カネヤマ果樹園 雑記帳<三代目のブログ>

 新居のマンションは、昨年9月から入居可能だったのですが、次女の出産のタイミングと重なり、里帰り出産ではなく、婿殿の病院で出産することとなったため、退院後、家内が逆に身の回りの世話をするべく、上京することになりました。そのため、引っ越しは当初の9月末の予定を遅らせることにしました。

 マンション側の指定する業者だと割引があり、順番やスケジュールも調整されているのでスムーズです。その引っ越しの指定期間は9月から11月一杯まで。12月に入ると、降雪の危険性もあり、また年末は特別料金で更に高くなります。
そこで、我々の引っ越しは期間内で一番遅い11月末で、マンションの住人の方の邪魔にならぬ様、皆さん仕事に行かれて昼間少ないであろう平日に設定してもらいました。
既にご紹介した様に、新居は狭いのでダイニングテーブルやソファー、机などの殆どの家具はそのまま置いていきます。また、冷蔵庫、洗濯機、TVも置いていきます。更にワンコたちのために交換したばかりだったビルトインのエアコンも、同じく2代目の薪ストーブも持ってはいけません。
9月に新居の引き渡しが終わって、業者の引っ越しまでの2ヶ月間もあるので、その間、自分たちで箱詰めなどして、衣類や本、CDやLPレコードなど、運べるものは自分たちで軽自動車に載せて、それこそ十数回往復して少しずつ運ぶことにしました。更に、新居に引っ越すにあたっては、我々の終活としてかなりの量を断捨離で処分もしてあります。
従って、衣類や食器も、本類なども必要最低限に絞りましたし、和箪笥や、ベッド、仏壇などを除けば、家具も大型家電も今回の引っ越し荷物には無いので、一般の引っ越し荷物に比べるとかなり荷物も少なく、2トン車一回で、しかも運搬距離も同じ市内で2㎞足らずなので、朝の搬出から新居への搬入まで業者のスタッフも2名だけで、ある意味普通よりも楽な引っ越しだったかもかもしれません。
 朝の8時過ぎから運び出し、昼には搬入終了。
或る程度その日最低限必要な整理をして、その日はお弁当のテイクアウトでささやかに引っ越し祝い。
そして、その週末の土曜日、町会の同じ組10軒の方々にお世話になったお礼を兼ねて引っ越しのご挨拶をして、高校入学時からですのでちょうど半世紀の50年間、途中、大学時代と海外赴任などで離れたこともありましたが、その間もずっと根っこであった地であり、その住み慣れた地を遂に後にしました。

  「今までありがとう。そして、サヨナラ・・・」

 17日間に亘った、2022北京冬季オリンピックが終了しました。
独裁国家による人権弾圧か、国家覇権主義か、はたまた新たな東西冷戦とコロナ禍を嘲笑う神の裁定か、更には金権腐敗の商業主義に陥ったIOCへの警告か・・・?
背景や原因(直接的ではない遠因として)は分かりませんが、今回北京冬季オリンピックに関し、それぞれは因果関係なく全く無関係に引き起こされた事象の数々も、しかし時に意図的に、或いは作為的に、時に無意識に、また偶然に、しかし時には必然に・・・・と思わざるを得ない、まさに“呪われた”としか形容できない、スポーツの持つ純粋且つ高貴なパフォーマンスとは余りに無縁でオドロオドロしく醜い事象の連続でしかなかった、歴史に汚点を残した冬季オリンピックだった様に思います。

