カネヤマ果樹園 雑記帳<三代目のブログ>

 昨年次女の二人目の出産や母の葬儀などもあって、夏以降二度キャンセルせざるを得なかった軽井沢へリベンジに出掛けました。
いつもの追分のドッグヴィラに二泊して、今回は奥さまの目的であるアウトレットで毎日“買い物三昧”です(・・・と言うか、もうスキーもしないので他にすることがありません)。
当然ですが私メも一緒に買い物について行こうとすると、それではゆっくり買い物が出来ないとのこと。
そこで止む無く、独りで買い物をしたいという奥さまとは別れ、私メは特に買いたいモノも無いので、久し振りに旧軽を歩いてみることにしました。
そして、昔万平ホテルからの帰り道で偶然入ったことがあって、とても気に入った喫茶店「ピコ」にもまた行ってみようと思います。

 駅前通りを歩いてロータリーを超え、旧軽、軽井沢銀座通りへ向かいます。
避暑地である軽井沢は、それこそ“東京都軽井沢町”と揶揄される程、夏は原宿の様な感じで、別送族よりもむしろ若い人たちでごった返していますが、さすがにこの時期は閑散としています。
アウトレットも初売りが終わり、冬のバーゲンも2月10日前後にならないと始まらないそうなので、この1月末の軽井沢が一番空いている時期だとか。せいぜい歩いているのは、アウトレットでの爆買い目当てで来たであろうインバウンドの外国人観光客。それも大声で話している中国語や韓国語のグループや家族連れが目立ちます。
 江戸時代の中山道。“沓掛時次郎”で知られる隣の沓掛宿(現中軽井沢)や、全国の追分節のルーツとなったその次の追分宿程有名ではありませんが、軽井沢にも日本橋から数えて18番目の宿場が置かれ、中山道随一の難所であった碓氷峠を越えて、或いは超える前に軽井沢宿で一服する旅人の多くが利用したという、江戸時代に休泊茶屋だった旅籠鶴屋に始まるという老舗の「つるや旅館」。
そして明治に入って軽井沢が避暑地になってからは、多くの文人等で賑わう中で堀辰雄もここに投宿し、軽井沢が舞台の小説「美しい村」を書いたと謂います。そしてその滞在中に、後の「風立ちぬ」のヒロインのモデルとなった“黄色い麦わら帽子を被った”彼女に出会ったとも・・・。
 軽井沢銀座通り商店街の端、そのつるや旅館のすぐ隣に、如何にも軽井沢らしい、苔むした木立の広い庭がとても印象的な「クレソン・リバーサイド・ストーリー」という素敵なレストランがありました。
何でも昔三陽商会の保養所だった場所に最近オープンしたという、外観からも分かる木の温もりが活かされた素敵な建物です。残念ながら、12月から4月までは冬期休業中とのこと。新緑の木々に囲まれた季節は、さぞ素敵だろうと思いました。
 そこから旧軽銀座通りを離れ、有名な町営テニスコートの横を通って、「軽井沢ユニオンチャーチ」へ。
ここは明治30年に創設され、別荘に住む外国人・宣教師たちに愛されてきた歴史ある教会だそうです。今の建物は、創設後ヴォーリズの設計により建て替えられた木造の教会で、窓から差し込む光と白樺の木をクロスさせた正面中央の十字架が素朴で美しく、誰もおられませんでしたが、教会内部は自由に見学も出来、質素な木の長椅子に腰掛けて思いを巡らします。
静かで厳かな、でも暖かな雰囲気の中、まだクリスマスの飾り付けが残されていてとても素敵な雰囲気でした。勿論自身はキリスト教徒ではありませんが、京都での学生時代に、大学の合唱団の他にも属していたルネサンス時代の宗教曲を中心に演奏していた室内合唱団で、モテットやミサ曲、マドリガルなども歌った身としては教会音楽には親近感もあり、自然と祈りの気分になります。教会のベンチに座って、白い冬にこの教会で聴く讃美歌もきっと素敵だろうと思います。
