カネヤマ果樹園 雑記帳<三代目のブログ>

 下呂の国道41号線。温泉街の高台を走る下呂バイパス。高山方面から下呂トンネルを抜けてすぐの「森」という信号のある交差点。左折すると合掌村方面です。
今回泊まったホテルから下呂の温泉街へは、41号線(下呂バイパス)のこの「森」という信号を渡るのですが、その時に気付いた交差点の対面に何とも不思議な横断歩道を見つけました。

 41号線と合掌村へ上る道との「森」信号の五差路。下呂の市役所方面ではなく、温泉街の「せせらぎの小径」方面へ下って行く道(アーチ状の下呂温泉の看板をくぐる坂道)を渡って41号線までの横断歩道。
その先の41号線を渡る横断歩道は無く(反対側にあります)、41号線のガードレールで遮られていて、その先の横断歩道はありません。従って、この横断歩道を渡ってもその先に行けないのです。一体何のための横断歩道なのでしょうか?
おそらく、この温泉街へ下る道よりも、下呂バイパスの方がずっと後で出来たであろうことから、バイパスが開通した時に、交差点の反対側に横断歩道を設けたために、それまであった(?)横断歩道は遮られて使えなくなったということなのでしょうか?
それにしては白いペンキが剥げた様子も無く、“現役”の横断歩道であるかの様な“雰囲気”に、何とも???な“ナニコレ珍百景”でありました。

 飛騨旅行の最終日。早朝雨が降って少し肌寒いくらいでしたが、車で飛騨牛を運ぶには却って好都合です。
朝ゆっくりと温泉を楽しみ、9時半に開店という前日のスーパーに行って飛騨牛を購入。戻り、10時半に下呂を出発。国道41号線を高山に戻ります。平湯・安房峠方面へは高山手前から向かう道がありますが、我々は高山の市内観光をしてから帰ることにしていました。

 高山市街へ入り、陣屋横を抜けて宮川を渡り、炎天下を避けるべく屋根付きの駐車場へ駐車。ナナをバギーに載せて、古い町並が続く「三町伝統的来建造物保存地区」へ。三町は、上一之町から二之町、三之町とありますが、車両規制がされているのは上三之町のみでしたので、ナナを載せてバギーを押して行くのに歩き易い三之町を往復することにしました。
しかし驚いたのは人の波。GW明けだというのに通りは人でごった返しています。それもその筈で、中国からを中心としたインバウンドの観光客と、修学旅行の団体客(因みに掲載の写真は、顔が映らぬ様に、人通りが過ぎたタイミングで撮影しました)。
 「そうかぁ・・・。GWは関係無いんだ!」
以前来た時も立ち寄った酒蔵や味噌屋さんも、たくさんのお客さんでごった返しています。前回も気に入ったお酒が見つけられず(≒高天純米でイイ・・・)、また味噌汁が試飲出来る味噌屋さんも「う~ん、丸正の味噌の方が美味しい・・・」と結局何も買わず終いでしたので、今回はナナも一緒でもあり入店せず。
犬連れで観光していて思うのは、残念ながら地元松本でも観光客の多い中町や縄手通りも同様なのですが、高山も「ペット入店OK」という店の少ない事(松本中町や高山など、古い町並ではテラス席を設けるのは難しいかもしれませんが)。
ペット連れに優しいのは、別荘族が多い事もあってか、近隣では軽井沢くらいではないでしょうか。信州では別荘地を抱える白馬も蓼科であっても、ペットホテルを除けば残念ながらどこも失格です。
高山の上三之町で見つけたのは、唯一スイーツが売りの喫茶店1軒のみ。昼時でしたので、「スイーツじゃぁ・・・」。結局、高山ラーメンの店も飛騨牛の店もどこも入れず。ネット検索すると、高屋駅付近にワンコ入店OKの洋食屋さんがありましたが、ここからは遠いし高山に来てまで洋食じゃあ・・・。しかし、街角の美味しそうな“風景”に我慢出来ず、食べ歩きでみたらし団子(素朴ですが、焦げた醤油が香ばしく、柔らかくて実に美味!)を既に食していた奥さま曰く、
 「私は飛騨牛コロッケでイイから、ラーメン屋さんに一人で入って食べてくれば?」
 「でもせっかくナナも一緒だから、独りで食べてもなぁ・・・。(食べなくても)イイや!・・・それか、来る時に道沿いにあった「板蔵ラーメン」のドライブインにでも寄って食べるから」
 「じゃあ、二人でコロッケ食べヨッ!」
・・・と結局相成り、テラス席で飛騨牛コロッケをいただきました。
それにしても、飛騨牛の串焼きか炙り寿司のテイクアウトの店だったか、二重に折り返しての行列が出来ていたのには「凄いですね!」と感嘆。
余りの人込みとペットOKの店も無いことから、早々に高山を後にしました。ところが、途中の「板蔵ラーメン」はナント定休日・・・。
 平湯手前にあった「ワンワンパラダイス高山」。山の中で自然豊か。犬にとっては良い環境かもしれませんが、「高山」というには市街から30分以上離れた場所。ま、確かに反対側の松本市と接する乗鞍岳山頂までは高山市内ですから間違ってはいませんが、
 「うーん、平湯か奥飛騨にした方が良くナイ?」
 「ブツブツ文句ばかり言っていないで何か食べたら?お腹が空いてイラついてるんでしょ!?」
ということで、平湯手前のドライブイン「赤かぶの里」へ立ち寄り。以前職場旅行でもトイレ休憩でバスが立ち寄った場所です。岐阜県側最後のお店だと思いますが、昔に比べて何だか寂れたような・・・。ここで、「高山ラーメン」をいただきましたが、食べている間お客さんは私メ一人だけ・・・でした。