 やはり、この時期に、この国で冬季オリンピックなど行われるべきではなかった。それは国家威信にかけるアホな開催国のみならず、それを利用しようとした主催団体以下、マスコミなどその恩恵に預かろうとした全ての利害関係者が猛省すべきことのように思います。
本来雪などそれ程降らずに冬季競技が開けない場所で、「夏冬の両方を開催するのは北京だけ」という国威発揚的な妙な自慢で、ミサイルを発射してまで会場に人工雪を降らせるという、自然界の神をも恐れぬ所業に始まったこの大会。それが人工雪は硬過ぎるという欠陥会場で、直前の公式練習で転倒し固いバーン故に脊椎損傷で参加辞退を余儀なくされたスノボー選手に始まり、ジャンプスーツの規定違反、男子500mの地元審判員による有力選手が登場する最終二組への不可解なフライング判定、結果自国選手を勝たせたショートトラックの違反裁定、そして見ていた世界の誰もが異を唱えたスノボージャッジと、次から次へと問題が発生し、最後のとどめは女子フィギアのドーピング疑惑。人権問題や人種差別は無いと云いながら、片やメダルを取った選手は英雄と称賛し、転倒したフィギア選手は米国のスパイかとまで罵倒された、どちらも今回の自国開催のために中国籍を選んだ米国生まれ米国育ちの中国系選手たち。
開会式での民族衣装の少数民族も、ウイグル族弾圧批判を封じるための少数民族への敬意を表すどころか、むしろ中国皇帝に平伏す嘗ての朝献外交の様な“中華思想”の再現にしか見えませんでした。正に不祥事続きで、欺瞞に満ちて呪われた2022オリンピック北京冬季大会。
ウイグル族への人権問題や外交ボイコットなどでの世界からの批判に対し、「オリンピックに政治を持ち込むな!」と批判した中国共産党政権が、国内統治強化のためにオリンピックを最も政治的に利用した大会でした。

 そんなヒドイ大会でも、4年に一度に掛けた選手たちの一生懸命で真摯な態度には、今回もまた一服の清涼剤の様にホッコリと胸を打たれ、また感動の涙を流すシーンがありました。

 メダルを期待された女子モーグルの17歳川村あんり選手。メダルの期待に応えられなかったことを謝りながら、氷点下20度近い極寒の開場に集まった報道陣を気遣い、「寒い中、ありがとうございました」という彼女に、「なんて子や!」と、こんな娘さんを育てられた親御さんを思います。
また、怒りで燃えたという3回目の完璧なパフォーマンスで見事金メダルを取った平野歩夢選手の弟さんである海祝選手。兄を称えるコメントで何度も「兄ちゃん」を繰り返し、父親のことになると「父さん」と言い換えた二十歳の青年の純朴さ・・・。
 「素直でイイ兄弟だなぁ・・・」
ドーピング疑惑の影響とはいえ、華麗なスケーティングで見事銅メダル獲得の坂本花織選手。団体銅メダルの後のインタビューでは天真爛漫さ全開の正に“浪速の元気印”。インタビュアーからヤラセっぽく関西弁での心境をと尋ねられると、そこは関西のオバちゃんのノリで、
 「やったったんでー!」
サスガです。アッパレでした。

 そして、残念ながら今回はあまり成績の振るわなかった長野県勢。
今度こそと、過去2大会連続の個人銀メダルで、今回は金メダルを公言し初戦で惨敗した白馬村出身の渡部暁斗選手。しかし、最後に1位と僅か0・6秒差での3大会連続での銅メダル獲得にほっとしました。そして複合団体での28年振りというメダル獲得は、もっともっと騒がれても良い快挙だと思います。嘗ての様にジャンプでリードしてでの金メダルではなく、ルール改正で日本勢に不利となるジャンプの得点を下げられた現行ルール下で、しかもジャンプ1位ではなくメダル圏外の4位から距離で順位を上げての銅メダルなのですから、正にアッパレ!
一方、連覇が期待されながら惨敗した茅野市出身の小平奈緒選手。その十分過ぎる程のこれまでの努力と頑張りに、そして何より彼女の人柄に、地元民として労いと感謝の気持ちで一杯です。
「お疲れさま!本当にありがとうございました。」

