カネヤマ果樹園 雑記帳<三代目のブログ>

 12月7日まで松本市美術館で開かれていた企画展「戦後80年 石井柏亭 “えがくよろこび”-信州から美術の未来をみつめた画家」。
個人的には子供の頃、多分地元の八十二銀行のカレンダーに使われていた石井柏亭の「松本城」の絵が印象的で今でも忘れられず、画伯の企画展が開かれると知り前売り券を購入してありました。

 石井柏亭は祖父と父が画家で弟が彫刻家という東京の芸術一家に生まれ、自身は二科会や一水会の創設に関わるなど中央画壇の重鎮として活躍していましたが、東京大空襲で自宅とアトリエが全焼したのを機に、戦時中に松本市の浅間温泉(当時は本郷村)に疎開してアトリエを構え、終戦後もそのまま留まって信州美術会の設立にも尽力し、現在も続く「県展」を創設するなど、戦後の信州美術界の再興と発展にも大きな足跡を残した画家です。
今回は、そんな石井柏亭画伯の信州に縁の作品を中心に、松本市美術館が収蔵する作品のみならず、長野県立美術館をはじめとする県内の美術館から東京国立近代美術館など県外の美術館や個人蔵に至るまで、幼年期の作品をも含め画伯の初期から晩年までの作品100点余りを展示した、松本市美術館が企画する初の石井柏亭だけの絵画展で、謂わば石井柏亭の大回顧展ともいえる絵画展でした(そして、今回の企画展でありがたかったのは、その展示作品の殆どが地方の美術館では珍しく、フラッシュ無しでの写真撮影がOKだったこと。松本市美術館側の配慮に大いに感謝したいと思います。あとは、都会に比べて遅れているクラシック演奏会でのアンコール時の写真撮影だけでしょうか・・・)。

 会場に入って最初に目にするのが、私自身が一番記憶に残る“あの”「松本城」でした。松本市美術館蔵の謂わば松本にとっての“お宝”でもありましょう。松本城の“昭和の大修理”が1950年(昭和25年)に始まり、困難を乗り越えて5年後に竣工。本作はその竣工直前の夏頃の作品と云われます。そして画伯の好意に依りこの絵の絵葉書が制作されて、解体修理に携わった工事関係者や協力者に贈られたのだとか。
 この後の展示は画伯の生涯を年代に沿って四つの章に分けて展示されていて、前半の第1章「困難を乗り越えて」では幼少期から20代まで。そして第2章「東奔西走の日々」では、画伯の30代から60代の頃に制作した作品が展開されていました。
後半の第3章は「信州と柏亭」と題され、疎開後から晩年の活動を取り上げた内容。東京大空襲の戦禍を逃れて松本市の浅間温泉へ疎開し、アトリエを設けて制作を続け、亡くなるまでの約13年間で1000点を超える作品を残しました。
最後の第4章「松本をえがく」では、終戦の1年後、松本に腰を据えることを決意して、美術が都市部に偏っている状況を打破するために、画伯自身が取り組んだ様子が紹介されていて、個人的には作品もですが、むしろそれ以上にその記された文章や短歌に詠まれた画伯の想いに大いに惹かれました。
 先ず若い頃からの作品に始まる展示で目に付いたのは、「騎馬随身図」(1890年 個人蔵)という日本画で、この作品は僅か8歳の時の作品。いくら祖父や父が日本画家だったとはいえ、その天賦の才能に驚かされます。
水彩画「とり入れのあと」(1901年 松本市美術館蔵)は若くしてその父を亡くし、一家の大黒柱として働きながら画作に励んでいた19歳頃の水彩画で、松本市美術館に残る柏亭作品の中でも一番古い作品だそうです。
続いて水彩画の「」舟に居る人」(1912年 千葉県立美術館蔵)と、構図、題名ともにマネの「草上の昼食」に着想を得たものとされる、柏亭22歳の初期の代表作の一つ油彩画「草上の小憩」(1904年 東京国立近代美術館蔵)。

また木版画も手掛けていた頃の柏亭の作品「木場」(1914年 長野県立美術館蔵)と、その後支援を得て何度か渡欧外遊した中の28歳の時の作品「サン・ミッシェル橋」(1923年 東京国立近代美術館蔵)。

