カネヤマ果樹園 雑記帳<三代目のブログ>

 次女一家がアパートから戸建てに引っ越すこととなり、病院勤務と2人の育児に追われ忙しい次女夫婦のサポートに、7月上旬コユキも連れて車で横浜に向かいました。
既に家内は南紀白浜から戻ってすぐ、6月下旬から先に行って荷造りなど引っ越し準備を手伝っており、私メは飽くまで“力仕事”と、不要な家具や家電製品などの粗大ゴミの地区での収集予約が間に合わなかったため、レンタルした軽トラでの横浜市の処理場へ自分たちで運ばねばならず、次女夫婦は二人共ペーパードライバー故に軽トラドライバー兼運搬係です。
引っ越しそのものは勿論専門の引っ越し業者にお願いしてあり、アパートへのアクセス道路が狭く大型車両が駐車して作業が出来ないことから、中型トラックで二度に分けて搬送。残った廃棄物などの処理と新居での片付けなどの作業を、我々も一緒に一週間ちょっと掛かって無事終わらせることが出来、最後は庭木の剪定と手入れを済ませ、残って育児と家事のサポートを継続する家内を残して、先にコユキと松本へ戻って来ました。

 この横浜での一週間ちょっとの滞在中にランチで何度かお世話になったのが、新居の近くに在った「バーガーキング」でした(因みに、近くにはバーガーキングだけではなくて、マックもモスも、はたまたサブウェイもフレッシュネスバーガーの店舗も在ったのですが)。

その訳は・・・、マックは松本市内だけでも何店舗もあるのに対して、バーガーキングは長野県下には店舗が無いから・・・ではありません。理由は、私メにとってバーガーキングは、昔馴染んだ“懐かしの味”だから・・・なのです。
昔、家族で赴任して6年半暮らしたシンガポールで、住んでいたコンドミニアムの近くにはマックもバーガーキングも、そして赴任中に日本から進出して来て、現地でも行列が出来る程人気になったモスの第一号店もありましたが、家族でテイクアウト(シンガポールではイギリス英語のTake away を使うのが一般的)したのは専らバーガーキングでした。子供たちが通っていた英国式スクールのママ友と子供たちに人気だったのも、マックよりもやはりバーガーキングが人気だった様です。理由は単純で、マックよりもバーガーキングの方が美味しいから。それにオニオンリングがあるから。また個人的には、シンガポールではハンバーガーショップなどではオーダーすると必ず無料で付いてくるのが当たり前で、お願いすると更に何個か追加して貰えた個袋のチリソースですが(帰任してハンバーガーショップのどこにも無いのにガッカリし、家では常備しているユウキのスイートチリソースを必ず使っています)、バーガーキングのチリソースが断然美味しくて、片やマックはガーリックが効きすぎていて好みでは無かったのもその理由でした(そう云えば、長女がコンサル勤務時代、シンガポールの日系企業コンサルに3ヶ月間長期出張した際に、バーガーキングのチリソースの小袋を帰国時のお土産にたくさん貰って持ち帰ってもらって、松本でマックのハンバーガーなどをテイクアウトした時に大事に使ったことを思い出しました)。
但し、マックの店舗の中には子供用に遊具などが置かれたプレイルームを備えた店が在り、そこでマックの商品を注文する前提で、子供たちの誕生日会などに無料での貸切が可能でデコレーションもしてくれるので、子供たちもシンガポール時代に友達のバースデーパーティーではバーガーキングではなくマックに何度もお世話になった様です。
 さて、前置きが長くなりました。
新居での作業中、子供たちをあやすために気分転換に外出した次女が、ランチのテイクアウトで、「モスかバーガーキングか、どっちがイイ?」と言うので、松本には無いので迷わずにバーガーキングを希望したのですが、家内はモスの方が・・・とのこと。その選択は行った様子で娘の判断に任せることにしました。
暫くすると娘から電話があり、バーガーキングは何を買えば分からないからモスでもイイかとのこと。その時家内が二階で作業していたのをこれ幸いと、30年以上経った今のメニューなぞ私メも分かる筈もありませんが、シンガポールでの記憶を頼りに、
 「バーガーキングだったら、確かWhopper Jr.とかがある筈だから、それとオニオンリングとポテトとか、後は任せる!!」
と家内の意向は無視して、バーガーキング一択でお願いしました。
間も無く娘たちが戻り、久し振りに食べたWhopper Jr. 。実に30年振り?でしょうか、
 「あぁ、これバーガーキングの味!シンガポールで食べてたのと同じだ・・・」
懐かしい味でした。そしてこれまた懐かしのオニオンリング。
そして、娘が「これも味見してみて!」と一口食べさせてくれた、彼女と孫のために買って来たというハンバーガー。これが旨いのナンノ!
 「えっ!これ何?“肉々しくて”ペッパーも効いてて、美味しい!」
聞けば、新製品のグリルド・ビーフとか・・・。
バーガーキングに拠ると、
『2024年6月28日(金)より、直火焼きの100%ビーフパティを最大限美味しく味わえるシンプルな本格バーガー「グリルド・ビーフバーガー」を新発売いたします。
自慢の直火焼きの100%ビーフパティ2枚に、パルメザンチーズとカマンベールチーズを合わせたホワイトチーズソースで仕上げました。バーガーキング最大の特長である、ジューシーで香ばしい、直火焼きの100%ビーフパティを最大限美味しく味わえるシンプルな本格バーガーです。』
とのこと。
何となく、会社に入って生まれて初めて西海岸に海外出張した時に、米国子会社に行く前に、託された日本からのお土産を渡すために挨拶で立ち寄った兄弟会社のオフィスで、出向赴任していた先輩が「ランチで外に食べに出る時間が無いから」と、オフィス近くに来ていたキッチンカーから買って来てくれて初めて食べた本格的なハンバーガー。粗挽き肉のパティがまるでステーキを食べているかの様で、大袈裟ながら「これがアメリカか!」と感激した記憶があるのですが、何だかそれを思い出しました。
僅か一週間ちょっとの横浜滞在中、娘たちには飽きられながら、私の希望でこのグリルド・ビーフバーガーを私メが自分でテイクアウトして来て皆で三度食べました。しかも日曜日のランチタイムは大混雑で、注文して受け取るまでに優に30分以上も掛かりながら・・・。
コストか或いは食材調達の都合か、このグリルド・ビーフバーガーは残念ながら期間限定商品とのことですが、実に勿体無い!通年で販売すれば多少高くても(単品で790円)絶対に看板商品になれる筈!
 今度もし来る機会があった時に、また食べることが出来るかなぁ・・・?それよりも、バーガーキング、松本にも出店してくれないかなぁ!・・・。
(因みに、以前の日本進出時は西武系、その後はJTと組んでのフランチャイズ展開は上手くいかず首都圏のみで撤退し、その後ロッテリア傘下となった既存店舗と、併せて日本での営業権を持つ外資投資会社が設立した日本法人が新規店舗を自社展開しているとのことですが、今度は是非地方にも展開して欲しいものです)

