カネヤマ果樹園 雑記帳<三代目のブログ>

 次女のところの孫たちの世話で手が離せない家内に代わって、長女の方のサポートが少し必要になったため、11月末、私メがコユキを連れて数日ですが上京する機会がありました(コユキだけになってからは、ペット用のリュックに入って一緒にあずさで上京しています)。


 東京滞在中、寄席の四つの定席は残念ながら聴きたいと思う噺家はどこにも出演していなかったので、滞在中唯一の外出で、前回の上京中に行けなかった「山種美術館」の特別展「聖地巡礼展」を見に行ってきました。
今回の美術展では、絵画における“聖地巡礼”を「作品の題材となった地や、画家と縁の深い場所に赴くこと」として、山種美術館が所蔵する日本画の主題とした場所を、画家が語った制作の経緯や残された現地でのスケッチと、それらを基に撮影された現地の写真なども併せて展示されているのです。
例えば、美術館的には今回展示の“目玉”とも云える、昭和期に描かれた絵画で初めて重要文化財指定となった速水御舟「名樹散椿」では、描かれた京都の地蔵院「椿寺」の名木「五色八重散椿」の当時の写真と、その椿が枯れた後に再び見事な枝を伸ばした現在の二代目の写真など、展示された各絵画にその制作の経緯や現地での当時のスケッチに加えて、制作当時や現在に映されたその場所の写真が飾られていました。因みに、この椿は豊臣秀吉が献木したと謂われていて、普通ポトっと花が落ちるために武士に嫌われた椿と違って、花弁が一枚一枚散るのだとか・・・。
展示されている絵画自体は、御舟の「名樹散椿」を始め、殆どは山種で一度は見ているので或る意味再会なのですが、今回の展示の中で個人的に一番関心があったのは、東山魁夷の「京洛の四季」の中の「年暮る」です。
画伯が川端康成から「今描かないと“京都”は無くなります」と言われことを契機に描いたという、1968年に発表された「京洛の四季」の4枚のシリーズは、既に12年前にこの山種美術館で見ているのですが、今回の展示での目的は、既に一度視ている絵画そのものではなく、描かれている東山の町屋を描いた風景が旧京都ホテル(現ホテルオークラ)から見た景色というのは知っていましたが、その中に描かれている大屋根の本堂がどのお寺なのかを、今回はその現物の写真を見て自分の目で実際に特定したかったのです。
     (*以下掲載の写真は、美術館で購入したポストカードです)
 今回行ったのは平日でしたが、さすがは人気の山種美術館。事前のオンライン予約こそ不要でその場で直接入場が可能でしたが、私メ同様シルバー世代を中心に結構混んでいました。しかもヒトゴトながら嬉しかったのは、中に欧米系のご一家が小中学生くらいの姉弟のお子さんたちも含め、英語のパンフレットを参考に熱心に鑑賞されていたこと。インバウンドの観光客ではなく、おそらく日本に住まわれている外国人ご一家だと思われますが、有名な観光地巡りではない、こうした日本画の鑑賞を通じて日本観光をされている姿に大いに感心した次第。
   
        (*奥田元宗「奥入瀬(秋)」の一部分のポストカード)
 さて斯く言う私メも、北から南へと地域ごとに展示されている作品を見て行く中で、これまた再会となる、 “元宗の赤”と云われる元となった奥田元宗の「奥入瀬(秋)と「松島暮色」。また、所蔵作品の中では最近の作品である桜を描いた石田武「千鳥ヶ淵」(2005年)。そして前回視て大変感動し今回再会となる「吉野」(2000年)の桜に改めて魅入り、その場で暫し足が止まります。
この石田武という画家は、京都出身で実家が西陣織職人をやっており、自身も京都市立美術工芸学校にて図案科を専攻。しかし、卒業後は動物図鑑など博物画のイラストレーターをしていたのだとか。
図案科で洋画や日本画も学んでいたとはいえ、50歳を過ぎてから独学で本格的に日本画を始め、2年後の1973年に第2回山種美術館賞で大賞を受賞したのだそうです。
今回の展示の中にも、先述の桜を描いた2点だけではなく、奥田元宗の「奥入瀬(秋)」に並んで大作の4枚の連作という「四季奥入瀬」の中から「秋韻」も展示されていました。
他にも、石本正「飛騨の酒倉」は、瀬戸川と説明にありましたので、5年前に行った街中を流れる清流と白壁の土蔵の街がとても印象的だった飛騨古川です。ということは、描かれている“酒倉”は飛騨古川の地酒「蓬莱」の酒蔵でしょうか。また新潟の蒲原を描いた横山操「蒲原落雁」は、冬の雪原となった田んぼの刈った稲を架けて干すハザ木が印象的。信州では稲を刈り取った後の田んぼに三脚に脚を組んで長い棒(ハゼん棒)を渡し、そこに稲束を架けて行くのですが、初めて新潟から山形へ村上から先は高速が無く、一般道を走った時に、枝卸しをした本物の木々が数メートル間隔で何本も植えられていて、それが稲を架ける“ハザ木”だと知って、同じ稲作でも地方によってその違いにとても驚いたことがありました。
他にも、北野天満宮の樹齢600年の大欅の老木を描いたという山口華揚の「木精」(こだま)は、説明書きに由れば「この木を写生した日の夕方、北野天満宮から路面電車で2駅の居酒屋神馬(しんめ)に行き、すっかり酔ってしまい、帰宅途中に再び北野天満宮に寄り、大欅の根元でひと眠りしてしまった」という華揚の逸話が紹介されていました。
因みにその「神馬」は、酒飲みのバイブルでもある高校の大先輩太田和彦センセの著書「居酒屋百名山」にも登場する京都の伝説の老舗居酒屋です。その著作の中に紹介されている、その最盛期を支え96歳で亡くなるまで店に立っていたという名物女将「とみ」さんのエピソードとして、分け隔ての無い気風で警察や顔役にまで一目も二目も置かれ、『チンピラが舞台の切符を何枚か売り付けに来ると、黙って10枚買って「見に行かんからやるわ」とその場で返し、以降チンピラはおとなしく飲んで帰るようになった。』という逸話を紹介していました。また、『祇園ばかりが京都ではない。京都にも庶民生活があり、居酒屋で酒を飲む』として、嘗て「神馬」の常連だった京都在住の文化人を何人か挙げているのですが、以前読んだ時は気に留めなかったその中に山口華揚の名も確かにありました。
 そして、京都といえば東山魁夷の「京洛の四季」。
鷹ヶ峯の桜を選んだ「春静」、夏の修学院離宮の松を描いた「緑潤う」。小倉山のモミジのそれぞれ紅葉と黄葉を描いた「秋彩」、そして今回のお目当ての冬の京都を描いた「年暮る」。
その「年暮る」の解説で、実際に旧京都ホテルから撮られた東山魁夷が描いた頃の同じ東山方面が撮影されたモノクロの写真からは、位置的にも確かに「要法寺」の大屋根であろうことが確認出来ました。
以前あの界隈をウォーキングがてら歩いた時に、「これかな?」と勘違いした「妙傳寺」は二条通に近い所に在るのですが(妙傳寺の本堂の屋根は東西向きなので、「年暮る」の中に描かれているお寺の南北の大屋根とは違うのが分かります)、また実際の「要法寺」はもっと南の東山三条に近い場所に在りました。
そして、今回現物の「年暮る」に再会して感じたのは、「こんなに雪の粒が大きく描かれていたんだ」ということ。実物を見ないと気が付かない、新たな発見でした。県立信濃美術館の東山魁夷館にも全く同じ構図(但し川端通を走る自動車は描かれていません)の「年暮る」の習作があって、こちらも10年前に見ているので、「年暮る」を見るのは今回が3度目なのですが、習作は青色が薄くて少し黄味掛かっているので受ける印象が全く異なります。全体に青色が強調されたこの「年暮る」の方が、しんしんと雪が降る大晦日のしーんと静まり返った様子が、この青色だからこそより伝わってくる気がします。
そのため、この絵を視ていていつも感じるのは、NHK「ゆく年くる年」中継で必ず登場する知恩院の除夜の鐘の音が、知恩院自体は京都ホテルから望む東山方面を描いたこの絵の中には勿論描かれてはいないのですが、この絵の中の静まり返った京の街から聞こえて来る気がすることでしょうか・・・。
 今年も色々あった年でした。母が逝き、ナナも虹の橋を渡っていきました。患ったとはいえ、それぞれ天寿を全うしてくれただろうことがせめてもの救いでしょうか。今年は喪中故、静かに“ゆく年”を偲び、そして“くる年”を想う・・・。

