カネヤマ果樹園 雑記帳<三代目のブログ>
リンゴ園脇に父が植えた二本のひらたね(平核)という渋柿があって、秋になると祖母や母がコタツで柿の皮を剥いて、風通しが良くて雨が当たらぬ母屋の車庫の軒先にたくさんの柿を干していました。

そしてやがて柿に白い粉が吹いてくると、コタツに座って夜なべ作業で柿を一つずつ何度も何度も揉んでは柔らかくしていたものでした。
祖母や母が作れなくなった後も、毎年結婚以来ずっと一緒に手伝って来た家内が、戸建てに居た頃はベランダの物干しに吊るして、毎年100個近くの干し柿を作っていました。
10月末から11月に掛けて、我が家だけではなく、特に農家ではこうしたたくさんの吊るされた“柿すだれ”が見られるのが、この晩秋の時期の“里”の風物詩でもありました。
柿の木が二本もあると、“なり年”に依る多少の差はあっても、毎年たくさん柿が採れたので、横浜に暮らす母方の叔母に送ったり、希望されるご近所さんにあげたりもして、それでもまだたくさん木に残ったまま完熟した柿は、今度は冬の間の鳥たちの大事なエサになっていました。


終活のため戸建てや母屋も畑も処分して、マンションに移って四年。当然柿の木はもうありませんし、またマンションでは干す場所も無いことから、我が家では秋の“柿すだれ”は無くなくなっていました。またマンション周辺のエリアを見ても、ワンコの散歩中にこの渚地区でも本棟造りの旧家などでは時折見掛けることはあっても、以前の農村エリアとは異なり、街中で“柿すだれ”を見掛けることも殆どありません。柿すだれはやはり“里の秋”の風物詩なのでしょうか。

干し網は、戸建てに居た頃は薪ストーブの燃えた後の灰で作った焼き芋を切って自家製の干し芋を作っていましたし、マンションに移ってからは時々生のキクラゲをたくさん買っては天日干しにして、体に良い栄養素が多く含まれるという乾燥キクラゲを作って、次女の所にも持って行って料理に使っています。干し柿は、南側のベランダの洗濯物の物干しでは一日中日当たりが良過ぎるので、日差しを避けるべく別の西側のベランダに布団干しを持って行って、物干し竿を通してそこに吊るすのだとか。
そう云えば、切り干し大根や干したかんぴょうは、毎年祖父母が夜なべで大根とユウガオを薄く剥いては、何日も天日で干して作っていました。昔の農家では出来るだけ自給自足で、特に何も採れない冬場の間の食材作りを自家製で作るのが当たり前でした。
子供の頃の一大イベントだった小学校の運動会や地区対抗の区民運動会では、お昼休みのお弁当にはかんぴょうの太巻きのお寿司がお稲荷さんと一緒に必ず入っていたものです。
祖父母が亡くなってからは、かんぴょうも切り干し大根も作ることはなくなっていましたので、自家製の切り干し大根は、我が家にとってはそれこそ半世紀ぶりでの復活なのかもしれません。

その結果、初めて挑戦したマンションのベランでの干し柿や干した保存用の白菜作りも何とか上手くいきそうですので、気を良くした奥さまはもう一度産直に買い出しに行って、白菜を合わせて6玉、干し柿を全部で60個、切り干し大根はナント5本で作ることになりました。
以前にも書いたと思いますが、以前住んでいた沢村は城山山系に遮られているので、北アルプスの峰々を見ることは出来ませんでした。
松本に生まれて60年、終活で渚のマンションに引っ越して、人生で初めて常念を始めとする松本平からの北アの峰々を朝に夕に眺めることが出来る様になり、季節ごとに、或いは日々、そして一日の中でも朝昼夕と刻々と変わりゆく北アルプスの様子を都度眺めては、信州松本に生まれ、そして信州松本に暮らす喜びを感じています。

残雪の映える春、夕映えを背景にして黒い屏風の様に聳える峰々の夏、秋晴れの真っ青な空を背景にくっきりと映える北アの峰々、そして雪化粧の白き峰々を赤く染める真冬のモルゲンロート・・・。




黒い屏風の様な北アルプスの峰と、その背後に拡がるバラ色の夕焼け。その赤と黒の対比が、刻一刻とその色と表情を少しずつ変えながら、二度と同じ夕景の無い唯一無二の、まさに“一期一会”とも云える景観です。
今年も、5月を過ぎると残雪が消えて、山麓にも木々が芽吹き、それまでの遠目で黒っぽかった山肌に青味が加わった夏山の装いになると、キレイな夕焼けが見られる様になります。
そして夏至をピークに太陽が高くなるに従って、日の出と日の入りの地点が段々北上していくのに伴い、松本平からは“西山”と呼ばれる北アルプスに沈む夕日が、冬は乗鞍岳よりも南の鉢盛山近くまで下がっていたのが、段々と北上して常念岳辺りまで上がって行きます。それに伴い、沈む夕日の真っ赤に染まるエリアも夏が近づくに従って、乗鞍から常念の方へと少しずつ移っていき、そしてそこをピークに、また冬至に向けて少しずつ南下していくのです(この途中、松本平では里山辺の薄川に架かる金華橋付近で、槍ヶ岳に沈む夕日“ダイヤモンド槍”を見ることが出来ます)。
今年も、7月から秋口の10月に掛けて、何度か美しい夕焼けを見ることが出来ました。




