カネヤマ果樹園 雑記帳<三代目のブログ>

 サントリーホールでのベルリン国立歌劇場管弦楽団(シュターツカペレ・ベルリン)の来日公演。二日間で交響曲全曲を演奏するブラームス・チクルス。1&2番、3&4番の組み合わせで、最終日が3番と4番(ブラフォー)の演奏会。当初は音楽監督のダニエル・バレンボイムの予定だったのですが、体調不良により、クリスティアン・ティーレマンに変更。個人的には、むしろその方が楽しみが増しました。というのも、旧東ドイツ系のシュターツカペレ・ベルリンをベルリン生まれのティーレマンが振る方がよりドイツ的なブラームスが聴けると思ったからです。
ベルリン国立歌劇場管弦楽団と日本では呼ばれるシュターツカペレ・ベルリン。学生時代から大好きだったオトマール・スウィトナーがシュターツカペレ・ドレスデンと共にシュターツカペレ・ベルリンを振ったモーツアルトが大好きでした。或る意味、今ではユニバーサルな“世界の”ベルリン・フィルよりも、旧東ドイツ系の二つのシュターツカペレであるドレスデンとベルリンは、共にきっと今でもよりドイツらしい音を伝統的に残しているオーケストラだと思っています。

 サントリーホールは、調べてみたら実に8年振り。8年前に広上淳一が京響を率いた東京凱旋公演での“マライチ”が最初で、その後ドゥダメルが振ったVPOの来日公演を、長女がエル・システマ・ジャパンのボランティアをしていた関係で入手出来たシェラザードを聴いた以来の三回目。
しかし、日経の文化欄に依れば、急激な円安で海外オーケストラの招聘コストが(円ベースで)高騰してしまい、また中国がゼロ・コロナで演奏会などは開催不能だったこともあって、アジアツアーとして数ヶ国で分担することが出来なくなっているため、日本単独での来日公演開催は困難とのこと。サントリーホールは楽友協会と友好協定を結んでいることで、毎年“ジャパンウィーク”として来日してくれるウィーン・フィル以外は著名な海外オーケストラは今後生で聴けなくなるか、運よく聴けてもべらぼうなチケット料金にならざるを得ないのではないか・・・とのことでした。
そうした背景もあって、8年前のVPO同様、今回も長女のお陰で初めて生でシュターツカペレ・ベルリンとティーレマンを聴くことが出来て誠に有難い限りなのですが、今回の急激な円安により確かにこのコンサートも昔のイメージからするとどの席も1.5倍のチケット代という気がします。
 長女は朝から直前までオフィスで仕事ということで、開演30分前にホール前で待ち合わせ。久し振りの夜の演奏会はザワザワとした喧噪もあって、そんなざわめきもコロナ禍故に久し振りで何だか新鮮にさえ感じます。
マスクを着用し、検温、消毒の上で入場。Xmasシーズンに合わせた館内のデコレーションも“音楽会”前の華やいだ雰囲気を演出しています。
二階の真ん中やや左手側に着席。オケ団員入場に伴うWelcomeの拍手も久し振りで懐かしい気さえします。コンマス登場に一段と拍手が高まり、やがて指揮者のクリスティアン・ティーレマンが足早に登場。彼はベルリン出身の生粋のゲルマン人ですので、旧東ドイツの名門オケとの相性もバッチリでしょう。個人的には、オトマール・スウィトナーの後任である現音楽監督ダニエル・バレンボイムが体調不良により途中でティーレマンに指揮者変更というアナウンスがあって、今回のブラームス・チクルスへの期待感はむしろ高まりました。
今回のオケの配置は対抗式で、ステージに向かって第一ヴァイオリンの横にはチェロ、その横にヴィオラと並び、第二ヴァイオリンはステージに向って右手。
 交響曲第3番。
大柄なティーレマンの指揮は、思ったより体全体を使って振っていました。しかも、目の前にいるコンマスなど弦への指示なのか、胸ではなく体の下半身の辺りでの振りが印象的。
映画音楽としても使われた、美しい旋律の第三楽章。コンサートの後で、娘はこの楽章にウットリして、この3番の方が良かったそうですが、
 「三楽章の途中で、ちょっと寝てたでしょ!?」
との仰せに、「えっ、ばれた!?」。どうやら、3時間も寄席の畳敷きの桟敷席に薄い座布団で座っていて、最後苦痛で何度も足を延ばしたり腰をもんだりしたのですが、どうやらそのせいで疲れてしまい、心地良い音楽に一瞬うとうとしたらしく、生まれて初めてコンサートで寝落ちしてしまいました。
ベルリンの壁崩壊に伴い、ドイツ統一により“西欧化”が進んだ旧東ドイツなのでしょうが、オケも2階席から見る範囲で、ゲルマン人だけではなく結構アジア系(日本人?或いは韓国人か中国人?)の団員も多いように見受けられましたが、そこは伝統のなせる業?音色はちゃんと昔懐かしき東ドイツの重厚な響き・・・の様な気がしました。

