カネヤマ果樹園 雑記帳<三代目のブログ>

 先週末、芝焼きをしました。
芝焼きは二~三年に一度で良いと云われており、昨年実施したので、奥さまからは「今年は(やらなくて)イイから」と言われていましたが、雑草の種や害虫の卵などの焼却効果もありますので、毎年でもやればやっただけの効果は期待出来ます。

 リンゴを新ワイ化に植え替えて冬の剪定作業がなくなったこともあり、特にすることもなかったので、しっかり乾くのを待って、この時期の芝焼きになったものです(以前、雪が消えなかった年は4月にずれ込んだこともありました)。
芝焼きの方法と、効果等は過去のブログ(第959話、453話)を参照ください。
 風にない日を選び、一度に燃え拡がらぬようタイル(以前、自身で作庭した際に、花壇と芝生を分ける歩道用に使用)と万が一の延焼時の消火用に散水するホースを用意。そしてサッチ(芝刈りの時に発生するカス)を搔き出す金属製の熊手も用意して準備万端です。高温多湿の夏場、サッチは病害虫発生の温床になります。
 昨年秋に最後の芝刈りをしてあるので草丈も短く、それ程炎も立たずに、サッチを搔き出して二度焼きをします。最後に、火種が残らぬよう、一面に散水して終了。一時間半で、50㎡程の我が家の芝生ガーデンの芝焼きが終了しました。若草山ならぬ、我が家の庭に春の訪れを告げる“風物詩”でしょうか。

 エーリヒ・ヴォルフガング・コルンゴルト(1897~1957)。
最近、コンゴルトの曲をFMで聞いたり、名前を音楽雑誌で目にしたりする機会が多くなったように思います。

 彼は、当時オーストリアだった現在のチェコ・モラヴィア地方の出身のユダヤ系作曲家。戦前ウィーンで活躍し、ユダヤ系故にナチスのオースとリア併合で1938年にアメリカに亡命。音楽賞でオスカーを二度獲得するなど、ハリウッドの映画音楽界で大御所として活躍した作曲家(英語名でコーンゴールドとか)。シェーンベルクなどの新しい流れに対し、その作風が古臭いとされ、戦後のウィーンにその活躍の場を得ることは無かったそうです。
後期ロマン派の楽風で、幼い頃から神童振りを発揮。9歳で作曲したカンタータを聴いたマーラーは「天才だ!」と叫んで激賞し、14歳の時にはBPOの大指揮者ニキシュから序曲の作曲を委嘱されるなど、その名前故 “モーツアルトの再来”と称えられた作曲家だったそうです。
(マーラーが戦後の米国で受け入れられたのは、積極的に取り上げたワルターやバーンスタインの功績もあると思いますが、マーラーから指導も受けたコルンゴルトの映画音楽を通じて、後期ロマン派的作風に米国市民が馴染んでいたからだという興味深い分析もあるそうです)

 戦争で狂った歯車が戦後欧米で再評価され始めたのに、日本は“コルンゴルト後進国”で、生誕100年としてオペラや協奏曲が演奏された1997年が“コルンゴルト・ルネッサンス”とされ、没後50年の2007年以降飛躍的に演奏されたりする機会が増えたのだとか。確か最近、ラ・フォル・ジュルネでも特集された筈です。FMで耳にして、何となくヒーリング・クラシックの様な印象を持っていました。そこで市の中央図書館で探したら、二枚だけCDがあり、早速(落語のCDと一緒に)借りてみました(勿論、You Tubeにも登録されているので簡単に聴くことも出来ますが、私メの場合は専ら通勤途中の車の中がリスニングルームです)。一つは「2つのヴァイオリン、チェロ、左手ピアノのための組曲」。特に第4曲の「歌」は、小曲ですが何とも癒されます。
そして、もう一枚は彼の代表作とも云われる「ヴァイオリン協奏曲」。
後期ロマン派の色彩を色濃く残した作品で、マーラー夫人アルマに献呈され、1947年に名ヴァイオリニストのハイフェッツにより米国で初演。その後も、ハイフェッはこの曲の演奏や録音を続けたそうです。その努力もあってか、ここ10年、また脚光を浴び、演奏会や録音でも取り上げられることが多くなったそうです。クラシック音楽が、映画音楽として使われることは多いのですが、この作品は逆に自身の映画音楽を各楽章のモチーフに使っているのだとか。図書館のCDは、“ヴァイオリンの女王”アンネ=ゾフィー・ムターが、当時のご主人プレヴィン指揮のLSOと共演した演奏で、同プレヴィン指揮VPOのチャイコフスキー(こちらがメインでしょうが)とのカップリング。両曲共2003年の録音です。余談ですが、この二つの協奏曲は、同じ調性(ニ長調)で作品番号も偶然同じ35番(後年の作品である、コルンゴルトがヴァイオリン協奏曲を作曲するに当たり、意図的に合わせたか?)。

