カネヤマ果樹園 雑記帳<三代目のブログ>
先日、以前から興味のあった、岩岳マウンテンリゾートを再生した現「㈱ズクトチエ」代表の和田寛さんの話を聞く機会があり、大いに感銘を受けました。
そうは言っても白馬も決して例外ではなく、中国や県外の“いかがわしい”資本が入りつつあるとも云われていますが、お聞きした和田さんの話は、おそらくニセコを反面教師に、『外資(外国資本だけではなく県外資本を含めた“地元の外”)には頼らず、地元の若い人のために「土地を売らず」に「地元調達率を高め」て、「稼ぐ手段を地元に残す」。そのためには(地元に金が無ければ)Fundを活用して調達する。そして、その実行のために、先ず「危機意識=課題認識の共有」と「(成功するための)ゴールイメージを共有」する。更に、岩岳の成功だけでなく、白馬エリア全体を活性化するために「点でなく面で攻める」』・・・ということに集約出来るかと思います。

それに今回は全く触れられていませんでしたが、赤字を極力抑えるべく、それまで外部委託していた年間500万円の経費削減のために行った、社長以下全経営陣の自らに依る駐車場整理だけではなく、他にも同様に現場の手が足りない時にはリフトやゴンドラの乗車係から、更にはレストランのレジ打ちや皿洗い、草刈り、雪掻きなどもこなしていたという“泥臭い”一面もお持ちで、その理由が必ずしも単純に人件費削減という経営者としての経済合理性だけではなく、また開成高校・東大卒で元キャリア官僚出身というエリート然としたイメージともまた異なる、(社長が率先し経営者陣が現場で範を示したことも、経営陣が現場の実態を知るという副次的効果だけはなく、チームの士気を高めるためには重要だった筈の)“熱き”一面もお持ちです。
また、和田さんは岩岳の弱点として標高が低い(=温暖化に伴う少雪化の影響を受け易い)ことを挙げておられましたが、実際に冬も夏も行ったことのある人間としては、栂池(昔スキーに行った時に、スパイクタイヤを履いていた時でさえも坂を上るのに苦労したことがありました)などより上り坂が少ないので雪道でもアプローチし易く、また白馬の八方尾根などよりも(道路事情も良くて)国道からも近いので、(スノーマシンで駐車場近くの下のゲレンデに雪を確保することが出来るならば)スキー場へアクセスし易いのは逆にメリットだと個人的には感じました。

それは木曽の妻籠宿です。この妻籠宿は住民たちが自らの意思で町並みを守り抜いた、日本で最初の「重要伝統的建造物群保存地区」です。 以下、妻籠宿のHPから借用します。
『昭和43年8月、妻籠宿保存事業は、昭和44年を初年度とする3カ年計画で、町屋を対象とした歴史風土を守る観点から復元・修景を実施した。そして地元住民は、昭和43年(1968年)「妻籠を愛する会」を設立し「売らない、貸さない、こわさない」の信条に基づき、地元住民を中心とした保存事業であり、観光的利用であるという考えのもとに意思統一を図り、さらに妻籠の観光開発は、自然環境も含めた宿場景観あるいは藤村文学の舞台としての景観保存以外にはありえないという考え方を確認し、その結果、我が国初の「重要伝統的建造物群保存地区」に選定(昭和51年)された。』
『この白川郷(岐阜県)の保存理由は、1970年代の近代化に伴う急速な景観消失の危機に対し、住民が「売らない、貸さない、壊さない」の3原則を定めて伝統的な合掌造り集落を守り抜いたためです。豪雪地帯特有の自然と共生する知恵や、相互扶助「結(ゆい)」の営みが評価され、1995年に世界文化遺産に登録されました。
このままでは白川村の合掌造りがなくなってしまうという危機感を抱いた住民が、昭和46年(1971年)に地域内の資源を「売らない、貸さない、壊さない」の3原則を掲げ、「白川郷荻町集落の自然環境を守る会」を全住民の総意で発足、保存活動を展開し始め、これらの保存活動が認められて昭和51年(1976年)に国の重要伝統的建造物保存地区に選定され、1995(平成7)年には世界遺産に登録されています。』
ですので、「売らない、貸さない、壊さない」は、妻籠が白川郷の先輩格なのです。妻籠も白川郷も必ずしも観光での金儲け目的ではなく、自分たちの街の景観を守る、伝統を守るという住民意識が元々の原点であり、それが結果的に住民主体での“街づくり”として現在の観光産業にも繋がったのです。