 後半の4番“ブラフォー”。私の大好きな交響曲の一つで、学生になって2枚目に買ったLPです(因みに、初めて買ったLPは“チャイゴ”)。哀愁のあるメランコリックな第一楽章が何とも言えませんが、この曲で、サガンではありませんがブラームスが大好きになりました。良く云われる様に、とりわけ落ち葉舞う晩秋になると何故かブラームスが聴きたくなります。個人的に一番秋に相応しいと思うのは、弦楽六重奏曲第一番の第二楽章でしょうか。ブラームスの曲はどれも弦の響きが特徴的で、弦楽アンサンブルを聴くとすぐに彼の曲であることが分かります。
そして、シュターツカペレ・ベルリンの深い憂いを湛えた様な、渋く陰影あるサウンドはブラームスに実に良く合っている気がします。何となくこの音色を聴いていると、新婚旅行(40年以上前ですが・・・)で行った11月末のロマンチック街道や出張で何度か行った秋のヨーロッパの暗い雲に覆われた陰鬱な雰囲気の空を思い出します。だからこそ、春の陽光がより輝いて待ち遠しくなるのでしょう。と同様に、短調の暗い曲調の中で出会う長調の明るいメロディーや和音にほっとするのでしょうか。
 短調の第一楽章で始まり、明るい長調の第三楽章の後に、バロック様式の変奏法のパッサカリアを用いた第四楽章は短調で終わります。古典派様式に則った交響曲第一番の生みの苦しみを乗り越え、尊敬するベートーヴェンの呪縛から解き放たれたブラームス。
この交響曲第4番、ブラームス自身の指揮での初演時の評判はイマイチだったそうですが、一週間後にハンス・フォン・ビューローの指揮でも演奏。当時彼の助手をしていた若きリヒャルト・シュトラウスは、父親に宛てた手紙に「まさに天才的」と記していて、因みにこの演奏の中でシュトラウスはトライアングルを担当していたのだそうです。
息苦しくなるような緊迫感が漂う第四楽章。次第に高揚し劇的で圧倒的なフィナーレ。ティーレマンの振り上げたまま静止した手が静かに下ろされて、漸くこちらもフゥ~っと小さく息を吐きながら緊張感を解き、そして場内割れんばかりの万雷の拍手!コロナ禍故、W杯サッカーのピッチ上の様にブラボーの声は掛けられませんが、もしOKなら間違いなく会場のあちこちからブラボーの声が掛かっていたのは間違いありません。
会場内の張り紙や事前の場内アナウンスで、カーテンコール時の写真撮影がOKとのことで、会場あちこちで聴衆の拍手に応えるティーレマンや楽団員を撮影するスマホが見られました(フラッシュ撮影は係の人が注意をしていた様です)。
余談ですが、後日の日経文化欄に依れば、コロナ禍でクラシックの演奏会への集客に苦しむホールもある中、SNS等による拡散での人気アップにつなげるべく、また演奏会後のサイン会や出待ちを我慢してもらうためもあって、その代わりにポップスのコンサートの様にクラシックの演奏会でもカーテンコール時だけは写真撮影を認めるホールが増えたのだとか。個人的には有難い限りで大歓迎!松本も含め日本中に拡がれば良いと思いました。
何度もカーテンコールが掛かりましたが、3番と4番の二つの大曲の後では、例えばハンガリー舞曲など軽過ぎて相応しくないでしょうし、4番の余韻を壊さぬためにもアンコール演奏は不要。その代わり、何度もカーテンに応え、これもビンヤード型のサントリーホールのステージ背後におられるお客さんたちへも彼等の写真撮影に応えるためか、ティーレマンの指示で珍しく全員で回れ右をして後ろの聴衆へもお辞儀をしていました。
最後、団員が下がった後も鳴り止まぬ拍手に応えてティーレマンが登場し、この日のコンサートはお開きになりました。
 華やかなざわめきに包まれるサントリーホールのロビーを出て、まだ冷めやらぬコンサートの余韻に二人で浸りながら、銀杏の街路樹の歩道を歩いて長女の神谷町のマンションへ帰りました。
長女のおかげで、夢の様なティーレマン指揮シュターツカペレ・ベルリンのブラームスを楽しむことが出来ました。本当におかたじけ!