 皆様におかれましては、どうぞ良い年をお迎えください。
                                      
                            カネヤマ果樹園一同+コユキ

喪中につき、年賀のご挨拶を失礼させていただきます。
去る10月13日、20年を超える病気療養を経て、母が老衰のため95歳の天寿を全うして永眠致しました。
生前母に賜りましたご厚情に謹んで感謝申し上げますと共に、来る2024年も変わらぬご厚誼のほど宜しくお願い申し上げます。

 お宮参りの前日、奥さまはいつもの表参道の美容院へ。
終ってから家内と待ち合わせて、新宿高島屋の呉服売り場で、娘たちの時の七五三の時に紛失したのか、翌日の孫のお宮参りで使うのに足りないグッズを買いに行く予定です。
そこで、待ち合わせまでの空いた時間に、特に他にすることも無いので、ホンじゃまと、一人で新宿の中古CDショップで掘り出し物を探してみることにしました。
そのCD屋さんは「ディスクユニオン」という中古のCDやLPを販売している店で、幾つも店舗がある中で、ここディスクユニオン新宿店はクラシックの専門店です。確か紀伊国屋のすぐ隣のビルの5階くらいだったと記憶していたので「このビルの筈!」と探したのですが、フロア案内にも見当たらず、念のためその界隈を探してもそれらしきショップ案内を見つけることは出来ませんでした。
当てが外れてしまい、「さて、どうしよう・・・?」ということで、紀伊国屋の文庫と新書売り場を少し見たのですが、特にこれはという本も見当たらなかったので、
 「それじゃあ、久し振りにベルクにでも寄ってみますか・・・」

