カネヤマ果樹園 雑記帳<三代目のブログ>

 現役唯一の人間国宝の落語家だった柳家小三治師匠(本名・郡山剛蔵さん)が7日、心不全のため亡くなりました。まだ81歳でした。
師匠の柳家小さん、桂米朝に次ぐ三人目の“人間国宝”であり、“昭和の名人”と云われた噺家でした。
高座を大事にした噺家なので、あまり録音や録画に触れる機会が無く、勿論生で聴いたことも無いのですが、図書館のCDコーナーにある古い録音で、「芝浜」と「高砂や」を聴いたくらいでした。
それが、最近なのか、「令和の新シリーズ 小三治の落語CD」と題された全6巻のCDがコーナーに並んでいたので、その中の2枚組の「ま・く・ら」2巻をたまたま借りて聞いていたのですが、その借りて聞いていた間に師匠の訃報が飛び込んで来たのです。
訃報を伝えるTVのテロップに、「えっ・・・」と一瞬絶句。そして、ちょうど師匠のCDを借りていた、まさかの偶然に唖然・・・。

 本来落語のまくらはネタへの導入部分なのですが、小三治師匠の「まくら」は「まくら」そのものが芸で、その「まくら」を聞きに来る客も多いという“伝説”があり、その結果「ま・く・ら」と題した師匠の「まくら」だけを集めた本やCDが出版されているのです。前述の「芝浜」などの古典落語のCDは、当然ネタがメインのCD故、まくらを楽しむことは出来ません。
そこで、1999年から2011年までに行われた「朝日名人会」での音源から厳選されたという、この全集に収められた師匠の十八番と云われる「猫の皿」や「鰻の幇間」、「厩火事」といった古典落語のネタではなく、先ずはこの「ま・く・ら」のCDを借りた次第です。

 2巻4枚のCDには、「あの人とってもこまるのよ」と「人形町末広の思い出」(注)と題された「まくら」が2題入っているのですが、その「まくら」がそれぞれ1時間半~2時間・・・。これって「まくら」じゃない・・・。それもその筈で、最初から「まくら」だけを演ずる前提の独演会だったのだそうです。
他の独演会の高座でも、まくらを1時間近くしゃべった後でネタを15分話して終わりという様な高座もあったといいます。そのネタは前座ネタである「道灌」だったとも・・・。是非一度師匠の演ずるその「道灌」を一度聴いてみたかったと思います。というのも、師匠の弟子である柳家三三師匠が落語監修をした尾瀬あきら氏の「どうらく息子」で、酒に溺れた夢六師匠復活の高座ネタが「道灌」でした。
 落語ではなく、ピアニストを頼んで好きな歌を歌うだけのステージもあったという師匠だけに、「あの人とってもこまるのよ」では好きだという師匠の歌う中田喜直の曲も収録されているのですが、正直、師匠の歌を聞きたいとは然程思えませんでした(残念ながら、所詮は素人の域)。
一方の「人形町末広の思い出」には前座時代からの思い出が語られますが、芸に厳しかった「名人圓生」に憧れ、その三遊亭圓生からも可愛がられて一時は圓生一門より自分の方が上手かったという亡き圓生のモノマネ。一字一句変えてはいけないという圓生に稽古をつけてもらった「蒟蒻問答」で、後で正蔵(彦六)師匠と師匠の小さんに圓生の間違いを指摘されて直し、或る日その「蒟蒻問答」を高座に掛けていた時に、人形町末広の楽屋に圓生、小さん、正蔵の師匠三人が火鉢を囲んで黙って自分の口座を聴いているのを見て、高座で一体どうしたらいいのかと七転八倒し冷や汗をかいたというエピソード。“圓生のモノマネ”と兄弟子に馬鹿にされ“脱圓生”を目指したことや、やがては小さん師匠の云う「了見」を自然と目指すことになったことなど、「“放し飼い”にしてくれたのが良かった」という師匠小さんの思い出。更には、“兄さん”と慕った志ん朝師匠との弥次喜多道中の様な欧州旅行でのハプニング・・・などなど。
因みに、日常の世間話の様な師匠独特の「まくら」を話すようになったきっかけは、昔ラジオ東海で数年間深夜放送のDJ(ナナハンを乗り回し、スキーやオーディオなどの多趣味で知られる師匠が、好きなクラシック曲を何でも放送中に掛けても良いというので引き受けた)をしていた時に、毎回の深夜放送では台本が無いので、その日にあったことや感じたことなど、そんな世間話をただ喋っていたことだったという裏話も・・・。聴きながら、ライブでの聴衆同様に笑い転げていました。

 東大工学部卒のヘヴィメタ専門誌の編集長にして落語の評論もされる(というより、個人的にはブラスロックくらいならともかくヘヴィメタは一切聴かないので、落語に関する評論でしか氏を知らないのですが)広瀬和生氏の言を借りれば、小三治師匠は、
『落語という「形式」を語るのではなく、高座の上に「人々の日常」を描き出す。そこにあるのは誰もが共感する「人間という存在のかわいさ」。声のトーンや表情のちょっとした変化だけで笑わせてしまうのはまさに「名人芸」だ。』
写真(注:落語協会のH/Pから拝借しました)からも分かる通り、照れながら高座でニコッと微笑む顔が本当に可愛いとさえ感じられる小三治師匠なのでした。