そこで今回は、今年マンションのベランダから撮り貯めた写真の中から、名付けて“北アの夕焼け八景”。一つとして同じ情景の無い、松本平から望む常念岳を中心とする北アルプスの夕映えをご覧ください。
そして最後の写真は、10月24日に撮影した秋晴れの北アルプスですが、森林限界以下から麓までの山肌は、冒頭の新緑で青味がかっていた5月の頃と比べると、何となく秋の色付いた紅っぽい色が混ざっている様な気がするのですが・・・。

【追記】


そして、美ヶ原も頂上部分は少し白かった11月3日。2000m辺りまで雪が降りてきている様でした。ただ、この日北アルプスの上の方は一日中雲が掛かっていて、里にも少し俄か雨が降ったのですが、明けて4日の朝。雲が取れた北アルプスは、乗鞍やそして常念も真っ白く雪化粧をしていました。いよいよ山は冬の装いです。
“猛暑”と云われ、35℃を超える気温も当たり前の様に感じた今年の日本列島。長期予報でも10月も暑いと予想されていたのですが、秋分の日辺りからここ信州松本もめっきり涼しくなって、その名の通り真っ赤な彼岸花を黄色く色付いた田んぼの畦道に今年もちゃんと見掛けるようになりました。昔からの“暑さ寒さも彼岸まで”という格言も猛暑の今年はどうかと思いましたが、そんな今年もさすがという感じで、季節はちゃんと巡ってしっかりと秋めいてきました。
“秋の行楽シーズン”ではありますが、必ずしも行楽地に行かずとも、身近でも秋の気配を感じられる様になりました。そんな街角で、そして里山で、見つけた身近な“小さな秋”です。

春は枝垂桜で彩られる井戸は、秋にはピンク色の萩の花が井戸端を飾ります(9月16日撮影)。

新米の価格高騰もあって、茶碗に付いた米粒に「一年間しっかりと手を掛けなきゃお米は採れねえだで、一粒だって無駄にしちゃいけんヨ!」と良く叱られた祖母の口癖ではありませんが、減反減反でまるで悪者の様に言われてきた田んぼの稲穂に、本当に何十年振りかで暖かな視線が注がれた今年の実りの秋だったのではないでしょうか。


最近は松本でも時々金木犀を見掛けますが、子供の頃は松本で金木犀を見たことはありませんでした。ですので、人生で初めて金木犀というものを認識したのは、トイレの芳香剤の匂いだったのです。
高校を卒業して、初めて信州を離れ京都の大学に進学し、キャンパス内の部室棟に行く通路の途中に大きな金木犀があって、秋になって“あの芳香剤の香り”を嗅いで、初めて臭覚ではなく視覚でも金木犀を認識したのでした(9月30日撮影)。


柿の葉の色付きは結構面白くて、赤い葉や黄色い葉もあり、そして緑色が蛇の目の斑点の様に残った葉っぱが多くて、一枚として同じ色や模様の無い柿の木の紅葉と黄葉です(10月8日撮影)。

いよいよ秋も深まり、冬の足音が少ずつ近づいて来ているのかもしれません。
(ワンコの散歩コースの赤く色付いた蔦の葉です。10月19日撮影)

(10月29日撮影)
以前ご紹介した様に、一緒に「源智の井戸」の清掃ボランティア“源智の井戸を守り隊”に参加頂いている方から、これまで「鯛萬の井戸」の清掃を続けて来た地元町会の有志三人での活動が、やはりメンバーの皆さんの高齢化に伴って継続するのが段々困難になって来ており、片や「源智の井戸」が同様に困難になった地元町会での維持管理を、行政と連携して活動のエリアを拡げ、井戸利用者などまで広くボランティアを募って清掃活動が始まったと知り、その「源智の井戸」のノウハウを「鯛萬の井戸」の今後の活動の参考にするために参加していると伺ったことから、逆に個人的には「鯛萬の井戸」の状況を参考にすべく、初めて現地を訪ねてみることにしました。

