カネヤマ果樹園 雑記帳<三代目のブログ>

 9月末、奥さまのリクエストにお応えして、今年も新栗のモンブランを食べに秋の小布施に行ってみることにしました。
行先は小布施の栗菓子店の一番の老舗、桜井甘精堂の洋菓子産門である「栗の木テラス」です。
 栗で知られる小布施。
室町時代に始まると云われる小布施の栗の歴史は、当時この地方の領主だった荻野常倫が、故郷の丹波から栗を取り寄せて植えたのが始まりと伝えられています。小布施の土壌が栗の栽培に適していたため、江戸時代には既に栗林が拡がっていて、小布施栗は品質が良く美味という評判を取り、毎年秋に将軍家への献上品となってその名を天下に広めたといわれています。そのため、俳人小林一茶が「拾われぬ 栗の見事よ 大きさよ」と詠んだ様に、秋に将軍家へ献上されるまでは、庶民は落ちている栗を拾うことさえ許されなかったのだとか・・・。

 そして、この栗を用いて初めて菓子を作ったのが桜井甘精堂の初祖、桜井幾右衛門。桜井甘精堂のH/Pからお借りすると、
『栗を粉にひいて作りあげたのが「栗落雁」。文化5年(1808)のことでした。画期的な「栗落雁」の創製によって、二百年にわたる伝統を誇る栗菓子づくりがスタートしたのです。
江戸で名声を得た小林一茶が、故郷・信州に帰り、小布施で盛んに句会を開き始めた文化五年。この地の桜井幾右衛門は、その年、初めて栗菓子「栗落雁」を創った。これが弊堂の始まりであり、小布施栗菓子の始まりでした。
そして北斎が名画「富嶽三十六景」を世に出し、江戸で活躍していた文政二年(1819年)に、弊堂の初祖・幾右衛門の弟・桜井武右衛門は、他に類を見ない栗だけの「純 栗ようかん」を創製した。
また島崎藤村が小諸で教鞭を取り、小説家としても「千曲川のスケッチ」を書き始めた明治二十五年(1892年)には、五代桜井佐七は、栗と栗あんだけの「純 栗かの子」を創製した。』
この様に、小布施の栗菓子の歴史は桜井甘精堂の歴史と言っても過言ではないでしょう。そして、その桜井甘精堂の洋菓子部門が「栗の木テラス」なのです。

 私たちが初めて小布施を訪れたのが2013年で、その時は話題の小布施堂の新栗の和点心「朱雀」を食べるためでした。その後この「朱雀」は更に人気が沸騰し(値段も沸騰して、当時一個千円が今では2千円)、今では一ヶ月間の期間限定で事前予約でしか食べられなくなりました。
私たちは、この「朱雀」は凭れてしまい(一人一個は多過ぎて、多分二人で一個でも充分でした)、それ以降は桜井甘精堂の小振りのモンブランに変更。
さすがにコロナ禍は無理でしたが、ほぼ毎年の様に新栗の時期になると秋の小布施への小旅行を楽しむのがささやかな私たちの恒例となりました。