 5泊6日での、初めての南紀白浜の旅。
泊りの最後の日は、せっかくですので地元の新鮮なお寿司を食べることにしました。
グルメサイトでもっと高評価の店もあったのですが、近くて歩いて行けることから選んだのは、日本書紀にも登場し、道後、有馬と共に日本三大古湯に数えられるという白浜温泉の中でも一番古い源泉「行幸源泉」(みゆきげんせん)のすぐ横にある「ホテルシーモア」内の「すし八咫(やた)」です。

(写真は、フィッシャーマンズワーフ付近から見たホテルシーモア。右側の建物。真ん中に見える赤い小屋の屋根越しに、行幸源泉の鉄塔が見えます。そして、その上の緑が行幸の芝の場所です)
 ここ南紀白浜も温泉地としてはご多分に漏れず、古くなった旅館が目立つ中で、ここシーモアは数年前に全館リニューアルしたらしく、館内もキレイで家族連れ中心に人気で宿泊は結構混んでいる様でした。
そしてこのホテルには、ビュッフェレストランの他に宿泊客以外でも利用出来る、「いけす円座」という店の中央に配した大型いけすを眺めるカウンター席とゆったりとした小上がり席で、その日水揚げされた新鮮な魚貝類が楽しめるという100席の海鮮レストランがあり、その海側の一角に別店舗で、僅か16席のカウンター席の「すし八咫」があって、オーシャンビューの窓越しに拡がる白浜の海を眺めながら、目の前で板前さんが握ってくれる寿司を楽しめるのだとか。
せっかくなので、案内では夕食も二部制とのことから、事前に予約して最初の17:30の部をお願いしてあります。
家内がホテルの土産物ショップを見たいというので早目に行って、時間になってホテル玄関とは別の海鮮料理店の玄関から入店し、名前を伝えて席に案内頂きましたが、我々が一番乗りでした。
メニューの中から、三種類の寿司コースの中から真ん中の「桃」(税込3850円)と、一品で金山寺味噌きゅうり(550円)と生ビール、地ビールと地酒をオーダー。目の前で握ってくれる板さんと会話しながら、サーブを待ちます。コース内容は、
・おまかせの握り 本日の鮮魚10貫
・小鉢
・蒸し物(この日は茶わん蒸しでした)
・鮑踊りステーキ
・あら汁
・水物
とのこと。 
 付け出し風の小鉢(何だったか、クラゲの和え物だった様な…)の後、1貫目にカツオ。これが、今まで食べたことが無いくらいモチモチと歯応えがあり生臭さが無く、新鮮で美味!
何でも春の白浜は、釣ってから四五時間数時間しか経過していないカツオ、「もちガツオ」のシーズンとのこと、「もちガツオ」とは、釣ってから約4~5時間以内のモノ」で、「身に脂肪分が少ないため弾力があり、餅のような食感から、もちガツオ」と呼ばれるのだとか。しかし、新鮮なだけではダメで、身にこの弾力がなければもちガツオではないので、見ただけでは判別出来ず、漁業や飲食店の関係者も身を切ってみないとわからないのだそうです。
勿論、初めて食べたのですが、今まで食べたカツオ(たたきとか)の概念が変わりました。本当にべちゃっとしておらず、歯応えというか弾力がある。最初食べた時は、思わず「えっ、これってカツオですか!?」
いつもは生臭いとカツオは食べない家内も、これは美味しいと絶賛でした。
ここの寿司の握りの特徴は、醤油を付けず、ポン酢のジュレ、卸しポン酢、新タマネギの醤油漬け、泡醤油とか、ネタに合わせて工夫を凝らした調味料がそれぞれのニギリの上に載せられたり、ネタ自体にたまり醤油などのタレが塗られていたりと工夫されていて、自分で醤油を付けることは一度もありませんでした。
目の前にいる板さんとの会話(例えば、今までで一番凄かった大型台風の時は、目の前に見えているホテルシーモアの沖合100mの地点に位置する、高さ18m、水深8mの海中展望塔を大波が乗り越えて来たのだとか・・・。一瞬、「本当ですか?」と思わず聞き返してしまいましたが、ここからすぐの三段壁の“サドンロック”のことを考えると有り得そうな話です)や最初のカツオで感動し、途中まで写真を撮り忘れていて、撮った写真も何なのか覚えておらず、写真のみで恐縮ですが、どれも本当に新鮮で美味しかったです。
この日とりわけ感動したのは、「鮑踊りステーキ」。陶板焼きの器に蓋をして蒸し焼きにするのですが、アワビ自体も勿論ですが、特に肝ってこんなに美味しいんだ!と感激する程でした。生臭さも泥臭さも全くしないのです。オドロキでした。         (写真の奥に写っているのがアワビです)
この「すし八咫」の寿司一貫のニギリは、普通の寿司屋のニギリに比べると、ネタは小ぶりでシャリも少なめ(次女が済んでいた頃、成田に行く度に行った「江戸ッ子寿司」に比べると半分以下、もしかすると1/3位かもしれません)ではあったのですが、この値段でこの内容なら(白浜の他店の状況は分かりませんが)海無県から来た人間としては大いに満足でした。
しかも、白浜の海を一望するカウンターで、握りたての寿司をいただける何とも贅沢な時間でした。