 新宿駅のルミネエスト地下1階。新宿駅東口改札から、地下鉄の丸ノ内線方面へ下る階段手前にある拘りのビア&カフェ「ベルク」。
BERGという店名の読み方からしてもドイツ風な雰囲気で、モーニングから、ランチ、そして夜の居酒屋風に一人飲みまで。雑多な新宿らしい、カオスの様な混沌とした狭い店内なのですが、店内には「ナンパ禁止」の貼紙がある様に、女性一人でも入り易く(きっと飲み易く)、どんなに混んでいても、テーブル席は無理ですが、カウンターの立ち飲み席は間を詰めて場所を開けてくれたり、また終わると長居をせずにさっとどいてくれたりと、それが常連さんの暗黙のルールになっていて、一人でも居心地の良い店です。きっと一人でも、また誰とも話さずとも、ここに来れば“都会の孤独”を感じることなく、「ヨシ、明日からまた頑張ろう!」と無言のエールを貰える様な、そんな店が「ベルク」・・・です(と、私メは東京への出張時にしか行けませんでしたが、勝手にそう思っていました)。
会社員時代、出張帰りにあずさまの発車時刻までに時間がある時は、良くここで時間潰しをしていました。当時は私もまだ喫煙者で、肩身が段々狭くなる中で、喫煙場所を探さなくてもベルクに来れば普通にタバコが吸えましたし、或る意味、田舎からのお上りさんにとっては居心地の良い“新宿のオアシス”でした。
この日もたくさんのお客さんで店内は込み合っています。
長居をするほどの時間は無かったので、生ビールを一杯だけ注文。これが税抜き350円だったか、本当に安いんです。そして、嬉しいことに「松本ビール」という松本ブルワリーの地ビールも今回ラインアップされていました。
久しぶりのベルクの雰囲気を楽しみながら、ビールというより店内の雰囲気を味わいます。それにしても、相変わらずの盛況で何よりでした。これなら、もし何年後かに来ても、きっとまた楽しむことが出来ると思います。
 その後新宿高島屋に向かい、家内の来る前に呉服売り場の場所を確認すべく事前にチェック。
家内が合流し、本来は七五三の和装小物のセットの中で、見当たらない着物の胸元に入れる小さな箱型の小物入れの「筥迫(はこせこ)」を探していたのですが個別には売られておらず、呉服売り場の年配の担当者の方にお聞きしたところ、昨今のお宮参りと七五三の様子を教えていただき、「筥迫」は七五三の和装の着物用に使う小物だそうで、お宮参りなら「むしろこちらの方が必要でしょう」と、勧めていただいた帽子と涎掛けのセットを購入しました。
それにしても、事前に見た地元のローカルデパートとは大違い・・・でした。但し、一番の違いは都会と田舎という規模からしての品揃えといったハードの差ではなく、むしろソフトの差・・・でした。
というのは、都会の老舗デパートの呉服売り場では、とっくに本来の定年を過ぎた様なベテランのスタッフの方を何人か揃えていて、お客さんにアドバイスをする、或いは客の質問にも昔と今の違いを踏まえてちゃんと答えられる・・・。まさに亀の甲より年の劫で、その豊富な知識の量が田舎のデパートとは全然違うのです。
昔は、地方のデパートにだって絶対にそうした地元の特色ある“しきたり”や独特の慣習を良く知ったベテランスタッフがいた筈なのです。そしてそれこそが老舗への信頼だった筈。
いくら市場としてのニーズとデマンドの差とはいえ、人件費削減か、高いベテランスタッフを切って安い若手に切り替える・・・。そうした有能の人材を簡単に切ってきたからこそ、いくら売り場を今でも確保していても真の客のニーズを捉え切れず、本来なら、そして昔なら、いとも簡単につかんでいただろう地元のニーズを逃がしてしまって、オンラインや首都圏のデパートに取られてしまっている・・・そんな身から出たサビの“いたちごっこ”の繰り返しなのではないでしょうか・・・。
もしそれがコストに見合っているなら、別に何の後悔もする必要はないのですが、地元で購入するつもりで、「筥迫(はこせこ)」を探して聞いても「えっ?」と絶句したきり何も答えられなかった田舎の“老舗”デパートの若い店員さんと、「あっ、それは・・・」とすぐに答えてくれ、しかも最近のお宮参りと七五三の状況をふまえてアドバイスをしてくれた“お婆ちゃん”スタッフとの差に、そんな感想を持った次第です。
 昔、本ブログに “町の電気屋さん”の生き残り策としての、大手家電量販への対抗策は、サザエさんに登場する“三河屋”の三平さんの御用聞き、それは例えば老夫婦世帯の切れた蛍光灯の交換作業とか、そういった町の小さなニーズを如何に取り込むかだと書いた記憶があるのですが、衰退する田舎の老舗デパートも、もしかするとそうした地元の町の小さなニーズを取りこぼして、全てを時代の“せい”にしてきたツケで、それは“身から出たサビ”、或る意味時代変化についていけなかった“自業自得”なのかもしれない・・・と新宿の老舗デパートで家内の買い物に付き合いながら感じた次第。

 お宮参り出席に際して長女のマンションに滞在中、モーニングを兼ねて我々もお気に入りの六本木『VERVE』へ長女が連れて行ってくれました。

 彼女がMBA時代に暮らしたシリコンバレーのパルアルトで、良く通っていたというカフェ。日本に進出し、何店舗か展開している中での六本木店。六本木という場所柄か、半分は日本在住の外国人の皆さん。従って我々は全くの場違いなのですが、確かに自家焙煎のコーヒーは試飲出来るその日のスペシャリティーや夏の水出しコーヒーも含め、結構私好みの酸味の利いた種類があって、意外と好み。しかも、他店の二倍はありそうなコーヒーカップ故、例え一杯800円でもリーズナブルに感じられるのです。しかも、若いスタッフの皆さんがキビキビしていて、解放感ある店内と相俟って実に気持ちがイイんです。
そういう意味で云えば、我々の様な田舎モノに些か似つかわしくないのは十二分に分かっていても、最近日本でも流行りの同じ西海岸発の“Blue bottle coffee ”よりも遥かに好み。コスパの良いコーヒーに比べ、ホットサンドは確かに本当に美味しいのですが、我々年金生活者にとってはちょっと高いかなぁ・・・(でもホントに美味しい!写真・・・食べかけの途中です。スイマセン!)。
しかも、テラス席だけではなく、一階の店内フロアもワンコOKなのが有難い。勿論、ちゃんと静かに出来る、そうしたワンコだけですが・・・。もし時にそれを乱そうものなら、暗黙のルールとして、そうしたワンコのオーナーは皆さん黙って自主的に退散されるのでしょうけれど・・・。
場所柄なのか、客層が良いのがこの店の特徴なのかもしれません。

 虎ノ門ヒルズでのランチの帰りに私メの希望で寄ってもらったのが、以前ご紹介した23区内で唯一の“山岳トンネル”という愛宕隧道を抜けて、愛宕神社の反対側の慈恵医大近くにあるこじんまりした穴場的喫茶店「ピースコーヒー」で、住所は西新橋です。