 ホンモノの高山ラーメンは、今度来た時の楽しみに取っておきます。
 「また、ナナと一緒に来ようね!っと」
今回は、ナナも一緒に初めての下呂温泉。三名泉と云うだけあって、なかなか良い泉質の温泉でした。そして、しっとりと落ち着いた飛騨古川も実に良かった。また高山の人気には驚きました。考えてみれば、もし明治期であれば同じ筑摩県の中の“県内旅行”でしたので、次回は“県外”の美濃の郡上八幡まで足を延ばそうかな・・・。

 それにしても、一日も早く「中部縦貫道」が出来るとイイですね。

 旅の楽しみの一つは、その土地土地の美味しい名物グルメです。
飛騨は信州と同じ山国故、海の幸は期待出来ません。飛騨古川、高山から下呂まで走って来ると、信州同様に蕎麦の店が目立ちましたが、気付くのはどの蕎麦店でも必ず看板や幟に「飛騨そば」と書かれていること。信州と言えば(他には味噌くらいしか無いので)江戸の昔から蕎麦と定着したからなのか、最近では昔ほど「信州そば」とは余り耳にしない様な気がしますし、大根おろしの搾り汁と味噌で食べる「高遠そば」や“ぼっち盛り”の戸隠そばの様な何か特徴が「飛騨そば」にもあるのでしょうか。いずれにしても信州も飛騨も山国故に、昔は痩せた土地で蕎麦くらいしか育たなかったであろうことは想像に難くありません。
その蕎麦はともかくとして、飛騨と云えばやはり何と言っても「飛騨牛」でしょう。でもグルメサイトを調べてみても、さすがはブランド牛、ステーキなどその値段の高い事。

 一日目の夕食。まだ雨が降っていたので、お留守番のナナのご飯を先に済ませ、(私メは飲む前に)温泉に入ってから街中へ出掛けました。
ところがGW明け直後ということもあってか、幾つか候補にしていた店は(定休日だけではなく、臨時休業も含め)全て休業・・・。しかも喫茶店までもがお休みで営業していません。観光地が混んでいないのは良いけれど、大型連休明けと言うのは些か考えモノだったのでしょうか・・・。
 「えぇ~っ、どうしよう・・・!?」
止む無く温泉街を「せせらぎの小径」を過ぎて更に歩いて行くと、漸く営業中らしき(少なくとも休業の表示が無い)店を発見!地元のグルメガイドにも載っていた「せん田」という和食店でした。
恐る恐る入店すると、ちゃんと営業しているとのことで、6時前とまだ時間が早かったのかお客さんは誰もいませんでした。そして、最後まで我々以外は出張客か男性二人が来られただけ。お二人も居酒屋を探しあぐねた結果なのか、食事よりも飲みたかったらしく一品メニューを色々頼んだのですが、その日は出来ないモノの方が多かったため、結局最後は我々同様に定食類にしていました。
私はここの名物と言う“ひつまぶし風”の「飛騨牛まぶし丼」(1680円)をオーダー。奥さまは、古川でのお昼をしっかり食べ過ぎたとかで、豆腐サラダと「飛騨そば」から「梅おろしそば」を選択。
飛騨牛のまぶし丼は、名古屋メシの“ひつまぶし”同様に、最初はそのまま食べ、後は薬味を載せて出汁を掛けて茶漬け風にして食べます。味付けは美味しかったのですが、飛騨牛が切り落とし肉か余りに薄くて物足りず・・・。
 「しょうが無いよね、値段が値段だもの・・・」
トホホ・・・でありました。