 最後の高座は10月2日、東京・府中の森芸術劇場での「猫の皿」。更に、亡くなった数日後にも高座に上る予定だったという、最後まで現役を通した“昭和の名人”噺家小三治師匠。まさにアッパレなPPKでした。
謹んでご冥福をお祈りいたします-合掌。
【注記】
「人形町末広」は1867年開業という、江戸時代以来の客席全て畳敷きの落語定席で、1970年に閉場。(写真はカード会員誌の2016年「落語特集」に掲載)

 10月6日のBS11「太田和彦の居酒屋百選」で、久し振りに松本が登場していました。以前、同「ふらり旅」の中で「松本」が取り上げられて以来(第776話参照)だと思ったのですが、今回紹介された店は2017年に太田和彦氏が紹介して以来とのことでしたので、どうやら私メはその回を見逃していたようです。

 高校の大先輩である太田和彦氏は、本来はグラフィックデザイナーですが、趣味が高じ“居酒屋評論家”として、「いい酒、いい人、いい肴」をモットーに良い居酒屋を日本全国探し求め、その著書数知れず。中でも「居酒屋放浪記」全3冊は(飲兵衛としての)我がバイブルですし、同様に「居酒屋百名山」も登山の「日本百名山」同様に、この本を片手に全国の名居酒屋を訪ね歩く飲兵衛も多いとか・・・(羨ましい限り)。
そんな太田和彦氏が最初に故郷松本を取り上げたのが、「居酒屋放浪記」の「立志編」での「塩イカに望郷募り」でした(第505話参照)。
 北陸で長野県専用に加工された塩イカが、信州では街中のスーパーにも家庭の常備食の食材として並んでいます。そのままでは塩辛くてとても食べられたモノではありませんので、塩抜きをしないといけません。食べて多少塩気が感じられるように塩抜きするのがコツ(そのためか、今では「塩抜き済み」と表示された“塩イカ”まで販売されています)で、刻んだキュウリと醤油で和えるだけの素朴な料理(とは言えない程のレシピ)なのですが、昔の(各家庭で行われた)冠婚葬祭には必ず用意された一品です。
子供心には然程美味しいと思った記憶は無いのですが、母の実家で当時大学生だった新宅の叔父が帰省していて、母と叔母から何が食べたいか聞かれ、塩イカと即答していたのが妙に記憶に残っています。そんな叔父や大田和彦氏ではありませんが、自分も大学生になって信州から離れてみると、帰省しないと食べられない郷土食こそ懐かしいと感じる気持ちが理解できるようになりました。
ただ私メは、帰省すると必ず飴色に漬かった祖母の野沢菜漬けを、食事と“お茶”の時に毎度一人で一把全部食べてしまい、祖母が呆れて(胃を)心配するくらいでしたが、塩イカをリクエストしたことは一度も無かった気がします。

 今でも「塩イカ」は松本の居酒屋だけではなく、例えば蕎麦屋の「みよた」でも酒の肴の一品として食べることが出来るのですが、塩イカもキュウリもその切り方が違うんですね、これが!どちらも細切りになっているのですが、本来の塩イカはイカもキュウリも丸く薄切りにしないと・・・。

 番組中に、コロナ禍で飲みに行けないのでリモートで高校の先輩という松本の馴染みの店(家庭料理「あや菜」)の女将さんと若女将と会話した後で、その松本のお店から送ってもらったという塩イカをご自分で調理された太田さん。先程言ったように塩イカを塩抜きし、ちゃんと丸く切って(割いて)、キュウリも丸く薄切りしてから(氏は更に塩もみをして)醤油を掛けて食べていました。
お見事!さすがは正統派の塩イカと感心した次第です。

 9月末、松本市役所に或る届け出に行きました。
その前に県の申請した書類に不備があり、松本の合庁の県の担当の方から電話があり、丁寧に説明を頂いた上で「市役所に行って〇〇の届をして証明書をもらってきてください」とのことでした。
住民票の様な一般的な申請書ではないので、先ず窓口(コンシェルジュ)で確認し、指示いただいた市民課窓口へ。そこで依頼内容を伝えると、だったらと、同じ市民課の別窓口へ案内されて男性の担当の方が担当してくださいました。
その方曰く、
 「この届出には〇〇の“写し”が必要ですが、原本は法務局にあります。」
とのこと。
松本市の地番に関することだったので、
 「法務局へ行かないとダメなんですか?松本市の地番に関することなのに、ここ(市役所)では分からないのでしょうか?」
とお聞きすると、
 「原本は法務局に在り、後で市にも“写し”が法務局から送られては来ます。」
 「提出しなければいけない書類は、市役所にある“写し”でも宜しいのですか?」
 「ええ。でも市には後で送られて来るので・・・。」
と言われたので、申請書にはちゃんと取得時期を記入していますので、些かイヤミっぽく・・・、
 「あの、当該物件を取得したのは今から24年前ですが、20年経ってもまだ法務局から市には送られて来ないのでしょうか???」
 「あー、ええと・・・、それだと市民税課にあるかもしれませんネ・・・。」
 「“写し”というのは“コピー”で宜しいんですよね。原本ではなく、市民税課にあるその“写し”のコピーを頂ければ宜しいんですよね!?」
 「・・・えぇ~・・・ハイ・・・それでも結構です・・・」
 「“それでは”いけないのですか??」
 「いえ・・・大丈夫です・・・」

