カネヤマ果樹園 雑記帳<三代目のブログ>
一年振りだった、今回の京都旅行の最終日。
この日は、次女たちからお宮参りのお祝いの返礼にいただいたカタログギフトの中で、断捨離で出来るだけ物を増やさない様にしている中高年夫婦としてはもう特に欲しいモノも無かったので、それではと選んだのが、グルメギフトの中にあった、今回の旅行先である京都の割烹の懐石コース(お祝い金からの一般的返礼として推測するに、多分一人1万5千円以下~1万円強。そして、もし運営元が20%手数料を取ると仮定すれば12000円~9000円位でしょうか)にしました。
電話で予約の際に伺うと、昼夜同じコース内容とのことだったので、どうせならと今回はお酒も飲める夜にした次第。結果としてこれが、今回の京都行でのちょっぴり豪華な、唯一夜の外食となりました。
何でも祇園のミシュランの有名割烹で長年修業して、独立した店主のお店だとか。京都の割烹らしく店名を書いた小さな表札だけで、注意して良く見ないと気付かずに通り過ぎてしまいそうです。
京町屋を改装した店で、坪庭を眺められる店内は板の間には新春らしい松と南天、白梅の投げ入れが。暫くすると、梅を桜に変えるのだそうです。大将によると、町屋でもこの家は間口が通常より広く、1.5倍あって使い勝手が良いのだとか。奥の坪庭と入口の小上がりの板の間も風情があります。客席は敢えてカウンターの8席のみ。この日は平日だったこともあってか、夜私たちが食べている間、結局我々一組だけでした。
この日の夜の懐石コースは、先付・吸物・造り・小鉢・焼物・焚合わせ・和え物・御飯・水物といった感じでしょうか。八寸はありませんでした。
先ずは、雲子のかぶら蒸しから。雲子とは真鱈の白子のことで、主に京都などで用いられている呼称だそうです。続いて北海道産の牡蠣のソテー。椀物の赤いのは海老餅とかで、京都の和食らしい優しいお出汁。
お造りは熟成させた(「まだ熟成が少し甘いけど・・・」とのこと)ホンマグロとヒラメ。
そして、琵琶湖産の本もろこに、滋賀名物の赤コンニャクにカズノコを添えて。
焼き物の車エビは皮を剝いたところですが、何も調理せずにただ炙っただけとのことでしたが、プリプリで甘味があって、この夜のコースの中では一番美味しかった気がしました。
続いて煮たフグ。トラフグではなく確かマフグだったような・・・。小ぶりですが、身にフグらしい弾力がありました。
次に、叩いたマグロ赤身の春巻き。調理前に「春巻きにするから」スとタッフに指示していたので、もしかするとその場で内容を変えたのかもしれませんが、余りに生臭くて正直がっかりでした。
続いて炊き合わせだったかと、最後の〆の炊き込みご飯。
1万数千円(の筈)のコースにしては、高級食材は使われておらず(最後の魚はグジだったかもしれませんが)、車エビに代表される様に出来るだけ素材の良さを活かす料理です。
コースの途中まではそれなりに良かったのですが、もしかすると残ったマグロの赤身を使ったのかと勘ぐる程、生臭かった春巻きからちょっとがっかりして気も削がれてしまいました。
何だか“田舎者”の足元を見られたような気がして(≒そんな気持ちにさせられて)、正直がっかりした京都最後の夜でした。
それに、大将が話好きなのは良いとしても、店内はカウンター席だけで、調理場の様子はそこから丸見え、丸聞こえなので、客に聞こえぬ様に見えない裏側でならまだ良いのですが、さすがに目の前の調理場の中で下拵えなどを手伝う女性スタッフに結構キツめに命令するのが、何だかまるでジキルとハイドの二面性を見ている様で、その裏表の顔に酒も不味くなり、客としては些か興醒めしてしまいます。
所詮我々庶民の数少ない経験からの比較でしかありませんが、4年前でしたが、伊豆高原の城ヶ崎海岸から続く段丘の別荘地の中に在る「坐漁荘」の和食処「さくら」(第1503話)の絶品だった懐石や、昔地元の方に連れて行ってもらってファンになり、それからは京都に来る度に長女が毎回必ず伺うという割烹で、どの料理も味とその手間に唸らされる東山の和食処「〇〇」のお任せコースに比べたら正直雲泥の差でした。
