カネヤマ果樹園 雑記帳<三代目のブログ>
毎朝のワンコの散歩コースの途中に在るお宅。そのお宅の生垣の道端に毎年5月に咲く白い花。それは今まで一度も見たことが無かった花でした。
たまたま昨年の春、タブロイド判の地元の“日刊地域紙”の最終頁にある「四季の花」というコラムに掲載されていて知ったのですが、それは「ホワイトレースフラワー」という名前の花だったのです。それにしても“言いえて妙”で、本当に白いレース編みのコースターや花瓶敷を思わせる様な、そんな花だったのです。


5月21日には松本が全国4位となる34℃を記録するなど暑くなってきたので、まだ5月ですが早々と“サマー・タイム”にして朝6時半から、また多少涼しい日は7時くらいから散歩する様にしました。
先日もコユキの散歩を済ませ、7時半頃からクルミの散歩に出掛けました。マンションの敷地内は犬は抱かないといけないルールなので、いつも近くの渚の公民館のところまでは抱いて行ってから散歩をスタートします。
この日、朝の出払いか、近所のご婦人方が集まって早朝から何かお仕事をされていたらしく、ちょうど終わって皆さんが帰るとことでした。
するとシーズーの梅ちゃんの奥様もおられ、
「あらっ、クルミちゃん!久し振りね、元気だった?」
そして、奥様はご一緒されていたおばぁちゃまに、
「ほら、ウチの梅と同じシーズーのクルミちゃん!保護犬なんですって・・・」
どうやらご一緒におられたのはお母様の様です。クルミは臆病で寄って来る他の犬は怖がるのですが、反面人は大好きで、お二人が帰る後を追いかける様に一緒に歩いて行きます。
ホワイトレースフラワーの咲いているお宅まで来て、何となく私の口から自然に出たのが、
「ホワイトレースフラワー、本当にキレイですね。実際に生えているのを見たのはコチラが初めてで、園芸店でも今まで見たことがありませんでした。」
園芸好きのおばぁちゃまの仰るには、以前オープンガーデンを見に行った時に、そのお庭に群生しているのを見て気に入ったのだそうです。そして、そこから暫しおばぁちゃまと花談議になりました。以前戸建てに棲んでいた時に、ゼロから自分で作庭したこと。そして色んなハーブを育てたこと。でも花壇だけは毎年二回、家内がナカツタヤに植生を任せて植えて貰っていたことなどなど・・・。すると、
「もし宜しかったら、切り花でお持ち帰りになりませんか?」
「いえ、道を通る人に見て貰った方が花も喜ぶでしょうから、切ったら勿体無いです。」
でもたくさん咲いているし、零れ種でどんどん増えるんですと仰るので、
「じゃぁ、一輪挿しに飾りますので、一輪だけいただけますか?」
すると、おばぁちゃまはハサミと新聞紙を家から持って来られ、一輪どころか大きな花束になるくらいに50本以上も切って下さって、新聞紙に包んで渡してくださいました。
「水切りすると結構長くもちますからね。必ず水切りしてくださいね!」

そこで同じマンションで、以前母の葬儀の時に、コロナ禍では弔問だけで皆さん帰られてしまうので葬儀出席は親戚のみになるため、たくさん上がった生花は花束にして親戚に出来るだけたくさん持ち帰ってもらったのですが、それでもたくさん余ってしまい、たまたまマンションの駐車場で居合わせた小さな姉妹が花が大好きというマンションの同じフロアの方に経緯を説明し、「母の葬儀で使った花なのですが、もし宜しければ・・・」と持ち帰った花束を貰って戴いたのが縁で(他にもお二人に貰っていただきました)、その後独りの時に親戚の法事等で花を持ち帰らざるを得ない時などは、その花好きの小さな姉妹に花をあげて家で飾ってもらっていました。そこで、今回も半分をお裾分けして喜んでいただきました。

『 【ホワイトレースフラワーのデータ】
花色:白 学名:Ammi majus 別名:ドクセリモドキ 科名:セリ科 分類:秋まき一年草~二年草 原産地:地中海沿岸 大きさ:背丈80~150cm、横幅30~60cm 主な見所:花(5~7月)