 ところで、ムターと言えば、「音楽の友」だったか「ぶらぁぼ」だったか、インタビューの中で、「前回の来日では、季節的には桜はもう見られないと諦めていたのに、松本で見ることが出来てとても嬉しかった!」という記事を読んだ記憶があります。数年前のハーモニーホールのリサイタルの時の、音文の周りの桜でしょう。何よりでした(思いがけず、“女王”の口から松本が飛び出して、チョッピリ嬉しくなりました)。
(閑話休題)
しかし、ムターの演奏は流石に巧いというか、凄い!・・・と呆気にとられて唸らされた反面、ワザとらしいポルタメントや気に障る程のアゴーギクとか、艶めかしいと云えばそうなのでしょうけれど、好きではない・・・と個人的に感じる様な演奏でした(特に第二楽章は、まるで強い香水を嗅がされているかのように“鼻に付く”)。しかし、そんなド素人を「お黙り!」と一喝する様な圧倒的な巧さ(特に第三楽章は凄い!恐らくどんなに早いパッセージであっても、スコアの音符一音たりとも飛ばしていない、そんな風に聞こえます・・・気が付くと、運転しながら、独りウーンと唸っていました)。例えて言うなら、好みの演奏ではなくても、客観的には文句なく1位を点けざるを得ないコンクールの審査員の様な・・・。
ただ、チャイコは兎も角、その意味では(他の演奏を知らないので分りませんが)、“世紀末のウィーンの残り香”的コンゴルトは、正に相応しい演奏・・・なのかもしれません。
先入観があるせいか、曲調は「ベンハー」の様なスペクタクル巨編や、或いは「風と共に去りぬ」の様な文芸超大作(他に例えるような映画知識が無い)的な、ハリウッドの映画音楽を聴いている様な感じがしないでもありませんが・・・。

 春分の日の20日。またまた親バカながら(私たちにはこれしかしてあげられることが無いので)、お願いを兼ねての早朝ウォーキングで、天神さまと四柱神社経由で、松本城へ。途中、市内のパンの老舗「マルナカ」ベーカリーでモーニングセットをいただきました(数種類のトーストと、サラダ、ヨーグルトかゆで卵、何種類かのジャムの中から選択し、497円とリーズナブル)。

 10時前でしたが、お城(多分天守閣への登城)は1時間待ちとの表示。春休みに入ったこともあるのでしょう。有難いことです。
それから、旧開智学校の脇を通って中図書館へ。こちらではロトウザクラ(魯桃桜)が咲いていました。彼岸桜よりも早く、真っ先に咲くサクラです。調べて見ると、県立長野図書館にあった原木から、昭和30年代以降に県下各地の図書館に接ぎ木等により移植されたものだとか。シベリア原産(一説には日露戦争で満州北部から持ち帰った由)で、同じバラ科でもサクラより桃に近い品種だそうですが、サクラと名が付くだけで、何となく「開花」と聞くと嬉しくなります。
 そして、一足早く天神さま(深志神社)の紅白の梅も大分咲いていました。
東京では、平年より5日早く21日にサクラの開花宣言が出されたとか。4月3日の開花予想という松本城のお堀端のサクラ(ソメイヨシノ)の蕾も、この20日、大分膨らんできたような気がします。
 そして22日、長女から連絡があり、彼女の夢だった留学の合格連絡があったとのこと。皆のお願いが天に通じたのでしょう。これぞ、当の本人は勿論、家族を含めて、待ちに待った「サクラサク」・・・でした。