そして本展における最大級サイズという作品「画室」(1930年 京都国立近代美術館)。この作品は第17回二科展への出品作で、この作品の中には“画中画”として画伯が第15回二科展に出品した「果樹園の午後」(1928年 福島県立美術館蔵)が描かれていて、この「画室」は80年以上もの間個人蔵となっていた作品でその後京都国立近代美術館の所蔵となり、今回が所蔵後の初めての貸し出しで、中に描かれている「果樹園の午後」と共に二つの作品が並べられて見られる貴重な機会になったのだそうです。
 後半は疎開後に迎えた終戦後もそのまま松本に留まり、腰を据え描いた信州縁の作品が並びます。
その中で印象的だった作品が「山河在」(1945年 松本市美術館蔵)。これは、形勢が不利になった戦時中に政府の国民の士気高揚に使われたスローガン「国破れて山河なし」に反発して描いたという作品で、そこから犀川となる奈良井川と梓川の松本市島内の合流地点から見た信州の山河を描き、戦後最初の「日展」へ出展された作品です。
杜甫「春望」の一節「国破れて山河在り 城春にして草木深し」をモチーフに、敗戦後描いた作品と共に、
 「やぶれたる 国ではあれど 山河のすがたうつくし 心なぐさむ」
と画伯が詠まれた短歌も一緒に添えられていました。
「画室小集」(1949年 長野県立美術館蔵)は、画家達が集うサロン的な情景を描いた作品ですが、画面にはサントリー角瓶と分かるボトルが描かれています。また背後には風景画がこれも“画中画”として描かれています。その作品は浅間温泉のアトリエ付近から松本平を見た「麦秋」(1949年 長野県立美術館蔵)。
その「画室小集」に似た作品が「中信酒客」(1953年 松本市美術館蔵)。
こちらは、中信美術展の会場にいた地元の作家たちが、絵画展に偶然訪れた柏亭にビールをご馳走になろうと画策して市内のレストラン「鯛萬」に連れ出し、柏亭は5日間「鯛萬」に通って彼らをモデルにこの作品「中信酒客」を描いたのだとか。そして、その間のビール代は画伯が快く支払ったのだそうです。隣はやはりアトリエ付近から見た風景の「浅間眺望」(1945年 浅間温泉菊之湯旅館蔵)。
最後の「松本をえがく」の章では、松本の情景などを描いた作品を主体に展示されていました。
松本に腰を据えてから何度も描いた別の「松本城」(1945年 松本市美術館蔵)と「槍ヶ岳」(1946年 個人蔵)。そして依頼されて描いたという珍しい屏風絵「菜園果樹」(1946・49年 松本市美術館蔵)や女鳥羽川(1947年 松本市美術館蔵)など。
展示フロアには絵画作品だけでなく、「終戦一年後の信州」と題して、新聞社に送られたという画伯の決意を示した文章が展示されていて、曰く
「(前略)
幸いに空襲被害の殆どなかった此県は日本有数の地方文化中心にならうとして居る。
 東京へは要件のある時だけ行くことにして、私は此地に腰を据える覚悟をして居る。美術の大都市偏在の弊を聊(いささ)か破ることが出来るならば幸であると思って居る。
 日本アルプスの関門にあたる松本市の如きは観光都市としての施設の改善も考へなければなるまい。先づ第一に終戦中の誤った指導に基づく家屋の迷彩を剥いで、以前の誇りであった白壁の美しさを取戻さなければならず、市の文化懇談会でさう云う意見を述べもしたが、其実現の一日も早からむことを希望して居る。」
  (「女鳥羽川」1947年、松本市美術館蔵と同じ場所から見た現在の写真)
 敗戦後間もない80年も前に、現在の地方文化の創生にも繋がる画伯の先見性であり、こうした強い志を持つ石井柏亭の元には必然的に信州に疎開していた他の芸術家や地元の画家たちが自然と集まり、やがて信州の美術界の中心となっていったのです。
それはきっと石井柏亭が中央画壇の重鎮だったという実績と名声によってではなく、中央から離れたこの信州の僻地から気概を以って中央画壇に立ち向かおうとする画伯自身の強い志が、齢60を超えて尚その煮えたぎる様な熱い想いで、やがて皆を巻き込むマグマの核(コア)となっていったのでありましょう。
そんな石井柏亭画伯の熱き想いが80年の時を越えて感じられた、非常に印象深い絵画展でした。