カーテンのレースのような繊細な姿から切花としてよく使われています。小さな白い花が集まって花序になり、それが花茎の先に10数個つけるのでよく目立ちます。葉は複葉で、株はロゼット状になり花どきにとても長い花茎を伸ばします。場合によっては背丈を超えるほど大きくなることもありますが、水や肥料を控えめにしてセーブしつつ締まった株に育てます。
レースフラワーと呼ばれるものには他にブルーレースフラワーがありますが属が違う別種になります。またホワイトレースと呼ばれるオルレア・グランディフローラとも属が違う別種です。』
そこで、
『 【オルレア ホワイトレースのデータ】
花色:白 学名:Orlaya grandiflora 別名:オルレア・グランディフローラ、オルラヤ 科名:セリ科 分類:多年草(常緑)、秋まき一年草扱い 原産地:ヨーロッパ 大きさ:背丈10~60cm、横幅15~50cm 主な見所:花(4~7月)
【オルレア ホワイトレースの特徴】
白い花が集まってレースのような花序になります。株の大きさにしては花が大きくよく目立ちますが全体的には自然な印象です。葉は切れ込みの多い緑、冬はロゼット状ですが春になると長い花茎を伸ばします。茎は比較的硬めで切花にも使えます。タネからでも比較的楽に育てられます。また、暑さに弱く暖地での夏越しは難しいですが、こぼれダネでよく増えます。郡植させると見事です。』 (左がオルレア・ホワイトレース、右がホワイトレースフラワーです)

それは『日本ではオルレアとして主に流通している園芸品種の“ホワイトレース”のほうが学名より先に有名になったため、ホワイトレースと呼ばれることもあります。 しかし、別の草花であるホワイトレースフラワーと名前も草姿も似ているため混同されることが多く、近年ではオルレアと呼ばれるようになっています。』ということなのでした。

そこで、おばぁちゃまにもネットの園芸図鑑の記載とそれぞれの写真をダウンロードして印刷し、花を頂いた少しばかりのお礼を兼ねてお渡ししました。
でも「オルレア・グランディフローラ」とは言いにくいですし、ホワイトレースの方が言葉としては語感がキレイなのですが、だとすれば混同を避けるためには、せめて「オルレア・ホワイトレース」と呼んだ方が良いのでしょう。

信州の春の野山は山菜シーズンです。
フキノトウに始まり、“山菜の王様”タラの芽、コゴミ、ワラビ、ゼンマイ、コシアブラ、そしてネマガリダケ・・・。
野生という意味では、セリや山ミツバ、野蒜なども山菜に入るかもしれません。
特にこの時期になると、黒姫や妙高、志賀高原など、雪深い山で採れるネマガリダケ(「根曲がり竹」。正式にはチシマザサという笹の一種)が人気ですが、ネマガリダケに限らず山菜採りでは山での遭難や近年ではクマ被害なども毎年ニュースになるので、山に入る際は気を付けないといけません。
山菜を採る楽しみを別とすれば、もし食べるだけだったら地場のスーパーにもタラの芽などハウス栽培された山菜なども並ぶのですが、やはり野生のモノと比べると苦みが無いので美味しく感じられません。
“野趣を味わう”という意味では、苦みだけではなくえぐみ(蘞味)でさえ、時としてその野趣を感じさせてくれるので、山菜はハウス栽培ではなく、やはり野生のモノに軍配が挙がる気がします。
(上の写真は、昔母屋の中庭に父が植えたタラの木と以前頂いたコゴミです)



信州では野蒜とは言わず、方言で「ネンボロ」と呼んでいました。春になるとリンゴ園や田んぼの畦道などに良く生えていたので、母や祖母がぬたにしてくれたり、刻んで醤油をかけて鰹節を散らしてご飯に載せて食べたりしていました。また小さなタマネギの様な球根状の部分(鱗茎)は一緒に刻んでも良いですが、その部分だけを切ってエシャレットの様に味噌を付けて食べると、それだけでも乙な酒の肴にもなります。
個人的には、非常に単純で素朴な刻んだ野蒜のこの“ぶっかけ飯”が大好きで、これだけでご飯が何杯も食べられる気がします。
昔リンゴ園から摘んで来て、キレイに洗ってから刻んで醤油をかけて“ぶっかけ飯”にすると、奥さまや娘たちは「えっ!そんなモノ食べるの?」と少々呆れ顔で、誰一人として食指が動きませんでしたが、個人的にはフキノトウと共に春を感じさせてくれる“旬”の山野草でした。その意味では、もしかすると味と云うよりも“春”そのものを頂いていたのかもしれません。