 10月末、長女がNYから帰国して暫く我が家に帰省していた時に、何を思ったか「これ聴きに行かない?」と言って予約してくれたのが、シュターツカペレ・ベルリン(ベルリン国立歌劇場管弦楽団)のサントリーホールでの来日公演。二日間で交響曲全曲を演奏するブラームス・チクルスの1&2番、3&4番の組み合わせで、「どっちがイイ?」という問いに選んだのが、最終日の3番と4番(ブラフォー)の演奏会でした。
しかし、今年の急激な円安もあって、どの海外オケの公演はどれもバカ高いチケットなのに、「ま、イイから、イイから・・・」。後で、家内曰く、
 「いつも私だけ子供たちの所に行ってるから、気を使ってくれたんダヨ!」
 「・・・おかたじけ!」
斯く言う家内は、先月末には母娘で、混んでいる京都を避けて奈良へ観光旅行に長女と二人で行ってましたし、私メの上京の翌週から“孫の世話”も兼ねて娘たちの所へまた行く予定とか・・・。
羨ましくも「オヤコ」と読む“母娘”には、「父娘」と書いても「オヤコ」とは読めぬ父親は敵わない・・・母娘の絆は強い!と、つくづく感じます。
サントリーホールはマチネではないので、その日は彼女の家に泊めてもらい、翌日は横浜の次女の所に行って、孫の顔を見てから帰る予定。父親からすれば、“夢の様な二日間”・・・です。

 12月8日の当日。いつもとは逆で家内に見送られ、松本駅から新宿経由で長女のマンションの在る神谷町へ。引っ越しの手伝いで松本から荷物を運んだ時は車でしたので、電車(地下鉄)で行くのは初めてです。最寄り駅は日比谷線の神谷町と南北線の六本木一丁目。家内から教えられた通り、新宿駅から地下鉄に乗り換えて神谷町駅へ向かいました。家内から預かって来た荷物を娘のマンションに置いてからまた新宿に戻り、生まれて初めての寄席に行って落語を聞き、夜はコンサート。翌日は次女の住む横浜へ。
出来れば、翌日は東博の国宝展も見たかったのですが、それを見ていると横浜へ行くのが間に合わぬことから事前に断念していました。
そのため、次回以降(機会があるかどうかは不明ですが)の参考に、翌朝、朝早くオフィスに出勤する娘を送り出してから、ウォーキングを兼ねてマンションのある神谷町界隈を歩いてみました。

