カネヤマ果樹園 雑記帳<三代目のブログ>

 残暑お見舞い申し上げます。
信州もご多分に漏れず、猛暑日が結構ありますが、内陸のため湿気が少なく、また猛暑日であっても朝晩は21~23℃位なので、窓を全開にしていると入って来る風が寒くて、明け方に目が覚めて窓を閉める程です。まだまだ暑い日が続いてはいますが、立秋を過ぎたせいか、その頃からは朝20℃を下回る日も出て来ました。 そんな信州松本の、2025夏の風景です。


 先ずは信州松本のシンボル松本城。朱塗りの埋橋が塗り直され、モノトーンの天守との対比が映えます(7月4日撮影)
 土用丑の日の鰻です。今年は長女が送って来てくれた鰻を自宅で戴きました(7月19日)
 7月24・25日の深志神社の例大祭“天神祭り”。氏子の各町会の16台の舞台が曳かれ、街中を練り歩きます(中町の舞台。7月24日撮影)
 松本は基本的に月遅れで節句を祝います。旧暦でないと、例えば雛祭りでは4月でないと桃の花が咲きませんし、6月にならないと柏餅に使う柏の葉も大きくなっていません。
ただ現在では保育園などは、全国に合わせて行うところもある様で、従って場合によっては2ヶ月近く飾り付けを楽しむことが出来ます。
旧暦で8月7日に行われる七夕祭。松本では七月に入ると、松本七夕人形が街のあちこちに飾られています。これは江戸時代から伝わる風習で、松本では短冊を付けた笹竹の他に、子供たちの健やかな成長を祈るために男女一対の七夕人形も一緒に軒下に吊るされます。この松本七夕人形は、全国でも唯一松本だけの伝統行事として300年間も受け継がれていて、今では街中の各商店などに飾られて松本の夏を彩っています(7月24日撮影)。
 夏と云えば、真っ赤な夕映えに生える黒い屏風の様な北アルプスの峰々。千変万化で刻々とその表情を変え、二度と同じ景色を見ることはありません。大自然が“日本の屋根”に描く、“真夏のプロジェクターマッピング”とでも云ったら良いでしょうか。自然の織り成す“芸術作品”に、暫しうっとりとする瞬間です。(同じく7月24日撮影)。
 続いて、これまた夏の風物詩の花火です。日本最大の3万発を打ち上げる夏の諏訪湖の花火には比べるべくもありませんが、松本では8月9日に薄川で筑摩の花火大会が行われ、3000発の花火が松本の夜空を彩りました。我が家でもマンションのベランダから、ビル越しに花火が眺められます。ちょうど帰省して来てくれていた次女と孫たちと一緒に、夏の風物詩を楽しみました。もう少し孫たちが大きくなったら(音が怖くなくなったら)、湖畔で諏訪の花火を皆で楽しめたらと思います(8月9日撮影)。

 お盆。ご先祖様の霊をお迎えするための“お棚”を作ります。そこに仏壇から位牌などを移動して、またご先祖様をお墓から乗せてお連れする精霊馬を作って飾りますが、キュウリの馬とナスの牛です。これは、ご先祖様を迎えるにあたって、「少しでも早く家に帰って来られる」様にお迎えは馬に乗って、そして帰る時には牛に乗って「ゆっくりとお帰りください」という気持ちを表すと云われています。私の子供の頃までは、先祖の霊をお墓にお送りする際に、この馬と牛も近所の川に“精霊流し”の様に流してお送りしたのですが、今は環境上の問題もあり川に流すことはせず、自宅で処分しています。
旧盆となる8月13日の迎え盆。松本地方では白樺の樹皮を剥いで乾かしたカンバ(「樺」、白樺の意)で、迎え火をお墓と家の玄関先でも焚いて霊をお迎えします。カンバの灯りで、お墓から家までの道筋をご先祖様に示すと云われています(送り火の場合は逆に玄関→お墓の順番で焚きます。防火上、ペットボトルに水を用意して、火が消えてからちゃんと水も掛けます)。
因みに、カンバはこの時期になると地元のホームセンターやスーパー等で普通に売られています。松本地域以外にもカンバを焚くエリアが長野県内では北信地方にもあるようですが、少なくとも諏訪地域ではそうした風習は無いようです。家内の実家でもカンバは焚きませんし、婿に入った父方の茅野に住む伯父の家でも、亡き叔父はわざわざ松本からカンバを買って来て、お盆には松本流にカンバを焚いていたそうですが、茅野出身の叔母はカンバは知らなかったそうです。
 8月16日の送り盆。カンバを焚いて送り火をして、ご先祖様をまたお墓にお連れして、今年もお盆が静かに過ぎて行きました。