 最後に、金メダルへのゴール直前に転倒し、スポーツの残酷さを思い知らされた女子パシュート決勝。
その彼女たちを大会まで一年半追ったという共同通信カメラマン(大沼廉氏)の現地取材記事から。
涙にくれる彼女たちを撮影していいのかと迷いながら声掛けし、撮影した際に、涙でファインダーをなかなか覗けずにいたのだそうです。
『(前略)私はセレモニーの間、とても悩んでいた。終了後に各選手をその国や地域のカメラマンが呼び止め、個別に撮影させてもらえる時間があるが、今回は呼び止めるべきなのだろうか。それ以前に個別撮影するべきなのだろうか。その場にいた日本人カメラマンは私一人だけだ。
(中略)どうしよう。頭の中でぐるぐる悩んでいるうちにセレモニーは終わった。メダリストたちが各国のカメラマンの方へ歩み寄ってくる。悩んだ末、「いいですか」と静かに声をかけた。3人は「いいですよ」と応じてくれた。目を真っ赤にして肩を組み、ポーズを取る姿を見て、私はレンズを向けたまま、不覚にもぼろぼろと泣いてしまった。
(中略)すると「いや、そっちが泣くのかー!力が抜けるわ」と目に涙をためていた3人は、涙顔のまま大笑い。私もむせびながら、どう撮ったか記憶が定かではないが、後でカメラを見ると満面の笑みが記録されていた。名前は知らないまでも、いつも撮影に来ているカメラマンと分かってくれていたようだ。
 撮影後、別の競技会場へ移動する車中でカメラマンの先輩がこう声を掛けてくれた。
 「あの時、おまえが声を掛けて写真を撮らなかったら、このレースで残るのは転倒の瞬間や涙に暮れる菜那選手など、悲しい写真ばかりだった。ここまで努力して、最後まで懸命に闘った選手たちもそれはつらいはず。ほんの少しだったけれど、彼女たちが心から笑顔になれる瞬間を残せた」
情けない姿を見せてしまったが、そのせいで彼女たちの心が少しでも和らいでくれるのなら、と願わずにはいられなかった。生涯忘れられないひとときとなった。』
メダルを取った選手よりも、メダルを期待されながら敗れ去る選手たちの姿の方が胸に刻まれたていく中で、本来無断コピーして掲載してはいけないかもしれませんが、本当に何だかほっと救われた気持ちがした記事でした(少しでも多くの人と共有できたらと思い、敢えて掲載させていただきます)。

 カメラマンでさえそうなのです。身内と言っても良いコーチならば尚更の筈。
個人でも銅メダルだった坂本花織選手。その結果を聞かれ、「運です」と言い切った“厳しいママさん”という中野コーチ。そして、その原因を「でも彼女は、それだけの努力を人一倍してきたからです」とキッパリ。
そんな母親の様なコーチもいれば、片や、競争相手を必ず諦めさせるという意味でつけられたという彼女の“絶望”というニックネームが、まるで今回はブラックジョークの様に彼女自身に向けられ、フリーでのズタズタでボロボロの演技を終えたワリエワ選手。彼女を迎え、演技途中で戦意喪失した原因を詰問し叱責したロシアの“鉄の女”エテリ・トゥトベリーゼコーチ。
同じ日、同じ時間帯に起きて世界中に配信された、正に真逆の光景でした。

 更に余談ながら、今回「真冬の大冒険」は聞かれませんでしたが、今大会でのベストフレーズは、スピードスケートを担当した日テレ上重アナウンサー(声から判断して、多分)の高木美帆選手1000m金メダルでの実況だったでしょうか。曰く、
「パシュートで流した銀色の涙が、この1000mのレースで金色の笑顔に変わりました!」
さすがは、自身PL学園と立教大でエースの元アスリート。お見事!

 松本市でも3回目のワクチン接種が始まりました。
今回も小さな自治体の方が対応は早いらしく、義母の住む茅野市では2月上旬に接種してもらえ、しかも特段の希望確認も無く、1・2回目と同じファイザー社製のワクチンだったとのこと。
松本市でも65歳以上のワクチン接種がここで開始となったので、前回までと同様で、集団接種会場であるアルピコプラザを予約しました。
集団接種会場は2月15日から接種開始とのことでしたが、最初のWeb予約後(当初は2月末)、予約した日よりも早い開始二日目の16日に空きがあったので予約を変更し、16日の午後に接種することが出来ました。

 前回までは予約時間になるまで待機していましたが、今回予約時間の15分くらい前に4階の接種会場に着くと、直ぐにOKとのこと。確かに、待つ人も少なく空いていました。
松本では確保ワクチンの70%がモデルナなので、基本的に混合接種となるモデルナの方が優先されており、30%しかないファイザーを希望する場合は予約も取りにくく、かなり先になってしまいそうです。
モデルナは、これまでの1・2回接種時では発熱などの副反応が指摘されていましたが、ファイザーよりもむしろ早期に打てることと、国や専門機関から3回目を混合接種とした方が免疫効果は高いとの医学的検査結果をふまえて推奨されてもいましたので、モデルナ社製のワクチン接種に特に躊躇いはありませんでした。むしろ早く打って免疫効果を高めた方が良いと思いました。
1・2回目と比べ、接種場所(左肩)の痛みは多少強かったように思いますし、関節の違和感(痛みというよりも、ずっと立っていられない様なムズムズする感じ)がありました。しかし、ファイザーも1回目は倦怠感で2日目には横になっていないと我慢できない程でしたので、3回目にモデルナを打つ混合接種で副反応が特に強かったという感じは特にしませんでした。家内も多少微熱が出た様ですが、前回(ファイザーの2回目)程ではなく、勿論個人差はあるのでしょうが幸い我々夫婦は混合接種で特段の問題はありませんでした。

