カネヤマ果樹園 雑記帳<三代目のブログ>

 お盆も過ぎましたが、夏のお中元や冬のお歳暮。都会に住んでいればデパートの品揃えの中から先様の嗜好を踏まえて選べば良いのでしょうけれど、なまじ地方に住んでいると、例えば九州から北海道のタラバガニを送るという訳にもいかないでしょうから、その地方地方の名物や特産品など、“らしさ”を考えねばならず、結構難しい選択になります。
逆に、地元同士(例えば近くの親戚)であれば、例えばお互いに珍しくも無い信州蕎麦を送るのも憚られるので、逆に北海道であれ、九州であれ、むしろ珍味や高級品の方が却って喜ばれるということになります。

 今回も、毎年お中元を送ってくれる母方の従妹や姻戚関係に、
 「さて、今回は何を送ろうか?・・・」
幸い従妹にはざっくばらんに確認して、数年前から先方の希望である「さかた」のおやきに固定しています。「おやきのさかた菓子舗」は二年ほど前、以前の繁盛していた松本市内の上高地線沿いの新村から、かなり不便な穂高有明地区へ何故か店舗を移転(さして大きくなった訳でもなく、却って客足は減ったような)し、一時期は商品発送も止めていたのですが(木で鼻を括った様な若い店員の対応に呆れたこともありました。嘘だとお思いの際は、是非第1121話を参照ください)、その後発送業務も再開。しかい、以前の新村店(貸店舗か自前か分かりませんが、建物は今もクローズしたまま)には、自宅消費分も合わせ結構頻繁に年に10回程は買いに行っていましたが、移転後は、あの唖然とした対応の酷さと移転先が松本からは遠くなったこともあって、従妹への指名買い以外では全く行かなくなりました。
しかも商売っ気が無いのか、“働き方改革”が叫ばれる以前から、こちらは週休二日。新たにイートインスペースを設けたのですが、時間帯にも依るのか、食べているお客さんを見たことがありません。如何にも、いくら遠くても指名買いで来てくれる客だけを選別して売るために、わざわざ辺鄙なところに移転したとしか思えないのです。
それはさておき、今回も従妹には「さかたのおやき」を冷凍の箱詰めで送ってもらいました。なお、“あの”若いパートの子はいなくなり、愛想の良い年輩の女性達に代わっていました。

 続いて、姻戚関係には「波田のスイカ」を送りました。
梅雨寒で心配したのですが、その後の猛暑続きで、波田のスイカらしいシャキシャキした食感に加えて糖度も例年並みになったとのこと。そこで、最初に「下原(しもっぱら)」ブランドを使用するために、有志がJAから脱退し独自に「サンハート」マークで、昔からのブランド「下原スイカ」として販売している直売所に開店直後に行ったのですが、然程広くない駐車場は既に満車でテント村も入場制限の有様。入場制限をして、行列の順番で購入している様子に入場を諦め、いつもの和田(和田から波田は同じ砂地の地続きですので、波田の「下原」を使えるかどうかは別として、土壌は同じ)のスイカ村へ行って、毎年買っているいつもの店から4Lサイズ(5Lサイズは終了とのことで)を送りました。また、自分たちも試食すべく、自宅用に3Lサイズの“はね出し”を買って帰りましたが、シャキシャキ感はもう一つかな?でも糖度は十分!・・・でした。
(写真は、最終日の前日に行って、店の人に選んでもらって買った二回目の自宅用2Lサイズの“はね出し”ですが、「す」も全く入っていませんでした。どうして“はね出しなのか、形かなぁ?”)
 後日、お礼のお電話を頂き、
 「こんなにシャキシャキして甘いスイカは始めて食べました!」
と、(多少のお世辞もあるとしても)大層喜んでくださいました。
娘たちの所にも、今まで食べた中で今一番美味しいスイカだったと連絡があったそうですので、来年以降もスイカを送ることにしました。

