カネヤマ果樹園 雑記帳<三代目のブログ>

 旧正月に行われる厄払い。松本地方では、連休の設定により、今では1月の12日と13日に厄除け縁日を行う寺社仏閣が多く、松本では内田の牛伏寺と蟻ヶ崎の放光寺が有名です。我が家では、歩いて行ける城山の放光寺へ毎年お参りに行っています。
日光山と号する放光寺は、元々は真言宗のお寺だったのが松本に吹き荒れた廃仏毀釈により荒廃し、その後曹洞宗に改宗して復興とのこと。その歴史は古く、730年に行基が開山し坂上田村麻呂が伽藍を整備したと伝わる、松本地方屈指の古寺です。

 同じ姉妹でも、誰に似たのか、長女の姉は親の我々が呆れる程に信心深いのですが、次女の妹の方は我々が呆れる程に無頓着。しかし、今年は次女が本厄の年となることから、昨年は我々メインにしていただいたのですが、今年は次女をメインにして、我々と長女、そして婿殿も併せてまとめて厄払いのご祈祷をしていただくことにして、12日の朝、ウォーキングを兼ねて放光寺へ歩いて向かいました。
放光寺は城山公園の駐車場が近いのですが、この厄除け縁日には遠方からもたくさんの参拝客が訪れるため、アルプス公園の駐車場も放光寺の臨時駐車場となり、そこから無料のシャトルバスが参道近くまでピストン輸送されています。
困った時の神頼みではありませんが、昨年の身近での災害や不安定な世相を反映しているのか、今年は例年にも増して多くの参拝客で、いつもは静かで然程広くはない境内もこの日ばかりは大変な混雑でした。
我々は早めに受付に並んだのですが、ご祈祷を終えて帰る頃には更に本堂での祈祷を申し込む人たちの列が更に長くなっていました。

 ご祈祷の受付を済ませ、一回200人近くか?、百数十人毎に待合室から本堂に案内され、独協が続き個別にご焼香をする間、何人かの僧侶が本堂内巡りながら、参拝者一人一人の両肩を分厚い経典で叩いていきます。その後、祈願内容と氏名が個別に読み上げられ観音様にお祈りが捧げられ、ご祈願がされたお札がそれぞれ参拝客に帰され、そのお札を持ち帰って自宅に祀り、来年までの一年間それぞれを守っていただきます。
 ご祈祷を終わった後、境内にある六角堂にもお参りをし、家族皆の一年間の安寧をお祈りし、厄除け縁日に合わせてダルマなどの縁起物を売る露店が並ぶ賑やかな境内を後にしました。
 「どうぞ、災害の無い一年になりますように!」

 正月に帰省して来てくれた次女夫婦。
婿殿の勤務の関係で、正月3日に来て一泊し、翌4日には帰京するという慌ただしい帰省ではあったのですが、帰って来て元気な顔を見せてくれるだけで、親としては何よりの孝行です。

 そこで、親バカさながらに、一生懸命おもてなし料理を作ります。
昨年は、米国から来た長女たちのために、如何にも「日本らしく!」とかなり豪華なおせちを取り寄せたのですが、結局余ってしまい、残ったおせちを捨てる訳にもいかず(我々が)食べるのに結構苦労したので、今年はおせちは無し。
そこで、いつもの黒豆と、松本の年取り魚(注)である鰤(ブリ)を今年はちょっと奮発して大きめの切目を買って、煮付けて正月のお客様用にも。里芋はいつもの煮しめではなく、婿殿の好物の煮っころがしにして私メが調理。
そしてメイン料理は、和牛ブロックでのローストビーフと、信州らしく次女の好物でもある馬刺しも用意。
更に暖かい料理もと、評判の良い地元の富成五郎のお豆腐を湯豆腐にして、食卓に用意した鍋で煮ながら熱々で食べることにしました。

 家内が一生懸命準備した甲斐もあって、おせちではありませんが、今年の正月料理も好評で、殆ど完食。作った甲斐もあろうというくらいに、キレイに食べてくれました。イヤ、良かった、良かった!

