カネヤマ果樹園 雑記帳<三代目のブログ>

 日経新聞日曜日の文化蘭には、作家や文筆家の方のエッセイが毎週掲載されています。
この9月16日は、脚本化でもある作家の早坂暁氏(「夢千代日記」他)。
「生きたくば蝉のように哭け・・・」と題された表題に「一体、どういう意味?」と惹かれて読むと、これが出色、まさに珠玉のエッセイでした。

 「いきなりの話だが、切腹(ハラキリ)は、日本独自の自決法である。」で始まり、エピソードを交え、氏のかねてよりの疑問として、「自決の方法としてはまことに死ににくい方法をとっているという点だ。たとえば、心臓一突きのほうが、早くて潔いではないか。」と指摘(確かに、映画やドラマで見ると、例えば戊辰戦争の会津藩で銃後を守り懐剣で自害する武家の婦女子は喉や心臓だった筈です)。
「しかし、一人の海軍中将が、私のモヤモヤとした疑問を一掃してくれた。」として、「特攻の生みの親」として知られる航空司令長官大西瀧治郎中将の自決(注記)を紹介しています。
大西中将は、その特攻作戦を自ら「統率の外道」とし、送り出した2500人を超える若者やその遺族への謝罪として、敗戦の日に司令室で割腹自決し、駆けつけた部下に対し、「介錯はするな、不要だ。まして医者など呼ぶな。」
「オレは出来るだけ苦しんで死にたいんだ。外道の統率者として長く苦しんで死にたい。」
「夜半に割腹し、絶命したのは明け方。8時間あまりも苦しんで、死んだ。」と紹介しています。

 知りませんでしたが、早坂氏は、大西中将から38年後の最後の海軍兵学校第78期生で、「海軍の司令官が責任をとるとは、こういうことだと、(大西中将の)ハラキリで教えてもらったと思っている。」と記しています。

 そして本題。氏の二つ目の疑問。「割腹の真の意味を教えられた私は、彼が命名した神風特攻隊の意味を、ずっと考えてきた。あの、“神風”という言葉はどこから来たものなのか。」(注記:記載の都合上、元のカギ括弧からダブルコーテーションへ変更)

 「最後には神風が吹く」と信じていた、終戦時海軍兵学校で15歳だった早坂少年が、その“究極の迷信と信仰”をこっぱ微塵にくだかれたのが、終戦で故郷松山に戻る途中で見た広島に落とされた「核爆弾」の惨状だったそうです。
たどりついた松山の家では、蝉しぐれの中、戦災をまぬがれた町の人たちが句会をひらいていて、「さ、あんたも(詠みなさい)」と促されて氏が詠んだ一句が、表題の、
 『生きたくば 蝉のように哭け 八月は』

 昭和20年8月中旬、15歳の夏。涙が浮かぶのを禁じえませんでした。

 氏は最後にこう結んでいます。
「(神風を生んだ元寇は)真の国難だったのか。調べるほどに日米開戦のシステムが600年前の鎌倉時代と酷似していることに驚くしかない。日本はなにも変わっていなかった・・・。だから大西中将は神風という名を冠したのである。いま、私は、あの国難は、いわば自作自演の国難ではなかったか、とさえ考えているのだ。」

 悩み、葛藤の後、受け入れざるを得なかったにせよ、その判断の責任を取るとはどういうことなのか。それが、国のリーダーにせよ、小さな組織の長にせよ。早坂氏の疑問とそれへのアプローチとは別に、考えさせられたエッセイでした。
(最後に大西中将の遺書を最後に載せておきます。責任を取るということ、国を、そして人類を愛するということ、未来を若者に託すということ。決して特攻や戦争賛美ではなく、ましてや右でも左でもなく・・・)
【注記】
大西中将の遺書(もう一通、別居中だった奥様宛の遺書もあったとのこと)
 『特攻隊の英霊に申す 善く戦いたり 深謝す
 (中略)
 吾死を以って旧部下の英霊と其の遺族に謝せんとす

