カネヤマ果樹園 雑記帳<三代目のブログ>

 4日目の京都。翌日はチェックアウトしてからそのまま松本へ移動するので、この日が今回4泊五日の京都旅行での実質最終日です。

 冬の京都なら雪が降ってもおかしくないのに、この日は朝から生憎の雨模様。もし天気が良かったら、家内がこれまで行ったことが無いとのことで、今回の「冬の特別拝観」の一つだった門跡寺院の御室仁和寺で、有名な御室桜はさすがにこの時期は見られませんが、御所の紫宸殿を移築したという金堂(国宝)が今回特別公開されているので、久し振りに仁和寺へ行こうかと思っていたのですが、この雨降りでは奥さまから「絶対、No!」で諦め、結局この日はお互い別行動となりました。

 そこで、先ずは一緒に一旦ホテルのスタッフから薦められたお漬物屋さん、川端二条の「加藤順漬物店」に行って、娘たちやお義母さんなどへの今回の京都旅行のお土産と自家用含め買ってから、家内は一人戻って、京セラ美術館のカフェでランチも含め昼過ぎまでまったり過ごすとのこと。
片や私メは、先日八坂神社の後に見つけられなかった、四条通の祇園に在る筈の「原了郭」へ。以前長女がお土産に買って来てくれた黒七味が終わったので、この日再チャレンジして買いに行くことにしました。

 「原了郭」へは漬物屋さんの在る川端通からは祇園方面へ下がるので、せっかくですから、先日山種美術館で確認出来た東山魁夷「年暮る」に描かれた「要法寺」本堂を、途中の道すがらこの目で実際に確かめることにしました。
二条通には当初私が間違えた「妙伝寺」があるのですが、過日紹介した山種美術館「聖地巡礼展」(第1864話)の通り、妙伝寺の本堂の屋根は東西に向いているので、「年暮る」に描かれたお寺の大屋根とは向きが違います。
           (上の写真は東山二条に在る「妙伝寺」)
「要法寺」は東山三条とのことでしたので、その辺りを目指して下がって行きます。三条通に出ましたが見つけられず、細い小路を上がって行くと、それらしき屋根が見えたので、そちらを目指して歩を進めます。
 すると・・・在りました!
知恩院や南禅寺など京都の大寺院を見慣れた目からすると、要法寺の境内や本堂は決して大きなお寺さんではありませんが、もしこれが京都でなかったら十分に大きくて立派なお寺でしょう。

勿論目の前の風景は、画伯が描いた昭和40年代当時(「年暮る」発表は1968年)の京都ホテルの上階か或いは屋上から見た角度ではなく、半世紀以上が経った地上から見上げた景観になります。
でも境内で一番立派なその本堂は確かに南北に大屋根が向いていて、この要法寺本堂が間違い無く東山魁夷の「年暮る」の中に描かれたお寺の大屋根であることが認識出来ました。
因みに、この要法寺も妙伝寺もどちらも日蓮宗(要法寺は日蓮宗から分かれた日蓮本宗)のお寺さんでした。

  
 お目当ての黒七味等を買った、祇園「原了郭」からの帰り道。
先日、四条大橋から見た鴨川が思いの外濁っていたのが気になっていて、
  「上流では、こんなに水が濁る程の雨でも、どこか極地的に降ったのだろうか?」
と、その時に訝しく思ったのですが、昨日蘆山寺からの帰りに川端付近での鴨川への疎水合流口で見ると、上流の鴨川は濁っておらず、いつもの鴨川の透き通った流れで、疎水から流れ込む水が白っぽく濁っていたのです。
この時期、蹴上付近から学生時代合唱団の定演などで何度も歌った懐かしの 旧京都会館、現在のロームシアターを囲んで流れる疎水では、溜まった大量の土砂を取り除くために疎水の中に何台もの重機が入って浚渫工事をしていたのですが、四条大橋で見た鴨川が濁っていたのは、その浚渫工事で濁った水が川端二条辺りで鴨川に流れ込んでいるためだったのでした。
  「ナルホド!もしかするとこれも或る意味、閑散期の冬の京都でしか見られない光景なのかもしれないな!・・・」
と歩きながら独りごちて、家内と合流すべく京セラ美術館へ向かいました。