昨年、花の時期が過ぎていたためだろうと思いますが、半値に値引き販売されていたので買った、ミニ盆栽とも言えそうなボケの小鉢。
一本の木に紅白の花が咲く「東洋錦」という種類。この東洋錦は赤、白、そして白地に赤の絞りと咲き分けするボケの代表品種で、ボケは大正時代にブームが起こり、その時にこの東洋錦など“花ボケ”と呼ばれる様々な品種が生み出されたのだそうです。

ボケは昨年伸びた枝(二年枝)には花が咲かないそうです。リンゴも二年枝は実が大きくならないので、他の枝に養分が回る様に花を全部取ってしまいますが(摘花)、ボケも同様に三年目以降でないと使えない様です。
因みに、漢字では木瓜と書くボケはリンゴと同じバラ科の植物で、それぞれボケ属、リンゴ属と同じ科でも属が異なります。
品種改良を繰り返したリンゴ程ではないかもしれませんが、バラ科なので病害虫には弱いのかもしれません。でも鉢植えで室内に置いているので、庭植え程は気にする必要はないかもしれませんが・・・。
秋になって葉が落ち、伸びた枝の中で3年目に花を付けさせたい枝以外は剪定で切り戻して、冬の間も土が乾かぬよう定期的に水を遣りながら部屋の中で管理して、早春にまた花が咲くのを楽しみに待っていました。


3月中旬、一輪も花が咲かないまま葉が芽吹き始めました。そして、そのまま葉だけが次々に開いて来て、新しい枝やひこばえ(蘖)も伸びて来たので、他の枝に養分が回る様にとひこばえは切り落としました。

『ボケは適度な寒さで花付きを良くすることが必要です。適度な寒さにさらすことで花付きを良くするのです。ボケは陽樹ですので、なるべく日に当てて夏の間は枝を伸ばし放題にします。そうやって来春の花芽を定着させ、葉が落ちたところで、花芽が表に出るように剪定をして春を待ちます。』
とのこと。
どうやらボケは、冬の間に或る程度の寒さに当たらないと花が咲かないのです。また、我が家の様にずっと室内に置いて置かずに、ちゃんと戸外に鉢を置いていたとしても、もしも花芽が膨らむ前に家の中などに取り込んでしまうと、逆に花が咲かないなどの弊害が出てきてしまうのだそうです。
知りませんでした。どうやら植物も、“温室育ち”ではちゃんと育たない・・・ということなのでしょう。

サクラが開花するという現象には、春の暖かさに反応して花が咲くというために、必ず冬の寒さを過ごさせることが必要です。
サクラは前年の夏頃に翌春に咲く花芽を形成し、休眠状態に入ります。秋から冬にかけて低温(氷点下の様な余り低い温度ではなく、 5℃前後と云われています)に或る一定期間さらされると、休眠状態から覚めます。これを「休眠打破」と呼び、この「休眠打破」の後に春先の気温の上昇に合わせて花芽が発育して開花に至るのですが、それは「休眠打破」以降の期間における気温の積算値が一定の基準を超えると開花すると予測する経験則、「600℃の法則」や「400℃の法則」などが一般的には知られています。
ボケにはそうした経験則的な記述は見当たりませんでしたが、ボケも「冬の寒さ」を経験することが、春を迎えるために必ず必要なのだと知りました。
ですので、今年はしっかりと冬の寒さも経験させて、来年こそはまたキレイな花を見たいと思います。
この日のお目当ては、箱根ではなく小田原です。
箱根から小田原へは道がすいていれば30分ちょっと。箱根湯本を抜けるまでは、正月のTVで視るあの箱根駅伝の山登りと山下りのコースなので、カーブが連続する山道が車で混んでいると、特に道幅が狭い宮ノ下や湯本の温泉街や商店街でもし道端に停車している車などがいたりする場合は、箱根は観光にも重宝する路線バスの本数が非常に多いことも手伝って、すれ違いが出来ずに所々で渋滞が発生して余計時間が掛かってしまうのですが、それでも小一時間足らずで小田原漁港へ行くことが出来した。