我々は所詮一見さんですので構いませんが、例え毎年京都に来ても、こちらに伺うことはもう二度と無いと思います。
今回、昼間コユキにはドッグヴィラの部屋でお留守番をしてもらって、我々は観光や買い物などをしたためランチも外で食べたのですが、夜もまたコユキ独りでは可哀想なので、先述した通りに出来るだけお惣菜やお弁当を買って来て部屋食での夕飯にしました。
“知恩院門前町”を掲げるこの古川町商店街は、古くは安土桃山時代以前から、京の都に若狭からの水産物を運ぶルート「鯖街道」と呼ばれた若狭街道の終点として栄え、“東の錦”とも呼ばれた「京の東の台所」だったのだそうです。
ご多分に漏れず一時サビれたのを、商店街の町おこしで色とりどりのランタン(提灯)を飾り、今それが“フォトジェニック”だとして特に若い女性から人気の由・・・。
しかし、今回は行った時間が悪かったのか、或いは月曜日が定休なのか、地方都市の“シャッター通り”と大差ない程にシャッターを下ろした店が多く、残念ながらあまり活気が感じられませんでした。
そんな中で開いていた80代のご夫婦が営まれるお惣菜の「京山食品」で、お惣菜もおでんもどれも安い中で、700円位だったか日替わりのお弁当と名物のおでんを買いました。昔、女優の名取裕子さんがここでおでんを買って帰るのがロケで撮影されたそうで、その時の写真が記念に飾られていました。
因みに、総菜は化学調味料を一切使わず、おでんもお出汁が効いた“普通”の優しい味でした。
二日目は、錦市場の「冨美家」に行ったついでに、帰りに四条の大丸地下の食料品売り場に寄って、フロアを回って、野菜サラダやつまみ用に各種総菜、そして我が家のお気に入りの551蓬莱で2種類のシュウマイとちまき三種、更には翌日の朝食用に豚まんも、そして奥さまは下賀茂茶寮のお弁当など、二日分の夕食を買って帰りました。
三日目のランチで「出町ろろろ」に行ったついでに、今度は「出町枡形商店街」へ。
こちらは、観光客が多い錦市場とは異なり、地元の方々に密着したアーケード商店街です。“町の映画館”「出町座」や古書店など若者向けのスポットもありながら、生鮮食品店や青果店、乾物屋さんやお茶屋さん洋品店など、どちらかというと、地元の人に長く親しまれる個人商店も数多く営業している、謂わば「街の台所」。こちらは、「古川町商店街」に比べて、今でも地元の買い物客も多く随分活気がありました。
因みに、商店街の中には、かつて長年「餃子の王将」出町店の店長をされていた時、お金の無い学生にはタダで食べさせてそのお代の代わりに皿洗いをさせたという名物店長が、王将リタイア後にこの商店街で自営で餃子店を開業し、そのサービスを今でも引き継いでいるという、如何にも“学生の街”京都らしいお店もありました。
そしてせっかく出町柳まで来たので、今回も「ふたば」で豆餅を買って帰りました。店頭には、この日も4重の行列です。名物の豆餅、よもぎの田舎大福、そして早くも出ていた道明寺の桜餅とゆず大福も。
いつもだと見た目の行列よりも意外と早く進むのですが、でもこの日はベテランスタッフが少なくアルバイトの子が多いのか、清算に時間が掛かっていて、前回より列の進みが随分遅い感じがしました。また物価高のためか、こちらも前回より値段が結構上がっていて、味はともかくとして、残念ながらコスパ的なお得感は少々下がった気がしましたが、ただ味はさすがに相変わらずの美味しさでした。
四日目、実質最終日にちゃんと見つけられた「原了郭」。
我が家では専ら長野の善光寺門前の「八幡屋磯五郎」の七味が昔からの(県内スーパーではどこでも買えますので)定番だったのですが、京都好きの長女がお土産に買って来てくれた「黒七味」も気に入って、ちょうど終わってしまったので今回買って帰ることにしていました。最初から決めていた黒七味の他にも、店内で幾つかこちらの商品の白出汁に一振りして幾つか試飲をさせてもらった結果、気に入ったゆず辛と粉山椒も併せて買って帰ることにしました。