 また、このシーモアには、ホテル内にある焼き立てパンのお店「TETTI BAKERY&CAFE(テッティー・ベーカリー・アンド・カフェ)」があって、滞在先の近くにはカフェが無かったので、何度かお世話になりました。もし晴れていれば、買ったパンとドリンクを店内のイートインだけではなく、オーシャンビューのソファー席や、屋外の海の見える広いテラスで食べることも出来ますし、広い足湯やインフィニティ・プールもあって泊まりも楽しそうでした。因みに、店名は南紀地方の方言で「とても」とか「すごく」を表す「てち」を店名にしたそうです。ホテルのロビーフロアの1階にあります。
白浜滞在中近くに喫茶店が無かったこともあり、気に入った家内が3度訪れたそのカフェだけではなく、娘たちや孫たちへのお土産も、両方事前に見比べた上で、もっと大きな土産物コーナーのある「とれとれ市場」ではなくこちらのホテルのショップで購入しましたが、スタッフの皆さんも大変親切で接客もとても良かったそうです。
 さて、余談になりますがこのホテルシーモアのすぐ横には「行幸の芝」(みゆきのしば)という石碑が立っていて、さらにその下の道路脇に湯を汲み上げるための鉄塔が4本立っていて湯気が常に噴き出し、近くに行くと硫黄の匂いがします。白浜温泉でも一番古い「行幸源泉」です。
その「行幸の芝」という意味不明の名前に惹かれて行ってみました。解説板に由ると、この記念碑一帯(湯崎、崎の湯付近)の台地は、字名(あざな)「行幸の芝」と呼ばれ、飛鳥時代に斉明天皇が湯治のため滞在された、「行宮跡」があった所なのだそうです。調べてみると、
『大化の改新を成功させた中臣鎌足と後の天智天皇である中大兄皇子は、孝徳天皇を即位させました。その子である有間皇子にも皇位継承の可能性も多分にあったのですが、蘇我赤兄に謀反をそそのかされたことで運命の歯車が狂います。逆に赤兄らによって邸を包囲され、囚われの身となってしまいました。中大兄皇子の裁きを受けるために紀伊国・牟婁の湯に行幸中の斉明天皇のもとへ護送される途中、有間皇子が詠んだ1首が藤白坂の入口に歌碑として残されています。「家にあれば 笥(け)に盛る飯を 草枕 旅にしあれば 椎の葉に盛る」(家にいれば器に盛るご飯を、こういう旅だから椎の葉に盛ることだ)。
有間皇子はその後、牟婁の湯へ到着し中大兄皇子の厳しい尋問を受け飛鳥へと送還されます。そして、その途中藤白坂で絞首され、19歳の若い命は絶たれてしまうのです。』
従弟の中大兄皇子が滞在していたこの行幸の芝の地に在った行宮に有間皇子を護送させ、この地で中大兄皇子の尋問を受け、その後和歌山県海南市の藤白坂という場所で処刑されたのだとか。道後、有馬と共に三古湯の一つとされる白浜温泉(牟婁の湯)。その歴史の古さを実感することが出来ました。
因みに、その悲劇の有間皇子はその前年、療養のためと称して牟婁(白浜)へ行き、帰京後、その地の素晴らしさを伯母である斉明天皇に報告。そして斉明天皇はこの年、中大兄皇子を伴い、牟婁を訪れていました。
有間皇子は悲劇の主人公ですが、白浜にとってはこの地に行宮を建てた斉明天皇と共に温泉を世に知らせた恩人でもあり、白良浜の近くに「有間皇子之碑」が立っていて、毎年6月にそこで献湯祭が行われているのだそうです。
蛇足ながら、松本にも天武天皇の行宮が置かれていました。松本は古代「束間」(ツカマ。後の筑摩)と呼ばれていて、白浜温泉(牟婁の湯)同様、日本書紀にも登場する束間の湯(今の美ヶ原温泉或いは浅間温泉とも)を気に入っていた天武天皇の行宮が置かれ、天武天皇は束間への遷都まで計画し、調査させたのだそうです(崩御により中止)。