 来年以降のお中元に何を送ろうか?と、選ぶのに色々迷う様な悩みも無くなってほっとしました。
 「さて、お歳暮はどうしよう?・・・」

 美ヶ原登山での三城からの帰り道。
この日の天気予報で、場合によっては雨に降られてズブ濡れになるかも・・・ということもあり、帰路、途中にある扉温泉の日帰りの公共温泉「桧の湯」に立ち寄るべくお風呂道具も車に積んで朝出発していました。
下山して、三城の駐車場に到着したのが2時半過ぎ。多少雨に濡れたのと、それ以上に汗をかいたので、さっぱりすべく朝の予定通りに途中温泉に寄って行くことにしました。

 三城いこいの森から少し下ると、「扉温泉、桧の湯」との看板があり、近道らしい林道桧沢線を行くことにしました。
一台がやっとという感じの狭く曲がりくねった細い道です。三城からは峠の様な暫く上り道が続き、上り終わるとずっとカーブの連続する下り坂が続きます。細いこと以上に、むしろ時折拳大よりも大きな落石が道の所々に転がっているのが些か不気味です(しょっちゅう落石があるというよりも、あっても誰も片付ける人が居ない・・・ということだとは思いますが)。
三城経由での美ヶ原高原へのビーナスラインと扉温泉への分岐点から入るよりも、三城からですと桧沢線を通る方が遥かに近道だとはナビの地図からは察しられても、カーブの連続する細い道は結構な距離に感じられます。しかし、全線舗装されていて途中一台もすれ違わないのに、県道なのでしょうが、走りながら「何だかなぁ・・・?」。
地元の方々の生活道路や、林道なので、林業のための産業道路であれば納得ではありますが、税金を使って舗装する必要があるのでしょうか・・・。

 それはともかく、ナビ上で分岐からの道に合流するかと思った瞬間、急に建物が現れて、そこが「桧の湯」。週末で、しかも(地元の方も野良仕事が出来ない)雨降りのせいか、二つある駐車場の内、建物側は満車。反対側も含め十数台は駐車していて、こんな山の中なのに「恐れ入りました!」。小さな温泉なので、混んでいるかと心配です。
今や高級料理温泉旅館としても知られる「明神館」の代表される、松本の奥座敷というには(多分松本の奥座敷たる温泉は、歴代城主に愛された浅間か、或いは大和朝廷にも聞こえ時の天武天皇が行宮を置こうとした「束間之湯」の美ヶ原、はたまた「大菩薩峠」の白骨でしょうか)些か山奥過ぎるこの扉温泉。温泉旅館が2軒とこの公共温泉しかない、まさに山の中の秘湯と呼べる様な扉温泉の一番奥に位置するこの「桧の湯」は、山辺地区の森林組合が運営する天然温泉で、毎分300リトル自噴というアルカリ性単純泉。因みに、泉質の良さは“西の白骨、東の扉”とか。
一度は来てみたかったのですが市内からは些か遠く、この日帰り公共温泉「桧の湯」は地元の方々だけでなく、夏場に三城でキャンプする人たちの立ち寄り湯でもあるそうなので、美ヶ原登山で三城まで来た今回が絶好の機会でした。
この「桧の湯」は地元森林組合運営ということもあってか、入湯料が300円という破格の安さ。そのため、シャンプーや石鹸などの常備はありません。タオルなども含め、一回分の石鹸やシャンプーなども窓口の自販機等から購入することも出来る様ですが、知っていれば事前に準備して行った方が良いでしょう。設備が揃った他の日帰り温泉は通常600円くらいしますが、地元の方は勿論風呂道具持参で来られ、休憩も不要で入浴後はすぐ帰られるので、設備が無くてもこれで十分なのでしょう。しかも夕方で営業時間終了の様ですが、街灯も無い山道故、崖下への転落事故防止のために夜間は営業しない方がむしろ良いかもしれません。
 掛け流しの温泉は40℃くらいか少し温めのお湯で、神経痛やリウマチイなどの他、コップが置いてある通り胃腸病にも効くのだとか。アルカリ性単純泉で、試しに飲んでみましたが苦み等は無く、心持ち硫黄臭がする程度でした。
内湯と露天の外湯があり、露天の方がノンビリと長く入れ様にするためか、更に温め。露天風呂には、我が家の雑木林ガーデンのリフォームの際に縁石にも使われていますが、今では採掘が禁じられているという地元産の山辺石(松本城の石垣にも使われています)がふんだんに使われています。露天風呂は渓谷沿いで谷底を望むような緑に囲まれていて、如何にも秘湯感が漂っていて気持ちがイイ。地元の皆さんが温めのお湯にゆったりと浸かっておられました。
この日は10名ほどのお客さんで、殆ど地元の方々とお見受けしました。洗い場はL字型で8ヶ所(蛇口とシャワーから出るお湯も全て温泉とのこと)。湯舟を含め、我が家から一番近い豊科の公共日帰り温泉「湯多里山の神」よりも広めです。個人的には「湯多里山の神」の方が温度も高めでスベスベする泉質も好みなのですが、山に囲まれた様な秘湯感はこの「桧の湯」の方が遥かに上。緑が実に清々しくて、何とも癒される様で、この温泉の人気の程が分かる気がしました。