こちらは、以前長女が済んでいた虎ノ門のマンションに奥さまがステイした時に、界隈でのウォーキングがてら見つけたカフェで、以前一度連れて来てもらって、私メも大いに気に入った喫茶店です。
店内はアメリカン調で、何となくぬくもりが感じられる木の床とテーブルで、内装もオシャレなのですが不思議とアットホームな雰囲気が素敵です。
 正式には「ピースコーヒーロースターズ」。その名前の通り、元々は千葉県茂原市でスペシャルティコーヒー専門の小さな焙煎工房としてスタートし、今でも土日はそちらで自家焙煎の方に従事されていて、平日はこちらの西新橋店でその豆の販売とカフェを営んでおられるとか。従って、西新橋店は土日祝日が定休日になっています。こちらもオフィス街なので、それで良いのでしょうね、きっと。因みにオフィス街である神谷町界隈も土日はお休みの飲食店が殆どで、長女曰く土日は“食事難民”になるとのこと。
さて、こちらの「ピースコーヒー」は以前家内と一緒に伺った時に、ドリップの仕方を家内がお聞きしたら、マスター(店長さん?)が本当に丁寧に教えてくださり、色々アドバイスもしていただきました。
その時は、マスターと女性スタッフお一人の二人で切り盛りされていたのですが、今回は女性だけのスタッフ4名で運営されていました。
こちらのコーヒーの特徴はエスプレッソを抽出し、エアロプレスでコーヒーを淹れて提供しくれるところ。そのプレスする作業が面白くて暫し魅入ってしまいました。
コーヒーの価格も本日のコーヒーが税込みで460円。リーズナブルというよりも安過ぎ・・・。家内が頼んだカフェラテも550円。そしてケーキも色々ありましたが、家内の頼んだレモンケーキはナント330円。他にも自家製のサンドやバーガーなどもあって、それもとてもリーズナブル。喫茶だけではなくて、ランチにも良いかもしれません。
店内で休憩したり談笑したりするお客さんは勿論ですが、ひっきりなしに飲み物や食べ物をテイクアウトされるお客さんも多く、この界隈で働く皆さんのきっと憩いの場なのでしょう。

 もしこんなカフェが近くに在ったら、確かに毎日でも来たいと思わせてくれる様な、肩肘張らずに気楽に過ごせるそんな素敵なカフェでした。

 山種美術館に行きたいという私メの要望はいとも簡単に却下され、奥さまの希望で向かった先は、以前長女が済んでいたマンションの対面、虎ノ門ヒルズに完成したという新たな高層タワー「虎ノ門ヒルズ ステーションタワー」です。
虎ノ門ヒルズエリア最後の高層ビルとして、この10月6日に開業したばかりのステーションタワーは、地上49階建て、高さ約266mで、日比谷線「虎ノ門ヒルズ」駅と一体的に開発した「多用途複合の超高層タワー」とのこと。大阪のあべのハルカスを抜いて日本一となった、同じ森ビルの麻布台ヒルズの森JPタワーが竣工したばかりなので然程話題になっていないのかもしれませんが、このステーションタワーも横浜ランドマークに次いで日本で4番目の高さとのこと。
また、直結する東京メトロ日比谷線の虎ノ門ヒルズ駅は、2020年6月に神谷町駅と霞ヶ関駅間に開業した、日比谷線では開業以来56年ぶりとなる新駅なのだそうです。

 その地下鉄虎ノ門ヒルズ駅の改札階でもある、地下2階に作られた新たな商業ゾーンが「T-マーケット」で、駅に直結しており、駅前広場の「ステーションアトリウム」と一体となった、飲食を中心に30近いショップが集結。3000㎡というスペースに、カフェ、ダイニング、ブリュワリー、角打ちなどの飲食店や、スイーツ、チーズ&ワイン、フラワー、雑貨などのショップが出店しているのだそうで、こちらのT-マーケットが今回の奥さまのお目当ての由。
アトリウムと云うだけあって、大きな鉢の観葉植物がまるで街路樹の様にマーケット内のあちこちに置かれ、各ショップの仕切りや通路をかたどっています。そしてそれらは同時に、敢えて天井の配管などを隠さず剝き出したままの無機質な空間が、生きたグリーンに拠って瑞々しい彩を与えてくれてもいます。
 マーケット内をざっと見て回って、この日はまだ営業していない店舗も在った中で我々が選んだのは、奥さまは和食の「虎ノ門おお島」、そして私メはフィッシュ&チップスとクラフトビールの「dam brewery restaurant」。
このマーケットは、所々にフリースペースがあって、そこはスマホからオーダーすると、好みの店舗の料理がその席に運ばれて来る仕組み。
同じ虎ノ門ヒルズのビジネスタワーの飲食店が連なる「虎ノ門横丁」と同様です。勿論、各店舗にもイートインの席はあるのですが、一つではなく色んな店の料理が食べたかったり、或いはメンバー内で食指が分かれたりした時などは便利です。
そこでフリースペースでオーダーしようとしたら、フィッシュ&チップスは問題無かったのですが、和食の方はデリバリー可能なメニューが店で食べるよりも限定されていて、家内の希望のメニューはその中に入っていません。そこで止む無く、フィッシュ&チップスを諦めて、和食の店に入って頼むことにしました。
これではせっかくの仕組みも機能不全・・・でしょう。 
フリースペースはエリア内に何ヶ所かあり、因みに和食「おお島」の通路を挟んですぐ横に在るフリースペースの席で頼んでも、ミックスフライ定食しか頼めないのです。
そこで、「おお島」の中のイートインの席でオーダー。こちらはイートインでのランチ用に何種類かの定食があり、家内はお刺身定食、私はミックスフライ定食をチョイスしました。
手際良くランチの数をこなすべく、さすがにフライは全て事前に準備された冷凍モノでしょうが、品数も豊富。家内の刺身も新鮮だったとか。奥さまが食べないというブリをいただきましたが確かに美味しかったです(でも、フィッシュ&チップスが些か心残りではありましたが・・・)。
 食後、奥さまが「ここには上階にスタバがあるので見に行きたい」とのこと。エレベーターで7階へ。このビルにはオフィスがたくさん入るので、そのオフィスで働く方々のためのスタバの様で、わざわざ7階までそのためだけに来る人はいないでしょうから他のスタバの街中の店舗に比べると空いていましたが、眺めも良く、大きな窓で開放感もあって、ノートPCを持ち込んでリモートで仕事をするのも気晴らしで良いかもしれませんし、逆にそうした場を意識した店舗でもあるのでしょう。
 それにしても、多様な顔を見せる森ビルの各ヒルズ。都会のネズミと田舎のネズミではありませんが、“お上りさん”的には大したモノだと感心することしきり・・・でした。