 孫たちが横浜に帰る最終日。
蕎麦好きの婿殿のために、山形村のそば処「木鶏」で新蕎麦を食べてから松本発の午後のあずさに乗るようにと、事前に予約をして伺いました。
勿論儀弟のそば処「丸周」にも何度も行ったことはあるのですが、営業中に子供たちが騒ぐと、やはり周囲のお客様には気兼ねをして申し訳なく、親戚だと尚更余計に気を使ってしまいます。

その点、「木鶏」は一部屋ですが、蕎麦屋さんには珍しくわざわざ個室が設けられていて、「自分たちも昔外食した時に苦労したので、小さい子供さん連れでも安心して食べて頂ける様に」と、その個室には福島県出身の店主ご夫妻のお子さんたちが小さい頃使った木のおもちゃと絵本も置かれているので、この個室が予約出来た時は安心して蕎麦が食べられます(但し、予約は開店直後の確か三組のみで、以降の予約は無し)。今回もスケジュール(と婿殿の新そばが食べたいという希望)が分かった時点で、早めに個室を予約してありました。
 注文は、しゃもつけを婿殿と家内が(彼女曰く、軍鶏よりも高価な鴨を使う「丸周」の鴨つけの方がやはり味は美味しいとのこと)。娘は珍しく和風キーマカレーそば、私がもりで、量の違いで姫盛り、大盛り、鬼盛りとあるのですが、私と婿殿は大盛りにしました。
この日の玄蕎麦は地元産の新そばので、ソバの種類に依り田舎蕎麦は打てないとのことでした。
コシもあって喉超しも良く美味しかったのですが、最近の蕎麦は秋の新そばであっても、何処で食べても何故かあまり香りが感じられない気がします。また。木鶏の蕎麦の量は大盛りだと240だったか250gで少々足りない気がして、鬼盛りが300gとのことだったのでそちらの方が満足出来るかもしれません(次回は鬼盛りにしたいと思います)。
 店内のテーブル席では小さい子が泣いたりしていましたが、きっと親御さんは気が気ではないでしょう。松本の蕎麦屋の中には「小さい子はお断り」という店もありますが(もしそんな“格式の高い”店だったら、いっそのことドレスコードまで設定すればイイ)、それを見て小さい子を持つ親御さんたちが一体どんな気持ちでいるか、店側は考えたことがあるのでしょうか(やがて子供が成長した後でも、その店に行こうとは決して思いますまい!事実、例えどんな有名店であっても、孫がいない時でもジジババは食べに行こうとは思いません)。
 昔は“子供は地域の宝”として当たり前の様に、集落全体で、近所の大人たちで、そして皆で子育てをしたもの。その子供たちがやがて自分たちが年寄りになった時には大人になって、その年寄りのいる社会を支えてくれる様になるのです。ですので、遊ぶ子供たちに「ウルサイ!」と怒鳴って排除するのではなく(ましてや子供の遊び場を奪うのでもなく)、せめてこの国の未来を担う子供たちには優しい大人(年寄り)でありたいと思います。でないと、“姨捨山”ではありませんが、大人になった子供たちから「汚い!」と排除される年寄りになりかねませんから・・・。

 二泊三日で松本に来てくれた次女一家。せっかくなので、一日は婿殿が好きな蕎麦を食べに行くことに。逆に云えば、和洋中のどれを取っても横浜の名店に適う筈も無く、唯一太刀打ち出来るのはやはり信州蕎麦と信州らしい郷土料理でしょうか。
ただ困るのは、殆どの蕎麦屋さんが昼のみの営業で、しかもその日に朝打ったそばが終われば、例え営業時間内でもそこで営業終了という店が多く、夜も営業する店はそう多くありません。メニューがもりとかけのいずれかの二択のみ・・・というような、或る意味潔い蕎麦専門店ともなれば尚更です。
そこで夕食に蕎麦も食べようとすると、蕎麦だけでは物足りませんし、蕎麦専門店はどのみち夜は殆ど営業していないので、結果選ぶのは我が家では中町の郷土料理の店「草菴」になります。
こちらは、〆に食べる蕎麦以外に、馬刺しや川魚、また季節によって山菜やキノコなどの信州らしい郷土料理もメニューにあるので、以前から我が家では県外のお客さんをもてなすのに重宝しているお店です。

