カネヤマ果樹園 雑記帳<三代目のブログ>
今の信州は東京のキー局の系列の地方局があり、民放の番組の殆どは視聴できる中で、唯一放送されていないのがテレ東、昔のテレビ東京です。
ただ、テレ東の番組でも、例えば「開運!なんでも探偵団」の様な全国的な人気番組は、地元のローカル局が数週間遅れにはなりますが放送時間を変えて放送していますし、今ではTVerで視聴することも可能です。
そうした中で、私もTVerやBSテレ東などで「アド街っく天国」や「孤独のグルメ」、また「ワカコ酒」などを楽しんで視聴しています。
その中での個人的なお気に入りは、ベスト3直前に放送される、その街の一日を100枚の映像で切り取った「アド街 百景」と、その映像のBGMとして流れる、“街の宣伝部長”三代目MCのイノッチこと井ノ原快彥氏の作詞作曲した「あの街この街」。
これは30周年の1500回放送記念に作られた曲ということですが、何ともホンワカした心温まる内容の優しさが感じられる曲で、聴いていると何だかほっこりします。
朝街が目覚めて動き出す夜明けから深夜街の灯りが落ちて眠りに就くまでの、何気ないその街の切り取られた日常の様々な風景に、しみじみ「あぁ、日本てイイなぁ~」と毎回視る度に感じています。


「おはよう」、「こんにちは」、「こんばんは」・・・
その街角で毎日繰り返されているだろう、何気ない風景と当たり前の日常。
そんな風景が感じられる、ほっこりするとてもイイ曲だと思います。
(検索しても歌詞が見当たらなかったため、YouTubeを何度も繰り返し見ながら文字起こしをしたので、もしかすると間違っているかもしれません)
『 ここはどこなのか?
初めての駅、見も知らぬ街
ドラネコは言う 「まずはちょっと散歩してみな 」
迷い込んだ路地裏の隅の 植木だらけのどんつきを
カメラに収めるその瞬間 太陽がレンズを弾いた
そうさ、あの街にも ほらね、この街にも
人々の暮らしがあるわけで
「ただいま、(お帰り)、夕飯は何? 」
そうね、あの人にも ほらね、その人にも
守りたい誰かがいるんだな
「そんじゃね、おやすみ、また明日」 』
きっと路地裏や小さな街の公園で駆け回ったりして、日が暮れるまで遊び回っていた子供たちが、夕暮れになって「じゃあね!」と友達と別れて、「お腹空いたぁー!」と駆けて家に戻って来た様な風景・・・。
途中出会った近所のおばちゃんやおじちゃんと交わす挨拶。
「宿題ちゃんとやったんかぁ?」
「うん、大丈夫!ご飯食べてからやるからー」
こうした何気ない日常が、当たり前に繰り返されることの大切さと幸福・・・。
30周年記念として、番組初という調布での生収録も行われた中で、最後は番組30周年を記念して、井ノ原さんが手がけた楽曲「あの街この街」の生演奏&生歌唱が披露された中で、山田五郎さんが多分ご自分のエレキギターで特徴あるフレーズを見事に生演奏されたのには驚いたのですが、イヤイヤさすが、お見事でした。


「世の中色々あるけど、ま、散歩でもしましょうか」・・・と、力が抜けててイイ。この脱力感が素晴らしい・・・。
もう色々書かれているので何を今更なのですが、知る人ぞ知るグループだったのかもしれませんが、唯一付記するとしたら、それは彼らに主題歌作曲をオファーしたNHK大阪のスタッフの慧眼ではないでしょうか。
「エライ!」
娘が以前京都滞在中に地元の食通の友人に連れて行ってもらって以来、京都に来ると必ず行くという地元の食通の方々に評判の割烹と共に、今回娘が我々を連れて行ってくれたのが、同じく「瓢亭別館」の朝粥でした。
奥さまは昔娘に連れて行って貰い、また次女が二人目の孫が生まれる前に皆で一緒に京都へ来た時も、私が孫を見ている間に、彼女のリクエストで「朝粥」を母娘三人で食べに行ってもいるのですが、お粥は多分に男性よりも女性に受けが良いのだろうと思い、私はこれまで一度も食べに行ったことはありませんでした。
今回も正直二の足を踏んだのですが、娘が予約サイトを通じて予約してあり、既に決済済みで人数を減らすなどの変更は不可とのこと。そこで止む無く、予約通りに皆で行くことになりました。