 次に一般青壮年に告ぐ
 (中略)
 諸氏は国の宝なり 平時に処し猶お克く
 特攻精神を堅持し 日本民族の福祉と
 世界人類の和平の為 最善を尽せよ』

 暑さ寒さも彼岸まで。猛暑で少雨だった今年の夏も、さすがにお彼岸を過ぎると急に涼しくなりました。
そして我が家のお墓参りも、今年は22日だった秋分の日に無事終了。

 お彼岸と言えば、最近、父の名代で親戚などの法事に出席することが多くなりました。
子供の頃は、お葬式や法事などで聞くお坊さんのお経は退屈で、イヤで、イヤで堪りませんでした。因みに我が家は「南無阿弥陀仏」の浄土宗で、総本山は京都智恩院。お盆やお彼岸など、祖母が私を隣に座らせて一緒に仏壇に向かって「ナンマイダブ」と言わされたものです。

 ところが、学生時代合唱をやってからは、不謹慎といえばそれまでですが、お経を音として捉えると、これがなかなか味わい深く感ずるようになりました。すると、歌詞としての経文そのものにも興味が出てくるから不思議です。

 良く聞くと、お経も決して棒読みではなく強弱と抑揚があり、お葬式などでの“三仏”などで6人くらいのお坊さんがお経を詠む時など、合唱で言えば斉唱であるにも拘らず、高い低いという声質によりオクターブずれていたりして、倍音のような効果を生む時があります。これが男声合唱のようでなかなか味わい深いのです。もし尼さんがその中におられると、2オクターブの効果が生まれることになります。

 シンガポール赴任時代に、近くて手軽で、また人工的なシンガポールには無い歴史文化に触れ、そして山と水田が見たくて(日本人て、田んぼを見ると不思議と落ち着くんですね、これが)家族旅行で5回ほど行った“神々の島”バリ。片や独特のバリ・ヒンドゥーではありますが、そのケチャにも通ずるものがあります。数十人で行うケチャは、地声での荘厳な男声合唱の様にも聴こえます(その昔一世を風靡した「芸能山城組」のような)。

 もし、法事などの際に、退屈で「早く終わらないかなぁ・・・」と思われたら、耳を澄ませて合唱音楽としてお経を聴かれてみては如何でしょうか?何か、新しい“音”の発見があるかもしれません。

 県外からのお客さまをご案内して、「さてどこへ行こうか?」
早朝から農作業を終わらせての11時からだったので、先ずは蕎麦(くらいしか信州では思いつきません)。木立と清流に囲まれた周囲の雰囲気で木曽の「時香忘」か、店から北アルプスが見渡せる池田町の「安曇野・翁」でしょうか。その後少し観光をするとして、安曇野だとワサビ田か木曽は宿場町か。
生憎その日は西山(北アルプス)が雲に隠れていたこともありますし、ワサビ田も個人的にはイマイチなので、ドライブがてら木曽路を目指すことと相成りました(松本城は既に行かれた由)。

 木曽路をゆっくり走って、開田高原入口の「時香忘」には12時半の到着。既に7台ほど駐車していましたが全て県外車。いやはや大したものです。
入店後それ程待たずに座れて、注文はいつもの粗挽きのオヤマボクチ蕎麦(もり)を大盛りで。途中、突然名前を呼ばれてビックリすると、2年前にリタイアされた会社の先輩が隣に来られて、二度ビックリ。何でもやはり県外からのお客さまを案内されて御岳に行く途中とか。いやぁ、信州も狭いですね。
 帰路、奈良井宿に立ち寄り、散策がてらの観光です。団体客や外国人の方々も含めて結構観光客の方々が来られて、そぞろ歩きを楽しんでいました。
中山道六十九次(江戸から)34番目の奈良井宿は、経済成長から取り残されたが故に、また近年町並み保存に地元の方々が努力された結果、国の重要伝統的建造物群保存地区にも指定されています。
“奈良井千軒”と呼ばれ、中山道最大の難所である鳥居峠麓の宿場町として木曽一栄えたという往時の町並みが、今でも見事に保存されています(安曇野と松本を舞台にした昨年のNHKの朝ドラ「おひさま」でも当時の安曇野として奈良井の町並みが使われました)。旅館や土産物屋さんだけではなく、御岳名産「百草丸」のお店や喫茶店なども、古い町屋がそのまま使われています。また、共同の生活用水として、山から湧き出る水を曳いて大きな木をくり抜いて溜めた「水場」が、今でも町のあちこちに置かれています。
 奈良井は、先に有名になり過ぎた同じ中山道の妻籠や馬篭ほど観光地化されておらず、今でも鄙びた風情が感じられます。都会育ちの方も「何だか懐かしさを感ずる」と仰るように、私のような田舎育ちでなくとも日本人のDNAが呼び覚まされるような、何だか不思議な感覚がする奈良井宿の町並みです。
 町並みを往復して戻る途中、先ほどの先輩が歩いて来られてまたビックリ。御岳が見えそうも無いので奈良井宿に来られたようで、「ハイ、それ正解です!」。

