カネヤマ果樹園 雑記帳<三代目のブログ>

 一年振りだった、今回の京都旅行の最終日。
この日は、次女たちからお宮参りのお祝いの返礼にいただいたカタログギフトの中で、断捨離で出来るだけ物を増やさない様にしている中高年夫婦としてはもう特に欲しいモノも無かったので、それではと選んだのが、グルメギフトの中にあった、今回の旅行先である京都の割烹の懐石コース(お祝い金からの一般的返礼として推測するに、多分一人1万5千円以下~1万円強。そして、もし運営元が20%手数料を取ると仮定すれば12000円~9000円位でしょうか)にしました。
電話で予約の際に伺うと、昼夜同じコース内容とのことだったので、どうせならと今回はお酒も飲める夜にした次第。結果としてこれが、今回の京都行でのちょっぴり豪華な、唯一夜の外食となりました。

 その店は四条烏丸からすぐ、四条通からだと高倉通か堺町通りを下がった、仏光寺通りに在る「割烹〇〇〇」という割烹です。
何でも祇園のミシュランの有名割烹で長年修業して、独立した店主のお店だとか。京都の割烹らしく店名を書いた小さな表札だけで、注意して良く見ないと気付かずに通り過ぎてしまいそうです。
京町屋を改装した店で、坪庭を眺められる店内は板の間には新春らしい松と南天、白梅の投げ入れが。暫くすると、梅を桜に変えるのだそうです。大将によると、町屋でもこの家は間口が通常より広く、1.5倍あって使い勝手が良いのだとか。奥の坪庭と入口の小上がりの板の間も風情があります。客席は敢えてカウンターの8席のみ。この日は平日だったこともあってか、夜私たちが食べている間、結局我々一組だけでした。
 この日の夜の懐石コースは、先付・吸物・造り・小鉢・焼物・焚合わせ・和え物・御飯・水物といった感じでしょうか。八寸はありませんでした。
先ずは、雲子のかぶら蒸しから。雲子とは真鱈の白子のことで、主に京都などで用いられている呼称だそうです。続いて北海道産の牡蠣のソテー。椀物の赤いのは海老餅とかで、京都の和食らしい優しいお出汁。
お造りは熟成させた(「まだ熟成が少し甘いけど・・・」とのこと)ホンマグロとヒラメ。
そして、琵琶湖産の本もろこに、滋賀名物の赤コンニャクにカズノコを添えて。
焼き物の車エビは皮を剝いたところですが、何も調理せずにただ炙っただけとのことでしたが、プリプリで甘味があって、この夜のコースの中では一番美味しかった気がしました。
続いて煮たフグ。トラフグではなく確かマフグだったような・・・。小ぶりですが、身にフグらしい弾力がありました。
次に、叩いたマグロ赤身の春巻き。調理前に「春巻きにするから」スとタッフに指示していたので、もしかするとその場で内容を変えたのかもしれませんが、余りに生臭くて正直がっかりでした。
続いて炊き合わせだったかと、最後の〆の炊き込みご飯。
1万数千円(の筈)のコースにしては、高級食材は使われておらず(最後の魚はグジだったかもしれませんが)、車エビに代表される様に出来るだけ素材の良さを活かす料理です。
コースの途中まではそれなりに良かったのですが、もしかすると残ったマグロの赤身を使ったのかと勘ぐる程、生臭かった春巻きからちょっとがっかりして気も削がれてしまいました。
何だか“田舎者”の足元を見られたような気がして(≒そんな気持ちにさせられて)、正直がっかりした京都最後の夜でした。
 それに、大将が話好きなのは良いとしても、店内はカウンター席だけで、調理場の様子はそこから丸見え、丸聞こえなので、客に聞こえぬ様に見えない裏側でならまだ良いのですが、さすがに目の前の調理場の中で下拵えなどを手伝う女性スタッフに結構キツめに命令するのが、何だかまるでジキルとハイドの二面性を見ている様で、その裏表の顔に酒も不味くなり、客としては些か興醒めしてしまいます。