 松本市街地の中心街、伊勢町通り。
松本ICで降りて、上高地線を市街地に進み、南北のメインストリート本町通へ、巾上のJRを潜って東西に直線的に交差する通りです。

 私の学生の頃までは、城下町の狭い一方通行(多分)で、地方都市にありがちな両側の歩道にはアーケードが付けられ、老舗の本屋さんや呉服店、また行きつけだったレコードショップなどが並ぶ古くからの商店街でした。
車社会になって駐車場のある郊外店が主流になると、ご多聞に漏れず松本市内も寂れ、そのためこのエリアも「中央西区画整備事業」として、15年近くを要して再開発が行われました(2003年完成とのこと)。
今では、アーケードは取り払われて一方通行も解消され、歩道部分も拡張されて松本らしく湧水を汲み上げた小川も流れ、パルコやMウィング(中央公民館)などが立ち並ぶ通りは、空の拡がりを感じさせ、西には北アルプスの峰々を望めるメインストリートの一つになりました。

 一方、本町は都銀の支店やオフィスビルが並ぶメインストリートですが、その本町と伊勢町の交わるT字路。本町の古いオフィスビルが数軒撤去されたエリアに、2017年完成を目標に、地元新聞である信濃毎日新聞松本本社が移転建設されることになり、工事前には城下町時代の町人街だった遺構の発掘調査なども行われました。

 一年くらい前でしょうか。その古いビルなどが解体撤去されると、伊勢町から東方面の眺望が一変しました。
確か宝石店などが入っていたノッポビルなどが無くなって視界が開け、美ヶ原などの東山々系が姿を現したのです。味気なかった古ぼけたビル街から、開放感のある「岳都」らしい風景になりました。
江戸時代は勿論、戦後ビルが立ち並ぶ前までは、当たり前だったであろう松本の風景です。街中からですと、駅前通りから「あがたの森」方面辺りでしか望めなかった美ヶ原等の東山が、伊勢町通りからも眺められるようになりました。しかも、この辺り(女鳥羽川の南側)は町人街として、碁盤の目のように東西南北に何本かの道が張り巡らされていて、真っ直ぐ東西に走る伊勢町通りは西側も開けているので、振り返れば地元で云う西山(北アルプス)も見ることが出来ます。
あと2年足らずで完成する信毎本社ビルは5階建とのこと。市街地の中心部にあることから、いくら公共性のある新聞社とはいえ、民間ビルには珍しく、1階から3階は市民が集える交流スペースを設けるのだとか(そのため一般からアイデアを聴く、市民参加のプロジェクトまで発足させているそうです)。
ただ、完成したその時には、残念ながら伊勢町通りからは歩いて東山を見ることは出来なくなるでしょうから、それまでの“期間限定”、賞味期限付きの(松本市民にとっての)貴重な風景です。
(先週末、早朝ウォーキングで、自宅から真っ直ぐ駅へ下り、伊勢町を通って天神さまの深志神社まで行った折に撮影)

 3月9日と翌10日も雪。弥生三月とはいえ、信州ならこの時期の降雪はおかしくありませんが、前日8日の松本は最高気温22.5℃だったそうですから、春の陽気から一転して冬に逆戻り。
10日の朝、三才山トンネルへの峠道は見事な雪化粧で、裸だった木々が白い雪の花を纏っていました。ここ暫くは、最低気温が氷点下という日が続きそうです。
一方で桜の開花予想がまた少し早まっているようですが、“三寒四温”或いは「暑さ寒さも彼岸まで」・・・。それでも季節は、半歩戻りつまた一歩と、少しずつ春に向かって行きます。

 10日早朝のナナの散歩。外の雪景色に、
 「ねぇ、スノトレ出して!」
 「もうキレイに拭いて仕舞っちゃったから、ダメ!!」
家の中では、冬はとう(疾う)に終わって、すっかり春を迎えているようです。
一方、リビングでは未だ薪ストーブの残り火で時々焼き芋が焼かれています。
(夜は先に寝るので分りませんが、朝は先に起きるとストーブの中にアルミで包まれた芋が数本転がっています。どうやら世の女性にとっては“至福の時”らしく、ホクホクの焼き芋を食べながら・・・)
 「あぁ、もう焼き芋の季節も終わりかなぁ・・・」
 「・・・」
人間の季節感も、行きつ戻りつするのでしょうか・・・?
 そして、世の中“ホワイトデー”の3月14日。この日は朝からまたしても雪。冬に逆戻りで、まさにホワイトデーでした。湿った雪が終日降り続きました。幸い市中の路面には積雪はありませんでしたが、峠道はシャーベット状態で、途中スリップ事故も発生していました。これでこの冬の名残雪になるのでしょうか。桜が咲いてから降った年もありますが、雪はもうイイですね。
今度の日曜日は春分の日。春のお彼岸を迎えます。
(写真は前半が、10日の三才山峠の松本側。後半は14日の上田側。どちらも朝余裕を持って早めに家を出たので、停車帯に車を停めての撮影です)