 そこで今回も小さな孫たちが騒いでも良い様にと、事前にいつもお願いしている畳の個室での料理を予約して、松本市中町の“季節の郷土料理の蔵”「草菴」に伺いました。
今回も季節の懐石コース料理を、事前に「7,150円コース(税込) / 9品」を次のコース内容で予約してあり、
  ・先付 / 2品
  ・前菜 / 季節の前菜盛合せ
  ・お椀
  ・お造り / 旬魚のお造り
  ・焼物肉
  ・焼物魚
  ・蕎麦
  ・デザート
この内、値段は当然アップするのですが、婿殿と娘の好物でもあるので、信州らしくお造りを馬刺しに、また〆の蕎麦をお椀からざる蕎麦に今回も変更して貰ってありますので、コースとしては概ね8000円位になったでしょうか。
二年前でしたか、後継者問題で経営が困難になる前にと、今後も従業員の雇用を守るべく地元銀行の仲介で「草菴」が王滝グループの傘下に入ったことで、昔の如何にも信州らしかった“素朴さ”が多少失われて、料理がより洗練されて“一般受け“する様にオシャレな内容になったのは、経営的にはプラスなのかもしれませんが個人的にはチョッピリ残念な気がしていました。
そんな草菴の今回の懐石コース料理です(説明頂いた内容を忘れてしまい、ウラ覚えで恐縮です)。
   
          (先附二品。梅肉和えとワカサギの天婦羅)
  ( 季節の前菜盛合せ。いちょう切りのレモンの下がキノコのおろし和え)
        (お椀とお造りの馬刺し。一枚食べた後の写真です)
  (焼き物の肉と魚。肉は信州牛、魚はカマスとマコモ、焼いた蕎麦団子)
          (〆のざる蕎麦とデザートのシャーベット)
 最後、支払いの時に店長さんと少しお話をしました。経営が替わっても、春の山菜と秋のキノコ採りは、以前と変わらずに店長さん含めスタッフが今年もちゃんと山に行って採って来ているとのこで、安心しました。
ただこの秋のキノコは、シーズン最初の頃は一時マツタケも含め今年は豊作との報道もされたのですが、その後松本平では雨が殆ど降らなかったため、今回前菜の盛り合わせの中には量はチョピリでしたが、しっかりとおろし和えで出されていたそのリコボウ(ハナイグチの松本地方での呼び名。諏訪ではジコボウとも)を始め、クリタケ、アミタケといった定番の雑キノコも殆ど山では見られなかったのだそうです。
それでも、経営が変わった後もちゃんと山に行かれていることを知って、個人的には安心した次第。
  「以前と変わってませんから、大丈夫です。またお待ちしています!」
  「ごちそうさまでした。ハイ、また来まーす!」