 初めての南紀白浜旅行。メインの目的は長年の夢だった熊野古道を歩くことでしたが、たまたま行ったのが5月だったので運良く「もちガツオ」を生まれて初めて食べることが出来ましたし、また新鮮なアワビの肝の美味しさも初めて知りました。そうした新鮮な海の幸も堪能した今回の旅行でした。来るまでは南紀白浜と聞くと、何となくパンダのアドベンチャーワールドと温泉・・・というだけのイメージだったのですが、実際に現地を訪れてみて、熊野古道とはまた別に、遥か万葉の頃より都との関連が在り、歴史の舞台ともなった場所だということを知った、初めての南紀白浜への旅でした。

 “海無し県”の山国信州から海辺の町に来ると、お魚のその新鮮さには感動するばかりです。
初日、ホテルへのチェックインする前に、西日本最大級という海鮮市場の南紀白浜「とれとれ市場」に立ち寄り。「とれとれ横丁」には各種海鮮丼などがあるのですが、こちらは持ち帰りが不可なので、鮮魚コーナーでその日のホテルでの夕食用に、鯛、マグロなどの船盛とヒラメなど好みの刺身を購入。
どれも新鮮で美味しかったのですが、特に鯛(種類は不明)がプリプリで本当に美味しかった!(因みにつまみ用に揚げ物も買ったのですが、こちらは小田原には敵いませんでした)

この「とれとれ市場」は地元の漁協が運営しているそうですが、広大な敷地で駐車場も広く、日本のみならず中国人観光客を乗せた団体の観光バスが何台も来ていました。屋内のフードコートや土産物コーナー、鮮魚コーナーだけでなく、屋外のテント下にも、海鮮BBQやピザなどの屋台が並んでいて、若者のグループやカップル、家族連れが思い思いに楽しんでいました。
滞在中は、刺身のテイクアウトだけではなく、フードコートの「とれとれ横丁」でランチに海鮮丼も食べましたし、さすがに毎日刺身では飽きるので、二度、一度は気分転換にBBQ用食材店から熊野牛や野菜などを買って帰って、ホテルの部屋はキッチン付きなので焼き肉にしました。また一度はピザをテイクアウトして(マルゲリータと、白浜故にシーフードも)夕食にしました。
 海鮮では、別の日には「とれとれ市場」より近くて白浜の街中にある「フィッシャーマンズワーフ白浜」で、海鮮丼をテイクアウトしてみました。
こちらは「とれとれ市場」に比べれば遥かに小規模ですが、南紀白浜にある地元の漁師さんたちが運営しているという施設で、目の前に広がる白浜の湯崎漁港で水揚げされた魚が並び、早いモノだと水揚げから5分以内に店頭に並ぶこともあるのだそうです。
一階には海鮮丼のイートインや、刺身や焼き魚や煮魚、干物などの販売コーナーと別フロアにはダイバーズショップも。二階には海鮮レストラン、そして屋上の三階はBBQのフロアとか。
イートインのコーナーはテーブルが幾つか並んでいるだけの質素な感じですが、丼は10種類くらいあって、地元の料理さんたちが調理もしてくれている様です。我々は夕食用に、私は上海鮮丼(税込1580円)、家内はシラス丼(1460円)を注文し持ち帰りました。
刺身、しらす、ご飯とそれぞれ別々にしっかりトレイに盛って二重にラップしてくれてあり、シラス丼はしらすと玉子焼きに付け合わせの野菜は別のトレイに分けてくれてあるなど、無骨ながら親切丁寧な感じがしました。
個人的は、観光客相手の「とれとれ市場」よりもこちらの「フィッシャーマンズワーフ」の方が素朴で、海無し県的喩えで恐縮ながら、信州の農家の産直売場の“海版”の様な感じで、むしろ親近感を感じました。値段は「とれとれ市場」のイートインと同じ位かもしれませんが、量は1.5倍くらい多いのではないでしょうか。正直食べ切れませんでした。そして、こちらもどのネタもプリップリで新鮮そのもの。いやぁ、ホント旨い!
 最終日前日にも、お土産(というか、松本の自宅には食材の買い置きが無いので、帰った日の夕食用に)にシラス丼をご飯抜きでとお願いしました。すると、ご飯抜きの値段は無いとかで、従来のシラス丼の値段でしたが「ご飯の代わりに、その分シラスを多目に入れといたからね!」とのこと。
(確かに、松本に帰ってから開けてみたら、二人で優に二日分はありました)

