カネヤマ果樹園 雑記帳<三代目のブログ>

 今年の登山シーズン開幕で登った入笠山と美ヶ原。今回は登山ではないのですが、旧中山道の難所と云われた木曽路の鳥居峠を歩いてみることにしました。
鳥居峠は、中山道六十九次の内の木曽路十一宿と云われた中で、奈良井宿と藪原宿の間にある標高1197mの峠で、分水嶺です。鳥居峠から北に流れる奈良井川は、梓川と合流して犀川となって、その後千曲川と合流し、最後は信濃川と名を変えて日本海へ。一方、南に流れる川は木曽川として太平洋に注ぐ、いずれも県歌「信濃の国」に謳われる“国の固め”でもあります。
お江戸日本橋からだと、奈良井が34番目で藪原が35番目の宿場ですので、京都三条大橋(滋賀の守山で東海道と合流)のほぼ中間辺りになります。
同じ江戸と京都を起点とし、片や弥次喜多道中で知られる東海道五十三次よりも長く、また山道の多い中山道ですが、東海道の様に途中大井川での雨に因る川止めが無いことから、“姫街道”とも呼ばれた程に女子を中心に利用する旅人も多かったとか。幕末になって皇女和宮が江戸への降嫁のために京から江戸へ下った道でもあります。
ただ浅田次郎の時代小説「一路」では、岐阜田名部の名門旗本である蒔坂家の古式に則った中山道を進む参勤交代行で、道中の難所として描かれているのは木曽福島宿手前の与川崩れと雪の和田峠であって、肝心のこの鳥居峠は「木曽の桟も超えた勢いで一気に越えた」と僅か一行で描かれていました(但し、与川超えの結果、福島宿を守る役人たちと一行との感動的な場面が描かれるのは、一気の鳥居峠越えで一行が宿を取った奈良井宿でした)。
因みに、木材は重要な資源であり、木曽は織田の時代から時の政権の直轄地であり、江戸時代は徳川御三家の尾張藩でした。従って木曽福島宿は尾張藩であり、贄川宿が尾張藩と松本藩との境だったそうです。
鳥居峠は(修学旅行の無かった)高校時代にクラスの遠足で歩いて以来、実に45年振り(数える意味もありませんが)です。皆で松本から電車で来て、あの時も藪原から峠を越えるルートで歩き、奈良井宿の資料館が自宅という同級生が居てクラス全員で見学させてもらいました(彼は田舎に戻らず都会で就職したため、妹さんが今でもその資料館を守ってらっしゃいます)。
 難所の峠を控えての体力を備えるために江戸からの旅人が泊まったことから、“奈良井千軒”と呼ばれ繁盛したという奈良井宿。今回はその逆で、京から江戸に下る旅人が泊まった藪原宿から峠を越えて奈良井宿へのルートを選択。車は駐車場の広い奈良井に停めてJRで藪原に行き、藪原から奈良井へ峠を越えて戻ることにしました。

調べてみると、朝8時台の電車を逃すと11時台まで電車がありません。そこで、8時40分奈良井発の電車に乗ることにして、念のため7時前に家を出て、いつも通り洗馬経由で国道19号に合流するルートで向かいました。すると、前回は工事中だった、「是より南 木曽路」という石碑のある手前辺りからの「桜沢トンネル」が開通していました。
旧道の奈良井川に沿ってくねくねとカーブの多かった日出塩と贄川の間をぶち抜いた、1・5㎞の桜沢トンネルが昨秋に開通し、真新しいキレイなトンネルであっという間に通過。ここで時間短縮したことも手伝ってか、8時前に奈良井の無料駐車場へ到着しました。途中コンビニで購入したサンドイッチで朝食を取り、トイレ休憩で身支度を整え、8時40分発(始発駅は松本)の中央西線の中津行に乗車しました。電車は峠の下をトンネルで通過し、僅か6分で藪原に到着です。そこを昔の旅人同様に3時間近く掛かって歩くのです。
木祖村の藪原宿。木曽川の源流の地という意味も込め、村名には木曽の「曽」ではなく「祖」の字を当てています。奈良井と藪原からの峠道を比べると、駅から中山道へは藪原からの道順が少し分かり辛く、事前にマップをプリントアウトして来たのですが、駅に置かれていた「藪原宿案内図」がとても分かり易く、それを頂いて歩くことにしました。
因みに、案内図に使われているのは、渓斎英泉(けいさいえいせん)と歌川広重(うたがわひろしげ)の合作「木曽海道六拾九次之内」(注)の中の、英泉の「三十六藪原 鳥居峠硯清水」と名付けられた藪原宿の浮世絵です。因みに描かれている山は、峠から望む霊峰御嶽山とのこと。

 以前馬籠峠を歩いた時(第1349&1350話)に、熊除けの鐘が峠道の途中何ヶ所かに置かれていたので、今回の鳥居峠にも登山用に購入してある「熊除けの鈴」を持って行こうと思って探したのですが、引っ越しで「熊除け鈴」が見つからず、そのため事前に調べると、「塩尻観光協会」のH/Pに木祖村観光協会の「藪原宿にぎわい広場 笑ん館」という多目的交流施設(パンとかも買えます)があり、ここで「熊除け鈴」(桧笠も)無料で借りられるとのことでした。8時半からオープンしていて、そこで手続き(氏名や連絡先等を記入し、デポジットとして保証料2000円で奈良井の観光会館で返却すれば返金される仕組み。桧笠も同様で外国人観光客が喜びそうです。逆ルートでは、奈良井で借りて藪原で返却するのも可)をして、念のために鈴をお借りしました。本当に有難い仕組みだと感謝です(因みに、峠道にも3ヶ所熊除けの鐘がありました)。
心配した道順ですが、起点となる場所には丁寧な案内表示板が設置されていて実に分かり易く、これなら迷うことも無いと感心しました。
 江戸時代から続き、今でも高級品である木曽路の名産お六櫛発祥の地である藪原宿に沿って歩きます。宿場の外れに在った “十六代九郎衛門”の「湯川酒造」の前を通り、飛騨街道との追分から坂道を登って水神様を祀る水場(飲めるとの表示が有り、美味しい清水でした。因みに奈良井宿の水場は、全て「念のため一度沸かして飲んでください」との但し書きがあったので、残念ながら諦めました)で一息入れ、いよいよ旧中山道へ。藪原駅から、奈良井駅までの6.4㎞の行程の内、藪原駅からこの石畳分岐までが2.1㎞とのこと。ここから峠の頂上までは1.8㎞です。
【注記】
広重の代表作となった「東海道五拾三次之内」の大ヒットに気を良くした出版元が、 “二匹目のドジョウ”を狙って広重と渓斎英泉の合作で描かせた街道物の浮世絵シリーズの第二作としての中山道です。
(左:藪原宿 右:奈良井宿 どちらも英泉画で、奈良井宿の山は木曽駒です)

ここでは中山道は「木曽街道六拾九次」として、江戸日本橋と京三条大橋を結ぶ中山道の各宿に取材し、出発点としての日本橋と板橋から大津までの69の宿場の全70枚が描かれています。