 松本でもモデルナは人気が無く、接種率がなかなか高まらなくて医師会も頭を抱えているという医師の方からの話も聞きますが、確かに接種会場も1・2回目ほど混雑しておらず、希望すれは予約可能に思えました。
ですので、もしモデルナに躊躇してファイザーでの接種を希望されている方がいたら、是非モデルナでの接種時期を確認され、もしもモデルナでの接種の方が早く打てるのであれば、ファイザーを希望して数ヶ月も待つくらいなら、混合接種に躊躇することなくむしろ一日でも早く免疫効果を高めた方が絶対に良いと思った次第です。

 今回の引っ越しに関し際し、結果を知った親戚は勿論ですが、友人からも電話や手紙やメールがありました。曰く、
 「えっ、どうして?」、「驚いた!」、「良く決めたじゃん」・・・
 そして中には、皆同じような世代になったということなのでしょう。
 「たまたま同じ様に悩んでいたので、今回背中を押して貰えた気がする。」
といった声もありました。
一番色々(非難が)ありそうな、同じ集落の同姓(所謂我が家の「本家」、更に我家が本家で、我が家の「新宅」。更にその家の新宅などなど・・・)からは、陰では非難ごうごう(囂囂)だとは思うのですが、幸い同姓内に長老もいなくなった今は、直接的にはそうした非難の連絡はありませんでした。

 我家は、屋号が「賽の神」(さいのかみ)というその集落を守る道祖神に由来する集落で一番古い大元の家が「本家」であり、その本家から江戸時代中期に「新宅」として分かれ、更に我が家からも分離した家(新宅)があるなど色々つながりは複雑で、同姓内でも幾つか格式的に、謂わばメイン(中核五軒)だサブだのというグループ分け(例えば呼ぶか呼ばないか、更にその場合でも座る順番とか)があるなど、まぁ言い出せばキリが無いのですが、それはさておき、我が家の明治生まれの祖父は少なくとも当時は珍しかった高校出(農業高校ですが)でもあり、戦前は村議会議員を務め地域の果樹栽培を一早く手掛けるなど大変進歩的な人(但し評判の頑固者で理屈っぽく、周囲には大変恐れられていたようですが、孫の私だけには甘かった由)で、その祖父と父も養子。ですので、同姓という家と、昔は一番強かったであろう地縁血縁のつながりも、彼らが養子だったからこそ、多少は“よそ者”的に比較的冷静に且つ客観的に見られる立場だったのかもしれません。

 その祖父と父が江戸時代からのそうしたシガラミのある土地を離れ、果樹園の中に家を新築し引っ越してきたのが50年前。祖父と父が二人共養子だったからなのかもしれませんが、その50年前に我が家の古くからの因習やシガラミを二人が断ち切ってくれていたのだと思います。

 昔、会社の松本平でも有数の旧家だった先輩の結婚式で、養子だったお父上が挨拶で曰く、
 「私は養子だったから例え思っても実行出来なかったが、息子は直系の長男なので、この家を処分するかも含め、どうするかは躊躇せず自身で好きに判断すれば良い。」
と仰っていたのが個人的に非常に印象的に感じ、いまだに覚えているのですが、今回は我が家も正にそれだと思うのです。
祖父も父も、同姓からすると「えっ?」と思われた判断をしたのですが、最終的な地縁血縁のシガラミまでは断ち得なかった。然るに、それは養子だからこその遠慮だと思うのです。
祖父と父が出来ずに渡されたバトンは(子々孫々まで責任を持ち越さずに、誰かが決断せずにはおられなという前提で)、そうした極々狭い大昔からの地縁血縁という土地のシガラミとは無関係に、今やワールドワイドに活動している子供たちの手を煩わせることなく、直系男子(些か古風ですが)である私の段階で割断するしか無い。それが、直系である私メの役割であり且つ責任でもある・・・というのが今回の決断の背景でした。