ご存知の様に、明治期に軽井沢が避暑地として有名になる第一歩を記したA・C・ショー師が宣教師として赴任して来て以来、ここユニオンチャーチの他にも歴史ある教会が幾つも木立の中に溶け込む様に佇んでいて、賑わいの夏の観光地軽井沢とはまた違った、静かで凛とした雰囲気を醸し出しています。
 そこから更に万平ホテルへの通りへ出て、この辺りだろうと周辺を歩き回って、昔万平ホテルからの帰りに偶然見つけて入った素敵な喫茶店を探したのですが、残念ながらどうしても見つけることが出来ませんでした。
その喫茶店は「ピコ」という名前の通り小さなお店で、訪れたのは実に15年も前だった様ですが、恐縮ながら当時のブログ記事(第129話)から抜粋すると、
『管球アンプとアルテックA5(の他にElectro-Voiceが一対)での音楽が静かに流れるこじんまりした喫茶店で、ご夫婦で経営されていて観光客というより地元の方々の「憩いの場」という感じでした。
壁にはジョン・レノンの版画が飾られていて、奥様曰く、今までそこに座って音楽を聴かれていれたご婦人は、息子さんがショーン君と幼馴染とのこと。
喫茶店の庭にはテラス席もあり、夏は犬連れのお客さんで一杯になるとか。奥さまの仰るには、「アスファルトが熱いからワンちゃん達が可哀想で、いつもサービスで水をあげると、あっという間に飲み干しちゃう」のだそうです。
そして、冬の軽井沢はそれまでの喧騒が嘘のように消え、庭先に鹿や猪(時にはウリ坊を連れて)が散歩にくるのだとか。
 そして、マスターが戻られての会話。
元々はメーカーの無線技術者で、以前はアマチュア無線の雑誌の「CQ」にも執筆していたそうで、引退後の今は、喫茶店経営の傍ら管球アンプの自作や修理を頼まれるとかで、暫しオーディオ談義。近くのブティックにも連れて行かれ、自作のアンプを聴かせてもらいました。』
当時のオーナご夫妻のお歳から拝察すると、もう既にリタイアされたのかもしれません。とても居心地の良い素敵な喫茶店だったのですが、15年という時の流れには逆らえず、残念ながら再会は叶いませんでした。でも・・・、
 「あのオーディオたちは、今もどこかで元気に活躍してるんだろうな、きっと!」
 その後、せっかくなので暇に任せて矢ヶ崎公園の大賀ホールまで行ってみました。
今後の演奏会予定を見たかったのですが、軽井沢での演奏会シーズンは世間とは逆で、Xmasシーズンを除けば別荘族が戻る冬はオフシーズンなのか、1月から3月までの間には、地元のアマチュア団体以外に殆どめぼしい演奏会予定はありませんでした。
一昨年、驚くべきことにクリスマス恒例のBCJのメサイアが、いつもの軽井沢ではなく(そのため軽井沢のBCJのメサイアは例年より10日以上も早く、且つソリストなどメンバーも変えて行われました)松本の音文(ハーモニーホール)であったのですが、昨年はまた大賀ホールに戻りました(但し、「イブは必ずサントリーホールで」が、毎年の恒例)。
ですので、いつものドッグヴィラに泊まって、いつか必ず軽井沢でBCJのメサイアを聞いてみたいと思います。但し、唯一の懸念は、松本から軽井沢までの峠の雪道の運転だけなのですが・・・。
 しかし暖冬の今季は、大賀ホールの在る矢ヶ崎公園の池は全面結氷しておらず、また周囲にも1月末というのに全く雪も無く、信州でも寒いエリアの軽井沢でこうなのですから、ましてや諏訪湖で御神渡が見られる筈も無い・・・などと思いながら、アウトレットでの家内とのランチに合流すべく、軽井沢のシンボル(多分)の台形の離山と、その背後の雄大な浅間山を見ながら大賀ホールを後にしました。
【注記】
因みに、2月上旬に渡米する長女を羽田で見送って、東京から帰って来た6日は降雪の影響で中央東線のあずさが昼過ぎまで運休したため、止む無く北陸新幹線の長野経由で戻ったのですが、通過した軽井沢駅周辺は一週間前とは一変し、20㎝を超える雪で真っ白の銀世界でした。
むしろ、これが本来の冬の軽井沢の姿なのかもしれませんが・・・。