 先月娘が送ってくれた瀬戸内産の牡蠣は、水揚げ翌日の到着でしたので、生は勿論、焼く、蒸す、揚げる、煮ると一応フルコースで堪能することが出来ました(第1062話参照)。娘たちが帰れなくなり、彼女たち用のカキフライは揚げれば良いだけに下拵えをして、その場で冷凍して次回の帰省用に確保してあります。
とはいえ、年寄だけではそんなにたくさんの品数を食べられないので、その時に頭にはあったのですが、用意できなかったメニューがあります。それは、牡蠣のグラタン。
以前、「王様のブランチ」か、或いは石ちゃんの「通りの達人」だったかで紹介された、牡蠣専門店の看板メニューの一つ。牡蠣と濃厚なチーズの相性が良いそうで、一度試してみようと思っていました。その時はドリアで、そのご飯も牡蠣の煮汁で炊いたものだったように記憶しています。

 そこで、まだ牡蠣が出回っている内に、スーパーで瀬戸内産の加熱用牡蠣とホワイトソース(缶詰)と牛乳を買って(奥さまが)作ることに。今回も、マカロニなどではなく、ドリアにするそうで、それ用にピラフも事前に準備されましたが、奥さまに拠ると(多分、レシピを検索して調べた結果)普通のご飯でも大丈夫(オーブンに入れるお皿にバターを塗るのだそうです)とのこと。チーズは、常備?のモツァレラを使用。それに合わせて、今年は暖冬なので、まだ使えそうな地植えのパセリを摘んで来て、(これだけは私メが)刻んでおきました。私メは、タバスコを一杯振っていただきます。

 「おぉ、旨~い!」
専門店の味は分りませんが、いや、美味しい!確かに、ホワイトソースに牡蠣とチーズは良く合います。しかも焦げたところが何とも美味。殆ど一人で食べてしまいました(寒縮みホウレンソウがあったのに、入れるのを忘れたそうです)。
多少(特に年寄りには)胃がもたれるかもしれませんが、牡蠣が旬の季節であれば、カキドリアは十分ゲスト用の一品になると思います。鮮度にも依りますが、今回の牡蠣もプリプリでした(食べ始めてからその美味しさに感動して慌てて撮影したので、左側が欠けた写真になりました)。

 家を建てて20年。人間もそうですが、“勤続疲労”であちこちに色々ガタが出て来ます。
2月上旬、遂に24時間風呂が壊れてしまいました。しかも、その日の朝私が入った時は何も問題が無かったのに、その日の夕刻には全く電源が入らず・・・。何の前触れ、予兆もありませんでした。
20年前は、子供たちも小さく、また将来を考えて二世帯住宅にもしてあったので、家族が好きな時にいつでもお風呂に入れるようにと(奥さまの希望で)24時間風呂にしました。実際、とても便利で快適でした。
その後、世間で騒がれたレジオネラ菌問題があり、その後各社の対策は打たれたものの、製品そのものへのイメージダウンか、家で使っている当時の大手メーカーも24時間風呂からは撤退してしまい、既に部品供給も無くなたったため、代理店のサービス担当の方からは「壊れたら対応修理不能」と言われていました。
今回もすぐ来て見ていただいたようですが、やはり寿命で、部品さえあれば修理出来るのでしょうが、部品も在庫無しとのこと。むしろ、長持ちした方なのかもしれません。ただ同じ製造業に身を置く者としては、片や数千円、数万円の家電製品と比べれば桁違いの高価な設備だけに、もう少し修理対応期間を長くしても(≒部品さえあれば・・・)と思わないではありませんが、代理店の方に言ってもしょうがありません。
そこで調べると、24時間風呂を出している中小メーカーも無い訳ではありませんが、時代が要求するエコ、省エネからも外れるためか(本当に便利で快適なのですが)今ではマイナーで、最近の主流は深夜電力を使うエコキュートとのこと。
既に子供たちも巣立ち、リタイアすれば時間的には余裕も生まれ、24時間である必要もなくなりますので、我が家も結局エコキュートにすることになりました。またコスト的にも(浴槽はそのまま利用可)、24時間給湯用ボイラーとエコキュートとは殆ど変りませんでした。更に灯油と深夜電力のランニングコストを加味すれば、(使い勝手にメリットが無くなれば)結果は自ずと見えて来ます。
今はどこもコスト削減で在庫を持たないため、契約後の製品納品・搬入まで2週間。設置は、電気工事まで含め一日で終了とのこと。