 明けての4日。家に居ても(箱根駅伝も終わって)することも無いので、どこかドライブを兼ねて、午後の帰りの電車まで観光に行くことにしました。
しかし真冬の信州ですので、松本城は天守閣が(国宝故に)吹きっ晒しの板張りの床で、火の気の暖も全く無い(首里城の火災は他人ごとではありません)ことから(勿論スリッパもありません)、寒い冬ではなく、夏にでもまた行くことにして、
 「さて、どこに行こう?」
個人的には、昨年国宝指定となった旧開智学校よりも、「どくとるマンボウ青春記」の世界そのままの旧制松本高校校舎(重要文化財)の残る「あがたの森公園」がお薦めなのですが、皆さん全く興味無さ気・・・。
そこで、まだ彼等は初詣に行っていないとのことから、車で行けて、そのまま観光にも廻れそうな安曇野の穂高へ行ってみることになりました。
海人の安曇族の祖神とも云われる穂高神社(信濃国三之宮。因みに、信濃一之宮は諏訪大社、二之宮は小野神社)に参拝してから、近くの碌山館や大王ワサビ農場に観光で行くも良し・・・という前提です。
ところが、穂高神社は駐車場の大分手前から参拝客車両の渋滞で車が動かず。昔から、穂高神社は自動車に乗ったままでの交通安全のお祓いでも有名なのですが、こんなに混んでいた記憶は無く、そこで今回はお参りを諦め。穂高神社の近くには碌山館もあるのですが、皆さん興味無しとのこと。“日本のロダン”荻原碌山もカタナシです。大王のワサビ園も、
 「今行っても、寒いだけで花も咲いてないし・・・」
と却下。
 「じゃあ一体どうすんの!?」
と選ばれた先は、観光ではなく、お蕎麦を食べに行くこと・・・。
そこで、時間節約で穂高神社近くにある「手打ちそば 上條」へ行くことにしました。
安曇野の蕎麦屋さんは山麓線沿いの有明地区に多いのですが、こちらは穂高神社や碌山館に近い住宅街に在り、写真家でもあるご主人の作品などを展示するギャラリーを併設したお洒落なお蕎麦屋さんですが、娘によると、最近嵐のメンバーが出演した旅番組でも紹介されたのだとか。そのためか、行列こそありませんでしたが、観光客の皆さんか、ほぼ満席の混み様でした。

