カネヤマ果樹園 雑記帳<三代目のブログ>

  “猛暑”と云われ、35℃を超える気温も当たり前の様に感じた今年の日本列島。長期予報でも10月も暑いと予想されていたのですが、秋分の日辺りからここ信州松本もめっきり涼しくなって、その名の通り真っ赤な彼岸花を黄色く色付いた田んぼの畦道に今年もちゃんと見掛けるようになりました。昔からの“暑さ寒さも彼岸まで”という格言も猛暑の今年はどうかと思いましたが、そんな今年もさすがという感じで、季節はちゃんと巡ってしっかりと秋めいてきました。
“秋の行楽シーズン”ではありますが、必ずしも行楽地に行かずとも、身近でも秋の気配を感じられる様になりました。そんな街角で、そして里山で、見つけた身近な“小さな秋”です。

 最初に、清掃と水汲みに行っている市内の「源智の井戸」。
春は枝垂桜で彩られる井戸は、秋にはピンク色の萩の花が井戸端を飾ります(9月16日撮影)。
久し振りに歩いた城山遊歩道。アルプス公園手前、鳥居山の東屋で少し休憩です。眼下に見下ろす松本平には刈り入れを待つ黄色の田んぼが一面に拡がり、実りの秋を迎えています。そして手前には出始めた秋の訪れを告げるススキの穂が(9月24日撮影)。
新米の価格高騰もあって、茶碗に付いた米粒に「一年間しっかりと手を掛けなきゃお米は採れねえだで、一粒だって無駄にしちゃいけんヨ!」と良く叱られた祖母の口癖ではありませんが、減反減反でまるで悪者の様に言われてきた田んぼの稲穂に、本当に何十年振りかで暖かな視線が注がれた今年の実りの秋だったのではないでしょうか。
そして数日後にまた遊歩道を歩いてみると、たった数日の間に黄色の田んぼが減って茶色く変わっていて、松本平では大分稲刈りが進んでいることが分かりました。ススキはこの二日後に仲秋の名月を迎えましたので、さしづめ“今が盛り”でしょうか(10月4日、同じ場所で)。
 家の近くのお宅の金木犀。秋になって金木犀が咲いていることに気が付くのは、先ずは目では無く鼻からでしょう。どこからともなくあの芳香が風に乗って来て、初めて金木犀の花が咲いたことに気が付きます。
最近は松本でも時々金木犀を見掛けますが、子供の頃は松本で金木犀を見たことはありませんでした。ですので、人生で初めて金木犀というものを認識したのは、トイレの芳香剤の匂いだったのです。
高校を卒業して、初めて信州を離れ京都の大学に進学し、キャンパス内の部室棟に行く通路の途中に大きな金木犀があって、秋になって“あの芳香剤の香り”を嗅いで、初めて臭覚ではなく視覚でも金木犀を認識したのでした(9月30日撮影)。
そして、先日もご紹介した秋の代名詞、新栗の小布施の「栗の小径」で見掛けた、今にも零れ落ちそうな栗の実です(9月30日撮影)。
 そして、最後は紅葉です。信州の紅葉の名所、、北アルプスの三段紅葉や北八の白駒池の紅葉ではなく、また街中の松本城でもなく、朝のワンコの散歩道で拾った柿の葉です。
柿の葉の色付きは結構面白くて、赤い葉や黄色い葉もあり、そして緑色が蛇の目の斑点の様に残った葉っぱが多くて、一枚として同じ色や模様の無い柿の木の紅葉と黄葉です(10月8日撮影)。
先日の日経の記事で、『三重大の42年間の観測の結果、夏が3週間長くなり、冬の期間が変わらなかった結果、その分春と秋が短くなっている』との報道が在りました。我々の肌感覚もそれに近い様な気がしますので、それが科学的にも裏付けられたということでしょうか。そんな短い秋で、松本は先週から最高気温が20℃を下回り、最低が一桁という毎日が続いています。
いよいよ秋も深まり、冬の足音が少ずつ近づいて来ているのかもしれません。
(ワンコの散歩コースの赤く色付いた蔦の葉です。10月19日撮影)
 そして、おまけです。松本では久し振りに朝からまとまった雨が降った10月26日。どうやら山では雪だった所もあったようで、北アルプスが白馬方面までくっきり望めた29日。乗鞍岳とそして大町の餓鬼岳か爺ヶ岳辺りから北の峰々が白くなっていて、今シーズンの初冠雪だった様です。一足早く山はもう、秋から冬へ駆け足で・・・。
(10月29日撮影)

