カネヤマ果樹園 雑記帳<三代目のブログ>
新居に引っ越して、まだ“僅か”半年ですが、その僅かな期間で、季節は晩秋から冬、そして春から初夏へと移り変わって来ました。
移り行く日々の中で、刻々ではなく、もう少し長いスパンで視た時にですが、後で日々に立ち返ってみると、少しずつ変化していることに或る日急に気付かさることがあります。
それは例えば、日の出日の入りの時刻やその昇り沈む太陽の位置であったり、また日差しの強弱や夜空の星座、風の温度、そして空気からどことなく感じられる匂い・・・etc
私が、今までの生活の中では気が付き得なかったこと。しかし、新居に来て生まれて初めて味わっている、感じている、視ている・・・こと。
それは、北アルプスの峰々の変化・・・です。
勿論天候次第で、毎日その雄姿を眺められる訳ではありません。多分、(太平洋側の気候の影響を受ける松本平からは)一般的に云えば、空気の澄んでいる冬の方が見られる日が多く、夏の方が雲に覆われていることが多いのだろうと思います。
しかし、今まで松本に住んでいても、前の家があった沢村から下岡田のエリアは、城山々系に遮られて美ヶ原や鉢伏といった東山は毎日見えても北アルプスを見ることは出来ませんでしたので、週末とかに買い物で市街地に下って初めて常念を始めとする北アルプスを眺める・・・という生活でした。
会社勤めの頃は、毎日松本駅からの電車通勤でしたので、いつも決まった時間の朝7時過ぎの北アルプスは日々眺めていました。
勿論、松本生まれで松本に住んでいれば、半世紀の人生の中で、例えば亡き父と学生時代に行ったビヤガーデンから見た、バラ色に染まる夕映えの屏風を背にした黒々とした北アの峰々。また、当時車で島内事業所に出勤していた時に、宮渕から“常念街道”に入って見たモルゲンロートのピンクに染まる常念岳。そのどちらも、例え松本に暮らす住民であっても、人生50年の中で一度しか遭遇していない“我が人生の中でベスト”だった絶景なのです。
そうした絶景は、例え毎日眺めていたとしてもそう易々と遭遇出来るものではありません。しかし、それが可能な場所(見ようと思えば)に居るか居ないかで、その偶然に遭遇出来るチャンス、可能性を飛躍的に高めてくれている筈なのです。
そういう意味で、勿論一日中ずっと眺めている訳ではありませんが、朝起きて、また昼頃に何気なく、或いは夕方に・・・と、ふと窓越しに眺めた時に、
「あぁ、今日は山がキレイに見えるよネ!」
という日だけ眺めていれば・・・。
そのたった半年間で気が付いた、或いは多分(必然的にその可能性が飛躍的に高まった結果の)偶然遭遇した、この僅か半年間の季節の移ろいの中で見つけた北アの峰々絶景の幾つかです。
そうした一瞬に撮った、新居のベランダからの写真ですが(スマホで上手く撮れていませんが)、冬から初夏にかけて時系列に並べてみました。
・・・雪の北アルプス、モルゲンロート、残雪、夕映えに染まる峰々・・・。
「美ヶ原溶岩台地」や「田舎のモーツァルト」で知られる(第542話参照)“山の詩人”尾崎喜八が、「松本の春の朝」(注)と題した作品の中で“尖峰”と表した様に、槍ヶ岳や常念などの北アの3000m級の鋭角的な頂を連ねる峰々の中で、唯一なだらかな山容の乗鞍が、冬の真っ白な山肌が残雪の残る夏山に変化していくのが実に印象的。それにつれて、冬は青かった前山にあたる西山が初夏になって少しずつ新緑の濃さを増し、山裾の緑色がその濃さを次第に増していくのがこれまた実に印象的に感じます。
これからも北アルプスの峰々を毎日眺めて暮らす日々の中で、“今までで一番!”と思える様な絶景の北アルプスにきっと何度も出会えるだろうと大いに期待している日々・・・なのです。
【注記】
『松本の春の朝』尾崎喜八作『高原詩抄』より第6編(昭和17年刊行)
車庫の前にずらりならんだ朝のバス、
だが入山辺行きの一番はまだ出ない。
若い女車掌が車内を掃いたり、
そうかと思えば運転手が、
広場で新聞を立読みしながら、
体操のような事をやってみたり。