 所詮我々庶民の数少ない経験からの比較でしかありませんが、4年前でしたが、伊豆高原の城ヶ崎海岸から続く段丘の別荘地の中に在る「坐漁荘」の和食処「さくら」(第1503話)の絶品だった懐石や、昔地元の方に連れて行ってもらってファンになり、それからは京都に来る度に長女が毎回必ず伺うという割烹で、どの料理も味とその手間に唸らされる東山の和食処「〇〇」のお任せコースに比べたら正直雲泥の差でした。
我々は所詮一見さんですので構いませんが、例え毎年京都に来ても、こちらに伺うことはもう二度と無いと思います。

 今回、昼間コユキにはドッグヴィラの部屋でお留守番をしてもらって、我々は観光や買い物などをしたためランチも外で食べたのですが、夜もまたコユキ独りでは可哀想なので、先述した通りに出来るだけお惣菜やお弁当を買って来て部屋食での夕飯にしました。

 一日目は岡崎から歩いて、一度来てみたかった「古川町商店街」へ総菜を買いに出かけました。ここは三条通から南北に約250mのアーケードが伸びる通りで、35店舗ほどが軒を連ねる小さな商店街ですが、最近、地元のみならず、全国から人が集まるスポットとして注目されているのだとか。
“知恩院門前町”を掲げるこの古川町商店街は、古くは安土桃山時代以前から、京の都に若狭からの水産物を運ぶルート「鯖街道」と呼ばれた若狭街道の終点として栄え、“東の錦”とも呼ばれた「京の東の台所」だったのだそうです。
ご多分に漏れず一時サビれたのを、商店街の町おこしで色とりどりのランタン(提灯)を飾り、今それが“フォトジェニック”だとして特に若い女性から人気の由・・・。
しかし、今回は行った時間が悪かったのか、或いは月曜日が定休なのか、地方都市の“シャッター通り”と大差ない程にシャッターを下ろした店が多く、残念ながらあまり活気が感じられませんでした。
そんな中で開いていた80代のご夫婦が営まれるお惣菜の「京山食品」で、お惣菜もおでんもどれも安い中で、700円位だったか日替わりのお弁当と名物のおでんを買いました。昔、女優の名取裕子さんがここでおでんを買って帰るのがロケで撮影されたそうで、その時の写真が記念に飾られていました。
因みに、総菜は化学調味料を一切使わず、おでんもお出汁が効いた“普通”の優しい味でした。
 二日目は、錦市場の「冨美家」に行ったついでに、帰りに四条の大丸地下の食料品売り場に寄って、フロアを回って、野菜サラダやつまみ用に各種総菜、そして我が家のお気に入りの551蓬莱で2種類のシュウマイとちまき三種、更には翌日の朝食用に豚まんも、そして奥さまは下賀茂茶寮のお弁当など、二日分の夕食を買って帰りました。
 三日目のランチで「出町ろろろ」に行ったついでに、今度は「出町枡形商店街」へ。
こちらは、観光客が多い錦市場とは異なり、地元の方々に密着したアーケード商店街です。“町の映画館”「出町座」や古書店など若者向けのスポットもありながら、生鮮食品店や青果店、乾物屋さんやお茶屋さん洋品店など、どちらかというと、地元の人に長く親しまれる個人商店も数多く営業している、謂わば「街の台所」。こちらは、「古川町商店街」に比べて、今でも地元の買い物客も多く随分活気がありました。
因みに、商店街の中には、かつて長年「餃子の王将」出町店の店長をされていた時、お金の無い学生にはタダで食べさせてそのお代の代わりに皿洗いをさせたという名物店長が、王将リタイア後にこの商店街で自営で餃子店を開業し、そのサービスを今でも引き継いでいるという、如何にも“学生の街”京都らしいお店もありました。
 そしてせっかく出町柳まで来たので、今回も「ふたば」で豆餅を買って帰りました。店頭には、この日も4重の行列です。名物の豆餅、よもぎの田舎大福、そして早くも出ていた道明寺の桜餅とゆず大福も。
いつもだと見た目の行列よりも意外と早く進むのですが、でもこの日はベテランスタッフが少なくアルバイトの子が多いのか、清算に時間が掛かっていて、前回より列の進みが随分遅い感じがしました。また物価高のためか、こちらも前回より値段が結構上がっていて、味はともかくとして、残念ながらコスパ的なお得感は少々下がった気がしましたが、ただ味はさすがに相変わらずの美味しさでした。
 四日目、実質最終日にちゃんと見つけられた「原了郭」。
我が家では専ら長野の善光寺門前の「八幡屋磯五郎」の七味が昔からの(県内スーパーではどこでも買えますので)定番だったのですが、京都好きの長女がお土産に買って来てくれた「黒七味」も気に入って、ちょうど終わってしまったので今回買って帰ることにしていました。最初から決めていた黒七味の他にも、店内で幾つかこちらの商品の白出汁に一振りして幾つか試飲をさせてもらった結果、気に入ったゆず辛と粉山椒も併せて買って帰ることにしました。
一般には、浅草の「やげん堀」、善光寺の「八幡屋礒五郎」、そして清水坂の「七味家」が三大七味唐辛子と云われているそうで、いずれも江戸時代に浅草寺、善光寺、清水寺の参道で売られていて、全国からお参りに来る参拝者の土産品として尊ばれ、やがて全国にその名が知られていきました。
そして、この三大七味程有名ではありませんが、それに続くのが「原了郭」で、その初代は赤穂浪士四十七士の一人だった原惣右衛門元辰の一子、原儀左衛門道喜という人で、のちに剃髪して名を「了郭」と名乗り、店を祇園社門前に開いたのが「原了郭」の始まりだとか。
そのおススメ「黒七味」は、原料に 唐辛子、山椒、白ごま、黒ごま、青のり、けしの実、おの実が使われていて、「黒七味」という名前の由来となっているこの店独特の濃い茶色い色合いが、 材料を乾煎りし、山椒や唐辛子の色が隠れるまで揉みこむことに因るのだそうです。そのためか、他の七味に比べ香りが強い気がします。
 その七味の前に、今回の京旅行のお土産に漬物を買うために家内と一緒に出掛けました。
京都の漬物といえば、すぐき、聖護院蕪の千枚漬け、そして産地の赤紫蘇を活かした大原のしば漬け・・・でしょうか。
ホテルの近くの岡崎に本店が在る大安の他にも、西利やしば漬けの土井といった有名店を始め、家族経営の個人商店まで京の街中にはたくさんの漬物店がある中で、ホテルのスタッフの方から薦められて行ったのが、川端二条の「加藤順漬物店」。
この店は、保存料、甘味料も加えない昔ながらの手法で作っている個人経営の小さな漬物店で、一番のお薦めはやはり千枚漬け。こちらの店では、通常のものより厚くカットされた聖護院蕪と、多めに加えた昆布でのトロミが特徴・・・とのことでした。他にも、以前近江八幡の漬物店で購入して気に入った日野菜や柚子大根など、幾つかお土産に購入しました。
  (5年前、清水の産寧坂の「西利」の店頭に積まれていた聖護院蕪です)