 夜は、家族も一緒に「食蔵バサラ」で夕食会。一日喜んでいただけたようで何よりでした。

 自宅から三才山峠を越えて、上田の塩田平までの通勤路。平地だけではなく、山の谷あい近くまで田んぼが拡がり、稲穂が夏の緑から黄色味を帯びて黄金色に染まりつつあります。まさに“みずほの国”の“実りの秋”。
あちらこちらで稲刈りが始まりました。JAの大型のコンバインで刈り取る所もあれば、自宅用なのでしょうか、はぜ架けをして天日干しをする田んぼもあり。昔ながらの、田舎の秋の風景が見られます。

 松本から三才峠を下り、鹿教湯(かけゆ)を過ぎて平井寺トンネル(荻窪地区)に行くまでの途中、内村川沿いに走る道(国道254号線)の集落一帯の通勤路沿い。実りの秋を迎えた田んぼの脇や畦に案山子(かかし)が立てられています。その数6ヶ所ほど。松本からの通勤路で、少なくともこの鹿教湯一帯以外では殆ど案山子を見掛けません。
地域によっては「案山子コンクール」を毎年開くような地区もあるという地元紙の記事を以前読んだ記憶がありますが、少なくとも我が家周辺では、子供の頃はともかく最近では殆ど案山子を見掛けたことがありません。
 ある時、通勤に余裕を持たせて、車を停めてその案山子を撮らせていただきました。どれもなかなか凝っています。ここまでくると単純な“鳥よけ”目的ではなく、むしろ芸術の域。
上田(鹿教湯)のお百姓さん達の遊び心というか心の余裕が感じられて、気忙しい朝の通勤路でも、何だかほっこり、運転するこちらもにっこりと微笑むような気分にさせてくれる、そんな“実りの秋”の田んぼの中の“芸術の秋”です。
 すると、先日「温泉郷案山子まつり」という看板が立てられていて、ナルホドと納得。
もし、鹿教湯地区を走られる時は、案山子を愛でつつ、ゆっくりのんびり走ってみては如何でしょうか。そう言えば、昔の交通安全?のキャッチフレーズにありました。“のんびり走ろう 信濃路を”

 実りの秋-独鈷山周辺の塩田平では、間もなく幾つもの松茸小屋がオープンして、マツタケの季節を迎えます。

 今年のサイトウキネンフェスティバルで、「青少年のためのオペラコンサート」と「20周年記念スペシャルコンサート」を指揮するために松本に来られた指揮者の十束尚宏さん。

 20年前のシンガポール駐在時に、赴任先の現地法人が地域貢献として地元のシンガポール交響楽団(SSO。これが侮ること無かれで、最近の卓球同様、当時から欧米や中国から受け入れた団員が殆どで、日本の中堅プロオケ並の水準でした)を初めてスポンサードし、その際SSOから日本から指揮者とソリストを呼びたいとの希望があり、当時日本の音楽事務所を通じていただいたリストの中からSSOの音楽監督が人選したのが指揮者では十束さんでした(82年の民音指揮者コンクールで、大野和士、山下一史、広上淳一の各氏を押さえての第1位)。
滞在中はSSOの女性マネージャーから頼まれて、地元紙の取材時の通訳や現地アテンド等のお世話させていただきました(その役得で、ゲネプロなどのリハーサルも見させていただけました)。接しさせていただいて、その誠実で謙虚過ぎる程の人柄と音楽への真摯な情熱に魅了され、以来十束さんの(隠れ)ファンになりました。