 少し温めのお湯ではありますが、入っているとジンワリと体も温まりポカポカとして、お風呂から上がっても汗が出てきます。
先に上がって入り口の椅子で涼みながら家内を待っていると(休憩室もありますが、別料金の300円。外に別の建物で蕎麦などが食べられる「かけす食堂」もあります)、キャンプか我々の様な美ヶ原登山からの帰りか、男女の若い方々も10人くらい来られました。家内も上がって来て、この温泉には満足した様子でした。
 入り口にサイン色紙と写真が飾ってあり、見ると「グレートトラバース3」と「田中陽希」のサイン。日付は僅か一ヶ月前の2019年5月20日。
因みに帰宅後調べてみると、百名山の「1」、二百名山の「2」を踏破し、現在陽希さんは「グレートトラバース3」として三百名山を踏破中。その「グレートトラバース3日記」に依れば、5月16日に159座目となる群馬・長野県境の荒船山から佐久を経て、18日に松本からは反対側の旧武石村からの焼山沢ルートから160座目の美ヶ原で山荘に一泊し、翌19日に美ヶ原から鉢伏山を経て20日に下山途中の朝一番でこの「桧の湯」に立ち寄ってから松本城にも登城し、たまたま市中で開催されていたクラフトフェアも覗いた由。
その後24日には162座目となる鉢盛山に登り、ナントその後で「ノースフェイス松本店」主催と言いますから本町の「信毎メディアガーデン」だと思いますが、5月26日には「交流会」が開かれ、多くの山好きが押し掛けたのだとか。それで松本滞在が長かったのですね。全く知りませんでした。
最近は有名になり過ぎて、陽希さんの先回りして待ち構えるファンも多くなったため、登山道の整備された百名山ならいざ知らず三百名山ともなると中には未踏のルートもあろうことから、事故防止のために陽希さんの予定ルートや現在地を公開していないのだそうですが、
 「あぁ、すぐ近くにいたんだなぁ・・・。そうか、百を含めた三百なのだから美ヶ原に寄っても当然なんだ・・・」
と、一ヶ月前のサインを見ながら暫し感慨に囚われていました。
因みに、陽希さんは5月末から八ヶ岳を縦走した後、6月上旬からは南アルプスに向かわれた由。

 トラバースとは直接関係の無い松本城やこの「桧の湯」までBSで放映されるか分かりませんが、少なくとも美ヶ原の様子が放送される日を楽しみにしたいと思います。それにしても、「桧の湯」に立ち寄ったおかげで、登山に関わる田中陽希さんの「グレートトラバース3」までもが身近に感じられて、事前に納得した悪天候の中での山行ではありましたが、最後もちょっぴり得した気分の今回の美ヶ原登山でした。
 「イェイ、ラッキー!♪」

