カネヤマ果樹園 雑記帳<三代目のブログ>

 6月3日、長野県民にとってちょっぴり嬉しいニュースがありました。
それは、その日の新聞に入っていた、『お待たせしました ビタミンちくわ 販売再開です!』と書かれたチラシです。
長野県民以外の方々はおそらくピンと来ないであろう「ビタミンちくわ」。
以前、本ブログでもスギヨの「ビタミンちくわ」のことを紹介していたので、その部分をそのまま引用します(第1303話)。



『(前略)昔からスーパーマーケットの練りモノ売り場に普通に並んでいる「スギヨのビタミンちくわ」。昔から「ちくわ」といえば「スギヨのビタミンちくわ」が定番で、全国ブランドとばかり思っていました。
株式会社スギヨは、能登半島の石川県七尾市に本社を置く水産加工の会社。しかも、「ビタミンちくわ」だけではなく、あの“カニカマ”を初めて開発したメーカーなのだそうです。
スギヨのH/Pからそのまま引用させていただくと、
「“ビタミンちくわ”は、昭和27年(1952年)に誕生しました。ビタミンを豊富に含む油ザメの肝油を配合したアイデア商品として、戦後の栄養不足に悩んでいた消費者から圧倒的な支持を受けました。以来、発売から66年のロングセラー商品として長くご愛顧いただいています。ビタミンちくわの売上の7割を占めるのが長野県。なぜスギヨ本社がある石川県ではなく長野県なのか。その理由は、大正時代にさかのぼります。古来、能登のブリは、越中(現・富山県)のブリ街道を通って、飛騨、信州へ送られていました。その歴史にヒントを得て、杉與商店(現・スギヨ)が大正時代、ちくわの穴に食塩を詰めて長野県へ発送したところ、海のない同県にとって、貴重なタンパク源と食塩がセットになった商品として飛ぶように売れ、「ちくわと言えば杉與(すぎよ)」と長野県に広く定着したのです。」とのこと。この冬も鍋物やおでんの時に、この「ビタミンちくわ」には大変お世話になりました。」』

 その石川県七尾市にあるスギヨの工場が、今年の元旦に能登半島を襲った大地震で、震度6強の揺れで工場の天井半分が落ち、機械も倒れ、断水して生産がストップし、半年近くも掛かってこの6月1日から漸く製造再開したとのこと。そして、出荷された製品が長野県内各地のスーパーマーケットに並んだとこの日ローカルTV等でも報道されたのです。
食べることが支援になるのなら・・・と、おでんのシーズンはもう終わりましたが、早速買って簡単にちくわキュウリでおつまみにしましたが、いつもの安定の味でした。

 頑張ってください!食べることで長野県から少しでも応援になれば・・・。

 5泊6日での、初めての南紀白浜の旅。
泊りの最後の日は、せっかくですので地元の新鮮なお寿司を食べることにしました。
グルメサイトでもっと高評価の店もあったのですが、近くて歩いて行けることから選んだのは、日本書紀にも登場し、道後、有馬と共に日本三大古湯に数えられるという白浜温泉の中でも一番古い源泉「行幸源泉」(みゆきげんせん)のすぐ横にある「ホテルシーモア」内の「すし八咫(やた)」です。