 松本へ帰任後、当時はNHKの「名曲アルバム」の演奏などでも時折振られていたように記憶していますが、残念ながら信州の田舎では十束さんの生の指揮に触れる機会はなく、その後演奏会でのお名前を拝見する機会が減り心配していたのですが、ネットで調べると2002年からウィーン国立歌劇場でオペラの研鑽をされていると知り安心しました。
しかし、その後10年を過ぎ既に帰国をされている筈なのに、国内のオケの音楽監督や常任にお名前をお見掛けせず、また心配していました。

 ところが、音文に別の演奏会チケットを買いに行った時に、今年のサイトウキネンのポスターに偶然十束さんのお名前を拝見し、生来のヘソマガリでSKOばかりを有難がる地元のミーハー的風潮に敢えて反発し(SKO以外の日本のオケも聴きましょう!友好都市の縁で毎年音文に来演してくれていたOEKなんて最高です)普段はSKFには行かないのですが、今回ばかりは喜び勇んでチケットを購入した次第。
そして、念願叶って20年振りに松本で十束さんに再会することが出来ました。
      
 当日は、今回の青少年のためのオペラコンサート(一般客は入場不可。県下の中学一年生が対象で、二日間で4公演とのこと。今の子供たちは幸せです)でフンパーディンク作曲の「ヘンゼルとグレーテル」を指揮されたことから、そのオケである小澤音楽塾オーケストラと序曲を演奏されました。
今回ばかりは響きよりも指揮振りが良く見えるようにと、前から3列目で第一バイオリン側の指揮台すぐ横の席を確保。
若い音楽家の皆さんで構成する小澤音楽塾オーケストラの、響きも正に若々しい演奏と、残念ながらたった1曲ではありましたが、指揮台に上がった十束さんの普段の謙虚な人柄とはまるで別人のような情熱的な指揮振りを拝見し、20年前のシンガポールでの演奏会で、ブラボー!の声が幾つも掛かったローゼン・カバリエ(組曲)での若々しい指揮振りを思い出しました。
「いやぁ、良かった!懐かしかった!」
隠れファンとしては涙が出るほど感動し、また安心をしました。

 特別演奏会の他の曲では、初めて生で聴いたプロコフィエフの第1番の古典交響曲(ルドウィック・モルロー指揮。やっぱりSKOは上手いですね)とスズキ・メソードの子供たちが良かった。
合同演奏(群奏とか)とはいえ、下は小学2年生からの30人ほどの子供たちが、一糸乱れずにメンデルスゾーンのバイオリンコンチェルト(終楽章から)の独奏パートを見事に弾くのですから大したもの。因みに当日演奏された三曲の最初と最後でアンサンブルを合わせたのは、江藤俊哉氏と共に初期の才能教育で育ち、その後ベルリン放送交響楽団(現ベルリンドイツSO)のコンマス等を務められ、今は才能教育研究会芸術監督という豊田耕児氏。

 さて、当日のパンフレットのプロフィール紹介によると、十束さんは現在でもウィーンでオペラの勉強を続けられておられるようですが、来年には新国立劇場でオペラ(新国立劇場委嘱作品「夜叉ヶ池」初演)も振られるとのこと。
時々は帰国されて、また情熱的な指揮振りを是非拝見したいもの。そして、十束さんご自身も桐朋出身ですので、いつかの日かSKOを振る姿を松本で見られることを信じて待っています。どうぞ、頑張ってください。