 四柱神社の参集殿で定期的に落語会が催されていて、先代から続く昔からの縁で、今でも三代目となる古今亭圓菊師匠が来演されている様なのですが、失礼ながら特に好きな師匠でも無かった(現在の古今亭一門で個人的に聞きたいと思うのは、やはり2代目圓菊師匠の弟子である菊之丞や文菊といった兄弟子の師匠方に分があります)ので、今まで行ったことは無かったのですが、今回の「新春初笑い」と称した1月の例会は、私メの大好きな柳家さん喬師匠が来演し二人会とのこと。
・・・となれば、これは行かねばなりますまい。東京の定席だと、トリを務める主任以外の高座では持ち時間が15分と限られるので、大ネタを本寸法で聴くことは出来ませんが、独演会やこうした地方の落語会ならそうした大ネタを聴くことが出来るのです。
当日聴きに行けるか直前まで予定が分からなかったのですが、毎月2週間ほど手伝いに横浜の次女の所行っている家内が松本に戻っていて、この日留守番をしてくれるというので、思い切って行くことにして、前日四柱神社の社務所に行って前売り券(シニア割引で3000円でした)を購入しました。
 当日、開場に合わせて四柱神社へ。会場は境内の参集殿2階の大講堂です。父は四柱神社の総代でしたので、何度も来ていたでしょうし、その縁で娘たちも高校時代、二年参りの時に巫女さんのアルバイトをさせていただいたので、入ったことがあったと思いますが、私メが参集殿に入るのは初めてです。講堂での定員は120名とのことでしたので、いつもの松本落語会の会場となる瑞松寺の倍でしょうか。
やはり年配の方々中心でしたが、午後2時の開演には9割方椅子席が埋まったでしょうか。

 勧進元である宮司さんの開演前の挨拶があり、2003年から、3代目圓菊襲名前の「菊生」名で、真打昇進後隔月で開催しているという落語会で、宮司さんが圓菊師匠の父・2代目古今亭圓菊師匠と知り合い、同神社で落語会を開くようになったのだそうです。その後、古今亭菊生として3代目が真打ちになったのと、この参集殿が完成したタイミングでまた落語会を再会したとのこと。ですので、結構歴史のある落語会でした。

 さて、四柱神社の宮司さんの挨拶後開演で、先ずは開口一番は前座、林家たたみさんの「庭蟹(洒落番頭)」。
続いて、お目当ての柳家さん喬師匠が登壇すると、「待ってました!」と客席から声が掛かり、いつもの師匠らしく、恒例の「・・・ホントかよ!?・・・と思いますね」と呟いて、早速客先を沸かせます。その後時節の挨拶をされてから、これまたお約束の「では、皆さまごきげんよう!」・・・。そして、今回松本に訪れての感想や長野市出身の小さん師匠との思い出など、独演会や今日の様な「二人会」でしか聞けない、ところどころにくすぐりを入れたエピソードに心和みます。
 「あぁ、生のさん喬師匠は本当にイイなぁ・・・。」
と、定席での主任としての大トリや独演会以外では、なかなか聞けない枕を十二分に楽しみます。
ネタも勿論ですが、声を張り上げるでもなく(声は通るのでちゃんと聞こえるのですが)、この何とも言えぬペーソスというか、ぼそぼそと囁くような枕がさん喬師匠の堪らない魅力です。そして、時々ぼそっと散りばめる“毒舌”的な皮肉もイイ。
そして以前BSだったか、師匠が演芸番組で日本舞踊を踊られたことがあったのですが、話しぶりだけではなく、ちょっとした所作にも気品と色気すら感じられるのも、さん喬師匠が日本舞踊藤間流の名取だからなのでしょう。
「文七元結」や「芝浜」、「唐茄子屋政談」、「福禄寿」といった,
“さん喬噺”とさえ謂われる程の人情噺が評判の師匠であり、それは確かにその通りなのですが、しかし滑稽噺も実にイイんです。例えば師匠の「棒鱈」なんてまさに捧腹絶倒モノです。
TVの演芸番組、またCDなどの録音やYouTubeなども含め、これまで色々聞かせて頂いた噺家さんの中で、私のイチオシ、一番好きな噺家がこの柳家さん喬師匠なのです。
そして個人的には、落語界の次期“人間国宝”は絶対にさん喬師匠しかいないと思っているのですが(既に紫綬褒章を受章されています)、小さん、小三治と同じ柳家一門ばかりが人間国宝では、江戸落語のバランスが崩れるということなのでしょうか・・・。
 さて、この日の最初のネタは、そんな滑稽噺の「ちりとてちん」で、大いに客席を沸かせてくれました。
続いて、この四柱神社の落語界の主役という古今亭圓菊師匠が登場。
前置きで、「今日は古典落語の大御所のさん喬師匠なので」と遠慮されて、釣り仲間という創作落語の旗手、三遊亭圓丈師匠から教えてもらったという新作落語「悲しみは埼玉に向けて」の一席で仲入りです。