一般には、浅草の「やげん堀」、善光寺の「八幡屋礒五郎」、そして清水坂の「七味家」が三大七味唐辛子と云われているそうで、いずれも江戸時代に浅草寺、善光寺、清水寺の参道で売られていて、全国からお参りに来る参拝者の土産品として尊ばれ、やがて全国にその名が知られていきました。
そして、この三大七味程有名ではありませんが、それに続くのが「原了郭」で、その初代は赤穂浪士四十七士の一人だった原惣右衛門元辰の一子、原儀左衛門道喜という人で、のちに剃髪して名を「了郭」と名乗り、店を祇園社門前に開いたのが「原了郭」の始まりだとか。
そのおススメ「黒七味」は、原料に 唐辛子、山椒、白ごま、黒ごま、青のり、けしの実、おの実が使われていて、「黒七味」という名前の由来となっているこの店独特の濃い茶色い色合いが、 材料を乾煎りし、山椒や唐辛子の色が隠れるまで揉みこむことに因るのだそうです。そのためか、他の七味に比べ香りが強い気がします。
その七味の前に、今回の京旅行のお土産に漬物を買うために家内と一緒に出掛けました。
京都の漬物といえば、すぐき、聖護院蕪の千枚漬け、そして産地の赤紫蘇を活かした大原のしば漬け・・・でしょうか。
ホテルの近くの岡崎に本店が在る大安の他にも、西利やしば漬けの土井といった有名店を始め、家族経営の個人商店まで京の街中にはたくさんの漬物店がある中で、ホテルのスタッフの方から薦められて行ったのが、川端二条の「加藤順漬物店」。
この店は、保存料、甘味料も加えない昔ながらの手法で作っている個人経営の小さな漬物店で、一番のお薦めはやはり千枚漬け。こちらの店では、通常のものより厚くカットされた聖護院蕪と、多めに加えた昆布でのトロミが特徴・・・とのことでした。他にも、以前近江八幡の漬物店で購入して気に入った日野菜や柚子大根など、幾つかお土産に購入しました。 (5年前、清水の産寧坂の「西利」の店頭に積まれていた聖護院蕪です)
そして「原了郭」の後、岡崎へ戻る途中昼食に立ち寄ったのが、川端三条、三条京阪の対面に在る昔ながらの大衆食堂「篠田屋」です。
家内は京セラ美術館のカフェでランチの食べると言っていたので、私メはこちらで戴くことにしました。学生時代4年間、しかも1年間は毎日この前を通学で歩いていたにも拘らず、今回が初めての入店です。
この「篠田屋」は1904(明治37)年創業だそうですので、ナント創業120年。100年では未だ老舗とは云われない京都ですが、食堂や洋食といった明治以降誕生した形態であれば、立派に老舗と言って良いのではないでしょうか。外観は勿論、店内も昭和レトロな雰囲気。まさに「三丁目の夕日」的な、昭和30年代にタイムスリップしたような何とも懐かしい雰囲気でした。
以前YouTubeで見て一度食べたいと思っていた、こちらの一番人気という中華そばが今回のお目当てで、大盛り(700円だったか。普通は確か600円とコスパ抜群でした)を注文。
他にも篠田屋名物という「皿盛」。これは、一見カツカレー風な見た目で、ご飯に掛けたルーがカレーうどん用の餡かけになっている、このお店独自のメニューなのだそうです。確かに面白そうですが、ここは初志貫徹です。
運ばれて来た大盛りの中華そば。その澄んだスープはごくあっさりで、和風とも言えそうな醤油味。うどんのつゆよりも多少は鶏ガラが効いてるなという感じのスープで殆ど脂分が浮いておらず、一般の鶏ガラからすれば非常にあっさりです。麺は中細ストレート麺で、昔ながらの黄色い麺。固めでしっかりしたモモ肉のチャーシュー、シナチク、刻んだ九条ネギがトッピングされています(どうやら、大盛はチャーシューも増やしてくれている様です)。
テーブルにコショウの瓶が無かったので訝しく思っていたら、最初からコショウが振り掛けられていました。
大盛りは結構麺の量が多く、優に二玉分以上はありそうです。そして“昔ながら”かもしれませんが、京都の出汁文化らしい和風とも言えそうな実にあっさりしたスープなのですが、昨今のこってり人気からすると、いくら鶏ガラ醤油好きの自分としても、あっさりし過ぎていて途中でやや飽きてしまいました。
「うーん、でもちょっと好みじゃないなぁ・・・やっぱり、京都でのラーメンは新福菜館かなぁ・・・?」