 10月3日オープンの「イオンモール須坂」が長野東須坂ICのすぐ横に出来上がっていて、隣にはルートインホテルも建っていました。この「イオンモール須坂」は松本店の1.3倍の広さで、県内最大級とのこと。これまでイオンモール松本でも結構目立っていた長野ナンバーの車がこちらに来るようになれば、松本店は今までよりも多少は空くのでしょうか。そうなれば地元民としては有難いことです。
この日は未だオープン前でIC付近に渋滞は無く、ナビの指示はここで高速を降りて須坂市内を走るルートだったので、途中須坂の産直に寄って果物と野菜を購入してから小布施に向かいました。
 桜井甘精堂「栗の木テラス」の駐車場に車を停め、バニラエッセンスの香りが漂う洋菓子工場の脇の小路を通って店舗へ。到着時刻は10時15分で開店時間の10時を既に過ぎていたので、奥さまが順番取りに先に行っていたのですが、店内は10卓くらいですので40席程でしょうか。栗の木テラスは予約が出来ないので、この新栗の季節は平日でも開店前から順番待ちの行列の筈。
ですので一巡目は無理かと思ったのですが、先に来て店舗の前で待っている筈の家内が居ません。すると店の中から出て来て、ナント待たずに座れたとのことでビックリ。それぞれ新栗のモンブラン(600円)と、家内はアールグレイの紅茶(650円)と私はトラジャのコーヒー(700円)をオーダー。こちらの紅茶とコーヒーもそれぞれポットで供され、ちゃんと冷めぬ様にポットカバーも掛けられていて、量も優に3杯分近くあるので非常に良心的。また必ず入店した順番で注文を取り、その順番でサーブしてくれます。
その後次々にお客さんが来られて、すぐに5組程が順番待ちになりましたので、たまたまこの日の我々は単にグッドタイミングだった様で、新栗モンブランの人気も相変わらずの様です。
モンブランは濃厚な栗ペーストがたっぷりと載せられ、タルト生地の上に固めのカスタードクリームを包んだ生クリームが隠れています。
決して大きくはないケーキですが、寄る年波か或いは辛党故か、全部食べ切れず(無理すれば食べられますが、そこまでして食べる気になれず)、半分食べたところで奥さまへ。すると、食べ終わった奥さま曰く、
 「もうお腹一杯だから昼食は要らない!今日のランチは抜くからネ!!」
 「えっ、ウソ!?」
お昼には小布施でお蕎麦でも食べて帰ろうと思っていたのですが、自ら墓穴を掘ったとはいえ、当てが外れてしまいました。
桜井甘精堂の駐車場は、2千円以上で2時間無料。今回は順番待ちで並ぶことも無かったため、食べ終わってもまだ1時間半近く余裕があったことから、せっかく来たので小布施の街を少し散策してみることにしました。
小布施は、江戸時代に豪商髙井鴻山が庇護した晩年の葛飾北斎が小布施に滞在していたこともあって、栗と北斎での町おこしで人気の観光地。
また、長野県内で一番面積の小さな自治体(逆に人口密度は一番高い)ということもあり、街も小さくて歩いて回れるコンパクトさもあってか、取り分け女性グループに人気です。
個人的には、小布施では中島千波館が気に入っているのですが、今回の企画展には余り興味が湧かずパス。北斎館も岩松院も見たことがあるので、特に他に行く所も無し。そこでオープンガーデンを見ながら、栗の小径を少し歩いてから帰ることにしました。
朱雀の小布施堂は相変わらずの大混雑。北斎館に相対する「傘風楼」は小布施堂のイタリアンとカフェで、ここにも朱雀風のモンブランがあります。どちらも枡一市村酒造が手掛けていて、他にも酒蔵を活かした和食店や日本酒のカウンターバー、更には宿泊施設もあるなど、なかなかの商売上手。因みに、髙井鴻山は市村家の12代当主(因みに高井姓はその善行に依り代官から賜ったという、今も上高井郡と下高井郡と名を残す、この一帯の地域名)。
この「傘風楼」の辺りから、栗の木の端材をレンガの様に敷き詰めた「栗の小径」が始まり、途中解放されている民家やお店の手入れが行き届いたオープンガーデン見させていただきながら、最後蒸米を作るための赤レンガの煙突がある酒蔵「松葉屋本店」の中を通り抜けて駐車場に戻りました。コンパクト故、この街歩きも僅か30分足らず。秋の風情を感じながらの栗の小径の小布施の楽しい街歩きでした。
 帰路、“田毎の月”で知られる姨捨SAに立ち寄り、小布施で食べ損ねた蕎麦の代わりにレストランでキツネそばを食べ(一応二八の由)、棚田越しの千曲川が流れる善光寺平を眺めてから、コユキとクルミが待つ松本へ戻りました。

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