カネヤマ果樹園 雑記帳<三代目のブログ>

 槍ヶ岳や穂高連峰で有名な北アルプスですが、松本平からの北アルプスの風景でのシンボルは、何と言っても常念岳です。特にその常念を中心に、屏風の様に背後に拡がる北アルプスの峰々と黒い松本城は市民の誇る絶景です。

 常念岳は標高2857mと、(奥)穂高岳の3190mを筆頭とする北アの中では目立つ高さではありません(因みに、日本一の富士山から数えて常念岳は45番目でした)し、槍や穂高といった北アの主峰と比べると、日本百名山に数えられるとは言え、北アルプス登山のハイライトでもありません。でも、松本平に暮らす人達にとっては、一番親しみを感ずる山(松本からでは、槍は穂先だけ。穂高は全く見えません。因みに塩尻からは穂高連峰の先端部分が望めます)。
その優美なピラミッド型の姿はどこから見ても象徴のような気がします。ただ厳密に言うと、場所場所で微妙に姿かたちが異なります。きれいな三角形は松本から穂高くらいまででしょうか、豊科以北では屋根を斜め横から見る形となりますし、塩尻では、鍋冠や大滝山に邪魔されて、常念は殆ど隠れてしまいます。また、麓である堀金では、それこそ目の前全部が常念です(・・・という程の印象です)。
 以前、高校の大先輩でもあった豊科在住の或る会社の役員の方と長野県庁での会議の帰り、明科に近づいて北アの山々が見えてくるとどちらともなく「常念談義」になったのですが、その方は豊科からの常念が一番だと言われ、私は松本からの常念が、とお互い譲りませんでした。大人気ないと言われればそれまでですが、最後は結局生まれ育った場所からの常念が一番、ということにお互い落ち着きました。
 会社員時代に島内の事業所に勤務していた頃、朝の通勤路で宮渕から新橋への道へ合流すると、「常念通り」と名付けられているその名の通り、目の前にぱっと常念が現われます。特に冬はその姿を望める日が多く、それこそ涙が出るほど美しく、白く輝く常念に毎朝元気をもらったものです。
また、学生時代、帰省して松本に近づき常念が見えて来ると「あぁ、松本に帰ってきたなぁ!」と実感したものでした。

 残念ながら岡田・神沢からは、城山々系に邪魔をされて北アルプスは全く見えません。安曇野から神沢に嫁いできた近くのおばさんが「昔、嫁にきた頃は常念が見えなくて悲しくてしょうがなかった。」としみじみと話していたのを思い出します。また、母も常念の見える松本市の南部出身であり、昔元気だったころの早朝のウォーキングでは、必ず常念が見えるポイント(岡田松岡)まで歩いてから戻って来たそうです。
 以前放送された朝ドラの「おひさま」の時の安曇野は大変な賑わいだったようですが、小説『安曇野』により、それまで「安曇平」と呼ばれていた一帯が初めて「安曇野」と呼ばれるようになったのだそうです。
旧堀金村出身である著者の臼井吉見が堀金小学校の頃、当時の佐藤校長が朝礼で毎日生徒全員に「常念を見よ!」と言われて過したという逸話は有名です。常念が仰ぎ見える晴れた日ばかりではなく、雨の日も雪の日も、純粋な子供たちは“見えぬ常念”をきっと心の目で見つめて過したのでしょう。

 そういう意味で常念は登る山ではなく、日々眺めて暮らす山なのかもしれません。
この松本平で暮らす人々は、生まれてから死ぬまで、日々常念を仰ぎ見て、力をもらいながら人生の喜怒哀楽を過ごしてきたのです。
【注記】
ここに掲載したのは、この5月を中心に、松本市の城山々系から撮影した常念岳です。
凛とした気高い冬の常念も素敵ですが、雪解けが進んで谷に雪が残る今頃の常念が個人的には一番好き。版画の下絵になりそうな、風薫る5月の常念です。