例えば最近の報道では、ニセコばかりではなく、山梨県笛吹市の石和温泉では、バブル崩壊やコロナ禍で経営破綻した旅館・ホテルを中国資本が相場の何倍もの価格を提示して買収する動きが活発で、2025年時点で主要な旅館・ホテル40軒のうち、実に25%に当たる10軒が既に中国系資本に転換されており、宿泊客の8割が中国人という施設も出現、街並みも「ガチ中華」店などが進出する様な変化を見せているとの報道もあり、地元では「高く売れるに越したことは無い」と歓迎する向きもあるのだとか(“戦狼外交”により中国人団体客が来なった今どうなっているのかは知りませんが・・・)。石和温泉そのものが、昭和30年代に入ってボーリングして一面のブドウ畑の中に温泉が噴き出し、高度成長期に歓楽街として賑わったという新しい温泉地なので、もしかすると元々が余り地元とは関係無い資本だったのかもしれません。
勿論精神論や“美辞麗句”だけで経営が成り立つ訳でないのは百も承知です。しかしそこには単に儲けや稼ぐこと以上に大切なモノがあり、それがあるからこそ例え時間は掛かっても、結果として子々孫々への利益にもまた繋がっていくのではないのでしょうか。
(以下長くなりそうなので、続きは次回「後編」へ)
“平成の名水百選”に選ばれている「まつもと城下町湧水群」の代表的井戸であり、江戸時代には既に“当国一の名水”と謳われていたという「源智の井戸」の清掃に、これまで30数年間に亘って携わって来られた地元町会の有志の皆さんが、高齢化と担い手となる後継者不足に伴い継続が難しくなっているという状況を地元紙の報道で知り、10年来“タダ”でその水を頂いてきた身としては申し訳なくていたたまれず、その仲間に加えさせていただいたのが一昨年の12月。
その後色々実情を知る中で、私がダメ元のつもりで出した「市長への手紙」がきっかけとなり、その結果、市の第二地区地域づくりセンターを事務局として清掃ボランティアが募集され、昨年3月にそれまで井戸清掃を続けてこられた地元町会の有志「井戸と花の会」からの引継ぎを兼ねてトライアル清掃を行い、翌4月より第二地区の役員の方々など住民有志、井戸利用者、市内在住者や移住者の皆さん等による「源智の井戸を守り隊」が結成されて、月一回の清掃活動が開始されました。

また市の「松本市地域チャレンジ応援事業補助金」制度が令和7年度からスタートしたことに伴い、「源智の井戸を守り隊」の清掃ボランティア活動に伴う必要な備品購入費用が「一般チャレンジの部」に採択され、それまでボランティアの方の善意に頼っていた水中ポンプと発電機をその補助金で購入して毎月の清掃活動に役立てると同時に、ボランティア参加登録者全員に万が一に備えた傷害保険を年間付保することも可能となりました。