注文は、私メが二八のもりそばを大盛りで、娘ももりそばと季節メニューの牡蠣の天ぷら。家内と婿殿は、上條の独自メニューである鬼おろしそば(辛味大根使用。でも家内に拠ると余り辛くなかったとのこと)の牡蠣天ぷらとワカサギに似たチカ(北海道根室の汽水湖である風連湖で採れる小魚とのこと)の天ぷら添えをそれぞれ注文。
蕎麦は更科系で細切りの二八蕎麦。香りは余り無かったのですが、腰は強くてまずまずでした。また、家内からお裾分けでもらった牡蠣の天ぷらは美味しかったですし、家内は、
 「カキだって買えば高いのに、5個も載っていてコスパがイイ!」
と褒めていました。
こちらでは、どのメニューも、お店の方から、最初に湯飲みに入った安曇野の湧水に浸した蕎麦を先ず食べる様にとのインストラクションがあるのですが、その“拘り”の割に蕎麦の香りがしないのは却ってマイナス効果なのでは?・・・と皮肉屋の私メ的には思ってしまいます。他でも水蕎麦をウリにしている店も無いではありませんが、果たしてどうなのでしょうか。むしろ、蕎麦よりも安曇野の天然水の方が美味しい!(ポットに入っていて自由に飲むことが出来ます)。
お三方は、ここの別の名物でもあるというアップルパイを食後のデザートにご注文。ホールのパイにふじリンゴを丸毎1個使っていて、シナモンが良く効いていて美味しかったそうです。味見をしましたが、個人的にはもう少しリンゴに酸味を(レモン果汁を多目にして)効かせた方がより美味しく感じると思います。本来、酸味のある紅玉の方がアップルパイには向いているのですが、今では入手困難なので止むを得ないでしょうね。
 食後は、せっかく安曇野まで来たので(せめてどこか観光にと)、国内有数の飛来地という豊科に在る犀川ダム湖の“白鳥湖”に寄ってみることにしました。場所は豊科田沢地籍。安曇野インターから安曇野スイス村方面へ向かう道路の途中に案内板があり、犀川方面へ向かって1㎞足らず。
田んぼの中の狭い道を行きますが、最近では結構有名になり、観光バスの駐車場まで近くに用意されているとか。自家用車は犀川の土手横に広い駐車スペースが準備されていました。ただそこまではすれ違いもやっとの狭い道と舗装されていない砂利道を進みます。駐車場には正月最後の日曜日とはいえ結構な台数の車が停まっていて、観光客や野鳥愛好家、アマチュアカメラマンなどの皆さんが(遠方からも)来られているようです。
数年前の鳥インフル禍の時は立ち入りが禁止されていましたが、今では又自由に見ることが出来ます。但し、ワンコは入場禁止。
後でネットで調べると、“犀川白鳥湖”には1984年に初めて白鳥(コハクチョウ)の飛来が確認されて以来、34年目となる今シーズンは1月1日現在で198羽飛来との情報が掲載されていました。
H/Pに拠ると朝6:30と夕方4:00に地元有志の方々が見守りボランティアでエサをあげているようですが、着いた時間が1時過ぎでその中間だったためか、自分たちでエサでも探しに皆どこかに遠征中で飛んで行っているのか、ダム湖にはホンの数十羽しか残って居ませんでした。むしろ、近くの池におびただしい数のカモがいて、こちらの方が却って見応えがありました。
多い年は1000羽近い飛来があるそうですが、余りの白鳥の少なさに些か拍子抜けで、スゴスゴと、
 「じゃ、家に帰ろうか・・・」
この日は、常念を始め北アルプスの白き峰々も雲の中。雪雲に覆われていて、せっかくの雄姿も残念ながら拝むことは出来ませんでした。
 「ま、山は逃げないし、また来いってことだね、きっと!」
と、暗に娘たちの又の帰省を促して、電車の時間まで一旦自宅に戻ることにしました。
【注記】
富山の氷見湾の寒ブリが、飛騨高山から“鰤街道”とも呼ばれる野麦峠を越えて信州松本平に運ばれて来たことから、長野県の中部以南は年取りの魚はブリ。一方、長野県の北部は新潟の日本海から千曲川を鮭が遡って来たことから、長野や上田地方の年取り魚は鮭。姨捨から下った長野寄りの稲荷山付近がその境界と云われています。

 新年 明けましておめでとうございます。
2020年、信州松本より謹んで新春のお慶びを申し上げます。

 令和での初めての元旦。朝起きてみると快晴で、空には雲一つありませんでした。そこで、日の出の時刻に合わせて、ナナの散歩を兼ねて家奥さまと初日の出を拝みに家を出ました。
ナナの病気以降は、遠出となるウォーターフィールド方面への散歩は避けているので、以来この時期の日の出を見ることはありませんでした。
そこで、念のためネットで松本の日の出時刻を調べると、6:59とのこと。記憶だと7時20分頃の筈なのですが・・・
 「そうかなぁ・・・?おかしいなぁ・・・?」
 「だって、どのサイトも6時59分てあるから、間違いじゃないと思うけど・・・」
ということで6時50分に家を出ました。今年はナナだけではなく、コユキも一緒です。コユキはブリーダーからの不要犬として捨てられて4月に埼玉で保護されたので、信州の冬は勿論、もしかすると屋外の冬の寒さは“犬生”初体験かもしれません。しかし、ブリーダーの声帯除去手術の影響で喉の咽頭に出来た膜が過呼吸気味だったのが、手術の結果嘘の様に楽になって、今では飛び跳ねる様に喜んで散歩に出かけています(しかし甘えんぼう故に、すぐに家内に抱っこをせがむのは相変わらず。そのため、伊豆の大室山リフトでお会いしたイタリアンハウンドを連れの方に教えていただいた小型犬用の抱っこ紐を家内は早速購入し、散歩の途中でコユキはすぐに抱っこ紐に入ってぬくぬくと)。
ところが、7時5分を過ぎても東山(我が家周辺から見ると、この時期は美ヶ原と鉢伏山の間から太陽が昇ります)は白んではいても、お日さまは顔を出しません。やはり、日の出は私メの記憶通り7時20分頃の様です。
7時20分、我が家の辺りからだと、この時期の太陽は美ヶ原の王ヶ頭と鉢伏山の中間、ちょうど山辺の谷の辺りから上って来ます。雲一つ無い、久し振りの見事な初日の出に、家内と(ナナとコユキも)一緒に、NYに居る長女と横浜に住む次女の分も合わせて、今年一年の家族の安寧を祈りました。 

