カネヤマ果樹園 雑記帳<三代目のブログ>

 話は前後しますが、6月25日の土曜日。
朝のウォーキングを兼ねて、松本城から四柱神社、次に天神様の深志神社からあがたの森を経由して、ちょうど昼頃に着くようにと見計らって、裏町横丁の北インド家庭料理の「Doon食堂 印度山」へ。こちらは日曜日が定休日です。
前回(第1730話)渡米前の娘と三人で来て、彼らは初めて食べたのですが、家内が昔行った松本のインド料理店(閉店)の使っていた油が合わず体調を崩したことがありましたが、他のインド料理店と違い、前回ここでは食べられることを知ったので、今回は家内も喜んで同行です。
まだ正午前でしたが、この日も込んでいました。今回は歩いて暑かったこともあり、奥さまのお許しを得てインドビールのキングフィッシャーも注文。
奥さまのオーダーはタリー。これは、北インドの定食で、専用の食器にチキンカレー、豆カレー、ライタ(ヨーグルトサラダ)、ごはん、パパド(豆の粉のせんべい)、菓子またはアチャール(インドの漬け物)がセット(1400円)になっています。そして、今回もご飯をジャポニカ種からインディカ米であるバスマティス米に変更(+100円)。

私は、チキンカリー(980円)を、ご飯ではなく、お願いしてチャパティー(インドの家庭でナンの代わりに食べる全粒粉の薄焼き)3枚に変更してもらいました(一枚100円で1180円でした)。
ご主人のアシシュさんが、チャパティーだけならこれもあった方が食べ易いと、小鉢に入れたひよこ豆のカレーもサービスで付けてくれました(おかたじけ!)。しかも焼ける都度、時間差で一枚ずつ熱々のチャパティーをサーブしてくれました。アシシュさん曰く、チャパティーに使う全粒粉も、色々試したそうですが、向き不向きがあるのか、結局インド産の小麦でないと納得出来るチャパティーは焼けなかったのだとか。
 奥さまにもチャパティーを少し差し上げたので、最後お腹一杯で食べきれないというバスマティス米は私メが全部いただきましたが、この日のバスマティス米は前回より少しパサパサし過ぎた感じでした。でもチャパティーはいつも通り。全部美味しく戴いて、
 「ごちそうさまでした。また来まーす!」

 シンガポール時代、大好きだった北インド料理。「印度山」のお陰で、東京へ行かずとも、ここ松本でも食べられるので本当に有難い限りです。一方、中華料理は、あの「チャイナスパイス」(第104・700・1362話参照)閉店以降、どこを試してみても“箸棒”で、決して高級店ではなく、屋台(ホーカーセンター)の店であっても本当に美味しかった(ブラックペッパークラブは絶品でした!)シンガポールの様な本場の味(日本人向けにアレンジしていない)には全く出会えず、半ば諦めています。
そう云えば、さすが“食の交差点”のシンガポールは、ベトナム料理も安くて美味しかったし、スチームボートのタイ料理も・・・。そして、広東、四川、北京、福建、台湾と色々なジャンルがあった中華料理の中では、(脂っぽく無くて、実にあっさりしていて、スープに至っては日本のお吸い物の様で)日本人好みだった潮州料理(現地ではテオチュウと発音していました)なんぞは“夢のまた夢”・・・。

 前週に続いての登山。7月8日の金曜日、今度は家内の希望で美ヶ原です。
いつもの様に「山城いこいの広場」の駐車場に車を停め、今回も百曲がりコースで登ります。山城には早めに家を出たので8時頃には着いたのですが、不思議なことに一台も車が停まっていません。平日のせいなのでしょうか?
 いこいの広場からオートキャンプ場を経て沢沿いに進み、広小場から百曲がりの登山道に入って百曲がり園地まで3㎞(塩くれ場まで3.5㎞の表示)、標高差500mで2時間の行程です。
沢沿いにマイナスイオンを浴びながら、北八の様な苔むした森の中の緩やかな登山道を進みます。広小場で給水休憩をし、そこからは本格的な登山道です。いきなり直登気味の急登があり、その後は百曲がりの名前通りジグザグと48回(数えた人が書かれるには)のつづら折りで百曲がり園地へ。昔は屋根のスレートにも使われた鉄平石が敷かれた登山道は、重なった石がぐらついて却って歩き辛く感じます。

