カネヤマ果樹園 雑記帳<三代目のブログ>

 9月11日の土曜日。NHKの「ブラタモリ」で、遂に松本が取り上げられました。題して「松本~国宝・松本城はなぜ愛された?~」。

 先ずは、松本城の黒門付近から国宝松本城の紹介に始まり、「なぜ防御に弱そうに見える平城の松本城が、この場所に建てられたのか?」という命題を、松本城の周囲を歩きながらタモリさんが解き明かしていくというストーリー。松本平(盆地)の東側に位置する、女鳥羽川と薄川等で構成された複合扇状地である松本の地形とその扇端に位置することで豊富な湧水群の関係、そして大地溝帯フォッサマグナの東端に位置する糸魚川静岡構造線との関係をふまえながらの街歩きでした。
 ブラタモリは毎回郷土史家や地質学の専門家が登場して、博識(幅広い雑学的な。とりわけ岩石などの地学に関して)のタモリさんがその専門家のヒントを元にその地域の特徴や背景を解き明かしていくのですが、そうした展開は松本編でも同様でした。
松本市民としては当然ですが、或る程度知った内容が殆どで目新しさは然程無かったのですが、ただ余りに武田信玄を評価していたのは松本市民的(?)にはちょっと違う!かな・・・(注)。
確かに、現在の松本城の在る場所を統治の中心地として目を付けたのは武田信玄かもしれませんが、元々は信濃守護であった小笠原氏の支城(本拠は山城の林大城)があった場所。
また武田信玄の信濃侵攻では、善光寺街道(正しくは北国西往還。北国西街道とも)ではなく、むしろ八ヶ岳山麓を巻く様に走る信玄棒道と呼ばれる軍用道路を使って諏訪から進軍し、抵抗する佐久小県の名門村上氏との戦いが信濃攻略の中心であり、その後敗れた村上氏が越後の上杉謙信を頼ったことから五次に亘る川中島の戦いに繋がっていきますし、先述の善光寺街道は戦国時代ではなく江戸時代の慶長10年に開削されたとあることから、武田信玄と善光寺街道や飛騨への野麦街道を殊更結び付けるのは些か(歴史上は)違うのではないかと思います(時系列は兎も角、地理的には、この地がそうした主要街道が交わる交通・物流の要所であったことは間違いありません)。
武田信玄が松本支配にあたって、それまで小笠原氏の拠点だった山城ではなく新たに湿地帯に在った支城を整備し、松本の城下町としての町割りの基礎を築いたことは間違いありませんが、元々松本は東山道の拠点として奈良時代に信濃国府が上田(小県)から筑摩に移され、また古くから“束間の湯”として都にまで聞こえた地として、天武天皇が行宮(あんぐう。行幸時の仮御所)造営まで計画したという古くから栄えた地でもあり(その頃の中心は当然ながら今の市街地とは異なります)、その後信濃守護の小笠原氏の統治の拠点として信濃国の中心であったことは疑いありません(地政学的にも山々に囲まれた信濃国全体を治めるには、真ん中の筑摩、現松本は合理的です)。
従って、現在の松本城の場所を拠点に城下町を整備(外堀として活用すべく女鳥羽川を直角に改修するなど)した信玄の目の付け所の良さは認めつつ、松本城(の場所の選定)を語るには、家康の幼馴染から豊臣方に寝返って最初に壮大な城を築いた数正の石川親子や、信玄より先に最初の砦(支城)を置いた小笠原氏にもスポットが当たっても良かったかな・・・と思いました。
ただ家光の従弟であった松平直正(その後松江に転封されたので、結果現存の国宝五城の二つを居城としたお殿様であり、松本から蕎麦職人を連れて行ったのが出雲そばの起源とされる)が辰巳附櫓と月見櫓を家光のために増築し、複合連結式天守の現在の松本城を完成させたことは事実ですが・・・。
また、タモリさんならきっと気付かれた筈なので(番組の構成上時間無し?)、本丸庭園から眺めた時に、大天守の最上層の5階と4階のバランスが悪い(4階に比べて5階が大き過ぎる)ことを指摘(真冬の厳しい寒さで高欄が霜で傷むために、創建時の望楼型をその後層塔型に改修)して欲しかったなぁと思いました。
 複合扇状地の扇端である松本の市街地を巡り、湧水(平成の水百選「まつもと城下町湧水群」)を巡りながら、湧水を活用したお堀や街中の水路を泳ぐニジマスに驚くタモリさん。
因みに、ニジマスかヤマメなのか(街中を流れる女鳥羽川には地元でアカウオと呼ぶウグイが生息しているそうですが)分かりませんが、私メが源智の井戸で地元の町会の長老の方に教えていただいた話では、源池の水源から流れ出る川(蛇川か榛の木川)の水源近くの料理屋(だったか)のご主人が昔何10匹の稚魚を放して、それが今でも生息しているとのこと。実際、私が水を汲みに行く源智の井戸の脇の水路(榛の木川)にはヤマメ(魚影が黒いので)が泳いでいますし、昔は(誰かが植えたと思われる)ワサビが生えていました(その後、地元のタウンペーパーで高校生の悪ガキ共が何匹か釣り上げてしまったという記事もありましたが、まだ蛇川中心に生き残っているようです)。確かにタモリさんが驚かれたように、コイではなくニジマスかヤマメかの淡水魚(渓流魚)が街中を流れる水路に泳ぐというのは、松本の豊富な湧水のお陰です。
 個人的に、ブラタモリを視て驚いたこと。
タモリさんが早大のジャズ研におられたことは知っていましたが、学生時代に毎年クリスマスに松本のレストラン(松本楼か松本館)でジャズを演奏しておられたとのこと。「懐かしい・・・」とため息をつかれていたのが、一番印象に残りました。
余談ですが、「笑ってイイとも」が終了したので「ブラタモリ」で地方ロケに出られる様になったのでしょうが、出来れば初任地が長野放送局だった桑子アナウンサーが担当していた時代に、是非松本や諏訪(タモリさんが大好きな地学に特化し、黒曜石やフォッサマグナを取り上げておられた由)に来ていただいていたら、お二人のやり取りがさぞ興味深かっただろうとチョッピリ残念でした。
【注記】
勝頼の母でもある湖衣姫(小説上での名称。信玄の側室だった諏訪御寮人)始め、武田家と縁戚関係(同盟)だった諏訪家と違って、ただ信玄に侵略されただけ(城を捨てて逃げた領主小笠原長時も情けないですが)の松本は然程信玄に愛着は感じません。
更に言わせてもらえれば、「長野の松本」や、「長野の諏訪」或いは「長野の上田」じゃ、一体どこのことか分からないじゃないですか!「長野県の・・・」と言わないと・・・。なので信州と云えば一発で理解されるのです!・・・。
昔、県外の方と冬場に仕事で電話をすると、「いやぁ、“長野”は毎日雪で大変ですね!?」と良く挨拶の中で言われたことがあるのですが、都度「それは、日本海側の気候の影響を受ける長野市のことで、北アルプスに遮られる内陸の松本や諏訪では殆ど雪は降らないんです!」と説明するのがホント面倒臭かったのです。だから「長野」じゃなくて「信州」なのです!(というのが、“ケンミンショー”的には如何にも理屈っぽい“信州人”or“長野県人”足る所以なのですが・・・)。

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