カネヤマ果樹園 雑記帳<三代目のブログ>
長女が米国に立つ前々日。4月末に横浜から次女一家も松本へきて、皆で美ケ原温泉の「金宇館」へ宿泊し、長女の送別を兼ねての激励会をしました。
美ケ原温泉の「御母家(おぼけ)姫薬師堂」の横に立つ、木造三階建ての温泉旅館「鄙の宿 金宇館」。2019年の3月から一年間掛けて“次の百年に向けて”という大幅な改装工事を行い、2020年の4月にリニューアルオープン。
昨年2月に長女がお友達と松本に泊まりたいと言うので我が家イチオシの「金宇館」を薦め、定評あった料理は勿論、リニューアル後の宿の様子も含め大絶賛していました。以前父の法要後の会席を何度かお願いしたのですが、改装後は人気の高さも手伝い、松本在住者としては誠に残念ではあるのですが、会食対応はもう不可能で宿泊客のみへの対応になっています。
そのため、今回の宿泊で久し振りに漸く「金宇館」の懐石料理をまた頂くことが出来ます。
因みに、次女一家は同じ二階ですが、「湯ノ原」という一部屋だけ奥まった角部屋の客室で、この部屋だけが子供の宿泊OKとのこと。他の客室とは離れていて、例えば赤ちゃんが泣いても大丈夫とのとのことなのでしょう。ただ一部屋しかないので、婿殿の病院の休みに合わせての予約は一苦労でしたが・・・。
清楚な一輪挿しと共に、館内に“静けさ”を作り出すための小道具として置かれた沢田英男作品。「金宇館」は騒がしい団体客を受け入れる様な大きな旅館ではありませんが、僅か9組のカップルや家族連れであっても、館内では自然と囁くように声を落としてしまう・・・あくまで勝手な個人的想像ではあるのですが、そんな行動を誘う様な見事な演出です。
チェックインが予定より遅れ、食事時間を後ろにずらしたこともあってか、殆ど貸し切り状態で、一人のんびりと奈良時代から都にも聞こえたという“束間の湯”(注)を楽しむことが出来ました。
さてと、次は金宇館での一番の楽しみ、夕食です。
【注記】
「天武天皇が束間の湯に行幸すべく、信濃に行宮を造るために三野王らに命じて信濃の地図を作らせたが、結局病のため行幸することなく亡くなられた」という記載が「日本書紀」にあるのですが、束間(つかま)というのは筑摩(つかま)で、この辺り一帯を指しています。
廃藩置県での筑摩(ちくま)県は、「つかま」では一般には読み難いからと明治政府が「ちくま」と読ませたためであり、今でも794年創建という地元の古社筑摩神社や筑摩小学校には「つかま」という古い読み方がそのまま残っています。
4月末、混むであろうGW前に米国に旅立つ長女の送別会のため、横浜から次女一家も松本へやって来ることになりました。6ヵ月を迎えたばかりの初孫ですので、場合によっては車で迎えに行くつもりでしたが(そのために、ジジババはチャイルドシートを車に既に装着済み!)、初めての箱根泊で新幹線移動(但し新横浜から小田原まで僅か15分とか)を経験したこともあり、今回は電車で松本まで来るとのこと。孫にとっては(次女夫婦も)“春の大冒険”です。
次女一家の住まいは横浜なので、JRの横浜線で八王子まで来て、そこから特急あずさに乗り換えて松本へ。とかく乳幼児が電車内で泣き騒ぎ、周囲の客の顰蹙を買って若いお母さんが困り果てて・・・ということを良く聞きますので、次女たちは大丈夫かと、駅の改札で彼等を迎えるまではこちらもハラハラドキドキです。
決して他人ごとではなく、例えば携帯への最近の配信記事で、これも横浜に暮らす若いお母さんの投稿だったのですが、曰く、
『赤ちゃんがバスの車内で泣き止まずに困っていると、50代と思しき中年の男性から声を掛けられたのです。てっきり文句を言われるのだと覚悟すると、
「今日、会社で泣きたいほどイヤなことがあったんだよ!」とぶすっとされ、続けて「だから、おじさんの代わりに思いっきりおじさんの分も泣いてくれよ!」。思いも掛けない言葉に、本当に有難く、思わず私が泣いてしまいました。」
こんな記事を読むと、「エェ話やナァ~」とすぐに年寄りの涙腺が緩んでしまいます。