 しかし、そんな古びた地縁血縁の様な思いは誰にも話していませんし、相談もしていません。もし相談しても、そうした立場にいない人であったら意味不明であり、分かって貰えないのもせん無いことだと思うのです。
ですので、自分自身で悩み、自問自答し、そして決断し、その上で我が家の直系だったお祖母ちゃんに、そして多分そんな気持ちを分かってくれるであろうお爺ちゃんとオヤジに、
 「ご先祖さまには悪いけのど、オレがこう決めたよ!」
と、最後仏壇に報告し許しを請うたのでありました。

 松本の冬の風物詩。今年35回目となる氷の祭典、「国宝松本城氷彫フェスティバル」。去年は残念ながら新型コロナの影響で中止されたのですが、今年は2年ぶりに1月21日~23日まで、松本城公園を中心に開催されました。

 今回はコロナ禍での開催であったため、密を避けるべく、松本城公園だけではなく、松本駅お城口の駅前広場や大名町交差点の大手門枡形跡広場などでも展示されているとのこと。従って今年は複数の場所で氷彫が見られるので、街歩きでの楽しみにもなりそうです。
そこで、中日となる土曜日の22日、早朝のウォーキングを兼ねてメイン会場の松本城公園で行ってみることにしました。通常のウォーキングは、松本城からお参りを兼ねて四柱神社と深志神社へ廻るのですが、今回は氷彫を見るために、先ずは枡形跡広場からメイン会場となる松本城に行き、四柱、天神へのお参りした後、駅前広場の氷彫を見て帰ることにしました。
因みに、「氷彫フェスティバル」のメインイベントとなる全国氷彫コンクールは、この日の夕刻17時から夜を徹して明日の日曜日の朝まで行われるので、前日のこの日はまだ影も形もありません。
例年だと、夜はともかく日中は気温が上がるため、せっかくの氷が融けて形が崩れてしまうことも珍しくは無いのですが、今シーズンは久し振りに寒い冬で今朝も-10℃近くまで下がったので、いつもよりは融けて形が崩れず日持ちするかもしれません。

 モルゲンロートがキレイだった22日の朝、8時過ぎに家を出て、先ずは大手門桝形跡広場へ。ここは、私メの学生の頃は鶴林堂という書店のビルが在ったのですが、閉店後のの跡地を市が買い取り、現在は空き地で時々フリーマーケットなどのイベントに使われています。元々は城下町に良くある、敵の侵入を防ぐための鍵型のクランクで大手門が建っていた場所。既に発掘調査も終わっていますが、将来は外堀復活などの松本城全体の整備計画の中で、大手門の再建もその構想の一つとして考えられています。
 さて、広場には魚(コブ鯛かと思ったらナポレオンフィッシュとか)と天使の氷像が立てられていて、朝日にキラキラ輝いていました。
大名町を進み松本城へ。氷彫フェスティバルのメイン会場となる黒門前の公園では、この日の夕刻から10数団体による氷彫コンクールが行われるのですが、朝はまだ静かで、お城と真っ白な北アルプスを背景に既にいくつかの氷像が展示されていました。
干支の虎の氷像も見事。どうやって透明な氷に白い斑を創るのでしょうか。また、水中花ならぬ氷中花。花を氷で閉じ込めるのではなく、穴を開けて染料を流し込み、花びらの形を創るのだそうです。また、松本城を背景にしたMATSUMOTOの氷もお見事でした。
四柱と深志神社へのお参りを済ませて松本駅に行くと、お城口(東口)の駅前広場にもノイシュバンシュタインの様なお城と白クマなど3体の氷像が立っていました。
 氷像も例年よりも寒いので今年はまだ融けてはいませんでしたが、融けずともイベントが終わる明日にはもう壊されてしまいます。その意味では、美しくも有限で儚い芸術なのかもしれません。