 年末年始の我が家は、ワンコたちと年寄りだけでのお年取りと令和最初の元旦を迎えました。
NYに居る長女たちとはTV電話で“Happy New Year!”。そして、新婚の次女たちとは電話とLINEの“明けおめ”メールで年始のご挨拶。
でも次女が、先に先方のご実家への新年の挨拶を済ませてから、明日婿殿と一緒に松本へ帰省してくれる予定なので、遅れ馳せでチョッピリ賑やかなお正月になります。
 世の中色々不透明さが増してはいますが、どうかフルに一年間が令和となる今年は、災害の無い穏やかな一年であって欲しいと思います。
因みに、今日掲載した写真は、我が家周辺からの令和最初となる昨日の初日の出と、隔週でお水を頂きに行っている“名水”松本湧水の源智の井戸の祠。地元の方々が定期的に清掃をして守っていただいているので、お礼を兼ねて(水は無料ですが)毎回少額ですがお賽銭を入れてお礼をしているのですが、脇の南天の赤い実も映えて、祠も正月用の装いでした。
そして、年末に東山の東雲街道は塩尻の北熊井地区から眺めた、元旦同様に快晴だった年末の北アルプス。南は穂高連峰から常念、白馬方面と続く白き峰々です。
 今年一年の皆さまのご多幸を、ここ信州松本より謹んでお祈り申し上げます。どうか良い年になりますように。
本年も、どうぞ宜しくお願いいたします。

                      カネヤマ果樹園一同+ナナ&コユキ💛

 実際に歩いて登った林大城での「山城体感」の現地説明会の翌日。
次に小笠原氏城跡の国史跡指定記念事業の一環として行われたのが、市の音楽文化ホール(ザ・ハーモニーホール。県のキッセイ文化ホールの略称“県文”に対し、こちらは“音文”)で開催された「小笠原氏城跡と魅力あふれる松本の山城」と題した講演会と対談です。
演者は昨日の中世城郭研究の第一人者中井均先生(滋賀県立大学教授)と昔からの“山城好き”で知られる噺家春風亭昇太師匠(落語は一切なく、対談のためだけに松本へ来演とは、ナントモ勿体無い!)。

 いくら山城ブームとはいえ、松本にそんなにたくさんの山城好きがいるとも思えず、人気噺家の昇太師匠が来るものの、“地味”なテーマなのでそうそう混むこともなかろうと勝手に思っていたのですが、トンデモナイ!開館時間過ぎに着いた駐車場は既にかなり埋まっていて、係員の方が誘導していました。そして会場の600人収容の大ホールもナント満席。いやはや、お見逸れしました。松本にも、山城好き、歴史好きの市民の方々は多いんですね。
それにしても、今回(昨日も配布)一番感心したのは、「信濃守護小笠原氏の城と館-井川城跡・林城跡-」というA4版8ページのパンフレットと、実際に林城を登りながら現地でも見られるようにと、ポケットサイズに折り畳まれた「林城跡 大城・小城ガイドマップ」です。
どちらもフルカラー印刷で、正確な縄張図(昨日林城にも同行された、遠藤先生の描かれた実測図)とポイント毎の写真入りの解説や、パンフには小笠原氏の系譜と年表、更に井川城跡や林城下の館跡と見られる山腰遺跡から発掘された陶磁器などの写真も掲載されていて、国史跡に指定された記念とはいえ、実に良く出来た(これだけを見ていても楽しい)力作だと感心しました。