 先日、高校卒業50周年の記念式典とパーティーがあり、友人と待ち合わせて参加して来ました。我々が卒業したのは昭和50年、1975年になります。

 その前に希望者の校内ツアーがあり、我々が高校生だった頃の建物は、現在国の有形登録文化財に指定されている、安田講堂を模した第一棟と講堂しか今は残っていないのですが、長女の高校時代の文化祭と、その当時の教頭先生に頼まれて高校の評議員を務めた時以来で、久し振りに校内に入ってみることにしました。
屋上に立派な天文台を備えた第二棟の校舎など25年前に新築された建物群には立派な体育館もあり、当時バレー部の練習で低い天井の梁に当たらぬ様にトスをしていた東・西体育館や汚い部室(今がキレイかは不明)、そして高校生活最後の文化祭に向けて音楽部で毎日合唱の練習をした音楽室の姿は、今では記憶の中にしか残っていませんでした。
因みに、昭和初期の旧制中学時代にこの深志ヶ丘に移転するまでは松本城の二の丸に校舎と本丸には校庭があり、当時の生徒たちは休み時間にふざけて天守閣の屋根で逆立ちをしたりお堀で泳いだりしたとも伝わります。市川量造を始めとする市民の努力により維新後の廃城を免れたものの、当時荒廃していた松本城の修理を訴えて修理保存会を立ち上げ、その実行に導いたのは初代校長であった小林有也先生でした。そして高校の正面玄関の横に立つ先生の胸像が、「世の悪風に染むことなかれ」と、来年で創立150年を迎える今も生徒たちをしっかりと見守ってくれています。
そのツアーの中で、懐かしい講堂と一年生の時には晩年のクロが居て頭を撫でた一棟の中を歩き、それこそ高校時代以来だった一棟の屋上にも上ってみました。
ここは、入学して間もなく、放課後新入生全員が屋上に集められて、応援団に依る応援練習が行われた、高校入学して初めての“行事”のそれこそ鮮烈な思い出の場所なのです。
卒業30周年の時はまだ会社勤めだったので、何か都合がつかずに参加出来ませんでした。ですので、今回会う同期の友人の多くは、それこそ半世紀ぶりに顔を合わせた友人で、風貌こそお互いに変わってはいても、他人事でなく自分も昨日何を食べたかの献立は思い出せなくても、お互い名前を確認し合うと一瞬にして時空を超えて、「お前、そういえばあの時にさぁ・・・」と50年前のことは不思議と覚えているのです。

 そして、この校舎の屋上に立って松本の市街地を眺めて思い出すのは、飲兵衛のバイブル「居酒屋百名山」などで私淑する高校の大先輩でもある太田和彦氏が、「ニッポン居酒屋放浪記 立志編」の中の「松本の塩イカに望郷つのり」の文中で曰く・・・、
『母校深志高校へ行ってみることにした。
下駄ばきで高台の坂を登り通学した三年間は忘れ難い青春だ。バンカラで自由な校風は、山奥の中学の洟タレ小僧だった自分を大きく成長させた。(中略)
屋上へ上った。眼下には松本平が一望できる。今日はよく晴れて乗鞍岳や遠く南アルプスも見える。あの先が東京だ。いつかはこの町を出るんだと、自分の将来を考えながらここに立っていた日々を思い出した。(後略)』
『青春時代を過ごした信州松本は、充実した三年間だったが、上京してからは信州的なものがすっかり嫌になった。井の中の蛙が大海に出たのだろう。そして三十年、今松本の酒場を訪ねてきた。冷やかしてやれという気分で歩きまわるうち、いつしかそれは消えていった。
私の好きな古い町並みや建物は松本によく残っていた。知らない地方都市に
へ行かなくても足元に在ったのだ。三十年の歳月が故郷を見る目を温かくさせているのかもしれない。誰でも若い時は自分の故郷は恥ずかしいものだ。脱皮してみてそれが判る。故郷に反撥してその気風を疎んだのは、昔の自分がそこに在ったからだ。松本はいい町だと今は自信をもって言える。(後略)』
と、正しく太田和彦氏が書いたのと半世紀前は私自身も同じ心境だったのです。

