こちらにはドッグランがあるのでここでオシッコ休憩。
オヤツも食べて水も飲んで、八王子から圏央道へ。東名と合流する蛯名などで慢性的に渋滞する圏央道ですが、横浜の次女の所へ行く時とは逆コースなので、上越道方面へ向かう方の圏央道はそれ程でもありません。
予定通り、10時半に狭山市のドッグランに到着。所沢からバスで来る家内を待って、受付をし、コユキの“仮ママ”さんであるボランティアさんに挨拶をして、参加されていた里親さん方とワンコ談義で談笑です。この日集まられたのは60人程か、老若男女、殆どは初対面の里親さんですが、そこは同じ里親同士でお互いのワンコ談義に花が咲きます。
コユキは上京している家内とは一週間ぶりなので、家内から離れず、また歩かないので(ナナもでしたが、コユキも歩かないので、我が家のワンコたちにはドッグランは“無用の長物”です)、ずっと家内に抱っこされたまま・・・。
集まった“元”保護犬の中には数匹シーズーも居て、事情を説明して触らせて貰ったりもしましたが、どうしてもナナを思い出してしまい涙が溢れて堪りませんでした。

 最近はNHKなどでも保護犬や保護猫の譲渡呼び掛けの番組や芸能人の方々が保護犬や保護猫を引き取って暮らしている様子が放送されるなどして、世間の皆さんにも保護活動への理解や、そうした保護犬や保護猫を迎え入れる家庭も増えてきたように思いますが、それでも我が国には欧米とは異なり当たり前の様にペットショップがあり、中には設け主義のペット業者や、多頭飼で崩壊する(繁殖犬を捨てる)ブリーダーなどもいますし、ファッション感覚や流行でペットを飼って、結局飼い切れずに飼育放棄する無責任な飼主もいて、こうした保護犬や保護猫が後を絶ちません。
幸いにも、長野県など保健所に保護された犬の殺処分ゼロを継続している自治体も増えつつあるのですが、猫についてはまだまだという自治体が多く、地域猫活動のボランティアの方々に頼らざるを得ない状況にあります。
ペット用のオムツやジャーキーなど、ペットショップを併設しているホームセンターに買いに行くと、ジャックラッセルの購入を考えておられるお子さん連れのご家族に、
 「この犬種は、それ程散歩させなくても大丈夫です。飼い易い犬ですヨ!」 
と、ジャックラッセルの性格や飼う時の留意事項とは真逆の説明をスタッフがしているのが聞こえて来て、“売らんかな!”が見え見えで驚いたことがありました。そうしたことがイヤで、「可哀想で、見るに堪えないから」と家内はペットコーナーの近くには絶対に近付きません。

 どうして、日本ではペットショップが許されるのでしょう?どうして欧米の様に禁止されないのでしょう?
 こうした集まりに参加しているワンコたちは、中には認知症になってしまったワンコや全く視力が無いワンコもいるのですが、どの里親さんも愛情を注いで最後まで世話をしているので、或る意味幸せなワンコたちなのかもしれません。
コユキもブリーダーから不要になって捨てられた推定8年間ただ子犬を生ませるだけだった繁殖用の“道具”で、埼玉県の保健所から引き取られた保護団体のボランティアの“仮ママ”さんから生まれて初めて愛情を注いでいただき、記号や番号ではなくおそらく初めて名付けて頂いたであろう「こゆき」という名を、縁あって埼玉から遠い松本の我が家に来てくれてからもそのまま引き継がせて貰いました。
幸い先住犬のナナが全く気にせず、4年間は二匹で一緒にくっ付いて眠る日々でしたが、今年の3月にナナが虹の橋を渡ってからは、今まで以上に家内に甘える様になり、寝る時も家内と一緒です。
コユキは繁殖犬時代に吠えてもうるさくない様に声帯を切られているため、気道が次第に腫れて呼吸が苦しくなってしまうため、我が家に来てからの二度の手術を含め、東京の専門医で三度手術をしていただいています。ですので、ペットショップで“健康”なワンコを“買う”方が余程安かったかもしれません。でも、我々が何かを我慢してでも(例えばワンコ連れで行ける所しか旅行には行けません)、ケージの狭い世界の中で愛情を知らずに虐待されて来たであろう年数を、せめて取り戻せるくらいはコユキを可愛がってあげたいと思うのです。

 そして我々だけでなく、保護犬を迎えた誰もが、そんな気持ちをそれぞれが抱いてワンコたちに愛情を注いでおられる里親の皆さんです。そんな皆さんを見ていると、まさに“同志”。犬を飼うなら保護犬を!という同じ“志”を持つ仲間という気がしてきます。
もし「保護犬ならタダで安いだろう」と思う方がいたら、絶対に止めた方がイイ!どの保護団体もそうだと思いますが、保護した犬は避妊手術やマイクロチップを体内に埋め込む手術をしています。保護犬を引き取って飼うためには、それに要した費用を負担する必要がありますし、我が家のコユキの様に、保護されるまでの状況、例えば多頭飼いやブリーダーの劣悪な飼育環境などで、保護された段階で健康上の問題を抱えた犬も決して少なくありません。そうしたことを理解した上で、最後まで飼うという覚悟が必要です。集まった中には保護された時には既に視力を失っていたワンコや、元気で飛び回っているワンコの中には「今まで何回も手術をして、コイツはもう何十針も縫ってるんです」と笑って話される飼主さんもおられましたが、ここに集った飼主である里親の皆さんは、皆覚悟を以て、そうしたワンコたちを最後看取るまで世話することを誓って、敢えて保護犬を引き取った飼主さんなのです。そんな里親の一人として、是非そうした“同志”が一人でも多く日本中に増えていくことを願わずにはいません。