(写真は、フィッシャーマンズワーフ付近から見たホテルシーモア。右側の建物。真ん中に見える赤い小屋の屋根越しに、行幸源泉の鉄塔が見えます。そして、その上の緑が行幸の芝の場所です)
 ここ南紀白浜も温泉地としてはご多分に漏れず、古くなった旅館が目立つ中で、ここシーモアは数年前に全館リニューアルしたらしく、館内もキレイで家族連れ中心に人気で宿泊は結構混んでいる様でした。
そしてこのホテルには、ビュッフェレストランの他に宿泊客以外でも利用出来る、「いけす円座」という店の中央に配した大型いけすを眺めるカウンター席とゆったりとした小上がり席で、その日水揚げされた新鮮な魚貝類が楽しめるという100席の海鮮レストランがあり、その海側の一角に別店舗で、僅か16席のカウンター席の「すし八咫」があって、オーシャンビューの窓越しに拡がる白浜の海を眺めながら、目の前で板前さんが握ってくれる寿司を楽しめるのだとか。
せっかくなので、案内では夕食も二部制とのことから、事前に予約して最初の17:30の部をお願いしてあります。
家内がホテルの土産物ショップを見たいというので早目に行って、時間になってホテル玄関とは別の海鮮料理店の玄関から入店し、名前を伝えて席に案内頂きましたが、我々が一番乗りでした。
メニューの中から、三種類の寿司コースの中から真ん中の「桃」(税込3850円)と、一品で金山寺味噌きゅうり(550円)と生ビール、地ビールと地酒をオーダー。目の前で握ってくれる板さんと会話しながら、サーブを待ちます。コース内容は、
・おまかせの握り 本日の鮮魚10貫
・小鉢
・蒸し物(この日は茶わん蒸しでした)
・鮑踊りステーキ
・あら汁
・水物
とのこと。 
 付け出し風の小鉢(何だったか、クラゲの和え物だった様な…)の後、1貫目にカツオ。これが、今まで食べたことが無いくらいモチモチと歯応えがあり生臭さが無く、新鮮で美味!
何でも春の白浜は、釣ってから四五時間数時間しか経過していないカツオ、「もちガツオ」のシーズンとのこと、「もちガツオ」とは、釣ってから約4~5時間以内のモノ」で、「身に脂肪分が少ないため弾力があり、餅のような食感から、もちガツオ」と呼ばれるのだとか。しかし、新鮮なだけではダメで、身にこの弾力がなければもちガツオではないので、見ただけでは判別出来ず、漁業や飲食店の関係者も身を切ってみないとわからないのだそうです。
勿論、初めて食べたのですが、今まで食べたカツオ(たたきとか)の概念が変わりました。本当にべちゃっとしておらず、歯応えというか弾力がある。最初食べた時は、思わず「えっ、これってカツオですか!?」
いつもは生臭いとカツオは食べない家内も、これは美味しいと絶賛でした。
ここの寿司の握りの特徴は、醤油を付けず、ポン酢のジュレ、卸しポン酢、新タマネギの醤油漬け、泡醤油とか、ネタに合わせて工夫を凝らした調味料がそれぞれのニギリの上に載せられたり、ネタ自体にたまり醤油などのタレが塗られていたりと工夫されていて、自分で醤油を付けることは一度もありませんでした。
目の前にいる板さんとの会話(例えば、今までで一番凄かった大型台風の時は、目の前に見えているホテルシーモアの沖合100mの地点に位置する、高さ18m、水深8mの海中展望塔を大波が乗り越えて来たのだとか・・・。一瞬、「本当ですか?」と思わず聞き返してしまいましたが、ここからすぐの三段壁の“サドンロック”のことを考えると有り得そうな話です)や最初のカツオで感動し、途中まで写真を撮り忘れていて、撮った写真も何なのか覚えておらず、写真のみで恐縮ですが、どれも本当に新鮮で美味しかったです。
この日とりわけ感動したのは、「鮑踊りステーキ」。陶板焼きの器に蓋をして蒸し焼きにするのですが、アワビ自体も勿論ですが、特に肝ってこんなに美味しいんだ!と感激する程でした。生臭さも泥臭さも全くしないのです。オドロキでした。         (写真の奥に写っているのがアワビです)
この「すし八咫」の寿司一貫のニギリは、普通の寿司屋のニギリに比べると、ネタは小ぶりでシャリも少なめ(次女が済んでいた頃、成田に行く度に行った「江戸ッ子寿司」に比べると半分以下、もしかすると1/3位かもしれません)ではあったのですが、この値段でこの内容なら(白浜の他店の状況は分かりませんが)海無県から来た人間としては大いに満足でした。
しかも、白浜の海を一望するカウンターで、握りたての寿司をいただける何とも贅沢な時間でした。