 しかし、私が太田和彦氏とその後の置かれた立場が少々違うのは、それは私自身が本ブログの2009年の第40話「ふるさとは・・・」の中で書いたのですが・・・、
『 犀星が、青年期に「美しき川は流れたり。そのほとりに我は住みぬ」と誇らしげに謳いながら、後年「ふるさとは遠きにありて思うもの・・・(中略)帰るところにあるまじや」と(反語的であれ)自分自身に対し、突き放さざるを得なかった「ふるさと」。
 誰しも、高校生の頃は、山に囲まれた「何も無い(と思えた)ふるさと」から、山の向こうにあるであろう可能性という「無限に拡がる世界(都会)」へ憧れて、希望を胸に故郷を後にして都会へ出て行く・・・のではないでしょうか。
私も、自身の決断(幼い頃から、今は亡き祖母から事ある度に「お前は帰って来るだでな!」と「帰るべき」を深層心理にまで埋め込まれた結果)とはいえ、“都会”から故郷である“田舎”の松本に帰ってきて暫くは、何か仕事などで面白くないことがあったり、一方で都会の華やかさの中で活き活きとしている友人を見るにつけ、とかく他責で自身の不満を「家」を含めた故郷「松本」のせいにしていたような気がします。
 そんな折(四半世紀以上も前)、ふとしたことで手にとったエッセイ(筆者は失念。そんな有名な方ではなく、その本も全国の特徴ある地方都市を紹介する紀行文だったような)の中で「信州松本」が取り上げられていて、「(松本城に代表される)歴史や文化があり、北アルプスの峰々に抱かれたこんな街で、○○銀行や△△社に就職し、休日に「まるも」で珈琲を飲みながら(山を仰ぎ見て)暮らせる松本の人たちは幸せだ。」という趣旨だったように記憶しています(おそらく市内を散策した後、「まるも」で珈琲を飲みながらその原稿を書いているのではと思われるような文章でした)。
そして、今もその時の心象風景が鮮やかに甦ってくるのは、本当に冗談のようですが、まさに自分自身がその△△社に勤務(もし長野県にUターンするとしたら、県か市の公務員か、民間だと当時はその2社くらいしか実際に新卒採用はありませんでした)し、クラシック音楽の流れる、まさしくその「まるも」で休日に一人コーヒーを飲みながら、その本を偶然手にしていたのです。
ですので、「そうか・・・、そうなんだよなぁ!」と甚く自身に合点が行き、(それまでは故郷「松本」のせいにして逃げていた)その時の自分の心にその“納得”が深く静かに染み込んでいったのを、まるで昨日のことのように覚えています。
 娘達は、上は昨年東京で就職しましたし、下も東京の大学に進学し、卒業後はおそらく彼女も戻っては来ないでしょう。
私とは違って、子供の頃から海外でも暮らした彼等ですので、この狭い松本に縛られる必要もないと思います。
しかし、若い頃は「何も無い」と感ずる故郷ですが、それは都会に「今あるもの」の方が遥かに魅力的だから。でも、故郷に昔から「あった」ものがいつか見えてきた時に、帰るところがあることの幸せを、やがて(彼女等も)感ずる時がきっと来ると思います。後年(定年後でいいので)帰る故郷があり、それが(彼女等にとっては)この松本だった幸せを噛み締める日が。そして、その時は間違いなくもう居ないであろう親たちの暮らした痕跡を、この街でデジャヴュのようになぞる時が・・・。
そしてその時まで、彼女等にとってのふるさとは「遠きにありて思うもの」であってイイのだと思うのです。』
という、私自身の“松本”への懺悔の気持ちだったのだろうと思います。
 「あぁ、人様に誇れるような大きなことは何も無かったけど、そうは言っても色んな事があったなぁ・・・」
そんな想いが、一棟の校舎の屋上から嘗て自分も青春の頃に見た大好きな松本の街と山々を眺めながら、まさに半世紀・・・同じ様に歳月を重ねた友人たちの懐かしい横顔と共に、50年に亘る時間が走馬灯の様に頭の中を駆け巡ったのでありました。

 源智の井戸の清掃ボランティア「源智の井戸を守り隊」の事務局をしていただいている、松本市の第二地区地域づくりセンターの課長さんや職員の皆さんが企画した「井戸巡り講座」が開かれ、参加人員に余裕があるとのことからお誘い頂き、「源智の井戸を守り隊」のメンバーの中で希望された皆さんと一緒に参加しました。
講座は女鳥羽川の南側と北側の湧水を巡るコースの2回に分けて行われました。講師は街づくりを始め松本の街の歴史にも詳しい、地元松本出身の都市計画家倉沢聡さんです。