 クリスマスと年末年始を婿殿と一緒に過ごすために、渡米した長女。

念のため、機内での感染リスクを下げるべく、往復便ともアップグレードしたので、ビジネスクラスはガラガラだったとか。その行き帰りでの機内からの富士山の写真を送ってくれました。
「“一富士二鷹・・・”で、どうぞ良いことがありますように!」
 コロナ禍故、米国入国時も日本帰国時も陰性証明が求められます。更に、米国からの帰国者は、全員が指定される宿泊施設での隔離措置が6日間。その間の検査で陰性であれば隔離施設からは出られますが、更にその後も入国後から数えて計二週間まで自宅での隔離が求められていました。
彼女はビジネスクラスだったからか、幸いにも一番近い空港直結の新設ホテルで隔離。その間の検査も問題無かったため、隔離期間明けは自宅隔離で過ごすために、車で空港まで迎えに行きました。
解放される午後2時過ぎという時間に合わせ、昼過ぎには早めに空港に到着し、そこで昼食を摂って待つことにしました。
平日だったこともありますが、それ程の渋滞も無く、無事に羽田空港に到着。国際線ターミナルに直結する駐車場に車を停め、国際線ターミナルの出発ロビー上の4階にある江戸小路へ向かいます。
 国際線ターミナル3階の出発ロビー。出発便の掲示ボードは、欠航の表示ばかりが目立ちます。昼過ぎという時間帯もあるかもしれませんが、チェックインカウンターも殆どクローズで人も少なく、次女が働いていた頃の或る種の華やかさにも似た喧噪も無く、全く以て淋しい限りでした。
それは、レストランやショップが立ち並ぶ4階の江戸小路も同様で、閉まっている店の方が多く、お目当てだった「つるとんたん」も閉店していました。止む無く開いていた店に入りましたが、半分ほど埋まったテーブルも旅行客ではなく、その殆どは航空会社の制服を着た空港スタッフの方々でした。
 一体、こうした非常事態はいつまで続くのでしょうか?次女が働いていた頃の、あの賑やかな風景はいつ戻って来るのでしょうか?
もしかすると、コロナ禍で一番様変わりしたのがこの場所なのかもしれないと思いながら、娘がお世話になっていた職場である国際線出発ロビーの余りの寂しさに、何だか涙が出て来そうでした。
【追記】
自宅隔離中はどこへも出られず、リモートワークで仕事をしていた長女。その後、政府が14日間の隔離期間を10日に短縮したこともあり、親としてはむしろ長くいてくれた方が良かったのですが、役員としての責任もあって、隔離明けの翌日には慌ただしく東京に戻って行ってしまいました。勿論、今回の渡米に際し、帰国後も健康面で何も体調に問題が無かったのが何よりでしたが・・・。

 家具やお互いの趣味の食器類やオーディオ類のみならず、新居のスペースを考えると他にも持って行けずに処分しなければならないモノが色々あります。それが、家族全員ではなく限定される特定個人の趣味の世界のモノであれば尚更です。

 最初に、子供たちがお世話になったヤマハのアップライトピアノ。
子供たちが巣立ち、誰も弾かなくなりました。従って、子供たちが巣立った後は、どちらかというとリビングの飾り棚を兼ねた家具となっていました。
このままではピアノも泣いています。子供たちが帰省して来た折にでも弾くならともかく、弾かないのであれば、大きな装飾品として狭いマンションで置いておける場所もありません。今でも時々は弾くという長女は、自分用に買った電子ピアノがあるのでそれで十分だとか。
そこで、ネット検索すると、ヤマハ本体の中古買取サービスの会社がありました。曰く、
『ヤマハ(株)100%出資のヤマハ中古ピアノ専門会社として、ピアノ査定、ピアノ買取、引き取り、下取りおよびヤマハ「リニューアルピアノ」の販売をしています。』
とのこと。
ピアノのモデルと型番等連絡すると、現物を見ることなく年式により査定価格が決まっているのだとか。
他には、TVCMの会社。複数ある中で、例えば「親切、丁寧、清潔がモットー」というSピアノという会社。
連絡してみると、殆どがそうなのですが、無料査定で「長野県へ来る機会がある時に伺います。無駄足になっても構いません」とのこと。
そこで、他に売るかもしれないがという前提で、スケジュール上先に見に来られました。当日、天板を開けて機構を含め確認し査定。ここがどう、あそこがこうと色々欠点を指摘された上で、
その場での提示額が、現物を見ないで提示されたメーカー価格よりかなり低かったので、
 「その金額だと、ちょっと・・・。だったら、申し訳ないが今回は止めときます。」
 「これまで大事にされて来こられたピアノでしょうから、それでは因みにおいくらなら宜しいのですか?」
そこで、最低このくらいなら・・・とヤマハの提示価格を申し上げたると、
 「では、せっかくですので、今回はその金額でお引き取りしましょう!」
 「えっ!?」
そこで、二度三度、同じ手間暇を掛けて対応するのも大変なので、結局その価格で引き取っていただきました。