 信州松本は梅雨の真っただ中の、6月22日土曜日。
翌週に「女性のための登山教室」参加を控えた奥様が、足慣らしをしたいとのことで、兼ねてよりこの時期に行くならと考えていた美ヶ原へ登ることにしました。
 我々の様な初心者は冬山や雪の残る春山は無理ですので、雪の消えた初夏が登山シーズンの解禁です。そしてその6月は、美ヶ原や鉢伏、高ボッチなど、松本から望む東山々系ではレンゲツツジの咲く時期でもあります。
日々更新されている王ヶ頭ホテルのブログ写真では、美ヶ原の頂上付近のレンゲツツジの群落は未だ二分咲き程度とのこと。今年は少し遅れているのかもしれませんが、レンゲツツジではなく翌週の奥様のための足慣らしが主目的で、週末のこの日は母がデイサービス日で昼間不在のため、母を送り出してから三城に向けて出発しました。
他の日を選べなかったので最初から覚悟の上ですが、この日の天気予報は曇りで、しかも午後からは雨。生憎の空模様ですが他の日を選べないので、展望の悪さと場合によっては午後の雨降りも覚悟の上で、私メにとっては(奥様は既に山梨や神奈川の山で行われた登山教室に参加済み)シーズン開幕となる美ヶ原登山です。
途中のコンビニで昼食を購入し、我が家から「三城いこいの森広場」の無料駐車場へは40分足らずで9時45分頃の到着。思い立ったらすぐ行ける、このフットワークの良さが松本からの美ヶ原登山の魅力です。
駐車場には3台ほどしか停車しておらず、週末とはいえ梅雨の最中でこの日の天気予報では登山客も少なかろうと納得。駐車場からは、王ヶ頭のテレビ塔はこの日は雲に隠れて望めません。
駐車場のトイレが壊れていたので、センターハウスのトイレを使わせていただき(勿論、こちらも有料です)、9時55分にいざ出発。今回も百曲がりコースです。