そこで私たちは、松本市が整備してきた公共井戸に焦点を絞り、どうすれば水場を「憩いの場」にすることができるのか、その政策的なヒントを提示することを目指した。
そのために、私たちは公共井戸のなかでも際立った存在感を放っていた「源智(げんち)の井戸」、「槻井泉(つきいずみ)神社の湧水」、「鯛萬(たいまん)の井戸」の3つの井戸に焦点をあてて調査を行うことにしたのである。
夏の5日間の調査の結果、大きな課題が見つかったのは「源智の井戸」である。存続の岐路に立っているといっても過言ではない状況下にあり、その政策的対応の方向性を示すことにした。
その一方で、「槻井泉神社の湧水」と「鯛萬の井戸」は、地域の「憩いの場」として機能しており、松本市の目指す成功事例と位置づけた。そこで、なぜ「憩いの場」になっているのかを明らかにすることにした。(以下略)』


そんな“優等生” だった筈の「鯛萬の井戸」の現状が心配になり、「源智の井戸」に関わる者として決してヒトゴトではないことから、“三現主義”ではありませんが、「鯛萬の井戸」を初めて実際に見に行くことにしたものです。

松本城下では、お城やその周辺の武家地、そして善光寺街道筋である町人の街である当時「親町」と呼ばれた3町(本町・中町・東町)を「表」とすれば、「枝町」としての現在のこのエリアの上横田町と下横田町を、親町の「表」に対して「裏」と捉えることが出来ます。。
このエリアは、その江戸時代には多くの茶屋等が軒を連ね、明治に入っても藩財政の窮乏を補うため、この東町と横町に限り売女渡世免許が認められ、明治10年には遊郭設置の場所としてこの横田耕地が選ばれるなどして、昭和34年の売春禁止法が施行されるまで栄え、また芸者を抱える料理営業店も集積していました。そして、明治期以降養蚕業を中心に栄えた“商都”松本の盛り場として、その後も平成初期まで賑やかな状況が続いたエリアでもありました。
そんなエリアに在った松本の老舗の割烹料亭が「鯛萬」であり、その「鯛萬」が大正11年に掘って使用していた井戸が料亭移転後も地元で大切に守られ、平成15年に市の「街なみ環境整備事業」により周辺が井戸公園として整備されました。その後、地元の有志3名の方が井戸の清掃を毎週続けられて維持管理されています。
当時のレポートに依ると、「どうして外部の掃除ボランティアに頼んで、掃除する人数を増やさないのか?」という問い掛けに対し、『外部ボランティアは普段から井⼾の近くにいることが難しく、利⽤者が井⼾を利⽤する様⼦を⽇常的に⾒ることができないので、現管理者の価値観を完全に理解することが難しい』とのことで、その時点では地元有志だけでの維持管理を標榜していた様なのです。
確かにその通りで、以前私も書いたのですが、「源智の井戸」の清掃ボランティア発足にあたって、個人的に会議の中で力説しお願いしたのが、
『少子高齢化とドーナツ化現象で市の中心街の人口が減っており、人手の無くなってしまった地元町会は清掃活動そのものからは“卒業”しても、その代わりに、日頃の井戸の様子は地元に住んでいないと把握できないため、町会長はじめ地元の方々に出来るだけお願いして、日頃気の付いたことを市の担当課等へその都度連絡いただく』ということでした。
そして、そのことをキチンと取り決めとして議事録に残し、地元町会と確認させていただいた様に、そうした地元の方々に依る日頃の見守りが絶対に必要不可欠なのです。
しかし地元に拘るが余り、それによって担い手が減り後継者が集まらず、もし大切な井戸が寂れてしまってはそれこそ本末転倒であり、外部の手を借りながら、如何に地元がしっかりと目配りや気配りをしていくかが今後への鍵だと思うのです。


塩屋小路からは車で入ることも出来そうですが、「鯛萬小路」を歩いて行った方が風情があります。
もし時間があれば、近くに松本市内で今も唯一残る酒蔵、善哉酒造の仕込み水にも使われている名水「女鳥羽の泉」もあるので、そこまで足を延ばしてみるのも良いかもしれません。

先述のレポートの中で、「鯛萬の井戸」が市民の“憩いの場”であるのに対し、「源智の井戸」は「殺伐とした」単なる“水汲み場”になっているとの指摘は、市の中心街に在り、人通りが多い高砂通は城下町特有の狭い一方通行のため、井戸の脇に遠慮してギリギリに一台しか車を停める場所しかない「源智の井戸」と、片や路地の奥の広々とした公園の中に佇み、井戸を目当てに来る人しかいない「鯛萬の井戸」との、その置かれた環境の違いが大きいのだと個人的には感じました。
「鯛萬の井戸」は、御影石の石造りの水槽に囲まれた井戸の縁の真ん中からこんこんと水が湧き出していて、二段になったその水槽の周りもまた御影石の石畳で覆われています。「源智の井戸」の木製の井桁と比べると、遥かに磨いて藻を落とし易く感じます。

