カネヤマ果樹園 雑記帳<三代目のブログ>
前々から「一度食べに行ってみたい!」と思っていたおそば屋さんがありました。それは、木曽谷への入り口(注記)となる、塩尻市本山地区に在る「本山そばの里」というおそば屋さんです。
現在は麺として食されることが多いそばですが、古くは粒のままお粥にしたり、粉を挽いてお湯で捏ねて粘りを出したそばがきや、その捏ねて団子状にして焼いたそば焼きなどの方法で食べられていました。
麺としての蕎麦の発祥に関しては諸説あるものの、ここは冠たる“信州そば”の長野県ですので、地元長野県の県職員に皆さんに依る『しあわせ信州~長野県魅力発信ブログ~』中の解説記事から引用します。
『奈良時代に全国に山岳修験道を広めたとされる役小角(えんのおづぬ=役の行者)が修行中、信濃国の伊那谷を訪れた際、住民からのもてなしのお礼に携行していたそばの実とその栽培方法を伝えたのが、信州におけるそば栽培の始まりとの説が残っています。
そば粉で生地を練って薄く均等に延(の)し、包丁で麺の形に切る「そば切り」は、長野県木曽周辺で誕生し、全国へ広がったとされる説が有力です。
長野県大桑村にある木曽三大寺のひとつ「定勝寺」の改修記録である『定勝寺文書』には、安土桃山時代の天正2年(1574年)に「振舞ソハキリ 金永」との記述があり、これがそば切りに関する日本最古の記録とされています。
また、松尾芭蕉の門下生だった森川許六による1706年発刊の『風俗文選』には、「そば切りといっぱ、もと信濃国本山宿より出て、あまねく国々にもてはやされける」という記述が残されており、木曽路の宿場町・本山宿からそば切りが広がったといわれています。本山宿には殿様が泊まることも多く、「ハレものにそばをふるまった」との記録もあります。』
この「本山宿」というのが、中山道69次の江戸日本橋から32番目の宿場町として栄えた塩尻市の本山地区であり、当時この本山宿には10数軒の旅籠があり、多くの旅人にそばを提供していたそうです。しかし鉄道の発達と共に街道の宿場は廃れ、江戸時代の旅籠は一軒も無くなってしまいました。
そこで、「本山宿のそばにまつわる歴史や文化を絶やしてしまうわけにはいかない」と地元の有志の皆さんが集まり、地域の各家庭に伝わるそば打ちの技術や味を後世へ伝えるとともに、地域振興にもつなげるべく、1991年に「本山手打ちそば振興会」を発足させ、1994年には「そば切り発祥の地本山そばの里企業組合」を創設して、この「本山そばの里」が開店。原料も地元産にこだわり、近隣の畑で栽培される「信濃一号」という品種を自家製粉し、そのそば粉だけを使用しているのだそうです。
従って、江戸時代から続く様な老舗のそば屋さんではありませんが、信州に暮らすそば好きとしては、敬意を払って発祥の地のそばをやはり一度は食べておくべきかと思った次第です。








外に出ると、結構広い駐車場には10台くらい停まっていて、中には県外車も数台ありました。
NYから奥さまが戻ったら、子供の頃の信州の田舎を感じさせてくれる様なこの店に、今度は新そばを食べにまた連れて来てあげようと思います。
【注記】
「すべて山の中である」とされる木曽路は、実際は本山宿の次の中山道33番目の贄川宿(にえかわ)が木曽11宿の北端とされ、本山宿と贄川宿の間に在る桜沢に「是より南 木曽路」の石碑が立っている。
この石碑は、「是より北 木曽路」という、旧中山道の落合宿(現岐阜県中津川市)と馬籠宿(長野県から2005年に岐阜県へ越県編入)の間にある石碑と対をなしている。
コメント追加