 今回の京都で、観光目的で唯一拝観したのが「蘆山寺」でした。
閑散期となる冬の観光キャンペーン「京の冬の旅」の特別公開文化財の中の一つです。

 当初は前話の「出町ろろろ」に行く前に参拝するつもりだったのですが、予約時間までに参拝し終わるか不安だったので、蘆山寺へは食後に行くことにして、先に梨木神社に寄ってみることにしました。
梨木神社は明治の英傑三条実美等を祀った、古都では新しい神社ですが、境内に京都三名水という“染井の井戸”があり、また“萩の寺”でも知られます。その名水の井戸には、地元の方々が次々に水を汲みに来られていました。また境内のたくさんの萩は、秋の花の季節が終わった後、殆どは株毎刈り取られていて、来る春に向けて養生している様でした。

         (写真は梨木神社境内の「染井の井戸」です)
梨木神社に参拝し、まだ予約までには少し時間があったのでその後御苑へ。
観光シーズンで無いためか、嘘のように静か。春と秋に公開される京都御所は何度か見ていますが今は視ることはできません。ただ、申し込みをすれば拝観可能という仙洞御所に数人いたくらいで、あとは散歩を楽しむワンコ連れか、通勤通学で御苑の中を通行させてもらう地元の方々が散見されます。
中立売方面に行けば、「蛤御門」があり、御所の北側には「令泉家」など、千年の都にはそれこそ歴史上の名所がごろごろしています。
御所の周りの旧宮家など公家の舘が立ち並んでいたところは、今は松の木を始め木々が植わっていて、林を形作っていて広大な公園になっています。林の中にはサザンカの大木がちょうど満開でした。
 昼食後、今出川から寺町を下がって蘆山寺へ。
学生時代に大学がすぐ近くだったので、空き時間に一度拝観したことはあるのですが、その時は他に拝観者は誰もいなかった様に思います。
今回ちょうどNHKの紫式部を取り上げた大河ドラマの影響か、結構混んでいました。ただ、この場所に紫式部の邸宅があった場所と推定されているだけで、実際の蘆山寺は天台宗のお寺で、平安時代を生きた彼女とは無関係なのですが、住吉派の絵師による源氏物語「若紫」や「絵合」の図、また「源氏絵屏風」などといった源氏物語関係の絵画や資料を観光用に展示し、また平安時代を模して白砂と苔と桔梗を配した「源氏庭」など盛んに紫式部との繋がりをPRしていて、10人程拝観者が集まると部屋毎に説明をしてくれていました。
そうした中で、むしろ「紫式部」よりも個人的に興味深かったのは、今回の特別公開の元三大師堂に安置されたご本尊の阿弥陀三尊座像(重文)と鬼のような形相の「鬼大師像」、そして天台宗絡みとかで明智光秀が戦の陣地へも守り本尊として持って行ったという、念持仏の地蔵菩薩がとりわけ印象的でした。
これは織田信長が天台宗の総本山である比叡山延暦寺を焼き討ちにした際、明智光秀の進言により、同じ宗派の蘆山寺(当時は別の場所に在った由)が被害を免れたため、その縁で光秀の没後に当寺へ納められたのだそうです。
その光秀の念持仏は信心深く崇められたのか、顔が撫でられて彫が浅くなっていて、何となく非業の最後を遂げた持ち主の“もののあわれ”を感じ、今回特別拝観で見ることが出来て大変感慨深く感じました。

