カネヤマ果樹園 雑記帳<三代目のブログ>

 コロナ禍により一年延期されるなど紆余曲折、すったもんだの末に開催された2020東京オリンピック。
自分たちの主張を世論と言い切って開催反対を叫んで来た野党とマスコミが、メダル獲得可能と勝手に煽って結果もし取れなければ掌返しで貶してきた過去のオリンピック以上に、もしメダルが取れればコロナ禍での地元開催であるがために、これまで以上に掌返しで褒め称えるであろうことは十分予想されたのですが、それにしても・・・(唯一、共産党だけがメダルラッシュへのコメントを求められ、小池書記局長は「党として開催を反対してきた以上、コメントは差し控えさせていただく」と主張が一貫していました。但し、特措法の執行側の権限拡大や新型ワクチンの早期認可に反対したのを忘れたかのように掌返しで批判しているのも同党と立憲民主党です-第1553話を参照ください)。
そうしたマスコミの“掌返し”の報道がイヤで、過去のオリンピックは殆ど見なかった大会もありましたが(定年前で働いていたこともありますが)、今回は事前の報道で開催反対が多かっただけに、今までになかった程TV中継を見てTV桟敷の観客席から一生懸命声援を送るなど、むしろどっぷりと嵌ったオリンピックでした。
それに、今回のメダル作成に向けた「都市鉱山からつくる!みんなのメダルプロジェクト」に、それまで初期化が面倒で処分出来ずにいた携帯やタブレット併せて30数個をNTT経由で寄付していたこともあり、誰かのメダルに使われているだろう(パラリンピック用かもしれませんが)という勝手な親近感もありました。

 結果として、史上最高となった日本の選手たちのメダルラッシュ。
地元開催の地の利があることは否定しませんが、無観客では声援が選手を後押しして、時としての“火事場の馬鹿力”的爆発力が期待出来るということも無くなり、そのメリットも半減(唯一、競技によって開催国枠で予選が免除されて出場が可能になったくらいが、結果としての地元開催のメリットだったでしょうか)。
 さて、先ずは開会式。聖火リレーでクイーンの「手を取り合って」が使われたのには驚きつつも感激。聖火台点火者は大阪なおみ。多様性には相応しくとも、結果試合には影響があったのではないでしょうか?3月には内定していたとのことで、それから半年近くも内緒にしていなければならなかった訳で、大変なプレッシャーでは無かったでしょうか!?・・・。本人がそれを誇りに感じてくれたのが救いでしたが、競技に出場する現役アスリートを点火者に選ぶべきではないと個人的には思いました。日本が発祥というピクトグラムは驚きのパフォーマンスでした。

 今回の大会で印象的だったのは、嘗てスノーボードの代表選手が腰パンで物議を醸しその後大麻で逮捕された事件がありましたが、新種目として採用されたスケボーやサーフィンなどで活躍した若い日本選手たちが、驚く程真面目でしっかりしていて全くチャラチャラしていなかったこと。単純にその競技が好きで好きで堪らないだけの純な若者たち。競技の先駆者であった解説者が、スケボーの金メダル獲得で「これで、不良の遊びと言われなくてすみます」と語っていたのが実に印象的でした。