 その間、3週間近くは(シャワーは可能でしたが、2月の寒さで断念し)毎回我が家からは一番近い渚のライフサイト内にある温泉施設「湯の華銭湯  瑞祥」へ。それにしても(一回650円の入浴料ですが)、小さなお子さんなどの家族連れを含めて平日でも混んでいること。こちらは民間のスーパー銭湯的施設なので、無料休憩所はありません(暖炉を囲む長椅子のみ)が、レストラン(お食事処)やサウナなどの施設も充実しています。ただ、源泉がある訳ではなく、戸倉上山田温泉の本館からタンクローリーで運んで来る日帰り温泉です。浴槽もかなり大きく、露天ぶろやジャグジーなどもあり、しかも当然ですが男女に分れていますので、タンクローリーの台数や輸送頻度は分りませんが、この湯量を満たすには、循環濾過して加温もしないといけないでしょうから、週末だけは天然の日帰り温泉へ。
我が家が行く近郊の日帰り温泉は、三郷「ファインビュー室山」や豊科(大口沢)「湯多里山の神」ですが、久し振りに天然温泉を楽しむことが出来ました(因みに、市内近郊の浅間温泉や美ケ原温泉にも日帰り施設はあります)。少なくとも私メは、こんなことでも無いと億劫(信州弁で言う“小ずく”が無い)で行かなかったかもしれません。

 日帰り温泉は、その泉質も勿論重要ポイントですが、“カラスの行水”派としては、奥さまを待つ間、文庫本を読みながら休んで(出来れば寝転んで)待っていられる無料休憩所がある施設が個人的には高評価となります。
西山の麓に在る「ファインビュー室山」へは、松本平の両端と言っても良い東山に近い我が家からは結構距離があるので休日にしか行けませんが、こちらは宿泊施設も備えており、内湯も露天もお風呂が大きいので近隣の日帰り温泉の中での奥さまのイチオシ(但し人気があるので、観光での宿泊客も含めかなりの混雑)。その名の通り松本の市街地が一望出来ますので、特に夜景がキレイな由。レストランや無料休憩所も広くて充実しています。
私メは「湯多里山の神」がイチオシです。こちらは豊科(現安曇野市)と言っても松本市との境界に近く、我が家からは岡田を抜ければすぐ(旧四賀村への国道143号線の途中)。市街地を通らないので、車で10分足らずです。泉質はとても良いと思いますが(肌スベスベの「美人の湯」とか)、内湯も露天も、そして洗い場も少々狭いのが難点(奥さまには不評)。でも観光客は少なく、地元の人が殆どです。山間にぽつんと在って、古民家風の鄙びた風情が気に入っています。無料の休憩所もありますが、食堂等の施設は無く、駅蕎麦風の小さなお蕎麦屋さんが近くにある程度(観光で来られた際は、他で食べた方が良いでしょう)。

 2月下旬。設置工事が終わり、漸く自宅で入浴出来るようになりました。
24時間風呂とは違うので、湯張をしての入浴時に浴室がまだ温まっていないせいか(夜間から明け方は、まだ氷点下まで下がる日もあったので)、またお湯そのものも24時間風呂の時と同じ温度に設定しても冷えた外気に熱が奪われてしまうのか、何となく温めの気がします。
そうかと言って、ずっと保温しているのも無駄なのですが、寒がりの奥さまは「寒い日は、日帰り温泉に行こうかしら?」。オイオイ・・・。