2時間で園地へ到着し、そこで行動食休憩です。残念ながら、この日はどの方角の峰々も雲に覆われていて眺望は利きません。そこで今回は王ヶ鼻へ行くのは諦め、アルプス展望コースを王ヶ頭まで2.2㎞歩いて、2034mの美ヶ原山頂まで行くことにしました。
展望コースから直登で王ヶ頭へ。頂上のホテルにはたくさんの子供たちがいて、学校登山で来た地元の小学生でした。往路はバスで登って来て、きっと下りの帰路を、宿泊する市の施設である「美ヶ原少年自然の家」まで歩くのでしょう。自分たちの頃は山本小屋泊まりでしたが、娘たちも市の施設が山城に出来てからは、小学5年生の時の学校登山はそこでキャンプをする様になりました。
 小中学校で学校登山のある長野県。松本平の中学生は娘たちも北アルプス三大急登のある燕岳でした(家内の出身の諏訪は、八ヶ岳の主峰赤岳)が、今では登山経験のある先生が減った結果、殆どはバスで畳平まで行ける乗鞍岳が主流で、しかも松本市内20校で今年学校登山があるのは半数にも満たない僅か9校とか。せっかく山に囲まれた信州なのですから、子供の頃に山に親しむことは良いことだと思うのですが・・・。学校登山の経験のお陰で、私たちの様に年を取ってから、例えトレッキングレベルであっても、空白の50年を経てまた山に親しむことも出来るのですから、何とも勿体無い・・・。
 さて、晴れていれば百名山の内の実に1/3を超える41座(美ヶ原自体も百名山の一つですが)が見えるという美ヶ原ですが、残念ながら今回はゼロ(八ヶ岳も浅間山も雲の中)。またレンゲツツジ(但し登山道ではなく、反対側の袴腰から武石峰方面へ行かないと大群落は見られませんが)も満開の時期を過ぎていましたが、代わりに夏の花を幾つも見ることが出来ました。
 山城からの百曲がりや登ってからの展望コース沿いに咲いていた高原の花々です(登山道から離れていて、ボケた写真もあってスイマセン)。

お馴染みのハクサンフウロやコウリンカの他に、(以下、掲載した写真順に)薄黄色な清楚なヤマオダマキ、ラン科というテガタチドリ、名前の印象よりもキレイなウツボグサ。そしてウスユキソウ(ヨーロッパアルプスのエーデルワイスの仲間)、そして林の中にひっそりと佇んでいたオレンジ色のコオニユリ(小さな鬼ゆりという意味の命名)。因みに、カサブランカに代表されるオリエンタルハイブリッド系(こちらは白ユリでテッポウユリが原種)と呼ばれる園芸品種のユリの様に、日本には原種のユリが多く自生していて、アジサイ同様にシーボルトが持ち出して以来、世界の園芸品種の元となっています。


また美ヶ原の台状の広大な草原では既に放牧の季節を迎えていて、たくさん牛さんたちを載せたトラックが何台も登って来ていました。何だか例年よりも茶色の牛、ジャージー牛が多そうな気がします。また今年は若い牛が多いのか、牛とは思えぬ(?)スピードで草原を走り回っていました。
 来る時にコンビニに寄りそびれて(惣社より先の山辺地区にはコンビニがありませんでした)行動食を買えなかったので、王ヶ頭ホテルの売店でクラッカーと家内のソフトクリームを購入して、ホテルのベランダでカナッペ風にクラッカーに載せて食べてエネルギーチャージをして、放牧された草原を歩いて塩くれ場経由で山城へ戻りました。

 この日はゆっくりと同じペースで登って来たことあって(但し、園地まで2時間とコースタイム通りですが)、前回の入笠山に比べ、奥さまは全然余裕で登れたとのこと。これなら大丈夫と自信回復の由で、それは何よりでした。
いつも百曲がりでの美ヶ原登山ですが、次回は広小場から茶臼山経由で美ヶ原へ登ってみようかと思います。