 『飯田城の天守閣が松本に移送されたという伝承がある』
一瞬、ホンマカイナ!?と思いました。そして、その前提は松本城の乾小天守だとか。

 松本城の天守閣は現存する12天守の内、姫路城と並ぶ壮大な五層六階。乾小天守は三層四階の天守であり、小天守と言いますが、例えば同じ国宝の犬山城が三層四階の天守閣であり、彦根城は三層三階の天守閣です。
従って、五層六階の天守閣だけではなく、三層四階の乾小天守は辰巳、月見の櫓を持つ連結複合式の松本城が(石高からすれば)如何に大規模な城であるかが分かります。従って、三層四階の乾小天守は、他のお城であれば仮に天守閣であっても全くおかしくは無いのです。
 ネットで探してみたところ、地元飯田の方の書かれた「飯田城」に関する記述が見つかりました。一部を抜粋すると、
『(前略)天守閣があったはずだとする理由は、おおよそ次の通りです。
豊臣秀吉に命じられて飯田城主となった毛利秀頼・京極高知は、ともに秀吉の信頼が厚い側近でした。秀頼は「羽柴」の称号と「豊臣」の姓を授かっていたほどですし、高知の姉は秀吉の側室となっていました。飯田城主毛利・京極氏の10万石に対して、松本城主の石川氏は8万石、諏訪の高島城主の日根野氏は3万5千石であるのに天守閣をつくっています。ですから、毛利・京極氏が天守閣をつくらなかったはずがないというのです。さらに古い書物には、飯田城の天守閣を松本城へ移した、ということが書かれています。飯田城主であった小笠原秀政が1613年(慶長18)に松本城主となるとき、飯田城の天守閣を解体して運んだというのです。松本城には、5重6階の大天守に、3重4階の乾子天守がついた形となっています。この乾子天守がもとは飯田城の天守閣で、山伏丸のあたりにあったのでは、という説があります。ところが、現在の飯田城には天守閣があったことを示す跡はありません。また松本城でも、それを裏付ける証拠は見つかっていません。そこで、飯田城はその地形からみて天守閣は必要なかった、という考え方や、あるいは天守閣の建設は計画倒れで終わったのではないか、という説もあります。しかし一方で、松本城の乾子天守が初めから現位置に建てられたにしては不自然だ、という人もあるのです。はたして飯田城に天守閣があったのか、いまだに大きなナゾと言えます。』
とのことでしたが、記載に誤りがあります(と思います)。
と言うのも、徳川家康の関東移封に伴いその監視役として、石川数正が秀吉に命じられて大阪和泉から関東に近い松本に移封されたのですが、和泉8万石から減じられる筈も無く、当時松本藩は10万石でした。数正の死去に伴い、長男(嫡男)であり松本城の天守閣を完成させた康長が8万石、次男康勝が1万5千石、三男康次が5千石と10万石を分割しています。
関ヶ原の後、家康の傘下にいた小笠原秀政が飯田藩(その前は古河藩3万石から飯田藩へ加増移封されていた)から加増されて藩主として松本藩に移封さえるのですが、飯田藩は5万石であり、松本藩は8万石となっています。小笠原氏は信濃守護として信濃の国府であった松本(深志)で信濃を治めた名家であり、その嘗ての本家である地元松本への旧領復帰としての移封ですので、失態等が無ければ減じられての移封ではある筈もありません。
飯田の松尾小笠原氏は深志小笠原氏の分家であり、松本が本家筋ですので、強い意志があれば分家から本家へ天守閣を移すこともありうるかもしれませんが(因みに彦根城の天守閣は大津城から移築されています)、松本には石川親子が築いた立派な天守が既に存在しており、わざわざ労力を掛けてまで小天守を飯田から移して来る必要性は無かったと思います。
秀政が松本へ移ったのは1613年で大阪夏の陣の起こる2年前ですが、秀吉が関東に遠ざけた家康に睨みを効かす最前基地としての松本であったため、領地の石高10万石の規模からすれば破格の大天守を持つ城を石川親子に造らせたのでしょうが、秀政が松本に移った1613年には、家康にとって松本は政敵である豊臣家に睨みを効かすための有効な場所ではありませんので、戦略上も松本城を強化する必要性は無かった筈です。
従って、辰巳櫓と共に複合連結式天守を構成する乾小天守は、石川親子の築城当時から存在していたと考えた方が極自然だと思われますが、果たしてどうでしょうか。飯田城の天守が松本にあるというのも、戦国の世の大いなるロマンを感じさせますが・・・。