 そして「原了郭」の後、岡崎へ戻る途中昼食に立ち寄ったのが、川端三条、三条京阪の対面に在る昔ながらの大衆食堂「篠田屋」です。
家内は京セラ美術館のカフェでランチの食べると言っていたので、私メはこちらで戴くことにしました。学生時代4年間、しかも1年間は毎日この前を通学で歩いていたにも拘らず、今回が初めての入店です。
この「篠田屋」は1904(明治37)年創業だそうですので、ナント創業120年。100年では未だ老舗とは云われない京都ですが、食堂や洋食といった明治以降誕生した形態であれば、立派に老舗と言って良いのではないでしょうか。外観は勿論、店内も昭和レトロな雰囲気。まさに「三丁目の夕日」的な、昭和30年代にタイムスリップしたような何とも懐かしい雰囲気でした。
以前YouTubeで見て一度食べたいと思っていた、こちらの一番人気という中華そばが今回のお目当てで、大盛り(700円だったか。普通は確か600円とコスパ抜群でした)を注文。
他にも篠田屋名物という「皿盛」。これは、一見カツカレー風な見た目で、ご飯に掛けたルーがカレーうどん用の餡かけになっている、このお店独自のメニューなのだそうです。確かに面白そうですが、ここは初志貫徹です。
運ばれて来た大盛りの中華そば。その澄んだスープはごくあっさりで、和風とも言えそうな醤油味。うどんのつゆよりも多少は鶏ガラが効いてるなという感じのスープで殆ど脂分が浮いておらず、一般の鶏ガラからすれば非常にあっさりです。麺は中細ストレート麺で、昔ながらの黄色い麺。固めでしっかりしたモモ肉のチャーシュー、シナチク、刻んだ九条ネギがトッピングされています(どうやら、大盛はチャーシューも増やしてくれている様です)。
テーブルにコショウの瓶が無かったので訝しく思っていたら、最初からコショウが振り掛けられていました。
大盛りは結構麺の量が多く、優に二玉分以上はありそうです。そして“昔ながら”かもしれませんが、京都の出汁文化らしい和風とも言えそうな実にあっさりしたスープなのですが、昨今のこってり人気からすると、いくら鶏ガラ醤油好きの自分としても、あっさりし過ぎていて途中でやや飽きてしまいました。
 「うーん、でもちょっと好みじゃないなぁ・・・やっぱり、京都でのラーメンは新福菜館かなぁ・・・?」
 篠田屋のある“三条京阪”は、今は地下駅になり地上に在った駅舎は無くなってしまいましたが、私にとってはとても懐かしい場所です。
第一志望だった国立大学に落ちてから進学を決めたため、京都に下宿先を探しに行った時には既に洛中に下宿先は無く、そのため一回生の時は山科の四ノ宮に下宿をしていました(余談ですが、それも駅から下宿までは結構な距離を歩くので、大学帰りに駅近くの銭湯に入ってから下宿に帰ると、冬には髪の毛が凍ったことさえありました)。
ですので、毎日四ノ宮からチンチン電車に毛が生えた様な京津線の二両連結の京阪電車で三条京阪まで行って、少し歩いて河原町三条から広小路までは市電に乗って通学していたのに、当時地上駅の駅前にあった筈のこの篠田屋のことは全く知りませんでした。勿論入ったことも無ければ、視界の中に捉えてすらいませんでした。
学生時代から半世紀近くも経って、すっかり変わった“三条京阪”周辺の景観の中で、ここ、篠田屋だけがまるで取り残されたような・・・。その老舗の食堂の味を今回初めて味わうことが出来ました。
 「イヤハヤ、実に京都は奥が深い・・・。じゃあ今度はラーメンじゃなくて、皿盛を食べてみようかな!」
【注記】
最後の写真は、伎芸上達にご利益があるということで、祇園の芸舞妓さんからの信仰を集める祇園のシンボル「辰巳稲荷」です。ここも昔と何も変わっていない京の街の風景なのかもしれません。
余談ですが、インバウンドの観光客が全く無関心で、全く見向きもせずに通り過ぎて行くのが、彼等は歴史やエピソードではなく、飽くまでビジュアルだけに興味があるのか、ある意味面白い・・・。