 オートキャンプ場のサイトを抜け、登山道を沢沿いに広小場へ。
暫くはなだらかな道が続くのですが、梅雨で湿度が高いせいか何だかいつもより汗が出ます。そのため下にタイツをはいていて暑かったので、広小場の東屋でスパッツの下半分を外して半ズボンにして、水分補給をしていよいよ百曲がりの急登へ。
この季節の美ヶ原登山は初めてですが、実に緑が濃い。梅雨時で先週も雨が降ったのか登山道は結構湿っていて、場所によっては水溜まりがあってぬかるんでもいます。
梅雨時で多分湿度も高いのでしょうか、予想以上に熱くて汗が出て、何度もタオルで汗を拭います。そのため思いの外バテテしまい、何度か立ち止まって水分補給をしながら樹林帯を抜けると、漸く風が通る様になって体感上も涼しく感じました。それにしても、美ヶ原では今回登るのを初めてキツく感じました。奥様によれば、それも日ごろの鍛錬不足で怠けているせいだからとのこと。
「イヤハヤ、面目無い・・・」と、些かトホホでありました。
そのため百曲がり園地へは、今回は三城の登山道入り口から1時間40分掛かりました。事前の予想通りで、この日は全く展望が利きません。周囲360度全て雲の中です。従って、アルプス展望コースを行っても何も見えないので、園地から塩くれ場を経由して、牧場内を通って王ヶ頭へ向かいました。
既に牛の放牧が開始されていて、塩くれ場にはハイカーの一団が休憩されていましたが、梅雨時のためか週末ですが観光客も疎ら。美ヶ原のシンボル「美しの塔」も霞んでいましたが、歩いている人はあまり見当たりませんでした。
美ヶ原の最高地点となる2034mの王ヶ頭。東側の谷間から雲が流れて来て、半分は雲に隠れていて全く展望が利きませんが、これも梅雨時ならではの景色なのかもしれません。初めて来られた観光客の方々にはこの日の天候は気の毒ですが、いつでも来られる我々の様な地元民にとっては、これはこれでこの時期ならではの風景として楽しむべきなのかもしれません。
しかし“この時期ならでは”である筈のレンゲツツジは、百曲がりの登山道脇に何本か咲いてはいましたが、登山道や塩くれ場からの高原の牧場内には全く見ることはありませんでしたし、小梨(ズミ)の白い花ももう散っていました。
車でビーナスラインを来ると見られるのかどうか分かりませんが、このエリアのレンゲツツジの群落は王ヶ頭より先の自然保護センター周辺とのこと。しかしホテルのブログ情報に拠ると、山頂はまだ二分咲き程度で見頃を迎えてはいないそうです。従って美ヶ原高原のこの展望コースエリアの花の見頃は、高山植物の咲く盛夏からマツムシソウなどが咲く秋口になるのでしょうか。
 王ヶ頭ホテル前の広場に12時半過ぎに到着。少ないとはいえ、観光客の皆さんはホテル内の食堂で、また登山の若いグループの方々は広場のテーブル席でお湯をバーナーで沸かしてカップヌードル等でそれぞれランチ中。
我々も広場に座って、コンビニで買ってきたサンドイッチやオニギリで昼食です。それにしても、前回は二本(1.3リッター弱)持って来て殆ど手付かずだった水が、今回は予想以上の発汗で750㏄入りの水筒はもう殆ど空。そこで、念のためにホテルの自販機でミネラルウォーターを購入して、帰路用に水筒へ補充しました。
昼食を取っている間に雨がパラパラ落ちて来ましたし、この日の天候では王ヶ鼻へ行っても北アルプスの眺望は全く望めないため、午後一からの雨予報だったこともあり、ここ王ヶ頭から早めに引き返すことにして、せっかくですので、帰りはアルプス展望コースで百曲がり園地までのトレッキングを楽しむことにしました。
 尾崎喜八『高原詩抄』に収められた「松本の春の朝」第6編(昭和17年)に、
  『(前略)夜明けに一雨あったらしく、
       空気は気持ちよく湿っている。
       山にかこまれた静かな町と清らかな田園、  
       岩燕が囀(さえず)り、れんげそうの咲く朝を、
       そこらじゅうから春まだ寒い雪の尖峰が顔を出す。
       日本のグリンデンヴァルト、信州松本。(後略)』
果たして、松本の市街地に尾崎喜八の言うイワツバメが舞っているかは定かではありませんが、この王ヶ頭ホテルに巣作りをして群舞する様に飛び交っているのは正しくそのイワツバメでしょう。
生憎この日はコース名の様なアルプスの峰々の展望は全く利きませんでしたが、さすがに美ヶ原でのトレッキングを楽しむ方々は皆さんこのコースを歩かれていて、途中何組もすれ違いました。
烏帽子岩を過ぎてもう少しで園地という所で、先方から歩いてくる30人ほどのグループが見えたので、少し広い場所ですれ違うために我々が待っていました。