篠田屋のある“三条京阪”は、今は地下駅になり地上に在った駅舎は無くなってしまいましたが、私にとってはとても懐かしい場所です。
第一志望だった国立大学に落ちてから進学を決めたため、京都に下宿先を探しに行った時には既に洛中に下宿先は無く、そのため一回生の時は山科の四ノ宮に下宿をしていました(余談ですが、それも駅から下宿までは結構な距離を歩くので、大学帰りに駅近くの銭湯に入ってから下宿に帰ると、冬には髪の毛が凍ったことさえありました)。
ですので、毎日四ノ宮からチンチン電車に毛が生えた様な京津線の二両連結の京阪電車で三条京阪まで行って、少し歩いて河原町三条から広小路までは市電に乗って通学していたのに、当時地上駅の駅前にあった筈のこの篠田屋のことは全く知りませんでした。勿論入ったことも無ければ、視界の中に捉えてすらいませんでした。
学生時代から半世紀近くも経って、すっかり変わった“三条京阪”周辺の景観の中で、ここ、篠田屋だけがまるで取り残されたような・・・。その老舗の食堂の味を今回初めて味わうことが出来ました。
「イヤハヤ、実に京都は奥が深い・・・。じゃあ今度はラーメンじゃなくて、皿盛を食べてみようかな!」
【注記】
最後の写真は、伎芸上達にご利益があるということで、祇園の芸舞妓さんからの信仰を集める祇園のシンボル「辰巳稲荷」です。ここも昔と何も変わっていない京の街の風景なのかもしれません。
余談ですが、インバウンドの観光客が全く無関心で、全く見向きもせずに通り過ぎて行くのが、彼等は歴史やエピソードではなく、飽くまでビジュアルだけに興味があるのか、ある意味面白い・・・。
今回の京都旅行はノンビリ旅でガツガツと観光地巡りをする予定も無く、またコユキが一緒なので彼女独りにしては可哀想ですから、夜はなるべくホテルでコユキと一緒に過ごすために、お惣菜やお弁当を買って来て夕食にしました(ナナがいれば、二匹仲良く一緒にお留守番出来るのですが・・・)。
そのため、先ずは久しぶりの駅弁を新幹線の中で食べた(列車旅はイイですね、ビールも飲めるし!)のを手始めに、ランチを外で食べることにしました。
その内、一度は私メのリクエストで前話の「冨美家」へ。そして、二度目は家内の希望で、私メがグルメガイドから推薦したリストの中から彼女が選んだ「出町ろろろ」というおばんざい弁当の店でした。そして、三度目は各々別々に食べることになりました。
念のため前日電話をしてみると、希望した12時は既に一杯とのことで、11時半なら可の由。そこで少し早いのですが空いていた11時半にお願いして、当日はちょっと早めに岡崎から歩いて向かいました。
“町ぶら”を兼ねて、二条通で鴨川を渡り河原町を上がって行きます。
丸太町から荒神口を越えて、広小路から寺町通を上がって最初に梨木神社へ立ち寄り、本当は次に蘆山寺を拝観してから向かおうかと思ったのですが、拝観時間が読めないので蘆山寺は食べた後にまた来ることにして、その後少し戻って御苑内を歩いて今出川へ。
河原町今出川の二筋手前から上がれば目指す「出町ろろろ」の筈ですが、まだ時間があったので、出町柳まで行って「出町枡形商店街」を歩いてみることにしました。
京都や東京にはこうした地元に密着した商店街がまだ残っていますが、松本はアーケード街だった「六九商店街」もアーケードが取り払われ、今やシャッター通りですし、「伊勢町商店街」再開発で道が広くなったのは良いとして、江戸時代から続く「高見書店」や「レコードのナカガワ」など高校時代や独身時代頻繁に訪れていた往時の商店街の面影はなく、また街の核だった「松本パルコ」も残念ながら撤退が決まっています。
「出町枡形商店街」は観光地化した「錦市場」に比べると、本当に地元密着。用品店や八百屋さんに交じって、“学生の街”京都らしく(立命館の広小路学舎は無くなりましたが、まだ同志社がこの地で頑張っていますし、少し歩けば京大もあります)、お金が無ければ皿洗いで食べた分の弁済OKという昔ながらの餃子屋さんや、古書店、そして古い町の映画館などなどなど・・・。