秋には紅葉と共に、桔梗の花が彩るという源氏庭。蘆山寺のパンフレットにはこう記されていました。
『源氏庭は平安朝の庭園の「感」を表現したものであり、白砂と苔の庭です。源氏物語に出てくる朝顔の花は今の桔梗のことであり、紫式部に因み、紫の桔梗が6月末から9月初め頃まで静かに花開きます。』・・・と。
その桔梗は土岐一族の家紋であり、その「桔梗紋」の中でも「水色桔梗紋」を家紋とする一族の明智家にこそ、むしろこの庭の桔梗は相応しい・・・。そう感じたのは果たして私だけでしょうか。
 そして、帰り道の京の街中で見掛けたヒイラギの花。
とげ状の鋸葉を持つヒイラギは古来悪魔除けの木として知られますが、ヒイラギの花はそんなイメージからは程遠い、華凛な白く小さな花を冬に咲かせます。人知れず、奥ゆかしくひっそりと冬に咲くその花は、何だか古都の小路にこそ相応しい・・・。
たった今、光秀の念持仏を拝んで来たせいでしょうか・・・、そんな気がしてなりませんでした。

 今回の京都旅行はノンビリ旅でガツガツと観光地巡りをする予定も無く、またコユキが一緒なので彼女独りにしては可哀想ですから、夜はなるべくホテルでコユキと一緒に過ごすために、お惣菜やお弁当を買って来て夕食にしました(ナナがいれば、二匹仲良く一緒にお留守番出来るのですが・・・)。
そのため、先ずは久しぶりの駅弁を新幹線の中で食べた(列車旅はイイですね、ビールも飲めるし!)のを手始めに、ランチを外で食べることにしました。
その内、一度は私メのリクエストで前話の「冨美家」へ。そして、二度目は家内の希望で、私メがグルメガイドから推薦したリストの中から彼女が選んだ「出町ろろろ」というおばんざい弁当の店でした。そして、三度目は各々別々に食べることになりました。

 さて、その「出町ろろろ」です。
念のため前日電話をしてみると、希望した12時は既に一杯とのことで、11時半なら可の由。そこで少し早いのですが空いていた11時半にお願いして、当日はちょっと早めに岡崎から歩いて向かいました。
“町ぶら”を兼ねて、二条通で鴨川を渡り河原町を上がって行きます。
丸太町から荒神口を越えて、広小路から寺町通を上がって最初に梨木神社へ立ち寄り、本当は次に蘆山寺を拝観してから向かおうかと思ったのですが、拝観時間が読めないので蘆山寺は食べた後にまた来ることにして、その後少し戻って御苑内を歩いて今出川へ。
河原町今出川の二筋手前から上がれば目指す「出町ろろろ」の筈ですが、まだ時間があったので、出町柳まで行って「出町枡形商店街」を歩いてみることにしました。
京都や東京にはこうした地元に密着した商店街がまだ残っていますが、松本はアーケード街だった「六九商店街」もアーケードが取り払われ、今やシャッター通りですし、「伊勢町商店街」再開発で道が広くなったのは良いとして、江戸時代から続く「高見書店」や「レコードのナカガワ」など高校時代や独身時代頻繁に訪れていた往時の商店街の面影はなく、また街の核だった「松本パルコ」も残念ながら撤退が決まっています。

 「出町枡形商店街」は観光地化した「錦市場」に比べると、本当に地元密着。用品店や八百屋さんに交じって、“学生の街”京都らしく(立命館の広小路学舎は無くなりましたが、まだ同志社がこの地で頑張っていますし、少し歩けば京大もあります)、お金が無ければ皿洗いで食べた分の弁済OKという昔ながらの餃子屋さんや、古書店、そして古い町の映画館などなどなど・・・。
 そんな出町商店街の映画館の角を下ると、すぐにお目当ての小さなおばんざい屋さん「出町ろろろ」があり、10分前に到着すると先客が観光で来られた女性客がお一人。その後、11時半の開店時間には10人弱が並び、開店と同時にカウンター3席を残して全て埋まりました。どうやら全席予約済みの様です。店内はコの字型のカウンターが7席、テーブル席が6席でしょうか、小さなお店で、厨房は見えませんがどうやらご夫婦お二人で切り盛りされている様です。