夜明けに一雨あったらしく、
空気は気持ちよく湿っている。
山にかこまれた静かな町と清らかな田園、
岩燕が囀(さえず)り、れんげそうの咲く朝を、
そこらじゅうから春まだ寒い雪の尖峰が顔を出す。
日本のグリンデルヴァルト、信州松本。
凛とした美しい女車掌が運転台の錫(すず)の筒へ、
紫と珊瑚いろ、
きりたてのヒヤシンスを活けて去る。
因みに、グリンデルワルトは、スイスの、北壁で有名なアイガーの麓の街。元々は乗鞍岳の麓の村で、槍ヶ岳から上高地も抱える旧安曇村がグリンデンワルトの姉妹都市でしたが、平成の松本市との合併に伴い、尾崎喜八の先見の明か、彼が“日本のグリンデルヴァルト、信州松本”と表した通り、今では松本市が姉妹都市となっています。
今年のGWは久し振りのコロナに伴う行動制限なしということもあり、松本にも結構たくさんの観光客の方々が来られていました。
或る意味“毎日が日曜日” の年金生活者の我々は、何も混雑するGWにわざわざ混雑する場所に行く必要も無いので、ただ頼まれたり、必要な食料品の買い出しであったりという時以外は、逆にどこも行かず、出来るだけ車で外出もせず・・・。
そんなGWですが、ウォーキングであれば渋滞や駐車場の心配をすることも無いので、行動範囲は限られるにしても、イライラすることもなく、また天気の良い日にだけ行動すれば良いので、精神的には一番健康的でもあります。
そこで、5月3日。世間的には憲法記念日から三日連続となる連休初日。自宅のマンションのある渚から、先ず城山公園経由で、放光寺、下って途中で塩釜神社、そして開智学校から松本城を経由して四柱神社。更に中町から人形町を経て天神さんの深志神社という、いつものコースを朝のウォーキングで歩くことにしました。距離的には大体5㎞程のコースでしょうか。
すると、松本城公園はコロナ禍の今まで見たことが無かった程の大混雑で、観光客の人の波。しかも、城内に入場する大手門の中ではなく、入場前の堀端をぐるっと囲むように長蛇の列が出来ていました。「こちらが、最後尾」を知らせる係の方曰く、「入場まで2時間待ちです!」とのこと。
皆さん、コロナ禍でじっと我慢されていたのでしょう。日本全国の観光地はどこも3年振りの賑わい。気持ちは良く分かります。
信州も、昨年はコロナで延期されたため8年振りとなった御開帳と、7年振りの御柱(山出しは史上初めて人力以外のなってしまいましたが)と、久し振りに華やいでいることでしょう。
いつものルートで松本城から四柱神社へ廻ると、あろうことか、初詣以来の参拝客の長い列・・・。占い芸人の方がパワースポットとして紹介してから、四柱神社が全国的な人気になったそうで、有難いことですが本殿での参拝には時間が掛かりそうだったので、我々は今回は鳥居の所からお参りして、観光課客の方々が散策エお楽しまれている中町を通って天神へ向かいました。
この日のウォーキングで印象的だったのが、満開の藤の花です。
藤棚がちゃんと作られていた、城山公園、松本城、そして御幸通りから中町へのL字コーナー。中町は早咲きの花は終わり、御幸通りの藤棚へ花の季節が移っていました。
翌日、次女から、冷凍ストックが無くなったので送ってくれるようにと頼まれていた「さかた」のお焼きを買うために穂高有明へ。
この日は「みどりの日」ですので、GW中は観光客で混むだろうとは予想できたのですが、GW明けは4連休とかで、奥さまが横浜へ次女のヘルプに行く日まではGW中に行くしかないとのこと。そこで、止む無くこの日行くことにしたものです。
念のため、開店前に着くように早めに出発し、10分前には店に到着したのですが、ナント既に40人近い長蛇の列。駐車場も満杯で、敷地外のアクセス道路にも路上駐車の列。9時に家を出て帰って来たのが12時・・・。発送予約は5月下旬以降とか。因みに、車は長野・諏訪も含めれば、殆ど地元(松本ナンバー)以外の県外車。途中の国営安曇野公園も駐車場は満車でしたが、それにしても信州からのお土産は「お焼き」くらいしか無いのかとガッカリしつつ、しかも20円も値上げされていて、「さかた」のお焼きは他に比べて薄皮で、小麦粉はそんなに使ってないのに・・・。