 一回目は女鳥羽川の南側に在る湧水や井戸を巡るコースで、中町の蔵シック会館の前にある「蔵の井戸」、そして藤森病院の「亀の泉」、続いて江戸時代の農民一揆「加助騒動」の農民救済に奔走した松本藩士鈴木伊織に因む「伊織霊水」、そして日の出町の「薬祖水」と「日の出の井戸」、それから松本の上水道の水源の一つでもある「源池水源地」と巡って、最後に我々の「源智の井戸」というルートです。
 最初は、中町の昔の酒蔵を移築した建物「蔵シック会館」の前に在る「蔵の井戸」(硬度85。以下松本市が発表したH28 データより)で、市の「水めぐりの井戸整備事業」で平成19(2007)年度事業で設置されました。昔懐かしい青い手押しポンプも併設されていて、隣のカフェではこの水を使ってコーヒーを淹れています。
続いて藤森病院の裏手、飯田町に在る「亀の泉」(民間の井戸のため硬度データ無し)。新病院建設にあたり、深井戸を掘る許可を得て採掘された病院の井戸ですが、毎分750ℓという豊富な湧水量で、「地域貢献」も考慮して市民にも開放されています。井戸の名前は藤森病院の初代院長・藤森亀太郎氏に因んでとのこと。因みに、こちらも市の「水巡りの井戸整備事業による助成金」で整備された井戸で、中町の人気ラーメン店「 麵州竹中」のスープは、この「亀の泉」の湧水で野菜などを煮出しているとか。
そして以前もご紹介した様に、この井戸の横を流れる蛇川では、病院施設のフェンスで囲まれているため安全と分かるのか、水草の中を何匹もの大きなニジマスが悠々と泳いでいるのを見ることが出来ます。
続いて、江戸時代の「嘉助騒動」と呼ばれる農民一揆の農民たちの助命救済に奔走した、松本藩士鈴木伊織の墓所に隣接する「伊織霊水」(硬度104)。
そしてイオンモールへ至る日の出町の二つの井戸、信州薬祖神社の境内にある「薬祖水」の井戸(民間の井戸採掘業者のデータで硬度83)と勤福会館の敷地内に在る「日の出の井戸」(硬度77)。「薬祖水」は近年になって一度枯れてしまったのを掘り直し、自噴する“薬の神様”の井戸がまた復活したと地元紙で報じられました。
そして、江戸時代から現在まで利用されている松本市の上水道の水源の一つである「源地の水源地」(硬度131)。平成21年の市の「水めぐりの井戸整備事業」で井戸が整備されて、毎分150リットルが湧出されています。因みに講師に依ると流れているこの水は湧水ではなく、殺菌濾過済みの水道水のため水路に藻が繁殖しないのだとか。知りませんでした。そして、最後が我々の「源智の井戸」(H28 データでは硬度142)です。
源池の地名にもなっている「源池の水源地」から、ここを水源とする榛の木川や民家からの湧水を集めて流れる蛇川の流れを辿る様に「源智の井戸」まで歩いて行ったのですが、印象的だったのは、途中あちこちに湧水や井戸が在って、中には空き地にも湧水が自然に湧き出していて湿地の様になっている場所もあったり、駐車場内にも自噴している井戸があったりと、この辺り一帯は本当に湧水が豊富であることが分かりました。
 二回目の井戸巡りは、今度は女鳥羽川の北側の湧水を巡ります。前話で紹介した様に、藪崎先生の分析された「涵養域」の説明に依ると、前回歩いた女鳥羽川の南側の湧水は筑摩山地の比較的標高が低いエリアに降った雨水で、今回の目千葉側の北側エリアの湧水は比較的標高が高いエリアに降った雨水が滞留しています。
今回の最初は辰巳の御庭の井戸からスタートし、そして今や松本の市街地に残る一の造り酒屋となった、善哉酒造の女鳥羽の泉。続いて槻井泉神社の湧水から鯛萬の井戸、最後に東門の井戸というコースです。
 最初は、「辰巳の御庭の井戸」(硬度87)です。ここは松本藩二十二代藩主戸田光庸(みつつね)の隠居所であったと云われる「辰巳御殿」の跡地で、ここも市の「街なみ環境整備事業」の平成6(1994)年度事業で、井戸と湧水が水路を流れる小さな公園として整備されました。