 以前ご紹介した様に、一緒に「源智の井戸」の清掃ボランティア“源智の井戸を守り隊”に参加頂いている方から、これまで「鯛萬の井戸」の清掃を続けて来た地元町会の有志三人での活動が、やはりメンバーの皆さんの高齢化に伴って継続するのが段々困難になって来ており、片や「源智の井戸」が同様に困難になった地元町会での維持管理を、行政と連携して活動のエリアを拡げ、井戸利用者などまで広くボランティアを募って清掃活動が始まったと知り、その「源智の井戸」のノウハウを「鯛萬の井戸」の今後の活動の参考にするために参加していると伺ったことから、逆に個人的には「鯛萬の井戸」の状況を参考にすべく、初めて現地を訪ねてみることにしました。

 というのも、4年前に法政大学の或るゼミが「地域と水の係わり方」の研究レポートで、題材に「まつもと城下町湧水群」を選び、そのレポートで幾つかの提言がされているのですが、その冒頭に、
『(前略)環境省による名水百選の選定地のほとんどで井戸や湧水などの水場の整備を地域再生につなげる試みが生まれはじめている。数ある名水のまちのなかで、松本市は「公」の井戸(以下、公共井戸)整備のトップランナーだが、さらに一歩前進して水場の整備をどのように地域再生につなげるかに注目を集める自治体なのである。
そこで私たちは、松本市が整備してきた公共井戸に焦点を絞り、どうすれば水場を「憩いの場」にすることができるのか、その政策的なヒントを提示することを目指した。
そのために、私たちは公共井戸のなかでも際立った存在感を放っていた「源智(げんち)の井戸」、「槻井泉(つきいずみ)神社の湧水」、「鯛萬(たいまん)の井戸」の3つの井戸に焦点をあてて調査を行うことにしたのである。
夏の5日間の調査の結果、大きな課題が見つかったのは「源智の井戸」である。存続の岐路に立っているといっても過言ではない状況下にあり、その政策的対応の方向性を示すことにした。
その一方で、「槻井泉神社の湧水」と「鯛萬の井戸」は、地域の「憩いの場」として機能しており、松本市の目指す成功事例と位置づけた。そこで、なぜ「憩いの場」になっているのかを明らかにすることにした。(以下略)』
 つまり、この4年も前のレポートの中で、「源智の井戸」は今のボランティア清掃へ至るべき課題が既に指摘されており、一方で対照的に湧水群の“優等生”として評価されていたのが「鯛萬の井戸」だったのです(更に敢えて言わせて貰うならば、研究成果が市の幹部職員を集めての報告会で報告され、今回の「市長への手紙」に至る問題点や課題を既に4年前に把握し認識しておきながら、結果的に何も対応して来なかったのが、残念ながら我が松本の行政の実態なのです)。
そんな“優等生” だった筈の「鯛萬の井戸」の現状が心配になり、「源智の井戸」に関わる者として決してヒトゴトではないことから、“三現主義”ではありませんが、「鯛萬の井戸」を初めて実際に見に行くことにしたものです。
 先述(第2025話)の通り、「鯛萬の井戸」の在る下横田町は、通称“裏町”と呼ばれる松本の飲み屋街にあります(以下の町の紹介は、「うら町」周辺を再び活性化しようという「信州松本うらまちレジリエンス協議会」のH/Pから引用させて頂きました)。
松本城下では、お城やその周辺の武家地、そして善光寺街道筋である町人の街である当時「親町」と呼ばれた3町(本町・中町・東町)を「表」とすれば、「枝町」としての現在のこのエリアの上横田町と下横田町を、親町の「表」に対して「裏」と捉えることが出来ます。。
このエリアは、その江戸時代には多くの茶屋等が軒を連ね、明治に入っても藩財政の窮乏を補うため、この東町と横町に限り売女渡世免許が認められ、明治10年には遊郭設置の場所としてこの横田耕地が選ばれるなどして、昭和34年の売春禁止法が施行されるまで栄え、また芸者を抱える料理営業店も集積していました。そして、明治期以降養蚕業を中心に栄えた“商都”松本の盛り場として、その後も平成初期まで賑やかな状況が続いたエリアでもありました。
 そんなエリアに在った松本の老舗の割烹料亭が「鯛萬」であり、その「鯛萬」が大正11年に掘って使用していた井戸が料亭移転後も地元で大切に守られ、平成15年に市の「街なみ環境整備事業」により周辺が井戸公園として整備されました。その後、地元の有志3名の方が井戸の清掃を毎週続けられて維持管理されています。
当時のレポートに依ると、「どうして外部の掃除ボランティアに頼んで、掃除する人数を増やさないのか?」という問い掛けに対し、『外部ボランティアは普段から井⼾の近くにいることが難しく、利⽤者が井⼾を利⽤する様⼦を⽇常的に⾒ることができないので、現管理者の価値観を完全に理解することが難しい』とのことで、その時点では地元有志だけでの維持管理を標榜していた様なのです。
確かにその通りで、以前私も書いたのですが、「源智の井戸」の清掃ボランティア発足にあたって、個人的に会議の中で力説しお願いしたのが、