  以上、今年見つけた“信州松本 夏の風景”でした。

 30年以上続いた地元町会の有志の方々に依る「源智の井戸を守る会」が高齢化に伴いメンバーが減り、遂に86歳の会長お一人になったのを見るに見かねて、近くにお住まいで井戸縁の83歳の女性が手伝われる様になり、その「お年寄り二人だけに任せてはおけない」と、60代の町会役員の方お二人も参加されて「井戸と花の会」を作り、昨年7月から井戸の清掃活動を引き継がれました。

しかし中心市街地のドーナツ化による住民の減少と高齢化で、今後ずっと続けていくことは無理なことから、年度末の今年の3月一杯で会は解散し、「源智の井戸」は市の文化財であり、そのため今後の管理を市に委ねる旨を市に申し入れたのです。
そうした地元町会の窮状が昨年8月末の地元紙「市民タイムズ」で報道され、10年来ただで水を頂いてきた身としてはいたたまれず、地元町会以外の初めてのメンバーとして参加して分かったことは、地元町会の皆さんはこれまで市の担当課とは何度も交渉したり申し入れをしたりする中で、これまでは「予算が無い」の一点張りで何も進展が無く、皆さんはもう疲れて諦めにも近かったため、そこでダメ元で皆さんに迷惑が掛からぬ様に、飽くまで私個人として「市長への手紙」に窮状を訴える投書を送ったのです。
 するとそれを市長ご自身が読まれ、これまでの担当課では進展が無かったという投書の内容から、担当課ではない別の「地域づくり課」と井戸の在る地区担当の「第2地区地域づくりセンター」の課長さんに直接指示をされ、町会長さんと清掃をしてきた我々メンバーとの数度の話し合いの結果、第2地区の地域づくりセンターが事務局となってボランティア募集が開始され、責任を感じた地区の町会長連合会の有志の方々も含め、20人程が清掃ボランティアとしてメンバー登録をされました。
地元町会はここで清掃活動から卒業とのことで、町会長さんだけが相談役として残り、当初のメンバーの皆さんは一旦手を引かれることとなったため、唯一残った清掃メンバーであった私メがそれまでのメンバーの皆さんからの意志を引き継いで、新たなボランティア組織である「源智の井戸を守り隊」の代表者として隊長を引き受けることになりました。
また肝心の井戸清掃は、今年度から市の担当課の予算申請が通り、少なくとも年度内は業者に依る月二回の清掃が開始されたことから、ボランティアは先ず月一回の清掃からスタートしました。
すると10数人が集まった第一回目の清掃の際、“三人寄れば文殊の知恵”ではありませんが、人数が多ければ色々なイデアが出るものだと感心したのは、防災備品として災害用に自費で購入したというポンプを台車に載せて運んで来てくださった第二地区の役員の方がおられ、ジョレンやデッキブラシで擦って浮かせた藻を金網ですくうのと並行して、藻の混ざった汚れた湧水を一気に汲み出し、湧き出て来る新鮮な湧水に入れ替えたのです。併せて、その排水する水を勢い良く水路に流すことで、水路用のブラシで擦った汚れを一気に流すことにも繋がりました。
こうして“文明の利器”と人数も増えた結果、これまでは有志5人での清掃活動では今までなかなか手が回らなかった、井戸周辺の水路までデッキブラシで擦って掃除することが出来たので、見違え得る様にキレイになりました。
こうして月一回のボランティアに依る「源智の井戸」の清掃ボランティアを行う中で、ボランティア募集も併行して実施しました。
すると、スタートした当初は地元第2地区の町会長さんは各町会のある意味長老さんですし、有志の方々も私の様なリアタイア組の方が多かったのですが、次第に若い方も参加してくれる様になったのです。