 その後、奥さまはエコキュートをお使いの友人の方々にお聞きして、自動保温を設定したら随分改善されました。ヤレヤレ・・・。

 余談ですが、24時間風呂は浴槽の保温は電気を利用しています(給湯器は灯油)。ここでエコキュートに換えた結果、月の電気代が激減したのだとか。
24時間風呂というのはとても便利ではありましたが、常時エネルギーを消費するという機能は、環境性能や省エネという時代要請からすると、やはり逆行していたのでしょうね。「むしろ壊れて良かったんだ・・・」と悟った次第。

 何度かご紹介した、我が家のシンビジウム。
今年はたくさんの花芽が出て、ここで花が咲き出しました。薪ストーブを焚いているリビングの方が暖かいのですが、霜に合うと茶色く枯れてしまいますし、逆に暖か過ぎると開花期間が短くなってしまうので、霜害を避けて玄関脇に入れてあります。週末、天気の良い日には“日光浴”もさせて。

 今年の開花は、いつもより花芽が多いためか、遅れて2月中旬。殆どの花芽で蘭の花が咲き出しました。二鉢置いているので、それ程広くない玄関が狭くなっていますが(そのため、人の出入りで何本か花芽が折れてしまったようです)、でもシンビジウムのお陰で、ここだけは豪華絢“蘭”、春“蘭”漫・・・といった感じでしょうか。
暫くの間、その華やかな雰囲気を楽しめそうです。

 外の陽気も、何だか急に春めいてきました。
ここで三回目の開花予想が発表されましたが、このところの暖かさで、松本(お城)の桜は開花が4月4日で満開が10日の予想とか。平年に比べ一週間近く早いそうです。例年、開花の3日後ですので、もし予想通りなら7日からお堀端などがライトアップされ、本丸庭園が無料開放されます。
ただ今週末は“寒の戻り”で、最低気温は氷点下予想。三寒四温で、行きつ戻りつしながらも、頬に当たる風は何となくもう春の匂いがしているような・・・。

 「行ってもイイけどサ、行くんだったら深川飯のお弁当を買って来てヨ!」という交換条件(?)を承諾されて、娘たちの所に上京された奥さま。
ちゃんと煮干しから出汁を採ったお味噌汁を用意して、奥さまのお帰りを(一緒の深川飯を)お待ち申し上げておりました。
 前回の上京時に、病み上がりで“止むを得ず”、ホテルでの部屋食用にデパ地下で買ったお弁当。コッテリ系には食指が動かず、何でもいいからと(店名も知らず)然程期待しないで買ったのに、これが予想外の“大当たり!”(第1052話参照)。そこで、次回(奥さまが)上京したら、また買って来てもらうことになっていました。
新宿の小田急デパートの地階食品売り場に在る、「深川太郎」のアサリを炊き込んだ“深川めし”のお弁当です。それと今回は、もう一つの看板商品らしい厚焼き玉子も一緒にお願いしました。

 私メは、前回同様の「穴子弁当」。厚焼き玉子は、厚焼きと出汁巻きに葱と何かを具に混ぜた厚焼きの3種類のセットを買って来てくれました。
作って待っていた、我が家常備の地元「丸正二年味噌」のお味噌汁。家内から、
 「あぁ、美味しい!」との絶賛の声。
 「そうでしょうとも。ちゃんと煮干しでしっかりと出汁も採ったから・・・」
(ま、味噌そのものが美味しいのですが)

 レンジで温めてもらった「穴子弁当」。
「深川めし」の炊き込みご飯が、何とも上品な味付けで濃過ぎず、敷き詰められた煮穴子もホクホク。う~ん、この味です。「・・・ホント、旨いなぁ!」
5㎝はあるかという厚焼き玉子は、出汁巻きも、甘味のある厚焼きも、どれも上品な美味しさ。日本酒にも良く合います。満足、満腹、堪能出来ました。
 「あのさ、今度いつ行くの?また行ってもイイからネ・・・!」