GWで久し振りの遠出をする人も増えた中で、まだ躊躇する人もたくさんおられるのでしょう。我が家の断捨離同様に、せっかくの長期休暇を使って、日頃出来なかった大物の不要物の片付けをされているのでしょう。“毎日が日曜日”ではない方々にとって、これも大いに有意義なGW活用だと感心した次第。
長女が翌朝のフライトに備え、空港で見送る家内と二人で前日に羽田へ出立するために我々は一泊だけでしたが、次女たちはせっかくだからと「金宇館」に二泊しました。
前日我々はチェックアウト後、久し振りに二人だけでの観光や街ブラを楽しむ様に次女夫婦を松本城で降ろし、我々は孫を連れてマンションへ行き、家内と長女で孫をお風呂に入れ、昼過ぎの列車で羽田に向かう長女と家内を松本駅で見送るべく、孫も一緒に車で駅に行って次女夫婦と合流して、あずさで東京に向かう長女たちを松本駅で見送りました。
「元気で行っておいで!」
そこで止む無く、私メがプライベート“ Uber Eats ” として(自転車ではなく車で)デリバリーすることになりました。
松本市内でテイクアウト可能なレストランリスト「城町バルTOGO」という専門サイトもあるので、それを含め(あまり遠いと買いに行くのも大変なので)私メの住まいと宿周辺のお薦め店を幾つか追加して紹介しました。
例えば、近くのウナギ割烹「観光荘」(岡谷が本店です)、昔からのトンカツの名店「かつ玄」、栗おこわの小布施「竹風堂」、それと幾つか市中の和食の割烹やホテル内のレストランなどなど。併せて(興味があれば)“松本B級グルメ”の代表格として「たけしや」の焼きそばもあるヨ!と付け加え・・・。
すると次女たちが選んだのが、ナント「たけしやの焼きそば」を一度食べてみたいとのこと。ホントにそれでイイの?と何度も念押しして確認した上で、LINEで参考までに家内に一応報告すると、烈火の如く、
「んもー!せっかくなのに、どうしてそんなモノを紹介したのヨ!?」
「・・・・・・・・・」
「じゃあ、焼きそばだけじゃいけないから、デパ地下でサラダを買って一緒に持って行きなさい!!!」
との仰せに、
「へへぇ~、かしこまりましたーっ!」
一応事前にメニューを知らせ、彼らの希望を聞いた上で「たけしや」に電話をして予約注文し、テイクアウトの時間も併せて連絡。
その時刻に合わせ、事前にローカルデパート(といっても松本にはデパートは一軒しかありませんが)のデパ地下へ。買い物はサラダだけなのですぐに済みますが、路上駐車はいけないだろうと、買い物をすれば指定駐車場は無料になるので、デパート横の駐車場へ停めてデパ地下へ。するとあろうことか、総菜コーナーのサラダは全て売り切れで全然無し・・・って、まだ夕食前の夕方5時ですよ!(都会なら、これから仕事帰りの若いお母さん方が来られて、色々お総菜を買って帰る時間でしょうが!!)「えっ!?」と絶句して、止む無く何も買えずに戻ったのですが、駐車場代・・・僅か5分足らずで300円・・・(これにも絶句)。
「あぁ、こんなんじゃ自分で自分の首を絞めてる様なモンだよナァ~、田舎のデパートは・・・」
と、これまた絶句!(経営者は果たしてこういう実態を分かってるんでしょうかね?)
と、それはさておき「たけしや」へ。
「横浜からのお客さんに、松本B級グルメの“代表格”って勧めたら、どうしても食べたいって言われて・・・」
すると、女将さんだけでなく、調理場から娘さんもわざわざ出て来られ(以前はご主人が調理をされていましたが・・・)、
「それは、どうもありがとうございます!」
と、お二人で見送ってくださいました。
途中、惣社にある地場スーパーの総菜コーナーに立ち寄り、ドレッシング付きのサラダもちゃんと二つ買って「金宇館」にお届け・・・です。
(後で考えたら、イオンモールへ行けば、総菜コーナーに量り売りを含めて色んな種類のサラダがあったのですが、“後の祭り”)

イヤ、懐かしい!イヤ、旨い!で、大盛りも瞬く間に完食!
