カネヤマ果樹園 雑記帳<三代目のブログ>

 我が家からのウォーキングで行く「アルプス公園」。
市街地からも車で10分ちょっとで来られるので、松本市民にとっての憩いの場ですし、入園料はもとより園内の小動物園や遊具など全て無料(山岳博物館とドリームコースター以外)ですので、とりわけ家族連れには格好の遊び場所です。また、その名の通り北アルプスの眺望が良いので、観光的にも人気の場所。同様に無料で行ける春の全山桜の弘法山や穂高の大王ワサビ(入園料無し)と共に、手軽に信州の高原気分が味わえるアルプス公園は松本への観光ツアーでも(バスツアー会社の時間稼ぎに)目的地の一つとして良く利用されています。
ここは元々長野県の種畜場として、城山々系の尾根沿いに拡がる標高800m近い高原状の丘陵地帯に、牛や馬がのんびりと草を食んでいる広々とした牧場があった場所。半世紀以上前の私メが小学生の頃は、夏休みに蝶などの昆虫採集に行ったり、また当時我が家のあった下岡田の神沢地区からは裏山となる城山々系に遮られて北アルプスは全く見えないので、北アルプスが見える草原に寝転んで雄大な峰々を見たりと、種畜場内を勝手に歩いていても(柵内に入らなければ)何も言われたこともなく、自由に散策することが出来ました(と言って、遊びに来る人なども殆どおらず、一人きりで遊べました)。
しかし、高度経済成長下で地方都市でも宅地化が次第に進んでいく中で、山の上とはいえ市街地に近かったためか、種畜場が塩尻の東山々麓に長野県畜産試験場として移設されて元の場所が松本市に払い下げられ、1974年に市の「アルプス公園」として一般に開放されました。
開園時も30haを超える広大な公園ではあったのですが、2007年に公園が更に北側に拡張整備され、総面積約71haとこれまでの倍以上の広さに拡大。従来の南口に加えて新たに東入口駐車場も整備されました。

 1974年の公園開設に伴い整備された南口駐車場へのアクセス道路と、種畜場時代の細い旧道への分岐点の処にバス停があるのですが、今でも当時の「種畜場口」のままで、すっかり古ぼけたバス停が立っています。それだけが、昆虫採集でチョウチョ(山や高原で見られるヤマキチョウがいました)を追っかけて種畜場の草原を走り回った子供時代の60年近くも前の往時を偲ばせてくれます。因みに、公園として里山の自然が残されたためか、当時は出会った記憶も無く、蝶を追いかけていた少年にとっては幻で憧れた国蝶オオムラサキも、今このアルプス公園では見られるのだそうです。
 「種畜場口」のバス停と同じ様に、松本市内で半世紀以上も前の昔のまま残されている“モノ”があります。それはJRの踏切です。
その場所は(他にもあるかもしれませんが)、松本市音楽文化ホール(ザ・ハーモニーホール、略称「音文」)横の大糸線島内駅脇にある踏切で、その表示は「鐘紡踏切」です。
現在の音文のある場所は、明治から戦前にかけての“シルクオカヤ”や諏訪や松本にあった片倉製糸に代表された“養蚕王国”信州らしく、元々ここも戦前から続いた旧カネボウの紡績工場だったのです。今でも当時からの工場のシンボルツリーであったであろう、何本ものヒマラヤスギの大木が往時を忍ばせています。
 こうした事例の様に、バス停や踏切の呼称はその命名の根拠が消滅しても、別に変えなくても良いのですね。
 「ナルホド、興味深いなぁ」
・・・と独り悦に入っています。

 そこで好奇心で調べてみると、Wikipediaに由れば、
『踏切は、名称または番号は、踏切に記されている事が多い。番号を使う方式の場合、踏切が廃止されても番号は詰められず、欠番のままとなる。また、名前の由来となった事象が消滅した場合(町名変更など)も、基本的に名前の変更は行われない。それぞれの踏切に固有名詞を付ける。例えば「中央通り踏切」「住吉踏切」「鈴木家踏切」など。国鉄とそれを継承したJR各社の約半数に見られる。』
とのことでした。

 会社員時代(A社とします)、都内多摩地区にあったB社の工場を製造停止に伴い東京地区の事業所として活用すべく買収した際に、工場前にバス停があり、B社の総務部門からの提案もあって、「B社工場前」だったバス停を「A社〇〇事業所前」と変更してもらった記憶がありますので、民間(私鉄系)のバス会社は要望すれば(理由が正統であれば)名称変更もしてくれるのかもしれませんが、例えば松本でも「徒士町」や「鷹匠町」、「博労町」などといった如何にも城下町の風情を示す様な旧町名が、「開智〇丁目」や「深志〇丁目」などと記号的に変わってしまうのは、地図的には分かり易くても何だか味気ない気もします。そこに暮らす住民の方々にとっては、町名もまた歴史的文化遺産でありましょう。
 その意味では、松本はむしろ旧町名を大事にしている街の様な気がしています。
というのも、
『松本市教育委員会では、江戸時代から昭和初期までにあった町名の記憶を残すため、昭和62年から平成18年にかけて「旧町名標識(旧町名碑)」を130本余り製作し、該当する場所に建てました。旧町名標識には、江戸時代末期の旧町名については細長い石柱を、昭和時代初期の旧町名については板状の石材を使用しており、その町名由来も記されています。』
(写真は市内の旧町名碑(標識)の一つ「小池町」で、城下の町人地の一つ。藩主小笠原氏の家来だった軍法・兵法の達人、小池甚之丞という侍の住居があったことに由来)
更に、市のH/Pから旧町名のマップも入手可能です。松本は城下町故に、市内に「天神小路」や「同心小路」といった狭い小路が幾つも有りますし、また湧水も街のあちこちにありますので、“坂の街”東京の“江戸散歩”程ではないにせよ、松本もお城と旧開智学校と“蔵の街”中町だけの観光では無く、マップを片手に歴史を感じて歩いてみるのも良いかもしれません。