 2月27日付朝日新聞のスポーツ欄の、西村欣也氏(編集委員)の名物コラム「EYE」。
いつもの5倍くらいのスペースを使った記事に、「えっ、一体何?」と思って読んでみると、ここで定年を迎えるという西村さんの最終記事でした。
西村さんのコラムは“割と好きな方”で、このブログでも取り上げた記憶があり、探したところ、5年程前の夏の高校野球の記事で、以前長嶋さんと一緒に甲子園で観戦した時のエピソードを引用したコラムでした。曰く、
『それは2002年、ミスターこと長嶋茂雄さんと一緒に夏の甲子園大会決勝を観戦した時の長嶋さんの言葉が今も印象に残る、という書き出しで、「このトーナメントではね、優勝チーム以外の全ての球児にただ一度ずつの敗戦が配られるんです。甲子園の決勝でも、地方大会の一回戦でも、ただ一度の敗戦が、野球の神様から配られているんです。壮大なトーナメントの、大きな意義がそこにあると思うんです。つまずくことで得るものが、若者にはきっとある」。そんな長嶋さんの言葉を引用した後、西村さんは最後にこう締め括っています。
「グラウンドにがっくりとひざを折ったあと、立ち上がる少年たち。試合前と試合後のわずか数時間の間に彼等は成長する。スーパースターの誕生や名勝負にではなく、敗者に注目しながら甲子園を観戦するのもいい。」』(第333話)
そして、同じ内容を紹介した上で、朝日新聞の別の記者が「アルプス席」という甲子園報道頁の中の小さな観戦コラムで、「敗れたチームの監督が、甲子園から去る時に、グラウンドに落ちていたゴミを拾ってそっとポケットに入れた」と記事にしたことに触れた内容のブログもありました(第519話)。

 海外駐在からの帰国後、家内から子供たちの入試等でも引用されるからという理由で「朝日新聞」を“強要”され、そのまま(子供が巣立った後も、また捏造問題の後も、変更するのも面倒臭いし紙面に慣れ親しんだことも手伝い)ずっと購読しています。ビジネス用には日経も購読しているので、朝日の政治経済関係の記事は一切読みませんが、「人」に関する朝日の記事は視点が優しい(震災後の津波に襲われた港で、家族を亡くした女生徒が独り海に向かって吹く“鎮魂”のトランペットの写真は、当時大きな話題になりました)と思いますし、土曜日に別刷りで配達される「be」はずっと愛読しています。
同じように、西村さんの記事も、その特徴は「敗者への優しさ」だと感じていました。しかし、冒頭で「割と好きな方」と書いたのは、それは時として「強者」或いは「権威」に対する執拗な批判や攻撃にも映ることがありました。例えば、読売巨人へ対する「金権」批判。だとすれば、当時の逆指名やFAで、同様に金に任せて集めた他球団(ダイエー時代から今に続くホークスや近年の阪神)にも同様の批判があって然るべき(であるならば、論理の一貫性として納得出来ます)なのに、読売球団以外の批判記事を殆ど読んだ記憶が無く、ともすれば大新聞同士のヒステリックな“いがみ合い”的な匂いがして、鼻から信用出来ぬ“似非正義感的な胡散臭さ”を感じざるを得ませんでした。

 そこで思い出したのは、昔報知新聞(読売系列のスポーツ紙ですが、歴史は古く、明治5年に日刊紙として創刊。往時は五大紙の一角を占め、明治末から大正に掛けては発行部数最大だったそうで、昔の事件報道などで引用されることがあります。しかし関東大震災で社屋を失って以降系列下に入り、戦後スポーツ紙へ転換)に掲載されていた「激ペン」というコラム。正しく巨人愛を貫きながら、客観的に他チームの良い所は褒め、球団の悪い所は批判し、時に天下のONをも叱咤し批判する名物コラムでした。気になって調べてみると、記者だった白取晋さんは1993年に53歳の若さで現役記者のまま亡くなっていました(海外駐在中だったためか知りませんでした)。
「激ペン」に貫かれていたのは、必ずしも特定球団への偏愛ではなく、最終的にはプロ野球への愛情と公平性だったように思います。だからこそ、アンチGの人たちからも愛された名物コラムでした。
西村さんの「EYE」には、時に弱者や敗者への優しさは感じられても、そうした公平性が感じられない。結果として、首尾一貫とした論理性が欠けると見做されても仕方がないだろうと、勝手に判断しています。

 とは言え、記憶にも残らずただ読み飛ばすのではなく、そう考えさせられる様な名物コラムが消えるのは一抹の淋しさを感じます。長い間、お疲れ様でした。これからは、“シガラミ”から逃れ、フリーの立場で思う存分に書かれた記事を目にすることを期待しています。