 そこで、市民税課の場所をお聞きして、別棟2階にある市民税課に伺い、趣旨を説明すると、親切に対応いただいた男性職員の方が
 「私も以前市民課に居ましたが、確かにこの書類の写しが必要ですよね。」
 「有料になりますけど、コピーを差し上げますね。」
と300円の手数料を払って、“写し”をくださいました。
そして、また一階に戻り市民課で書類を提出しました。
20分ほど待って手続きが終了し、必要な証明書を無事入手することが出来ました。
すると、その際、証明書と一緒に先ほど提出した“写し”が戻 って来ました。
 「えっ?・・・あのう・・・この“写し”は必要無いんですか???」
 「ハイ、確認出来ましたのでもう結構です。」
 「証明書の発行手数料300円いただきます」
 「・・・」

 えっ、一体何なのだろう・・・。決して600円を問題にしているのではありません。
申請手続き上の確認のために“写し”の確認が必要なのは分かります。
その写しは市役所から2㎞も離れた(国の)法務局に(原本が)あるから取りに行けと言われた市民課の男性担当者。片や、“写し”のコピーをすぐに取ってくれた市民税課の職員。
ただ、“写し”が同じ市役所内にあるのなら、(確認に必要な手数料を払っても良いから)無駄なコピーを取らず、職場間で確認できないのでしょうか?(今回で云えば、申請者を待たせて、市民課の担当が市民税課まで“写し”の確認へ行って来る)。
決して300円が問題では無く、紙の使用量を削減しようとどこの自治体も環境対策の“お題目”上は取り組んでいる筈・・・。
もしこれが民間企業なら、書類の在る「法務部へ書類の確認に行ってくるね!」とか、「経理に行って伝票を確認してもらうね!」となるのが普通ではないでしょうか?・・・。
建て替えせずに老朽化した半世紀以上も昔の庁舎を使っている、松本市役所故の不便さはあるのでしょうが、市民課から市民税課へは、東庁舎の一階から、横断歩道を渡った西庁舎の二階の市民税課まで歩いて数分の距離。市と県、市と国といった、権限や管轄の異なるお役所ならともかく、市民課も市民税課も同じ松本市役所内の別職場なのです。

 市の職員は“Civil Servant」”、市民へ仕え捧げる人です。
松本市が大好きで、生まれ育った松本のために貢献したいという高い志を以て奉職した皆さんである筈です。勿論、イヤなこともあれば、日々「コンチクショウ!」と思うこともあるでしょう。
しかし、利益創出のために社内では一円を削り出しながら、外部のお客様には如何に満足をしていただけるかを日夜考えている民間企業ではあり得ない対応ではないでしょうか???
トップが替わろうと、こんな職員じゃ何も変わらないだろうな・・・と思えた、呆れてガッカリの松本市役所でした。

 正直、そんな文句の一つも言いたいところ・・・。
しかし出来る筈もなく、はぁ~・・・と溜息をついて、自分の胸の中でブツブツ嫌味を言って市役所を後にしました。
 「イヨッ、見事なお役所仕事。はぁ~あ・・・、アッパレ!!」

 10月3日の日曜日。いつもの早朝ウォーキングです。
朝7時半頃自宅を出て、旧開智学校から松本城公園を通って、四柱神社から天神の深志神社まで。駅周辺でモーニングを食べて少し英気を養って帰りの登り坂へと、往復8~9㎞のコースです。

 朝8時。お城の開門までは30分あるので、まだ松本城の観光客は疎ら。緊急事態宣言が解除され、週末は松本にもかなりの観光客が来られていますが、まだ街中も静かです。
いつも通りに大名町から女鳥羽川沿いの縄手通りへ。正面鳥居から境内に入って先ずは四柱神社へお参りです。
すると、まだ閉まってはいましたが露店が幾つも並んでいて、境内には提灯と大きな幟も飾られていました。
 「あっ、そうか・・・。神道祭りだ!」
曜日に関係なく、毎年10月の1日から3日まで行われる、松本四柱神社の例大祭である神道祭り。正しくは神道祭(しんとうさい)ですが、子供の頃から「神道祭り(しんとまつり)」と呼んでいましたし、四柱神社のことも「神道神社(しんとじんじゃ)」と呼んでいたかもしれません。

 神社庁の四柱神社のH/Pに依れば、
『明治天皇御親政に当り、惟神の大道を中外に宣布し給う思召しを以て、筑摩県庁の所在地である松本に、明治7年2月神道中教院(宮村町長松院跡、後神道事務分局)が設立され、院内に天之御中主神・高皇産霊神・神皇産霊神・天照大神の四柱の大神が奉斎されてきたが、明治12年10月、新たに一社を興し、四柱神社として、現在地に厳かに鎮斎され、隣接して神道事務分局も新築せられたのである。その経費は、中南信全域(旧筑摩県)の神職、県庁その他諸官衙、一般篤志家の浄財と奔走によった。翌十三年六月、当地方に初めて行幸があり同月四日、新築新装なったばかりの神道事務分局を行在所を定められ、松本に陛下をお迎えできたのであった。この由緒ある社殿及び事務局の建物の一切が明治二十一年一月四日の松本大火に類焼、以来仮殿に奉斎されて来たが、大正十三年に至りようやく御鎮座当初と同じく中南信全域の奉賛を得て、現在の社殿が再建された。ちなみに、前述の縁由によって、当地方では四柱神社と申し上げず「しんとう」(神道)の呼び名で広く一般市民に親しまれている。加えて当神社例祭も"神道祭″と呼ばれ、松本平を代表する盛大秋祭として斎行されている。』
とのこと。
要するに、明治になって国家神道として神道を国教化するにあたって、松本でも天照大神を始め四祭神を奉る四柱神社が明治12年の10月に建てられ、翌13年には明治天皇の行幸時に四柱神社が行在所になったということで、四柱神社そのものも新しいのですが、10月の創建を記念した例大祭が神道祭ということです。
明治になっての最初の藩知事となった最後の松本藩主戸田光則の主導により、松本は、新政府の王政復古に伴う国家神道化に関連した廃仏毀釈運動が全国でも最も激しく行われた地の一つと云われ、その吹き荒れた廃仏毀釈の凄まじい嵐の中で、180あった松本藩内の寺の内8割にも及ぶ140の寺が廃寺になったと云われますが、その反動で神道がもてはやされた証が、この四柱神社創建とその例大祭の盛り上がりだったとも言えるのかもしれません。