 信州松本梓川・桜ウォーク2018。
昨年初参加(第1200話参照)したのですが、昨年は桜が全く咲いておらず、しかも参加した初日は生憎の雨。氷雨の様な冷たい雨に、景色を楽しむどころか、とにかく早くゴールしたい一心での21km。全く以って“トホホの歩”でありました。
イベントは二日間行われるのですが、昨年のリベンジをと、今年も初日の21kmに挑戦しました。しかし、今年は異常な程早かった桜の開花で、集合場所に向かう途中、今回のコースにもなっている安養寺の枝垂れ桜は既に花は全て散って若葉の装い。今年は桜ウォークとは言えそうもありません。しかしこればかりは自然が相手なので致し方ありません。当初雨予報もあったのですが、幸い雨は夕刻からと予報が変り、ウォーキング中は曇りの予報。ところが、今度は先週の暴風警報よりはましでしたが、風速8mの強風・・・。リベンジのつもりが、これは果たして返り討か・・・。

 集合場所の松本市波田体育館に行くと、昨年停めた第2駐車場も既に満杯で第3駐車場を案内されました。今年は一段と参加者が多いのでしょう。
受付を済ませて出発式。今年は遠く札幌から参加された方もおられるそうで、県外からの3割の参加者も含めて、9kmと21kmの2コースに計400人とのこと。全員で準備体操をして、9時に21kmコースから先にスタートです。先頭の方々は小走りでスタートダッシュ。我々も先方でスタートです。若い家族連れやカップルの方々はチラホラで、どちらかというと我々よりも年配のカップルやグループの方々がむしろ多い様でしたが、皆さん結構な健脚振り。さすがです。
途中、梓川河畔の堤防道路に出ると予報通りのかなりの強風で、向かい風の地点では歩くのも大変な程でした。オイオイ、今年は風かヨ~!と恨みごと・・・。
途中、枝垂れ桜の名所安養寺は既に花も無く皆さん素通り。旧梓川村の倭橋から梓川を渡る中央橋の両岸の桜並木も残念ながら桜は既に散っていました。桜瀬満開だったら強風も気にならないかもしれませんが・・・。
 「でも、今年は北アルプスが見えるだけまだイイかぁ・・・?」
と、ブツブツ・・・。
 チェックポインとなる21kmコース中間の梓水苑でランチタイムです。
今年は雨ではないので、テントに入らず公園のベンチで休憩。ご一緒になった同年代のご夫婦は、やはり松本市内にお住まいで今年が初参加とのこと。昨年の状況をお話しすると、
 「何も考えずに明日も28kmに申し込んであるのですが、ちょっと無謀でしょうか・・・?」
 「う~ん、どうなんでしょうね?」
(ハッキリ言って、無謀だと思います・・・)
 「明日の午前中は雨予報ですし、明日のコースは地区の桜の銘木を巡るコースですけど、桜はもう散っているでしょうし・・・」
 後半は、上高地線の終点である新島々駅の八景山(やけやま)地区で折り返しです。八景山橋は四万十川に見られるような沈下橋です。その手前では八重桜が満開。そして湿地帯では今年も水芭蕉が咲いていました。清流の梓川は雪解け水か、結構な水量でした。この八景山橋のポイントで、係員の方から残り4kmとのアドバイスがあり、さぁもう一頑張りです。途中まで一緒だったあのご夫婦も、ペースダウンされたのか見えなくなりました。
ゴールの波田体育館に向かう梓川の河川敷にはケショウヤナギが自生しているそうですが、既に殆どが芽吹いているので、他の柳と区別が付かず。
このケショウヤナギは、冬の成木は赤紫色で、若枝が白いロウ質を被り、一見すると「白粉(おしろい)」を塗ったように見えることからケショウヤナギ(化粧柳)と命名されたそうですが、実際木肌が赤いので一目で分かります。このケショウヤナギは氷河期の生き残りで、日本列島では北海道の十勝日高地方とこの上高地と梓川流域にしか生息していないという希少植物で、絶滅危惧Ⅱ類植物なのだそうです。
 そして、最後河岸段丘の坂を上ってスタートした波田体育館にゴ~ル!
9時にスタートし午後1時半の到着でしたので、昼食休憩時間を除くと4時間で21km。時速5kmペースだったでしょうか。
受付で確認後完歩証と、慰労のマツタケご飯のオニギリと水餃子を頂いて一服です。家内に依れば、21kmで3万歩だったとのこと。
それを聞いた、ベンチの隣で休憩されていた年配のご夫婦曰く、
 「あれっ、こっちは3万9千歩だ。我々の方が足が短いから歩幅が狭いだダネ!」
(「・・・だだね」は松本地方の方言です)
お疲れさまでしたと、お互い労い体育館を後にしました。それにしても、ロゲイニングの様にポイントや速さを競う訳でもないのに、皆さん速いこと。せっかくの梓川河畔を歩くコースですので、(桜はともかく)北アルプスと梓川の清流の景観をもっと楽しんで歩けばイイのになぁ・・・と思いました。
 「あぁ疲れた。でも、桜さえさえ咲いていればヨカッタのに・・・ネ!」
 「来年、どうする?」
 「う~ん、どうしようかぁ・・・?」
3度目の正直か、或いは二度あることは三度あるのか?・・・。
その前に、秋にはまた「松本城ウォーク」があります。