そんな出町商店街の映画館の角を下ると、すぐにお目当ての小さなおばんざい屋さん「出町ろろろ」があり、10分前に到着すると先客が観光で来られた女性客がお一人。その後、11時半の開店時間には10人弱が並び、開店と同時にカウンター3席を残して全て埋まりました。どうやら全席予約済みの様です。店内はコの字型のカウンターが7席、テーブル席が6席でしょうか、小さなお店で、厨房は見えませんがどうやらご夫婦お二人で切り盛りされている様です。
昼のメニューはおばんざい弁当(税込1400円)と事前予約が必要なおばんざいのミニ懐石(同2400円)の二つのみ。
我々はおばんざい弁当。生ビールもお願いしました。京都らしいお番茶(炒り茶)が美味しいです。
盛り付け担当のご主人がせわしなく動かれ、10人分程の弁当も懐石も同じ一段目のおばんざいのを次々とお膳に盛り付けをされています。
一段目は四角のお膳に形の異なる八つの小鉢が並べられ、それぞれ味付けの異なる全て大原産という京野菜のおばんざいで、少し時間をおいて出されたお弁当の二段目は、土鍋ご飯とお味噌汁の他に、季節のかき揚げと出汁巻とろろあんかけ。
おばんざいは一鉢の量が少なく、また値段故に高級食材でもなく、大原の無農薬野菜ばかりだそうですが、出汁を含めて調理と味付けが実に色々工夫されているのが一品毎に実感出来ます。
例えばこの日の献立の解説にある①の畑菜は削り節粉を使ったお浸しですし、⑥の水菜の七味絹掛けは潰した豆腐に七味の隠し味が効いていますし、⑦のゴマ豆腐の磯辺揚げも食べてビックリ。そして個人的に一番美味しくてお代わりしたかったのは、最後⑧の九条ネギの煮干し煮でした。まさに、「美味しゅうございました!」と言うのがピッタリな感じで、実にお見事でした!
そして、二段目の冬のかき揚げはホタテが使われていてこれもまた美味。また出汁巻き玉子も上に薄めの餡が掛けられ、更に載せられたそぼろ昆布もアクセントを効かせていて、これだけで何杯もご飯が食べられそうです。
そのご飯も土鍋で炊かれ、勿論女性の皆さんも含めて皆さんがお代わりをされていましたが、おこげも必ず装られていて、ご飯茶碗に盛られた量は少ないのですが、ご飯のお米が粒立ちしていて自然と少しずつじっくりと噛みしめる様に食べるので、口の中で教科書通りにでんぷんがブドウ糖に変化してとても甘く感じて美味しかったです。
「あぁ、これなら1400円はむしろ安いくらいで、実にコスパがイイ!」
というのがまさに実感でした。
家内も大いに満足のご様子で、良かった、良かった!
因みに、最後まで店名の由来は分かりませんでしたが、「ろろろ」は席数が少ないので、満席になってからも評判を知った方が、海外からの観光客も含め、次々と来店されるのですが、昼は一巡だけで終わりなのか、全員断られていました。
また、こちらのお店の支払いは現金清算のみ。京都にはそんな個人商店が多いので、注意が必要です。
(以下、話題が本題から離れて支離滅裂的にアチコチ飛んでいますが、どうかご容赦ください)
家内は、信州の中ではちょっと異質な唯我独尊的独立独歩の(奈良時代の律令制度下で一時期、諏訪だけが“諏訪国”として信濃国から独立していました。また「諏訪では4人歩いていると、内3人は地元の社長さん」と、嘗て諏訪地域で製造業隆盛の頃はそう揶揄されていた)“諏訪人”ですが、その“諏訪人”故かどうかは分かりませんが、元々は信州人らしい“蕎麦派”ではなく、どちらかと云えば“うどん派”だったのではないかと思います。
勿論、結婚後は私メに感化されてか今では蕎麦も大好きですが、次女が結婚前の羽田空港勤務だった時は、娘と二人で良く「つるとんたん」で食べたり、また京都に旅行で来た時は、友人と或いは一人でも必ずと言って良い程、この岡崎で大人気の行列店「山元製麺」で“ごぼ天うどん”を食べているそうです。私も一度一緒に食べましたが、並んででもまた食べようとは然程思いませんでした。
というのも、京都の“おうどん”は本来もっと柔らかな(ある意味コシの無い)うどんですし、それに、むしろ京都で食べるべきは、“蕎麦好き信州人”がそれまでの「蕎麦はざる一択!」の信念を覆して食べた「にしん蕎麦」と思うのです。
