カネヤマ果樹園 雑記帳<三代目のブログ>

 『唐衣(からころも) 裾に取りつき 泣く子らを 置きてぞ来ぬや 母(おも)なしにして』(万葉集 巻20・4401 )

 これは、万葉集に納められた、防人の歌として知られる他田舎人大島(オサダノトネリオオシマ)の歌です。彼は国造丁(地方の高級役人)で、古代信濃から九州に派遣された防人のまとめ役でした。

 会社の在る上田リサーチパーク内の長野県工科短大に隣接した「いにしえの丘公園」。ここには7世紀の円墳が3基保存されており、周囲が公園として整備されています。そこで歴史好きの血が騒ぎ、この前の昼休みに出掛けてみました。

その中で一番大きな古墳が「他田塚(おさだづか)古墳」。
この古墳は南北18.5m、東西17.2m、高さ4mの横穴式石室を持つ円墳で、この地を治めた他田氏一族の墓と云われ、発掘調査時の出土品から7世紀前半と推定されています。残念ながら、周囲に柵が設けられており、石室の中に入ることは出来ません。そしてこの古墳は、一説には他田舎人大島氏の墓とも云い伝えられているのだそうですが、市の教育委員会の設置した案内板にはその旨は書かれていませんでした。
他田氏は、この小県(チイサガタ)を拠点とした信濃国の国造(クニノミヤツコ。今で言う県知事)を務めた一族で、諏訪大社下社の大祝を代々勤めた金刺氏も同じ他田氏の係累(多氏)なのだとか。この地の歴史の古さを、そして黒曜石の大産地でもあった和田峠を挟んでの、上田小県地方と諏訪との関係を感じさせます。
 古墳の築かれたこの地は、塩田平を望む高台の最上部。実際に他田氏の墓かどうか、ましてや万葉集に残る他田舎人大島かは分かりませんが、この地を治めた豪族の墓であることは間違いありません。独鈷山に抱かれるように、古代ロマンを感じさせる塩田の郷が遠く拡がります。
松本の人間からすると、凛とした北アルプスの険しい峰々に囲まれた松本平と違って、ここ塩田平は、独鈷山を始め、信州にしては穏やかな山並みに囲まれていますので、この地に住みついた古代の人々にとって、「国のまほろば」と歌った大和を、どこか懐かしむような雰囲気にさせてくれたのかもしれません。

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