更に話を聞かれた地元高校が地域貢献活動の一環ということで、生徒さん達が井戸からの水路を月一回清掃してくれることになりました。
また市の方でも「地域チャレンジ応援事業補助金」を今年度新設し、地区町会だけでなく我々の様なボランティア組織も対象とすることが可能とのことで、ボランティア組織である我々の「源智の井戸を守り隊」も申請したところ、審査の結果20万円程の補助金を頂くことが出来、ずっと善意に甘えているだけではいけないので、ボランティアとしても発電機とポンプを購入し、ホースは消防法上使用期限が切れてしまっているという新品のホース(消防の消火活動以外への使用は全く問題無し)を発注先の業者から無償で戴くことが出来ましたし、また清掃活動中の万が一のケガに備えてボランティア保険にも登録メンバー全員を登録することが出来ました。
ボランティア募集スタートに際し、当初地域づくりセンターの課長さんとは、
 「“巧遅拙速に如かず”で、ボランティア活動をどうしていけば良いかは、周りからゴチャゴチャ言われても良いので、走りながら考えましょう!」
とスタートしたのですが、我々の予想以上に順調に発展拡大してきています。
 他にも色々進展がありました。
購入したポンプと発電機を試運転するために井戸に役員数人で集まった際、井桁上部の木枠を外すことが出来るということが分かったのです。大人4人で80㎏程もある八角形の木枠を外すと、これまでの用に木枠に邪魔されずに、ジョレンやブラシで井戸の中の隅々まで攪拌して藻を浮かせ、ポンプで吸い上げることが出来ます。
購入したポンプを初めて使った8月の清掃活動では、木枠の他にも分かったことがありました。今回も善意でお持ちいただいたポンプと購入したポンプの合わせて2台で、掃除後に浮いた藻を一緒に吸い上げたのですが、吸い上げる水の量が合計で毎分280ℓ、井戸の湧水量は毎分200ℓ。そのため井戸の水位がかなり下がった結果、湧水が泡を立ててブクブクと湧き出しているポイントを初めて目で見ることが出来ました。因みに、一度井戸が枯れてしまい、昭和63年(1988年)に深さ50mまで井戸を掘り下げた結果また水が湧き出したのですが、その湧水量は毎分500ℓで井戸の容量には多過ぎたので、そのため井戸横の地下にバルブを設けて、現在の毎分200ℓに調整しているのだと知りました。
また、この6月くらいから湧水量が増えて来たのですが、これは河川が夏渇水期となり、田川など毎年干上がるのですが、「源智の井戸」はむしろ冬が湧水量が減って、夏になると増えるのだとか。実際に6月頃からポンプでくみ上げても、水位が春頃に比べ以前程下がらなかったのはそれが理由でした。
考えるに、冬場は薄川や女鳥羽川などの水源となる2000m級の筑摩山系に降る雪はそのまま積もり融けることは無いのですが、春の雪解けで川や地中にも沁み込んで地下水となって、やがて夏頃に湧水として湧き出してくるからではないでしょうか。
清掃活動に関わることで、「源智の井戸」についてそれまで知らなかったことが新たに見えてきました。
 また、今回の8月の清掃活動には、20代前半の本当に若い皆さんが4名、「ボランティア松本市」で検索して行き着いたからと初めて参加してくれました(内お一人は受験生とかで、むしろ勉強に専念して貰う様にボランティア継続はお断りしました。もしUターンして来られたら、また参加してください)。