ここから、マサムラ本店方面へ東に向かう道は勾配が緩やかに上って行く坂になっているのですが、これは松本城の総掘りを埋め立てて土を盛った地形の跡で、土を盛ったことから「上土」(あげつち)という町名の由来になったのだとか。
続いて松本の市街地に唯一残る酒蔵「善哉酒造」の前に在る「女鳥羽の泉」(前話の藪崎先生が2024に発表された論文中のデータで、硬度87)です。造り酒屋の仕込み水として自社で掘られたこの井戸で、この「女鳥羽の泉」で作る「善哉酒造」の地酒と甘酒はとても美味しいと評判の酒蔵で、お店には試飲をされる観光客の方々がおられ、我々にも評判の甘酒を全員にふるまって戴きました。女将さんのお話では、最近の息子さんへの代替わりで、地産地消として酒米、糀、水など酒造りの全てを地元産に拘って造ることになったのだとか。松本の街中に残る唯一の酒蔵として是非頑張って欲しいと思いますし、応援したいと思いました。しかも今回初めて巡った井戸の中で、個人的に一番美味しく“甘く”感じたのもこの女鳥羽の泉であり、これまで居酒屋などで信州の酒蔵の地酒で選んでいたのは専ら松本島立の「大信州」ばかりでしたが、その点からもこの女鳥羽の泉を仕込み水に使う善哉酒造のお酒(自分はどんな銘柄であっても、吟醸酒ではなく純米酒が好みですが)を今度は飲んでみたくなりました。
続いて向かったのは、市の文化財指定を受けている槻井泉神社と「槻井泉神社の湧水」(硬度99)です。こちらは松本の湧水群の中で「源智の井戸」と共に二つだけ、市の文化財課の管轄となっている井戸です。この湧水も古代以来のもので、この辺りの地域の地名でもある「清水」もこの湧水に由来します。そのため江戸時代のこの地域には、この豊富な湧水を利用した染色や製紙の生業も起こったとのこと。また今は廃業してしまったのですが、老舗の豆腐屋さんも嘗てこの近くで店を構えていました。また、この槻井泉神社の境内には、そんな地域の歴史を見て来たであろう、市の天然記念物に指定されている樹齢300年とも云われる大ケヤキがありました。
続いて既に紹介させていただいた「鯛萬の井戸」(硬度76)から、最後に回ったのが、こちらも市の「水めぐりの井戸整備事業」で掘られた「東門の井戸」(硬度79)。東門というのは、お城の東の馬出しがあった場所に当たります。
今回二度に亘り市内の湧水や井戸を巡ってみて、松本がブラタモリでも紹介された松本城のお堀の水に始まって、築城の頃からこれらの湧水を活かした城下町作りがされ、その町をあちこち巡ってきた何本もの湧水の水路が、榛の木川や蛇川だけではなく、最後全て女鳥羽川にそれぞれ注いでいることが分かりました。
 そして今回一番印象深かったのが、上土の辺りから女鳥羽の泉近くまで、女鳥羽川の川縁に降りて、その河川敷をずっと歩いて行ったこと。途中、湧水が湧き出していたり、湧水が注ぎ込んでいたりする水場には、野生のクレソンや場所によってはミントなどのハーブが群生していました。それこそ湧水があるからこそなのだろうと感じた次第です(但し、場所によっては必ずしも決して清潔とは言えない様な、流れずに水溜まりの様な淀んだ箇所も中にはありましたので、肝炎ウィルスのリスクもあることから、一般的にはいくら清流に生えるクレソンとはいえ、決して摘んだりして食べない方が良いとのことでした)。
松本の街中を流れる女鳥羽川では、一般的に清流に生息するウグイやカジカガエルの生息も確認されていて、夏になるとホタルが飛び交うのも見られます。但し、残念ながら場所によっては町会の対応がままならないのか、アレチウリなどの外来植物やススキ類が蔓延っていて、川縁を歩けない箇所も見受けられました。
しかし人口20万規模の都市の市街地で、こうした清流が流れている都市はそうそう無いだろうと思うのです。ですので、出来れば京都の鴨川の様に河岸を整備して、市民が憩い観光客が散策出来るようになれば、“水清き湧水の街”松本の象徴にもなり得るだろうと感じた次第です。

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