するとLINEが届き、次女たちも完食した空の容器の写真と共に、
「美味しかったヨー!ありがとう!!」
早速、自慢気にその写真を家内に転送したことは言うまでもありません。
「・・・んまぁ、だったらイイけどね!」

「安政2年創業という、江戸前で一番古い芝のお寿司屋さんで食べたヨー!」
とのLINEが写真付きで・・・。
「えっ、そりゃまるで“芝浜”の世界だなぁ・・・。アナゴとコハダが美味しいだろうね、きっと!?」
「“お任せ”で頼んだけど、もう両方共食べたヨー!スッゴク美味しかった!」
ムム、この差は一体・・・?
まっ、イイかぁー・・・「たけしや」最高!
久し振りで、あぁ、旨かったー!ごちそうさまでした!!
(娘も、日本最後の夜の老舗の江戸前寿司にきっと満足したことでしょう!!)
お風呂の後は、「金宇館」での一番の楽しみだった激励会を兼ねた夕食です。
改装前と同様、金宇館は一階にダイニングルームがあるのですが、赤ちゃんがいる我々は、他のお客様の迷惑にならぬように、我々だけで二階の小さめのダイニングルームで頂くことが出来ました。時間も、通常夕刻6時からの夕食タイムをずらして、我々は7時にお願いしました。
以前リニューアル前に何度か会食で利用させていただいた時も、全てを4代目が創られる懐石料理に感激したのですが、休業中は更なる料理修行に出られたと伺いました。そして久し振りの今回の料理ですが、何となく以前よりも更に繊細さを増した料理になった気がします。こんな逸品を京都ならいざ知らず、この松本で頂ける幸せを感じざるを得ませんでした。
お品書きはなく、若い中居さんが一つずつ配膳される鉢毎の料理を丁寧に説明していただいたのですが、老化現象故か殆ど覚えられず、僅かな記憶と写真とでご勘弁ください(内容が違っていたらスイマセン)。
その微かな記憶の中で印象的だったのは、信州の早春の風味らしいフキノトウが、時に隠し味風に、揚げたり、刻んだり、炒めたりと調理法を変えて、上手くあしらわれていたこと。海無し県の信州故、全てとはいきませんが、出来るだけ信州で手に入る食材で地産地消に心掛けていることが伺えました。
因みに、秋の新蕎麦の時期になると、季節の炊き込みご飯に代わり、4代目のご主人が打つ蕎麦屋顔負けの二八の手打ちそばが料理の〆になるそうですので、それも秋から冬に掛けての楽しみかもしれません。
料理もですが、盛り付けられた器も素敵です。
三人の男の子のお母さまでもある若女将も途中で来られ、「やっぱり女の子は可愛いですよねー」と次女の隣のベビーカー(自分たちのは車から降ろさずに、旅館で用意されていた物をお借りしました)で眠る孫の女の子をあやしながら、暫し二人で結婚前の勤務時代の航空会社談義。
ゆっくりと味わいながら1時間半。お腹よりむしろ心が先に一杯になるような、そんな料理の数々。心もお腹も満足満腹になりました。
安曇野産コシヒカリが木製(木曽のさわらか桧でしょうか)のお櫃に入れられて。それぞれ個人毎にお膳に載ったオカズが6鉢。若竹煮、山形村産の長芋のとろろ汁、独活のキンピラ、身欠き鰊、コゴミのクルミ和え、香の物。お味噌汁。最後に温かな餡かけ豆腐と食後のフルーツも。
いつもはご飯茶碗一杯もあれば十分でしょうが、こういう特別な朝食だとお替りも。おひつは足りなくなれば追加で持って来てくれます。全て完食し、
「ごちそうさまでした!」
食事のあと、ラウンジで丸山珈琲をいただき、チェックアウト前にまた朝風呂へ。この日も一人だけで、まさに“湯ったり”ノンビリ出来ました。