昼のメニューはおばんざい弁当(税込1400円)と事前予約が必要なおばんざいのミニ懐石(同2400円)の二つのみ。
我々はおばんざい弁当。生ビールもお願いしました。京都らしいお番茶(炒り茶)が美味しいです。
盛り付け担当のご主人がせわしなく動かれ、10人分程の弁当も懐石も同じ一段目のおばんざいのを次々とお膳に盛り付けをされています。
 一段目は四角のお膳に形の異なる八つの小鉢が並べられ、それぞれ味付けの異なる全て大原産という京野菜のおばんざいで、少し時間をおいて出されたお弁当の二段目は、土鍋ご飯とお味噌汁の他に、季節のかき揚げと出汁巻とろろあんかけ。
おばんざいは一鉢の量が少なく、また値段故に高級食材でもなく、大原の無農薬野菜ばかりだそうですが、出汁を含めて調理と味付けが実に色々工夫されているのが一品毎に実感出来ます。
例えばこの日の献立の解説にある①の畑菜は削り節粉を使ったお浸しですし、⑥の水菜の七味絹掛けは潰した豆腐に七味の隠し味が効いていますし、⑦のゴマ豆腐の磯辺揚げも食べてビックリ。そして個人的に一番美味しくてお代わりしたかったのは、最後⑧の九条ネギの煮干し煮でした。まさに、「美味しゅうございました!」と言うのがピッタリな感じで、実にお見事でした!
 そして、二段目の冬のかき揚げはホタテが使われていてこれもまた美味。また出汁巻き玉子も上に薄めの餡が掛けられ、更に載せられたそぼろ昆布もアクセントを効かせていて、これだけで何杯もご飯が食べられそうです。
そのご飯も土鍋で炊かれ、勿論女性の皆さんも含めて皆さんがお代わりをされていましたが、おこげも必ず装られていて、ご飯茶碗に盛られた量は少ないのですが、ご飯のお米が粒立ちしていて自然と少しずつじっくりと噛みしめる様に食べるので、口の中で教科書通りにでんぷんがブドウ糖に変化してとても甘く感じて美味しかったです。
 「あぁ、これなら1400円はむしろ安いくらいで、実にコスパがイイ!」
というのがまさに実感でした。
家内も大いに満足のご様子で、良かった、良かった!
 因みに、最後まで店名の由来は分かりませんでしたが、「ろろろ」は席数が少ないので、満席になってからも評判を知った方が、海外からの観光客も含め、次々と来店されるのですが、昼は一巡だけで終わりなのか、全員断られていました。
また、こちらのお店の支払いは現金清算のみ。京都にはそんな個人商店が多いので、注意が必要です。

(以下、話題が本題から離れて支離滅裂的にアチコチ飛んでいますが、どうかご容赦ください)

 家内は、信州の中ではちょっと異質な唯我独尊的独立独歩の(奈良時代の律令制度下で一時期、諏訪だけが“諏訪国”として信濃国から独立していました。また「諏訪では4人歩いていると、内3人は地元の社長さん」と、嘗て諏訪地域で製造業隆盛の頃はそう揶揄されていた)“諏訪人”ですが、その“諏訪人”故かどうかは分かりませんが、元々は信州人らしい“蕎麦派”ではなく、どちらかと云えば“うどん派”だったのではないかと思います。
勿論、結婚後は私メに感化されてか今では蕎麦も大好きですが、次女が結婚前の羽田空港勤務だった時は、娘と二人で良く「つるとんたん」で食べたり、また京都に旅行で来た時は、友人と或いは一人でも必ずと言って良い程、この岡崎で大人気の行列店「山元製麺」で“ごぼ天うどん”を食べているそうです。私も一度一緒に食べましたが、並んででもまた食べようとは然程思いませんでした。
というのも、京都の“おうどん”は本来もっと柔らかな(ある意味コシの無い)うどんですし、それに、むしろ京都で食べるべきは、“蕎麦好き信州人”がそれまでの「蕎麦はざる一択!」の信念を覆して食べた「にしん蕎麦」と思うのです。
但し、学生時代に初めてその「にしんそば」を食べたのは、元祖の老舗「松葉家」ではなく、蕎麦ぼうろで有名な丸太町の「河道屋」だったと思いますが・・・。