 また、このシーモアには、ホテル内にある焼き立てパンのお店「TETTI BAKERY&CAFE(テッティー・ベーカリー・アンド・カフェ)」があって、滞在先の近くにはカフェが無かったので、何度かお世話になりました。もし晴れていれば、買ったパンとドリンクを店内のイートインだけではなく、オーシャンビューのソファー席や、屋外の海の見える広いテラスで食べることも出来ますし、広い足湯やインフィニティ・プールもあって泊まりも楽しそうでした。因みに、店名は南紀地方の方言で「とても」とか「すごく」を表す「てち」を店名にしたそうです。ホテルのロビーフロアの1階にあります。
白浜滞在中近くに喫茶店が無かったこともあり、気に入った家内が3度訪れたそのカフェだけではなく、娘たちや孫たちへのお土産も、両方事前に見比べた上で、もっと大きな土産物コーナーのある「とれとれ市場」ではなくこちらのホテルのショップで購入しましたが、スタッフの皆さんも大変親切で接客もとても良かったそうです。
 さて、余談になりますがこのホテルシーモアのすぐ横には「行幸の芝」(みゆきのしば)という石碑が立っていて、さらにその下の道路脇に湯を汲み上げるための鉄塔が4本立っていて湯気が常に噴き出し、近くに行くと硫黄の匂いがします。白浜温泉でも一番古い「行幸源泉」です。
その「行幸の芝」という意味不明の名前に惹かれて行ってみました。解説板に由ると、この記念碑一帯(湯崎、崎の湯付近)の台地は、字名(あざな)「行幸の芝」と呼ばれ、飛鳥時代に斉明天皇が湯治のため滞在された、「行宮跡」があった所なのだそうです。調べてみると、
『大化の改新を成功させた中臣鎌足と後の天智天皇である中大兄皇子は、孝徳天皇を即位させました。その子である有間皇子にも皇位継承の可能性も多分にあったのですが、蘇我赤兄に謀反をそそのかされたことで運命の歯車が狂います。逆に赤兄らによって邸を包囲され、囚われの身となってしまいました。中大兄皇子の裁きを受けるために紀伊国・牟婁の湯に行幸中の斉明天皇のもとへ護送される途中、有間皇子が詠んだ1首が藤白坂の入口に歌碑として残されています。「家にあれば 笥(け)に盛る飯を 草枕 旅にしあれば 椎の葉に盛る」(家にいれば器に盛るご飯を、こういう旅だから椎の葉に盛ることだ)。
有間皇子はその後、牟婁の湯へ到着し中大兄皇子の厳しい尋問を受け飛鳥へと送還されます。そして、その途中藤白坂で絞首され、19歳の若い命は絶たれてしまうのです。』
従弟の中大兄皇子が滞在していたこの行幸の芝の地に在った行宮に有間皇子を護送させ、この地で中大兄皇子の尋問を受け、その後和歌山県海南市の藤白坂という場所で処刑されたのだとか。道後、有馬と共に三古湯の一つとされる白浜温泉(牟婁の湯)。その歴史の古さを実感することが出来ました。
因みに、その悲劇の有間皇子はその前年、療養のためと称して牟婁(白浜)へ行き、帰京後、その地の素晴らしさを伯母である斉明天皇に報告。そして斉明天皇はこの年、中大兄皇子を伴い、牟婁を訪れていました。
有間皇子は悲劇の主人公ですが、白浜にとってはこの地に行宮を建てた斉明天皇と共に温泉を世に知らせた恩人でもあり、白良浜の近くに「有間皇子之碑」が立っていて、毎年6月にそこで献湯祭が行われているのだそうです。
蛇足ながら、松本にも天武天皇の行宮が置かれていました。松本は古代「束間」(ツカマ。後の筑摩)と呼ばれていて、白浜温泉(牟婁の湯)同様、日本書紀にも登場する束間の湯(今の美ヶ原温泉或いは浅間温泉とも)を気に入っていた天武天皇の行宮が置かれ、天武天皇は束間への遷都まで計画し、調査させたのだそうです(崩御により中止)。

 初めての南紀白浜旅行。メインの目的は長年の夢だった熊野古道を歩くことでしたが、たまたま行ったのが5月だったので運良く「もちガツオ」を生まれて初めて食べることが出来ましたし、また新鮮なアワビの肝の美味しさも初めて知りました。そうした新鮮な海の幸も堪能した今回の旅行でした。来るまでは南紀白浜と聞くと、何となくパンダのアドベンチャーワールドと温泉・・・というだけのイメージだったのですが、実際に現地を訪れてみて、熊野古道とはまた別に、遥か万葉の頃より都との関連が在り、歴史の舞台ともなった場所だということを知った、初めての南紀白浜への旅でした。

 “海無し県”の山国信州から海辺の町に来ると、お魚のその新鮮さには感動するばかりです。
初日、ホテルへのチェックインする前に、西日本最大級という海鮮市場の南紀白浜「とれとれ市場」に立ち寄り。「とれとれ横丁」には各種海鮮丼などがあるのですが、こちらは持ち帰りが不可なので、鮮魚コーナーでその日のホテルでの夕食用に、鯛、マグロなどの船盛とヒラメなど好みの刺身を購入。
どれも新鮮で美味しかったのですが、特に鯛(種類は不明)がプリプリで本当に美味しかった!(因みにつまみ用に揚げ物も買ったのですが、こちらは小田原には敵いませんでした)