ご主人と若女将、そして若いスタッフとの何気ない会話や仕事ぶりの中で、金宇館のさり気ない(押しつけがましくない)ホスピタリティーを随所に感じることが出来ます。松本には他にもっと高級で豪華な宿もないではありませんが、個人的にはこの小さな温泉旅館の「金宇館」がベストだと思っています。また長女が帰国した折にでも是非泊まりたいと思います。
そしてここなら、ワンコたちを家に置いて来て、翌朝早く食事の準備に家に帰ることも出来ますので、ワンコ連れでしか旅行の出来ない我々にとって、「金宇館」が唯一ワンコ抜きで泊まりが出来る場所なのです。
翌日のフライトで渡米する長女との思い出に残る「金宇館」での激励会。リニューアル後の営業開始のお葉書も頂いていましたが、ここで漸く新装なった「金宇館」に念願の宿泊をすることが出来ました。偶然にも改装を手掛けた地元の工務店が、24年前に我が家を建てて頂いた同じ工務店だと知り、これも何かの縁でしょうか。初めて泊まった次女夫婦も含め、我が家の皆が満足した「金宇館」でした。
チェックアウト後、ご主人と若女将に見送られ宿を後にしました。
「お世話になりました。また来ます!」
宿から車で下る坂からは、街並み越しに残雪の乗鞍岳を眼前に臨むことが出来、例え“つかの間”の短な非日常だったにせよ、正に文字通りの“束間の湯”に投宿した客人を優しく見送るかの様な、如何にも松本らしい眺めが拡がっていました。
長女が米国に立つ前々日。4月末に横浜から次女一家も松本へきて、皆で美ケ原温泉の「金宇館」へ宿泊し、長女の送別を兼ねての激励会をしました。
美ケ原温泉の「御母家(おぼけ)姫薬師堂」の横に立つ、木造三階建ての温泉旅館「鄙の宿 金宇館」。2019年の3月から一年間掛けて“次の百年に向けて”という大幅な改装工事を行い、2020年の4月にリニューアルオープン。
昨年2月に長女がお友達と松本に泊まりたいと言うので我が家イチオシの「金宇館」を薦め、定評あった料理は勿論、リニューアル後の宿の様子も含め大絶賛していました。以前父の法要後の会席を何度かお願いしたのですが、改装後は人気の高さも手伝い、松本在住者としては誠に残念ではあるのですが、会食対応はもう不可能で宿泊客のみへの対応になっています。
そのため、今回の宿泊で久し振りに漸く「金宇館」の懐石料理をまた頂くことが出来ます。
因みに、次女一家は同じ二階ですが、「湯ノ原」という一部屋だけ奥まった角部屋の客室で、この部屋だけが子供の宿泊OKとのこと。他の客室とは離れていて、例えば赤ちゃんが泣いても大丈夫とのとのことなのでしょう。ただ一部屋しかないので、婿殿の病院の休みに合わせての予約は一苦労でしたが・・・。
清楚な一輪挿しと共に、館内に“静けさ”を作り出すための小道具として置かれた沢田英男作品。「金宇館」は騒がしい団体客を受け入れる様な大きな旅館ではありませんが、僅か9組のカップルや家族連れであっても、館内では自然と囁くように声を落としてしまう・・・あくまで勝手な個人的想像ではあるのですが、そんな行動を誘う様な見事な演出です。
チェックインが予定より遅れ、食事時間を後ろにずらしたこともあってか、殆ど貸し切り状態で、一人のんびりと奈良時代から都にも聞こえたという“束間の湯”(注)を楽しむことが出来ました。
さてと、次は金宇館での一番の楽しみ、夕食です。
【注記】
「天武天皇が束間の湯に行幸すべく、信濃に行宮を造るために三野王らに命じて信濃の地図を作らせたが、結局病のため行幸することなく亡くなられた」という記載が「日本書紀」にあるのですが、束間(つかま)というのは筑摩(つかま)で、この辺り一帯を指しています。
廃藩置県での筑摩(ちくま)県は、「つかま」では一般には読み難いからと明治政府が「ちくま」と読ませたためであり、今でも794年創建という地元の古社筑摩神社や筑摩小学校には「つかま」という古い読み方がそのまま残っています。