 久しく取り出して読み返してはいませんが、我がバイブル“居酒屋放浪紀”の第三巻『望郷編』に肥後熊本が登場し、同行者と昼は熊本城を見て夜は居酒屋を訪ねての旅の中で、信州松本出身の太田和彦氏が国宝松本城と信州の馬刺し(信州は赤身の桜肉です)を自慢しながら、両方とも初めて目にし、口にして押し黙り、同行者から「あっ、熊本に負けたんでしょ!」とやり込められる件(くだり)があります。

 もう30年近く前のこと、採用担当をしていて、全国の工学部の教授に会社をPRすべく、大学訪問で、それこそ全国行脚をしていた時期があります。
信州からですと移動が大変なので、一度出ると2週間近く“ドサ回り”をしていました。

 そうした中で、休日が入ったり、時間が空いたりすると、大学(工学部)所在地に運よく城跡があれば必ず訪問し、そして夜は一人居酒屋で(若手でそれ程お金も無かったので)名物をチョッピリいただくのが、その出張中の唯一の楽しみでした(そういう意味では、大学が一杯あってお城の無い首都圏は全く面白くありませんでしたが)。
そうした中で、青葉城や金沢城、松山城、姫路城(当時は姫路工大)、岡山城、小倉城(九工大)、熊本城など、短時間でしたが実際に各地のお城や城跡を見ることが出来たのが、城下町に生まれ育った“城好き”としての収穫でした。
 熊本大学に行った時は勿論熊本城を訪問し、宇土櫓を始めとするそのスケールに圧倒され、夜居酒屋で注文した霜降りの馬刺しに感動し、まさに高校の先輩でもある太田和彦氏ではありませんが、正直「負けた・・・」と、一人溜息をついてうなだれたのでした。
   
 「でも、松本城は国宝だし、日本の屋根の北アルプスがあるし、槍や穂高は阿蘇山より標高が高いしぃ、裾野の広さなら八ヶ岳だってぇ、火山なら、御岳や、ちょっと遠いけど浅間は殊に活火山・・・・」と、何だか県歌「♪信濃の国」になってきました。
肥後もっこす的には、「そんなこつ、どうでもよかっ!」と一喝されそうですが、その辺りが理屈っぽい信州人と言ってしまえばそれまでで・・・・。
はぁ~・・・。
(写真は松本城と市内の居酒屋の馬刺し。最近では信州でも桜肉の赤身だけではなく、霜降りも食べられるようになりました)
 熊本と松本山雅のアウェイでのJ2戦。山雅が3対0で圧勝。敵地でお城と馬刺しの仇を取ってくれた、などと思ったのは他には誰も居ないとは思いますが・・・(でもヤッタネ!)。そして先月のホームでの2戦目はスコアレスドローでの引き分けで、今期は松本山雅の1勝1分でした(・・・ムフ!)。

 以前も紹介させていただいた、松本駅前の蕎麦居酒屋。
信州らしいメニューが多く、中でも馬刺が逸品で、〆の蕎麦も夜営業をしない専門店に負けずに美味しかったので、中町の「井(せい)」ばかりでは芸が無いと、最近までは家族でも夜蕎麦が食べたい時は何度も使っていたのですが、少なくとも我が家では終わりになりました(・・・と、既に1年以上も行っていません。我が家の面々て、結構頑固なんです)。
と言うのも、長女が帰省して夜に「そばが食べたい」とのことで伺った時のこと。
私が車を駅裏の月決めの駐車場に停めて戻る間に、私メ用の生ビールと、一滴も飲めない家内と娘が日本茶をお願いしたところ、女将さんから「お茶ですかぁ?」と露骨にイヤな顔をして嫌味を言われたのだとか。そのため、その後の料理も、味はいつもと変わらずとも全く美味しく感じられなくて、「もう、ここへ来るのは止めようヨ!」となった次第。

 初めて来た時は、その女将さんも愛想が良くてそんなこと無かったんですが、残念だなぁ・・・。確かに私以外お酒を飲まない我が家は、居酒屋にとっては決して割りの良い客ではないとは思いますが、そうは言っても・・・。
(姉妹店が近くにあるので、今度はそちらを試してみようかな・・・)
飲み会設定のために食べログをチェックしていたら、同じ店について、やはり家族連れで入られてお茶を飲んでいたら、「そんなにたくさんお茶を飲むならチャージしますから!」としっかり請求されて(せっかく料理は美味しかったのにと)憤慨したという投稿がありましたが、やっぱり同じなんですね。その一言や態度で、どんなにお客さんを逃がしているのか。早くあの女将さんも気が付けばイイのに・・・。