この「とれとれ市場」は地元の漁協が運営しているそうですが、広大な敷地で駐車場も広く、日本のみならず中国人観光客を乗せた団体の観光バスが何台も来ていました。屋内のフードコートや土産物コーナー、鮮魚コーナーだけでなく、屋外のテント下にも、海鮮BBQやピザなどの屋台が並んでいて、若者のグループやカップル、家族連れが思い思いに楽しんでいました。
滞在中は、刺身のテイクアウトだけではなく、フードコートの「とれとれ横丁」でランチに海鮮丼も食べましたし、さすがに毎日刺身では飽きるので、二度、一度は気分転換にBBQ用食材店から熊野牛や野菜などを買って帰って、ホテルの部屋はキッチン付きなので焼き肉にしました。また一度はピザをテイクアウトして(マルゲリータと、白浜故にシーフードも)夕食にしました。
 海鮮では、別の日には「とれとれ市場」より近くて白浜の街中にある「フィッシャーマンズワーフ白浜」で、海鮮丼をテイクアウトしてみました。
こちらは「とれとれ市場」に比べれば遥かに小規模ですが、南紀白浜にある地元の漁師さんたちが運営しているという施設で、目の前に広がる白浜の湯崎漁港で水揚げされた魚が並び、早いモノだと水揚げから5分以内に店頭に並ぶこともあるのだそうです。
一階には海鮮丼のイートインや、刺身や焼き魚や煮魚、干物などの販売コーナーと別フロアにはダイバーズショップも。二階には海鮮レストラン、そして屋上の三階はBBQのフロアとか。
イートインのコーナーはテーブルが幾つか並んでいるだけの質素な感じですが、丼は10種類くらいあって、地元の料理さんたちが調理もしてくれている様です。我々は夕食用に、私は上海鮮丼(税込1580円)、家内はシラス丼(1460円)を注文し持ち帰りました。
刺身、しらす、ご飯とそれぞれ別々にしっかりトレイに盛って二重にラップしてくれてあり、シラス丼はしらすと玉子焼きに付け合わせの野菜は別のトレイに分けてくれてあるなど、無骨ながら親切丁寧な感じがしました。
個人的は、観光客相手の「とれとれ市場」よりもこちらの「フィッシャーマンズワーフ」の方が素朴で、海無し県的喩えで恐縮ながら、信州の農家の産直売場の“海版”の様な感じで、むしろ親近感を感じました。値段は「とれとれ市場」のイートインと同じ位かもしれませんが、量は1.5倍くらい多いのではないでしょうか。正直食べ切れませんでした。そして、こちらもどのネタもプリップリで新鮮そのもの。いやぁ、ホント旨い!
 最終日前日にも、お土産(というか、松本の自宅には食材の買い置きが無いので、帰った日の夕食用に)にシラス丼をご飯抜きでとお願いしました。すると、ご飯抜きの値段は無いとかで、従来のシラス丼の値段でしたが「ご飯の代わりに、その分シラスを多目に入れといたからね!」とのこと。
(確かに、松本に帰ってから開けてみたら、二人で優に二日分はありました)

 南紀白浜から熊野本宮大社まで車で走り、朝8:50に到着。
この日歩く熊野古道中辺路の発心門王子へのバスの出発時間9:20まで30分近く時間がありましたので、先に本宮大社にお参りを済ませておくことにしました。