 さて、前半は中井先生の講演「小笠原氏城跡と松本の山城の魅力」。
市教育長による開会あいさつの後、司会者の「中井先生」の紹介でステージに登場したのは春風亭昇太師匠。新婚早々の昇太師匠。会場からの祝福の拍手や声援に応えて、暫し会場を笑いで沸かせてくれました。中井先生とも旧知の仲で、先日の師匠の結婚披露宴にも中井先生を招待されたのだとか(その披露宴での中井先生の「結婚後も山城に行かせてやってください」というお祝いのスピーチが一番嬉しかった由)。
しかも驚いたことに、この日1時の開演に向け、中央線のあずさが運休中のために北陸新幹線の長野経由で9:50分に松本駅に到着し、迎えに出られた中井先生と一緒に林城の大城と小城の両方とも登って見学し、開演15分前のギリギリ12:45分に会場に到着したのだとか。2時間で両方の山城を登って見るというかなりのハードスケジュールで、「ハァ~、大したもんだ!」と本物の山城好きに感心(確か以前TVで師匠が一番好きな城は、地元静岡県の美しい「障子堀」や「畝堀」で知られる、北条氏が築城した山中城だと仰っていましたっけ)。
 さて、師匠に代わって登場された中井先生のお話によると(昨日も概略の説明は現地でもありましたが)、松本平を含めた信濃の山城の特徴として、この林城だけではなく近くの山家(やまべ)城や埴原城にも平石積(安山岩や玄武岩)の石垣が見られるのが大きな特徴であり、それは旧四賀村の虚空蔵山の殿村遺跡で発掘された15世紀の石垣は石積みの宗教遺跡との関連性(山城築城時に参考にした)も伺えるのだそうです。
松本に平積みの石垣が多いのは、三城から美ヶ原への登山道に見られる鉄平石(安山岩の一種)も板状に剥がれますので、このエリアではそうした積み易い平らな石が多く産出されるからだろうと思います。
因みに、平積みではありませんが、松本城の野面積の石垣にも山辺地区で産出された山辺石が使われています。
先生の説明では、1576年の信長の安土城築城により初めて石垣と瓦葺の天守などの建物が出現し、その後の近代城郭のモデルとなったそうですが、城という漢字が石ヘンではなく土ヘンに成ると書いている様に、それ以前の中世の山城は殆ど土で築かれている中で、安土城以前の15世紀から16世紀始めにかけて石垣が築かれている山城が限定的に見られるとのこと。それは近江、美濃、播磨と備前の一部、北九州、そしてこの松本を中心とする信濃の一部。
例えば、近江(滋賀県)の守護だった六角氏が築いた観音寺城は有数の石垣を伴う山城で、名前から推測される様に観音正寺との関連が伺われるが、寺院には古くから石垣が使われていることから、寺の持っていた石積みの技術を取り入れたことが考えられるとのこと(安土城築城の20年前1556年の寺の記録に、観音寺城の石垣の石積みに協力させられた記述があるとのこと)。
近世城郭のモデルになったその安土城も、信長が比叡山の焼き討ちの時に寺院の見事な石垣を目にして、その石工集団であった穴太衆(あのうしゅう)を使って安土城の石垣を築かせたというのは云います知られた話ですから、安土城そのものも寺院の石垣を参考にしていることになります。
松本でも、旧四賀村の虚空蔵山にある殿村遺跡は、近くに山城もあって、信仰の山である虚空蔵という名前の通り、宗教施設も在ったと考えられることから、松本周辺の山城に石積みが見られるのは殿村遺跡との関連性も考えられるとのこと。