待つこと暫し・・・。するとニコニコしながら、孫が婿殿に抱かれてやって来ました。心配したほどのことは無く、殆ど泣かずに電車の振動が気持ち良いのか眠っている時間もあって、移動中は然程困らなかった由。初めての“大冒険”も思いの他すんなりとクリア出来たようです。
渡米前にどうしても一度長女を連れて来たかった、裏町の「はしご横丁」に在る“日本一小さなインド料理店”「DOON食堂印度山」。
2016年3月にオープンした、松本には珍しい北インドの家庭料理の店。
その一風変わった名前のDOONというのは、インド人のご主人アシシュさんの出身地からの命名で、印度山というのはアシシュさんがお相撲さんの様に大柄なので四股名風に名付けたのだとか。
私が初めてこの店で食べたのが、開店から一年経った2017年の5月でした。その時に、お互い同じ会社にいたことを初めて知りました。今回は実に5年振りの再訪です。
その間、瞬く間にその本格的なインドの味で有名店となり、マスコミ等でも東京のキー局に取り上げられたり、異業種とのコラボや「松本カレーラリー」の中心メンバーとなったりと大忙しで、遂には、重いフライパンを振る料理人には有りがちな、肘を痛めて手術入院とその後のリハビリで暫く休業を余儀無くされたりと・・・。
一方、こちらもその後何度も来ようと思った(実際に何度か店には来た)のですが、スケジュールが合わなかったり、お店が休業されていたり、コロナ禍だったりとなかなか食べる機会が無く、今回渡米前の長女と家内も一緒に漸くランチに伺うことが出来ました。
中には成功し独立した店もある様ですが、一方で閉店した店もあり、夜のみ営業する居酒屋さんなどを除くと、現在昼間営業しているのはこの「印度山」のみとのこと(横丁対面の魚屋さん「魚長」に数台分の駐車場が確保されていますが、この辺りは一方通行ばかりなので、車で行く時は道順を事前に確認した方が良いでしょう)。
当時は、2坪程の小さなお店に3人掛けのテーブル席が2卓あるだけでしたが、人気店となってお客さんも増えたために、同じ様なスペースのお店を二軒増やして席数を増やして営業されておられましたが、我々が伺ったのは金曜日のランチタイムですが、直ぐに全部のテーブルが埋まりました。
私メは、マトンタリー(1600円)にチャパティ(一枚100円)を追加。接客を担当されている日本人の奥さまから、注文を受けながら「(マトンカリーは)“マトンマトン”してますけど、大丈夫ですか?」と心配頂く声に、「シンガポールでしょっちゅうインド料理食べてましたから、全然大丈夫です!」。
それで、以前食べに来た時にシンガポールや偶然同じ会社にいたことなど色々話したので、奥さまも何となく思い出してくださったようで、しかも奥さま曰く、
「アシシュは一度でも来てくださったお客様のことは決して忘れずに、私なんかよりもホントに良く覚えていますから・・・」
そういえば、その時に小学校低学年の息子さんがパパっと安産で会計を手伝っているのを見て、さすが!と感心したことがありました(インドでは二桁までの掛け算を暗算で覚えますから)。その息子さん、今6年生だったか、もう180㎝を超えてるとか(バスケか、バレーか・・・もしやってたら将来が楽しみ!)。
更に、それぞれに付いてくる、ひよこ豆の粉を焼いた煎餅の様なのがパパドで、崩してご飯と一緒に食べるとパリパリして違った食感が楽しめるとのこと(個人的にはセットのライスや苦手なヨーグルトとかデザートも要らないので、今度からはカレー2種類とチャパティ数枚だけでイイかな)。
始めて食べる長女も家内もどうやら感激の様子。長女に至っては、東京でもこんな本格的なインド料理が味わえる店はなかなか無いとのこと。
「へぇ~・・・、これが松本で食べられるなんて・・・」
アシシュさん曰く、
「どうしても日本人向けに味を合わせてしまうから、我々インド人からすると“ちょっと違う”という風になるけど、ここは私のお母さんがインドで調合してくれるスパイスで、私の家庭の味そのもの。今まで私が日本で食べた中では、例えば銀座のインド料理店「ナイル」は本当の北インド料理でした。」