 今回の5泊6日での南紀白浜の旅。そして、その実質最終日となる5月30日。
この日は、二日目となる熊野古道中辺路の内、大門坂から那智大社を目指して歩きます。
個人的には、中辺路の起点となる滝尻王子から熊野本宮大社まで38㎞の中辺路を二日間共歩くつもりでいたのですが、奥さまは大門坂から歩いて那智大社にお詣りして、熊野三山の内二つを参拝しつつ那智の滝も是非見たいとのこと。
そこで調べてみると、南紀白浜から那智大社までは90㎞ちょっと。片側一車線の紀勢自動車道を走るのですが、途中すさみから串本町を過ぎた辺りまではまだ高速が繋がっておらず、海岸線沿いに串本町などを経由しながら国道42号線を走ります。所要時間はほぼ2時間。結構なロングドライブですが、せっかく来た念願の熊野古道ですので、奥さまの希望に沿って那智大社へ行ってみることにしました。

 二時間の所要時間をふまえ、朝7時にホテルを出発です。南紀白浜空港横のスカイロードから紀勢自動車道に入り、一車線とはいえ交通量は少なく順調にすさみまで。ここで自動車道を降りて、今度は国道42号に入ります。
ここからは、殆どは紀伊半島南岸の海沿いを走る道。国道とは言っても狭い片側一車線のカーブが続く曲りくねった道ですが、“山の民信州人”は海が見えるだけで「わぁーっ!」とテンションが上がるので、然程苦にはなりませんでした。途中、串本では名勝「橋杭岩」を通るので、帰りに立ち寄ることにしました。串本を過ぎて暫くすると那智勝浦ICまで再度自動車道に入り、“鯨の町”太地は経由しません。
終点の那智勝浦ICで降りて、那智川に沿って県道を進むと右手に広い駐車場が在り、ここが優に100台近くは停められそうな無料の大門坂駐車場です。
8:50到着。ほぼ2時間掛かりました。
事前に調べていた奥さまに依れば、那智大社周辺にも那智山観光センター駐車場があるそうですが、台数も少なく有料なのでこちらに停めて歩き、この日のゴールの那智の滝からバスで戻るのがベターとのこと。駐車している台数は、平日のせいかそれ程多くありません。
今回歩く、大門坂を通って熊野那智大社・那智の滝へ至るコースは、田辺から本宮大社を経て速玉大社を回り、熊野三山最後の那智大社へ至る中辺路の最後の部分。約2.5kmと距離的にも歩きやすく、那智勝浦からのバスのアクセスも良いこともあり、熊野古道の入門に最適なコースとして人気のコースなのだとか。しかも大門坂からの古道は、中辺路の中でも特に石畳が美しく残されているのだそうです。
観光バスもこの駐車場で団体を降ろし、ここから皆さん歩く様で、無料の竹の杖がたくさん用意されていました。
コース案内によると、距離は那智の滝往復まで2.7㎞で、歩行時間だけなら約1時間、散策時間を含めて2時間半~3時間とのこと。
我々も駐車場でトイレを済ませ、このコースのマップは事前に用意して来なかったことから観光センターで係員の方からマップをもらい、ちょうど9時に出発。200m程歩いて大門坂入口からこの日の熊野古道ウォーク開始です。