『少子高齢化とドーナツ化現象で市の中心街の人口が減っており、人手の無くなってしまった地元町会は清掃活動そのものからは“卒業”しても、その代わりに、日頃の井戸の様子は地元に住んでいないと把握できないため、町会長はじめ地元の方々に出来るだけお願いして、日頃気の付いたことを市の担当課等へその都度連絡いただく』ということでした。
そして、そのことをキチンと取り決めとして議事録に残し、地元町会と確認させていただいた様に、そうした地元の方々に依る日頃の見守りが絶対に必要不可欠なのです。
しかし地元に拘るが余り、それによって担い手が減り後継者が集まらず、もし大切な井戸が寂れてしまってはそれこそ本末転倒であり、外部の手を借りながら、如何に地元がしっかりと目配りや気配りをしていくかが今後への鍵だと思うのです。
 さて「鯛萬の井戸」へは、東町の旧善行寺街道(国道143号線)から正行寺小路へ曲がって裏町に入り、裏町を北上して、「鯛萬の井戸」と縦書きの書かれたレトロな銅板?の看板を目印に、「名店横丁」と書かれた看板をくぐって、人一人通るのがやっとのその名もその名も「鯛萬小路」という狭い通りを進んで行くと、急に道が開けた先に小さな公園が在って、東屋に覆われた井戸が現れます。
塩屋小路からは車で入ることも出来そうですが、「鯛萬小路」を歩いて行った方が風情があります。
もし時間があれば、近くに松本市内で今も唯一残る酒蔵、善哉酒造の仕込み水にも使われている名水「女鳥羽の泉」もあるので、そこまで足を延ばしてみるのも良いかもしれません。
  この「鯛萬の井戸」は、「源智の井戸」に比べると如何にも公園らしく広々とした敷地で、ベンチも幾つも置かれていて羨ましいくらいです。
先述のレポートの中で、「鯛萬の井戸」が市民の“憩いの場”であるのに対し、「源智の井戸」は「殺伐とした」単なる“水汲み場”になっているとの指摘は、市の中心街に在り、人通りが多い高砂通は城下町特有の狭い一方通行のため、井戸の脇に遠慮してギリギリに一台しか車を停める場所しかない「源智の井戸」と、片や路地の奥の広々とした公園の中に佇み、井戸を目当てに来る人しかいない「鯛萬の井戸」との、その置かれた環境の違いが大きいのだと個人的には感じました。
「鯛萬の井戸」は、御影石の石造りの水槽に囲まれた井戸の縁の真ん中からこんこんと水が湧き出していて、二段になったその水槽の周りもまた御影石の石畳で覆われています。「源智の井戸」の木製の井桁と比べると、遥かに磨いて藻を落とし易く感じます。
説明に依ると、「鯛萬の井戸」の水は平均13.2℃で、松本の湧水群の中で一番冷たい水とのこと。そして硬度は76の軟水です。
東屋の梁には何本もの柄杓や、その柄杓で水をすくって口の細いペットボトルに入れる時用のジョウゴがやはり幾つも吊り下げられていて、水を汲みに来る利用者の便宜を図っています。
お水を頂いてみると、雑味の無いとても柔らかな水でした。ただ、10年来使わせて貰っている「源智の井戸」の水に比べると、両者の硬度の違いではなく、「源智の井戸」の水は甘い気がするのです。飽くまで私個人の嗜好ではありますが、“甘露”と呼んでも良い程に甘く感じる「源智の井戸」の水の方が個人的には美味しく感じます。
 水を汲んで飲みながらベンチに座って周囲を見回すと、やはりこの公園としての解放感は羨ましい気がしました。しかし、井戸そのものや井戸周辺の石畳はキレイに磨かれてはいるものの、井戸の周りの公園の空き地は随分雑草が伸びて蔓延ってしていて、恐らく井戸の清掃を担当されている高齢者の皆さん3名では、そこまで手が回らないのだろうと推察されました。
もしかすると、公園が市の管理であれば、定期的に業者に依る草刈り等がされているのかもしれず、今回はその直前で、雑草が伸び放題の時期の井戸にたまたま来てしまっただけなのかもしれません。
しかし、後日「源智の井戸」清掃ボランティアに参加いただいている方にお聞きしてみると、公園の管理も含め全て地元町会に委ねられているとのことで、市の公園緑地課が草刈りをすることは無いのだそうです。
そこで、我が家には昔リンゴ園の草刈りで使っていた刈払い機(草刈り機)があり、果樹栽培を止めた今はせいぜい年に2回程、僅か2~3坪足らずのお墓の草刈りに使うだけなのですが、長い間使わないとなかなかエンジンが始動しなくなってしまうので、場合に依ったらそれでささっと草刈りをしても良いかと思い、「源智の井戸」清掃ボランティアに参加して頂いている「鯛萬の井戸」清掃のメンバーの方にその旨お伝えしました。
「源智の井戸」清掃ボランティア全体として市内の他の井戸と連携し、清掃のお手伝いするのはスタートしたばかりで些か時期尚早ではありますが、私個人としてなら別に構わないので、井戸清掃ではなく出来ることからお手伝い出来ればと思った次第です。