 そこで思い出したのが、以前(と言っても学生時代?)読んだ本(確かFM東京の或る番組のコーナーに、リスナーから寄せられた「心に残る一言」を集めた本)に載っていた言葉です。うろ覚えですが(大体のストーリーは合っている筈)・・・、

『ご夫婦で切り盛りされている或る食堂。その日、ご主人と口喧嘩をして機嫌の悪かった女将さん。何度か食べに来たことがある工員風のお客さんが定食を食べて、帰りがけに振り向いて言った一言。
「女将さん!客は何で食べに来るか分るかい?」
「・・・・?」
「一度目は何となく。二度目は味で。そして3度目はね、その店の雰囲気が気に入って来るんだよね。オレ、今日三回目!」
そう言って、その若い客は出て行ったのだそうです。
女将さんはそれを聞いて、その日、無愛想な応対をしていたであろう自身を反省し、その後はこの若いお客さんの言ってくれた言葉を常に噛み締めて、笑顔の接客をしているのだとか。』

 そう言えば、これまた同様以前少し触れた、若いご夫婦が頑張ってやられている上土の創作和食の店。
ネットでの評判も良さそうで、もし良ければ会社の飲み会に使おうと思い、3年程前にトライアルで一度家内を誘って伺ったのですが、無口ながら丁寧に調理されていたご主人には好感を持てたものの、若い女将さんが“愛想良く”「○△はあと3つで終わりになりますが、ご注文は宜しいですかぁ?」、「△×は残り二つになりましたが、如何ですかぁ?」とその都度聞かれてくるのです。
一生懸命さは理解するものの、お客さんへの愛想や親切と言うよりも、あまりの“おためごかし”が鼻についてウンザリしてしまい、家内も「もう、ここはイイわよネ!」と相成りました次第(味付けが若者向けなのか、中年夫婦には少々濃すぎたせいもありますが)。

 うーん、客商売って難しいなぁ。“人の振り見て我が振り直せ!”ですね。

 長野県は南・北・東・中信と大きく4地域に分けられ、更に周囲を山に囲まれた各盆地毎に昔は小藩で別れていたように、地域経済的には独立しています。ただ歴史的にも、北信と東信、中信よ南信の繋がりが強く、交通網(嘗ての信越線や中央線)もまたしかり。また北信と中信は、長野と松本が県内では中核都市となるので、必然的にそれを結ぶルートも確立されてきました。
しかし、それ以外となると、関係も薄いことも手伝い、交通網などの整備も他に比べ貧弱で、例えば松本と上田など、日常的にはあまり意識にも無く、同県を意識するのは高校野球の県大会くらいと言っても過言ではないかもしれません。しかし、嘗ては信濃(科野)の国府・国分寺は上田に置かれ、その後国府は松本(筑摩=つかま)に移されますが、律令時代に整備された官道として、大和政権と東国を結ぶ東山道も松本から保福寺峠(注記)を越えて上田を経由しており、当時の大動脈は松本と上田を結んでいました。因みに、かのウエストンが、飛騨山脈を見て「日本アルプス」と名付けたのも(先に鉄道が東京から上田まで敷かれていたにせよ)保福寺峠からでした。