 4日目の京都。翌日はチェックアウトしてからそのまま松本へ移動するので、この日が今回4泊五日の京都旅行での実質最終日です。

 冬の京都なら雪が降ってもおかしくないのに、この日は朝から生憎の雨模様。もし天気が良かったら、家内がこれまで行ったことが無いとのことで、今回の「冬の特別拝観」の一つだった門跡寺院の御室仁和寺で、有名な御室桜はさすがにこの時期は見られませんが、御所の紫宸殿を移築したという金堂(国宝)が今回特別公開されているので、久し振りに仁和寺へ行こうかと思っていたのですが、この雨降りでは奥さまから「絶対、No!」で諦め、結局この日はお互い別行動となりました。

 そこで、先ずは一緒に一旦ホテルのスタッフから薦められたお漬物屋さん、川端二条の「加藤順漬物店」に行って、娘たちやお義母さんなどへの今回の京都旅行のお土産と自家用含め買ってから、家内は一人戻って、京セラ美術館のカフェでランチも含め昼過ぎまでまったり過ごすとのこと。
片や私メは、先日八坂神社の後に見つけられなかった、四条通の祇園に在る筈の「原了郭」へ。以前長女がお土産に買って来てくれた黒七味が終わったので、この日再チャレンジして買いに行くことにしました。