 二日目は合掌村と縄文公園から戻り、昼食へ出掛けました。事前に調べてみても、ワンコOKという店は下呂の温泉街には殆ど無く、止む無くナナは今回もお留守番です。
その前に、街中のスーパーマーケットに行って飛騨牛を確認。レストランで食べると高いし、ナナは入れません。だったらホテルの部屋に簡易キッチン設備が付いているので、もし飛騨牛が安く買えれば、この日の夕食は部屋で焼いて食べることにしました。そこで、事前に街中の「飛騨牛販売指定店」スーパーの食肉売り場で結構安く買えることを確認してから昼食へ。
この日は前日休業だった、市役所横の「宴蔵」という和食店です。奥さまは下呂?名物の「トマト丼」定食、私メは同じく気になっていた「鶏ちゃん」定食です。
トマト丼は飛騨牛もあるのですが、牛肉は夜食べるからと、地域の銘柄豚という「けんとくとん」という豚肉が載ったトマト丼。焼肉だけだと胃にもたれますが、トマトがさっぱりしていて美味しいとのことでした。トマト丼は、何年か前の町興しで、地産地消の一品として誕生した由。
一方の「鶏ちゃん」は、この地方で昔から親しまれていた郷土料理らしく、謂わばB級グルメです。タレに漬けた鶏肉とキャベツを鍋で焼いて食べます。味付けは、まさに漬けダレのジンギスカン。でも双方共なかなかユニークで、“大変美味しゅうございました”。
その後、サシの入った飛騨牛を4パックほど買って、焼肉のタレやステーキ用塩コショウ、そしてサラダ用の野菜とパックライスも併せて購入し、夕食はホテルの部屋で“豪華な”飛騨牛ディナーを楽しみました。どの部位も、本当に柔らかくて、ロースなどはとろける様です。そして脂の甘いこと!さすがは天下のブランド牛でした。
 因みに、客呼び用に、その販売指定店で送ってもらえるか確認したところ、送る場合の値段は、パックで売っている飛騨牛の倍以上とのこと。多分その店は地元のレストランや旅館に卸しているのでしょう。そうした部位の端や質の落ちる部位をパックにして店頭で売っているので、パックの値段とは異なるとのこと(おそらく送付がメインではないので、発送業務は手間なのでしょうね、きっと)。しかし素人目にはパックで売っている飛騨牛で十分です。こんな値段(殆んど半値!)では、少なくとも松本でも買えません。肉は冷凍しても品質的に問題無いとのこと。そこで、翌日パックの飛騨牛を購入して用意した保冷剤や氷を詰めて、車で自宅へ持ち帰ることにしました(税抜きですが、一番安いモモ肉でもこのサシでこの値段!ロースでさえ破格のグラム680円・・・驚きでした)。

 下呂そのものには有名な観光スポットは無さそうで、下呂から高山へは車で1時間、特急電車で45分とのことですので、下呂温泉に宿泊して高山や飛騨古川へという観光もありでしょうし、また足を延ばせば白川郷へも日帰り観光が可能です。我々の泊まっているホテルも昼間は車が殆ど駐車していないので、どうやら宿泊されている皆さんも車で遠出をされているようです。
今回我々はナナも一緒ですので、行き帰りに立ち寄った古川や帰りの途中で寄って行く予定の高山を除き、昼間は遠出をせずに下呂に滞在して温泉三昧。しかし、一日中入浴している訳でないので、昼間は下呂の温泉街をぶらぶらと散策。そんな下呂で唯一の(と思われる)観光スポットが下呂温泉合掌村です。宿泊先が下呂の高台にあり、合掌村へは歩いてすぐの場所。犬も入場可能とのことでしたので、散歩も兼ねてナナも一緒に行ってみました。

 「下呂温泉合掌村」。白川郷などから移築した大小10棟の茅葺きの切り妻合掌造りの民家で集落を再現していて、高山郊外の「飛騨民俗村」の小型版といったところ。園内は犬連れOKです。事前に調べると、ワンコ用に無料で貸してもらえるドッグバギーもあるとのことだったので、ホテルからは結構な急坂を上るため、車に積んで来た自前のドッグバギーは置いて、ナナも散歩がてら一緒に歩いて行くことにしました。ホテルからは10分も掛からずに到着。駐車場では「いでゆ朝市」が開かれていましたが、連休明けのためか野菜などは無く、観光客向けの土産物ばかりで些か残念でした。