 現在、その東信の上田と中信の松本を結ぶ大動脈が唯一国道254号線であり、途中にあるのが有料道路の三才山トンネルです。以前は国道とは名ばかりの青木峠を通る143号線だけでしたが、道幅の狭い山道であったため、1976年(昭和51年)に254号線を延伸し、途中県の管轄する有料道路として延長2511メートルの三才山トンネルで筑摩山地の戸谷峰をぶち抜いたもの(その結果、青木峠を通る143号線は整備もされず、現存する国道最古のトンネルが残るのだとか)。
従って三才山トンネルは、片道500円と結構な通行料金ですが、他に道路が(上信越道、長野道、中央道で大回りするしか)無いことから、例えば群馬に主力工場のある富士重工の自動車は全てこの道路で松本方面へ輸送されて来るように、群馬と長野県の中部地方或いは岐阜の飛騨地方を結ぶ物流網であり、従って一般車両よりも運送車両のトラックの交通量が多いのが目立ちます。
しかし、松本方面からトンネル手前(野間沢橋付近)に標高1000mの標識があるように、トンネルは1100mの高さにあり、その前後は整備されてはいるものの、急坂・急カーブの連続で、前に荷物を積載した大型トラックがいると、時速30kmで後ろに車が数珠繋ぎになることも珍しくありません。時に追い越し禁止を無視して抜いていく不謹慎な車も無いではありませんが、中には途中引き込み線に入って後ろの車を先に行かせてくれる親切なトラックもあったりして、そんな時はハザードで感謝のサインを送って先に行かせてもらっています。そういえば、以前上諏訪駅から歩いて会社まで通勤していた時も、信号の無い横断歩道で良く停まってくれたのは、トラックを含むプロの営業車両でした。
(掲載の写真・・・三才山トンネル松本側入口、トンネル内、上田側の孫六トンネル手前にある料金所・・・は、朝の通勤路、前後に全く車がいないのを確認して、二ヶ月掛かって漸く撮影出来ましたので、念のため)
【注記】
『信濃路は 今の墾道(はりみち)刈株(かりばね)に 足踏ましむな 履(くつ)はけ我が夫(せ)』 万葉集14巻(東歌)-3399
この有名な東歌(あずまうた)は、大和政権から東国に派遣されて東山道を往く夫が、神坂(峠)・碓氷峠と並ぶ難所とされ、開墾されたばかりで木の切り株ばかりであろう保福寺峠を越えて行くのを心配して妻が詠んだ歌と云われ、その保福寺峠に万葉歌碑が建てられています。

 朝の小一時間の通勤時は、NHK-FMでのクラシック三昧です。
前回(第645話)でもご紹介したように、月曜日(前日の再放送)は「きらクラ」でのふかわりょうさんとチェリストの遠藤真理さんのクラシックにまつわる軽妙なトークを「ムム、そう来たか・・・」などと感心しながら楽しく聴かせてもらっていますが、火曜日以降は「クラシックカフェ」という番組。
これが、一般的な名曲番組にリスナーが飽きているという前提なのか、その選曲に毎回テーマの統一性(例えば、オリンピック前後はイギリス音楽とか、中南米の作曲家、あるいはスペイン音楽など)は伺えるものの、如何にも昔のNHKのアナウンサー的な無味乾燥な曲紹介だけで、薀蓄も無く、時々「あっ、こんな曲もあるのか」と思うくらいで正直全く面白くない日々。やはり、名曲と言われ世に知れ渡った曲にはそれなりに理由があるものだと、放送を聴きながら逆説的に納得させられています。

 ところがお盆明けだったでしょうか。その週は夏休みの?特別番組とのことで、4回連続での「グレン・グールド変奏曲」(没後30周年?)と題しての特集でした。
昔の記憶で“奇人変人”というイメージでしたので、当時LPレコードも買ったことは無く(自分でピアノも弾かないのでオケ中心の収集で、唯一ルビンシュタインのショパンのノクターンの全曲集のみ)、あまり期待もせず流していたところ、特にバッハの「イタリア協奏曲」の演奏(放送は第一楽章のみ)を聴きビックリ。ナント軽やかで瑞々しいバッハなのでしょうか!一瞬にして虜になって、(運転しながらも)聴き惚れてしまいました。
 しかも、音楽評論家の方(失礼ながらお名前存じ上げず)の、彼に関するエピソード紹介をふまえ、ピアニストの仲道郁代さんのプロならではの「ここは、こうしないと、こうは弾けない筈ですね」という見事な解析と、彼の音と演奏からその心情までも読み解く感性に、些か大袈裟に言わせて頂ければ、状況証拠を説明する警察(音楽評論家)に現場に行かずに謎を解く名探偵(Armchair Detective)を見るようで、「なるほどなぁ・・・!」と唸りながらの運転でした。(時折、若き日のグールドの写真に「ナンテ美男子なんでしょう!」という仲道さんらしいミーハー的発言と、自身ミュンヘン?留学時代に、夜一人彼のブラームス?の小品集(間奏曲?)のCDに心癒されたというエピソードなども交えられて・・・)

