カネヤマ果樹園 雑記帳<三代目のブログ>

 卒業して40年以上経っても、いまだに母校の中学校の校歌を良く覚えています。現在の松本市立女鳥羽(めとば)中学校です。
バレーボールに明け暮れ、地区大会で優勝もした思い出多き中学時代。当時は、小学校(岡田)に未だ校歌が無く、初めての自分の学校の校歌でしたので余計印象深かったのかもしれませんし、また客観的(音楽的)にも良い校歌だと思います。

 女鳥羽中学は、当時、松本市の岡田区(旧岡田村)と浅間温泉を抱える本郷村を通学区とし、そのため中学校組合立という特殊な形態(現在では、松本近辺では松本市今井区と朝日村・山形村を学区とする鉢盛中学が多分唯一の中学校組合立)。そのため、当時松本市が設立した学校給食センターの対象とならず、結果として「自校給食」として自分達の学校で調理された、出来立ての暖かい給食を食べられました。その後、本郷村が松本市と合併して松本市立となっています。私の高校時代にリンゴ園の中に新築し、江戸時代からの家(囲炉裏のある茅葺屋根でした)のあった下岡田(神沢)から引越したので、子供達は通学区が変わり残念ながら女鳥羽中学卒業ではありません。

 さて、その校歌に曰く、
 『一.鉢伏山に昇る日の光射し来る女鳥羽川、立つ白波の心も清く学びの丘に集う我ら』
 『二.見よ遥かなる乗鞍の雪とこしえに輝きて、澄む高空を飛び行く鳥の強き翼は我等が印』
(*因みに校章は羽を二枚Xにクロスさせ「女」の字体をイメージし女鳥羽を表す。昭和26年の創立・開校に当たり一般公募で選ばれたと言う)
作詞は下諏訪出身のアララギ派歌人、五味保義、作曲は「平城山」などで有名な作曲家、平井康三郎、という蒼々たる布陣。曲は二部合唱で3番目から転調し締め括るという当時としてはお洒落な構成です。昭和29年に制定。
 依頼された作詞者がおそらく冬に訪れて、学区内の浅間温泉にでも投宿し、詩作のために早朝の中学付近を散策したのでしょう。
校名の由来ともなった、本郷村(当時)の三才山(みさやま)地区に源流を発して校舎の近くを流れる女鳥羽川(その後、松本市街の中心部を流れます)の辺りから見えた、冬ちょうど東南の鉢伏山から昇る太陽と、日を浴びて真っ白に輝く南西の乗鞍が殊更印象的(詩作ではなくても)な風景だったのだろうと思います。

 毎朝、ナナと散歩しながら、冬、我家周辺からは美ヶ原と鉢伏の谷間から日が昇り、また街中から純白の乗鞍を眺めると、自然と中学の校歌が思い出されてきます。