 集落の中を歩いて坂を上り、石の鳥居と朱塗りの振ヶ瀬橋を渡ると、そこから先は那智大社の聖域になります。大門坂茶屋を過ぎて、太くて立派な樹齢800年という夫婦杉があり、時間は9:15、ここからいよいよ石畳の大門坂が始まります。
夫婦杉に始まり、その先は周りを樹齢200~300年という見事な杉並木に囲まれた640mの大門坂の石畳が続きます。途中、一町、二町と書かれた古い石の標識があり、一町は109mとのことで、最後の六町まで。
さすがに古道の中でもビジュアル的に有名で、またバスの便も良く何より短くて手軽なこともあってか、途中カップルやグループや、逆に降りて来られるガイドさんの説明付きの団体など、この道はさすがに観光客が多い。でも長さ六町の640mとはいえ、段差がある267段で高低差100mなので、結構キツイ坂で舐めてはいけません。途中多富気王子跡や昔は通行税を徴収した十一文関跡など色々見ながらゆっくりと登り、六町の標識を過ぎると広場に出て、ここまで20分でした。
那智黒石(この地方で産出される真っ黒な粘板岩の一種とか。それを模したのが飴の“那智黒”)の碁石(因みに白の碁石はハマグリの殻)や硯が並ぶ土産物屋さんが並ぶ通りを歩き、参道の標識に沿って那智大社へ。今度は467段という石段を上り、漸く那智大社へ到着。檜皮葺の古式ゆかしい厳かな本宮大社の社殿に比べ、南紀の太陽の様な明るい赤い朱塗りの社が印象的です。
拝殿に参拝し、続いて隣の青岸渡寺へ。こちらは天台宗のお寺で、熊野御幸された花山法皇により、西国三十三所巡礼の第一番札所として定められたのだとか。大社と一体になっているのは、江戸時代までの神仏混合の証なのでしょう。
それにしても、この地の滝の様な自然崇拝から異郷の地から受け入れた仏まで含め、古来八百万の神を受け入れて来た、「神様仏様」と本来は受容性の高いこの国で、“虎の威”を借りての権威付けのためとはいえ、薩長の明治政府の取った天下の愚策、廃仏毀釈を想います。そして、それに松本藩主が踊らされ、国内でも有数と云われる“嵐”の吹き荒れた信州松本の地のことを・・・。
本堂の背後に、那智の滝と必ず一緒に映っている三重塔が現れます。この青岸渡寺の三重塔は1581年に焼失し、1972年に400年ぶりに再建されたという那智山のシンボル。我々も何とか滝と三重塔を自分たちと一緒に映そうと色々試していると、二人連れのアジア系の女性が英語で「写真撮りますよ!」。
有難く撮っていただき、お礼に彼女等も撮影してあげましたが、二人の会話からタイから来られたらしく、彼女たちは逆に滝からこちらに上がって来られたようで、
 「下に降りて行くと、Ground Levelから滝の写真が撮れますよ!」
と教えてくれました。「えーと、タイ語でアリガトウって何だったっけ?テレマカシはマレー語だし・・・」と直ぐには思い出せず、結局英語で返します(コップンカーだっけ・・・?)。
我々も、三重塔の脇から下って、車道に出るとそこが帰りに乗る「滝の前」バス停。その先に那智大社の別宮、飛瀧神社の一の鳥居があり、最後の133段の階段を下ると、飛瀧神社の御神体でもある那智の滝が目の前に現れます。
この石の階段が今までで一番キツかった気がしました。というのも一段一段の段差がかなりあるので、とにかく急なのです。右側通行で、幸い真ん中と両側にも真鍮の手摺があるので、特にご女性は転ばぬように掴まって歩いた方が良いでしょう。
それにしても、この那智の滝への石段は133段あるのだそうですが、那智の滝も高さ133m。メートル法が日本に導入されたのは明治になってからですが、階段は明治期以前から存在していた筈。これは全くの偶然なのか、何か意味があるのか・・・?
階段を下りきって、二の鳥居の先に那智の滝が現れます。高さ133m、落差日本一。一度は見たかった名瀑で、縄文の昔より自然崇拝をしてきた日本らしく、この滝そのものが飛瀧神社の御神体です。
 当然ですが、帰りは133段の石段を今度は上り、滝前のバス停から大門坂駐車場へバスに乗って11時に戻りました。出発してからちょうど2時間。まだランチには早いので、途中か白浜まで戻ってから食べることにして、早速車で出発します。
 途中那智勝浦の海沿いを走ると蜂の巣の様な岩壁があり(「蜂の巣壁」)、「虫喰い」風化と呼ばれ、風化により蜂の巣状に無数の大小の穴をあけた岩面が広がっていて、ジオパーク内には何ヶ所か見られるのだそうです。
串本町に入り、橋杭岩の道の駅に寄って少し観光してみました。
「橋杭岩」(国の名勝で天然記念物)。地下から上昇してきたマグマが堆積岩の中で冷え固まった、大小40もの流紋岩の岩がその名の通り橋の杭の様に並んだ850mにも及ぶ“岩脈”。手前の海食台に転がる岩は津波石(津波の際に運ばれたもの)で、江戸時代の巨大地震だった宝永地震によるものという調査結果が出されたとのこと。
串本といえば、「♪ここは串本 向かいは大島 仲をとりもつ 巡航船」と歌われる串本節が有名ですが、現在は串本と紀伊大島とは「くしもと大橋」で繋がっていて、巡航船は廃止されている由。その大橋と繋がっている串本の半島の先端が“台風銀座”の潮岬ですが、今回は橋杭岩だけでそこには寄らずに直帰しました。
帰路も2時間程で白浜まで戻り、この日の夕食は寿司懐石を予約してあることから、ホテルシーモアのカフェでパンとコーヒーで遅めの昼食です。
 余談ですが、後になって知ったのは、奇しくも我々が南紀白浜に向けて旅立った5月26日。この日の日経日曜版の“The STYLE”は、全くの偶然ながら、“Incredible KUMANO KODO”とキャッチが付けられての、まさに「熊野古道」の特集であり、その記事で中心的に取り上げられていたのが我々も歩いた中辺路だったのです。そして、その特集記事の表紙の写真は、この日歩いた大門坂の杉並木の石畳でした。
松本に帰って来てから旅行中の溜まった新聞を見ながら、何かまるで神様に導かれた様なその偶然に驚いたのでした。
 前回計画しながら断念した熊野古道。
今回、見知らぬ方から背中を押される形で、車で行った南紀白浜。念願の熊野古道の中辺路の中から、ホンの一部ですが、発心門からの熊野本宮と大門坂からの那智大社を歩き、熊野三山の内、本宮大社と那智大社の二社にお詣りすることが出来ました。
今回一部とはいえ熊野古道を歩きながら感じたのは、欧米を中心とした外国人の多さでした。しかも一日目の発心門からの道は、むしろ日本人より遥かに多いくらいでした。
その背景には、日経新聞記事の記載に依れば、本宮町の学校でALTだったカナダ人男性の力が大きいと云います。その赴任中に熊野古道を踏破し、地域の文化歴史をちゃんと理解した上で、この地の魅力を英語で発信し続けたのだそうです。そうした地道な努力が今に繋がっているのだそうです。