但し、学生時代に初めてその「にしんそば」を食べたのは、元祖の老舗「松葉家」ではなく、蕎麦ぼうろで有名な丸太町の「河道屋」だったと思いますが・・・。
そう云えば、会社員になってから仕事で或るジャーナリストの方と話していて、その方も無類の“蕎麦好き”とかで、取材が終わってから地元の蕎麦屋のおススメを聞かれた時に、その方の仰るには、
「私は取材等で全国各地に行くと、例えば信州の様な蕎麦処では必ずざるやもりで蕎麦そのものを楽しむのですが、そうでない土地では、汁蕎麦をその土地特有の具を蕎麦と一緒に楽しむことにしてるんですよ。」
その意味で、私が生まれて初めてそうした“汁蕎麦”を楽しんだのが、京都の「にしんそば」だったのです。
と同様に、うどんは我が家では「おざざ」と呼ぶ冷や麦の様なやや細めのうどんを祖母が打ち、それを色んな根菜や油揚げなどと一緒に、いろりに吊るした大きな鉄鍋で煮込んだ、味噌味の“鍋焼き”風うどんが定番でした。従って、うどんは自分の家で食べるべきモノだと思っていたので、外の食堂等で食べたことは一度もありませんでした。
ですので、県外に出て“うどん屋”さんが(蕎麦屋と同じ様に)街中に在るのが、最初は不思議でなりませんでした。
といっても、長野県内にも群馬の「水沢うどん」同様に、降水量が少なく昔稲作が難しかった地域では、坂城町の辛味大根の汁で食べるおしぼりうどんや、大町の「おざんざ」という祖母の「おざざ」に似た細めのうどんが有名な場所もありますし、社会人になってからですが、諏訪の社宅に住んでいた時に家内が初めて連れて行ってくれて食べた、早くから諏訪が武田領になっていたせいかどうかは分かりませんが、長野県内では唯一諏訪にも支店がある山梨の名店「小作」のほうとうが美味しくて、とりわけ味が味噌ベースで具がカボチャやニンジン、大根といった根菜が多かったのが、何だか祖母の作る煮込みうどんを思い出して懐かしく、その後も時々食べに行きました。
(写真は、以前山中湖畔の「小作」で食べたほうとうです)
そして、そのうどんを生まれて初めて自宅ではない“食堂で食べた”のが、汁蕎麦が“にしんそば”だったのと同様に、うどんも京都の「冨美家」だったのです。
(要するに、大学に入るまで一人で“外食”をしたことが無かっただけかもしれませんが・・・。子供の頃の記憶では、家族で“町の食堂”で食べるのは、決まってざるそばか当時“支那そば”と呼ばれていた醤油味のラーメンでした)
さて、本題の「冨美家」は、私の学生時代には四条寄りの河原町通りの西側に(確か)お婆さんが一人で営む小さな甘味処が在り、そこにはぜんざいといった甘味の他にもうどん類があって、一般で云う力うどんの様に小さな角餅が二つ入った鍋焼きうどんの「冨美家鍋」が名物で、特に冬は温まるので何度か友人と食べたことがありました。はっきりとは覚えていませんが、貧乏学生でも食べることが出来たコスパの良い品だったと思います。
何年か前、京都に来た時に懐かしく河原町を歩いたのですが、その「冨美家」の四条河原町店も、そしてボールの様なガラス容器に入った色んな種類の「冷麺」(例えばフルーツ冷麺など)が美味しかった「春陽堂」が、確か3階か4階だったかにテナントで入っていた「味ビル」も姿を消していて見つけることは出来ませんでした。
余談ですが、他にも年を取って聴くようになったJAZZで、伝説のジャズ喫茶だった「シアンクレール」も無くなっていて、学生時代に一度も行かなかったことを後悔した記憶があります。一方、学生時代にお世話になった「出町輸入食品」は、当時の何倍にも店舗が大きくなっていてビックリしました。(レジに置いてあった「冨美家」の通販のパンフ。「♪ まるたけえびすにおしおいけ・・・」京都の東西の通りはこうして覚えるんよ!と地元の同期の子が教えてくれたわらべ歌が懐かしくて、思わず頂いてしまいました) そこで今回、知恩院と八坂神社へお詣りした後、四条通を歩いて錦市場にある「冨美家」へ行ってみることにしました。