以前NHKのBSだったと思いましたが、正月準備をする京都の老舗の様子を取り上げた番組で、伝統的な正月用の各種料理の出汁を取る様子で紹介されていたのがこの「瓢亭」でした。それ程に、今やユネスコの無形文化遺産にも認定された「和食」の京料理を代表する料亭の筆頭格でもあります。
場所は蹴上の無鄰菴のお隣。住所は南禅寺草川町で、「瓢亭」の店名の横には今でも創業の由来を示すように「南禅寺畔」と付記されています。土塀に囲まれたお屋敷の中に本店と別館があり、朝粥は別館で供されます。ただ本店でも真夏の二ヶ月間だけ、別館とは少し内容を変えて(値段も上がり、アユの塩焼きなどが加わり)食べることが出来るのだそうです。



ところで、学生時代の京都で一番しっくり感じられたのは、例えば芸妓さんや舞妓さんは生粋の京女ではない方が多いので、むしろ旅行者に道を聞かれた時などに着物を見事に着こなされた地元の老婦人の話される京都弁でしたが、こちらの年配の仲居さんの京言葉も実にしっくりと馴染んで聞こえ、今京都にいることを耳でも実感しました。
因みに、この時間帯に接客を担当されていた仲居さんは三人で、内一人はマレーシアかインドネシア出身と思しき若い女性。その所作や言葉使いはさすが老舗でしっかりと指導と躾がされていて、他店のヘタな日本の若いコよりも余程キチンとして見事でしたが、何年後かの海外出店のための準備ならともかく、もし人手不足が瓢亭の様なこんな老舗にまで及んでいるのだとすれば、元人事担当者の性とはいえ、何だか考えさせられてしまいました。

八寸は取肴と半熟具合が絶妙なその名も“瓢亭玉子”が美しく盛り付けられ、瓢箪の形をしたひさごの三つ重ね鉢には、和え物、蒸し物、炊き合わせなどが月替わりであしらわれていて、食材や月毎にメニューが替わるそうです。
江戸の茶店の頃から出しているという、名物の瓢亭玉子。今ではラーメンでも珍しくはない黄味がトロっとした半熟卵なのですが、薄っすら醤油ベースの出汁が利いているのがさすがです。
(以下写真を見ながら思い出しているのですが、もし記憶が違っていたらご容赦ください)
八寸には京らしい押しずしと、これまた名物という“ぶどう豆”。見事な大粒で、最高級の丹波の黒豆なのでしょうけれど、全く皺が寄らずに炊いたばかりのようにふっくらとしているのに驚きます。絵札の形をした伊達巻には今年の干支の馬の焼き印が押され、他にも子持ち昆布など正月らしい品が並んでいます。

料理は八寸と三段重ねのひさごの器だけなのですが、まるでミニ懐石。その料理のどれも薄味なのですが、京料理らしく出汁が良く利いていて、素材の旨みがしっかり感じられます。決して主張し過ぎることなく、驚く程の薄味なのにしっかりと素材と一体となって下支えする、京料理の出汁の凄さと奥深さ・・・。NHKが京料理の出汁の紹介した番組の中で、瓢亭が登場していたのも納得でした。
そしてその奥にはきっと京都の水の力があり、同じく京料理を代表し「和食」のユネスコ無形文化遺産登録に尽力した、こちらもミシュラン3つ星の名店「菊乃井」(ご先祖が北政所の接客や給仕を行う「茶坊主」として仕えていた時代に、茶の湯に用いる「菊水の井」という井戸を大事に守っていたのが店名の由来で、今も同じ東山で高台寺に隣接して本店を構える)の村田氏曰く、「煮る、さらす、浸す、茹でるといった水を中心とした調理法で、微妙な味わいで素材を引き立たせる日本料理は、京都の軟水だからこそ進化した」ということを自分の舌で実感として納得することが出来ました。
でも実際にこうした京料理を食べてみると、それは単なる薄味ではなく、妙な言い方ですが、“しっかりとした薄味”であることに気付かされるのです。お酒でも伏見は“女酒”と云われますが、京都の地下水は千年以上にわたって一定の味と温度を保っているため、他の軟水に比べて硬度が低く、よりまろやかで繊細な味わいが特徴なのだとか。素材の味をより引き出すこの地下水があったからこそ、京都では出汁を重んじる薄味の文化が生まれたのでしょう。