 「原了郭」へは漬物屋さんの在る川端通からは祇園方面へ下がるので、せっかくですから、先日山種美術館で確認出来た東山魁夷「年暮る」に描かれた「要法寺」本堂を、途中の道すがらこの目で実際に確かめることにしました。
二条通には当初私が間違えた「妙伝寺」があるのですが、過日紹介した山種美術館「聖地巡礼展」(第1864話)の通り、妙伝寺の本堂の屋根は東西に向いているので、「年暮る」に描かれたお寺の大屋根とは向きが違います。
           (上の写真は東山二条に在る「妙伝寺」)
「要法寺」は東山三条とのことでしたので、その辺りを目指して下がって行きます。三条通に出ましたが見つけられず、細い小路を上がって行くと、それらしき屋根が見えたので、そちらを目指して歩を進めます。
 すると・・・在りました!
知恩院や南禅寺など京都の大寺院を見慣れた目からすると、要法寺の境内や本堂は決して大きなお寺さんではありませんが、もしこれが京都でなかったら十分に大きくて立派なお寺でしょう。

勿論目の前の風景は、画伯が描いた昭和40年代当時(「年暮る」発表は1968年)の京都ホテルの上階か或いは屋上から見た角度ではなく、半世紀以上が経った地上から見上げた景観になります。
でも境内で一番立派なその本堂は確かに南北に大屋根が向いていて、この要法寺本堂が間違い無く東山魁夷の「年暮る」の中に描かれたお寺の大屋根であることが認識出来ました。
因みに、この要法寺も妙伝寺もどちらも日蓮宗(要法寺は日蓮宗から分かれた日蓮本宗)のお寺さんでした。

  
 お目当ての黒七味等を買った、祇園「原了郭」からの帰り道。
先日、四条大橋から見た鴨川が思いの外濁っていたのが気になっていて、
  「上流では、こんなに水が濁る程の雨でも、どこか極地的に降ったのだろうか?」
と、その時に訝しく思ったのですが、昨日蘆山寺からの帰りに川端付近での鴨川への疎水合流口で見ると、上流の鴨川は濁っておらず、いつもの鴨川の透き通った流れで、疎水から流れ込む水が白っぽく濁っていたのです。
この時期、蹴上付近から学生時代合唱団の定演などで何度も歌った懐かしの 旧京都会館、現在のロームシアターを囲んで流れる疎水では、溜まった大量の土砂を取り除くために疎水の中に何台もの重機が入って浚渫工事をしていたのですが、四条大橋で見た鴨川が濁っていたのは、その浚渫工事で濁った水が川端二条辺りで鴨川に流れ込んでいるためだったのでした。
  「ナルホド!もしかするとこれも或る意味、閑散期の冬の京都でしか見られない光景なのかもしれないな!・・・」
と歩きながら独りごちて、家内と合流すべく京セラ美術館へ向かいました。

 今回の京都で、観光目的で唯一拝観したのが「蘆山寺」でした。
閑散期となる冬の観光キャンペーン「京の冬の旅」の特別公開文化財の中の一つです。

 当初は前話の「出町ろろろ」に行く前に参拝するつもりだったのですが、予約時間までに参拝し終わるか不安だったので、蘆山寺へは食後に行くことにして、先に梨木神社に寄ってみることにしました。
梨木神社は明治の英傑三条実美等を祀った、古都では新しい神社ですが、境内に京都三名水という“染井の井戸”があり、また“萩の寺”でも知られます。その名水の井戸には、地元の方々が次々に水を汲みに来られていました。また境内のたくさんの萩は、秋の花の季節が終わった後、殆どは株毎刈り取られていて、来る春に向けて養生している様でした。