また松本市内で民家を改装して、外国人向けのゲストハウスを始められたという県外からの移住者のうら若き女性(お父様が昔松本に転勤で来られていて、自宅と松本を行き来する内に松本を気に入られたとか)が、それまで清掃に参加されていた地元町会の役員の方に偶然「この辺に自販機はありませんか」と聞いて「源智の井戸」を紹介され、飲んで美味しかったのとボランティア募集の貼紙を見て、今回仕事仲間を誘って4人でこれまた初参加してくれました。
今後のボランティア活動の継続は決して順風満帆ではないかもしれませんが、我々の様な“年寄り”だけでは何十年も続けることは不可能なので、こうした若い皆さんが参加してくださったことが何よりの喜びでした。
そして今回のハイライトは、ボランティア募集のきっかけになった「市長への手紙」を読んだ臥雲義尚松本市長ご自身が、地域づくりセンター長の経過報告を受けて自ら参加いただいたことです。しかも単なる視察ではなく、皆さんと一緒に清掃活動も1時間以上しっかりと最後までやってくださったことです。
終了後に臥雲市長にボランティアの皆さんに挨拶いただいた中で、
 「少子高齢化社会で、我が松本市も例外ではなく、これまで町会単位で行って来た色々な活動を実施するのが段々難しくなって来ている中で、町会単位ではなく、今後はその枠を超えた市民の皆さんに依るボランティアで推進していくことが次第に必要になって来ます。その意味で、この皆さんの源智の井戸のボランティア活動が、そうした今後の松本の是非モデルケースになって頂ける様に、是非頑張っていただきたいと思います。」
との激励もいただきました。
 市長の仰る通りだと思うのです。
“平成の名水百選”に選ばれた「まつもと城下町湧水群」に限っても、例えば「源智の井戸」と同じく市の文化財課が管轄する「槻井泉神社の湧水」と、湧水群の中でこちらも人気の「鯛萬の井戸」。
「槻井泉神社の湧水」では、地元町会に依る利用と管理をしています。また「鯛萬の井戸」は元々松本の有名な割烹料亭「鯛萬」が掘った井戸ですが、料亭が移転した後も井戸はそのまま残り、その後小さな公園として整備されて多くの人に利用される井戸となっています。この「鯛萬の井戸」では、町会は直接関与せず地元有志の3人の管理者の方が清掃をされておられますが、どちらの井戸も活動されている方々は高齢の皆さんです。
また他の湧水群に指定されている湧水や井戸は、いずれも地元町会が管理することを条件に市と協定を結んでいるそうですが、他の井戸は例えばポンプに依る汲み上げ式だったりして、大きな木枠で囲われて中に玉砂利が入っている「源智の井戸」と比べると掃除が容易ですし、日光が差し込んで光合成で藻が発生することも無いので藻の除去もそれ程必要が無いはいえ、管理する以上はゴミ拾いや草取りなども含めて井戸の清掃活動自体は必要であり、複合扇状地で湧水として湧き出る「まつもと城下町湧水群」のエリアが市の中心市街地に限定されることから、どの町会も少子高齢化とドーナツ減少で町会の担い手の減少が危惧されるのです。
もし町会での管理が難しくなった時に、全てを業者委託することは不可能ですし、日本全体の少子高齢化に伴う人口減少の中で、松本市も税収が減れば今年初めて可能になった「源智の井戸」清掃の外部業者委託も、やがては難しくなる時が必ずやって来る筈です。
そうした意味で、市民の誇るべき「まつもと城下町湧水群」がキチンと未来に引き繋がれるために、「源智の井戸」のボランティア活動が母体となって水平展開されていくことが必要だと思います。
その意味で、市長に認識も頂き若い人たちが参加してくれたことが、今後ずっと決して順風満帆に進む訳ではないかもしれませんし、ボランティア第一号としては些か大袈裟な物言いではありますが、未来への継続の“光”になってくれた様に感じた次第です。