 草間彌生の作品展示で知られる松本市美術館で、7月12日~9月23日まで行われていた『ロイヤルコペンハーゲンと北欧デザインの煌めき』展。
シンガポール時代に、奥さまが藍色の小花模様の「ブルーフルーテッド」と呼ばれるロイヤルコペンが好きで、大物から小物までのテーブルウェアのセットを、コーヒーと紅茶のカップ&ソーサのセットに始まり、スープ皿や、プレート、ティーポット、そしてシュガーポットやミルクピッチャーの小物に至るまで殆ど集めていた(私メの酒代とタバコ代に対抗してとの仰せ)こともあり、彼女のリクエストで見に行くことにしました。この展示は、前年には横須賀などで、また松本の後は群馬の県立美術館でも行われる予定の巡回展の様でした。

 因みに、奥さまのコレクションは当初からいずれは娘たちに引き継ぐ予定で集めていたので、飾り棚や収納場所の無いマンションへの引っ越しに際し、長女のいるアメリカには破損とかが心配で送れないので(シンガポールからの帰任時の船便で、ベネチアンガラスの人形が破損してしまったことがありました)、次女が戸建てに引っ越したのを機に、我々夫婦の終活も兼ねて全て次女の家に自分たちの車で大事に運んで収納して貰ってあります。孫たちがもう少し大きく成ったら、ママ友会などで使って貰えば良いと思います。

 我々が見に行ったのは9月中旬の三連休だったのですが、会期の終盤だったせいか、企画展はそれ程混んではいませんでしたが、展示内容からでしょうか、来られていたのはさすがに殆ど女性の方々ばかりでした。
今回の企画展は、趣旨に依ると、
『冬の長い北欧では、家で過ごす時間を大切にし、生活の中に優れたデザインを取り入れてきました。本展では、デンマークとスウェーデンに焦点をあて、19世紀末から20世紀の陶磁器、銀器、ガラス器を中心に北欧デザインの魅力に迫ります。』
展示の中心は、デンマークの王立磁器製作所をその起源とすることから、ロイヤルという称号を冠するロイヤルコペンハーゲン。そして、銀製品で知られる同国のジョージジャンセン。
そして、スウェーデンからは、ノーベル賞授賞式の晩餐会で使用される食器で知られる、北欧最古の陶窯というロールストランドと、同じくスウェーデンのスモーランド地方で古くから盛んだったという、ガラス工芸作品が併せて展示されていました。
因みに、ロールストランドは1726年にスウェーデン王室御用達の釜として創業した、ヨーロッパで2番目に古い歴史を持つスウェーデンの陶器メーカーで、今年も受賞された日本人お二人が参加されるノーベル賞授賞式後の晩餐会で使用される食器は、決まってそのロールストランドの「ノーベル」なのだそうです。