そして最後に名物の朝粥です。今回は「鶉粥」で、冬季限定(12月1日~3月15日)のお粥だそうです。
因みに、朝粥が瓢亭の名物になったのは、何でも明治初期、祇園で夜遊びをした旦那衆が早朝に芸妓を連れ立ち店へ訪れ、店の者を起こし朝食を作ってくれと言われ、その時のあり合わせの食材で粥を出したのが始まりとのこと。
そして冬の季節の鶉粥は、瓢亭のH/Pの紹介をお借りすると、
『寒い季節に体が気軽に温まるものとして13代目が作ったのが、この名物の「鶉がゆ」の始まり。本当はおかゆではなく雑炊なのですが、夏の「朝がゆ」と揃えて、瓢亭では「鶉がゆ」と呼んでいます。炊いたご飯を一度洗ってサラサラにし、鶉のお肉とスープで炊いてせりを散らした、体が芯から温まるひと品』ということで、昔瓢亭には鶉小屋があったのだとか。
この鶉粥は、ご飯を鶉のガラと野菜から取った出汁で炊き、細かく刻んだ鶉の肉を加えた雑炊で、刻んだセリが加えられています。ほんのりセリの香りと、鶏よりも濃厚な鶉の旨味を感じられ、確かに底冷えのする京都の朝には暖まる一品なのでしょう。付け合わせの京漬物のかぶらと瓢亭特製のちりめんじゃこで、途中味変も楽しみながらご飯茶碗に優に二杯、しっかりと残さずに頂きました。因みに、箸よりも茶碗によそうのに使う木べらで食べた方がお粥は食べ易いのでおススメです。
但し家内と娘は、出汁の効いた葛餡を掛けて味変を楽しみながら食べるいつもの白粥の方が、ここ瓢亭でしか味わえない何とも言えずシンプルながら絶品のお粥で、冬の鶉粥よりも好きとのことでした。もしかすると好みが分かれるのかもしれませんが、個人的にも確かにそうかもしれないと感じた次第です。

食べ終わって感じるのは確かな満足感。何だかシンプルなのにその奥深さに「う~ん美味しい・・・」と、その後の言葉が続かず、むしろ垣間見たその奥深さに何だか気圧された様な気さえしたのでした。
「ナントモ恐れ入りました。さすが、400年続く伝統は伊達じゃない・・・」
但し、次回も食べたくなるかは何とも・・・??(あっ、でも白粥は食べてみたい・・・かな!?それと一度でイイから、本館の個室と庭も是非とも見てみたい気も・・・)
奥さまと娘は、二人がとても気に入っているという、清水五条の高瀬川沿いに在るレバノン料理店に今回はブランチを食べに行くと言うので、私は一人で久しぶりに「新福菜館本店」で朝ラーを楽しむことにしました。

昭和13年(1938年)創業で、所謂“京都ラーメン”のルーツとされる「新福菜館」。因みにお隣のこれまた“京都ラーメン”を代表する「第一旭」は、その15年後の創業とか。どちらも“京都ラーメン”を代表する名店です。一階の店内はカウンターが一杯で、二階にも客席があるのですが、一階奥のテーブル席へ相席で案内されました。
6年前に来た時は特大の新福そばにしましたが、今回は中華そば(並み950円)と同じく「新福菜館」名物の焼き飯(600円)を注文しました。
以前長女が住んでいた麻布台のマンションに行った時に、京都ではその後食べられなかった新福菜館が麻布十番にもあると聞き、勇んで食べに行きました。その時は中華そばの並に小の焼き飯が付いたセットメニューがあったのですが、この京都の本店のメニューには小の焼き飯は無し。でもあの真っ黒なヤキメシも、ラーメンと共に新福菜館の名物メニューですので外せません。そこで、この歳には少々キツイかもとは思いつつも、ここは止む無く普通のサイズでお願いしました。