当日は30人を超えるメンバーに参加いただいたのですが、20代の若者から、松本へ移住して来られた方々や、更には地元の80代の(失礼ながら)“お年寄り”までさまざま。
中にはご高齢のため、正直手は余り動かずに見ているだけの方もおられるのですが、それで結構!井戸の実情を知り我々の応援団となって、色んな場面で働き掛けを行ってくださっておられます。そのお陰で、例えば地域の育成部長さんが夏休みの子供たちの参加を検討するために見学に来られるなど、有難いことに、手が出せぬなら口でしっかりサポートしてくださっているのです。
昨年までは、地元町会に有志の方々が藻の繁殖する夏場は月三回、冬は月二回の清掃を実施して来ました。今年度から、地元町会に長年の要請もあって、清掃ボランティアとは別に市の特別史跡である「源智の井戸」を管理する文化財課が予算を確保して外部業者に清掃業務を委託し、月二回、我々と合わせて月三回の井戸清掃が行われて来ました。
しかし、少子化に依る人口減は松本市も例外ではないので、今後もずっと業者委託の予算が確保される保証はありません(というよりむしろ不可能でしょう)。
そこで、今回は39名にまで登録メンバーが増えたことに伴い、二年目を迎えるにあたり、来月からボランティアを二班編成にして、今年度の月一回を月二回と清掃回数を増やすことを計画し、清掃後の親睦を兼ねての“モーニング会”の中で提案させていただいて、皆さんから賛同を得ることが出来ました。また幾つかアイデアも頂き、早速今後の改善に繋げることにしました。
清掃ボランティアである「源智の井戸を守り隊」の活動は、井戸の在る市の第二地区地域づくりセンターが事務局となってはいますが、高齢化と空洞化で地元町会が白旗を挙げたことに依り、これまでの市政における通常のパターンである行政と地元町会とではなく、地域外の有志ボランティアの市民とコラボして実現した活動です。市の職員も人的に決して十分な訳では無いので、市民からの要望に全て対応することは困難です。そうであるとすれば、市の補助金活用など行政は「金」を出す。そして市民は「口」で要望するだけではなく、そうした「チエ」と共にしっかり「ずく」も出す。市民も自分の手を動かすことで、双方課題解決に繋がっていければ良いのではないでしょうか。
そしてそんな活動に、松本の未来を担う子供たちや、松本の街を気に入って来てくれた移住者や、そして松本が好きでUターンで戻って来た若者たちも興味を持ち、やがて参画して貰えたら・・・。
「決して世の中、そして松本の街も、まだまだ捨てたもんじゃない!」
・・・最近、何だかそんな風にも感じています。
先日、税務署での修正手続きへ行って来ました。
久し振りだったので、ウォーキングがてら歩いて、松本駅から伊勢町、大名町を通って、松本城を抜けて・・・。
平日の月曜日でしたが、外国人の方も含め観光客の方も結構おられます。

『 やはらかに 柳あをめる 北上の 岸辺目に見ゆ 泣けと如くに 』
ではありませんが、早春、梅よりも先に僅かに「青めいてきた柳」の新芽を見ると、何となく春の訪れが近いことを感じます。

この日はもう3月の中旬でしたので、お堀端の柳も芽吹いていましたし、紅白の梅の中にはもう満開に近い木もありました。柳越し、梅林越しに眺めると、天守閣も何となく春めいているように感じられます。


(下の絵は、春の伊那谷下条村を描いたという、原田泰治画「梅の咲く頃」)

そして税務署からの帰路、開運堂の横を通ったら桜餅の販売が既に始まっていました。販売期間は実際に松本で桜が咲いている4月中旬までとのことですが、桜餅の幟を見たら何だか気分はもう桜の季節になりました。
松本の“春本番”も間も無くです。
今日は春分の日。“暑さ寒さも彼岸まで”・・・春のお彼岸を迎え、春の遅い信州松本にもそこかしこに春の雰囲気が感じられる様になりました。



(まだ梅の花が咲くには早い梢に 白い梅の花の様に白雲が掛かっている)
しかし“春告草”というと、上に記した和歌からも分かるように古来我が国では梅の花になるのだそうですが、個人的には“春色”というと何だか黄色をイメージしてしまいます。
調べてみると、春に黄色い花が多い理由は、冬眠明けのハエやアブなどの昆虫に、殺風景な早春の景色の中で黄色を強調し、受粉の手助け(虫媒花)をしてもらうためなのだそうです。黄色は春になって飛び始めたハエやアブなどの昆虫が敏感に反応する色であり、効率的に子孫を残すためのそれらの植物にとっての子孫を拡げ生存するための知恵なのです。
また寒さの残る景色(茶色やグレー)の中で黄色は目立ち、虫たちに花の場所をアピールし易いとも云われています(視認性)。

