カネヤマ果樹園 雑記帳<三代目のブログ>

 長年、20年以上も認知症を患っていた母は、ここ3年弱は以前の自宅からは車でホンの数分の所に在る特養にお世話になっていたのですが、コロナ禍故にここ2年間ちょっとは館内感染防止のため面会もままならず、それが少し緩和された以降も、身内とはいえ会えるのは二三ヶ月に一度程度が前提で、一日3組。事前に予約をして、しかも玄関のガラス戸越しに10分間という状況で、家族以外は親戚といえどもなかなか会うことも叶いませんでした。
そんな状況下でも、9月末までは自分でご飯を食べ、また私が面会した折には横浜に住む叔母とも携帯で(姉妹での最後の会話になりました)話しをするなどしていた母ですが、10月に入って食が細り微熱が続くようになり、それからは毎日面会をさせていただく中で、施設のスタッフの方々と今後の介護計画は誤嚥を避けるべく完全流動食に切り替えて行くことなどを確認したのが12日。その日はそれまでの微熱も無くなって平熱に下がり、また時折苦しそうにハァハァと言っていた息も穏やかになったので、「これで少し落ち着いた感じですね」とスタッフの方々と確認し合って家に帰ったその日の深夜、連絡があって、施設の当直されていた看護師の方から「たった今、目を落とされました」とのこと。
 コロナ禍での夜間故にすぐに駆け付けることが出来ず、翌朝医師が確認する8時に来所せよとのこと。
その8時を待って駆け付けると、既に朝6時に医師が来て確認してくださった(従って、そのタイミングが正式な死亡時刻となります)とのことで、既にキレイに体も清めていただいて、そのための和室に寝かせてくださっていました。
昼過ぎに会場となる葬祭ホールが手配してくれた霊柩車で、母が3年間近くお世話になった特養から葬祭会場のホールに向かいました。
デイサービスの頃から数えると20年以上もお世話になっていたこともあり、職員の皆さん15人程が玄関に集まってくださり、男性職員の方も含め皆さん泣きながら見送っていただきながら、長年父とリンゴ栽培に携わった母に相応しく、ちょうど赤く色づいたリンゴにも見送られて会場に向かいました。思えば3年前、我々家族の介護では或る意味限界を迎えていたので、入所して本当に良くしていただいたと感謝の言葉しかありませんでした。

 その13日から、喪主として今度は悲しんでばかりはいられない、まさに疾風怒涛の如き2週間が始まりました。
先ずは菩提寺(当家は浄土宗です)、そして今回の葬儀をお願いするJAの葬祭ホールに連絡し、通夜、火葬、告別式の日程が決まります。基本はお寺のスケジュールが優先され、16日ご午後に告別式、その結果の午前中の出棺火葬、そしてその前日に納棺通夜と、遡りつつ順番に決まって行きます。
マンションが狭く和室も無いことから、葬祭ホールの和室で通夜を行うこととし、コロナ禍以降様変わりとなった葬儀告別式の様式をふまえ、我が家も近親者のみでの葬儀とその前に弔問を受け付ける形で執り行うこととして、その段取りを葬祭ホールの担当者と打ち合わせ。
参列いただく近親者も出来る限り絞ることとして、例えばコロナ禍前の亡父の葬儀の時は同姓の主だった近しい家(集落の数十軒の同姓の中でも最も古いという5軒や、極端に云えば江戸時代から続く、例えば“庚申さま”のメンバーの家々など)と親戚(祖父母の親族関係まで)もかなり広く参列してもらいましたが(その後同姓の中でも幾つか葬儀があって私も参列しましたが、田舎ではみな同様でした)、今回はコロナ禍に鑑み極力絞ることとしました。
その意味では12年前の父の時とは異なり、出席者も数が読み易く、また精進落としの宴席も(コロナ禍以降、田舎では実施は2割くらいとのことから)今回は席を設けず、その代わりに懐石弁当を持ち帰ってもらうこととしたので、前回の様に席の数をどう読むか、また飲み物をどうするかも気にする必要も無く、結果料理を余らせることもないので或る意味安心です。
亡くなった13日から16日の葬儀前日の通夜までが3日間。その間で遺族の泊まり込みが出来るのは(夜間無人になるため)通夜当日の15日のみとのこと。それまでは葬祭ホールの霊安室で保管していただきます(お寺に依る枕経もそこで済ませます)。
 今回、二人目を8月に出産した次女も母の葬儀には参列したいとのこと。しかし婿殿は病院勤務故に簡単には休めないことから、娘一人での移動は無理なので、2歳の孫とまだ生後2ヶ月の孫とを迎えに、前々日家内が横浜までとんぼ返りで迎えに行きました。
通夜当日は、小さい子がいては無理なことから、私一人で泊まり込むことにしました(係員の当直は無く、翌朝のスタッフの出勤まで、夜間のホールに私一人です)。
因みに、布団を敷いた通夜の和室の部屋にはTVもちゃんとありましたし、館内にはキッチンやお風呂もあって、夜間も自由に使えます。そしてそのエリア以外は、セキュリティー上夜間はシャッターで区切られ閉鎖されています。
特養から深夜の電話があった12日も目が冴えてしまい、結局朝までそのまま起きていましたし、翌13日以降も結局余り眠れず、また朝昼殆ど食事も食べませんでした。不思議なことに、気が張っているのか夜も余り眠れず、お腹も然程空かないのです。ただそれでは体がもたないでしょうから、せめて夕食は食べ、そしてお酒の力を借りて少なくとも3時間は眠るようにしましたが・・・。
その通夜当日は、持参したタブレットでYouTubeミュージックを使い弔問中に流す曲の編集をして、それが終わってからはYouTubeで好きなクラシックのコンサートを視たりしていました。それも、なぜか聴いていたのはシベリウスの交響曲ばかり・・・(特にユッカ=ペッカ・サラステ指揮ラハティ交響楽団の、2015年シベリウス・ウィークでの5番は良かった・・・泣けました)。