登山らしく、スイマセン、コンニチワと思い思いに挨拶を交わしながらすれ違います。我々同様に三城から登って来られたという、若い女性が多いグループでした。すると家内が突然「アッ!」と言って、グループの中に居た女性の方と挨拶を交わしています。そのため、私はてっきり「女性のための登山教室」でこれまでにご一緒された方なのかと思ったのですが、続いて家内が「この前、鈴木さんの講演も山岳フォーラムでお聞きしました!」というので良く見ると、ナント、山好きが高じて東京からご家族で移住されて今松本市の観光大使にも任命されている松本在住の漫画家、鈴木ともこさんではありませんか!
その一行は、鈴木さんの山好きのお仲間か、彼女を中心とするトレッキンググループでした(後で調べると、トレッキング雑誌主催のイベント中での「鈴木ともこさんと行く美ヶ原トレッキング」だった由)。
続いて百曲がり園地では、我々よりも遥かに年配の方々の男女のパーティーが、やはり百曲がりコースを登って来られました。「今日はどうでした?」という質問に、コースの様子をお話ししました。お話によれば、先頭におられた(失礼ながら80才位のお歳とお見受けしました)年輩の女性の方が、この美ヶ原でナント百座目なのだとか。「日本百名山全山登頂達成!」となる最後100座目が、この美ヶ原なのだそうです。そこで思わず、
 「おめでとうございます!」。
お話によれば、(車で来る?)他の方々と山本小屋(美ヶ原高原ホテル)で合流してから(?)頂上となる王ヶ頭へ記念登頂されるのだとか。そこで、きっと百座達成記念のバナー(横断幕)を掲げて、記念写真を撮影されるのでしょう。
それにしても、体力のあるお若い頃に槍や穂高などは登頂されたのでしょうが、80歳近くになって百座登頂達成されるとは凄い!の一言。(山好きの方々の中では、決して珍しいことではないのかもしれませんが、我々初心者にとっては夢の様な)偉業達成の機会に遭遇させていただいたことに感激し感謝でありました。
 ご挨拶をして、我々は帰りも百曲がりコースを下ります。
暫くすると男性の方が登って来られ、道を譲るべく待っていると、ポツポツと遂に雨が振り出しました。
 「午後は雨予報だったので、我々は王ヶ鼻も行かずにこれから下るところです。」
と言うと、その男性も、
 「ヨシ、私も引き返します!今日はもう行かない方が良さそうだ・・・。」
と、もう少しで百曲がり園地だというのに、さっと踵を返して一緒に下り始めました。こういう判断(≒引き返す勇気)が山登りではきっと重要なのでしょう。
その方の下山しながらのお話によると、この日は燕岳に登るつもりで早朝中房温泉に行くと、既に夏山シーズンか第一駐車場は満車だったそうですが、ラジオが雷の電波を拾ったようなバリバリという雑音がしたために西山への登山は諦めて、逆側である東山の美ヶ原に来たのだとか。
美ヶ原登山はどれ位標高差があるのかという質問にお答えすると、片道2時間弱で三城の登山口から王ヶ頭まで500m程の美ヶ原に対して、“北アルプスの女王”2763mの燕岳は、中房温泉の登山口から燕山荘(2712m)まで片道5時間で標高差1260mとのこと(高さも登山時間も2.5倍です)。
この日は足慣らしのトレーニングと言われるこの男性。お聞きすると、地元在住のお医者様で、登山が趣味のため、地元だけでなく松本エリアの東筑の中学校から依頼されて、学校登山に学校医として毎年何校も同行されるのだとか。この日も、近く燕岳への学校登山に同行するための予行演習として日帰りで燕岳へ登る予定だったのを、登山口で雷雨を予想して断念し、反対側の美ヶ原へ(休診日である週末での)トレーニングへ来られたのだとか。
「北アルプス3大急登」とも言われるキツイ燕岳への学校登山が最近は減って(最近の若い先生は登山未経験でもあり)、代わりに、例えば山頂近くまでバスで行ける乗鞍岳やロープウェイで行ける木曽駒などへ登る学校もあるが、どちらも3000m級の山であり、いきなり2500m地点から開始する登山は逆に高山病への注意が必要とのお話に、ナルホド!と、登山が趣味の先生らしい、色々医学的な興味深いお話をお聞きしながら一緒に山を下りました。
そこで、この日の天候でバテタことや、昨年唐松でへばったことをお話しすると、こまめな水分補給が不可欠とのことで、この日も先生は習慣で水2リットルを持参されているとか・・・。
 「ちょっと重いんですけど・・・ネ」
ナルホドと、この日美ヶ原なら・・・と750㏄しか持参しなかった私メは大いに反省することしきりでした。
雨が本降りになったため、カッパを着るべく、我々は先生とは別れリュックから雨具を取り出しました。この日の雨は、山沿いのためか(松本地方の)予報以上の本降りでしたが、三城の駐車場に着く頃になって漸く小振りになりました。
 残念ながら天候が悪く、展望は全く利かぬ様な悪条件での美ヶ原登山でしたが、地元在住とはいえ、漫画家の鈴木ともこさん、百名山達成記念の方、そして学校登山に毎年同行される学校医の先生・・・。今回多くの山好きの方々にお会いして、パワーや山好きの方々の気持ちの一端に触れさせていただいて、風景への感動とはまた一味違った清々しい山の良さが感じられた、そんな素敵な山旅でした。