 そう云えば、会社員になってから仕事で或るジャーナリストの方と話していて、その方も無類の“蕎麦好き”とかで、取材が終わってから地元の蕎麦屋のおススメを聞かれた時に、その方の仰るには、
 「私は取材等で全国各地に行くと、例えば信州の様な蕎麦処では必ずざるやもりで蕎麦そのものを楽しむのですが、そうでない土地では、汁蕎麦をその土地特有の具を蕎麦と一緒に楽しむことにしてるんですよ。」
その意味で、私が生まれて初めてそうした“汁蕎麦”を楽しんだのが、京都の「にしんそば」だったのです。

    (写真は、10年程前に嵐山で食べた茶そばの「にしんそば」です)
と同様に、うどんは我が家では「おざざ」と呼ぶ冷や麦の様なやや細めのうどんを祖母が打ち、それを色んな根菜や油揚げなどと一緒に、いろりに吊るした大きな鉄鍋で煮込んだ、味噌味の“鍋焼き”風うどんが定番でした。従って、うどんは自分の家で食べるべきモノだと思っていたので、外の食堂等で食べたことは一度もありませんでした。
ですので、県外に出て“うどん屋”さんが(蕎麦屋と同じ様に)街中に在るのが、最初は不思議でなりませんでした。
といっても、長野県内にも群馬の「水沢うどん」同様に、降水量が少なく昔稲作が難しかった地域では、坂城町の辛味大根の汁で食べるおしぼりうどんや、大町の「おざんざ」という祖母の「おざざ」に似た細めのうどんが有名な場所もありますし、社会人になってからですが、諏訪の社宅に住んでいた時に家内が初めて連れて行ってくれて食べた、早くから諏訪が武田領になっていたせいかどうかは分かりませんが、長野県内では唯一諏訪にも支店がある山梨の名店「小作」のほうとうが美味しくて、とりわけ味が味噌ベースで具がカボチャやニンジン、大根といった根菜が多かったのが、何だか祖母の作る煮込みうどんを思い出して懐かしく、その後も時々食べに行きました。
       (写真は、以前山中湖畔の「小作」で食べたほうとうです)
そして、そのうどんを生まれて初めて自宅ではない“食堂で食べた”のが、汁蕎麦が“にしんそば”だったのと同様に、うどんも京都の「冨美家」だったのです。
(要するに、大学に入るまで一人で“外食”をしたことが無かっただけかもしれませんが・・・。子供の頃の記憶では、家族で“町の食堂”で食べるのは、決まってざるそばか当時“支那そば”と呼ばれていた醤油味のラーメンでした)

 さて、本題の「冨美家」は、私の学生時代には四条寄りの河原町通りの西側に(確か)お婆さんが一人で営む小さな甘味処が在り、そこにはぜんざいといった甘味の他にもうどん類があって、一般で云う力うどんの様に小さな角餅が二つ入った鍋焼きうどんの「冨美家鍋」が名物で、特に冬は温まるので何度か友人と食べたことがありました。はっきりとは覚えていませんが、貧乏学生でも食べることが出来たコスパの良い品だったと思います。