とのことでした。
余談ですが、本場のインドに逆進出した「CoCo壱」は、むしろ現地のインドの人たち向けにちゃんとアレンジしたメニューがあって、地元の方々にも人気なのだとか。実際に、アシシュさんも食べて美味しかったそうで、十分インドでもやっていけるだろうとのこと。
「美味しかったです!ごちそうさまでした。」
「これからは一人じゃなくても良さそうなので、また来ますね!」
まだ次に棲んでくれる方が決まらない沢村の家。時々行っては定期的に掃除をして、ゴミや落ち葉を拾ったり、春になってからは庭の雑草を採ったりしています。
引っ越した昨秋から冬が過ぎ、そして春・・・。道真の詠んだ「飛梅」ではありませんが、
『 東風吹かば 匂ひおこせよ 梅の花 あるじなしとて 春な忘れそ 』
とばかり、庭のクリスマスローズが満開となり、更には、年二回の春と秋に頼んでいた庭木の手入れと花壇の植栽の模様替えも、引っ越すために昨秋は最後の庭木の手入れだけお願いして花壇は植え替えをしなかったのですが、球根が残っていたのか、春先のスノードロップに始まり、春の花が次々と芽を出してやがて花を咲かせました。庭の手入れをしていると、家内が寂しそうに、
「誰も見てくれる人、居ないのにね・・・」
否、そうではないのかもしれません。
そして初夏を迎え、コナラやシンボルツリーであるプンゲンスホプシーのシルバーグリーンの若葉が、何とも優し気な芽吹きの季節を迎えます。
写真は、最初のクリスマスローズが3月下旬、次の花壇が4月中旬、そして最後の3枚は4月下旬、雑木林ガーデン樹下のクリスマスローズと黄色いカバープランツのポテンチュラと(コンクリート塀の向こうに白い花が満開のリンゴ畑が見えます)、芽吹きが始まった芝生ガーデンに植えてある紅白のハナミズキの様子です。
今年は、松本の開花宣言の時は箱根に行っていて不在でした。東京は花冷えで結構長く桜を楽しめた様ですが、松本は開花宣言直後から連日の夏日。そのため、松本に帰って来た翌日には既に家の近くの公民館の桜は散り始めていましたので、結局今年は松本城の桜を一度も見ずに終わってしまいました。
松本城は標高が(隣接の市役所ですが)592mで、城山公園が700m程。そこから城山々系の尾根筋にある鳥居山(743m)を経てのアルプス公園が770m(因みに城山遊歩道の終点である芥子望主山が、多分城山々系の最高地点で891.5m)。
例年だと高台にあるために、平地の松本城に比べて一週間ほど遅れて咲くアルプス公園の桜も今年の開花は早かった様です。温暖化の影響もあるのか、昔メーデーの後に職場の皆と花見に来たことがあったなんて信じられません。
4月17日に渡米前に松本に戻って来た長女と皆で、「もう葉桜だよね?」と言いながらも、城山公園からアルプス公園まで“城山トレイル”で城山遊歩道(城山公園からアルプス公園まで1.1㎞)を歩いてみることにしました。
前々日までの雨が上がり、空気もキレイになったのか、春霞も無く白馬方面まで北アルプスの山並みはクッキリとキレイに見渡すことが出来ました。松本地方はずっと乾燥注意報も出ていたので恵みの雨でしたが、桜にとっては生憎の“花散らしの雨”だったようです。
遊歩道に入って急坂を登って行くと、雑木林のナラがちょうど芽吹きでシルバーグリーンの若葉が陽光に映えてキレイです。ソメイヨシノは終わっても、遅れて咲く山桜が葉と一緒に白い花を咲かせています。そして、そうした木々の間からは残雪の常念が望めます。
我々も散り始めの“名残の桜”と残雪の北アルプスを眺め、今度は古い桜並木の旧道を下って、途中放光寺にお参りをして城山へ戻りました。
【注記】
旧制松本中学の同級生古田晁が創業した「筑摩書房」の経営を助けた、文芸評論家で作家でもあった臼井吉見が書いた小説「安曇野」により、安曇野という地名が広く一般で使われるようになりましたが、それ以前は県歌「信濃の国」でも歌われている通り、松本平、善光寺平と同様、安曇野は“安曇平”と呼ばれていました。