 先日、市内中山にある松本市立考古館へ企画展である「~我が地区の逸品~岡田地区の遺跡」展を見に行ってきました。
市立考古館を見学するのは二度目。市内からは随分離れているのですが、中山地区は古代大和朝廷に献上する馬の牧場である埴原の牧が置かれ、また古墳群も在り、その意味でこの地域に相応しい施設でもあります。中山に限らず、松本市内には東日本最古級の前方後方墳である弘法山古墳や内田地区の縄文晩期の大遺跡であるエリ穴遺跡など、古代からの遺跡も多く発見されており、市立考古館ではそうした市内の遺跡からの発掘品を常設展示しています。

          (エリ穴遺跡の予想復元ジオラマ)
今回、期間限定の企画展示の特別展として、市内特定地域の遺跡からの発掘品だけを展示するという「地区展」で、今年度は私の生まれ育った松本市岡田地区が取り上げられました。
旧市内北部の高台に位置する岡田地区は、この松本盆地でも古代より人が住み着いたエリアであり、旧石器時代、縄文時代の遺跡が幾つも発見されています。ただこの地区は水利が悪く、後になって江戸時代には幾つも溜池が作られたのですが、そのため稲作を行った弥生時代の遺跡は岡田には存在しません。しかし、中世になると古代の幹線道路であった東山道が信濃(科野)国を通ります。まず難所の神坂峠を越えて伊那谷を抜け、善知鳥峠から松本盆地に入り、岡田から、切り株だらけの峠を歩いて防人として東国警備に向かう夫を心配して、
「信濃路は 今の墾道刈株(はりみちかりばね)に 足踏ましむな 履(くつ)はけ我が夫(せ) 」(万葉集東歌)
と詠んだという保福寺峠を越えて、「見返りの塔」国宝三重塔の大宝寺(青木村)の脇を通って小県から碓氷峠に抜けて行きます。中世の岡田地区は交通の要衝でもありました。
また「延喜式」に記載された式内社である、この地方きっての古社岡田神社が置かれ、近くには
源氏の岡田冠者親義(おかだかんじゃちかよし:源親義)が郷の領主として館を構えていました。彼は、朝廷からの平家討伐の令旨を受け、木曽義仲からの呼びかけに応えて大将格で義仲の軍勢に加わって数々の武功を立て、最後に倶利伽羅峠の戦いで討ち死にをしました。
また奈良・平安時代、良質な年度が採取出来た現在の田溝池周辺には須恵器を焼く大規模な窯(北部古窯址群)が幾つも置かれ、信濃国最大級の須恵器の生産地だったともされています。
そうした古い歴史を持つ岡田地区ですので、確認調査されているだけで20ヶ所もの遺跡が点在しており、今回はそうした遺跡から発掘された興味深い出土品が時代区分毎に、常設展示室隣の第2展示室に展示されていました。
私メが小学生の頃、我が家の畑からも(狐塚遺跡:最後の2枚の写真の)石器や土器片が拾えたため(第102話参照)古代史に興味を持ち、同じ下岡田の友人達と一緒に彼の家の畑(塩倉池遺跡)で一緒に土器片を探したりと、自分の住む岡田地区の古代にロマンを馳せたこともありました。因みに、塩倉池遺跡の近く、現在母もデイサービスでお世話になっている特養施設「岡田の里」の南側では「塚山古墳群」として中期の古墳が確認発掘されていますが、その場所は弘法山を挟んで相対する様に松本盆地を見下ろす高台にあり(たまたま本ブログ巻頭の遠景写真がその場所からの撮影です)、前期の弘法山古墳程の規模ではありませんし時期も異なりますが、この地を治めた有力者の眠るに相応しい場所でもあります。
 今回展示されている出土品と時代ごとの遺跡の解説を読みながら、生まれた地であり、また中学までお世話になった故郷岡田地区の古代に、そして自分の少年時代にも思いを馳せることが出来ました。