         (写真は梨木神社境内の「染井の井戸」です)
梨木神社に参拝し、まだ予約までには少し時間があったのでその後御苑へ。
観光シーズンで無いためか、嘘のように静か。春と秋に公開される京都御所は何度か見ていますが今は視ることはできません。ただ、申し込みをすれば拝観可能という仙洞御所に数人いたくらいで、あとは散歩を楽しむワンコ連れか、通勤通学で御苑の中を通行させてもらう地元の方々が散見されます。
中立売方面に行けば、「蛤御門」があり、御所の北側には「令泉家」など、千年の都にはそれこそ歴史上の名所がごろごろしています。
御所の周りの旧宮家など公家の舘が立ち並んでいたところは、今は松の木を始め木々が植わっていて、林を形作っていて広大な公園になっています。林の中にはサザンカの大木がちょうど満開でした。
 昼食後、今出川から寺町を下がって蘆山寺へ。
学生時代に大学がすぐ近くだったので、空き時間に一度拝観したことはあるのですが、その時は他に拝観者は誰もいなかった様に思います。
今回ちょうどNHKの紫式部を取り上げた大河ドラマの影響か、結構混んでいました。ただ、この場所に紫式部の邸宅があった場所と推定されているだけで、実際の蘆山寺は天台宗のお寺で、平安時代を生きた彼女とは無関係なのですが、住吉派の絵師による源氏物語「若紫」や「絵合」の図、また「源氏絵屏風」などといった源氏物語関係の絵画や資料を観光用に展示し、また平安時代を模して白砂と苔と桔梗を配した「源氏庭」など盛んに紫式部との繋がりをPRしていて、10人程拝観者が集まると部屋毎に説明をしてくれていました。
そうした中で、むしろ「紫式部」よりも個人的に興味深かったのは、今回の特別公開の元三大師堂に安置されたご本尊の阿弥陀三尊座像(重文)と鬼のような形相の「鬼大師像」、そして天台宗絡みとかで明智光秀が戦の陣地へも守り本尊として持って行ったという、念持仏の地蔵菩薩がとりわけ印象的でした。
これは織田信長が天台宗の総本山である比叡山延暦寺を焼き討ちにした際、明智光秀の進言により、同じ宗派の蘆山寺(当時は別の場所に在った由)が被害を免れたため、その縁で光秀の没後に当寺へ納められたのだそうです。
その光秀の念持仏は信心深く崇められたのか、顔が撫でられて彫が浅くなっていて、何となく非業の最後を遂げた持ち主の“もののあわれ”を感じ、今回特別拝観で見ることが出来て大変感慨深く感じました。

秋には紅葉と共に、桔梗の花が彩るという源氏庭。蘆山寺のパンフレットにはこう記されていました。
『源氏庭は平安朝の庭園の「感」を表現したものであり、白砂と苔の庭です。源氏物語に出てくる朝顔の花は今の桔梗のことであり、紫式部に因み、紫の桔梗が6月末から9月初め頃まで静かに花開きます。』・・・と。
その桔梗は土岐一族の家紋であり、その「桔梗紋」の中でも「水色桔梗紋」を家紋とする一族の明智家にこそ、むしろこの庭の桔梗は相応しい・・・。そう感じたのは果たして私だけでしょうか。
 そして、帰り道の京の街中で見掛けたヒイラギの花。
とげ状の鋸葉を持つヒイラギは古来悪魔除けの木として知られますが、ヒイラギの花はそんなイメージからは程遠い、華凛な白く小さな花を冬に咲かせます。人知れず、奥ゆかしくひっそりと冬に咲くその花は、何だか古都の小路にこそ相応しい・・・。
たった今、光秀の念持仏を拝んで来たせいでしょうか・・・、そんな気がしてなりませんでした。

 今回の京都旅行はノンビリ旅でガツガツと観光地巡りをする予定も無く、またコユキが一緒なので彼女独りにしては可哀想ですから、夜はなるべくホテルでコユキと一緒に過ごすために、お惣菜やお弁当を買って来て夕食にしました(ナナがいれば、二匹仲良く一緒にお留守番出来るのですが・・・)。
そのため、先ずは久しぶりの駅弁を新幹線の中で食べた(列車旅はイイですね、ビールも飲めるし!)のを手始めに、ランチを外で食べることにしました。
その内、一度は私メのリクエストで前話の「冨美家」へ。そして、二度目は家内の希望で、私メがグルメガイドから推薦したリストの中から彼女が選んだ「出町ろろろ」というおばんざい弁当の店でした。そして、三度目は各々別々に食べることになりました。

 さて、その「出町ろろろ」です。
念のため前日電話をしてみると、希望した12時は既に一杯とのことで、11時半なら可の由。そこで少し早いのですが空いていた11時半にお願いして、当日はちょっと早めに岡崎から歩いて向かいました。
“町ぶら”を兼ねて、二条通で鴨川を渡り河原町を上がって行きます。
丸太町から荒神口を越えて、広小路から寺町通を上がって最初に梨木神社へ立ち寄り、本当は次に蘆山寺を拝観してから向かおうかと思ったのですが、拝観時間が読めないので蘆山寺は食べた後にまた来ることにして、その後少し戻って御苑内を歩いて今出川へ。
河原町今出川の二筋手前から上がれば目指す「出町ろろろ」の筈ですが、まだ時間があったので、出町柳まで行って「出町枡形商店街」を歩いてみることにしました。
京都や東京にはこうした地元に密着した商店街がまだ残っていますが、松本はアーケード街だった「六九商店街」もアーケードが取り払われ、今やシャッター通りですし、「伊勢町商店街」再開発で道が広くなったのは良いとして、江戸時代から続く「高見書店」や「レコードのナカガワ」など高校時代や独身時代頻繁に訪れていた往時の商店街の面影はなく、また街の核だった「松本パルコ」も残念ながら撤退が決まっています。