 仲入り後は、先に圓菊師匠が「やはり古典落語はイイですね」と前置きされて、今度はご自身も古典落語の中から「安兵衛狐」を一席。
そして、この日のトリとしてさん喬師匠が演じられた人情噺は、大ネタ“八五郎出世”の中の「妾馬」でした。
実は、2017年「松本落語501回」に500回記念として柳家権太楼師匠とお二人で来られた何とも贅沢な落語会があったのですが、そこでトリにさん喬師匠が演じられたのが、やはり同じ「妾馬」だったのです。
ですので、せっかくの“さん喬噺”のこの機会に、定評ある人情噺ではあるのですが、同じネタでちょっぴり残念でした。
でも、クラシックの名演は何度聞いても素晴らしい様に、八五郎が妹のとよに言い聞かせる様に語り掛ける場面など、今回の「妾馬」も実に良かった・・・。
新旧の他の噺家でもこの「妾馬」は聞いていますが、生まれた赤ん坊を八五郎が実際に抱いてあやす場面などは師匠が独自に工夫し挿入した場面の様に感じます。分かっていても、途中ホロリとさせられてあっという間にサゲ・・・。
何度聞いてもさん喬師匠の「妾馬」はイイ!
本寸法で滑稽噺と人情噺の二話、“さん喬噺”を楽しませてもらった落語会でした。
【注記】
当日、怒鳴りつけたい程、落語会で不愉快な出来事がありました。
さん喬師匠の高座中、しかも仲入り前後の二話とも、高座中に携帯の呼び出し音が鳴ったのです。しかも信じられない様に、後半のトリの噺の中で、3度も4度も・・・。
前半の時は、開演前にちゃんと注意もあったのにも拘らずでしたので、いくら何でも本人も反省して、仲入りの間に電源を切るかサイレントモードにしたと思ったのですが、あろうことか後半も・・・。
その不逞の輩は80代の御老人。知り合いと思しき隣の男性も小声で注意を促したり、周囲の客も都度睨みつけたりしたのですが、馬耳東風・・・。最後は掛けた相手が何度呼び出しても出ないので諦めたようで、4度くらいで終わった様ですが、それにしても啞然とするばかりでした。
 「いい加減にしろヨっ!」
と、心底怒鳴り付けたくなりました。こんなんじゃ、松本市民の民度が疑われます。
途中、さん喬師匠が酒席での八五郎に「携帯鳴ってるよ!」と噺の中で云わせて、笑いを取りながら気を使って注意までしてくれたのですが・・・。
その老人は、終演後まだ拍手が続く中、そそくさと逃げる様に会場から出て行ってしまったので、誰も注意出来なかったかもしれませんが・・・。
恥ずかしくて、情けなくて・・・こんなんじゃ、もう二度と師匠は松本なんかに来てくれないだろうと思いました。
せっかくの“さん喬噺”を台無しにされ、本当にがっかりして会場を後にしました。
居合わせた客でさえこうなのですから、超売れっ子講談師の神田白山が、先日ある高座での講談途中で観客の携帯電話が鳴ってしまい、このアクシデントに伯山は怒って講談を中断し、10分間近く注意喚起したそうですが、同じ場面に遭遇して、恐らく演者からすれば怒りは客以上だったろうと感じた次第です。

 一年振りだった、今回の京都旅行の最終日。
この日は、次女たちからお宮参りのお祝いの返礼にいただいたカタログギフトの中で、断捨離で出来るだけ物を増やさない様にしている中高年夫婦としてはもう特に欲しいモノも無かったので、それではと選んだのが、グルメギフトの中にあった、今回の旅行先である京都の割烹の懐石コース(お祝い金からの一般的返礼として推測するに、多分一人1万5千円以下~1万円強。そして、もし運営元が20%手数料を取ると仮定すれば12000円~9000円位でしょうか)にしました。
電話で予約の際に伺うと、昼夜同じコース内容とのことだったので、どうせならと今回はお酒も飲める夜にした次第。結果としてこれが、今回の京都行でのちょっぴり豪華な、唯一夜の外食となりました。