  “清流の城下町”と聞いて、思い浮かべるのは何処でしょうか。
真っ先に思い浮かぶのは、 “郡上踊り”で有名な郡上八幡でしょうか。
正に郡上八幡のキャッチフレーズが“清流と名水の街”で、町割りに沿って家々の軒先を流れる水路は、元々は防火対策のために時の城主が城下纏整備として4年の歳月をかけて築造され、今でも水路が街中に張り巡らされていて、また市内を流れる“清流”吉田川では、地元の子供たちが“度胸試し”に高い橋の欄干から川に飛び込むのが夏の風物詩とか。まだ行ったことが無いのですが、是非一度は訪れてみたい奥美濃の城下町です。

そして郡上八幡と同じ岐阜県では、県立斐太高校が学校前の大八賀川で行う大正時代から続く“白線流し”でも知られる飛騨高山よりも、瀬戸川が水路の様に街中を流れる飛騨古川の方が個人的にはむしろ“水の街”という感じがしました。
また、“清流”ではないかもしれませんが、八幡堀沿いの風情ある街並みを眺めながら船で巡る、琵琶湖の水運を活かして近江商人で栄えた近江八幡。豊臣秀次がその基礎を築いた、こちらも“水”が感じられる城下町でした。
 明治維新後の廃藩置県で、その飛騨地方と松本は当初は同じ筑摩県でした。お互い“日本の屋根”の峰々から流れ出る河川や恵みの湧水を活かしているのは、北アルプスを挟んで背中合わせの松本平と飛騨地方は良く似ているのかもしれません(そんな縁もあって、高山市と松本市は姉妹都市です)。
複合扇状地である松本盆地は、東の筑摩山系から流れ出る女鳥羽川と薄川、そして西の北アルプスからの梓川と高瀬川、南側は木曽川との分水嶺である鳥居峠から北上する奈良井川や鉢盛山に源を発し奈良井川に合流する鎖川などから形成されています。そして、その松本盆地の東の隅に位置する松本の市街地には、街中に女鳥羽川が流れ、薄川や田川、他にも牛伏川、大門沢川など大小幾つもの河川が市街地を流れて複合扇状地を形成しました。
そうした川の伏流水が松本市内で湧水として湧き出し、“まつもと城下町湧水群”として「平成の名水百選」にも選定されていますので、松本も十分に“名水の城下町”だと名乗ることが出来ましょう。
 では、一方“清流”についてはどうでしょうか。
上高地から流れ出る梓川は特急名にも使われるなど、信州を代表する“清流”としてのイメージがしっかりと定着していますが、松本の街中を流れている訳ではありません。
三才山峠に源を発し、市街地を流れて田川と合流して奈良井川に注ぐ女鳥羽川は、全長17㎞という短い川ですが、昔はお城の総堀の外側を直角的にL字型に流れていることから、外堀の更に外側で自然のお堀としての役目も果たしていました(小笠原氏の支城だった深志城を大改修して、松本の城下町の基礎を築いたのは信濃を征服した武田信玄ですが、信玄堤で知られる様に信玄が“治水の名手”だったことから、女鳥羽川を堀として使うために直角に流れを変えたという説がありますが、近年の研究ではそれは史実ではなく、自然の流れをそのまま築城時に活かしたのではないかとのこと)。
街中を流れるために、昭和30年代までは台風などでしばしば洪水が発生したようですが、河川改修などに依り現在ではそうしたこともなく、また下水道整備の結果や湧水が流れ込むこともあって、街中を流れる川としては女鳥羽川は想像以上にキレイです。また、昔の様にカジカガエルの住める綺麗な川を取り戻そうと、市民による保全・清掃活動も盛んに行われてきた結果、2019年には念願のカジカガエルの生息が確認され、また中流域の水汲のスポーツ橋付近ではホタルが乱舞していますし、下流の縄手通り付近では放流された鯉が泳いでいるのを見ることが出来ます。そして街中を流れる川には珍しく、ヤマメの棲む上流域だけではなく、下流域の街中でもウグイが棲息しているそうです。
なおホタルは女鳥羽川だけではなく、旧開智学校に隣接する、街中と言っても良い中央図書館脇を流れる大門沢川でも見ることが出来ます。
またマンションの近くの渚地区を流れる全長5㎞という小河川の穴田川。元々は湧水が流れ込むキレイな川だったのが、1960年代になって工場排水や家庭からの雑排水が流れ込み“松本で一番汚い川”と云われたそうですが、下水道整備や流域の企業が参加する「穴田川をきれいにする会」が定期的に清掃活動をするなどして、今では本当にキレイな川になり田川に流れ込んでいます。
 更に松本市街地には、これぞ正真正銘“清流”だと言える川があります。それが「榛の木川」と「蛇川」です。
両方とも川幅が1mにも満たない、用水路の様な小さな川なのですが、“まつもと城下町湧水群”である源池の水源地やその辺りの湧水そのものを水源としていて、途中民家の中に在る湧水も含め、更に幾つもの湧水が流れ込んでいることもあって驚く程キレイな清流なのです。しかも昔誰かが放流したモノだそうですが、所々に外来魚であるニジマスが棲息していて、街中でもその姿を見ることが出来ます。(上二枚の写真は源池の水源地。次は上が榛の木川で下が蛇川です)
“当国一の名水”「源智の井戸」から毎分200リットルの湧水が流れ込む榛の木川は人形町(高砂通)を西に流れていて、所々の道路脇でその清流を見ることが出来ますが、蛇川は殆ど民家の脇を流れており、特に高砂通から北側では暗渠でフタをされてしまっているため、殆ど流れを見ることが出来ません。でも高砂通の北側でも一部、“蔵の街”中町の南側の飯田町に藤森病院の井戸「亀の泉」があり、この辺りを流れる蛇川はしっかりとその流れを見ることが出来ます。特に病院施設のフェンスで囲まれているため安全と分かるのか、水草の中を何匹もの大きなニジマスが悠々と泳いでいるのを見ることが出来ます。