 今年の松本城の桜の開花が4月1日で、5日には満開。信州の桜も、今年は例年にない異常なほどの速さです。
今年も開花宣言三日後の4日から始まった、恒例の松本城「夜桜会」の本丸庭園無料開放と松本城桜並木「光の回廊」としてのライトアップ。
 私メは、10日に定例の「食蔵バサラ」での“飲み会&食べ会”に出席するのに併せてお城に寄って見て行くことにしました。
奥さま不在のためバスで行こうかと思いましたが、“春宵一刻値千金 花有清香”とばかり、せっかくの春の夕刻を楽しんで歩いて行くことにしました。
松本深志高校に来ると太鼓の音が響き渡っていて、一号館の屋上で恒例の応援団(應援團管理委員會。略称「応管」)の指導よる新入生諸君の応援練習が行われていました。でも“♪蒼溟遠き波の涯”で始まる「校歌」ではなく、また「自治を叫びて」でもなく、全く記憶にない曲・・・。まぁ、45年も経っていればその間新しい応援歌も誕生していても不思議はありません。有也先生の像に挨拶をして正門から出ると、外国人の方が興味深げに練習の歌を聞いていたので説明すると感心していました。

坂を下っての松本神社から松本城へ。堀の桜はもうかなり散っていましたが、期間中でもあり、まだ花見客の方々が散策をされていました。ちょうど5時半になり本丸庭園が無料開放されるので、北側の太鼓橋のような木橋を渡り二の丸から黒門へ向かいます。本丸庭園は観光客の方々で結構な人出でした。園内にはテントが張られてお茶席が設けられています。また6時からは月見櫓で琴などの演奏が行われるので、天守閣前に設けられた席で皆さん座って待っておられました。

 本丸庭園を一周して黒門へ戻ります。すると、会社の先輩が三脚を据えて天守閣を撮影されていました。
 「今年の桜は早過ぎて、写真はダメだわ」
と残念がっておられました。
でも黒門を出ると、お城の黒いシルエットと夕映えをバックにした屏風の様な北アルプスのコントラストがとても素敵でした。
 「そうそう、桜は無くとも、松本にはお城と山があるじゃない!」
と、独りごちて「バサラ」に向かいました。

 松本の桜は4月1日に開花宣言が出されたかと思うと、その後の25度近い暖かさであっという間に満開。“春の嵐”か、6日の強風で早くも花吹雪の様相。今年は何だか、せっかくの桜も余り楽しむ時間も無い内に散ってしまいそうです(写真は、家の近くで見掛けた6日の桜です)
 そんな、足早に訪れた今年の春ですが、注意して見てみると我が家周辺の里山でも色々な“春”を見つけることが出来ます。
4月1日、早朝ウォーキングで行ったアルプス公園の柳の芽吹きと辛夷の花。早いからでしょうか春の、若葉の中でも一番美しく感じる柳の芽吹き。柳の芽吹きを見ると、何故かいつも石川啄木の
 『やわらかに  柳あおめる 北上の  岸辺目に見ゆ 泣けとごとくに』
の歌が頭に浮かんできます。
そして、雪の様なコブシの花。里山ではむしろ辛夷の方が桜よりも春の訪れをを告げるてくれる花でしょうか。辛夷では、南牧村出身の作詞家いではく氏の『北国の春』がその代表作でしょうか。
アルプス公園から望む常念岳。山も雪解けが進み、早くも雪形(常念坊)が現れつつあるようです。
 もうちょっとゆっくり進んでくれてもイイのにな・・・。今年の春は何だか気忙しい気がします。

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