 堅い話はさておき、幼少時代、農家の子供が親に手を引かれ、松本の“町に行く”ことが出来たのは唯一この神道祭りの時だけでした(もしかすると違うのかもしれませんが、幼少期の自分の記憶では。例えば、初詣も昔は必ず地元の産土神でした)。
子供の目には“大都会”の様にさえ思えた、人出の多い賑やかな“町”を歩き、露店の並ぶ縄手通りから四柱神社へお参りし(この頃はまだ施しを求める傷痍軍人の方々が街頭におられました)、せいぜいラーメン(支那そば)か信州蕎麦だったと思いますが、年に一度の“外食”で“ご馳走”を食べるのが唯一の楽しみだったと記憶しています。そういう意味で、子供心にはお正月よりむしろ神道祭りの方が楽しみだったと思います。
今では色んなイベントがあり、我が家の子供たちは(彼女等の幼少時代はシンガポールだったこともありますが)神道祭りには一度も行ったことは無かったかもしれません。少なくとも、年に一度の神道祭りを楽しみに“町へ行く”という様な昔のワクワクした感覚は、今の時代は全くありません。従って、我が家同様に、神道祭りの市中の熱気も昔ほどでは無いのでしょうが、それでも神道祭りと聞くと、少なくとも私メは昔を思い出して何となく高揚感を多少は感じる気がします。
 昔ほどでは無いにしても、露店が並び、提灯や幟が飾られて、いつもの境内とは違って華やいだ雰囲気。朝早く、まだお祭り前の準備で、禰宜さんたちや巫女さんたちが境内を掃き清めたり、神事の準備をしたりと忙しそうに動き回っておられました。
参拝のためにいつもの様に手水舎で清めていると、どこからか「因幡の白兎」のメロディーが聞こえてきました。四柱という四祭神の中に天照大神はいても、国を譲った大国主命はおられなかった筈・・・。
 「えっ、何で大国主?」
すると、昔の神道祭りでの記憶には無かったのですが、境内に人形の舞台が作られていて、その舞台が「因幡の白兎」の場面だったのです。ウサギを助ける大黒様とワニに皮をむかれて真っ赤になったウサギなどの人形と共に、その縁起と歌詞も掲示されていて、正しくは唱歌「大黒様」がその題名と知りました。
 『♪大きな袋を肩にかけ 大黒様が来かかると ここに因幡の白うさぎ 皮をむかれて 赤裸』
という懐かしい歌詞。
因みに、剥いだ皮を口にくわえたワニはちゃんと鮫でした。余談ですが、中国地方では今でも鮫の切り身がワニと呼ばれてスーパーなどで販売されているそうですが、子供の頃、この昔ばなしを初めて聞いた時に、どうしてこの日本に熱帯のワニがいるのかと訝しんだ(ウソだと思った)記憶があります。

 お参りした後で、そんな賑やかに飾られた境内を歩いていると、何となく昔の子供時代にタイムスリップした様な、子供の頃の“神道祭り”のワクワクした気持ちが少し湧いてくる様な自分がそこに居て、懐かしく感じて暫し境内に佇んでいました。

 “暑さ寒さも彼岸まで”と云いますが、今年は9月になっても余り残暑がなく、またなかなかスカッとした秋晴れもありませんでした。
ところが、お彼岸を過ぎたら“残暑”なのか、信州でも28℃を記録するなど急に夏が戻った様に暑くなり、日中はまた半袖を出して着てみたり・・・。
そして10月の声を聞くと天気の良い秋晴れの日が現れる様になり、日によっては松本平からは北アルプスの峰々も遠く白馬方面までクッキリと見渡せるようになりました。
9月末にはやっと緊急事態宣言も解除されたので、週末は松本の街中でも観光客や県外車が目立つようになりました。

 我が家では、10月中旬にビッグイベントが予定されているので、今年の秋の旅行はありません。秋の紅葉も、仮に見に行けたとしても、せいぜい日帰りで行ける範囲で楽しむしかありません。
そんな代わり映えのしない普通の日常生活の中ですが、でも気を付けて見ていると、身近な街角にも季節の移り変わりを感じたり発見したりすることが出来ます。