 あっという間に明けた今年の梅雨。
マンションから見える北アルプスの峰々も、日一日と夏山に変化していくのが分かります。梅雨明けで、冬山なぞ無理な我が家にとっても登山(トレッキング?)シーズンの到来です。
奥さまの通うピラティスの先生はベテランの岳人で、山行では専ら一人自由なテント派ですが、今年は既にどこの山小屋も9月まで予約が一杯で、登山口の駐車場も朝早くから満車状態とのこと。コロナ禍故か、人の集まる市街地の密を避けて山に人が向かうのでしょうか。一度は行きたい燕や蝶は山小屋泊なので、ワンコが居ては難しく、今年も諦め。そこでいつも通りの日帰り登山で、我々のシーズン開幕は、トレーニングを兼ねて先ずは諏訪の入笠山からスタートすることにしました。
 早かった梅雨明けも手伝い、天候を見ながら晴れ予報だった平日の木曜日である6月30日に富士見パノラマリゾートへ。朝早めに出たのですが、100万本の日本すずらんが湿原に群生するというすずらんの花のシーズンも終わったことから、夏休み前のこの時期のゴンドラリフトの営業開始は8時半とのこと(すずらん祭りの期間中は8時からの由)。そこで、時間潰しに途中岡谷ICで高速を降り、下道の西街道(諏訪湖西岸)から19号で富士見町へ向かい、ちょうど8時半に駐車場へ到着しました。
ゴンドラで一気に1780mの山頂駅へ。因みに奥さまがモンベル会員なので、栂池や八方同様この入笠のゴンドラも会員割引がありますが、但し入笠は1名(会員)のみ。
我々同様トレッキングや湿原のハイキングを楽しむグループの他にも、ここ入笠はスキーゲレンデを活かした日本最大級のマウンテンバイクのダウンヒルコースがあり、全国大会も開かれるなど今やMTVの聖地とか。この日もテント泊をしながら朝から練習する選手が何人もいました。

 入笠山の山頂が1955mでゴンドラの終点が1780mですが、湿原は1734mですので、標高差200mちょっとの1時間の登山(トレッキング)コースです。200mなら大したことは無さそうですが、これが湿原からだと結構な急登で、短いとはいえ鎖場もありシーズン開始のトレーニングには最適です。

 山頂駅から林間コースを歩いて、すずらんのシーズンの後にアヤメの咲いている湿原を抜け、山彦荘から沢沿いの樹林帯のコースを歩いて登山口へ。途中クリンソウ(九輪草:日本原産のサクラソウ科の山野草で、五重塔などの仏閣の上の部分の九輪に似ていることからの命名)の群生がありました。マナスル山荘横の登山口から、我々はお花畑を通らずにそのまま登山コースへ入ります。そこから30分で山頂です。途中、台湾へ戻る途中なのか、アサギマダラのつがいが羽を休めていて、彼らの長旅の無事を祈ります(写真には一匹しか写っていませんが)。
 迂回コースもありますが、そのまま岩場コースから山頂へ。ほぼコースタイム通り。家内は結構しんどかったようで、私メのペースが早過ぎて却って疲れるとお叱り。
この日は天気予報を見て来たこともありますが、雲に隠れた北アルプス以外は、中央アルプスの木曽駒、そして目の前の八ヶ岳、甲斐駒を中心とする南アルプスも、その向こうには富士山も望むことが出来ました。平日でしたが、山頂は我々同様の中高年の登山客でそれなりの賑わいでした。
          (雄大な裾野を拡げる八ヶ岳連峰)
   (右から仙丈、間ノ岳、鋸、甲斐駒の南アルプス、その左背後に富士山) 
 帰路の途中で、茅野の日帰り温泉の一つ、八ヶ岳を望む「望岳の湯」でさっぱりと登山の汗を流し、更にせっかく来たので諏訪に在る「角上魚類」にも寄って買い物をしてから松本に戻りました。