  先ずは横浜に行く際の乗車駅である南北線の六本木一丁目駅を確認し、それから神谷町駅に戻り、東京タワー方面へ。朝のTVの情報番組の中のお天気コーナーなどで、中継で出て来た芝公園横の「もみじ谷」へ行ってみました。
 東京タワーにはたくさんの観光バスが駐車していて、ちょうど修学旅行と思しき中学生の一団が広場で何か説明を受けていました。
仙台育英高須江監督の「青春は密」と云われた通り、コロナ禍で今までは何もかもダメと言われ、あらゆる行事が中止になる様な我慢を強いられてきた子供たちでしょう。漸く実施出来たのであろう修学旅行に、何だか我が事の様に嬉しくなって暫く彼等を眺めていました。
私メもお上りさん同様に(って、正しく“お上りさん”には違いないのですが)真下から東京タワーを見上げてみました。そう云えば、子供の頃(小学生?)には違いないのですが、東京タワーに昇ったのは一体いつだったんだろう?亡くなったお祖父ちゃんが連れて来てくれた東京旅行の時だったのだろうか・・・?もし今度機会があったら、60年振り位にまた昇ってみたいと思い、暫し真下から東京タワーを見上げていました。
 この東京タワーと増上寺の間に位置し、芝公園と道路を挟んだ谷合の様な場所が「もみじ谷」でした。二代将軍秀忠が江戸城内からモミジを移植し、お江の方様のために紅葉山を築いた場所がその始まりで、明治初期に傾斜のある地形を生かして造られた人工の渓谷で、わが国最初の公園の一つとか。
もみじ谷は都内の紅葉スポットとしても知られていて、イロハモミジやオオモミジなど9種類、約200本のモミジが植えられているそうです。
信州は既に葉が落ちた裸の木々で真冬の様相ですが、東京はまだ秋の紅葉の風情。たった東南へ200キロしか離れていないのに、神谷町や六本木周辺の街路樹、東京都のシンボルツリーでもあるイチョウ(銀杏または公孫樹)は黄色に色づいた木や未だ緑色を残した木もあり、松本がいくら高尾山と同じ標高とはいえ、随分季節の色合いが違うものだと感じた次第です。冬の信州から秋の東京に来て、暫し名残の紅葉を楽しむことが出来ました。

 前回(第1766話)、「今まで赤ちゃん連れで食べに行った中で、温めをお願いする前に声掛けて聞いてくれたお店って初めて!」と、その店、京都四条の「煮野菜 おにかい」のスタッフの方の“気配り、目配り、心配り”の“おもてなし”に感心感激したことを紹介させていただいたのですが、勿論、お願いしても断られるお店の方が多いだろう中で、それこそ“真逆”な印象の店が今回の京都で行った中にも在りましたので、 “敢えて”書かせていただきます。