 そこで、週末の“街角ウォーキング”の際に見つけた、そんな何気ない松本の“夏から秋への衣替え”の幾つかです(掲載の写真は、何れも9月19日に撮影しました)。

 最初は、蟻ヶ崎のコマクサ道路沿いに在る塩釜(鹽竈)神社の境内の隅で見つけた、古い道祖神とヒガンバナ。天候不順な年でも、その名の通り秋のお彼岸近辺になるとチャンと咲くから不思議です。別名曼珠沙華(マンジュシャゲ)。そのおどろおどろしい程の赤に、好き嫌いは分かれる様ですが、彼岸花の名前通りに秋の訪れを感じさせてくれる花です。
因みに、この塩釜さまは文字通り奥州一之宮の鹽竈神社の分社。鹽竈神社の祭神は塩作りを広めた神様だそうですが、全国に100社を超える分社が在るとはいえ、なぜ塩作りとは全く関係の無い信州に鎮座しているのかは不明。江戸初期に勧請したそうですが、地元ではむしろ安産の神様として慕われています。家内も戌の日に、母に連れられて塩釜さまに安産祈願にお参りしたとか。
 二枚目の写真は、松本中町の街中で見つけたガクアジサイです。本来アジサイは梅雨から夏の花。従って他の花は既に全部咲き終わっていますが、この花だけが咲き忘れていたのか、一輪だけ遅れて咲いていました。アイルランド民謡の“The last rose of summer”(日本名は「庭の千草」)ではありませんが、まさに“夏の名残の花一輪”、夏の終わり・・・です。
 最後は、秋晴れの松本城。澄んだ秋空と、その青に同化するように夏山の青い屏風の北アルプスが背後に聳えます。山では9月に入って、もう初氷も張ったとか。冬山もすぐそこです。そして、まだ夏の名残のそんな青を背景に、黒と白が映える松本城。漆喰の白が輝く“白鷺城”の姫路城とは対照的に、別名烏城と云われるのは白の漆喰と黒漆の下見板のコントラスト故ですが、岡山城や松江城などと同様に豊臣の城を代表するのがこの黒です。良く“漆黒の闇”と云われますが、それはこの黒漆の黒色を指します。個人的には雪の松本城の方が、よりモノトーンの城が映える気がして好きですが、お城には四季折々の顔があり、これからお城は欅と桜の紅葉に包まれます。
また、ちょうどこの時期は年に一度のその黒漆の塗り直し作業で、先ずは月見櫓が作業用シートで覆われていました。
松本城管理事務所のH/Pに依ると、今年は8月30日から10月22日まで行われる天守閣の漆の塗り替え工事で、そのうち9月4日から10月19日頃まで月見櫓にシートが掛けられるとのことです。
お城の黒漆の塗り替え工事、どうやらこちらも夏から秋への松本城の衣替えのための恒例行事です。

 二度の幕内優勝と三役在位が通算26場所と、その素質を高く評価される長野県木曽郡上松町出身(注)の関脇御嶽海。
これまで何度も大関昇進の可能性がありながらことごとく失敗し、同じフィリピンハーフの先輩力士の高安、学士力士の先輩正代、後輩貴景勝・・・と、後からチャンスを掴んだ力士が皆追い越して先に大関に昇進。気が付けば、もう28歳・・・。

 横綱輪島の出身の地でもあり、昔から相撲が盛んな土地柄の石川県(現役では遠藤)は別格として、他は相撲不毛の地だった甲信越・北信越出身力士たち。先ずは富山県出身の元大関朝乃山、新潟県出身の豊山、山梨県出身の竜電。そして歴史上何かある度に、江戸時代の無敵雷電まで遡る、それ以上に大相撲不毛の地だった長野県で現役唯一出身の御嶽海(昔平幕ですが、190㎝の長身を生かした吊り出しを武器に、前頭上位までいった大鷲という長野県出身の関取がいて、結構好きな力士でした。今は故郷の佐久に戻り、ちゃんこ屋さんを経営されています。全くの下戸で、現役時代に好きなコーヒーを飲みに “チャリンコでの喫茶店巡り”が趣味と新聞報道で見た記憶があります)。
まさかのうぬぼれか、コロナ禍での自業自得の不祥事で出場停止と降格(中には再起不能も?)の憂き目にあった、先述の一時輝いていた甲信越出身の力士たち。
本人が引退宣言するまで降格の無い横綱とは異なり、せっかく大関に昇進しても、常勝でなければ、一場所でも負け越せば翌場所はカド番を勤めねばならず、常に陥落するリスクのある大関。
せっかく努力して大関になったのに、昇進前の勢いは何処へやらの“クンロク大関”と世間的に責められるくらいだったら、そうした責任の無い平幕の方が余程イイ!とばかりの、片や“暖簾に腕押し”気味の我らが御嶽海。
アマチュア横綱を勤め、天才的と評される相撲勘をはじめ、誰もがその素質を認め期待するのに、怪我をしてもしょうがないとばかり、追い込む程の稽古をせずに、常に稽古不足と批判され続ける御嶽海(実際、以前の本場所の立ち合いのぶつかりで額を切り、翌日「当たると痛いから」と立ち合いでぶつかるのを避けて親方衆から批判を浴びました)。
「怪我をして欲しくない」と大相撲入りを反対し続けたという、本人より人気のお母さんと云われるフィリピン人の陽気なマリアさん。彼もバラエティー番組などにも呼ばれることもりますが、お母さんに似て、茶目っ気もあって憎めない、愛すべきキャラクター。
TV桟敷でいくら応援し、いくらその取り組みを批判してどんなに歯痒いと言われようが、相撲を取るのは本人。負け越しやケガで降格を(結果、物理的な実入りが減ることも含め)受け入れざるを得ないのも、飽くまで本人。