 難しいとは思いますが、何とかその暗渠を撤去して江戸の昔の様な小路に沿って流れる清流が見られる様にして、「源智の井戸」を始めとする「まつもと城下町湧水群」の名水と、その湧水が流れる榛の木川、蛇川の清流を合わせて“まつもと水巡り”として、郡上八幡の様に清流と名水に沿って街歩きが出来る様にすればまた一つ、それぞれ北アルプスを挟んで、飛騨地方の郡上八幡にも負けない“清流と名水のアルプスの城下町”として、信州松本の“街歩き”での観光的魅力が一層高まると思うのですが・・・。

 奥さまが月例で、7月度の“家政婦”に横浜の次女の所に2週間行って投票日には不在になることから、参議院議員選挙の期日前投票に行って来ました。
この日は登山トレーニングを兼ねて城山まで登り、そこから下って松本城公園を経て松本市役所の期日前投票所へ。そこからまた渚に歩いて戻ります。家を出たのが10時近くになってしまい、もうかなり暑くなっていましたし、夏は山並みを望める日の方が少ないのですが、この日の北アの峰々も霞んでいて見えなかったので、いつもの“城山トレイル”でアルプス公園まで行くのは諦めて城山公園までとしました。

城山公園のベンチで少し休憩です。春には花で満開だった藤棚が、今では葉で覆われて良い日陰を作ってくれていて、吹く風が心地良く感じられます。
(注:対比するために、春に花が咲いていた時の藤棚の写真も掲載しました)
そして公園の一角にある花壇では桔梗の花が満開でした。桔梗は秋の七草なので何となく秋をイメージしてしまいますが、花の時期は6月から10月とか。ですので、桔梗は梅雨の頃から夏を通して咲く花なのですね。
暫く休んで城山から下り、途中久しぶりに塩釜神社にお参りして孫たちの健やかな成長を祈り、旧開智学校から松本城へ。
『文武両宝』、松本信用金庫が旧開智学校と松本城を並べたポスターに使っていて個人的にも気に入っているこのキャッチフレーズの通り、二つの国宝を巡る贅沢なウォーキングコースです。
 旧開智学校は耐震工事等も終わり、昨年末から再び開館されています。
また平城で、元々は湿地帯だった軟弱な地盤に建てられた松本城も、文化庁の指針に基づく耐震診断の結果、震度6強から7の大地震に対して耐震性が足りず、中でも乾小天守は倒壊の恐れがあるとの診断結果を踏まえ、5層6階の大天守については1~5階の内部に国宝5城としては初めて鉄骨フレームを設けて柱や梁(はり)を補強するなどの案を文化庁と協議し、乾小天守など天守を構成する他の建物についても、鉄骨フレームで補強する方向で了承を得たことから、天守閣の1階から5階に鉄骨フレームを入れるという耐震補強工事を2028年度以降に実施するとの発表があり、その間(「少なくとも2~3年で終了できる工事ではない」との市長のコメント)は天守閣への入場は出来なくなるそうです。そして工事完成後は、敢えて鉄骨フレームを見える様にするのだとか。その理由は、鉄骨は現状の木材との区別が容易で、1955年の「昭和の大修理」から150年後となる2105年頃に予定されている次の解体修理時に、もしかすると鉄骨を使わない画期的な耐震方法が考案されている可能性もあり、その際には原状復帰が可能というメリットも踏まえての結果だそうです。