 その店は四条烏丸からすぐ、四条通からだと高倉通か堺町通りを下がった、仏光寺通りに在る「割烹〇〇〇」という割烹です。
何でも祇園のミシュランの有名割烹で長年修業して、独立した店主のお店だとか。京都の割烹らしく店名を書いた小さな表札だけで、注意して良く見ないと気付かずに通り過ぎてしまいそうです。
京町屋を改装した店で、坪庭を眺められる店内は板の間には新春らしい松と南天、白梅の投げ入れが。暫くすると、梅を桜に変えるのだそうです。大将によると、町屋でもこの家は間口が通常より広く、1.5倍あって使い勝手が良いのだとか。奥の坪庭と入口の小上がりの板の間も風情があります。客席は敢えてカウンターの8席のみ。この日は平日だったこともあってか、夜私たちが食べている間、結局我々一組だけでした。
 この日の夜の懐石コースは、先付・吸物・造り・小鉢・焼物・焚合わせ・和え物・御飯・水物といった感じでしょうか。八寸はありませんでした。
先ずは、雲子のかぶら蒸しから。雲子とは真鱈の白子のことで、主に京都などで用いられている呼称だそうです。続いて北海道産の牡蠣のソテー。椀物の赤いのは海老餅とかで、京都の和食らしい優しいお出汁。
お造りは熟成させた(「まだ熟成が少し甘いけど・・・」とのこと)ホンマグロとヒラメ。
そして、琵琶湖産の本もろこに、滋賀名物の赤コンニャクにカズノコを添えて。
焼き物の車エビは皮を剝いたところですが、何も調理せずにただ炙っただけとのことでしたが、プリプリで甘味があって、この夜のコースの中では一番美味しかった気がしました。
続いて煮たフグ。トラフグではなく確かマフグだったような・・・。小ぶりですが、身にフグらしい弾力がありました。
次に、叩いたマグロ赤身の春巻き。調理前に「春巻きにするから」スとタッフに指示していたので、もしかするとその場で内容を変えたのかもしれませんが、余りに生臭くて正直がっかりでした。
続いて炊き合わせだったかと、最後の〆の炊き込みご飯。
1万数千円(の筈)のコースにしては、高級食材は使われておらず(最後の魚はグジだったかもしれませんが)、車エビに代表される様に出来るだけ素材の良さを活かす料理です。
コースの途中まではそれなりに良かったのですが、もしかすると残ったマグロの赤身を使ったのかと勘ぐる程、生臭かった春巻きからちょっとがっかりして気も削がれてしまいました。
何だか“田舎者”の足元を見られたような気がして(≒そんな気持ちにさせられて)、正直がっかりした京都最後の夜でした。
 それに、大将が話好きなのは良いとしても、店内はカウンター席だけで、調理場の様子はそこから丸見え、丸聞こえなので、客に聞こえぬ様に見えない裏側でならまだ良いのですが、さすがに目の前の調理場の中で下拵えなどを手伝う女性スタッフに結構キツめに命令するのが、何だかまるでジキルとハイドの二面性を見ている様で、その裏表の顔に酒も不味くなり、客としては些か興醒めしてしまいます。

 所詮我々庶民の数少ない経験からの比較でしかありませんが、4年前でしたが、伊豆高原の城ヶ崎海岸から続く段丘の別荘地の中に在る「坐漁荘」の和食処「さくら」(第1503話)の絶品だった懐石や、昔地元の方に連れて行ってもらってファンになり、それからは京都に来る度に長女が毎回必ず伺うという割烹で、どの料理も味とその手間に唸らされる東山の和食処「〇〇」のお任せコースに比べたら正直雲泥の差でした。
我々は所詮一見さんですので構いませんが、例え毎年京都に来ても、こちらに伺うことはもう二度と無いと思います。

 今回、昼間コユキにはドッグヴィラの部屋でお留守番をしてもらって、我々は観光や買い物などをしたためランチも外で食べたのですが、夜もまたコユキ独りでは可哀想なので、先述した通りに出来るだけお惣菜やお弁当を買って来て部屋食での夕飯にしました。