合掌村の入場料は大人800円。中にある国指定の重要有形民俗文化財という「旧大戸屋住宅」では囲炉裏に火が入り、各部屋では人形や民芸道具などで往時の生活ぶりを再現していて内部の見学可能。ビックリしたのは、この白川郷の大戸屋は、あの(=東大の学生時代に現総理の家庭教師だった)平沢勝栄代議士のお母上の生家なのだそうです。合掌村には、その他資料館や茶店なども合掌造りの民家が使われていました。
また園内には「円空館」があり、円空の資料や円空仏が展示されています。
円空は岐阜県(現在の羽島市)出身で、出家後諸国を行脚して生涯で実に12万体もの神仏像を造ったことで知られますが、晩年下呂にも滞在して仏像を彫っており、下呂市内では180余の円空仏が確認されているそうです。
円空の彫った仏像は荒いノミの跡を残しながらも不思議な慈愛に満ちていて、拝んでいると心が次第に透き通って行く(≒子供心に戻る)様な感覚になります。また興味深かったのは、円空は1600首余りの和歌も残しているのだとか。
 合掌村は、やはりホンモノの“生きている”白川郷を見てしまうと、実際に人が住んでいない分、生活の匂いがしないのは致しかたの無いところ。
白川郷へは高山から高速道路が通じていますので、足を延ばして実際の合掌造りの里を訪ねるのも良いかもしれません。下呂からは高山経由の高速利用で1時間半程度だそうです。
 合掌村を出ると、ちょうどチワワ連れのご夫婦が来られたのでドッグバギーをそのまま交代。今度は歩いて10分ほどの所にある縄文公園に行ってみることにしました。こちらは「峰一合遺跡」という縄文前期と弥生後期の集落遺跡とのことで史跡公園として整備され、復元住居と発掘された住居跡が保存されていてガラス張りで見ることが出来ます。また「下呂ふるさと歴史館」に発掘品初め下呂にまつわる資料が展示されていて、こちらも無料で拝観出来ます(尖石や井戸尻などの“八ヶ岳縄文王国”程の規模ではありません)。
考古好きにとって興味深かったのは、「下呂石」。湯ヶ峰噴火に拠って生成された「湯ヶ峰流紋岩」が正式名称で、見た感じは安山岩で黒曜石ほど鋭利ではない様に思いますが、ガラス質のためにこの辺り一帯(岐阜県や愛知県など、支流の飛騨川から運ばれた木曽川流域)では黒曜石に代わって石器の材料として使われたのだとか。本州では信州の和田峠が黒曜石の一大産地ですが、下呂石というのは知りませんでした。
 下呂の温泉街から徒歩で行く観光スポットとしてはこんなところでしょうか。やはり下呂に泊まって温泉を楽しみながら、昼間は車で足を延ばした方が良いかもしれません。もし今度下呂に来たら、どちらも車で下呂から1時間半程度とのことなので、個人的には郡上八幡か白川郷へ行ってみたいと思います。

 飛騨高山から下呂温泉へは国道41号線一本です。途中結構な山道があり、宮峠とのこと。峠の前後で川の流れる方向が変りましたので、どうやら分水嶺の様です。宮峠から下呂へは木曽川の支流である飛騨川が流れていて、下呂へはその飛騨川沿いに国道41号線が走っています。途中「野麦峠」へ至る案内板がありました。国道41号線は、名古屋と富山を結んでいますので、富山湾の氷見鰤が飛騨高山に運ばれる謂わば「鰤街道」で、その氷見鰤が“年取り魚”として信濃への「鰤街道である」野麦峠を超えて松本平へと運ばれていました。そう云えば、飛騨国は長野県の中南部と、明治の廃藩置県後の一時期「筑摩県」を構成していましたし、平成の大合併により、今では高山市と松本市は飛騨山脈を挟んで背中合わせですので、安房や野麦など厳しい峠越えでないと往来不能ですが、松本市民にとっては何となく親近感があります。

 古川から高山経由で、ゆっくり走って1時間半の道のりでした。沿線は、ほぼ同様に富山と岐阜を結ぶJR高山本線が走っていて、同じJR東海の管轄ですので、中央西線の特急しなのと同色の特急ひだが走っていますが、単線で非電化のためディーゼル特急の筈。
信州とは隣接していても急峻な飛騨山脈で隔てられているためなかなか往来は難しく、また車以外での交通手段もありませんので、下呂へ来るのは初めてです。そのため、41号を走りながら初めて知ったのは、越前越中越後、或いは地元だと上諏訪下諏訪同様に、「下呂」にもちゃんと「上呂」と「中呂」があったこと。「そうなんだ!」と目からウロコでした。