 二人目の孫娘の横浜でのお宮参りに合わせて、港区の長女のマンションに数日間泊まらせて貰いました。その滞在中の都内での見聞録の幾つか・・・。

 11月24日という、麻布台ヒルズのオープンを一ヶ月後に控えた10月末。
ヒルズ内を通る新しい桜麻道路などは既に7月24日に開通しているのですが、散歩がてら今回も少し歩いてみました。
前回来た7月末は、三井住友建設の設計ミスでのやり直しに因る建設遅れで、未だ下層階の建設中だった残る1棟のを除き、他の二棟は既に建設工事が終了して内装工事に移っていましたし、麻布台ヒルズの特徴であろうガーデンテラスの建設工事も終了して、“森を創る”が如く植栽工事の真っ最中でした。

そのタワーレジデンスBは相変わらず下層階が建設工事中で、まだまだ時間が掛かりそうですが、数か月ぶりに今回ヒルズ内の道路を歩いてみて感じたのは、夏の時期に行われていた植栽工事の木々がすっかり根付いて、随分林らしくなってきていること。そして、それと同時にその植栽スペースに人工的に植えられたのではない雑草が至る所に蔓延っていたこと・・・でした。
これではせっかくの植栽も些かイメージダウンになってしまいます。しかし、これだけ広大な、しかも場所によっては4階の高さまで急勾配のスロープで人工的にアップダウンが付けられており、そうした場所では命綱を付けての作業になることから、この延びた雑草駆除一つとっても大仕事!・・・です。
以前、たった17坪の我が家の芝生ガーデンの雑草取りにも苦労した自分たちとしては、麻布台ヒルズのシンボル的なガーデンスペースをキチンとその美観を維持するためには、定期的にとてつもないコストと労力が必要となるだろうことは想像に難くありません。
勿論、11月24日までには改めてキチンと植栽対応が行われて、見事な状況でオープンの日を迎えることは間違いないでしょう。
しかし、そのコストは当然のことながら入居テナントの管理費にも反映されているであろうとはいえ、この人手不足の時代に必要な労働力を今後もちゃんと定期的に確保出来るのだろうか?と、華やかなオープニングの裏側でずっと維持していくことの途方も無い大変さに、ヒト事ながら些か心配になりました。
 因みに、そんな麻布台ヒルズが11月24日の正式オープンを二日後に控えた11月22日。長期に亘った建設工事中の騒音などで迷惑を掛けたこととオープン後の混雑へのお詫びということで、森ビルが周辺住民のご近所さん方だけを招待して、内覧会を開催するとのこと。招待を受けた長女に誘われて、奥さまも喜び勇んで一緒に参加して、“田舎のネズミ”も“都会のネズミ”のフリをしつつ大いに満足されたようです。
 「そりゃ、何より・・・」。
ただ、娘が他の店舗ではいつも売り切れで「内覧会の今日なら買えそう!」と期待していたエシレバターが、都会のフリをした“田舎のネズミ”が展望フロアなどでウロウロ、キョロキョロしていて時間が掛かり、結局お目当ての品は売り切れで買えなかった由(という母娘の会話が、せいぜい雪印と四葉くらいしか知らない私メにとっては何のことやらチンプンカンプンでしたが・・・)。
 「そりゃ、申し訳なかったネ・・・。」
【追記】

後日、家内が横浜の次女の所から東京に回り、エシレの大行列に並んでお目当ての商品を無事購入し、オフィスに出勤中で不在の長女のマンションに立ち寄ってそれを置いて来たとか。
勿論、当然ながら自分の分もしっかり買った上で・・・。

 元々10月22日に予定されていた、横浜に住む次女の二人目となる孫娘のお宮参り。
しかし先述の様に、急な母の葬儀で我が家は忌中となったので、一旦、おめでたい席への出席を遠慮すべくお断りさせていただいたのですが、先方のご実家のご両親から、
 「そう仰らずに・・・。当方は気にしませんので、せっかくの孫のおめでたい儀式ですから、もし何なら落ち着かれるまで先に延ばしても構いませんので是非お越しください。」
との本当に有難いお言葉。(実際、お電話をいただく前に、もう婿殿には延期するように指示されていたと後で伺いました)
こちらが信州の田舎ゆえに些か古臭くて時代遅れだと云われればそれまでですが、しかし本来ならそうしたおめでたい席への参加など忌み嫌われても致し方ない筈・・・です。
しかし延ばそうにも、11月に入ると七五三シーズンで、フォトスタジオの予約が一杯で取れない由。そうかといって、12月になると今度は寒くて、神社へお参りに行くのも幼子たちには可哀想です。
そのため、一旦キャンセルした元通りのスケジュールならば予約可能ということで、結局当初の予定通りの10月22日の日曜日に急遽執り行うことになりました。
 そのため、家内は葬儀後に変更して貰っていたお義母さんとの温泉旅行明けの翌日から、私メは葬儀の後の市役所と金融機関への必要手続きを済ませた後の、同じく20日にワンコも一緒に上京して長女のマンションに泊めてもらい、22日に下の娘たちが暮らす横浜の都筑区でのお宮参りと写真撮影、その後での会食に出掛けました。
前回と違い、今回は終了後に松本には帰らず、東京の長女の所に泊めてもらうので、スケジュール的には楽。とはいえ、前話の“疾風怒濤”に引き続いてのスケジュールでしたので、おめでたいイベントとはいえ、慌ただしさはそのままずっと引き継がれてきた印象でした。

