カネヤマ果樹園 雑記帳<三代目のブログ>
本来なら京都へ行くとしたら、そのベストシーズンは秋の紅葉か春の桜か、或いは新緑の青モミジも(そして、その後で川床もイイかも)・・・と思うのですが、いずれにしてもその時期はインバウンドで大混雑して歩くのが大変そうで、歩道の往来すらままならない様な嵐山や東山の紅葉スポットなどがニュースで報道されると二の足を踏んでしまい(ましてや祇園祭で宵山なんぞは以ての外)、せいぜい行くのは年末年始の初詣も過ぎて落ち着いたであろう、一月中旬から二月に掛けての旅行的には冬の閑散期狙いだったのですが、昨年は春節の中国からの大量の団体客に恐れをなして結局行くのを諦めた京都に、娘につられて今回二年振りにやってきました。
学生時代を京都で過ごしたので、冬の京都の代表的な景観であろう、例えば雪化粧した金閣や雪で白く浮き出た大文字ばかりでなく、東山魁夷の「年暮る」の様に京町屋や街中に佇むお寺さんなどに降る雪景色を眺めているだけで古都の風情が感じられて感動するのですが、短期間の旅行ではそんな“雪の京都”にそうそう巡り合える訳ではありません。
そんな冬の京都の冬の時期の楽しみは、閑散期の集客狙いで始まったであろう「京の冬の旅」キャンペーンでしょう。
年末の12月から2月頃までの冬の時期に、毎年顔触れを変えて普段は非公開で見ることが出来ない寺社仏閣の建物や庭、また秘仏とされている様な仏さまや襖絵などが何年、或いは何十年振りかで見られるのはこの時期だけの特典です。
この「京の冬の旅」キャンペーンは、1967年(昭和42年)の1月に始まり、今年で60回目を迎えるのだとか。その60回目となる今回の「京の冬の旅」の特別企画として、1月から始まったNHKの大河ドラマ「豊臣兄弟」の放送に合わせて、今回の特別公開では北政所ねねの隠居所にもなった高台寺や秀吉を祀る豊国神社、そして徳川家康が難癖をつけ「大阪冬の陣」のきっかけとなった「国家安康」の梵鐘で知られる秀頼が再建した方広寺など、豊臣家ゆかりの寺社仏閣がその特別公開の対象となっていました。
そこで東山エリアで行き易いこともあって、今回我々が選んだのは高台寺です。豊臣秀吉の没後、正室だった北政所ねねが1603年(慶長8年)に朝廷から「高台院」の号を勅賜され、秀吉の菩提を弔うために徳川家康の支援も得て建立したのがこの高台寺。
今回の特別公開の紹介頁に依ると、『伝小堀遠州作の庭園や、「霊屋(おたまや)」(重文)の華麗な装飾の「高台寺蒔絵」など、桃山文化を伝える建築や寺宝が数多く残っています。そして今年の年夏頃には237年ぶりに客殿(小方丈)が再建される予定で工事が進んでおり、今回の「京の冬の旅」期間中、その客殿の襖絵が本堂にて先行公開されるとのこと。再建に向け日本画家の志村正画伯が描いた、桃山絵画を思わせる「春の草花図(牡丹)」や、秀吉愛用の「鳥獣文様陣羽織」(複製)、「浅井長政夫人像」掛軸などが特別展示される』とのことでした。

時間があったので、満腹の腹ごなしを兼ねて、塩小路高倉から清水寺界隈まで歩いて行くことにしました。河原町を歩いても面白くないので鴨川を渡り、高瀬川沿いの道に興味を惹かれつつも、数日後に通し矢が行われる三十三間堂を過ぎて、突き当りの東山七条から東大路通りを上がることにしました。
東山五条から五条坂を上り、途中で産寧坂(三年坂)を下ります。ここに「清水三年坂美術館」があって、幕末から明治の工芸品を展示する日本で唯一の美術館で一度見てみたいと思っているのですが、改装の期間が伸びて無期閉館中で残念ながら見ることは叶いませんでした。因みに、この三年坂美術館は京都の村田製作所創業者のご子息が収集したという、幕末から明治期の金工・七宝・蒔絵・彫刻・京薩摩を常設展示する我が国初の美術館で、今では再現不可能とされる超絶技巧の名品が展示されているのですが、何か運営面や財政面に問題があるのか、このまま閉館とならぬ様に願います。

清水さんへの参道や三年坂は、さすがに欧米人の観光客や制服を着た修学旅行生など人通りも多く混雑はしていましたが、歩けない程では無く、嵐山や金閣、伏見稲荷などのインバウンド観光の定番スポットとしては、予想したよりもずっと空いていました。
やはり中国からの団体客が減っているのでしょう。確かに貸衣装の着物を着たカップルや家族連れなどの個人客は見掛けましたが、でもいつもの声高でウルサイ程の会話が聞こえて来ず、思いの外静かな清水寺界隈でした。

受付から中に入ると、最初に在るのが茅葺きの茶室の「遺芳庵」。17世紀に京都の豪商で茶人でもあった灰屋紹益が建てたものと伝わっていて、明治期にここ高台寺へ移築されたとのこと。「吉野窓」と呼ばれる大きな丸い円窓が特徴です。




そこから竹林の中を通って下へ下って行きます。人気の嵯峨野の竹林のミニ版の様な感じですが、ご多分に漏れずこちらの通路の周辺の竹にもアルファベットの名前などがイタズラであちこちに刻まれていました。因みに、もし竹林を見るなら、嵯峨野郊外の化野念仏寺の「竹林の小径」の方がここよりも立派で人も少ないのでおススメだと思います。
その後境内を出て台所坂を下って圓徳院へ。ここは、伏見城の化粧御殿とその前庭を境内に移築して、北政所ねねが亡くなるまで過ごした場所であり、ここから高台寺へ通っていたことから、圓徳院の前にある小道は「ねねの道」と呼ばれているのだとか。
縁側に座って、ねねが毎日見ていたであろう枯山水の庭を眺めます。


戦国乱世を生きたお市の方、北政所ねね。そうした500年近くも前の歴史上の人物がこうして身近に感じられるこの京都の街にいると、何だか「京都で耳にする“この前の戦争”とは応仁の乱のこと」というのも、あながち冗談では無いのかもしれないナ・・・と疑いも無く自然に感じられたのでした。
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