因みに下呂に着いてからの説明に依ると、『「続日本紀」によれば、宝亀2年(776年)下呂温泉の付近には美濃国の菅田駅と飛騨国大野郡の伴有駅(上留駅)があった。しかし、この2つの駅間は遠い上に道も険しかったため、間に駅を新たに置くこととなり、下留駅(しものとまりえき)を置いた。やがて、下留(げる)と読むようになり、時代が進むに従い音読みする様になり、転じて現在の音と表記になった』のだそうで、同様に「上留駅(かみとまりえき)」は「ジョウル」と発音されて「上呂」となり、二つの間の場所が「中呂」となったとのこと。ナルホドでありました。
 下呂温泉は、江戸時代の儒学者である林羅山に由り、有馬・草津と共に「日本三名泉」に数えられた由。湯ヶ峰の山裾沿いから飛騨川の河川敷に拡がる急傾斜の温泉街で、飛騨川を挟んで、下呂駅から山の中腹まで大きな旅館やホテルなどが林立していました。その名の通り、平安時代に湯ヶ峰山頂付近で温泉が湧出しているのが発見されたのが始まりで、その後鎌倉時代に湧出が止まってしまったのですが、良くある話として、薬師如来が一羽の白鷺に姿を変えて飛騨川の河川敷に温泉が噴出しているのを教えたのが下呂の開湯伝説とか。因みに、信州上田の鹿教湯温泉は文殊菩薩が鹿に姿を変えて教えたのが始まりですが、そのため下呂には白鷺に因んだ名称がたくさんありました。しかし、観光客的には恐縮ながら、由来を聞かぬと分からない白鷺伝説や、それこそ存在理由の全く分からぬ(少なくとも来たことは無いらしい)チャップリン像よりも、下呂の音に引っ掛けての蛙(“ゲロゲロ”)の方が遥かにイメージ的にはピンと来ます。
 温泉街はGW直後ということもあり、また若い人には温泉というと古めかしいのか湯治客はチラホラ。むしろ日本全国どこも同じかもしれませんが、GWとは無関係なインバウンドの中国系観光客の方が目立ちます。でも温泉地としては、松本の浅間温泉よりは遥かに賑わっている感じがします。
温泉街の中心は、「せせらぎの小径」と名付けられた阿多野川に沿った両岸の柳の並木道。傾斜が急なため、滝の様な急流になって飛騨川に流れ込んでいて、その飛騨川への合流点に掛かる橋が下呂大橋。下呂駅側の橋のたもと河川敷に無料の露天温泉である「噴泉池」があり、脱衣所も仕切りもない混浴のため、5年ほど前から入浴の際は男女とも水着着用とのこと。我々は雨の上がった翌日に温泉街を散策して行ったのですが、男性が2名入っておられました。
 「せせらぎの小径」には、林羅山と何故かチャップリンの像もあって、そこで写真を撮るのが下呂での定番の様でした。
また、街中には10ヶ所近い足湯があるとのことで、ちゃんとタオルも2本リュックに入れて持って行ったのですが、
 「ホテルにちゃんと温泉があるのに、ナンで足湯に入らないといけないの? ホテルでゆっくり温泉に入った方がイイじゃん!」
とのお言葉で(トホホ)、滞在中に温泉街の足湯や外湯に入ることはありませんでした。
その温泉。アルカリ性の単純温泉だそうですが、すべすべした滑らかなお湯で、ホテルの大浴場の内湯と露天を朝夕2回楽しみました。朝は6時からで、また宿泊の皆さんは車で遠出されているのか、午後も殆ど一人きりで入浴していましたので、まさに温泉三昧。下呂温泉を満喫することが出来ました。

 “プハァーッ!”と、湯上りのビールの美味しかったこと。極楽、極楽!

 松本市内も、インバウンドの外国人の方々を含めたくさんの観光客で賑わったGW。
 「そうは言っても、アチキだってどこかに行きたいヨ~!」
ということで、ナナも連れて我々もプチ旅行へ行くことにしました。
リタイア後は世間の休日は関係ありませんし、GW後の方が当然観光地は空いているでしょうから、我々にとっては却って好都合です。
また、空港勤務の次女も皆さんが旅行に出掛けるGW中は“戦争”ですので、明けてからの方が休みも取り易かろうと一緒に行くことにしていましたが、結局他の路線への応援が入ってしまい休めなくなったとのことから、残念ながら我々だけ(ナナは勿論一緒です)での旅行になりました。

 ナナも一緒ですから車での移動です。そのため、ドッグヴィラを完備した様な、ナナも一緒に泊まれる所という前提で探した結果の行き先は、岐阜県の下呂温泉。下呂へは、松本からは安房峠を越えて飛騨高山経由ですが、安房トンネルが開通してから随分便利になりました。下呂までは車で松本から3時間弱。高山は大昔長女が小さい時に初めて泊まり掛けで行った場所。以降、職場旅行で何度か立ち寄り、また夫婦でも冬の白川郷ライトアップのクラブツーリズムのツアーでの最初の立ち寄り先でしたので、都合4~5回は来ている筈。そこで今回は、高山ではなく、飛騨古川に寄って観光をしてから下呂に向かうことにしました。
生憎とその日は雨予報。下呂のホテルのチェエクインタイムと飛騨古川での散策時間を踏まえ、松本を10時に出発。ゆっくり走って、予定通り11時半過ぎには古川に到着しました。