先ずはスープをレンゲですくって何杯か味わって、今確かに新福菜館にいることを舌でも実感します。
続いて、ラーメンと同じ醤油ダレで味付けて、香ばしく焦げた褐色の焼き飯も登場。

ラーメンに続き、焼き飯をスプーンで二度三度・・・。やはりどちらも捨てがたい。ただ、全部食べられるかどうか不安を感じつつ、残しては申し訳ないので頑張って何とか完食出来ましたが、その分、スープを全部飲み干せずに少し残さざるを得なかったのが、少々心残りではありました。

いずれにせよ、焼き飯も一粒も残さずに完食して満足満腹になった「新福菜館」の朝ラーでした。
ただ出来れば、減塩などとは決して言いませんので、我々高齢者のためにせめてメニューにヤキメシの「小」も加えて頂けると大変助かります。
ごちそうさまでした。また来ます!
今回の京都滞在中、娘が友人と食事する以外の我々との食事は殆ど娘のおススメする処に行ったのですが、まだ彼女が一度も行ったことが無いと言うので唯一我々が案内して食べに行ったのが、出町の和食「ろろろ」でした。
この「ろろろ」は、我々も二年前に初めてランチのおばんざい弁当を食べに行って感激したお店で、今回が二度目の訪問です。
京都で合流してからでないと娘のスケジュールが分からなかったのですが、こちらは予約必須の人気店ですので、事前に奥さまが車で京都へ向かう途中に車内から電話をして、取り敢えず今回の滞在中で空いている日の空いている時間に予約を入れました。
「ろろろ」は和食の料理人ご夫婦二人で切り盛りされている小さなお店で、こちらのランチは20食限定とのこと。最初希望した三日目のランチは最後の午後1時半からの組しか空いておらず、そこで二日目の明日の予約状況をお聞きしたところ、翌日が水曜日だったせいか運良く11時半開店の最初の一組目に空きがあり、無事予約することが出来ました。

コロナ禍前まで、息子さんが京都で勤務医をしておられる友達と一緒に毎年京都旅行に来ていた家内は、その時にこの「出町ふたば」にも一緒に買いに来ていたそうで、家内に依るとこの日も順番待ちの行列は折り返しての三列でしたが短い方とのこと。
店舗の前では行列の整理専門のスタッフの方が、お隣のお店や歩道を歩く方々の迷惑にならぬよう都度列に並んだ人に案内をされていて、店内には注文を聞く店員さんが4人と品物を手配準備するスタッフも同じ位いて、テキパキと注文を捌いているので意外と早く進んで行きます。
豆餅だけなら伊勢丹店や、また事前に買う品が決まっていれば予約も出来るそうですが、当日の品揃えを店頭でじっくり見て季節ものなども買いたいので、その場合は列に並んで買う他ありません。
時間が11時20分を過ぎたので、念のため彼女たちは先に「ろろろ」行って時間通りに配膳を開始して貰うことにして、私が一人残って彼女たちの希望の品を購入してから向かうことにしました。



