カネヤマ果樹園 雑記帳<三代目のブログ>

 『飯田城の天守閣が松本に移送されたという伝承がある』
一瞬、ホンマカイナ!?と思いました。そして、その前提は松本城の乾小天守だとか。

 松本城の天守閣は現存する12天守の内、姫路城と並ぶ壮大な五層六階。乾小天守は三層四階の天守であり、小天守と言いますが、例えば同じ国宝の犬山城が三層四階の天守閣であり、彦根城は三層三階の天守閣です。
従って、五層六階の天守閣だけではなく、三層四階の乾小天守は辰巳、月見の櫓を持つ連結複合式の松本城が(石高からすれば)如何に大規模な城であるかが分かります。従って、三層四階の乾小天守は、他のお城であれば仮に天守閣であっても全くおかしくは無いのです。
 ネットで探してみたところ、地元飯田の方の書かれた「飯田城」に関する記述が見つかりました。一部を抜粋すると、
『(前略)天守閣があったはずだとする理由は、おおよそ次の通りです。
豊臣秀吉に命じられて飯田城主となった毛利秀頼・京極高知は、ともに秀吉の信頼が厚い側近でした。秀頼は「羽柴」の称号と「豊臣」の姓を授かっていたほどですし、高知の姉は秀吉の側室となっていました。飯田城主毛利・京極氏の10万石に対して、松本城主の石川氏は8万石、諏訪の高島城主の日根野氏は3万5千石であるのに天守閣をつくっています。ですから、毛利・京極氏が天守閣をつくらなかったはずがないというのです。さらに古い書物には、飯田城の天守閣を松本城へ移した、ということが書かれています。飯田城主であった小笠原秀政が1613年(慶長18)に松本城主となるとき、飯田城の天守閣を解体して運んだというのです。松本城には、5重6階の大天守に、3重4階の乾子天守がついた形となっています。この乾子天守がもとは飯田城の天守閣で、山伏丸のあたりにあったのでは、という説があります。ところが、現在の飯田城には天守閣があったことを示す跡はありません。また松本城でも、それを裏付ける証拠は見つかっていません。そこで、飯田城はその地形からみて天守閣は必要なかった、という考え方や、あるいは天守閣の建設は計画倒れで終わったのではないか、という説もあります。しかし一方で、松本城の乾子天守が初めから現位置に建てられたにしては不自然だ、という人もあるのです。はたして飯田城に天守閣があったのか、いまだに大きなナゾと言えます。』
とのことでしたが、記載に誤りがあります(と思います)。
と言うのも、徳川家康の関東移封に伴いその監視役として、石川数正が秀吉に命じられて大阪和泉から関東に近い松本に移封されたのですが、和泉8万石から減じられる筈も無く、当時松本藩は10万石でした。数正の死去に伴い、長男(嫡男)であり松本城の天守閣を完成させた康長が8万石、次男康勝が1万5千石、三男康次が5千石と10万石を分割しています。
関ヶ原の後、家康の傘下にいた小笠原秀政が飯田藩(その前は古河藩3万石から飯田藩へ加増移封されていた)から加増されて藩主として松本藩に移封さえるのですが、飯田藩は5万石であり、松本藩は8万石となっています。小笠原氏は信濃守護として信濃の国府であった松本(深志)で信濃を治めた名家であり、その嘗ての本家である地元松本への旧領復帰としての移封ですので、失態等が無ければ減じられての移封ではある筈もありません。
飯田の松尾小笠原氏は深志小笠原氏の分家であり、松本が本家筋ですので、強い意志があれば分家から本家へ天守閣を移すこともありうるかもしれませんが(因みに彦根城の天守閣は大津城から移築されています)、松本には石川親子が築いた立派な天守が既に存在しており、わざわざ労力を掛けてまで小天守を飯田から移して来る必要性は無かったと思います。
秀政が松本へ移ったのは1613年で大阪夏の陣の起こる2年前ですが、秀吉が関東に遠ざけた家康に睨みを効かす最前基地としての松本であったため、領地の石高10万石の規模からすれば破格の大天守を持つ城を石川親子に造らせたのでしょうが、秀政が松本に移った1613年には、家康にとって松本は政敵である豊臣家に睨みを効かすための有効な場所ではありませんので、戦略上も松本城を強化する必要性は無かった筈です。
従って、辰巳櫓と共に複合連結式天守を構成する乾小天守は、石川親子の築城当時から存在していたと考えた方が極自然だと思われますが、果たしてどうでしょうか。飯田城の天守が松本にあるというのも、戦国の世の大いなるロマンを感じさせますが・・・。