 (ロイヤルコペン ブルーフルーテッド1785年)(同 水草魚図花瓶1894)
           (ロイヤルコペン 花文サーヴィス1904-22)
             (同 テーブルセッティング例)
 (ピングオーグレンダール 金彩鷺アイスバスケット1914)
                           (同 花文花器1920)

(ジョージジャンセン ソースポットとプレート、レードル)
                       (同 カトラリー 谷間の百合/ローズ)

(ロイヤルコペン 仲良し犬置物1900-03)(同 眠り猫置物1902-28、1958)
  (オレフェス 鉢 アリエル1967)    (同 花瓶 チューリップ1967)

 個人的には、ロイヤルコペンと聞くと、ブルーフルーテッドと呼ばれるコバルトブルーの小さな花模様と、後は奥さまも集めていましたが、クリスマスシーズンのイヤープレートくらいしか知りませんが、他にも花が大きなブルーフラワーや、、柿右衛門様式に代表される日本の陶磁器の様な色絵の花鳥などを描いた作品、またリヤドロの様な動物や人間の置物もありました。
他には同じデンマークの陶器メーカーというビングオーグレンダール、そこ出身だという銀製品のジョージジャンセン、またスウェーデンのロールストランドやガラス製品も展示されていました。
 企画展の後、せっかくなので常設展の草間彌生の作品なども見学。ここは企画展よりもむしろ混んでおり、鏡の部屋などは20秒ずつの入れ替えでの鑑賞で行列が出来ていて、観光で松本に来られた方々なのか、さすがは“世界の草間彌生”を実感させられました。
 見終わってから、次回の企画展が松本縁の石井柏亭展とのこと。石井柏亭は東京出身ですが、戦時中松本に疎開をして、戦後の“信州美術”界の復興発展に寄与した洋画家で、子供時代に見た彼の描いた松本城の絵が今でもとても記憶に残っています。今回は、戦時中の松本への疎開をふまえ、戦後80年での企画展とのこと。そこで早速前売り券を購入し、10月から12月に掛けて開催される次回の企画展も見に来ることにしました。

 ちょうど一ヶ月前の9月11日のことでした。この日の松本は、未明の午前1時頃から雨が降り始め、朝7時頃まで途中結構土砂降り状態の降りもあったりしました。 
午前2時過ぎに目が覚めて眠れなくて、久し振りの雨音が気持ち良くて、ベッドから起きてベランダに出て、暫くの間雨音を聞いていました。
 以前も書いた様な気がしますが、雨音にはヒーリング効果があると云われ、雨音を聞くことで、脳波にアルファ波が増加し、リラックス、ストレス軽減、集中力向上などの効果が期待出来ると云われています。

これは、雨音や川のせせらぎ、浜辺の波音など、自然界の音に含まれる、完全ではなく不規則でありながらある程度の規則性を持った「1/fゆらぎ」や、人間には聞き取れない高周波「ハイパーソニック」が脳を心地よく刺激するためで、特に穏やかな雨音はこれらの効果を高めるとされているからです。
実際に、YouTubeにも雨音やせせらぎの音など、癒し効果の音が色々登録されているので、例えば雨が降らない日でも寝る前にタイマーをセットして、YouTubeの雨音を聴きながら寝ることもあります。
そうした中で、TV画面からの音ではなく“生”の雨を見ていると、聴覚の音だけでなく視覚的にも目の前に拡がる雨に煙る実際の世界は、ネクラな性格にも依るのかもしれませんが、何となく心を落ち着かせてくれるのです(雨の写真は無いので、これまで行った“川のせせらぎ”の写真の中から、瀬音が聞こえて来そうな“阿寺ブルー”の阿寺渓谷と、同じく美ヶ原への三城からの沢沿いの登山道のせせらぎ、そして馬籠峠から妻籠へ下る途中で見つけた小さな滝です)。
 そんな風にベランダからボーっと外の雨降る様子を眺めていたら、視界の中に何だか違和感のある“黒い線”があるのに気づきました。
それは、ベランダの天井にある黒い筋の様な“物体”でした。
雨降りの深夜の暗闇の中、目を凝らすと・・・次第に視界の中で焦点を結び、その形を脳が認識して理解したのが・・・トンボのオニヤンマだったのです。
大きなオニヤンマが、しっかりとベランダの天井を掴んでぶら下がっていたのです。どうやら、このオニヤンマは久しぶりの土砂降りで、真夜中に雨宿りの場所を探して、結果、我が家のベランダの天井をその場所に決めた様なのです。
そこで、せっかくの雨宿りの邪魔をしない様に、またこの土砂降りの雨の中に飛び出して行かぬ様に、驚かしては可哀想なので、そっと静かにその場を離れてまた寝ることにしました。