 人手が無ければ(今の日本で一番高いのは材料費ではなく人件費でしょうから)客対応で忙しくて対応出来ないのはしょうがないとは思いますが、問題はその言い方や態度で客の受ける印象は真逆になります。
それは、感激した「煮野菜おにかい」に行った翌日のランチに予約して行った、八坂神社近くの小路に在る広東料理のお店でした。
こちらも長女推薦の店で、「おにかい」同様に直前ではなく、家内が数週間前に予約したお店です。その際の電話でベビーカーでの赤ちゃん連れであることを事前に伝え、個室は無いのですが電話では受け入れOKをいただいた上での予約済み。その時の電話での応対の感じはとても良かったとそうです。
実際に入店し、娘が可能かどうか伺った離乳食の温めに関しては、女性スタッフの方には如何にも迷惑そうに断られました。
しかも店主が、確かに狭い店内なのは分かりますが、カウンター越しにその女性スタッフに向かって「そんな所にベビーカーを置いたら他のお客さんの邪魔だろ!」と、こちらに聞こえるのも構わずに女性スタッフを叱責しているのです。
料理そのものは広東料理の本場であるシンガポールや香港を思い出すくらいに美味しかったのですが、例えミシュランのお墨付きの店(ビブグルマン獲得店とか)であろうがなかろうが、もう二度と行かないでしょう。
というのも、このお店で個人的にはもっと気分を害した“差別的取り扱い”が(家内や娘たちは気が付かなかったようですが、その後の私たちへの店主の応対とは真逆の余りに露骨だった他のお客さんへの対応が、私の座った席からはハッキリと見えていたので)あったのですが、我々は一見さん故(長女は三度目だそうですが)その内容を書くことは控えます。
もしも、仮に、
 「ウチとこは、常連さんだけで十分やっていけるよって、“一見さんお断り”や!」
とするなら、それでも結構!(毛だらけ・・・)。
また、子連れや赤ちゃん連れで食べる客がもし迷惑ならば、最初から「子供連れお断り」にすればよろし!!
ただ、長女曰く、最初は数年前の京都への長期出張中に、在住の仕事仲間の方に連れて来てもらったそうで、二度目は渡米前の今年の春先、一人での京都旅行中に食べに来たのだとか。
 「前に来た時は、奥さんが店に居て対応してくれたけど、とても感じが良かったんだけどネ・・・」
とのことでした。
もしかすると家内が予約した際の電話対応は奥さまで、今回対応していた女性スタッフは長女が前回来た時に応対されていた奥さんでは無かった由。でも例えそれが誰であれ、客にはお店のスタッフの方の氏素性、ましてや性格は関係ありません。ただ気持ち良く食べたいだけ・・・。

 外食で得られる(ことを期待して食べに行く)“美味しかったという満足感”は、決して料理の味だけでは無い筈です。
高校の大先輩にして、我がバイブル「居酒屋百名山」の著者である太田和彦氏の云われる良い店の条件、それは・・・“いい酒、いい人、いい肴”。
そしてそれは居酒屋だけに限らず、例え酒は飲まずとも、どの飲食店にも当て嵌まります。

 今回の京都旅行で、唯一自分でやりたかったこと、それは“京都ラーメン”を食べることでした。そして食べに行きたかったのは、“京都ラーメン”発祥の店「新福菜館」と学生時代に時々食べに行った「らんたんラーメン」。
ただ、学生時代から今の様にそれ程ラーメン好きだった訳ではありません。むしろ食べ盛りの貧乏学生としては、当時はまだ全国展開する前の「餃子の王将」に(台所付きの下宿に引っ越して自炊をするまでは)毎度夕食で(エンザーキとか、ジンギスカンといった定食類や天津飯など、どちらかというと麺類よりもご飯物が多かったように思います)お世話になったり、山科の京阪の駅近くに在った“町の食堂”で、生まれて初めてだったガラスケースの中に並べられたおかずを自分で選ぶセルフ方式の食堂で銭湯帰りに食べたり・・・。
(下の写真は、先日松本店で食べてみた「餃子の王将」45年振り?の醤油ラーメンとギョウザです)


