カネヤマ果樹園 雑記帳<三代目のブログ>

 6月5日の土曜日に、四柱神社で「人形供養祭」が行われました。
雛人形や五月人形などを処分するための合同供養祭で、何とか供養して処分したいという声に応え何と32年前に始まったそうで、今年が第32回とのこと。この人形供養祭は、江戸時代から今に続く“人形町”と呼ばれる高砂通り(注)に人形店を構える各店舗が協力し、実行委員会を作って合同で開催しているもの。しかし、そうしたニーズが無ければ、この催しに全く興味関心を寄せることも無いでしょう。
 昨年の秋、終活に向けた断捨離として、母屋の片付けをした際、処分に困ったのが家内の実家(節句人形は母方の実家が贈る習わしです)からの七段飾りを含め、親戚(ケース入りの人形を贈る)などから初節句にいただいた娘たちの雛人形でした。ガラスケースなどを除き、人形だけでも大きな段ボール3箱に一杯になりました。人形には魂が宿るとも云いますので、まさかクリーンセンター(ゴミ焼却場)へ持ち込むわけにもいかず(気にせずに可燃ゴミで出せばそれまでですが)、年に一度6月初旬に行われるこの供養祭を待ち望んでいました。
 例えば県外では千葉県の勝浦が有名ですが、県内でも須坂や妻籠などで不要になって寄贈された雛人形をたくさん部屋一杯に飾って(因みに須坂は30段に千体とのこと)観光的に雛祭りを開催している地区もあるのですが、ネットで調べてみると既に十分集まったためどこも寄贈は受け付けていないとのこと。本来はそうして第二の人生として、他の人たちの目を楽しませてもらえれば人形たちも本望なのですが、残念ながらそうしたニーズも見つからず・・・。
しかし子供の成長を祝って贈られた雛人形ですので、また母から子や孫へならば兎も角、赤の他人の雛人形を(お下がりとして)譲り受けるという風習はありません。
そこで調べてみると、葬儀場などで不定期開催される不要になった人形の供養祭もある様ですが、定期的に供養を行っているのは事業として供養を代行する県外の民間業者やお寺などで、掛かる料金(結構な金額です)は兎も角として、県外ではその供養に立ち会うことが出来ないので、これまでのお礼を込めてお参りすることが出来ません。そのため松本市内人形町の人形店合同で行われる四柱神社での供養祭が地元で行われる唯一の機会で、(売りっ放しではなく、販売した側の責任として?もしも各人形店共同で実施頂いているのであれば尚更ですが)本当に有難い限りなのです。
従って、この機会を逃してはならじと、段ボール3箱を車に積んで対岸の女鳥羽川沿いの翁堂横の私営の駐車場に車を停めて、受付開始の10時に家内と二人で直接持ち込みました(もし当日都合が悪ければ、当番の人形店で事前受付も可能)。
受付には、箱に入れたり大きな袋に入れたりと、同じ目的の方々が次々に訪れて来ます。受付を済ませ、決して強制ではないのですが、供養いただく側の気持ちとして封筒に寸志を入れてお渡しをして手続きは終了。供養祭まで小一時間あったので、せっかくですので、いつものウォーキングではありませんが四柱と天神さんに参拝し、更に余った時間でお城まで散策に歩くことにしました。

 四柱から天神とお参りを済ませ、松本城へ。前日降った雨で埃が流されたのか空気が澄んでいて、曇り空ではありましたが、北アルプスの峰々が遠く白馬までクッキリと見渡すことが出来ました。こういう山を見るだけで人間(松本市民は?)幸せになります。
 四柱神社に戻り供養祭に参列。境内の焼納殿に祭壇が設けられ、この日受け付けられたたくさんの人形が並べられ、四柱神社の権禰宜お二人によりご祈祷や代表の方々による玉串奉てんなどの神事が行なわれた後、最後に焼納殿の釜に火が入れられ、この日受け付けられた人形のお焚き上げが行われました。
会場には我々も含め50~60人くらいでしょうか、市内は元より松本平各地から来られたであろう方々が祭壇前に集まり神事に参加されました。翌日の地元紙の報道に依れば、集まった人形は全部で1800体だったとのこと。例年の倍近く集まった昨年の第31回を更に300体程上回ったのだそうです。多分に、我々同様に昨年来のコロナ禍での断捨離や片付けで、例年になく寄託される人形も増えたのでしょう。お陰さまで、誕生以来これまで子供たちの成長を見守ってくれた雛人形に感謝しながら、その役目を終えられて空に帰っていただくまで見届けることが出来て、漸く肩に荷が下りてホッとした瞬間でした。こうした人形供養をしていただいた人形店の方々に本当に感謝です。
 因みに、家族と一緒に海を渡ってシンガポールまで行ってもらった男雛女雛のお内裏様の木目込み人形のお雛様は、この日ご供養させていただいた全ての雛人形の代表として残してあり、今後も我が家の娘たちをずっと見守っていただく予定です。
【注記】
松本駅からあがたの森に続く駅前通りの一本北側の小路で、本町から源智の井戸、瑞松寺に至る高砂通り。戦災に合わなかった城下町故の狭い通りで、中町同様に西から東への一方通行。江戸時代の頃は「生安寺小路」と呼ばれていたのが、人形店などが多く軒を連ねていることから、目出度い“高砂”を付けた名前で呼ばれる様になったとか。
松本は江戸時代の藩主が奨励したこともあって、武家の子女が内職で作った押絵雛が特産として松本土産に使われていたこともあり、今でも人形店が多く、この人形町通りに昔からの老舗が何軒も店を構えている。

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