相模湾は水深1500mで、アジやシラス、そして伊豆半島の東側の下田や稲取に代表されるキンメダイが有名ですが、このキンメダイは水深200mから800mという深い所に棲むれっきとした深海魚です。
因みに三大深湾の他二つは、伊豆半島を挟んだ反対側の駿河湾と日本海側の富山湾ですが、水深は駿河湾が2500mと一番深いこともあって、沼津や西伊豆では深海に生息するタカアシガニや色々な深海魚が名物というのも納得です。そして“天然のいけす”と呼ばれ、氷見ブリや白エビ、ホタルイカで知られる富山湾は水深1200mとのこと。三大深湾のどの湾も、それぞれに魚の宝庫です。


そのため止む無く他店を探すことにしたのですが、同じビル「小田原水産会館」の一角にある鰺専門店「大原」(アジフライの評判店の由)は大行列で、一時間待ちとのことで諦め。すると同じビルの奥に在った「港のごはんやさん」という食堂(第1726話)が運良く席が空いていたので入店。こちらは朝から営業されていて、早朝のセリが終わった漁港関係者の方々に人気のお店とか。ですので、必ずしも観光客相手ではない食堂の様でした(皆さん海鮮ではなく、カレーとかトンカツとか“普通”の定食を食べていました)が、そこはさすがに漁港の店で、我々が頼んだシラス丼とアジフライのセットも本当に美味しかったのですが、一昨年は二年越しでしたので念願の「やまや」の海鮮どど丼を頂きました。

そこで今回は早めにホテルを出発し、「やまや」に到着したのが11時の営業開始30分前の10:30でした。
店頭に置かれた順番表に名前を記入すると、ナント3番目。先客はお一人様のお客さんだったので我々が3人目と4人目ということで、この日が平日だったということもあるかもしれませんが、これなら有難いことにL字型のカウンターは10席ちょっとですが(全12席だったか?)一巡目で食べることが出来ます。
11時の開店時間になって暖簾が掛けられるとリスト記載順に名前が呼ばれ、右側のカウンター席から順に詰めて着席し、その順番通りにオーダーもしていきます。

最初のお二人は常連さんなのか、煮魚定食やブリ丼を注文されていたので、この日の「どど丼」は我々が最初の注文で、最初の方々の注文の調理が終わってから我々のどど丼用の刺身をそれぞれの柵から一切れずつ切っていくので、提供されるまでにはそれなりに時間が掛かります。でもカウンターなので、一人で刺身を切る大将(まだ若いお嬢さんです)やフライや小鉢汁物を担当する他のスタッフのきびきびした仕事ぶりが眺められるので、待つのも“然程”飽きません(と言うのも、お隣のグループは、待っている間に昼間からビールやサワーを何杯も注文されていて、帰りに奥さまが箱根の山道を運転するのは絶対にイヤだというので、飲めない私メは何とも羨ましくて、「早く“どど丼”来ないかなぁ・・・」)。

どの地魚も新鮮でプリプリで、夫婦共々大好きなヒラメを始めどのネタも本当に新鮮で美味しいのですが、中でも何種類もあった鯛の中の“〇〇ダイ”(“石鯛”だったか“花鯛”だったか・・・聞いても毎度覚えられず)と地物のアジは、それこそプッリプリでコッリコリと本当に新鮮で身が締まっていてまさに絶品!でした。こんなアジが食べられただけで本当に満足です。
それにしても、さすがは“日本三大深海”相模湾の地魚です。その十数種類の地魚の中の奥さまの苦手な光り物はいつも通りに私が頂戴するのですが、この日のアジは実際に臭みも全く無くて本当に美味しかったので、「騙されたと思って食べてみたら!?」と家内にススメると、光り物が苦手な奥さまも、
「あっ、美味しい!これなら食べられる・・・」
と、生まれて初めて美味しく感じたそうです(これまでで、家内が苦手というネタを食べられたのは、今回のアジと以前南紀白浜で食べたモチガツオだけではないでしょうか)。

“海鮮どど丼”のご飯は酢飯で、普通盛りか小盛か事前に聞いてくれるので、この日は二人共普通盛りにしたのですが、さすがに家内は残さず食べるのに必死で、「もう今日は夕ご飯は要らない!」と言う程に満腹になった由。
今回も本当に満足満腹の、念願だった「めし家やまや」の“海鮮どど丼”とアジフライでした。

余談ですが、この発泡スチロールの箱は、帰る前に次女の家様に購入した「相原精肉店」のローストビーフとミートローフを入れて(松本までは、お土産に購入した場合の干物や蒲鉾用にちゃんと大きな保冷バッグを持参して来ています)、松本からクール便で送るのにちょうど良い大きさで役立ちました。