因みに入学した1974年、全国展開前で京都のローカルチェーンに過ぎなかった当時の「王将」は、下宿した山科に本社があって、京都市内に10数店舗しか無く、私が通っていたのは、三条京阪から下宿に戻る前に夕食を食べていたので、鴨川近くの河原町三条店か山科店(駅前店)でしたが、長細いカウンターだけの狭い店舗でした。使われていた食器類も、今の様なロゴが入った“ちゃんとした”お皿などではなく、“安っぽい“(≒あくまで実用本位の)ミントグリーンのプラスチック製の食器類で、カウンター越しの細長い厨房に若いスタッフの皆さんが働いていて、「コーテル(ギョウザ)リャンコ!」とか「エンザーキ!(鶏唐揚げ)」とか王将用語?が“元気に”飛び交っていましたっけ(イヤ、懐かしい・・・)。そうした空腹の学生だけではなく、ギョウザは当時から(山科の様な新興住宅街を抱える店では)共働きのお母さん方のテイクアウト需要も多かった様な気がします。
ですので、先述の有名店の「新福菜館」も同じく京都発祥の「天一」も、学生時代には一度も食べたことが無かったのです。
そんな私メがラーメン好きになったのは、多分、会社に入ってから飲んだ後に必ず食べた〆のラーメンの影響なのでしょう(因みに、松本だと駅近くの「ラーメン藤」や支那そばの「生香園」、また諏訪では当時まだ上諏訪駅近くの並木通りの踏切の脇に在った先代の「ハルピンラーメン」が定番で、移転後は笠森小路の「麺屋さくら」に変更。また、長野への出張時に必ず食べたのが、今は無い県庁近くの「ふくや」でした・・・以上、全て醤油ラーメンです)。

 京都での学生時代の麺類について言えば、生まれて初めて県外に出たので信州と関西の“麺文化”の違いに大いに興味をそそられました。
例えば、ざる蕎麦主体の信州蕎麦に対し、こんな食べ方があるのかと驚き初めて食べたニシン蕎麦。また蕎麦よりも関西ではうどんの方が主流という中で、美味しかったのが冨美家の鍋焼きうどん。というのも、それまでお祖母ちゃんが作る自家製の味噌煮込みうどん(お祖母ちゃんは方言で「おざざ」と呼んでいましたが、冷や麦の様に割と細めの麺で、信濃大町では今でも「おざんざ」と呼んでいます)しか食べたことがありませんでしたので、多分印象深かったのでしょうか。
そして、関西ではアイスコーヒーを冷コーと呼ぶ様に、関西で冷やし中華を指す冷麺の世界(東日本で冷麺というと、盛岡冷麺や韓国風の冷麺と間違われそうですが・・・)。その冷麺が、当時の店名を最近になって漸く確認出来た、今は無き「春陽堂」の冷麺(第772話参照)だったのです。
学生時代の京都は、むしろラーメンよりも、自分にとってこうした他の“麺の世界”を拡げてくれた様な気がします。

 さて、肝心の京都でのラーメン。和食のベースとなる出汁文化発祥の地とも云える京都ですが、必ずしもラーメンについては“然に非ず”。
所謂“京都ラーメン”と呼ばれるのは、1938年に京都駅付近で中国浙江省出身の徐永俤さんが始めた屋台が発祥で、その後徐さんが京都駅東の塩小路高倉に現在の「新福菜館」を出店したのがそのルーツと云われています。鶏ガラと豚骨をベースに、たまり醤油の様な濃い口の醤油で調味したラーメンで、色はかなり黒いのですが、実際に食すと見た目よりもあっさりしていて、クセになる味。しかも、在日華僑の繋がりを活かして、徐さんは創業時に全国から色々取り寄せて試行錯誤の上に漸く理想の醤油に辿り着いたのだとか。
そんな“京都ラーメン”のルーツが「新福菜館」であって、「これを食べずして京都のラーメンを語ることなかれ」。遅まきながら3年前に初めて食べて感激(第1407話)し、前回食べなかったこれまた名物のヤキメシと一緒にもう一度!というのが今回の目的でした。
 片や、学生時代に食べに行ったのが、熊野神社近くの東大路にある京大病院対面にあった「らんたんラーメン」です。
店名がどうしても思出せなくて、ネットで調べても分からず、以前朝のウォーキングで哲学の道を歩くのに岡崎から東大路を上がって行ったのですが、それらしき店が無く、もう無くなったのかもしれないと半ば諦めていました。
ところが、久し振りに記憶力の良い学生時代の友人とのメールでのやり取りの中で、「あぁその店なら」と友人が店名を覚えていて、幸いにも先述の「春陽堂」同様に確認出来た次第。
ただ、その店の名前とラーメンの味は覚えていないのに、ある時、気に入らない客(むしろ客の態度の方に問題があって、その客は私メではありませんが、多分その場面に居合わせてビビった記憶あり)を叱りつける大将のハイトーンボイス(合唱団にいたせいで声が気になったのか、良質のハイバリトンでした)が何故か記憶に残っているのです。それと、貧乏学生用の肉無しラーメンとラーメンライスの麦飯。記憶が定かでは無いのですが、毎回では勿論無かったと思いますが、時に肉無しラーメンにチャーシューが麺の下に隠れていた様な気がするのですが・・・(果たしてそれが事実か、或いは“過去は全て美しい”と思うが故の全くの記憶違いなのか???)。