東屋の梁には何本もの柄杓や、その柄杓で水をすくって口の細いペットボトルに入れる時用のジョウゴがやはり幾つも吊り下げられていて、水を汲みに来る利用者の便宜を図っています。
お水を頂いてみると、雑味の無いとても柔らかな水でした。ただ、10年来使わせて貰っている「源智の井戸」の水に比べると、両者の硬度の違いではなく、「源智の井戸」の水は甘い気がするのです。飽くまで私個人の嗜好ではありますが、“甘露”と呼んでも良い程に甘く感じる「源智の井戸」の水の方が個人的には美味しく感じます。

もしかすると、公園が市の管理であれば、定期的に業者に依る草刈り等がされているのかもしれず、今回はその直前で、雑草が伸び放題の時期の井戸にたまたま来てしまっただけなのかもしれません。
しかし、後日「源智の井戸」清掃ボランティアに参加いただいている方にお聞きしてみると、公園の管理も含め全て地元町会に委ねられているとのことで、市の公園緑地課が草刈りをすることは無いのだそうです。

「源智の井戸」清掃ボランティア全体として市内の他の井戸と連携し、清掃のお手伝いするのはスタートしたばかりで些か時期尚早ではありますが、私個人としてなら別に構わないので、井戸清掃ではなく出来ることからお手伝い出来ればと思った次第です。
草間彌生の作品展示で知られる松本市美術館で、7月12日~9月23日まで行われていた『ロイヤルコペンハーゲンと北欧デザインの煌めき』展。
シンガポール時代に、奥さまが藍色の小花模様の「ブルーフルーテッド」と呼ばれるロイヤルコペンが好きで、大物から小物までのテーブルウェアのセットを、コーヒーと紅茶のカップ&ソーサのセットに始まり、スープ皿や、プレート、ティーポット、そしてシュガーポットやミルクピッチャーの小物に至るまで殆ど集めていた(私メの酒代とタバコ代に対抗してとの仰せ)こともあり、彼女のリクエストで見に行くことにしました。この展示は、前年には横須賀などで、また松本の後は群馬の県立美術館でも行われる予定の巡回展の様でした。



我々が見に行ったのは9月中旬の三連休だったのですが、会期の終盤だったせいか、企画展はそれ程混んではいませんでしたが、展示内容からでしょうか、来られていたのはさすがに殆ど女性の方々ばかりでした。
今回の企画展は、趣旨に依ると、
『冬の長い北欧では、家で過ごす時間を大切にし、生活の中に優れたデザインを取り入れてきました。本展では、デンマークとスウェーデンに焦点をあて、19世紀末から20世紀の陶磁器、銀器、ガラス器を中心に北欧デザインの魅力に迫ります。』
展示の中心は、デンマークの王立磁器製作所をその起源とすることから、ロイヤルという称号を冠するロイヤルコペンハーゲン。そして、銀製品で知られる同国のジョージジャンセン。
そして、スウェーデンからは、ノーベル賞授賞式の晩餐会で使用される食器で知られる、北欧最古の陶窯というロールストランドと、同じくスウェーデンのスモーランド地方で古くから盛んだったという、ガラス工芸作品が併せて展示されていました。
因みに、ロールストランドは1726年にスウェーデン王室御用達の釜として創業した、ヨーロッパで2番目に古い歴史を持つスウェーデンの陶器メーカーで、今年も受賞された日本人お二人が参加されるノーベル賞授賞式後の晩餐会で使用される食器は、決まってそのロールストランドの「ノーベル」なのだそうです。


(ロイヤルコペン ブルーフルーテッド1785年)(同 水草魚図花瓶1894)





(同 花文花器1920)


(ジョージジャンセン ソースポットとプレート、レードル)
(同 カトラリー 谷間の百合/ローズ)


(ロイヤルコペン 仲良し犬置物1900-03)(同 眠り猫置物1902-28、1958)


個人的には、ロイヤルコペンと聞くと、ブルーフルーテッドと呼ばれるコバルトブルーの小さな花模様と、後は奥さまも集めていましたが、クリスマスシーズンのイヤープレートくらいしか知りませんが、他にも花が大きなブルーフラワーや、、柿右衛門様式に代表される日本の陶磁器の様な色絵の花鳥などを描いた作品、またリヤドロの様な動物や人間の置物もありました。
他には同じデンマークの陶器メーカーというビングオーグレンダール、そこ出身だという銀製品のジョージジャンセン、またスウェーデンのロールストランドやガラス製品も展示されていました。
企画展の後、せっかくなので常設展の草間彌生の作品なども見学。ここは企画展よりもむしろ混んでおり、鏡の部屋などは20秒ずつの入れ替えでの鑑賞で行列が出来ていて、観光で松本に来られた方々なのか、さすがは“世界の草間彌生”を実感させられました。