 前話の旧開智学校から用事のある大名町へ行くために、新旧対比となる開智小学校の横を通ってもう一つの国宝である松本城公園に向かいました。松本城には既にたくさんの観光客の皆さんが来られています。

 お堀端や場内などに320本の桜があって、春の桜の名所でもある松本城。また秋になるとケヤキや桜の紅葉もまた見事なのですが、その間の夏の時期はせいぜい城内の本丸庭園(拝観料が必要です)の白い花の小笠原牡丹(注)など、紅白の牡丹くらいだろうと思っていました。
すると、この日の公園にはハスの花や見事な藤が咲いていて、駐車場脇の花壇には珍しいナンジャモンジャ(ヒトツバタゴ)が真っ白な花を付けていました。
 ハスの花はアジアからの観光客の方々は珍しくないのか、だれも気に留める風もありませんが、藤の花は人気で藤棚の下では皆さん眺めたり写真を撮ったりしていました。藤は昔から愛でられ、万葉集にも詠まれたという日本原産の固有種。しかも藤紫というように、古来よりムラサキは高貴な色でもあります。
松本城公園の藤はそれほど広い藤棚ではありませんが、1m近くにも伸びた房は見事でした。
 また定年前の上田の事業所への通勤時、平井寺トンネルを抜け下った道端に咲いていたナンジャモンジャの木。その時の記事(第972話)によれば、
『モクセイ科ヒトツバタゴ(一葉たご)という落葉高木。「たご」というのはトネリコの一種で、トネリコが複葉なのに対し、単葉なことから名付けられたそうです。中国福建省原産で、朝鮮半島の一部、国内では対馬や木曽川流域(特に東濃地方)のみに自生(対馬の群生は天然記念物指定)している絶滅危惧種(Ⅱ類)で、岐阜県の土岐市では「市の花」に制定し、街路樹として植えられている「なんじゃもんじゃ街道」があるとか。植栽としても、神宮外苑や深大寺などに植えられた木の写真がありましたが、全国的にも珍しい木のようです。』
その珍しいナンジャモンジャが松本城公園横の駐車場脇の花壇にも植えられていて、ちょうど今、雪のような白い花を咲かせていました。
【注記】小笠原牡丹(松本城由緒書き等より)
天文19年(1550年)7月、甲斐の武田信玄に攻められた小笠原長時は、林城館にあった純白の牡丹が敵兵に踏み荒らされることを憂い、これを里山辺の兎川寺(とせんじ)に託して落ち延びて行ったと伝わる。
その後同寺の檀家であった久根下(くねした)家が、この牡丹を「殿様の白牡丹」として400年もの間秘して大事に守り、昭和32年に小笠原氏子孫の忠統氏へ贈られて初めて公になり、忠統氏から戦国時代に林城の支城だった松本城内本丸庭園の月見櫓前に移植され、 更に平成18年にも久根下家から寄贈されて、現在7株が毎年5月に白く美しい花を咲かせている。
因みに、その後譜代大名として復興を遂げた小笠原氏が、松本から明石を経て、最後の移封先となった北九州小倉城にも小笠原牡丹が株分けされているとのこと。

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