 この日、そんな思いをまた新たにした“里親会”でした。

 2023年度後半のNHK朝ドラ、「ブギウギ」。
“ブギウギの女王” 笠置シズ子の半生を描いた、2023年度後期放送のNHK大阪局再作の「連続テレビ小説」第109作目。「エール」以来久々に朝ドラにハマっています。古関裕而がモデルだった「エール」がとても良かったので、以降の朝ドラも開始すると視るのですが、一回目で「もう、これは視なくてイイや!」と判断してしまいましたが、この「ブギウギ」はそのままずっと視続けています。
 笠置シズ子と聞いて、「東京ブギウギ」は勿論知っていますが、実際に本人が歌ったのは聞いたことがありません。我々の年代だと、記憶にあるのは歌手の笠置シズ子ではなく、むしろ田舎や下町のお婆さん役を演じていた女優としての笠置シズ子(今でもBS-TBSで平日の夕刻に再放送されている東野英治郎の演ずる「水戸黄門」で時々田舎のお婆さん役で登場する女優としての彼女を見ることが出来ます)と、そして何より「家族そろって歌合戦」での笑顔の優しいオバサン審査員だった笠置シズ子でしょうか。

 今回久々に朝ドラ「ブギウギ」に嵌まった理由。それは、大阪らしいボケと突っ込み、涙と笑いの乗りとテンポの良さ。そして脚本の良さも勿論ですが、何よりストーリーが事実に基づいている、実在の“笠置シズ子”がベースになっていて、例え突拍子もない展開であっても、噓臭さを感じさせないことが大きい。
そして配役。ヒロインを演ずる趣里さんの演技力でしょうか。何度も朝ドラのオーディションに落ちたそうですが、正直決して美人顔ではない彼女にはうってつけの笠置シズ子がモデルの“福来スズ子”役だったのではないでしょうか。プロを目指していたというクラシックバレエの要素や、母親譲りか素人とは思えぬ歌唱力、そして意外な程のコメディエンヌとしての才能も勿論ですが、何より素直な真っすぐな性格がイイ。決して両親の“十四光”を感じさせない存在です。
それにしても良くぞあんなにも似た子役(しかも演技力ある)を探せたものだと始まった頃は感心していました。

 豪農だった香川の生家から拒絶され、生みの母からも離されて、ちょうど出産するために故郷に帰省していた女性から“貰い乳”をしていた縁で、情が移ったその女性に引き取られて我が子として育てられます。また彼女自身も婚約者であった吉本興業創業者の子息が結婚前する前に急逝し、その彼の子を身籠っていた彼女は出産し、吉本興業創業者からも認知してキチンと受け入れるという申し出もあったそうですが、そのためには裁判所での法的手続きが必要となり世間の耳目を集めてしまうことから、自身の生い立ちもふまえてシングルマザーとして自分の手で育てることを決心したという笠置シズ子。そうした行動が、戦後の焼け跡の“パンパン”の女性たちからの圧倒的な支持も得て、トップスター“ブギウギの女王”として、戦争に負けて打ちひしがれた日本に明るい希望を届け続けたのです。
その後、子育ての中で体形が太り、以前の様に歌って踊れなくなったとしてスパッと歌手を引退し、その前から時折“喜劇王”エノケンから演技指導を受けて喜劇女優として舞台などで共演していたこともあって、その後は女優として一から出直すため芸名もシヅ子と改名し、自らTV局を回り、それまでの歌手としてのギャラの何分の一でイイから使ってくれと自らを売り込んだという笠置シズ子。
そして、「思い出のメロディー」などその後の懐メロブームの中でも、淡谷のり子を始め戦前戦後の懐かしい歌手たちが登場する歌番組には、どんなに懇願されても歌手引退後は二度と歌わなかったという見事な程のその信念の一途さ。芯の強さというか・・・。一般女性としてしっかり育てられた娘さんは、後年インタビューの中で「母笠置シズ子は、例え鼻歌でも歌っているのを聞いたことが無い」と答えていたそうです。
ドラマで見る田舎のオバちゃん風の、そして敗者の家族たちを励ますような、あの「歌合戦」での優しい笑顔の田舎の“オバさん”審査員の顔の裏に、そんな壮絶なドラマがあったことを今回の朝ドラが切っ掛けで始めて知りました。

 年が明けて放送が再開されました。
漸く終戦を迎えた焼け野原の街。戦争の傷が癒えない中、「今がどん底だったら、後は良くなるだけや!」と、逆境の中でも前を向くスズ子。
偶然とはいえ、新年早々大地震が襲ったこの国に、今一番必要な言葉だと思います。
“災害列島”のこの国は、これまでも阪神大震災、東日本大震災と皆で必死に乗り越えてきたのですから。

| 1 / 100 | 次へ≫