カネヤマ果樹園 雑記帳<三代目のブログ>
NHKの朝ドラ。最近の中では「虎と翼」や「あんぱん」などの評判になった作品は勿論、ただそれまでの習慣で惰性的にただ放送を流していて視る気もしなかった「おむすび」を含め、終了後の「アサイチ」の朝ドラ受けまでしっかりと視るのが殆ど習慣化していたのですが、今回の「ばけばけ」については、当初予告編で主人公にヒロインの演技が大袈裟で鼻に付く気がして、最初は正直余り期待をしていませんでした。
ところが放送が始まってみると、視始めた当初は明治初期の山陰地方の島根県らしからぬ現代的な会話の言葉遣いに違和感を感じつつも、その新鮮さにも驚き、且つ大阪局制作らしいボケと突っ込み的なコメディタッチの会話にも惹かれ、またそれを成り立たせるヒロインを始めとする俳優陣の皆さんのコメディエンヌ的な自然な演技の旨さにも正直驚き、いつの間にか引き込まれる様に見入っていました。
随分と楽しませて貰ったそんな「ばけばけ」も、今月一杯で終了です。
この「ばけばけ」は小泉八雲を巡る物語なので、舞台は宍道湖の蜆で有名な松江。松本藩から入封した松江藩の藩祖ともいえる松平直政公(蕎麦職人を信州松本から連れて行ったのが、やがて日本三大蕎麦となる出雲そばの元祖)以外、松本とは何の縁もゆかりもない無い物語・・・の筈でした。
ところがひょんなことから、他にも松本との関係があることが分かったのです。
この本庄太一郎は、明治から大正時代に掛けて活躍した松江出身の教育者で、小泉八雲の知人錦織友一のモデルである西田千太郎と共に文検に合格し、東京高等師範の教授や台湾での中学校長を歴任した人物です。その主な経歴は(ネット検索から)、
• 出身:島根県松江市(雑賀町)の旧松江藩士
• 教育者としての活躍:京都府尋常中学校長、東京高等師範学校教授、台湾
総督府国語学校長および中学校長を歴任
• 松本中学校長:大正3年(1914年)に長野県松本中学校(旧制)の校長として
赴任。しかし、排斥運動により退職
• その後:帰郷し、大正6年(1917年)の衆議院議員選挙に立候補(次点)、
その後神戸市教育課長を務めた
そこで調べてみると、長野県松本中学校(現・松本深志高校)の歴代校長は以下の通り、(敬称略)<松本中学校> (1)小林有也 (2)本庄太一郎 (3)高橋清一・・・で、確かに第二代校長に本庄太一郎の名前がありました。
そしてそれ以上に気になるのは、「排斥運動により退職」との記載です。

松本深志高校のアイデンティティーは「自治」にあるのですが、この「自治」を唱えたのが初代校長の小林有也先生であり、実に30年に亘り松本中学の初代校長を務め、今の深志高校に至る学校の礎を創った人物そのものです。自治の由来について、深志の生徒手帳にはこう書かれています。
『本校の前身旧制松本中学校では、明治23 年頃から生徒の自治が故小林有也先生の教育理念として唱えられ、実現された。以来その校風は、伝統的に個人の自主性を重んじ、生徒自らの自治の場を認めている』
この「自治」は、例えば校歌の二番に、
『 時の流れは強うして この世の旅は長けれど
自治を生命の若人は 強き「力」に生くるかな
山河秀でし此の郷に 礎固し我が母校 』
と謳われ、
また新入生が最初に習う応援歌が「自治を叫びて」であり、その中にも
『 自治を叫びて百年 五色の大旗翻し
一千健児の熱血燃えて 城下に轟く鬨の声 』
と謳われています(なお、長女の時の歌詞は「百年(いっぴゃくねん)」だったそうですが、我々の頃は「九十年」でした・・・)。
小林有也先生の唱えられた「自治」に“危機”が訪れたのが、小林先生が亡くなられた後の二代校長として赴任した本庄太一郎に依ってでした。
それを紹介した文章から抜粋します。
『転機は、1914(大正3)年、小林有也が在職中に(校長在任30 年)亡くなった後に訪れる。すなわち「自治という言葉は小林校長が亡くなってから事後的に新しい意味を持つ言葉として使われ始めた」 のである。なぜか。
後任の本庄太一郎校長は、小林とは対照的に、明文化したルールに生徒を従わせることで学校秩序を維持する“べからず主義”であった。小林の時代は校長との対話的関係を前提として、生徒たちが自ら秩序を創り出すことが重視されていたが、それが失われて初めて、生徒たちは自治という言葉を意識するようになった。』
また本庄太一郎の生涯を解説した別の記事の中には、
『規律を重んじる太一郎は、統一主義に基づいて生徒たちを管理する方針でした。これに基づき政党政治を否定する言動を取っていきます。
この「中心へ集約する」姿勢は、学校の自治的空気や、生徒側の反発と衝突しやすい。松本での批判点とも重なり、自治志向を本庄が否定した可能性が述べられています。生徒たちが反発した結果、校長排斥運動が勃発しました。
新聞のインタビューには「生徒の総ストライキをくった」と記載。結局、太一郎は退職へ追い込まれます。』
とも記載されていました。

しかし、松本に赴任してくる前には、明治26年4月~明治32年(1899)6月までは京都府尋常中学校の校長、明治35年(1902)頃には東京高等師範学校教授に就任し、明治40年(1907)には、台湾において、台湾総督府国語学校長と台湾総督府中学校長となっていますので、当時の我が国の教育界において名を成した人物と云えるのは間違いありません。
従って、本庄太一郎は当時松本城二ノ丸に在った校舎で、生まれ育った故郷松江藩の藩祖松平直政公が松江に移る前に藩主を務めていた松本城の天守閣を毎日仰ぎ見ては、恐らく同じ白黒の城である松江城を想い、故郷を偲びながら、松本中学校長として勤めていたのではないでしょうか。
(因みに、上の写真は本庄氏も校長時代に毎日眺めていたであろう、当時の松本中学があったエリア辺りから望む松本城の大天守と北アの峰々の夕景です)
それにしても、「ばけばけ」の放送お陰で、モデルとされる登場人物の一人が松江だけではなく松本とも縁があり、しかもそれが我が母校の校長先生だったと(地元や母校の歴史の中でどう評価されているかはともかく)今回の「ばけばけ」をきっかけに初めて知ることが出来ました。
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