 “道”として二番目の世界遺産登録となった熊野古道。一番目はスペインの「サンティアゴ巡礼道」だとか。
熊野古道はそこと交流協定を結んで共通の巡礼手帳を作り、スタンプを押しながら両方を踏破すると、「達成者」としての証明書がもらえ、この3月末時点で6千人が登録されているのだとか。
もしかすると、本宮へ下る「ちょこっと展望台」で道を教えてくれたスペイン人のカップルも、その両方を踏破すべく熊野古道を歩いていたのかもしれない・・・。戻ってから、日経の熊野古道の記事を読みながら、そんな感慨にふけっていました。
熊野出身の作家、中上健次は生前、『近代から取り残され一番遅れた熊野は、本当は一等強いメッセージを世界に向かって発信できる場所だ。』と語っていたそうです。
何かを求め、否、邪心を払いただ無心で大社を目指し古の道を歩いている多くの人々を見ると、もしかすると氏は生前既に今の熊野古道の在り様を看破していたのかもしれません。
古代の“巡礼の道”は、今や人種の違いや洋の東西を問わず、現代人にとっての“浄化の道”なのか・・・。

 南紀白浜は確かに遠かったけれど、車で来られることが分かりました。そして、そんな思いを感じながら半ば諦めていた熊野古道を歩いて、熊野三山の内の二社に参拝することも出来ましたし、想像していた以上に感動した熊野古道でした。今回歩いたのはそのホンの一部。でも、そのホンの一部でも十二分にその素晴らしさに触れることが出来たのです。そして、まだ新宮の速玉大社も残っていますし、中辺路では牛馬童子にも是非会いたい・・・。
またいつか、必ず残りの熊野古道を歩きに訪れたいと思います。
二日間で僅か10㎞。“歩いた”とも言えない様な初めての熊野古道でしたが、何となくその魅力の理由を知ることが出来た、そんな幸せな熊野古道の旅でした。

 南紀白浜から熊野本宮大社まで車で走り、朝8:50に到着。
この日歩く熊野古道中辺路の発心門王子へのバスの出発時間9:20まで30分近く時間がありましたので、先に本宮大社にお参りを済ませておくことにしました。