最初は錦市場の西端に近いところにある「冨美家錦店」を目指しながら、ぶらぶらと新京極から錦市場を歩いて行ったのですが、外国人観光客を中心に、それなりに賑わっていました。
コロナ禍前のオーバーツーリズム問題以降、錦市場は食べ歩き禁止になったので、イートインスペース的に店内で多くの外国人観光客が“立ち食い”されて混んでいるお店もありましたが、錦市場はごった返して歩けないという程ではありませんでした。
そうした今風のお店以外に、八百屋さんや乾物屋さん、漬物屋さん、惣菜店といった昔ながらの“京のお台所”的なお店もあり、お店巡りを楽しみながら「冨美家錦店」に到着すると、ナント定休日の貼紙が・・・。
但し、近くの本店の方はやっているとのこと。どうやら、お互い重ならぬ様に交替で定休日が設定されている由。「錦店」の方が昔ながらの風情がありそうだったのですが、止むを得ません。そこで、錦からは直ぐ近く、堺町筋をホンノ少し上がった所に在る「冨美家本店」へ行ってみると、この日は「錦店」を目指したお客さんもこちらに来るためか満席で、店頭には三組程の先客が列を作っていました。
待つこと暫し、細長い町屋を改装したらしい店内はカウンター席とテーブル席があり、幸いテーブル席に案内され、二人共九条ネギ増しましで「冨美家鍋」を注文。併せて家内は湯葉もトッピング。
昔は観光客など殆どおらず地元のお客さんばかりだったと記憶していますが、我々も含め、観光で来られたらしいガイドブック片手の一人旅の女性客もおられ、中でも驚いたのは中国と韓国と思しき外国人観光客のグループが二組。しかも食べているのは中華そば。誰一人「冨美家鍋」を食べておられる人は見受けられない様でした。そのため、お節介ながら、
「ラーメンを食べるんだったら、冨美家じゃなくて、新福菜館か第一旭に行けばイイのに!」
と、またまた大きなお世話・・・。
そうこうする内、運ばれて来た「冨美家鍋」。スタッフの方が、熱いので気を付けてくださいと配膳の度に必ず言い添えて行かれます。お客さんの中には、ぐつぐつと煮えたぎった土鍋から直接食べるのは熱すぎるのか、“お上品”に取り皿をお願いする若い女性も。イヤ、猫舌の身としては良く分かります・・・。
その45年ぶりくらいの「冨美家鍋」。具は海老天ぷらと分厚い干しシイタケ、ハンペンにお麩、焼いた角餅が二切れ。そして真ん中に生卵が落とされ、刻んだ九条ネギは増しましで・・・。イヤ、懐かしい!
と、猫舌の我が身には熱過ぎて、家内の様にすぐには食べられず、じっと眺め観察すること暫し・・・。そして漸くレンゲでスープを最初に一口。
「えっ!?・・・こんなに甘かったっけ・・・」
勿論、京都らしくお出汁は効いていて、具の海老天や干しシイタケにもそのお出汁がしっかり染みていて美味しいのですが、スープが記憶に無い程砂糖甘いのです。家内は、「天ぷらの衣が厚過ぎ!」と文句を言っていましたが、これは衣にお出汁をしっかりと染み込ませるために、敢えて厚めの衣にしているのでは?と弁明したのですが、それにしてもスープが甘い・・・。
信州でも、汁蕎麦のツユは江戸に比べれば甘口かもしれませんが、ここまで甘くはないし、むしろ本来の関西は関東のそばやうどんの丼の底が見えない程真っ黒でつゆは“塩辛い”と敬遠するくらい、出汁が効いた薄めのつゆの筈なのですが・・・?まぁ、これが「冨美家」の味と言ってしまえばそれまでですが・・・。
これは恐らく、信州でそばつゆ(ざるそばだけじなくて、温蕎麦も食べるので)に慣れ過ぎたせいかもしれませんが(外食だけではなく、家でも蕎麦を食べる時は専ら創味のつゆ一択です)、ここまで甘いつゆはちょっとがっかりで、残念ながら私メの好みではありませんでした。
もしかすると、実際の味よりも、単に“思い出は美し過ぎて”・・・だけだったのかもしれませんが・・・。
でもそんな味よりも懐かしさが勝って、今回その“懐かしさ”は十分満足して“完食”出来たので、これでもう来なくてイイかもしれません。
そして、45年ぶりに食べた「冨美家鍋」に十分満足して「冨美家」を後にすることが出来ました。そこで、レジでお店の方に、