そうした春を代表する黄色い花の一つにタンポポがあります。それこそ季節になると、リンゴ園がタンポポで黄色の絨毯の様に染まります。
大分昔ですが、2009年にタンポポについてブログに書いたことがあった(第78話)ので、その部分のみ抜粋します。
『上述の女性ハーブ研究家の方が、昔(日本でハーブがブームになる遥か前)「食用タンポポ」を海外から取り寄せて植えて楽しみにしていたら、春生えてきたのは“そんじょそこら”のどこにでもある普通の西洋タンポポだったのだそうです。タンポポは仏語でピサンリ。英語ではダンディリオン(dandelion)。そのノコギリのような葉から「ライオンの歯」を意味する仏語に由来とか・・・。
西洋タンポポって、ヨーロッパでは古くからの食用ハーブだってご存知ですか?
作庭に際して熟読したある女性ハーブ研究家(注記)の方の記述に寄れば、早春のパリの青空市場に大量に積まれ、パリっ子にとっては待ち望んだ「春告げ」野菜?なのだそうです(生のままサラダで食べて、毎日どんより曇った暗い冬が去って明るい春が来たことを実感するのだとか)我家のリンゴ園にもいくらでもあるので、以前、本に記載されていたお薦めレシピ(確か、生の葉を固ゆで卵の黄身をほぐしたものと絡ませ、細かく切ったベーコンをオリーブオイルでカリカリになるまで炒めてタンポポの葉にかけるだけ)に沿って試してみましたが、以降、家族からのリクエストは無し・・・。
【注記】 広田セイ子女史(セイは偏が「青」の旧字体に右側の「つくり」が「見」)。わが国のハーブ研究のパイオニアだそうです。女史の著作『香りの花束・・・ハーブと暮らし』(84年初版)の文庫版(92年講談社刊)のから引用。この本は、カラー写真入りのハーブのリスト、栽培方法やレシピなどもあってハーブガーデン作庭の際に大変重宝しました。 』
NHKの朝ドラ。最近の中では「虎と翼」や「あんぱん」などの評判になった作品は勿論、ただそれまでの習慣で惰性的にただ放送を流していて視る気もしなかった「おむすび」を含め、終了後の「アサイチ」の朝ドラ受けまでしっかりと視るのが殆ど習慣化していたのですが、今回の「ばけばけ」については、当初予告編で主人公であるヒロインの演技が大袈裟で鼻に付く気がして、最初は正直余り期待をしていませんでした。
ところが放送が始まってみると、視始めた当初は明治初期の山陰地方の島根県らしからぬ現代的な会話の言葉遣いに違和感を感じつつも、その新鮮さにも驚き、且つ大阪局制作らしいボケと突っ込み的なコメディタッチの会話にも惹かれ、またそれを成り立たせるヒロインを始めとする俳優陣の皆さんのコメディエンヌ的な自然な演技の旨さにも正直驚き、いつの間にか引き込まれる様に見入っていました。
随分と楽しませて貰ったそんな「ばけばけ」も、今月一杯で終了です。
この「ばけばけ」は小泉八雲を巡る物語なので、舞台は宍道湖の蜆で有名な松江。松本藩から入封した松江藩の藩祖ともいえる松平直政公(蕎麦職人を信州松本から連れて行ったのが、やがて日本三大蕎麦となる出雲そばの元祖)以外、松本とは何の縁もゆかりもない無い物語・・・の筈でした。
ところがひょんなことから、他にも松本との関係があることが分かったのです。
この本庄太一郎は、明治から大正時代に掛けて活躍した松江出身の教育者で、小泉八雲の知人錦織友一のモデルである西田千太郎と共に文検に合格し、東京高等師範の教授や台湾での中学校長を歴任した人物です。その主な経歴は(ネット検索から)、
• 出身:島根県松江市(雑賀町)の旧松江藩士
• 教育者としての活躍:京都府尋常中学校長、東京高等師範学校教授、台湾
総督府国語学校長および中学校長を歴任
• 松本中学校長:大正3年(1914年)に長野県松本中学校(旧制)の校長として
赴任。しかし、排斥運動により退職
• その後:帰郷し、大正6年(1917年)の衆議院議員選挙に立候補(次点)、
その後神戸市教育課長を務めた
そこで調べてみると、長野県松本中学校(現・松本深志高校)の歴代校長は以下の通り、(敬称略)<松本中学校> (1)小林有也 (2)本庄太一郎 (3)高橋清一・・・で、確かに第二代校長に本庄太一郎の名前がありました。
そしてそれ以上に気になるのは、「排斥運動により退職」との記載です。