 それにしても、なぜ中世城郭の方が面白いのか。
それは松本城も然りなのですが、江戸時代まで残った近世城郭は、明治維新以降、城郭の殆どが壊されて改修されており、現存している城郭も残っているのはせいぜい本丸の一部で、当初の全体城郭の1~2割なのに対し、中世城郭は(廃城されたが故に)その遺構がほぼ100%残っていて、その全体像を見ることが出来るからだとか。しかも、全国には3万とも4万とも云われる山城が存在するのだそうです。ナルホドなぁ・・・と納得然りでした。因みに、長野県内にも800近くもの山城があるのだそうです。確かに小学生の頃に学年(といっても1クラス)の遠足で行ったことがありますが、多分桐原城と林城(大城)だったと思います。
 そして、お二人のお話で印象的だったこと。
それは、各地の山城を訪ねて現地に行って、タクシー運転手に行先を伝えたり地元の方に場所や道を聞いたりしても、帰ってくる答えは必ず決まって、
 「そんな所に行っても、何にも無いヨ!」
お二人曰く、
大人たちがそうなのだから、それを聞いて育った子供たちも自分の故郷には何も無いと思ってしまうのは当然。
 「そんな“何も無い”故郷に、大人になっても帰って来る筈が無いじゃないですか!。」
松本の林城が素晴らしいのは、地元の人たちが地元のお宝としてその価値を知っていて、昔から古城会を作ってコツコツと登山道や説明の看板を整備して、更には手作りのパンフレットや、登り口にはお手製の竹の杖まで用意されていたこと。
是非、今回の国史跡指定を機に松本の皆さん全員がその価値を知って、この松本に来れば、近世城郭の代表である国宝松本城と共に大規模な林大城小城や他にも小笠原氏に関連した山城を一緒に見学して、それこそ中世から近世への日本の城郭の変遷を一度で体感することが出来るということを、是非松本のお宝として認識し大切にして行ってください!・・・。

 我々、地元の松本市民以上に熱く語るお二人に感動すら覚え、松本に暮らす人間としてその認識を新たにした次第です。
対談の最後に昇太師匠曰く、
 「明日じゃないと特急あずさは動かないので、来た時と同じように当初は長野経由の北陸新幹線で東京に帰るつもりだったのですが、せっかくの機会なので、別の松本の山城も見たいですから、さっき奥さんに電話して、今日まであずさが動かないのでしょうがないから明日帰ると電話をしてOKしてもらいました。だから、明日は松本のどこかの山城でお会いしましょう!」
・・・師匠、さすがデス!

 今年の追加指定も含め、昨年国指定史跡となった小笠原氏城跡。その指定記念事業として松本市の教育委員会が開催した二つのイベントに参加してきました。

 室町時代に信濃国守護に任じられた小笠原氏。武田信玄に追われ、上杉謙信を頼りその後流浪の身となりながらも松本藩主として復活。大坂の陣で武功を挙げて最後は北九州の小倉城主として“栄転”し、明治維新まで大名家として生き永らえただけでなく、小笠原流として武術や礼法までにその名を遺す名族でもあります(伝説的には小笠原諸島発見も)。
戦国時代を経て江戸時代に至るまで、大名家として最後まで続いた室町時代の守護大名の系譜を引く家は、佐竹(秋田)、京極(丸亀)、島津、宗(対馬)と小笠原の僅か五家にしか過ぎないのですから、これはこれで凄いことでもあります。途中、武田信玄に塩尻峠で負け、その後攻め込まれてこの林城を捨てて退散するなど、些か情けないところもあるのですが(江戸時代は仙石氏が藩主だったのに、ずっと真田氏を慕う上田に比べ、松本の藩祖というべき小笠原氏は松本を捨てて逃げて行ったためか、松本ではあまり人気が無い気もしますが?・・・)、大坂夏の陣に出陣し武功を挙げて認められ、その後明治維新まで続く小笠原氏の“栄転”につながります。
その小笠原氏が守護職から戦国大名まで治めていた信濃国の国府である深志(府中或いは信府)で、彼らの館であった井川城と戦国時代を迎えての居城としての林城(大城、小城)の城跡群が、昨年から今年に掛けて揃って国指定史跡に登録されました。因みに松本市内の国指定史跡は松本城、弘法山古墳に次いで小笠原氏城跡が三つ目。松本では開智学校の国宝指定で沸いていますが(確かにこんな田舎に隣接して二つの国宝建築があるのは凄いことですが)、全国にたった12の現存天守で、その内6つしかない国宝の天守閣を持つ平城の松本城だけではなく、山城の林城の二つも国指定史跡のお城がある松本という街は客観的に(城好きにとっては?)凄い所だと思います。
 その国指定となった記念事業の一環として行われたのが、10月26日に山城の林城址を実際に歩いて登り、その山城の縄張りを現地で見学しながら、最後は主郭(本丸)跡での専門家の解説を聴くという現地講座。
小笠原氏が居城を構えた林城址は大城と小城からなり、以前松本歴史ウォークで館(城下町)があったとされる大嵜埼(おおつき)地区の登山口から急坂を上り、金華橋へ尾根を下ってきたことがありますが、今回は金華橋から尾根沿いに残る山城の掘割などの遺構を確認しながらの“登山”となります。