従って、築城当時のままの天守閣内部の姿が見られるのは2028年の工事開始前まで。明治維新後の廃城の危機を先人の市民の手で守り抜いてきたお城ですので、現代に暮らす我々松本市民が“オラホの宝”として未来の子孫たちへキチンと残していくためには止むを得ません。80年後の未来に期待しましょう。
あの熊本地震での熊本城の被災中継には本当に涙が出る程ショックを受け、その後少しでも復興のお役に立てばと僅かばかりの寄付をさせて頂きましたが、松本城にも同じことが起こらぬ様に市民としては願うしかありません。
 さて、その松本城では現在も幾つかの工事が行われています。先ずは、お堀の浚渫(しゅんせつ)工事です。市のH/Pに依ると、
『近年、松本城では、経年の堆積物により、堀が埋まりつつあります。また、降水量の少ない時期や地下水の流入量が少ない場合、堀の水面上に堆積物が露出し、悪臭を発生するなどの課題が生じています。
そこで、堀の堆積物除去(浚渫)と水質浄化のため、史跡松本城の堀の全面的な浚渫を令和5年度から実施します。』
吸い取った汚泥を脱水圧縮する大規模なプラントが公園の北西角に設けられていて、その近くのお堀にはこの時期、ハスとスイレンの花が咲き始めていました。
そして壊れたままだった埋橋も先月補修工事が終了し、赤い欄干がキレイに塗り直され、モノクロのお城と赤の対比が映える人気の撮影スポットとして、この日も観光客の皆さんが写真を撮られていました(但し、これまで同様渡ることは出来ません)。
そして公園の南東角、古山地御殿(こさんじごてん)跡に在った旧市立博物館(日本民俗資料館)の解体工事。フェンスで覆われていますが、どうやら建物は壊されてほぼ無くなりました。
期日前投票の市役所からの帰り、太鼓門を通らずに内堀沿いに大名町まで歩いて来ましたが、2階建てだった建物が無くなった結果視界が開け、外堀の堀端の松並木越しに天守閣が望める様になりました。
そして、それだけで松本城公園の旧二の丸エリアが随分広く感じられる様になりました。以前は公園の周囲ギリギリまでビルなどが建っていたので、松本城は平城ということもあるのかもしれませんが、小高い丘に聳える平山城などの他の城郭公園に比べ、実際の10.5haという面積程は広くは感じられなかった松本城公園ですが、周囲の建物が撤去されて数年後に南西エリアの外堀も復活すれば、お城のエリアは更に視覚的に広く感じられる様になるかもしれません。

 私たちの住む渚地区のマンションの周囲には、市街地でありながら松本地方の伝統的な古民家である本棟造りの家がまだ数件残っていて、そうした家を囲む屋敷林の様なエリアもあって結構なたくさんの木々が残っています。。
今年になって、春先以降、そんなエリアを回る朝のワンコの散歩の時や、昼間マンションの部屋からも近くに屋敷林の周辺に見慣れぬ鳥を見掛ける様になりました。
少なくともマンションに引っ越してからの昨年までの3年間には見たことも無い鳥で、というよりも、個人的には里山の岡田や沢村地区に棲んでいた時も、そして学生時代の京都や新婚時代の諏訪でも(赴任した、気候帯の異なる熱帯のシンガポールでは当然ですが)見た記憶の無い、自分の記憶の中では生まれて初めて見る鳥でした。

