カネヤマ果樹園 雑記帳<三代目のブログ>

 5月17日の夕刻。松本市民にとって思いもかけない嬉しい知らせが、しかも全国ニュースで飛び込んできました。

既に皆さんご存知の通りの「旧開智学校の国宝指定」(文化庁審議会答申)です。
世界遺産などと違い、事前登録などの報道が無く、全く突然の発表でしたので驚きも尚更でした。明治以降の近代建築としては、迎賓館赤坂離宮、富岡製紙場に次いで三番目。教科書にも日本で最初の学校として掲載されているので、代表的な存在とは云え、学校建築としては全国初の国宝指定だそうです。「擬洋風」と呼ばれる和洋折衷の建築様式が明治初期の代表的な木造建築でもあり、当時としては生徒数100人、先生も30人を超えて、全国的にも大規模校だったそうです。また生徒の作文なども含めて、当時の教育資料が保存されていることも評価されたとか。因みに、学校は今の場所ではなく町の中心部の女鳥羽川沿いに在って、その場所にはひっそりと石碑が立っています。
 翌18日の地元紙に依れば、さっそく市役所に祝賀の懸垂幕が張られたそうですので、関係先には内々の連絡が事前にあったのかもしれません。
たまたま、その日大名町のお店に行く用事があったので、10時の開店時間に合わせて、早朝ウォーキングを兼ねて奥様と一緒に、中央図書館、開智学校、松本城公園を通って歩いて行くことにしました。
すると、旧開智学校の入り口には「祝国宝指定の」立て看板が置かれていて、いつもの倍以上の見学客の方々がいて、何となく祝賀ムードで華やいだ雰囲気に包まれていました。私自身は今までお客さんを案内して多分3度ほど見学していると思いますので、今回入館はせず。
それにしても、僅か500m足らずの距離で、松本城と旧開智学校の二つの建造物が国宝指定になるなど、京都や奈良でもないのに或る意味凄いことだと思わざるを得ませんでした。謂わば、松本の“二枚看板”です。
しかも、そのお城は廃城の危機を、開智学校は明治になって未来への財産としての子供達の教育投資へと、双方とも中心となったのが行政や公的権力ではなく、市井の人たちの努力や寄付(建築資金の7割)によって守られ或いは造られたことが、地元に暮らす我々にとっての最大の宝物なのだろうと思います。
しかも、1973年まで信州大学(当時は文理学部)の校舎として実際に使用されて現在重要文化財に指定されている「あがたの森公園」の旧制松本高校校舎も然りなのですが、旧開智学校も1961年に重要文化財に指定された後も1963年まで現役の小学校の校舎として実際に使われてきたというのも凄いことだと思います。
 因みに開智学校の南に隣接して建つ現在の開智小学校。謂わば新旧の“開智学校”ですが、私立ではない市立の小学校にしては珍しく、旧開智学校の八角の塔に似た尖塔の様な部分が目を引きます。観光コースが、お城からは必ずこの開智小の横を通って旧開智学校へ向かうので、開智学校のイメージを損なわないように配慮されたデザインなのでしょうか。
この二つの“開智学校”の間に在る小学校の校庭では、子供たちが国宝指定など我関せずと歓声を上げて元気に遊んでいるのが如何にも学校らしく、まるで“旧”開智学校が今でも現役の様で何とも微笑ましく感じられました。「重要文化財の校舎で勉強した」という今60歳くらいのOBに対し、今度はこの子供たちは“国宝”の横で走ったりボールを蹴ったりしたことが、将来大人になってからプチ自慢の思い出になることでしょう。

 令和最初の国宝指定となる旧開智学校。地元にとって嬉しいニュースでした。因みに、“国宝指定”効果で拝観者がこれまでの倍になっているそうです。