 こうしたことを考えると、歯痒いと、それこそ毎場所歯軋りをしているであろう北の富士(「何度も裏切られたが」と言われながら、今場所も優勝した新横綱照ノ富士の対抗馬に御嶽海を挙げられていたのですが)や舞の海といった解説者の方々のみならず、TV桟敷で何度も溜息をつく我々地元ファンなのであります。
 「あ~ぁ、だからやっぱり期待しちゃいけなかったんだ・・・」
但し、そうは言っても毎日それだと精神的に良くないので、最近は過度の期待をせず、一喜一憂する本割もTVでは生で視ず、結果だけを後で確認する様にしています。
だから、もう少し“多め”に場所前に稽古して、毎場所優勝争いをする様な地力が付いてから大関に昇進すればイイと思います(そうでなければ、今のままでイイ。カド番で毎日ヒヤヒヤするのは心臓に悪い!)。
でも、そんな日がいつか来ることを願って・・・、一応“ガンバレ御嶽海‼”
【注記】
昭和53年(1978年)の「やまびこ国体」で旧木曽福島町(現木曽町)
が相撲会場となって、今も使われている立派な相撲場が作られて以来、木曽は長野県内での相撲のメッカとなっています。
そして、御嶽海の母校である長野県の木曽町中学校相撲部が、今夏の全国中学校相撲選手権大会で見事団体での準優勝を果たしました。決勝進出は21年ぶりの快挙だそうです。目標にしていた日本一こそ逃しましたが、同校相撲部は、前身の福島中学校時代から全国大会の常連。ただ、決勝進出となると、2000年に全国制覇をして以来のことだったそうです。
長野県出身の二人目の現役関取となるような、御嶽海の後輩が育つのも間もなくかもしれません。

 我々の週末朝の松本街角ウォーキングは、自宅から往路約4㎞のコースで最終ゴール地点は深志神社です。
深志神社は、昔、松本が舞台だった人気ドラマ「白線流し」(注)のロケ地(確かキャストの一人が、この神社の息子の設定)にもなって、今で云うドラマの“聖地巡礼”の場所の一つとしても人気でしたが、今は往時の様に訪ねて来る観光客の方は殆ど見られません。

 深志神社の社伝に依ると、
『宮村宮(宮村大明神)が信濃国府中の井川城に居館した小笠原貞宗公により、その丑寅(北東)にあたる、長沢川の北端、捧荘庄内郷宮村の地に、諏訪明神の霊夢を受けて南面に社殿が造営され、祀られたのは南北朝時代初め暦応2年(1339)9月9日でした。
その後、永正元年(1504)小笠原氏は、深志城(のちの松本城)を築いて移るに及んで産土神と崇敬し、社殿を西面に直し、城の巽(南西)の鎮護神とされました。
一方、天満宮は、小笠原貞基公が応永9年(1402)、居館である井川館近くの鎌田の地に京都・北野天満宮より勧請されていましたが、のち江戸時代の慶長19年(1614)6月25日(菅公の御誕生日)、後裔である小笠原秀政公が、宮村明神の北側にさらに勧請され、並び祀られました。
そののち、両宮は「宮村両社・宮村大明神・宮村神社・宮村天満宮・深志天神」などと称され、お城と城下町の鎮護の神社として歴代城主により篤く敬われました。そして正式な社名を、天保12年(1841)に京都・神祇道管領長上吉田家の認可を受け、「深志神社」と定めました。』
とのこと。
そのため、深志神社の神紋は諏訪神社系の梶の葉紋と、天神様の梅鉢紋の二つで、拝殿上の幟などにその二つの神紋が染められています。
 本来は戦いの神でもある建御名方命の方が主祭神でしょうが、境内には御柱も建っていませんし、諏訪神社などと呼ばれるのを今まで一度も聞いたことはありません。
我々松本市民にとっては学業の神様である天満宮の方が有名で、深志神社よりむしろ天神様と呼ばれています。そのため、松本市民のお宮参りや七五三では、子供の健やかな(親の願いとして、出来れば賢く)成長を願って四柱神社よりもこちらの深志神社に来ることが多いですし(父が四柱神社の地区総代をしていた我が家も同様でした)、受験シーズンになると、合格祈願の多くの参拝客で賑わいます。
深志神社は江戸時代に松本藩累代藩主の崇敬を受け、松本城下の女鳥羽川の南側を占める商人町の総氏神様になっていて、今でも7月の天神祭りには各町の舞台16台が街中を練り歩きます。
 ウォーキングでは、松本城公園を通って四柱神社から深志神社まで歩くのですが、お参りの前にそれぞれの手水舎で手と口を清めます。
コロナ対策で、どこも手水舎の柄杓は撤去されている(拝殿の鈴を鳴らす際の紐である鈴緒も撤去されていて、今は鳴らしたつもりの“エアスズ”しか出来ません)ので手柄杓を使って清めるしかないのですが、四柱神社は普通の水道水だと思いますが、深志神社の手水舎の水は水道水にしてはとても冷たくて水量も多いのです。
そこで、たまたま先日お参りに伺った時に、境内の清掃をされていた禰宜さんに伺うと、やはり水道水ではなく湧水とのこと。
深志神社の拝殿の裏の方に湧水があって、境内の手水舎や手洗い場の水は全てその湧水を引いて来ているのだそうです。また定期的に水質検査もしており、飲んでも問題無いとのこと。近くの喫茶店の中には、実際にこの湧水を使ってコーヒーを淹れている店もあるのだとか。
 環境省の「平成の名水百選」に選ばれている「まつもと城下町湧水群」。一日の湧水量は280トンだそうです。「当国一の名水」と云われ藩主が庇護したという源池の井戸を始め、現在松本市が管理する湧水や井戸だけでも20あるそうですが、他にも例えば江戸時代からの造り酒屋である善哉酒造の「女鳥羽の泉」など、私有の湧水や個人のお宅の井戸など他にも幾つもあり、ブラタモリでは「江戸時代には松本城下にその数300」と紹介されていましたが、どうやら深志神社もその中の一つの様です。複合扇状地である湧水の恵みに感謝しつつ、この日もお参りをさせて頂きました。
【注記】
ドラマ「白線流し」は松本の高校生たちの成長を描いたドラマで、スピッツの歌う主題歌が印象的でした。因みに、卒業式後の「白線流し」は飛騨高山の高校の伝統行事であり、松本市内の県立高校は皆私服ですし、制服のある市内の私立高校(「白線」を流した薄川沿いに在って、木造校舎が使われた松商学園も)にも残念ながらそうした習慣はありません。
まだ放送される前のロケだったのでしょう。
上高地線の電車が発着する松本駅の8番線ホームは、確かヒロインが高校通学に使った設定だったと記憶しています。
当時は古い駅舎の小さな改札だった松本駅の西口(今は建て替えられて、新しい駅舎の「アルプス口」となって立派になりました)から出てすぐの所に、当時通勤で諏訪までのJRの電車に乗り換えるために借りていた私営の駐車場があり、そこへ行く途中、夜の8時過ぎだったでしょうか、ホームへの階段下に腰を下ろしていた制服姿の高校生の一団がいて、見慣れぬセーラー服の制服で「松本にもこんな可愛い高校生が居るのか!?」とビックリするくらい垢抜けて可愛い子たちだったのですが、後で分かったのは、それが「白線流し」のロケで、まだ放映前のヒロインたちでした。