 何年か前、京都に来た時に懐かしく河原町を歩いたのですが、その「冨美家」の四条河原町店も、そしてボールの様なガラス容器に入った色んな種類の「冷麺」(例えばフルーツ冷麺など)が美味しかった「春陽堂」が、確か3階か4階だったかにテナントで入っていた「味ビル」も姿を消していて見つけることは出来ませんでした。
余談ですが、他にも年を取って聴くようになったJAZZで、伝説のジャズ喫茶だった「シアンクレール」も無くなっていて、学生時代に一度も行かなかったことを後悔した記憶があります。一方、学生時代にお世話になった「出町輸入食品」は、当時の何倍にも店舗が大きくなっていてビックリしました。(レジに置いてあった「冨美家」の通販のパンフ。「♪ まるたけえびすにおしおいけ・・・」京都の東西の通りはこうして覚えるんよ!と地元の同期の子が教えてくれたわらべ歌が懐かしくて、思わず頂いてしまいました)
 そこで今回、知恩院と八坂神社へお詣りした後、四条通を歩いて錦市場にある「冨美家」へ行ってみることにしました。
最初は錦市場の西端に近いところにある「冨美家錦店」を目指しながら、ぶらぶらと新京極から錦市場を歩いて行ったのですが、外国人観光客を中心に、それなりに賑わっていました。
コロナ禍前のオーバーツーリズム問題以降、錦市場は食べ歩き禁止になったので、イートインスペース的に店内で多くの外国人観光客が“立ち食い”されて混んでいるお店もありましたが、錦市場はごった返して歩けないという程ではありませんでした。
そうした今風のお店以外に、八百屋さんや乾物屋さん、漬物屋さん、惣菜店といった昔ながらの“京のお台所”的なお店もあり、お店巡りを楽しみながら「冨美家錦店」に到着すると、ナント定休日の貼紙が・・・。
但し、近くの本店の方はやっているとのこと。どうやら、お互い重ならぬ様に交替で定休日が設定されている由。「錦店」の方が昔ながらの風情がありそうだったのですが、止むを得ません。そこで、錦からは直ぐ近く、堺町筋をホンノ少し上がった所に在る「冨美家本店」へ行ってみると、この日は「錦店」を目指したお客さんもこちらに来るためか満席で、店頭には三組程の先客が列を作っていました。
待つこと暫し、細長い町屋を改装したらしい店内はカウンター席とテーブル席があり、幸いテーブル席に案内され、二人共九条ネギ増しましで「冨美家鍋」を注文。併せて家内は湯葉もトッピング。
昔は観光客など殆どおらず地元のお客さんばかりだったと記憶していますが、我々も含め、観光で来られたらしいガイドブック片手の一人旅の女性客もおられ、中でも驚いたのは中国と韓国と思しき外国人観光客のグループが二組。しかも食べているのは中華そば。誰一人「冨美家鍋」を食べておられる人は見受けられない様でした。そのため、お節介ながら、
 「ラーメンを食べるんだったら、冨美家じゃなくて、新福菜館か第一旭に行けばイイのに!」
と、またまた大きなお世話・・・。
 そうこうする内、運ばれて来た「冨美家鍋」。スタッフの方が、熱いので気を付けてくださいと配膳の度に必ず言い添えて行かれます。お客さんの中には、ぐつぐつと煮えたぎった土鍋から直接食べるのは熱すぎるのか、“お上品”に取り皿をお願いする若い女性も。イヤ、猫舌の身としては良く分かります・・・。
その45年ぶりくらいの「冨美家鍋」。具は海老天ぷらと分厚い干しシイタケ、ハンペンにお麩、焼いた角餅が二切れ。そして真ん中に生卵が落とされ、刻んだ九条ネギは増しましで・・・。イヤ、懐かしい!
と、猫舌の我が身には熱過ぎて、家内の様にすぐには食べられず、じっと眺め観察すること暫し・・・。そして漸くレンゲでスープを最初に一口。
 「えっ!?・・・こんなに甘かったっけ・・・」
勿論、京都らしくお出汁は効いていて、具の海老天や干しシイタケにもそのお出汁がしっかり染みていて美味しいのですが、スープが記憶に無い程砂糖甘いのです。家内は、「天ぷらの衣が厚過ぎ!」と文句を言っていましたが、これは衣にお出汁をしっかりと染み込ませるために、敢えて厚めの衣にしているのでは?と弁明したのですが、それにしてもスープが甘い・・・。
信州でも、汁蕎麦のツユは江戸に比べれば甘口かもしれませんが、ここまで甘くはないし、むしろ本来の関西は関東のそばやうどんの丼の底が見えない程真っ黒でつゆは“塩辛い”と敬遠するくらい、出汁が効いた薄めのつゆの筈なのですが・・・?まぁ、これが「冨美家」の味と言ってしまえばそれまでですが・・・。
 これは恐らく、信州でそばつゆ(ざるそばだけじなくて、温蕎麦も食べるので)に慣れ過ぎたせいかもしれませんが(外食だけではなく、家でも蕎麦を食べる時は専ら創味のつゆ一択です)、ここまで甘いつゆはちょっとがっかりで、残念ながら私メの好みではありませんでした。
もしかすると、実際の味よりも、単に“思い出は美し過ぎて”・・・だけだったのかもしれませんが・・・。
でもそんな味よりも懐かしさが勝って、今回その“懐かしさ”は十分満足して“完食”出来たので、これでもう来なくてイイかもしれません。
そして、45年ぶりに食べた「冨美家鍋」に十分満足して「冨美家」を後にすることが出来ました。そこで、レジでお店の方に、
 「学生時代以来45年ぶりで来ました。とても懐かしかったです。ご馳走さまでした!」