 このところ続いた映画鑑賞での最後は、トム・クルーズ「トップガン・マーヴェリック」。いわずと知れた、1986年公開の「トップガン」の続編です。
前作から36年を経て、続編制作権そのものを持つトム・クルーズ自身が主演として納得し、漸く制作された映画。しかも、コロナ禍で3年近く前に完成しながら、ネット配信などの誘いには一切見向きもせず、頑なに(コロナ禍明けの)大画面での劇場公開に拘ったという作品。
公開後、次々の記録を塗り替える世界中での大ヒットで、色々な論評や解説は既にたくさんありますので、ド素人の私メが解説する必要など全く無く、飽くまで前話との比較で、なぜ中高年のオッサンをここまで興奮させたかを、完全に且つ飽くまで私的に述べさせていただきます。

          (前作のサウンドトラックCDから)
この続編は、前作を出来る限り踏襲したストーリーで、完全に前作へのオマージュと云えます。エンドロールの最後の最後に、“In memory of”として、ずっと続編制作を希望しながら果たせず、2年前に亡くなったという前監督「トニー・スコット監督へ献ぐ」としたことからも、続編は完全に前作へのオマージュであると思います。
それは、冒頭テーマ曲である“ Top Gun Anthem”のあの鐘の音が鳴り響き、やがてオレンジ色に染まる夕日をバックに航空母艦から次々と飛び立っていく戦闘機が唯一前作のF-14トムキャットではなく、36年後のF-18スーパーホーネットとまるでと重なる場面からスタートします。そして、今回の舞台となるトップガンが所属するファロン基地(前作のミラマー基地から移転)へ向かうマーヴェリックことピート・ミッチェルが、埃を被っていた(様に思わせられる)カバーを取り去って、前作同様に今回もカワサキのバイク(詳しくない故モデル名は不明ですが)を駆って、夕闇迫る基地の滑走路を離陸していくF-18と並走する場面などなど・・・(因みに、前作の劇中で使われていたことで爆発的にヒットしたという、カワサキのバイクとレイバンのサングラス)。
もう、最初の鐘の音が響いた途端、涙が溢れ出て来るのを止めることが出来ませんでした。
任務達成後(ここは任務よりミッションと云いたい程に、何となくミッション・インポッシブルと似ている様な展開で危機一髪的に窮地を脱して)最後に36年前の主力F-14 が登場するのですが、劇中で敵国の特定はされていませんが、既にアメリカ本国は勿論日本を含め世界中で退役してしまったF-14 を唯一今でも現役として保持しているのがイランであることも、そして自分たちで事前に敵機が飛べぬ様にミサイル攻撃して穴だらけの敵国内の滑走路から、空港の格納庫に収納されていた現役のF-14 を盗み、最後にその可変翼だからこそ短距離での離陸を可能としていたF-14 で脱出する辺りは、ナルホド良く練られていると感心すること仕切り。
更に続編制作でトム・クルーズが拘ったという、咽頭癌を患って声を失ったヴァル・キルマーのアイスマン役での出演。また前回のビーチバレーに対するビーチでのアメフト、バーで父親グース同様に弾き語りで同じ曲をピアノを演奏するルースター・・・。
もうダメでした。惜しむらくは、教官チャーリーやグースの奥さんキャロルも登場しなかったことでしょうか(引退したというケリー・マクギリスはともかく、メグ・ライアンは出ようと思えば出られたでしょうに・・・。ただ、キャロルは既に死亡し、亡くなる際に父親代わりのマーヴェリックにグースの忘れ形見の息子は絶対にパイロットにしない様に頼んだという設定故)。
今回のヒロインを演じたジェニファー・コネリー演ずるペニーが元カノであるという設定は、前作でメーヴェリックが何度もちょっかいを出した司令官の娘として名前だけは劇中でも出ていたそうですが、全く聞き取れても(読み取れても)いませんでした。

 公開後僅か1ヶ月にして100億稼いだという作品だけに(ヒットにより海軍士官学校への志願者が5倍になったという前作同様に、今回も米国海軍の全面的協力を得たとしても)前話での日本作品とは製作費の桁が二桁も三桁も違うのでしょうが、それにしても、そもそも脚本の練度が違い過ぎる!