 飛騨古川。観光ガイド的に云うと、「鯉の泳ぐ瀬戸川と白壁土蔵街の古い町並」。確か昔NHKの朝ドラの舞台(和ろうそく店)にもなり、最近ではアニメ映画「君の名は」の舞台の一つとしても知られています。私メは職場旅行で高山と共に一度来たことがありますが、和ろうそく店しか記憶がありません。奥さまは初めて。
飛騨古川の市営駐車場は有難い事に全て無料とのことで、観光スポットに一番近い図書館横の駐車場に車を停めました。生憎の雨降りでしたので、ナナは車でお留守番。車内が熱くならないので、炎天下より却って好都合です。
円光寺横から瀬戸川沿いに白壁の街並みが始まります。海外からの団体客もチラホラで、連休明け直後ですので観光客も疎ら。鯉の泳ぐ瀬戸川沿いに白壁が続く風情ある通りを終点の弁財天堂まで歩き、古い町並の続く壱之町通りを戻ります。途中、弁財天堂横の三番叟の「屋台蔵」など、高山祭同様に豪華な屋台で知られる古川祭の屋台を収めた蔵や、朝ドラの舞台となった手作り(生掛け)の和ろうそく「三嶋ろうそく店」を過ぎ、地酒「蓬莱」で知られる(でも飛騨の地酒と言ったら「天領」でしょうか?)の古い造り酒屋の前を過ぎて街並みを歩きます。
家内が急に口を押さえて歩を速めたので具合でも悪いのかと心配したら、お酒の香りが酒蔵周辺に漂っていて(家内曰く「充満していて」)一滴も飲めぬ奥さまは酔いそうになったのだとか・・・(羨ましいなぁ、匂いだけで酔える人は)。
 ちょうど昼時でしたので、車に戻る前に古川で昼食を取って行くことにしました。入ったのは土産物店も併設された「味処古川」というお店。
家内は全て地元産食材の「地産地消ランチ」、私は「飛騨古川ラーメン定食」を選択。双方についていた小鉢の「こうじみそ」が美味しくて、お土産に「青唐辛子」と飛騨牛の「肉味噌」を一つずつ買っていくことにしました(ついでに、骨酒用の「イワナの燻製」も一緒に・・・ムフ)。
何でも、ここで「五平餅」を食べるシーンが「君の名は」で描かれているそうで、ファンにとっての“聖地巡礼”の一つなのだとか(因みに諏訪湖を望む上諏訪の立石公園もその一つです)。
お店のオバサンに「連休中は混んだでしょうね?」とお聞きすると、やや自嘲気味に・・・、
 「いえ、連休中もこんなもんですよ。古川は静かな街ですから・・・」
 「イエイエ、風情があってイイ街ですね。」
本当にそう思いました。

 静かでしっとりと風情ある飛騨古川の街を後に、飛騨高山市街を抜けて一路国道41号線で雨の中、目的地である下呂温泉を目指しました。

 槍ヶ岳や穂高連峰で有名な北アルプスですが、松本平からの北アルプスの風景でのシンボルは、何と言っても常念岳です。特にその常念を中心に、屏風の様に背後に拡がる北アルプスの峰々と黒い松本城は市民の誇る絶景です。

 常念岳は標高2857mと、(奥)穂高岳の3190mを筆頭とする北アの中では目立つ高さではありません(因みに、日本一の富士山から数えて常念岳は45番目でした)し、槍や穂高といった北アの主峰と比べると、日本百名山に数えられるとは言え、北アルプス登山のハイライトでもありません。でも、松本平に暮らす人達にとっては、一番親しみを感ずる山(松本からでは、槍は穂先だけ。穂高は全く見えません。因みに塩尻からは穂高連峰の先端部分が望めます)。
その優美なピラミッド型の姿はどこから見ても象徴のような気がします。ただ厳密に言うと、場所場所で微妙に姿かたちが異なります。きれいな三角形は松本から穂高くらいまででしょうか、豊科以北では屋根を斜め横から見る形となりますし、塩尻では、鍋冠や大滝山に邪魔されて、常念は殆ど隠れてしまいます。また、麓である堀金では、それこそ目の前全部が常念です(・・・という程の印象です)。
 以前、高校の大先輩でもあった豊科在住の或る会社の役員の方と長野県庁での会議の帰り、明科に近づいて北アの山々が見えてくるとどちらともなく「常念談義」になったのですが、その方は豊科からの常念が一番だと言われ、私は松本からの常念が、とお互い譲りませんでした。大人気ないと言われればそれまでですが、最後は結局生まれ育った場所からの常念が一番、ということにお互い落ち着きました。
 会社員時代に島内の事業所に勤務していた頃、朝の通勤路で宮渕から新橋への道へ合流すると、「常念通り」と名付けられているその名の通り、目の前にぱっと常念が現われます。特に冬はその姿を望める日が多く、それこそ涙が出るほど美しく、白く輝く常念に毎朝元気をもらったものです。
また、学生時代、帰省して松本に近づき常念が見えて来ると「あぁ、松本に帰ってきたなぁ!」と実感したものでした。