 その鳥は、ムクドリくらいの大きさですが、ムクドリよりも遥かにスマートで、頭が黒く、体が灰色がかった青っぽく、何より更に濃い青味がかった尾が長いのが特徴です。とりわけ頭の色が黒いのが、何だか帽子を被っている様にも見え、オシャレでエレガントな感じです。全体から受けるイメージはスマートなツバメにも似ています。
でも、鳴き声は容姿からするとキレイな鳴き声ではなく、些かしゃがれ気味のだみ声のギェーギェーという様な鳴き声で、姿から連想してキレイな鳴き声を期待していると少々がっかりしてしまいますが・・・。
そこで、気になって特徴を入力して調べてみました。すると、該当し掲載されていた写真からも「この鳥で間違い無い!」と確信出来たのが、オナガでした。
     (以下掲載した2枚の写真は、ネット記事からお借りしました)
 Wikipediaに依ると、
『オナガ(尾長、Cyanopica cyanus)は、スズメ目カラス科オナガ属。
ユーラシア大陸の東西両端の2つの離れた地域に分かれて分布する留鳥である。分布の一方はロシア東部、中国東部、日本など東アジアで、もう一方はイベリア半島の一部である。
なお、日本では分布を狭めており、1970年代までは本州全土および九州の一部で観察されたが、1980年代以降西日本で繁殖は確認されておらず、留鳥として姿を見ることはなくなった。現在は本州の福井県以東、神奈川県以北で観察されるのみとなっている。わずか10年足らずで西日本の個体群が姿を消した原因はまったくわかっていない。ただし、九州の個体群については近年になって分布を拡大し続けているカササギとの競争に敗れたという説がある。このように分布域を狭めてはいるが、東日本に残された群の個体数は減少どころか増加の傾向にある。
全長は 34-39cm で、キジバトより一回り大きい程度。ただし尾羽が 20-23cm と長く、頭と体の大きさはムクドリ大。 名前の由来は、尾羽が長いことによる。なお、黒色に見える頭部の羽毛は濃紺。』
とのこと。
また違う鳥類図鑑の記述の中に、
『オナガは中部地方より北の、本州だけにいます。従って、関西のバード・ウォッチャーにとっては、是非お目にかかりたい鳥の1つです。尾が長いのでオナガと呼ばれています。良くテレビドラマで京都の話題の背景にオナガが鳴いている場面がありますが、自然ではありえない状況です。』
という記載もありました。
因みに、文中に在る「留鳥」(りゅうちょう、英語では: resident bird )とは、年間を通して同じ場所に生息し、季節による移動をしない鳥の総称。移動をする「渡り鳥」とは異なり、繁殖も越冬も同じ地域で行い、日本列島に生息する留鳥の身近な代表例としては、スズメ、カラス、そしてキジなどが挙げられます。
 我が家周辺で見掛けるオナガは群れを成した集団ではなく、どうやらつがいの様です。仲良く電線に止まっていることもあります。もし巣があるならヒナが生まれてやがて家族が増えるかもしれません。
ただ警戒心は強い様で、ベランダに出て写真を撮ろうとするとサッと飛び立ってしまうことも良くあり、なかなか上手く撮影出来ません(今回掲載した写真は、ネット記事からお借りした2枚と、ぼやけていますがスマホと、そしてまだ使っているSonyの“レンズスタイルカメラ”QX-10でも、それぞれズームを最大にして撮影した写真です)。
また縄張り意識が強いのか、或いは巣を守るためだったのか、ある時はオナガがカラスを攻撃しながらしつこく追いかけまわしていて、カラスは“ほうほうのてい”で逃げて行きました。もしかすると家族を守るためだったのかもしれませんが、姿に似合わず意外と気が強い面もあるのかもしれません。

 冬の間は一度も見掛けたことが無かったので、多分この春以降だと思いますが、“留鳥”の名の通り頑張ってこの辺りに留まって元気に生息し、そして家族を増やして我々の目を楽しませてくれたら・・・と願っています。

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