 当日は、金華橋の袂にある林大城への登り口が集合場所。
前日はかなりの雨が降ったのでぬかるんでいるかもしれず、薄川沿いに駐車スペースに車を停めて、山道で滑らない様にと登山靴を履いて向かいました。市教育委員会の担当の方に受付をして、待つこと暫し。やはり中高年の方が多かったのですが、城好きの方が50人程集まり、全体説明の後、順番に登って行きます。途中のポイントポイント毎に係りの方からの現地説明を聞きながら歩を進めます。
戦国時代になって、小笠原氏もこの二つの尾根に大城と小城を構え、その谷合(大嵜埼地区)に館(林山腰遺跡)を建てて城下町を形成していました。金華山の尾根伝いに林城の縄張り(城の設計図)が現れてきます。林城の大城は標高差200m。全長1㎞近い尾根筋に、大きなV字型の堀切や三日月状の無数の平場、土を積み上げた土塁(土手)、急な壁のような切岸など、群雄割拠の戦国乱世を迎え、平地の井川館から移り、防御のための築かれた山城です(武田信玄に攻め込まれてこの林城は自落し、戦わずして退散)。
 今回の講師の中井均先生(滋賀県立大学教授城。我が国の中世城郭研究の権威)に拠れば、ジャンルとして見ると、近世城郭の天守閣は建築だが中世城郭の山城は土木なのだとか。どの様な意図を以って土木工事を進めたのかが山城の縄張りであって、今も残る土木工事の後を見ると、その狙いが手に取るように読み取れるのだとか。
そして、近代城跡の二の丸と本丸風の、土塁に囲まれた広い副郭、主郭という平場。主郭は幅23mで長さ60mの大きさ。そこに立て籠もるための櫓のような建物があったとされています。
信長が安土城を築く前の15世紀の山城には、近代の城のような大きな石垣も天守閣も無く、土塁や板張りの館だったとされます。
 城郭考古学の専門家である中井均先生と長野市の中学教諭で同じく城を研究されている遠藤公洋先生、そして地元の林古城会の事務局長さんによる、主郭で行われたミニトークショー。因みに、ガイドマップに掲載されている林城の縄張図は遠藤先生が調査計測されて描かれたのだそうです。
興味深かったのは、この山が入会地だったことから戦後まで植林されていなくて、今よりもっとはっきりと縄張が確認出来たということでした。現在の松林はいずれ倒れて縄張りを壊す可能性があることから、松を伐採することが史跡として維持保存するための課題となり得ること。そうすれば、草刈りなど大変な部分はあっても、「障子堀」の遺構で有名な静岡県三島市の山中城の様に縄張が実感出来るでしょう。そして更には、林城の後方に位置する、水利確保のために築かれた山城「水番城」も小笠原氏城跡であり、谷合を守る三角形を形成する林大城・小城と合わせた三つの城で小笠原氏城跡として本来指定されるべきこと・・・などなど。
 “地元の宝”を守る林古城会の事務局長さんは当然として、城跡研究の専門家の皆さんが熱く語る林城の魅力など、松本に住む市民としては、なかなか興味深いお話を聴くことが出来て、とても楽しめた林城ウォークでありました。

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