 個人的には、何となくスッキリしませんでした。当然業界内の定式として、メーカー側の買取価格など熟知の筈(ネット上でも形式番号などから確認可能)。それを知った上で、先ずは安くて提示し、売り主がもしそれを知らなかったり、面倒臭がって了解してもらえたりすればラッキー!?。自分自身の成績も上がる・・・
確かに(売り物故)丁寧に運んで行かれましたし、CM同様に紺の靴下は新品で清潔そうではありましたが・・・でもなぁ・・・個人的には胡散臭さが拭えませんでした。
しかし穿った見方をするならば、買い取り業者のSピアノのCMでのモットーの中に、確かに「誠実」という言葉は無かった様に思います・・・。
音大にでも行くような子供であれば別ですが、普通のご家庭で何度もピアノを買い替えるということは殆ど無いと思いますが、もしも次の機会があるならば、「ピアノを返そう」というキャッチフレーズで、メーカーサイドの中古買取り会社に依頼するだろうと確信した次第です。
 こうしたケースはピアノだけではありませんでした。
例えば、着ないモノはこの際整理するという家内の着物と帯も同様です。昔は嫁入り道具として母親が用意してくれたという着物など、買う時は高価であっても、時間が経つと有名作家や織や染の種類によって価格に差が出るのだとか。
和箪笥は新居の一部屋を物置にして仏壇と共にそこに置く予定なので、何着か今後も必要な着物と帯はそのまま持って行くのですが、着ないモノはこの際整理するとのことで、結局は最初に来た業者に引き取ってもらいました。

 どの品物も、もし依頼する側が二度手間も厭わずに時間もたっぷりあれば、別にお断りして別の業者に査定依頼しても良かったのですが、既に引っ越し日が決まっていれば、他にも色々することがあり、また日を改めるのも面倒だから・・・。これが一番の理由でした。
 モノの中には、半世紀も経った今では、時代が変わり全く“価値が無い”というモノもありました。それは、小学生時代から熱中して収集した切手です。泣けなしの小遣いの中から、一枚一枚集めた記念切手。小学校高学年から中学卒業位までだったと思います。発行日には、郵便局に親に行ってもらったり、切手業者から一枚一枚買ったりして大事に集めた切手でした。子供の身分では、当時何万円もするような高価な切手、例えば誰もが知る「見返り美人」や「月に雁」などは買える筈もありませんが、それでも泣けだしの小遣いを溜めては一枚一枚買い集めたものでした。
しかし、そうした切手ブームも長くは続かず、発行側(郵政省)の乱発やネット時代になって手紙やハガキなどの郵便物そのものの減少などという時代背景もあって、当時の切手カタログでの市場価格(勿論売る時はその何割引きですが)は数十万円分にもなったのですが、それが今ではエラー切手の様な余程の珍品でないと殆ど(どんなに古い切手でも)額面価格の価値(僅か一万円程度とのこと)しか無いという状況です。
従って、買い取り業者(着物などと同じ買取り業者が貴金属や古銭切手も鑑定)の結果は驚く程低く、結局売るのは止めにしました。
個人的には切手に拠って、子供の頃に国宝シリーズや何十周年記念という歴史、国立国定公園などの地理など、謂わばその背景を知ることで図鑑代わりの知識を得たのも事実でした。ですので、将来孫でも誰か興味を持ってくれればイイという、一縷の望みを持って・・・。
 他にも、他人には全く価値の無いモノでも、自分にとっては大切なモノもこの際処分するしかありませんでした。それは、25年近く毎年集めて来た週刊ベースボールのドラフト特集号です。
例え下位指名であっても、努力して数年後に一軍選手として活躍するようなケースは、努力した本人のみならず、指名を進言したスカウトの眼力もあって、“人間ドラマ”を感じさせてくれるのです。
思い出すのは下位指名ではありませんが、学生時代に甲子園に見に行ったジュニアオールスターで、銚子商業からドラフト1位で巨人に入った篠塚選手です。
高校時代肋膜炎を患い、素質は評価されながら体力的に無理だという世評を覆し、当時彼に惚れ込んだ長嶋監督が敢然と1位指名。入団後数年間は二軍暮らしでしたが、その間のジュニアオールスターで見せた天才的な流し打ちにホレボレし、「これは絶対にモノになる」と独りごちて勝手に確信したものでした。
そんな思い出のドラフト特集号も価値が付く訳ではないので、残念ながらサヨナラとばかり古書として処分しました。