 以上の様に、今回の京都行で食べたかった、自分にとって思い入れのある二つのラーメン。京都ラーメン発祥の店と、記憶では唯一学生時代に親しんだ或る意味自分にとっての“青春のラーメン”。
しかし、何だかんだで予定が狂い、結局今回は行けずに終わりました。そのため、自分にとっては“幻のラーメン”のまま。むしろ、もしかすると“幻”のまま、思い出は思い出のままで取っておいた方が美しい(=美味しい)のでしょうか・・・?

 今回の京都旅行は三泊だったのですが、孫を連れて来た次女を京都駅に送ったり、オンライン会議が入らない間に長女と出掛けたりという感じで、観光という意味では、金閣寺にお守りをお返しに行った以外は宿周辺をウォーキングがてら散策したくらいでした。
本当はこの時期、9月に入ってもまだ納涼の飾り付けがされているという東福寺と、枯山水の庭が素晴らしいという塔頭の光明院へも行きたかったし、そろそろ見頃を迎えるであろう御所の隣の“萩の寺”梨の木神社へも行きたかったのですが、どちらも果たせず。

 そのため滞在場所が岡崎なので、朝のウォーキングで岡崎公園から平安神宮、そして永観堂から南禅寺、或いは疎水沿いに哲学の道を歩いたり、疎水方向を逆方向に川端通から鴨川に沿って川岸を歩いたり。
或いは午後の空き時間に粟田神社の横から青蓮院から知恩院を経て、円山公園から八坂神社まで歩いたり・・・。
昨年までに、せめて親が出来ることの願掛けをしたそれぞれのお寺さんや神様には全てお礼参りで参拝済み。ただ、ウォーキングの途中にある浄土宗の我が家の総本山でもある知恩院へは今回も先祖供養のお参りし、また京の産土神である八坂神社へも今回の入洛のご挨拶を兼ねて参拝したのみでした。
 広大な円山公園。枝垂桜が有名ですが、何となく横山大観の「夜桜」を思い浮かべます。また近くに祇園祭の山鉾の形をしたコンクリート製の塔の様な建物があり、ずっと不思議に思っていましたが、これは大倉財閥の創始者が建てた「祇園閣」という昭和初期の建物で、時の男爵だった翁が自身の卒寿(90歳)などの記念として「祇園祭でしか目にできない山鉾を、一年中見られるように」と建てた塔だそうです。高さが36mあり、遠くからでも目立ちます。秋には特別公開されるそうですので、機会があったら一度見てみたいものです。そして、先述の大観の「夜桜」は、時の大倉財閥総帥(先述の創始者の長男で大倉財閥二代目)から依頼を受けて描いたものなのだとか。ナルホド、“千年の都”京都は遥かに奥が深い・・・。

 「たった三泊じゃ、短かったね・・・」
家内ではありませんが、やはり三泊では当初の目的すら果たせず・・・。色んな思いの交錯する京都では、もっと長く滞在しないとその都度の目的があってもなかなか達成するのは(≒満足感を得るのは)難しそうです。

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