 残念ながら岡田・神沢からは、城山々系に邪魔をされて北アルプスは全く見えません。安曇野から神沢に嫁いできた近くのおばさんが「昔、嫁にきた頃は常念が見えなくて悲しくてしょうがなかった。」としみじみと話していたのを思い出します。また、母も常念の見える松本市の南部出身であり、昔元気だったころの早朝のウォーキングでは、必ず常念が見えるポイント(岡田松岡)まで歩いてから戻って来たそうです。
 以前放送された朝ドラの「おひさま」の時の安曇野は大変な賑わいだったようですが、小説『安曇野』により、それまで「安曇平」と呼ばれていた一帯が初めて「安曇野」と呼ばれるようになったのだそうです。
旧堀金村出身である著者の臼井吉見が堀金小学校の頃、当時の佐藤校長が朝礼で毎日生徒全員に「常念を見よ!」と言われて過したという逸話は有名です。常念が仰ぎ見える晴れた日ばかりではなく、雨の日も雪の日も、純粋な子供たちは“見えぬ常念”をきっと心の目で見つめて過したのでしょう。

 そういう意味で常念は登る山ではなく、日々眺めて暮らす山なのかもしれません。
この松本平で暮らす人々は、生まれてから死ぬまで、日々常念を仰ぎ見て、力をもらいながら人生の喜怒哀楽を過ごしてきたのです。
【注記】
ここに掲載したのは、この5月を中心に、松本市の城山々系から撮影した常念岳です。
凛とした気高い冬の常念も素敵ですが、雪解けが進んで谷に雪が残る今頃の常念が個人的には一番好き。版画の下絵になりそうな、風薫る5月の常念です。

 一年ほど前に旅番組を見ていて、瀬戸内の「レモン鍋」に興味を惹かれ、家で試してみました。皮を剥かずにそのまま使うので、ワックス等を使っていないレモンにする必要があります。そこで瀬戸内は広島県産の国産レモンを2個買って、醤油ベースの寄鍋風にして、最後にスライスしたレモンの輪切りを並べ暫く煮て(余り煮過ぎると苦味が出るとのこと)食します。正直物珍しくはあっても、然程感激するほどではありませんでした。
 問題は、1つ余ってしまったレモン。暫く冷蔵庫に入っていましたが、これと言った(料理の食材としての)使い道もなく、一週間ほどそのまま・・・。このままだと傷んでしまいます。どうしたものか・・・。
・・・という訳で、最近巷で流行っているらしい「塩レモン」にすることにしました。スーパーのレモン売り場の近くにレシピが置いてありましたし、ネット上にもたくさんレシピが紹介されています。この「塩レモン」はレモンを塩漬けにして発酵させた、元々は北アフリカのモロッコの万能調味料だそうです。
これが塩麹などと同様に、発酵食品ブーム、或いは「食べるラー油」など同様に調味料ブームの中で、最近注目されているのだとか。しかも、ただレモンを切って塩に漬けて発酵させるだけ・・・という手軽さが人気の理由のようです。
しかし、作ってはみたものの(と言うより、他にレモンを使うレシピ無し)一体何の料理に使えば良いのか・・・?
説明書に拠れば“万能”で「何にでも使える」とあるのですが、そうは云っても元材料は「レモンと塩」だけですから、そこに発酵の結果、仮に何らかの“旨味”が加わったとしても、例えば甘味や辛味の代替には成り得ません。発酵食品故に、若い女性であれば美容効果など期待するところではあるのでしょうが、中高齢ともなるとそこまでの拘りもありません。
お薦めレシピを検索し、定番の鶏肉や鮭のソテーやパスタなどを試してみても、塩レモンだからこそ・・・という感激や満足は特には我が家では得られませんでした。
 「別に、他の調味料でもエエやん・・・」
・・・と、結局、冷蔵庫の中で一年近く眠ったまま。

 この春先、いただいたホウレンソウやセリ、小松菜などで常夜鍋を作った際にポン酢で頂いたのですが、そのポン酢の中に塩レモンと粗挽きの黒コショウを入れてみました。すると、これが何とも美味!
塩レモンも一年近く冷蔵庫に入れっ放しにされていたため、その結果熟成が進んで苦味が消え、何ともまろやかな味に変化していました。以降、常夜鍋の時の定番になり、一年間使われずにいた塩レモンがあっという間に無くなってしまいました。
 そこで、以前頂いたまま、特にこれだという使い道が無くそのままだった国産レモン二つを次の塩レモンにしてみました。
1ヶ月経って発酵が進んだので、また冷蔵庫へ。次に常夜鍋を食べる時まで、きっとまろやかに熟成が進んでいるだろうことを願って冷蔵庫で保管しておこうと思います。