町家を改装した店内は、コの字のカウンター席8席に加え、テーブルは4人掛け1卓と1人掛けが1卓。私たち家族はテーブル席で、お客さんは殆ど女性。男性客は、後から来られたカップルの男性と私の二人だけでした。ランチは20食限定なので、二回転すれば終わってしまいます。ネットで見つけた紹介記事に依ると、
『「ろろろ」は揃って和食の料理人というご夫婦が営むお店です。肩肘張らない雰囲気のなか、本格会席を気軽に味わえるとマダムを中心に人気を集めています。料理には、店主が惚れ込んだ大原の旬の野菜をふんだんに使用。お昼の「ろろろ弁当」は、豆皿に少しずつ、趣向を凝らした料理が盛り付けられ、見ているだけで楽しくなります。一段目には8品。二段目は、おこげがポイントの土鍋ご飯とおかず2品、そこに野菜の味噌汁が添えられます。この内容でこの値段は相当お値打ち。京都マダムご愛用というのも納得です。』昨今の値上げでお弁当の価格もですが、土鍋ご飯も以前はお替わり自由だったのが今回は追加料金になっていましたが、昨今の事情ではそれも止むを得ません。しかし、それでもこちらのコスパは最高だと思います。

ですので、我々は今回もおばんざい弁当です。京都らしい炒り番茶が香り高くて美味(今回はビールを我慢しました)。
盛り付け担当のご主人がせわしなく動かれ、10人分程の弁当もミニ懐石も同じ一段目のおばんざいを次々とお膳に盛り付けをされています。
店名の由来は今回も分かりませんでしたが、この日も観光で来られたお客さんなど次々と来店されるのですが、予約客以外は全員断られていました。
また、こちらのお店の支払いは現金清算のみ。京都にはそんな個人商店が多いので注意が必要です。
さて、一段目のおばんざい8品の中では、前回同様に九条ネギの煮干し煮、そして今回では金時人参の海苔煮とゴマトウフの胡麻揚げが美味しく感じました。


この日のかき揚げはやや揚げ過ぎか、前回の方が美味しかった気がします。家内も娘も一つ食べてもう要らないとのことで、残りの二つは結局私が全部戴いたのですが、さすがに胃がもたれました。


ごちそうさまでした!また来ます。
本来なら京都へ行くとしたら、そのベストシーズンは秋の紅葉か春の桜か、或いは新緑の青モミジも(そして、その後で川床もイイかも)・・・と思うのですが、いずれにしてもその時期はインバウンドで大混雑して歩くのが大変そうで、歩道の往来すらままならない様な嵐山や東山の紅葉スポットなどがニュースで報道されると二の足を踏んでしまい(ましてや祇園祭で宵山なんぞは以ての外)、せいぜい行くのは年末年始の初詣も過ぎて落ち着いたであろう、一月中旬から二月に掛けての旅行的には冬の閑散期狙いだったのですが、昨年は春節の中国からの大量の団体客に恐れをなして結局行くのを諦めた京都に、娘につられて今回二年振りにやってきました。
学生時代を京都で過ごしたので、冬の京都の代表的な景観であろう、例えば雪化粧した金閣や雪で白く浮き出た大文字ばかりでなく、東山魁夷の「年暮る」の様に京町家や街中に佇むお寺さんなどに降る雪景色を眺めているだけで古都の風情が感じられて感動するのですが、短期間の旅行ではそんな“雪の京都”にそうそう巡り合える訳ではありません。
そんな冬の京都の冬の時期の楽しみは、閑散期の集客狙いで始まったであろう「京の冬の旅」キャンペーンでしょう。
年末の12月から2月頃までの冬の時期に、毎年顔触れを変えて普段は非公開で見ることが出来ない寺社仏閣の建物や庭、また秘仏とされている様な仏さまや襖絵などが何年、或いは何十年振りかで見られるのはこの時期だけの特典です。
この「京の冬の旅」キャンペーンは、1967年(昭和42年)の1月に始まり、今年で60回目を迎えるのだとか。その60回目となる今回の「京の冬の旅」の特別企画として、1月から始まったNHKの大河ドラマ「豊臣兄弟」の放送に合わせて、今回の特別公開では北政所ねねの隠居所にもなった高台寺や秀吉を祀る豊国神社、そして徳川家康が難癖をつけ「大阪冬の陣」のきっかけとなった「国家安康」の梵鐘で知られる秀頼が再建した方広寺など、豊臣家ゆかりの寺社仏閣がその特別公開の対象となっていました。
そこで東山エリアで行き易いこともあって、今回我々が選んだのは高台寺です。豊臣秀吉の没後、正室だった北政所ねねが1603年(慶長8年)に朝廷から「高台院」の号を勅賜され、秀吉の菩提を弔うために徳川家康の支援も得て建立したのがこの高台寺。
今回の特別公開の紹介頁に依ると、『伝小堀遠州作の庭園や、「霊屋(おたまや)」(重文)の華麗な装飾の「高台寺蒔絵」など、桃山文化を伝える建築や寺宝が数多く残っています。そして今年の年夏頃には237年ぶりに客殿(小方丈)が再建される予定で工事が進んでおり、今回の「京の冬の旅」期間中、その客殿の襖絵が本堂にて先行公開されるとのこと。再建に向け日本画家の志村正画伯が描いた、桃山絵画を思わせる「春の草花図(牡丹)」や、秀吉愛用の「鳥獣文様陣羽織」(複製)、「浅井長政夫人像」掛軸などが特別展示される』とのことでした。