 全編が前作へのオマージュだった今回の続編。ダイナミックな音響と、米国海軍全面協力に依る実写中心の実物の戦闘機での空中戦の大迫力・・・。淀川さんではありませんが、本当に映画館の大画面で見る映画ってイイなぁ!これぞシネマ!とつくづく感じられた作品でした。
(もうイイという奥様は同時刻に放映される別の作品を見る前提で、私メはもう一度「トップガン・マーヴェリック」を見て、しっかりと余韻に浸りながら、更にじっくりと振り返りたいと思います)

 60歳以上対象のシニア割引。
オジンやジイサンに見られることに抵抗はあっても、年を取って安くなるなら「ま、イイかぁ~」となります。
シニア割の中にも色々な特典はあるのですが、その中で些か気に入らない(腑に落ちない)のは、JRの「大人の休日倶楽部」。というのも、女性は60歳以上に対して男性は65歳以上、吉永小百合さんのCMから思うに女性客がターゲットなのかもしれませんが、それにしても腑に落ちません。
そりゃ、確かにお友達同士で平日でも出掛けられる女性客をターゲットにした方が、高級レストランも平日のランチがお得な様に営業戦略としては正解(お財布を握る女性を落とせば、次に家族連れでも来てもらえる?)だとは思いますが、しかし女性よりも寿命の短い男性の方が適用年齢が上というのは納得し難い気がします。もし国営なら公平性確保と性差別批判も出来るでしょうが、民営化された今では致し方無いかな・・・とは思いますが。

 閑話休題。
シニア割でお得なのが映画です。映画館で多少異なるかもしれませんが、通常2000円近い一般料金が60歳以上のシニア割引だと1100円で見られます。
一時期世間同様に、DVDレンタルや大画面TVなどの登場などで映画館への足が遠のいた時期もあったのですが、(シニア割になったので)また最近見に行くようになりました。いくら家庭でも大画面化やサウンドバーなどAV機器の性能向上は顕著でも、シネコン化で昔よりも画面は小さくなったとはいえ、それでも映画館の大画面の迫力は音響的にも圧倒的です。
最近見たのは、「ラジエーションハウス」、「シン・ウルトラマン」、「太陽とボレロ」、そして「トップガン・マーヴェリック」。
 最初に奥さまのご要望で、或る意味期待せずに(ただ)ついて行った「ラジエーションハウス」。事前に見に行きたいと言っていたので、制作側のTV局系列で過去のTVドラマが再放送されていたこともあって、一応事前に何本か過去の番組を見て一応の背景やドラマとしての性格は把握出来てはいましたが、劇場版は更に硬軟取り混ぜて二重三重にもストーリーを絡ませて展開させていて、最初から最後まで飽きずに、しかも予想以上に楽しむことが出来ました。
 次に、これも奥さまのリクエストで見に行った「シン・ウルトラマン」。“有事における政府のリーダーシップの見本”とまで評価された「シン・ゴジラ」並み(映画は見ていません)の期待もあったせいか、或いはそうした見る前の期待値が高過ぎたのか?・・・。
おっと思ったのは、最初のタイトル表示がウルトラQの様に創られていたところと、怪獣(劇中では禍威獣)が壊すお城が珍しく松本城だったところだけ。日本の外交下手を揶揄した政府の対応も、地球最後の日へのカウントダウンも、ベータボックスで対策室の女性スタッフが巨大化されてしまい、助かった後も汗臭いと仲間から云われる(場合によっては、セクハラやモラハラと受け取られかねないのに)下りも、シリアスなのかパロディーなのか、ラジエーションハウスの様に硬軟取り混ぜてとなっておらず、笑うに笑えず観客席からは冷めた失笑を買うばかり・・・。
同じ人間型同士のウルトラマンと悪役の外星人との戦いよりも、むしろ冒頭の巨大怪獣との戦いの方が、特撮技術が進歩した現代の映像の迫力もありつつ戦い方は旧来のウルトラマン的で、当時TVにかじりついていた大昔の子供の目には懐かしかった気がしました。自身が筋金入りの“ウルトラマンおたく”でないからかもしれませんが、どうしてヒットしているのか、見終わった後も私には皆目その理由が分かりませんでした。でも、世間的にはヒットしているならきっと良いのでしょう(自分が分からないだけなので)。
 そして地元松本が舞台となった「太陽とボレロ」。こちらが(地元民としては)一番楽しみにしていた映画だっただけに、その意味で一番ガッカリした作品でした。あの映画の、クライマックスに向けたワクワク感が全く湧いてこないのです。見終わった後、暫し溜息しか出ませんでした。
その理由は、映像(カメラワーク)はともかく、脚本が酷過ぎる。細切れのちっぽけなエピソードをパッチワークの様に継ぎ接ぎしただけ。ラジエーションハウスの様に(例えあり得ないと思っても)二重三重に張り巡らされた複雑なストーリー展開の工夫も、ムム、そう来たか!という様な唸らされる捻りも無く、途中からは映画に出て来る場所や街角がどこかという興味のみ・・・。外れたのが、豊科の日赤病院かと思った(他にビルらしいビルが無いので)病院屋上と市役所が、(市民でないので行ったことが無い)安曇野市役所庁舎だったこと(各自治体の協力するフィルムコミッションを考えれば当然でした)と、最後のコンサートホールとなる馬蹄形の劇場が松本市民芸術館だと思っていたら、横須賀芸術劇場だったこと。これも考えてみれば、100人近いオケ(今回はイルミナート・フィルが協力)のメンバー全員を松本まで移動させるよりも、首都圏で撮影した方が安上がり故、こちらも当然といえばそれまででした。
出演者全員に吹き替えではなく、実際に自身でボレロの楽器演奏をするように求めたという厳しい監督(ある意味、スタントマンを使わないトム・クルーズ的に?)であるならば、自身には更に厳しく、もっと真剣に視る者をあっと言わせるような脚本を練り上げて欲しかったと残念でなりませんでした。
どちらも大元のTV局の番組や俳優との関係性故か、バックアップするTV局の番宣が大袈裟過ぎた様な気がします。ロケ地となった地元民は馴染みの景色やエキストラで知人が出るといった楽しみ方がまだあるのかもしれませんが、そうじゃない人はただガッカリするのみ・・・。せっかくコロナ禍明けで戻ったファンなのに、また映画館から足が遠のかなければ良いが・・・などとあらぬ危惧までしてしまいました。