 全国の「熊野神社」の総本宮にあたる熊野三山の中でも最も古く、参詣のための道である熊野古道の中で一番多くの人々が辿った中辺路で、苦労して歩いて来て最初に辿り着く熊野三山がこの熊野本宮大社。その縁起は、創建二千年とも伝わる熊野信仰の中心となる神社です。
大鳥居をくぐり、158段という石段を上ります。石段の両脇には無数の幟と大きな杉並木が続き、厳かな雰囲気がその歴史を感じさせています。
神門をくぐると檜皮葺の立派な社殿(本殿)が姿を現します。四つの社殿があり、向かって左から二つの社殿が夫須美大神(イザナミノミコト)・速玉大神(イザナギノミコト)の両神。中央の社殿が主神の家津美御子大神(スサノオノミコト)。そして右手に天照大神が祀られていて、交通安全、大漁満足、家庭円満、夫婦和合、長寿の神として古来多くの信仰を集めてきました。
説明に従い、その四つの社殿に順番に娘たちの分も含めて祈願し参拝を済ませ、また石段を下って発心門王子へ行くために本宮前のバス停に向かいました。
 朝本宮大社からバスで移動して、歩き始めた発心門王子から7㎞の中辺路を二時間半掛けて歩いて来ると、ゴールの本宮大社には本殿の裏手から境内に入ります。
因みに拝殿横に八咫烏の像がありましたが、熊野三山においてこの八咫烏は神使とされており、八咫烏は熊野大神に仕える存在として信仰されていて、熊野のシンボルとされているのだそうです。
私たちは朝の内に御本殿の四社には既にお参りしてありましたが、本殿右隣の満山社にはまだお参りして無かったのでここで参拝し、158段の石段を下って、本殿から旧社地の大斎原まで国道を渡り徒歩10分程の距離を歩き、日本一という大鳥居をくぐって、嘗ての熊野本宮大社があった大斎原へ向かうことにしました。
熊野川・音無川・岩田川の合流点にある「大斎原(おおゆのはら)」と呼ばれる中洲に嘗ては本宮大社が在り、当時は能舞台などもあって現在の8倍もの規模を誇っていましたが、明治22年の大洪水で多くが流出し、流出を免れた上四社3棟が明治24年(1891)に現在地に移築・遷座され、それが今日お参りして来た今の本宮大社であり、元々社殿が在った場所が「大斎原」として、洪水で流されて移設再建されなかった中四社、下四社、境内摂末社の神々が今でもこの地で祀られています。
その大斎原への参道には、中辺路の展望台から見えた高さ34mの日本一大きいという八咫烏を付けた大鳥居が聳えていて(因みに平安神宮の大鳥居は24mで、第3位だそうです)、またこの大斎原こそが、中辺路を歩いて来た参拝者が初めて本宮の姿を目で見て確認し、感動して平伏し拝んだというあの伏拝王子から見える中洲でもあります。
その日本一の大鳥居をくぐり、参道を歩いて来て、創建以来ホンのつい最近とも云える明治まで二千年近く社殿が在ったという場所に立つと、現在の本宮大社の“現物”の本殿とはまた違った、目には見えぬとも確かに神秘的で何だか不思議な感覚に包まれるのを感じます。それを“パワースポット”と呼ぶには余りに単純過ぎる気がしますが、しかしこれこそが、もしかすると今なお多くの人々が“何も無い”様な古道を歩いて求める、否、歩いてこそ求め得る“モノ”なのかもしれないと感じられ、そんな感慨に包まれながら暫しその場に佇んでいました。そしてある意味この不思議な感慨こそが、念願だった熊野古道を歩いて良かったと本当に思えた瞬間でもありました。
帰りに熊野川の河原に行くと、広いこの河原を三途の川に見立てて浄土への思いを込めたのか、沢山の石積みがありました。
そこから来る時に立ち寄れなかった産田社にも立ち寄ってお詣り。これで熊野本宮管内の全ての社に参拝をすることが出来ました。
 さて、時間は午後1時。ここで昼食にします。
本宮の前に何軒か食堂があり、スープカレーのカフェにも惹かれたのですが、ここはやっぱり和食でしょ!と、手打ちうどんのお店に行くと順番待ちの行列で諦め(ただ、看板には蕎麦は4割と謳ってありましたが、むしろ貴重だった小麦を多くすることが当時のもてなしだった戸隠蕎麦の7割はともかく、6割になると蕎麦というよりむしろうどん“ぽく”なるので、もし4割の蕎麦なら手打ちうどんを選ぶべきでしょう)、他の喫茶店へ。
そこはカレーやナポリタンといった定番の洋食に加え、生姜焼きやから揚げなどの定食類もありましたが、「うどんとめはり寿司のセット」(確か1050円だったか)というメニューがあったので、せっかくここまで来たので二人共郷土料理の「めはり寿司」の入ったこのセットにしました。
因みに「めはり寿司」とは、塩漬けにした高菜の葉でご飯を巻いたオニギリで、古くからこの熊野の山間部で食べられていたという郷土食。その昔、山から材木を熊野川に沿って出す、筏師(いかだし)のお弁当として広まったと伝えられ、熊野を代表する料理だそうです。隣県の奈良の柿の葉寿司同様に、発酵した高菜にも殺菌作用もあるのでしょうか。
また「めはり寿司」という名称は、「目張り寿司」とも書かれ、これには大きく口を開けて食べることに伴って、自然と目も見開く表情に由来するという説や、大きな握り飯を崩れないように高菜で「目張り」し、完全に包み込むことに由来するという説、更には熊野水軍の見張り番が食べていたから「見張り寿司」が「めはり寿司」となった・・・という説も存在しているのだとか。
和歌山県を代表する郷土食として人気で、新宮や那智勝浦など県内のJR駅での駅弁や南紀白浜空港の空弁としても売られているそうです。
またうどんに関しては、奥さまはこれで十分とのことでしたが、つゆがスープとしては出汁が効いてとても美味しいのですが、うどんと一緒に食べると私メには些か薄味過ぎました。京都のうどんだってもう少し塩味があるけどなぁ・・・と独りぶつぶつ。
一方、めはり寿司は、ご飯は酢飯ではないと思いますが、野沢菜漬け同様に、包んだ高菜は塩漬けも発行が進むと酸っぱくなる様で、少し酸味が感じられ、素朴で美味しかったです。
 余談ですが、古道で一緒になったオーストラリア人のご主人が来られ、店員さんの女性と話して何かもめている様でしたので助け船に行くと、歩き終えてビールが飲みたかったそうなのですが、聞くとこの店にはアルコールは無いとのことで、その旨伝えると納得して他の店を探しに行かれました。