 今回も前回同様に、娘たちの暮らす都筑区の近くの神社、杉山神社(こちらは武蔵国の三ノ宮とのことですが、なぜか鶴見川周辺にだけ存在し、その名前の由来さえはっきりしないのだそうですが、横浜市内だけでも30数社もあるのだとか)へお参りです。お宮参りの祝着は、家内が大切に保管していた昔子供たちが松本で着たお宮参りと七五三の時の衣装です。今回も孫たちに使ってもらい、我々からすれば感慨ひとしお。その後、予約していたフォトスタジオでの記念の写真撮影と食事会へ。
 前回も感じたことですが、特に印象的だったのは、フォトスタジオの若い女性スタッフの方々のプロの技・・・。
赤ちゃんが寝てしまったり或いは上の子の機嫌が悪かったり、もしくは転んで泣いてしまったりした時も、ちゃんと目を開かせ、笑わせてその瞬間をカメラに収めていくのです。
昔とは異なり、いくら連射可能なデジタルカメラとはいえ、少なくとも微笑む瞬間が無ければそれを収めることは不可能なのですから、子宮の中で聞こえる音に近いというビニール袋のカサカサする音、またフォトスタジオのTVCMではありませんが、音やぬいぐるみなどの小道具を駆使して、孫たちの注意を惹いて笑わせたりしてシャッターチャンスを見事に切り取っていきます。
 「いやぁさすが、プロだわ・・・」
と感心しきり。事実、その結果、数日後に完成した届いたスライドショーは、まさに感動モノ!の出来上がり・・・でした。
 それにしても、一度は本来我が家の忌中で諦めたにも拘らず、お陰様で我々も参加することが叶い、ご実家のご両親には感謝してもしきれない一生に一度しかない孫娘のお宮参りでした。

 母の食欲が落ちて微熱がある・・・。

 本来は連絡のあったその翌日から、半年以上前から予約してあった、4年ぶりとなる那須へ3泊四日で旅行へ行く予定でした。そして、今回もその滞在中に既に紅葉が始まっているであろう那須岳(茶臼岳)登山を計画していました。
いつもなら、事前に観光スポットやグルメ情報などをキメ細かくチェックするのですが、今回は“虫の知らせ”か何となく気が乗らず、前回一度行っていることもあって、「ペニーレインとか、また行けばイイや!」と殆ど調べていませんでした。しかも、直前になって列島に寒気が南下して、信州の北アルプスでも登山者の遭難が多発しましたが、那須連山の朝日岳でも70代の高齢者4人が遭難し低体温症で死亡するなどしたことも、(同じシルバーエイジの登山者として)何となく気が進まない理由だったかもしれません。
(因みに、二人目を出産した次女の所に“家政婦”として直前まで手伝いに行っていた家内が、朝日岳での遭難のニュースで、この後全く同じ場所に行く予定だと言ったら、「冗談じゃない!」と叱られたとか。因みに、登山口から1時間ほど登った峰の茶屋の非難小屋から右に行けばその朝日岳、左に行けば通称那須岳とも呼ばれる那須連山の主峰茶臼岳です。普段なら“百名山”とはいえ、小学生でも登れる山なのですが・・・)
それが、直前になっての冒頭に記した母の容態変化もあって、家内が「行くの・・・、ヤメようヨ!?」
因みに施設の担当医師や看護師の方々の意見もふまえて今後の介護計画をスタッフの方々と話し合うなど、直ぐにどうこうではなく、その時点での母の状態は安定していたのですが、そうは言っても万が一を考えて断念。
そこで那須旅行とは比べるべくもありませんが、前から久しぶりの那須行(思えば4年前の前回は、その時点で掛かり付けの獣医師から余命宣告をされ、先生からは何かあったらすぐに連絡を取り合うことを約束しての、ナナとの最後の“思い出作り“のつもりの旅行だったのです。因みに、その後コユキが来てくれて、ナナは先生も驚く回復で更に4年生き長らえてくれましたが・・・)を楽しみにしていた家内への多少の罪滅ぼしになればと、せめて半日だけも秋の恒例でもある小布施に行って、「桜井甘精堂」の洋菓子部門「栗の木テラス」で新栗モンブランを食べて来ることにしました。
(因みに、小布施滞在中でしたが、母の様子を心配して電話して来た長女が、我々が小布施に居ると知って、一瞬絶句していたとか・・・)

          (小布施の街中で見つけた“小さな秋”)
 松本からは小布施へは小布施SAのスマートICで下道に降りられるので、ゆっくり走っても片道1時間ちょっとでしょうか。8時半前に家を出て、予定通り10時開店の30分前に到着。先に記帳する家内を降ろし、私メはコユキを連れて、店舗から徒歩2分というすぐ近くの桜井甘精堂の有料駐車場へ(店舗で2000円以上購入すると、2時間無料になります。因みに、昨年は長女と家内が本店でお菓子を買ったら、そのまま車を停めて置いてOKとのことでしたので、お言葉に甘えて本店の駐車場に停めたままで「栗の木テラス」に食べに行きました)。
すると、家内が戻って来て6番目だったとのこと。店内に10卓程テーブル席がある筈ですので、それなら間違いなく一巡目で食べられそうです。こちらではポットで紅茶がサーブされるので(コーヒーもです!)、どのお客さんも食べ(飲み?)終って離席するのに小一時間は優に要します。
 それまでコユキを連れて近くを散歩。桜井甘精堂の喫茶室もですが、ワンコは入れないので、我々が食べている間は可哀想ですがコユキは車でお留守番です(真夏では無いので、車中でも大丈夫)。
松本も然りですが、町自身が“ Dog friendly ”を掲げる軽井沢以外は、ここ小布施もワンコ連れで入れるお店は殆どありません(信州のみならず、京都も那須も伊豆も、軽井沢以外はどこも似たようなモノ・・・です)。
少子高齢化時代で我々の様なワンコ連れの年寄りが増える中、観光的には如何にそうした客を呼び込むかがカギだと思うのですが、一見さんのインバウンド需要を取り込む方が(稼ぐには)手っ取り早いのでしょうか?
 時間になり、行列は20人を越えました。客層は、我々の様なシニアのカップルか年配の女性グループ客が殆どです。それにしても、平日なのに小布施の集客力には驚きます。長野県内で一番面積が小さくて人口密度の高い町が、この小布施です。
順番に名前を呼ばれて一巡目で着席。どのお客さんもですが、我々もこの時期の目玉の新栗のモンブラン(520円)。そして奥さまが紅茶のウバ、私メはコーヒー。どちらも600円ほど(紅茶の種類によっては800円位まで)ですが、それぞれポットに入っていて、コーヒーも優に3杯注げましたので、むしろ安くてお得だと思います。
近くの小布施堂の栗の点心「朱雀」は相変わらずの人気の様で、現在はオンライン予約のみとのこと。ただ、我々は10年前に一度食したのですが、正直「もうイイね・・・」となり、それ以降は小布施で栗菓子では一番の老舗である桜井甘精堂の小ぶりの洋菓子のモンブランの方が好みで、この新栗の時期に何度か食べに来ています。