 一日目は岡崎から歩いて、一度来てみたかった「古川町商店街」へ総菜を買いに出かけました。ここは三条通から南北に約250mのアーケードが伸びる通りで、35店舗ほどが軒を連ねる小さな商店街ですが、最近、地元のみならず、全国から人が集まるスポットとして注目されているのだとか。
“知恩院門前町”を掲げるこの古川町商店街は、古くは安土桃山時代以前から、京の都に若狭からの水産物を運ぶルート「鯖街道」と呼ばれた若狭街道の終点として栄え、“東の錦”とも呼ばれた「京の東の台所」だったのだそうです。
ご多分に漏れず一時サビれたのを、商店街の町おこしで色とりどりのランタン(提灯)を飾り、今それが“フォトジェニック”だとして特に若い女性から人気の由・・・。
しかし、今回は行った時間が悪かったのか、或いは月曜日が定休なのか、地方都市の“シャッター通り”と大差ない程にシャッターを下ろした店が多く、残念ながらあまり活気が感じられませんでした。
そんな中で開いていた80代のご夫婦が営まれるお惣菜の「京山食品」で、お惣菜もおでんもどれも安い中で、700円位だったか日替わりのお弁当と名物のおでんを買いました。昔、女優の名取裕子さんがここでおでんを買って帰るのがロケで撮影されたそうで、その時の写真が記念に飾られていました。
因みに、総菜は化学調味料を一切使わず、おでんもお出汁が効いた“普通”の優しい味でした。
 二日目は、錦市場の「冨美家」に行ったついでに、帰りに四条の大丸地下の食料品売り場に寄って、フロアを回って、野菜サラダやつまみ用に各種総菜、そして我が家のお気に入りの551蓬莱で2種類のシュウマイとちまき三種、更には翌日の朝食用に豚まんも、そして奥さまは下賀茂茶寮のお弁当など、二日分の夕食を買って帰りました。
 三日目のランチで「出町ろろろ」に行ったついでに、今度は「出町枡形商店街」へ。
こちらは、観光客が多い錦市場とは異なり、地元の方々に密着したアーケード商店街です。“町の映画館”「出町座」や古書店など若者向けのスポットもありながら、生鮮食品店や青果店、乾物屋さんやお茶屋さん洋品店など、どちらかというと、地元の人に長く親しまれる個人商店も数多く営業している、謂わば「街の台所」。こちらは、「古川町商店街」に比べて、今でも地元の買い物客も多く随分活気がありました。
因みに、商店街の中には、かつて長年「餃子の王将」出町店の店長をされていた時、お金の無い学生にはタダで食べさせてそのお代の代わりに皿洗いをさせたという名物店長が、王将リタイア後にこの商店街で自営で餃子店を開業し、そのサービスを今でも引き継いでいるという、如何にも“学生の街”京都らしいお店もありました。
 そしてせっかく出町柳まで来たので、今回も「ふたば」で豆餅を買って帰りました。店頭には、この日も4重の行列です。名物の豆餅、よもぎの田舎大福、そして早くも出ていた道明寺の桜餅とゆず大福も。
いつもだと見た目の行列よりも意外と早く進むのですが、でもこの日はベテランスタッフが少なくアルバイトの子が多いのか、清算に時間が掛かっていて、前回より列の進みが随分遅い感じがしました。また物価高のためか、こちらも前回より値段が結構上がっていて、味はともかくとして、残念ながらコスパ的なお得感は少々下がった気がしましたが、ただ味はさすがに相変わらずの美味しさでした。
 四日目、実質最終日にちゃんと見つけられた「原了郭」。
我が家では専ら長野の善光寺門前の「八幡屋磯五郎」の七味が昔からの(県内スーパーではどこでも買えますので)定番だったのですが、京都好きの長女がお土産に買って来てくれた「黒七味」も気に入って、ちょうど終わってしまったので今回買って帰ることにしていました。最初から決めていた黒七味の他にも、店内で幾つかこちらの商品の白出汁に一振りして幾つか試飲をさせてもらった結果、気に入ったゆず辛と粉山椒も併せて買って帰ることにしました。
一般には、浅草の「やげん堀」、善光寺の「八幡屋礒五郎」、そして清水坂の「七味家」が三大七味唐辛子と云われているそうで、いずれも江戸時代に浅草寺、善光寺、清水寺の参道で売られていて、全国からお参りに来る参拝者の土産品として尊ばれ、やがて全国にその名が知られていきました。
そして、この三大七味程有名ではありませんが、それに続くのが「原了郭」で、その初代は赤穂浪士四十七士の一人だった原惣右衛門元辰の一子、原儀左衛門道喜という人で、のちに剃髪して名を「了郭」と名乗り、店を祇園社門前に開いたのが「原了郭」の始まりだとか。
そのおススメ「黒七味」は、原料に 唐辛子、山椒、白ごま、黒ごま、青のり、けしの実、おの実が使われていて、「黒七味」という名前の由来となっているこの店独特の濃い茶色い色合いが、 材料を乾煎りし、山椒や唐辛子の色が隠れるまで揉みこむことに因るのだそうです。そのためか、他の七味に比べ香りが強い気がします。
 その七味の前に、今回の京旅行のお土産に漬物を買うために家内と一緒に出掛けました。
京都の漬物といえば、すぐき、聖護院蕪の千枚漬け、そして産地の赤紫蘇を活かした大原のしば漬け・・・でしょうか。
ホテルの近くの岡崎に本店が在る大安の他にも、西利やしば漬けの土井といった有名店を始め、家族経営の個人商店まで京の街中にはたくさんの漬物店がある中で、ホテルのスタッフの方から薦められて行ったのが、川端二条の「加藤順漬物店」。
この店は、保存料、甘味料も加えない昔ながらの手法で作っている個人経営の小さな漬物店で、一番のお薦めはやはり千枚漬け。こちらの店では、通常のものより厚くカットされた聖護院蕪と、多めに加えた昆布でのトロミが特徴・・・とのことでした。他にも、以前近江八幡の漬物店で購入して気に入った日野菜や柚子大根など、幾つかお土産に購入しました。
  (5年前、清水の産寧坂の「西利」の店頭に積まれていた聖護院蕪です)