(ん・・・?そう云えば、一年前にも学生時代以来で食べた熊野神社近くの「らんたんラーメン」でも、全く同じ様な挨拶をしていた気がする・・・)

 二日目の京都です。
この日、朝時々雪が舞っていて、比叡山の山頂部分は薄っすらと白くなっていました。信州に負けないくらい寒くて、如何にも冬の京都らしく底冷えがする寒い一日でした。
そう云えば学生時代、洛中の街中は前夜雨でも、大原など北山の奥から出て来ただろう車の屋根には、朝雪が載っていたことがありました。
それにしても、金閣寺だけじゃなくて、「年暮る」の様に京の街には何故か雪が良く似合います。

 さて、忌明けとはいえ一年間は喪中の身故、今までは遠慮していた神社やお寺さんですが、既に松の内も小正月も明けたので、ここ京都で参拝させていただくことにしました。

京都へ来たのが一年ぶりですので、最初に同じ岡崎に在る岡崎神社へ行って、昨年8月の次女の無事の第二子出産のご報告とお礼詣りです。
その上で、先ずは我が家菩提寺の浄土宗総本山である知恩院へ行って、昨秋亡くなった母のご報告とお参りをさせていただきました。最初の石段を上って国宝の巨大な三門を潜り、男坂と呼ばれる急こう配の階段を更に上って広大な境内へ。家内ではありませんが、いつまでこの急な石段を上ってお参り出来るでしょうか?・・・(因みに、男坂を避けての参拝用には、回り道での緩やかな段差の女坂や、三門下から御影堂前の売店横までマイクロバスでの無料シャトルもちゃんとあるのですが)。
ちょうど御影堂(国宝)では地元の檀家さんが一周忌の法要を営まれていましたので、「南無阿弥陀仏」とお念仏を一緒に10回唱えさせていただきました。
そう云えば、進学で京都に行く時、亡き祖父が、
  「我が家の総本山は知恩院だで、機会があったらお参りしてくれや」
と言っていました。
その祖父も、引き継いだ父も、檀家を代表して菩提寺主催する浄土宗総本山知恩院参拝のツアーに参加していました。
ちょうど阿弥陀堂横の庭では、寒桜が花を咲かせていました。底冷えの京都に咲く冬の桜にほっこりと・・・。
  “ 冬来たりなば 春遠からじ ”
 続いて、円山公園を抜けて、京都の氏神様である八坂神社に初詣です。
観光客ばかりでなく、小正月が明けてもまだ地元の方々もお詣りに来られるのか、本殿の三本の鈴緒の前には結構な行列が出来ていました。順番を待ち、真ん中の鈴緒で鈴を鳴らしてから我が家と娘たちの新年の多幸を祈ってお詣りし、併せて次女の代参で厄除けのお札を頂くことにしました。
 参拝してから、“銀ブラ”ならぬ“祇園ブラ”ではありませんが、四条通を八坂から河原町まで歩いてみることにしました。途中、出来れば長女がお土産で買って来てくれた「原了郭」の黒七味を買おうと思ったのですが、どうやら四条通に面している筈の店に気が付かず通り過ぎてしまった様です。
そこで、四条河原町まで来たので、今回は私メのリクエストで、ランチには錦市場で冨美家鍋を食べることにしました。

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