 5時過ぎに起きて、雨が止んだので7時頃からのワンコたちの散歩の後、7時半過ぎに戻ってワンコたちにご飯を食べさせてから見てみると、まだベランダの天井にオニヤンマがそのまま宙吊りで止まっていました。
体長が10㎝位ありそうな、結構大きなオニヤンマです。
このオニヤンマ(鬼蜻蜓、馬大頭、学名:Anotogaster sieboldii Sélys,)は、トンボ目オニヤンマ科に分類されるトンボの一種で、日本最大のトンボとして知られます。因みに、学名の種小名"sieboldii" は、日本の生物研究に功績を残したフランツ・フォン・シーボルトに対する“献名”なのだとか。知りませんでした。
オニヤンマは、小川や水路など水際ぎりぎりの浅い水底の柔らかい泥や砂の中に産卵し、産卵から1ヵ月ほどで孵化するのだそうです。そして、何度も脱皮を繰り返し、3~5年かけて成長するのだとか。6月頃から羽化し、9月頃までの夏の間に見られ、そして漸く羽化した後の成虫は僅か1~2ヶ月の寿命なのだとか。成虫のオニヤンマは、頭部から腹の先端までの体長が9 ~11 cmほどに達し、メスの方が大きいのだそうです。
 雨宿りをしていたこのオニヤンマも、この夏に羽化した成虫で、夏の終わりと共にその寿命は尽きてしまうのでしょう。オニヤンマにとっては、ホンのひと時の平和な雨宿りだったのでしょうか。
雨の日に見つけた、夏の終わりのオニヤンマでした。

 以前、「源智の井戸」清掃ボランティアのその後の状況をご紹介させていただいた(第2013話)中で、
『複合扇状地で湧水として湧き出る「まつもと城下町湧水群」のエリアが市の中心市街地に限定されることから、どの町会もドーナツ化現象と少子高齢化で町会の担い手の減少が危惧されるのです。
もし町会での管理が難しくなった時に、行政としても全てを業者委託することは不可能ですし、日本全体の少子高齢化に伴う人口減少の中で、松本市も税収が減れば今年初めて可能になった「源智の井戸」清掃の外部業者委託も、やがては難しくなる時が必ずやって来る筈です。
そうした意味で、市民の誇るべき「まつもと城下町湧水群」がキチンと未来に引き繋がれるために、「源智の井戸」のボランティア活動が母体となって、やがて全体に水平展開されていくことが絶対に必要になると思います。』
と書いたのですが、早くもその危惧が現実に的中していたのです。

 先日、見ず知らずで集まってくださった“隊員”の皆さんの親睦を兼ねて、初めての懇親会を行いました。
余談ながら、日頃事務局を務めていただいている市の課長さんと飲み会進行での余興のアイデアを練る中で、自分たちの関わっている「源智の井戸」をしっかりと知るべく、“利き酒”ならぬ“利き水”を実施することにして、「まつもと城下町湧水群」で唯一の硬水である「源智の井戸」と、他に湧水群の中から、これも人気の「鯛萬の井戸」と“加助騒動”縁の「伊織霊水」、そして松本市の水道水の4種類を用意して貰い、課長さん以外は答えを知らず、私も含めて参加者全員で試した結果、唯一私が全問正解で、しかも「源智の井戸」の正解者は私のみ。名前だけの隊長とはいえ“面目躍如”となって、皆さんからは「さすが!」と評価いただいたのですが、本人としては「源智の井戸」をこの10年来コーヒーのドリップ用に利用させて頂いてきた者として、一応の面目が立って、取り敢えずホッと胸を撫で下ろした次第です。いずれにしても、「源智の井戸」の清掃活動を機に、自分たちが住む街の素晴らしい水資源に感心を持って貰えたら、清掃活動の副次的効果としてこんな嬉しいことはありません。
因みに、松本の水道水は、市のHPに依ると、2014年のモンドセレクションで、松本市水道原水のペットボトル「信州松本の水」が食品、飲料などの品質を審査する国際的な品評機関「モンドセレクション2014」のビール・飲料水・ソフトドリンク部門で金賞を受賞しているので、水道水としては大変美味しい水なのです。この「信州松本の水」は、松本の地下水源のうち、最も多く水道水として使われている「島内第1水源地」の地下水を採水し、非加熱除菌したものだそうです。