 9月2日、地元松本発のとんでもない報道が全国ニュースで飛び込んで来ました。
『犬を劣悪な環境で飼育していた疑いで家宅捜索を受けた長野県松本市のペット業者。飼育していた犬は届け出をはるかに上回る約1000匹で、一部は保健所が保護しました。
販売業者は今月2日、3日に警察の家宅捜索を受けました。狭く不衛生な部屋で繁殖させるなどした動物愛護法違反の疑いが持たれています。
捜索と同時に市の保健所も立ち入り、飼育状況や犬の健康状態を確認しました。保健所には事前に業者の問題を指摘する情報が寄せられていたということです。
捜索を受けた2施設の飼育の届け出は約600匹でしたが、実際には約1000匹がいたということです。また関係者によると、施設内はケージが2段積みになっていて、小型の犬は一つのケージに複数匹、入っていたということです。』

 まさかこの松本にそんな悪徳ブリーダーが居たとは、全く知りませんでした。どんな大きな施設か知りませんが、保健所に届け出た600匹でさえ異常な飼育数の筈。これまでも保護団体からの情報提供や専門家や地元の獣医師からの指摘、近所からの苦情などがあったそうなので、悪徳業者だけではなく、認可して以降これまで指導や監督など何の対応もして来なかった行政(保健所を管轄する県。今年4月からは松本市の中核市移行に伴い、保健衛生事務は県から市に移管)の責任も免れない(いくらコロナ対応で大変な状況であれ)と思います。
しかも続報で、施設のオーナーは、繁殖犬が自然分娩出来ずに帝王切開する時は麻酔無しで切開し、もし奇形児だと生きたまま捨てていたという従業員の信じられない告白まであり、悪魔、鬼畜としか思えませんでした。動物ではなく、植物という“命”を商売にする農家だって、育てている作物に「大きくなぁれ!」とか時に声を掛けたりして愛情を注いで育てているのに、信じられません。
少なくとも、最近は松本保健所管内での犬の殺処分はゼロだった筈。個人的にはそう理解していただけに、まさか足元でこんなことが行われていたとは・・・。松本の恥であり、市民として情けない限りです。絶対に許せない!やり場の無い怒りがこみ上げてきます。