 最初期待せずに見た、良い意味での番狂わせだったラジエーションハウス。以降、個人的にはシン・ウルトラマンも太陽とボレロもガッカリが続きました・・・。
果たして(家内ではなく私メが希望した)「トップガン・マーヴェリック」は如何に?
【注記】
同じく松本がロケ地になった「流浪の月」は、全体が辛そうなストーリーだからということで(最後に希望の光が見えるとしても)残念ながら見には行っていません。

 この日本で信じられないことが起こってしまいました。この日本ではあり得ないことが起こってしまいました。
ふざけるな!絶対に許せない!!こんなことがあってイイ筈が無い!!!

 しかし、小さなお子さんたちも家に居る夕食時も含め、狙撃された瞬間の映像と音声が何度も何度も繰り返し流されることの違和感。いくら許しがたき、例えどんなにあってはならない大事件ではあったとしても、マスコミの報道には違和感を禁じ得ませんでした。

 亡くなられた安倍さんに謹んで哀悼の意を捧げます。どうぞ安らかにお眠りください-合掌

 新居のマンションは前の家に比べれば部屋数も少なく、娘が上京している時(既に渡米済み)は我々二人しかいないので和室は設けませんでした。間取りは、先ずは購入者である娘のリモートワークのための一部屋と、ダイニングキッチンを兼ねたリビングルーム、そして我々のベッドルーム以外の残りが一部屋。

 そこはマンションの北側になる通路側で窓も小さく、日当たりも悪いので一番暗い6畳位の部屋なのですが、その部屋を収まり切れない家財の物置として、和箪笥と先祖代々の仏壇を置き、クローゼットには子供たちの分も含めた我が家の写真アルバムとLPレコード、そして我が家の重要書類など全てを収めました。あくまで物置部屋ですのでエアコンは設置せず、暖房もファンヒーターです。ご先祖様にも我慢していただくことにしました。
その結果、物置部屋で残った壁際の2畳ちょっとのスペースは私メの自由に使ってもイイとのことから、そこを“男の隠れ家”としてミニ書斎スペースとすることにしました。