 納棺通夜、翌日の出棺火葬、そして一時間弱の弔問受付の後の葬儀告式。
当日は上の子が騒いで走り回ったり下の子は泣いたりするのでは・・・と心配した孫娘たちも、皆が感心する程静か。娘たちや妹や、そして保育士の姪がさすがはプロの技?で代わる代わる交替であやしてくれるなどして、驚くことに2歳の孫娘も娘と一緒にしっかりとお焼香もしてくれて母を送ってくれました。
そして無事全てが終わり、その後マンションに戻って祭壇を作り、仏となる忌明けまでの忌中を過ごします。駆けつけてくれた長女は、仕事の都合で葬儀会場からタクシーで直接松本駅に向かい、そのまま慌ただしく東京へ戻って行きました。
翌日、家内が今度は次女と孫たちをトンボ返りで横浜まで一緒に送って行きました。そして、その翌日からは、母の状態の急変で二度三度とスケジュールを変更してもらっていたお義母さんとの温泉旅行(といっても地元茅野の蓼科温泉ですが、これが年何回かのお義母さんの唯一の楽しみ)へ二泊で出掛けて行きました。
さて、翌日からは一人で市役所と金融機関へ死亡後の必要手続きと、母名義の口座閉鎖の手続きです。母名義の不動産等は認知症が悪化する何年か前に既に妹に生前贈与を済ませており、他に資産はありませんので相続手続きも父の時に比べれば遥かに楽とはいえ、丸二日掛かって市役所(住民票、年金、保険、資産)で必要事項を済ませ、それを以って今度は金融機関での手続きを済ませました。
それから、葬儀で過分に頂いたご厚志への追加の香典返しの返礼と、お寺へのお礼と次の四十九日の忌明け法要(満中陰法要)の打ち合わせ。そして、それに伴う忌明け法要の親戚筋への案内と必要事項の手配などなど・・・、四十九日の忌明けまでは結構対応することがあります。
今回の忌明けは11月末なのですが、忘れずに年賀欠礼の喪中ハガキも作って11月中には送らないといけません。

 亡父の時と比べれば遥かに作業量も少なく、10年以上経っていても父の時に一度経験しているのである程度想定の範囲内とはいえ、家内も不在で一人での対応だったことも手伝い、結構目まぐるしい日々が過ぎて行きました。些か大袈裟に聞こえるかもしれませんが、時が待ってはくれない事柄も含め、昔、世界史で習ったドイツの文学史におけるSturm und Drang、まさに“疾風怒濤”という言葉が脳裏に浮かんで来る様な、私自身にとってはそんな二週間でありました。その嵐の様な二週間が過ぎて少し落ち着くことが出来、漸く一息ついて思わず、
 「あぁ、しんど・・・‼」