 メダルを確実視された選手が敗退するなどした、競泳陣やバドミントンの不振。陸上も若い三浦選手や田中・弘中選手の歴史的な入賞の一方で、“史上最速”の選手層で目標金メダルだった筈の男子400mリレーの失格。そして期待された女子サッカーと女子バレーの敗退・・・。
こうした予想外の敗退で気になったのは、敗退後のOB・OG連からの「だからダメなんだ。結果は戦う前から分かっていた」と断じるが如き、戦術や育成、強化策に対する様々な批判でした。だったら、戦う前(建設的)に(身内内で大いに)言う(議論する)べきでは無かったのか?後出しジャンケンの事後批判のみっともなさと惨めさ。敗因の元凶であろう競技団体の問題点(主流と反主流の権力争いや現行指導体制への不満などなど)を自ら浮き彫りにしているかのようでした。
そうした状況は、復活した女子ソフトや女子バスケなどではOGが一体となって、まるで一緒に戦っている様な感じで応援していたのとは全く対照的でした。それはマイナースポーツ(またオリンピック種目から外されてしまう)故に、或いはW杯優勝で一躍脚光を浴びたナデシコの様に女子バスケをメダル獲得で何とか人気競技にしたいという、競技に係わる人たちの熱意(危機感)の違いか?
例えば、女子ソフトで解説席にいる宇津木前監督がまるで自身が戦っている様に(聴こえずとも)グランドの選手たちに声掛けし鼓舞し続け、試合が終わって開設者席にいる宇津木さんに勝利を報告するかの様にグランドから手を振る選手たちの仕草にも表れていました。
 個人的に一番感動したのは、女子バスケットの日本チームの銀メダルでした。バレーもバスケも身長差がモノをいう競技です(厳密にいえばバレーだと最高到達点ですが)。しかも、ネットでコートが遮られるバレー(少なくとも自陣では邪魔をされない)と違い、常にコート内で相対するバスケでは身長差の有利不利は尚更です。それが、早さと3ポイント(昔は無かったなぁ・・・)でそのハンディを補っていた日本チームは、それこそ「バスケ界の常識を変えた!」と言っても過言ではないと感激しました。
それにしても、柔道、ソフト、野球、レスリング、女子バスケ。結果を残せた競技と下馬評は高かったのにそうでは無かった競技、一体何が違ったのでしょうか?・・・。それは、確かな計画性と、戦術、技術に裏打ちされた指導者と選手たちとの信頼と一体感(チームワーク)でしょうか??
例えば、「多少間違っていても通訳を介するより、自分で直接話した方が熱意は伝わる」と日本語で指揮していたT・ホーバスHCが印象的でした。
そうした指揮官の熱い思いと冷静な戦略。個人的には、女子バレーの中田久美監督にもそうした熱意はあったと思ったのですが、一体何が違ったのだろう・・・???

 そして、個人的に疑問に思ったこと。
それはメダリストとなった選手たちに代表される様に、試合後の選手へのインタビューでの冒頭で、コロナ禍の中でのオリンピックに反対や批判の声があることをふまえ誰もが開催されたことに感謝していたのが実に痛ましく感じられました。
というのは、アスリートである彼らに、そこまで大会開催の責任と世論の重圧を果たして負わせるべきなのかという疑問。
彼らが必死に頑張ることで、コロナに立ち向かう我々国民に勇気と希望を与えてくれれば(例え競技への補助金等が結果として国民の税金がその財源となっているとしても)それで十分であり、それが彼らアスリートとしてのオリンピックにおける唯一の役割で良いのではないか・・・。
開催を前に、その是非を我がこととして捉え、時に精神的に走れなくなってしまった新谷仁美選手に代表される様に、彼らにそこまでのプレッシャーを与えて良かったのか?彼らが矢面に立ってそんな謝罪をする必要など全く無く、その“べき”はIOCと組織委員会や政府の筈なのに・・・。

 最後に、余談ながら一番印象的だった競技は、初めて見た空手の型でした。目にもとまらぬ程早く鮮やかな演武から発せられる、“シュッ”という様な空気を引き裂く音。清水選手も喜友名選手を始め、各選手の静と動が組み合わされた美しい演武にホレボレと魅入っていました。
【注記】
写真は、TOKYO2020を記念して松本中央図書館ロビーに展示されていた、1964東京オリンピックの記念グッズです(2枚目は、有名なポスターの図案が印刷された風呂敷)。
【追記】
以下、シニカルな言い方をさせてもらえれば・・・、
オリンピックの大会期間中も感染拡大が止まらなかった東京都と日本各地。
“バブル方式”で無観客開催としたことで、皮肉なことに、海外からの日本入国でのコロナ感染拡大を危惧し大会を中止すべきとしたマスコミや一部の世論に対し、むしろ彼等を選手村内などに隔離し競技会場を無観客にしたことで出場する選手や大会関係者の中でのコロナ感染を防ぎ、結果的に感染拡大している市中から彼らを守り通して、競技途中で中止せずに最後まで継続し大会を終了させた組織委員会、主催都市の東京都、そして日本国政府・・・。その意味で、IOCから各責任者に感謝のIOCメダルが贈られたことは或る意味当然だったのかもしれません・・・。