「学生時代以来45年ぶりで来ました。とても懐かしかったです。ご馳走さまでした!」
(ん・・・?そう云えば、一年前にも学生時代以来で食べた熊野神社近くの「らんたんラーメン」でも、全く同じ様な挨拶をしていた気がする・・・)
久しぶりに「きときと寿司」松本店へ行きました。
「きときと寿司」は北陸富山・氷見が本店のグルメ系回転寿司で、松本店はその唯一長野県内出店の直営店です。
以前は上田とか長野にもあったそうですが、そこは松本の様な直営店ではなくフランチャイズ店だったらしく、その後契約更新で揉めて契約が破棄され、数年前にフランチャイズから外された由。
お寿司だと、我が家では昔は地元の王滝総本店へ行っていたのですが、その後寿司ネタが極端に減ってしまい、せっかくの寿司カウンターに座っても頼むネタが少なく無意味になったので行くのを止めました。
松本にも“グルメ系”を名乗る所は他にもあるのですが、東京などで行った緑寿司の「活」や「金沢まいもん寿司」に比べてしまうと、どうしてもネタの種類が少なかったり鮮度が見劣りしたりするので、行ったことはありません。
以前、長女が帰省して来た時に、
「コンサル時代の上司が今スシローグループの社長をしているので、食べに行ってあげて!」
と頼まれて以来、お寿司を食べたくなると、スシローに良く行っていたのですが、所謂“グルメ系”には及ばずとも、嘗ての100円均一の回転ずしチェーンの中では相対的には出色だと評価していました。ただ残念ながら光り物がイマイチで、特にコハダは失格。それに、センターキッチン方式で運ばれてくるのか、だし巻き玉子は残念ながらちょっと食べる気がしない・・・。そこで、
「たまには・・・美味しい光り物が食べたぁーい!」
ということで、「きときと寿司」に食べに行った次第。そう云えば、以前長女も帰省した時に、スシローではなく「きときと寿司」で一緒に食べた時に、
「ナルホド。確かに光り物好きなら、こっちに食べに来るのは良く分かる!」
と「きときと寿司」を評価していましたっけ・・・。
因みに、長女は婿殿が休みを取って年に数回NYから日本に来ると、彼らは殆ど毎日寿司を食べに行くのだとか。勿論、回転寿司ではなく、お任せで“?万円”するような高級店も含めて、いずれも都内の有名店ばかりの様ですが、それでも、その何倍もするNYの寿司店に比べれば格安なのだとか・・・。
ですので、円安のためにインバウンドで日本に外国人観光客が殺到するのが(逆に日本人がハワイ観光で、ロコモコ一つの現地価格を円換算して悲鳴を上げるのも)良く分かります。
さて、「きときと寿司」松本店も週末には行列になることもある人気店ですが、平日の夕方なので結構空いていました。こちらもコロナ禍以降、更に若者のYouTubeへの回転寿司チェーンで撮影した「不適切動画」投稿の影響もあってか、ここ何年かは一切レーンにはお皿は回っておらず、全てタブレットから注文するのみになっています。
先ずは光り物3種、そしてマグロ三種も。ただこの日はイワシの入荷が無かったとか・・・。これでは、お目当てのイワシの炙りも食べられず残念!そのため、この日の光り物三種は手前から〆サバ、アジ、コハダでした。
更にこの日の白身三種はヒラメとタイ、そして地元の富山で「フクラギ」と呼ぶブリの幼魚ハマチも。漢字では“福来木”と書き、縁起が良いとされるのだとか。
他にも、中落ち軍艦や個人的に大好きな生ゲソも。以前金沢の近江市場の中のお寿司屋さんで食べた生ゲソが絶品で、未だ忘れられず・・・。ノドグロよりも感激しましたっけ。
我々としては、キトキト寿司もですが、北陸の食材を食べることで少しでも応援出来ればと思いますし、ここで出来ることはそのくらいですから・・・。ということで、日本酒のアテに富山の名物“白えび”の天ぷらといつものだし巻玉子も注文して、お酒も北陸(福井ですが)の黒龍にしました。
この3月に北陸新幹線が敦賀まで開通して雪が消えたら、ワンコOKの宿を探して、以前行ったことがある輪島や和倉温泉など能登はまだ無理かもしれませんが、どこか北陸を旅行出来たらと思います。