 『飯田城の天守閣が松本に移送されたという伝承がある』
一瞬、ホンマカイナ!?と思いました。そして、その前提は松本城の乾小天守だとか。

 松本城の天守閣は現存する12天守の内、姫路城と並ぶ壮大な五層六階。乾小天守は三層四階の天守であり、小天守と言いますが、例えば同じ国宝の犬山城が三層四階の天守閣であり、彦根城は三層三階の天守閣です。
従って、五層六階の天守閣だけではなく、三層四階の乾小天守は辰巳、月見の櫓を持つ連結複合式の松本城が(石高からすれば)如何に大規模な城であるかが分かります。従って、三層四階の乾小天守は、他のお城であれば仮に天守閣であっても全くおかしくは無いのです。
 ネットで探してみたところ、地元飯田の方の書かれた「飯田城」に関する記述が見つかりました。一部を抜粋すると、
『(前略)天守閣があったはずだとする理由は、おおよそ次の通りです。
豊臣秀吉に命じられて飯田城主となった毛利秀頼・京極高知は、ともに秀吉の信頼が厚い側近でした。秀頼は「羽柴」の称号と「豊臣」の姓を授かっていたほどですし、高知の姉は秀吉の側室となっていました。飯田城主毛利・京極氏の10万石に対して、松本城主の石川氏は8万石、諏訪の高島城主の日根野氏は3万5千石であるのに天守閣をつくっています。ですから、毛利・京極氏が天守閣をつくらなかったはずがないというのです。さらに古い書物には、飯田城の天守閣を松本城へ移した、ということが書かれています。飯田城主であった小笠原秀政が1613年(慶長18)に松本城主となるとき、飯田城の天守閣を解体して運んだというのです。松本城には、5重6階の大天守に、3重4階の乾子天守がついた形となっています。この乾子天守がもとは飯田城の天守閣で、山伏丸のあたりにあったのでは、という説があります。ところが、現在の飯田城には天守閣があったことを示す跡はありません。また松本城でも、それを裏付ける証拠は見つかっていません。そこで、飯田城はその地形からみて天守閣は必要なかった、という考え方や、あるいは天守閣の建設は計画倒れで終わったのではないか、という説もあります。しかし一方で、松本城の乾子天守が初めから現位置に建てられたにしては不自然だ、という人もあるのです。はたして飯田城に天守閣があったのか、いまだに大きなナゾと言えます。』
とのことでしたが、記載に誤りがあります(と思います)。
と言うのも、徳川家康の関東移封に伴いその監視役として、石川数正が秀吉に命じられて大阪和泉から関東に近い松本に移封されたのですが、和泉8万石から減じられる筈も無く、当時松本藩は10万石でした。数正の死去に伴い、長男(嫡男)であり松本城の天守閣を完成させた康長が8万石、次男康勝が1万5千石、三男康次が5千石と10万石を分割しています。
関ヶ原の後、家康の傘下にいた小笠原秀政が飯田藩(その前は古河藩3万石から飯田藩へ加増移封されていた)から加増されて藩主として松本藩に移封さえるのですが、飯田藩は5万石であり、松本藩は8万石となっています。小笠原氏は信濃守護として信濃の国府であった松本(深志)で信濃を治めた名家であり、その嘗ての本家である地元松本への旧領復帰としての移封ですので、失態等が無ければ減じられての移封ではある筈もありません。
飯田の松尾小笠原氏は深志小笠原氏の分家であり、松本が本家筋ですので、強い意志があれば分家から本家へ天守閣を移すこともありうるかもしれませんが(因みに彦根城の天守閣は大津城から移築されています)、松本には石川親子が築いた立派な天守が既に存在しており、わざわざ労力を掛けてまで小天守を飯田から移して来る必要性は無かったと思います。
秀政が松本へ移ったのは1613年で大阪夏の陣の起こる2年前ですが、秀吉が関東に遠ざけた家康に睨みを効かす最前基地としての松本であったため、領地の石高10万石の規模からすれば破格の大天守を持つ城を石川親子に造らせたのでしょうが、秀政が松本に移った1613年には、家康にとって松本は政敵である豊臣家に睨みを効かすための有効な場所ではありませんので、戦略上も松本城を強化する必要性は無かった筈です。
従って、辰巳櫓と共に複合連結式天守を構成する乾小天守は、石川親子の築城当時から存在していたと考えた方が極自然だと思われますが、果たしてどうでしょうか。飯田城の天守が松本にあるというのも、戦国の世の大いなるロマンを感じさせますが・・・。