この「ミナカ小田原」は、旧小田原宿をイメージしたという「小田原新城下町」からなる商業施設だそうですが、木曽の奈良井宿や妻籠宿の様な文化的価値は全く無いとしても、箱型の近代的なビルを建てるよりも、城下町としての再生化にはむしろ似つかわしくて、観光客の集客効果もある商業施設だと思います。
ですので、現在松本はパルコ撤退や地場のデパートの閉館などに伴い駅周辺の空洞化対策が叫ばれていますが、同じ城下町であるこの小田原の「ミナカ小田原」や3年前に行った彦根で、同様に江戸時代の城下町をイメージしたという白壁と黒格子の町屋風に統一された街並「キャッスルロード」などを見倣って、単純に商業施設を誘致するのではなく、またお金をそれ程掛けずとも、縄手通りの様な江戸時代の長屋風でも良いので、松本城を活かす取り組み、城下町らしさを持った活性化に拠って、松本駅から松本城までの回遊が楽しめる様な“お城を中心とする城下町づくり”の方が好ましいのでないかと感じた次第です。
遂にというべきか、いや、でも89歳であれば「長寿を全うされた」で良いのではないか・・・。
今朝飛び込んで来た突然の訃報に、そんな正反対の想いも交錯したのですが、思えば、20年前に脳梗塞で倒れ、普通の人間なら寝たきりになる程の容態だったのが、担当医師も驚く程の厳しいリハビリを自らに課し、その結果自身の脚で歩けるまでになって、時に球場に足を運びチームに激を送るなどするまで回復されて、この89歳まで生きられたのですから、“天寿を全うされた”と言ってあげても良いのではないでしょうか。
生前の長嶋さんのエピソードは、これから暫く色んな場面で数限りなく語られていくであろう中で、個人的に印象に残っているエピソードを再掲し、偉大なる故人への追悼に代えさせていただきます。
それは15年前、2010/08/20付けのブログ記事『ちょっとイイ話-夏の甲子園に寄せて』でした。
『 夏の甲子園もいよいよ佳境を迎えています。
今年は終戦から65年。偶然にも8月15日終戦記念日の、恒例となった正午過ぎの黙祷のサイレンの時にグラウンドに立っていたのは、沖縄県代表興南高校の沖縄球児たち。本土防衛のために唯一の地上戦の戦場となった沖縄に対し、“大和ンチュー”の一人としては、出来れば、今春の紫紺に続き深紅の優勝旗も是非沖縄に渡らせてあげたいものだと願います。但し、既に沖縄県勢は、下手な同情無用の強豪県になっています。
その甲子園大会開幕直前、8月5日の朝日新聞だったと思います。
時々、スポーツ欄に辛口ながら愛情溢れるコメントを書かれている、朝日新聞現編集委員の西村欣也さんの書かれた記事(「記者有論」)が載っていました。
それは2002年、ミスターこと長嶋茂雄さんと一緒に夏の甲子園大会決勝を観戦した時の長嶋さんの言葉が、今も印象に残るという書き出しでした。
「このトーナメントではね、優勝チーム以外の全ての球児にただ一度ずつの敗戦が配られるんです。甲子園の決勝でも、地方大会の一回戦でも、ただ一度の敗戦が、野球の神様から配られているんです。壮大なトーナメントの、大きな意義がそこにあると思うんです。つまずくことで得るものが、若者にはきっとある。」
そんな長嶋さんの言葉を引用した後、西村さんは最後にこう締め括っています。
「グラウンドにがっくりとひざを折ったあと、立ち上がる少年たち。試合前と試合後のわずか数時間の間に彼等は成長する。スーパースターの誕生や名勝負にではなく、敗者に注目しながら甲子園を観戦するのもいい。」
今年の夏も、挫折から立ち上がり、やがてしっかりと前を向くであろう、
甲子園の48校を含む全国4027校の若き“Good Loser”たちに、心からエールを送ります。』
全くの偶然なのですが、今回この記事を再掲するにあたり、この記事を探したら、記事のナンバーが「333」だったのです。
偉大なる“背番号3”よ、永遠なれ!
ありがとうございました。嘗ての野球少年の一人として謹んで御礼申し上げます。どうぞ安らかにお眠りください。 -合掌