長女が一緒だった昨年は、彼女のリクエストで小布施ワインに行って婿殿用に何本か購入したり、久し振りの中島千波美術館も拝観に行ったりしたのですが、今回はドライブも兼ねてコユキも一緒なのでワンコ連れでは行く所も無く、少し散歩をしてから事前に確認してあった、唯一テラス席でワンコ連れでも食べられるというお蕎麦屋さん「富蔵屋」に事前に記帳をしての順番待ちで、蕎麦でのランチです。そのテラス席(といっても木製のテラスではなく、店舗前の道路端に置かれたテーブル席が二つと店舗沿いに片面の長テーブル席があるだけでしたが、ワンコ連れで食べられるだけまだマシでしょうか・・・。
H/P上はもっとたくさんメニューがあったのですが、コロナ禍故か、選択肢も少なくなっていて、奥さまが「田舎三味おはぎ御膳」(2400円位でした)で、クルミとゴマのおはぎが付いた、くるみだれ・辛味大根・とろろの三種類のそばつゆの蕎麦。私は田舎そばの大盛り(2200円位だったか)にしました。田舎そばは、そばの実を殻付きのまま丸ごと挽いた所謂“挽きぐるみ”で、黒っぽい蕎麦。個人的には、どちらかというと更科よりは昔ながらの田舎の方が好みでしょうか。
どちらも量はたっぷりですし、三昧には薬味に辛味大根も付いていたので私メが薬味に頂いたのですが、蕎麦の味は新そば前ですし、蕎麦処の信州なら並みレベルかな・・・。ただ値段が大盛りで2000円超えは、多少観光地価格かもしれません。
 テラス席には、首都圏から来られたという、やはりミニチュアピンシャー連れの我々より年配のご夫婦がおられ、“ワンコ連れ同士”で暫し犬談義です。軽井沢に前泊して来られたそうで、やはりワンコ連れOKの店を探してこちらに辿り着いたとのこと。我々が地元の松本と知り、信州の観光のことも色々聞かれたのですが、
 「スイマセン。軽井沢は本当に特別で、信州でドッグフレンドリーな処は残念ながら他には余り無いんです。」

 ランチを済ませてからの帰路、小布施SAにも隣接している道の駅に立ち寄り、SAのスマートICから高速に乗って松本へ戻り、母の様子を確認してから帰宅しました。

 長年、20年以上も認知症を患っていた母は、ここ3年弱は以前の自宅からは車でホンの数分の所に在る特養にお世話になっていたのですが、コロナ禍故にここ2年間ちょっとは館内感染防止のため面会もままならず、それが少し緩和された以降も、身内とはいえ会えるのは二三ヶ月に一度程度が前提で、一日3組。事前に予約をして、しかも玄関のガラス戸越しに10分間という状況で、家族以外は親戚といえどもなかなか会うことも叶いませんでした。
そんな状況下でも、9月末までは自分でご飯を食べ、また私が面会した折には横浜に住む叔母とも携帯で(姉妹での最後の会話になりました)話しをするなどしていた母ですが、10月に入って食が細り微熱が続くようになり、それからは毎日面会をさせていただく中で、施設のスタッフの方々と今後の介護計画は誤嚥を避けるべく完全流動食に切り替えて行くことなどを確認したのが12日。その日はそれまでの微熱も無くなって平熱に下がり、また時折苦しそうにハァハァと言っていた息も穏やかになったので、「これで少し落ち着いた感じですね」とスタッフの方々と確認し合って家に帰ったその日の深夜、連絡があって、施設の当直されていた看護師の方から「たった今、目を落とされました」とのこと。
 コロナ禍での夜間故にすぐに駆け付けることが出来ず、翌朝医師が確認する8時に来所せよとのこと。
その8時を待って駆け付けると、既に朝6時に医師が来て確認してくださった(従って、そのタイミングが正式な死亡時刻となります)とのことで、既にキレイに体も清めていただいて、そのための和室に寝かせてくださっていました。
昼過ぎに会場となる葬祭ホールが手配してくれた霊柩車で、母が3年間近くお世話になった特養から葬祭会場のホールに向かいました。
デイサービスの頃から数えると20年以上もお世話になっていたこともあり、職員の皆さん15人程が玄関に集まってくださり、男性職員の方も含め皆さん泣きながら見送っていただきながら、長年父とリンゴ栽培に携わった母に相応しく、ちょうど赤く色づいたリンゴにも見送られて会場に向かいました。思えば3年前、我々家族の介護では或る意味限界を迎えていたので、入所して本当に良くしていただいたと感謝の言葉しかありませんでした。