 ただ2時間の番組は小一時間の通勤では全て聴けず、しかも峠の山道で受信状態も悪く、途中2.5kmの三才山トンネルを始め計4キロ超の4本のトンネルがあるため、途切れ途切れの視聴。ある時は、平井寺トンネルを抜けた途端、英語で「私はグールド氏と曲の解釈・テンポで一致をしている訳ではないが、彼との演奏は常に冒険的で必ず新しい発見がある(から演奏する)」という趣旨のスピーチが流れていました。
「ナンジャ、こりゃ?」
そして、今まで聴いたことの無いような重々しいスローテンポで、ブラームスのピアノ協奏曲第一番の第一楽章のオケの前奏が始まりました。
そこから会社までは僅か10分足らず。誰の指揮かも分からず、スピーチの趣旨(インタビューなのか?であれば何故わざわざ英語で肉声を流すのか)も分からないままに会社に到着。どうしても気になって仕方がないので、NHK-FMのH/Pを検索し、それが、バーンスタインがNYフィルとのブラームスの第一番のピアノコンチェルトを、グールドをソリストに迎えて演奏した演奏会でのライブ録音だと知りました。
31歳で演奏会から引退しスタジオ録音のみに専念したというグールドが、天下のバーンスタインが演奏開始前にわざわざ聴衆に向かって語ったスピーチまで入ったこんなライブ録音を残していたなんて・・・凄いですね。まさにグールドワールド!でしょうか。きっと、登場を舞台袖で待ちながら、彼はクスクス楽しそうに笑ってそのスピーチを聞いていたんでしょうね。

 殆ど“食わず嫌い”状態だったための新鮮さは勿論ありますが、例えプログラムの半分ではあっても、グレン・グールドの演奏をまとまって聴けたこととプロの演奏家による分析の面白さに、本当に楽しめた4日間の放送でした。

 長女たちの軽井沢での披露宴(第631話)は近しい友人だけだったので、二人の会社関係などの先輩や同僚などの皆さんとは、別途東京で二次会として実施されました。

 二人の親友の幹事の方々が、皆さん仕事でお忙しいにも拘わらず、趣向を凝らして準備をしてくださり、大変和やかで暖かなパーティーになったので、二人を通じて心ばかりのお礼をさせていただきました。
すると、後日心温まるお手紙と一緒にお返しのお品が幹事の皆さまから送られてきて却って恐縮してしまったのですが、中に私の好きな「高天」の生酒セットも入っていたことから、恐縮しつつも有難く頂戴してしまいました。
おそらく、娘に聞いて、恥ずかしながらこのブログでチェックされたのだろうと思います。しかも、東京で信州(岡谷)の地酒をわざわざ探してくださったのですから、恐縮至極でありました。

 その生酒セット。本醸造、純米、吟醸と三種類の生酒が、それぞれ四合瓶で詰められていました。「こんなことしてくれなくてもイイのにぃ・・・」と言いつつも、ムフ・・・、と奥様には悟られぬようにしながらも自然に笑みがこぼれそうです。イカン、イカン。でも、楽しみ。

 誠に恐縮ながら、皆さまのお心に感謝しつつ、良く冷やしてチビリチビリと大事に大切に味わわせていただこうと思います(・・・と言いながら、まだまだ残暑厳しきこの夏は特に美味しくて、既に二本が空いてしまいました。タハ・・・)。
いつもの火入れをした純米酒と比べて生酒特有のまろやかな口当たりですが、そこは高天らしくしっかりと辛さもありました。

 まだまだ暑い日が続きます。皆さまもご自愛ください。