 そして「原了郭」の後、岡崎へ戻る途中昼食に立ち寄ったのが、川端三条、三条京阪の対面に在る昔ながらの大衆食堂「篠田屋」です。
家内は京セラ美術館のカフェでランチの食べると言っていたので、私メはこちらで戴くことにしました。学生時代4年間、しかも1年間は毎日この前を通学で歩いていたにも拘らず、今回が初めての入店です。
この「篠田屋」は1904(明治37)年創業だそうですので、ナント創業120年。100年では未だ老舗とは云われない京都ですが、食堂や洋食といった明治以降誕生した形態であれば、立派に老舗と言って良いのではないでしょうか。外観は勿論、店内も昭和レトロな雰囲気。まさに「三丁目の夕日」的な、昭和30年代にタイムスリップしたような何とも懐かしい雰囲気でした。
以前YouTubeで見て一度食べたいと思っていた、こちらの一番人気という中華そばが今回のお目当てで、大盛り(700円だったか。普通は確か600円とコスパ抜群でした)を注文。
他にも篠田屋名物という「皿盛」。これは、一見カツカレー風な見た目で、ご飯に掛けたルーがカレーうどん用の餡かけになっている、このお店独自のメニューなのだそうです。確かに面白そうですが、ここは初志貫徹です。
運ばれて来た大盛りの中華そば。その澄んだスープはごくあっさりで、和風とも言えそうな醤油味。うどんのつゆよりも多少は鶏ガラが効いてるなという感じのスープで殆ど脂分が浮いておらず、一般の鶏ガラからすれば非常にあっさりです。麺は中細ストレート麺で、昔ながらの黄色い麺。固めでしっかりしたモモ肉のチャーシュー、シナチク、刻んだ九条ネギがトッピングされています(どうやら、大盛はチャーシューも増やしてくれている様です)。
テーブルにコショウの瓶が無かったので訝しく思っていたら、最初からコショウが振り掛けられていました。
大盛りは結構麺の量が多く、優に二玉分以上はありそうです。そして“昔ながら”かもしれませんが、京都の出汁文化らしい和風とも言えそうな実にあっさりしたスープなのですが、昨今のこってり人気からすると、いくら鶏ガラ醤油好きの自分としても、あっさりし過ぎていて途中でやや飽きてしまいました。
 「うーん、でもちょっと好みじゃないなぁ・・・やっぱり、京都でのラーメンは新福菜館かなぁ・・・?」
 篠田屋のある“三条京阪”は、今は地下駅になり地上に在った駅舎は無くなってしまいましたが、私にとってはとても懐かしい場所です。
第一志望だった国立大学に落ちてから進学を決めたため、京都に下宿先を探しに行った時には既に洛中に下宿先は無く、そのため一回生の時は山科の四ノ宮に下宿をしていました(余談ですが、それも駅から下宿までは結構な距離を歩くので、大学帰りに駅近くの銭湯に入ってから下宿に帰ると、冬には髪の毛が凍ったことさえありました)。
ですので、毎日四ノ宮からチンチン電車に毛が生えた様な京津線の二両連結の京阪電車で三条京阪まで行って、少し歩いて河原町三条から広小路までは市電に乗って通学していたのに、当時地上駅の駅前にあった筈のこの篠田屋のことは全く知りませんでした。勿論入ったことも無ければ、視界の中に捉えてすらいませんでした。
学生時代から半世紀近くも経って、すっかり変わった“三条京阪”周辺の景観の中で、ここ、篠田屋だけがまるで取り残されたような・・・。その老舗の食堂の味を今回初めて味わうことが出来ました。
 「イヤハヤ、実に京都は奥が深い・・・。じゃあ今度はラーメンじゃなくて、皿盛を食べてみようかな!」
【注記】
最後の写真は、伎芸上達にご利益があるということで、祇園の芸舞妓さんからの信仰を集める祇園のシンボル「辰巳稲荷」です。ここも昔と何も変わっていない京の街の風景なのかもしれません。
余談ですが、インバウンドの観光客が全く無関心で、全く見向きもせずに通り過ぎて行くのが、彼等は歴史やエピソードではなく、飽くまでビジュアルだけに興味があるのか、ある意味面白い・・・。