時間があったので、満腹の腹ごなしを兼ねて、塩小路高倉から清水寺界隈まで歩いて行くことにしました。河原町を歩いても面白くないので鴨川を渡り、高瀬川沿いの道に興味を惹かれつつも、数日後に通し矢が行われる三十三間堂を過ぎて、突き当りの東山七条から東大路通りを上がることにしました。
東山五条から五条坂を上り、途中で産寧坂(三年坂)を下ります。ここに「清水三年坂美術館」があって、幕末から明治の工芸品を展示する日本で唯一の美術館で一度見てみたいと思っているのですが、改装の期間が伸びて無期閉館中で残念ながら見ることは叶いませんでした。因みに、この三年坂美術館は京都の村田製作所創業者のご子息が収集したという、幕末から明治期の金工・七宝・蒔絵・彫刻・京薩摩を常設展示する我が国初の美術館で、今では再現不可能とされる超絶技巧の名品が展示されているのですが、何か運営面や財政面に問題があるのか、このまま閉館とならぬ様に願います。

清水さんへの参道や三年坂は、さすがに欧米人の観光客や制服を着た修学旅行生など人通りも多く混雑はしていましたが、歩けない程では無く、嵐山や金閣、伏見稲荷などのインバウンド観光の定番スポットとしては、予想したよりもずっと空いていました。
やはり中国からの団体客が減っているのでしょう。確かに貸衣装の着物を着たカップルや家族連れなどの個人客は見掛けましたが、でもいつもの声高でウルサイ程の会話が聞こえて来ず、思いの外静かな清水寺界隈でした。

受付から中に入ると、最初に在るのが茅葺きの茶室の「遺芳庵」。17世紀に京都の豪商で茶人でもあった灰屋紹益が建てたものと伝わっていて、明治期にここ高台寺へ移築されたとのこと。「吉野窓」と呼ばれる大きな丸い円窓が特徴です。




そこから竹林の中を通って下へ下って行きます。人気の嵯峨野の竹林のミニ版の様な感じですが、ご多分に漏れずこちらの通路の周辺の竹にもアルファベットの名前などがイタズラであちこちに刻まれていました。因みに、もし竹林を見るなら、嵯峨野郊外の化野念仏寺の「竹林の小径」の方がここよりも立派で人も少ないのでおススメだと思います。
その後境内を出て台所坂を下って圓徳院へ。ここは、伏見城の化粧御殿とその前庭を境内に移築して、北政所ねねが亡くなるまで過ごした場所であり、ここから高台寺へ通っていたことから、圓徳院の前にある小道は「ねねの道」と呼ばれているのだとか。
縁側に座って、ねねが毎日見ていたであろう枯山水の庭を眺めます。


戦国乱世を生きたお市の方、北政所ねね。そうした500年近くも前の歴史上の人物がこうして身近に感じられるこの京都の街にいると、何だか「京都で耳にする“この前の戦争”とは応仁の乱のこと」というのも、あながち冗談では無いのかもしれないナ・・・と疑いも無く自然に感じられたのでした。