 2年前に我が家にやって来た、元繁殖犬だった保護犬コユキ。
推定8歳でブリーダーから不要犬として捨てられ、保護した埼玉県の保健所から地元の保護団体(この団体は、他の保護団体が引き取らなかった何か問題を抱えた様な犬ばかりを保護している、頭の下がる保護団体です)に救い出され、ボランティアの方のお宅で2ヶ月お世話いただいた後、縁あってはるばる松本の我が家へ。因みに、そのボランティアの方に付けていただいた名前「こゆき」は、恐らく初めて人間から愛情を以って付けてもらった名前の筈なので(ブリーダーは記号でしか呼ばないと云います)、我が家でもそのまま「こゆき」(ブログ上は判別し易い様にカタカナ表記にしています)にしました。
我が家に来て既に2年経ったのですが、まだ見知らぬ人間を怖がっています。来客で見知らぬ人が来ると、必死に吠え続けるのです。家内が抱いたり一緒に椅子に座らせたりすると漸く鳴き止むのですが、そうでないと、ブリーダーから声帯を切られたために掠れた声で必死に吠え続けるのです。ブリーダーが男性だったのでしょうか、特に大人の男性を怖がって吠えます。“三つ子の魂”ではないのですが、もう怯えなくても良いのに一生治らないのでしょうか。虐待していたであろうブリーダーを憎みます。
紀元前1500年、地中海のマルタ島に起源を持つ世界最古の愛玩犬と云われるマルチーズは、本来は人なつっこく、外交的な性格で甘えん坊。
現在世界中でペットとして飼われている多くの犬種が元々は猟犬(例えば、ダックスフンドは穴の中にいるアナグマ猟ですし、プードルはカモ猟で泳いで仕留めたカモを回収するための犬と云います)や、現代でも盲導犬や警察犬などに代表される使役犬としての作業犬(例えば、シープドッグと付く犬種はその名の通り元々は牧羊犬ですし、セントバーナードはスイスの山岳救助犬だったことで有名)だったのに対し、マルチーズは最初から愛玩犬、ペットとして、その明るさで人々を癒して来た犬種で、活発で好奇心旺盛な一面もあります。そんな犬種である筈が、コユキは人に怯えて吠え続けるのです。最初の頃は車に乗るだけで、またどこかに連れて行かれると不安になるのか、ブルブル震えていました。家に居ても、何かあると不安になるのか、先住犬であるシーズー(チベットからの中国に貢物として贈られて、清王朝の西大后が特に可愛がったと云われる宮廷犬。そのためかプライドが高く、“我関せず”な性格で他の犬を気にしないので多頭飼いに向くと云われる。犬種名も中国語の獅子狗から)のナナを後に付いていつも一緒にいます。
また外でウンチをする時(ブリーダーの所で食事が十分でなかったのか、保護されて以降食糞の癖があるということだったので、我々が知らない内に食べてしまわない様に、出来るだけ朝の散歩時にさせています)は、まるでフィギアスケートのトリプルアクセルや4回転の様にクルクルと、しかも何十回、多い時は百回以上も続けて連続回転をし、漸く場所が決まります。
それも恐らく狭いケージの中だけで何年も(保護された時は推定8歳でした)過ごしてきたから、その与えられた狭い世界の中だけで生きて来た故の行動だと思うのです。もし知らない人が見ると可愛くて微笑ましく感じるかもしれませんが、何とも不憫で可哀そうでなりません。
また毎朝、ナナと一緒に散歩をしていても、散歩自体外に行くことは嫌いではないのですが、コユキは匂いを嗅ぐこともありませんしマーキングも一切しません。決められたおむつ以外ではおしっこをする習慣が無いのでしょうか。また、声帯を切られたせいで息道が塞がれて一時過呼吸気味だったので手術をして拡げてもらったのですが、それでも散歩中に時々ゼイゼイ、ハァハァと息苦しそうに感じることもあります。そして、何度も子供を産まされたせいで(十分な栄養補給がされなかったのでしょう)カルシウムが足りずに歯がボロボロで、保護団体でお世話になっていた時にダメな歯を何本か抜いてもらってもいるのです。
そんな虐待され続けて来たであろう8年間(推定ですが)を、まだ家に来てからのたった2年では、我々がどんなに可愛がったつもりでも未だコユキ自身の中では埋め切れずにいるのが保護犬の実態なのです。
 “売れる子犬”を産めなくなれば、コユキの様に不要犬として捨てられる繁殖用の犬たち。そこには“生きとし生けるもの”への命の尊厳の欠片もありません。そしてそれは金儲け主義のブリーダーばかりではありません。販売をしているペット店も同罪です。
以前、ペット販売店でお客さんへこんな説明があったと聞きました。それは、初めて犬を飼いたいという家族連れが見初めたジャックラッセルについて、販売店の店員が、「この犬はとても飼い易い犬種で、毎日散歩に連れていかなくても大丈夫ですから」と説明して購入を勧めていたのだとか。
とんでもない話です。10数年前だったかクルマのTVCMで使われて話題となり、我が国でも一気に人気犬となったジャックラッセルテリア。小型犬ゆえに飼い易そうと思われるのですが、非常に活発でやんちゃ。運動量も多く、とにかくイタズラが大好きな犬種。だからこそ可愛いのですが、しかし最初の躾が肝心で、その最初にキチンと躾ないと、そのパワフルさに飼い主が追いつけず、コントロール不能となって手に負えなくなり、飼い主が飼育放棄して処分のために保健所に持ち込まれるケースが多い犬種とも云われています。少なくとも初めて飼うのに適した犬種ではありません。
如何にも大事にしていそうなペットショップでも、売れ残って“可愛い子犬”でなくなれば不要犬として捨ててしまう店もあるそうです。飽くまで営利目的ですから、賞味期限、消費期限を過ぎた商品を廃棄処分するのと同じ感覚なのでしょう。もしそうではないと反論があるなら、捨てられる筈が無い・・・。
そんなペットショップがある限り、今回の様な悪徳業者も決して無くならないでしょう。だから、日本もドイツの様に、犬を飼う場合はペットショップではなく保護団体から購入(保護された犬に掛った医療費や飼育に必要だった費用を負担)する。その際は、キチンと保護団体が購入希望者の飼育環境を確認し、問題無い場合のみ認めるようにすれば良いと思います。

 今回、松本の悪徳ブリーダーから保護された1000匹もの犬たち(松本保健所が立ち入った際に、先ずは劣悪な環境の中で特に酷い状態だった犬21匹だけをとりあえず保護した数日後、知り合いの埼玉県の業者が残りの犬たちをどこかに移動させた由)。地元故に、“松本の恥”とならぬよう何とかしてあげたいのですが、“高齢者夫婦”二人の我が家で三匹を飼うのは無理。
どうか、安心して眠れる、そして残りの生涯を思いっきり甘えられる、そんな新たな飼い主に全てのワンコたちが出会えることを心から祈ります。
【追記】
何かしら問題があり、継続して保護団体でのケアが必要な4匹を除き、17匹が松本市在住の市民限定で飼い主募集がされ、62名の方(ご家族)が応募されたとの報道がありました。県の専門家から、保護犬を飼う際の注意事項などの説明を受け、個々の面接、トライアルでの相性チェックなどを経て、正式な家族の一員として引き取られていく予定とのこと。
何の手助けも出来ませんでしたが、我が家のコユキのこともあり他人事とも思えずにいたのですが、先ずはホッとした次第です。良かった・・・。