 4日目の京都。翌日はチェックアウトしてからそのまま松本へ移動するので、この日が今回4泊五日の京都旅行での実質最終日です。

 冬の京都なら雪が降ってもおかしくないのに、この日は朝から生憎の雨模様。もし天気が良かったら、家内がこれまで行ったことが無いとのことで、今回の「冬の特別拝観」の一つだった門跡寺院の御室仁和寺で、有名な御室桜はさすがにこの時期は見られませんが、御所の紫宸殿を移築したという金堂(国宝)が今回特別公開されているので、久し振りに仁和寺へ行こうかと思っていたのですが、この雨降りでは奥さまから「絶対、No!」で諦め、結局この日はお互い別行動となりました。

 そこで、先ずは一緒に一旦ホテルのスタッフから薦められたお漬物屋さん、川端二条の「加藤順漬物店」に行って、娘たちやお義母さんなどへの今回の京都旅行のお土産と自家用含め買ってから、家内は一人戻って、京セラ美術館のカフェでランチも含め昼過ぎまでまったり過ごすとのこと。
片や私メは、先日八坂神社の後に見つけられなかった、四条通の祇園に在る筈の「原了郭」へ。以前長女がお土産に買って来てくれた黒七味が終わったので、この日再チャレンジして買いに行くことにしました。

 「原了郭」へは漬物屋さんの在る川端通からは祇園方面へ下がるので、せっかくですから、先日山種美術館で確認出来た東山魁夷「年暮る」に描かれた「要法寺」本堂を、途中の道すがらこの目で実際に確かめることにしました。
二条通には当初私が間違えた「妙伝寺」があるのですが、過日紹介した山種美術館「聖地巡礼展」(第1864話)の通り、妙伝寺の本堂の屋根は東西に向いているので、「年暮る」に描かれたお寺の大屋根とは向きが違います。
           (上の写真は東山二条に在る「妙伝寺」)
「要法寺」は東山三条とのことでしたので、その辺りを目指して下がって行きます。三条通に出ましたが見つけられず、細い小路を上がって行くと、それらしき屋根が見えたので、そちらを目指して歩を進めます。
 すると・・・在りました!
知恩院や南禅寺など京都の大寺院を見慣れた目からすると、要法寺の境内や本堂は決して大きなお寺さんではありませんが、もしこれが京都でなかったら十分に大きくて立派なお寺でしょう。

勿論目の前の風景は、画伯が描いた昭和40年代当時(「年暮る」発表は1968年)の京都ホテルの上階か或いは屋上から見た角度ではなく、半世紀以上が経った地上から見上げた景観になります。
でも境内で一番立派なその本堂は確かに南北に大屋根が向いていて、この要法寺本堂が間違い無く東山魁夷の「年暮る」の中に描かれたお寺の大屋根であることが認識出来ました。
因みに、この要法寺も妙伝寺もどちらも日蓮宗(要法寺は日蓮宗から分かれた日蓮本宗)のお寺さんでした。

  
 お目当ての黒七味等を買った、祇園「原了郭」からの帰り道。
先日、四条大橋から見た鴨川が思いの外濁っていたのが気になっていて、
  「上流では、こんなに水が濁る程の雨でも、どこか極地的に降ったのだろうか?」
と、その時に訝しく思ったのですが、昨日蘆山寺からの帰りに川端付近での鴨川への疎水合流口で見ると、上流の鴨川は濁っておらず、いつもの鴨川の透き通った流れで、疎水から流れ込む水が白っぽく濁っていたのです。
この時期、蹴上付近から学生時代合唱団の定演などで何度も歌った懐かしの 旧京都会館、現在のロームシアターを囲んで流れる疎水では、溜まった大量の土砂を取り除くために疎水の中に何台もの重機が入って浚渫工事をしていたのですが、四条大橋で見た鴨川が濁っていたのは、その浚渫工事で濁った水が川端二条辺りで鴨川に流れ込んでいるためだったのでした。
  「ナルホド!もしかするとこれも或る意味、閑散期の冬の京都でしか見られない光景なのかもしれないな!・・・」
と歩きながら独りごちて、家内と合流すべく京セラ美術館へ向かいました。

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