 dマガジンなどで配信されて来る雑誌でも、“男の隠れ家”とか“狭くても可能なミニ書斎”といった特集号がmonoマガジンなどで特集されていますので、男性陣にとって広さは関係なく、そうした占有スペースを確保することは夢、大袈裟に言えば或る意味“男のロマン”なのかもしれません。
斯く云う私メも、子供の頃から、自分の部屋の隣の「川のせせらぎが聞こえる屋根裏部屋の物置」を親に内緒で夜だけの寝室に使ったり、また自分の部屋の押し入れ上部を二段ベッド替わりで使ったりと、割と閉所恐怖症の逆で(暗く?)狭い所が苦にならない(好き?)ので、暗いのも狭いのも(却って好ましく感じて)特に問題無し。その意味では、結果的に狭いマンションのこのスペースは(私メにとっては)むしろ願ったり叶ったりの“男の隠れ家”・・・なのかもしれません。
 ただ書斎として必要な机は、前の家の2階のファミリーコーナーで使っていたライティングデスクは大き過ぎるため使えずに置いてきたので、新たに小さなL字型の片側2段のワークデスク(引き出しは無い)と、同じデザインの4段の棚を家具店で購入し、そのワークデスクの2段の上の袖に収めるために、積み重ね可能なタイプの収納ケースを100均ショップで幾つも購入して、引き出しの代わりにして小物類を収め、また袖の下の段にはプリンターを収納しました。
更に4段の本棚(前の家で使っていたスライド式の本棚は、図書館に段ボールで何箱も寄贈するなどして冊数を極力減らした上で、入るだけ詰めて運び、寝室のベッド横の壁際にCDの棚と一緒に設置してありますので、書斎用のこちらには本の収納は不要)にはブリーフケースや写真立て、そしてCDレシーバーを収め、以前2階のファミリーコーナーで使っていたKEFのトールボーイのスピーカーと共に、サブシステムとして書斎でも(物置部屋ですが)音楽を楽しめる様にしました。ところがマンションの在る場所のせいか、或いは鉄筋コンクリート6階建ての建物の構造体のせいか、一戸建ての以前の家に比べてFMがキレイに受信できません。FM簡易アンテナをあちこちに置いて試してみましたが、レシーバーの置ける位置では全く受信できなかったので、FMだけはレシーバーでの受信を諦め、唯一FMが受信可能な北側の机の上に、使わないので廃棄する予定だったオールインワンのオーディオシステムを置いてFMを受信することにしました。
この部屋について最初から飽くまで物置として考えていて書斎を前提としていなかったので、コンセントの位置など購入時の打ち合わせの際に、家具のレイアウトなどは全く想定しておらず、そのためコンセントの位置が使い勝手の良い所に無く、結果コードやケーブル類が床の上を這うことになってしまいましたが止むを得ません。
 以上、結果的に残ったスペースを活かしての“一国一城”ならぬ一室一畳(実際は二畳程ですが)の主・・・。狭いながらも快適な“男の隠れ家”、私メのミニ書斎です。

 週末の早朝ウォーキング。
今回、初めてあがたの森まで歩いてみることにしました。コースは、渚から松本駅経由で、最初に深志神社に寄ってからあがたの森へ。そこから四柱神社経由で松本城。そして、また駅から渚へ戻ります。大体7㎞位のコースでしょうか。ただ沢村の時と比べ、アップダウンがありませんので登山の訓練にはなりませんが・・・。

 先ずは天神さんの深志神社に寄ってお参りです。すると、拝殿の鈴に3年振りくらいになるでしょうか、コロナ禍で外されていた鈴緒が三本、昔の様に付けられているではありませんか。コロナ禍の間は、鈴を“鳴らしたつもり”の“エアすず”でお参りをしていましたが、本当に久し振りに鈴を鳴らしてから参拝することが出来ました。長野県でもまだまだ感染者は発生していますが、そうした中で徐々に日常が戻りつつあるようです。