 ラーメン好きとしては、松本市内でも(「寸八」とか「麺匠佐藤」とかの行列店は避け)「わかまつ」や塩尻市の「国堺」などのラーメン店で、好みの醤油ラーメンを食べるのも楽しみですが、イチイチ車で行くのも面倒臭いし、やっぱり毎回独りで食べるのも何だか寂しい(娘たちは結構ラーメン好きなのですが、家内はラーメンが全然好みではない)ので、時には自宅で自家製のラーメンを作って楽しんでいます。

 ラーメンの食材と云えば、麺、スープ、チャーシュー、メンマ、薬味のネギ。
この内、さすがに麺とスープは自家製、自分で作るというのはちょっと無理なので、出来合いの麺と小袋入りのスープが何種類(ちゃんと味噌、醤油、塩、とんこつなどがあります)かスーパーに売っているのでお好みを買ってきます。またメンマも同様です。



 売られている中には、勿論全国の有名ラーメン店監修という大手食品メーカーの生麺もありますが、値段も高いので、その場合に重宝するのは、個別に売られている(個人的に好みの)細縮れ麺の中華麺と、同様に小袋で売られているラーメンスープ。私の場合は、鶏ガラ系の醤油スープ一択なのですが、それでもサッポロとか比内地鶏とか結構色々あった中で、全て試してみて、甘味と塩味、旨味とコクのバランスが自身の好みに一番近くて気に入ったのが、こちらの二種類のスープ。でもどちらも決して値段の高いスープではありません。
そしてチャーシューもスーパーに売っていますが、数枚しか入っていないのに結構値段が高いので、こちらは自分で作ることにしました。食肉売場にはタコ糸で巻いた国産豚の肩ロース肉の塊が売られているので、これで作ります。
先ずはフライパンで炒めて、周りにこんがりと焼き色を付けてから、レシピを参考に、醤油と砂糖、酒でタレを作り、青ネギ、生姜、ニンニクを隠し味に加えて、一時間ほどコトコト煮詰めて出来上がり。
粗熱を取ってから出来るだけ薄くスライスして、残ったタレに漬けて冷蔵庫で保存します。一週間弱しか保存出来ないので、結構一度にチャーシューメン的に何枚も使うことになり、自宅でのラーメンも結構“豪華“です。
細麺の縮れ麺は、指定時間より短い好みの固茹でにしています(例えば、ツルヤの信越明星製のこの麺は、1分半の茹で時間が標準ですが、1分10秒で)。更に余裕があれば、トッピングにゆで卵を加え、ネギを薬味に添えて粗挽きのブラックペッパーを掛ければ、自家製醤油ラーメンの完成です。
 自宅だと、一杯いくらぐらいでしょうか?労務費と水道光熱費を別とすれば、自宅では合計150円位の材料費だと思いますが、トッピングも含めて結構本格的な醤油ラーメンを楽しむことが出来ます。
こうして、時々、前話の冷やし中華や焼きそば、そしてラーメンも自宅で作って楽しんでいます。

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