 その13日から、喪主として今度は悲しんでばかりはいられない、まさに疾風怒涛の如き2週間が始まりました。
先ずは菩提寺(当家は浄土宗です)、そして今回の葬儀をお願いするJAの葬祭ホールに連絡し、通夜、火葬、告別式の日程が決まります。基本はお寺のスケジュールが優先され、16日ご午後に告別式、その結果の午前中の出棺火葬、そしてその前日に納棺通夜と、遡りつつ順番に決まって行きます。
マンションが狭く和室も無いことから、葬祭ホールの和室で通夜を行うこととし、コロナ禍以降様変わりとなった葬儀告別式の様式をふまえ、我が家も近親者のみでの葬儀とその前に弔問を受け付ける形で執り行うこととして、その段取りを葬祭ホールの担当者と打ち合わせ。
参列いただく近親者も出来る限り絞ることとして、例えばコロナ禍前の亡父の葬儀の時は同姓の主だった近しい家(集落の数十軒の同姓の中でも最も古いという5軒や、極端に云えば江戸時代から続く、例えば“庚申さま”のメンバーの家々など)と親戚(祖父母の親族関係まで)もかなり広く参列してもらいましたが(その後同姓の中でも幾つか葬儀があって私も参列しましたが、田舎ではみな同様でした)、今回はコロナ禍に鑑み極力絞ることとしました。
その意味では12年前の父の時とは異なり、出席者も数が読み易く、また精進落としの宴席も(コロナ禍以降、田舎では実施は2割くらいとのことから)今回は席を設けず、その代わりに懐石弁当を持ち帰ってもらうこととしたので、前回の様に席の数をどう読むか、また飲み物をどうするかも気にする必要も無く、結果料理を余らせることもないので或る意味安心です。
亡くなった13日から16日の葬儀前日の通夜までが3日間。その間で遺族の泊まり込みが出来るのは(夜間無人になるため)通夜当日の15日のみとのこと。それまでは葬祭ホールの霊安室で保管していただきます(お寺に依る枕経もそこで済ませます)。
 今回、二人目を8月に出産した次女も母の葬儀には参列したいとのこと。しかし婿殿は病院勤務故に簡単には休めないことから、娘一人での移動は無理なので、2歳の孫とまだ生後2ヶ月の孫とを迎えに、前々日家内が横浜までとんぼ返りで迎えに行きました。
通夜当日は、小さい子がいては無理なことから、私一人で泊まり込むことにしました(係員の当直は無く、翌朝のスタッフの出勤まで、夜間のホールに私一人です)。
因みに、布団を敷いた通夜の和室の部屋にはTVもちゃんとありましたし、館内にはキッチンやお風呂もあって、夜間も自由に使えます。そしてそのエリア以外は、セキュリティー上夜間はシャッターで区切られ閉鎖されています。
特養から深夜の電話があった12日も目が冴えてしまい、結局朝までそのまま起きていましたし、翌13日以降も結局余り眠れず、また朝昼殆ど食事も食べませんでした。不思議なことに、気が張っているのか夜も余り眠れず、お腹も然程空かないのです。ただそれでは体がもたないでしょうから、せめて夕食は食べ、そしてお酒の力を借りて少なくとも3時間は眠るようにしましたが・・・。
その通夜当日は、持参したタブレットでYouTubeミュージックを使い弔問中に流す曲の編集をして、それが終わってからはYouTubeで好きなクラシックのコンサートを視たりしていました。それも、なぜか聴いていたのはシベリウスの交響曲ばかり・・・(特にユッカ=ペッカ・サラステ指揮ラハティ交響楽団の、2015年シベリウス・ウィークでの5番は良かった・・・泣けました)。

 納棺通夜、翌日の出棺火葬、そして一時間弱の弔問受付の後の葬儀告式。
当日は上の子が騒いで走り回ったり下の子は泣いたりするのでは・・・と心配した孫娘たちも、皆が感心する程静か。娘たちや妹や、そして保育士の姪がさすがはプロの技?で代わる代わる交替であやしてくれるなどして、驚くことに2歳の孫娘も娘と一緒にしっかりとお焼香もしてくれて母を送ってくれました。
そして無事全てが終わり、その後マンションに戻って祭壇を作り、仏となる忌明けまでの忌中を過ごします。駆けつけてくれた長女は、仕事の都合で葬儀会場からタクシーで直接松本駅に向かい、そのまま慌ただしく東京へ戻って行きました。
翌日、家内が今度は次女と孫たちをトンボ返りで横浜まで一緒に送って行きました。そして、その翌日からは、母の状態の急変で二度三度とスケジュールを変更してもらっていたお義母さんとの温泉旅行(といっても地元茅野の蓼科温泉ですが、これが年何回かのお義母さんの唯一の楽しみ)へ二泊で出掛けて行きました。
さて、翌日からは一人で市役所と金融機関へ死亡後の必要手続きと、母名義の口座閉鎖の手続きです。母名義の不動産等は認知症が悪化する何年か前に既に妹に生前贈与を済ませており、他に資産はありませんので相続手続きも父の時に比べれば遥かに楽とはいえ、丸二日掛かって市役所(住民票、年金、保険、資産)で必要事項を済ませ、それを以って今度は金融機関での手続きを済ませました。
それから、葬儀で過分に頂いたご厚志への追加の香典返しの返礼と、お寺へのお礼と次の四十九日の忌明け法要(満中陰法要)の打ち合わせ。そして、それに伴う忌明け法要の親戚筋への案内と必要事項の手配などなど・・・、四十九日の忌明けまでは結構対応することがあります。
今回の忌明けは11月末なのですが、忘れずに年賀欠礼の喪中ハガキも作って11月中には送らないといけません。

 亡父の時と比べれば遥かに作業量も少なく、10年以上経っていても父の時に一度経験しているのである程度想定の範囲内とはいえ、家内も不在で一人での対応だったことも手伝い、結構目まぐるしい日々が過ぎて行きました。些か大袈裟に聞こえるかもしれませんが、時が待ってはくれない事柄も含め、昔、世界史で習ったドイツの文学史におけるSturm und Drang、まさに“疾風怒濤”という言葉が脳裏に浮かんで来る様な、私自身にとってはそんな二週間でありました。その嵐の様な二週間が過ぎて少し落ち着くことが出来、漸く一息ついて思わず、
 「あぁ、しんど・・・‼」