 「出町枡形商店街」は観光地化した「錦市場」に比べると、本当に地元密着。用品店や八百屋さんに交じって、“学生の街”京都らしく(立命館の広小路学舎は無くなりましたが、まだ同志社がこの地で頑張っていますし、少し歩けば京大もあります)、お金が無ければ皿洗いで食べた分の弁済OKという昔ながらの餃子屋さんや、古書店、そして古い町の映画館などなどなど・・・。
 そんな出町商店街の映画館の角を下ると、すぐにお目当ての小さなおばんざい屋さん「出町ろろろ」があり、10分前に到着すると先客が観光で来られた女性客がお一人。その後、11時半の開店時間には10人弱が並び、開店と同時にカウンター3席を残して全て埋まりました。どうやら全席予約済みの様です。店内はコの字型のカウンターが7席、テーブル席が6席でしょうか、小さなお店で、厨房は見えませんがどうやらご夫婦お二人で切り盛りされている様です。






昼のメニューはおばんざい弁当(税込1400円)と事前予約が必要なおばんざいのミニ懐石(同2400円)の二つのみ。
我々はおばんざい弁当。生ビールもお願いしました。京都らしいお番茶(炒り茶)が美味しいです。
盛り付け担当のご主人がせわしなく動かれ、10人分程の弁当も懐石も同じ一段目のおばんざいのを次々とお膳に盛り付けをされています。
 一段目は四角のお膳に形の異なる八つの小鉢が並べられ、それぞれ味付けの異なる全て大原産という京野菜のおばんざいで、少し時間をおいて出されたお弁当の二段目は、土鍋ご飯とお味噌汁の他に、季節のかき揚げと出汁巻とろろあんかけ。
おばんざいは一鉢の量が少なく、また値段故に高級食材でもなく、大原の無農薬野菜ばかりだそうですが、出汁を含めて調理と味付けが実に色々工夫されているのが一品毎に実感出来ます。
例えばこの日の献立の解説にある①の畑菜は削り節粉を使ったお浸しですし、⑥の水菜の七味絹掛けは潰した豆腐に七味の隠し味が効いていますし、⑦のゴマ豆腐の磯辺揚げも食べてビックリ。そして個人的に一番美味しくてお代わりしたかったのは、最後⑧の九条ネギの煮干し煮でした。まさに、「美味しゅうございました!」と言うのがピッタリな感じで、実にお見事でした!
 そして、二段目の冬のかき揚げはホタテが使われていてこれもまた美味。また出汁巻き玉子も上に薄めの餡が掛けられ、更に載せられたそぼろ昆布もアクセントを効かせていて、これだけで何杯もご飯が食べられそうです。
そのご飯も土鍋で炊かれ、勿論女性の皆さんも含めて皆さんがお代わりをされていましたが、おこげも必ず装られていて、ご飯茶碗に盛られた量は少ないのですが、ご飯のお米が粒立ちしていて自然と少しずつじっくりと噛みしめる様に食べるので、口の中で教科書通りにでんぷんがブドウ糖に変化してとても甘く感じて美味しかったです。
 「あぁ、これなら1400円はむしろ安いくらいで、実にコスパがイイ!」
というのがまさに実感でした。
家内も大いに満足のご様子で、良かった、良かった!
 因みに、最後まで店名の由来は分かりませんでしたが、「ろろろ」は席数が少ないので、満席になってからも評判を知った方が、海外からの観光客も含め、次々と来店されるのですが、昼は一巡だけで終わりなのか、全員断られていました。
また、こちらのお店の支払いは現金清算のみ。京都にはそんな個人商店が多いので、注意が必要です。

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