 さて、当日は仕事や用事等で来れない方もあり、半分くらいの出席だったのですが、簡単に清掃ボランティアに参加した思いを自己紹介を兼ねてお話しいただいた中で、お一人が
 「私は“下心”があって、参加させて貰っています。」
と切り出されたのです。
いきなり何かと思ったら、その方の仰るには、「源智の井戸」と同じく「まつもと城下町湧水群」の中の人気の井戸、「鯛萬の井戸」を毎週掃除をされておられる有志三名(たった3名です!)の内のお一人なのだとか。
 この「鯛萬の井戸」の在る下横田町は、江戸時代に松本の城下町で東町の宿場街と共に呼び込みの茶屋店の多かったエリアで、その後も“裏町”と呼ばれ、バブルの頃までは松本一の飲み屋街として賑わった場所。会社勤めの頃は私も時々お世話になりました。
この「鯛萬の井戸」は水温13.2℃という湧水群の中でも一番の冷たい水で、平成の「街なみ環境整備事業」により周辺を井戸公園として整備され、維持管理は他の井戸同様にその地元の町会などに委ねられています。
元々この井戸は大正11年に生活密着の井戸として、当時この場所に在った老舗の割烹料亭「鯛萬」に依って掘られました。その後「鯛萬」は別の場所に移転して現在はこの地にはありませんが、井戸は残り公園として多くの人に親しまれています。
因みに、割烹料亭「鯛萬」は戦前にフレンチレストランとなり、蔦の絡まるアルザス風の洋館は今でも松本を代表する老舗として人気のフレンチレストランです。
そして、その名を遺す「鯛萬の井戸」は町会の有志の皆さんに依り維持管理されているのですが、やはり「源智の井戸」同様にメンバーの方々の高齢化が進み、その活動が段々厳しくなってきており、先行する「源智の井戸」のボランティアの様子を探って、採り入れられるモノがあれば参考にすべく、ご自身が「源智の井戸」の清掃ボランティアに参加されたのだそうです。
 「もし“市長への手紙”がそんなに有効だったのなら、私たちも投書しようかと考えているんです!」
 やはり危惧していた通り、湧水群の井戸の中では上手く運営されていると評価されている筈の「鯛萬の井戸」でさえも、「源智の井戸」と同じ状況に陥りつつあるのだということを初めて知りました。
この4月にスタートした「源智の井戸」の清掃ボランティアもまだ緒に就いたばかりなのですが、早くも水平展開が必要な状況になりつつあるのです。
しかし、我々「源智の井戸」の清掃ボランティアもスタートしたばかりなので、まだそこまでの余裕はありませんが、いずれそうした事態になるだろう事は十分予想出来ていただけに、何か手助けになることが無いか、協力し得ることはないか、それこそ金は無くても“知恵”と“ズク”を出して、お互いが連携していけたらと考えさせられた次第です。
【追記】
懇親会はいつもの清掃の時の半分程の出席数でしたので、9月の「源智の井戸」のボランティア清掃の際、こちらからお願いしてその“下心”をこの日集まった皆さんにも改めてお話しいただきました。
また今回は、「市長への手紙」をふまえて、最初に私にご連絡をいただいた市の地域づくりを統括される部局の局長さんにもお越しいただいており、一緒に清掃活動にも参加していただき最後に一言挨拶も頂いたのですが、その場で「鯛萬の井戸」の窮状も併せて行政サイドにも認識頂けたので良かったと感じています(フム、先ずは仕掛け成功!)。

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