松本深志高校のアイデンティティーは「自治」にあるのですが、この「自治」を唱えたのが初代校長の小林有也先生であり、実に30年に亘り松本中学の初代校長を務め、今の深志高校に至る学校の礎を創った人物そのものです。自治の由来について、深志の生徒手帳にはこう書かれています。
『本校の前身旧制松本中学校では、明治23 年頃から生徒の自治が故小林有也先生の教育理念として唱えられ、実現された。以来その校風は、伝統的に個人の自主性を重んじ、生徒自らの自治の場を認めている』
この「自治」は、例えば校歌の二番に、
『 時の流れは強うして この世の旅は長けれど
自治を生命の若人は 強き「力」に生くるかな
山河秀でし此の郷に 礎固し我が母校 』
と謳われ、
また新入生が最初に習う応援歌が「自治を叫びて」であり、その中にも
『 自治を叫びて百年 五色の大旗翻し
一千健児の熱血燃えて 城下に轟く鬨の声 』
と謳われています(なお、長女の時の歌詞は「百年(いっぴゃくねん)」だったそうですが、我々の頃は「九十年」でした・・・)。
小林有也先生の唱えられた「自治」に“危機”が訪れたのが、小林先生が亡くなられた後の二代校長として赴任した本庄太一郎に依ってでした。
それを紹介した文章から抜粋します。
『転機は、1914(大正3)年、小林有也が在職中に(校長在任30 年)亡くなった後に訪れる。すなわち「自治という言葉は小林校長が亡くなってから事後的に新しい意味を持つ言葉として使われ始めた」 のである。なぜか。
後任の本庄太一郎校長は、小林とは対照的に、明文化したルールに生徒を従わせることで学校秩序を維持する“べからず主義”であった。小林の時代は校長との対話的関係を前提として、生徒たちが自ら秩序を創り出すことが重視されていたが、それが失われて初めて、生徒たちは自治という言葉を意識するようになった。』
また本庄太一郎の生涯を解説した別の記事の中には、
『規律を重んじる太一郎は、統一主義に基づいて生徒たちを管理する方針でした。これに基づき政党政治を否定する言動を取っていきます。
この「中心へ集約する」姿勢は、学校の自治的空気や、生徒側の反発と衝突しやすい。松本での批判点とも重なり、自治志向を本庄が否定した可能性が述べられています。生徒たちが反発した結果、校長排斥運動が勃発しました。
新聞のインタビューには「生徒の総ストライキをくった」と記載。結局、太一郎は退職へ追い込まれます。』
とも記載されていました。

しかし、松本に赴任してくる前には、明治26年4月~明治32年(1899)6月までは京都府尋常中学校の校長、明治35年(1902)頃には東京高等師範学校教授に就任し、明治40年(1907)には、台湾において、台湾総督府国語学校長と台湾総督府中学校長となっていますので、当時の我が国の教育界において名を成した人物と云えるのは間違いありません。
従って、本庄太一郎は当時松本城二ノ丸に在った校舎で、生まれ育った故郷松江藩の藩祖松平直政公が松江に移る前に藩主を務めていた松本城の天守閣を毎日仰ぎ見ては、恐らく同じ白黒の城である松江城を想い、故郷を偲びながら、松本中学校長として勤めていたのではないでしょうか。
(因みに、上の写真は本庄氏も校長時代に毎日眺めていたであろう、当時の松本中学があったエリア辺りから望む松本城の大天守と北アの峰々の夕景です)
それにしても、「ばけばけ」の放送お陰で、モデルとされる登場人物の一人が松江だけではなく松本とも縁があり、しかもそれが我が母校の校長先生だったと(地元や母校の歴史の中でどう評価されているかはともかく)今回の「ばけばけ」をきっかけに初めて知ることが出来ました。