 全国の「熊野神社」の総本宮にあたる熊野三山の中でも最も古く、参詣のための道である熊野古道の中で一番多くの人々が辿った中辺路で、苦労して歩いて来て最初に辿り着く熊野三山がこの熊野本宮大社。その縁起は、創建二千年とも伝わる熊野信仰の中心となる神社です。
大鳥居をくぐり、158段という石段を上ります。石段の両脇には無数の幟と大きな杉並木が続き、厳かな雰囲気がその歴史を感じさせています。
神門をくぐると檜皮葺の立派な社殿(本殿)が姿を現します。四つの社殿があり、向かって左から二つの社殿が夫須美大神(イザナミノミコト)・速玉大神(イザナギノミコト)の両神。中央の社殿が主神の家津美御子大神(スサノオノミコト)。そして右手に天照大神が祀られていて、交通安全、大漁満足、家庭円満、夫婦和合、長寿の神として古来多くの信仰を集めてきました。
説明に従い、その四つの社殿に順番に娘たちの分も含めて祈願し参拝を済ませ、また石段を下って発心門王子へ行くために本宮前のバス停に向かいました。
 朝本宮大社からバスで移動して、歩き始めた発心門王子から7㎞の中辺路を二時間半掛けて歩いて来ると、ゴールの本宮大社には本殿の裏手から境内に入ります。
因みに拝殿横に八咫烏の像がありましたが、熊野三山においてこの八咫烏は神使とされており、八咫烏は熊野大神に仕える存在として信仰されていて、熊野のシンボルとされているのだそうです。
私たちは朝の内に御本殿の四社には既にお参りしてありましたが、本殿右隣の満山社にはまだお参りして無かったのでここで参拝し、158段の石段を下って、本殿から旧社地の大斎原まで国道を渡り徒歩10分程の距離を歩き、日本一という大鳥居をくぐって、嘗ての熊野本宮大社があった大斎原へ向かうことにしました。
熊野川・音無川・岩田川の合流点にある「大斎原(おおゆのはら)」と呼ばれる中洲に嘗ては本宮大社が在り、当時は能舞台などもあって現在の8倍もの規模を誇っていましたが、明治22年の大洪水で多くが流出し、流出を免れた上四社3棟が明治24年(1891)に現在地に移築・遷座され、それが今日お参りして来た今の本宮大社であり、元々社殿が在った場所が「大斎原」として、洪水で流されて移設再建されなかった中四社、下四社、境内摂末社の神々が今でもこの地で祀られています。
その大斎原への参道には、中辺路の展望台から見えた高さ34mの日本一大きいという八咫烏を付けた大鳥居が聳えていて(因みに平安神宮の大鳥居は24mで、第3位だそうです)、またこの大斎原こそが、中辺路を歩いて来た参拝者が初めて本宮の姿を目で見て確認し、感動して平伏し拝んだというあの伏拝王子から見える中洲でもあります。
その日本一の大鳥居をくぐり、参道を歩いて来て、創建以来ホンのつい最近とも云える明治まで二千年近く社殿が在ったという場所に立つと、現在の本宮大社の“現物”の本殿とはまた違った、目には見えぬとも確かに神秘的で何だか不思議な感覚に包まれるのを感じます。それを“パワースポット”と呼ぶには余りに単純過ぎる気がしますが、しかしこれこそが、もしかすると今なお多くの人々が“何も無い”様な古道を歩いて求める、否、歩いてこそ求め得る“モノ”なのかもしれないと感じられ、そんな感慨に包まれながら暫しその場に佇んでいました。そしてある意味この不思議な感慨こそが、念願だった熊野古道を歩いて良かったと本当に思えた瞬間でもありました。
帰りに熊野川の河原に行くと、広いこの河原を三途の川に見立てて浄土への思いを込めたのか、沢山の石積みがありました。
そこから来る時に立ち寄れなかった産田社にも立ち寄ってお詣り。これで熊野本宮管内の全ての社に参拝をすることが出来ました。
 さて、時間は午後1時。ここで昼食にします。
本宮の前に何軒か食堂があり、スープカレーのカフェにも惹かれたのですが、ここはやっぱり和食でしょ!と、手打ちうどんのお店に行くと順番待ちの行列で諦め(ただ、看板には蕎麦は4割と謳ってありましたが、むしろ貴重だった小麦を多くすることが当時のもてなしだった戸隠蕎麦の7割はともかく、6割になると蕎麦というよりむしろうどん“ぽく”なるので、もし4割の蕎麦なら手打ちうどんを選ぶべきでしょう)、他の喫茶店へ。
そこはカレーやナポリタンといった定番の洋食に加え、生姜焼きやから揚げなどの定食類もありましたが、「うどんとめはり寿司のセット」(確か1050円だったか)というメニューがあったので、せっかくここまで来たので二人共郷土料理の「めはり寿司」の入ったこのセットにしました。
因みに「めはり寿司」とは、塩漬けにした高菜の葉でご飯を巻いたオニギリで、古くからこの熊野の山間部で食べられていたという郷土食。その昔、山から材木を熊野川に沿って出す、筏師(いかだし)のお弁当として広まったと伝えられ、熊野を代表する料理だそうです。隣県の奈良の柿の葉寿司同様に、発酵した高菜にも殺菌作用もあるのでしょうか。
また「めはり寿司」という名称は、「目張り寿司」とも書かれ、これには大きく口を開けて食べることに伴って、自然と目も見開く表情に由来するという説や、大きな握り飯を崩れないように高菜で「目張り」し、完全に包み込むことに由来するという説、更には熊野水軍の見張り番が食べていたから「見張り寿司」が「めはり寿司」となった・・・という説も存在しているのだとか。
和歌山県を代表する郷土食として人気で、新宮や那智勝浦など県内のJR駅での駅弁や南紀白浜空港の空弁としても売られているそうです。
またうどんに関しては、奥さまはこれで十分とのことでしたが、つゆがスープとしては出汁が効いてとても美味しいのですが、うどんと一緒に食べると私メには些か薄味過ぎました。京都のうどんだってもう少し塩味があるけどなぁ・・・と独りぶつぶつ。
一方、めはり寿司は、ご飯は酢飯ではないと思いますが、野沢菜漬け同様に、包んだ高菜は塩漬けも発行が進むと酸っぱくなる様で、少し酸味が感じられ、素朴で美味しかったです。
 余談ですが、古道で一緒になったオーストラリア人のご主人が来られ、店員さんの女性と話して何かもめている様でしたので助け船に行くと、歩き終えてビールが飲みたかったそうなのですが、聞くとこの店にはアルコールは無いとのことで、その旨伝えると納得して他の店を探しに行かれました。

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