 深志神社から市民芸術館沿いに駅前通りに戻り、イオンモール前を通過してあがたの森へ到着。松本駅からだと、駅前通りを真っすぐ東へ1・5㎞行った突き当りが(T字路)が「あがたの森公園」です。ここは都市公園で、広さが61,000㎡とのこと。元々は旧制松本高校として整備され、戦後は信州大学文理学部のキャンパスとして使われていた場所で、大正8年に植えられたという大きなヒマラヤスギの並木道がこの公園のシンボルであり、またこの場所そのものも国宝の旧開智学校と共に“3ガク都”の内の“学都松本”を構成するシンボルの一つでもあります。そして、市街地にあるこの広大な公園は、市民の憩いの場でもあります。
 大正8年(1919)にあがたの地に開校した旧制松本高等学校。
「松本にも“ナンバースクール”を!」と、1899年(明治32年)から誘致活動を行ってきました。しかし1899年(明治32年)の第七高等学校誘致の請願も、1910年(明治43年)の第九高等学校誘致の請願も実現せず、漸く松本に高等学校が開校するのは1917年(大正6年)の請願に拠ってでした。
東京の一高から始まり八高の名古屋まで。しかし、それに続く「ナンバースクール」としての第九高等学校の開校は実現しませんでした。1918年(大正7年)の高等学校令以降、新たに開校した高等学校の名称には「ナンバー」ではなく地名が用いられたからです。そうした経過を経て、漸く松本に開校した高等学校が旧制松本高等学校です。
それでも松本の人々の「九高」への思いは強かったようで、旧松本高等学校の校章には「髙」の文字の外側に放射状に9本の線があしらわれていて、“名称は「松本高等学校」だが、実質「第九高等学校」である”という気概の表れとも云われているそうです。
松本高等学校は1918年(大正7年)に設置が決定し、翌年、松本城の二の丸にあった松本中学校東校舎を仮校舎として開校した後、1920年(大正9年)にはこの「あがた」の地に新校舎が落成し、1922年(大正11年)には講堂が完成して全校舎が落成しました。その校舎の一部と講堂が現在も残っていて、戦後は信州大学の文理学部として生まれ変わり、昭和48年(1973)、文理学部が松本50連隊(テニアン島で玉砕。戦前の松本は“軍都”でもあったのです)の跡地だった旭町(50連隊の駐屯にあわせて,軍隊の「旭日旗」に因んで町名を改称したとのこと)に統合移転されるまでずっとそのまま使われていたからです。大正期の古い建物でさぞ不便だったと思いますが、信州大学がタコ足大学故か、1970年代まで現役として使われて来たからこそ、旧制高校校舎が今にまで伝わったのでしょう。
信大キャンパスの移転後は、大正時代の代表的な木造洋風建築物である校舎は、市民や同窓会の運動により保存され、今でも大切に「あがたの森文化会館」として利用され、平成19(2007)年6月18日には「国の重要文化財」に指定されました。明治以降の我が国の近代教育遺産が、国宝と重文として二つも残るというこの街は、或る意味稀有なことなのかもしれません。他にも旧制高校の建物では、金沢の旧四高校舎と熊本の旧五高本館が重文指定を受けていますが、このあがたの森に旧制高校全体の資料を展示した記念館が設けられています。従って、ここは単なる都市公園ではなく、旧制高校の面影を残した校舎とヒマラヤスギで、デカンショで青春時代を謳歌したであろう在りし日の旧制高校の様子を偲ぶことが出来る、全国でも貴重な場所でもあります。
          (「われらの青春ここにありき」と刻まれた石碑)
その時代を直接知らない我々は、OBの北杜夫の「どくとるマンボウ青春期」を通して、正に“粗にして野だが卑ではない”という言葉の様な“バンカラ”を知り、そしてその時代に思いを馳せることが出来る場所なのです。
因みに、各地の“ナンバースクール”同様に、旧制松本高等学校も政財界で活躍する多くのOBを輩出していますが、“文化人”としては、旧制松本中学からは唐木順三、臼井吉見、古田晁、熊井敬等が松高OBです。
 松本へ観光に来ても、意外と「あがたの森」まで回る人は少ないかもしれませんが、もし松本市美術館に草間弥生作品を見に来ることがあったら、是非もう少し足を延ばして「あがたの森」まで来てみるのも松本観光の“穴場”としてお薦めだと思います。