カネヤマ果樹園 雑記帳<三代目のブログ>

 今回の京都旅行で、唯一自分でやりたかったこと、それは“京都ラーメン”を食べることでした。そして食べに行きたかったのは、“京都ラーメン”発祥の店「新福菜館」と学生時代に時々食べに行った「らんたんラーメン」。
ただ、学生時代から今の様にそれ程ラーメン好きだった訳ではありません。むしろ食べ盛りの貧乏学生としては、当時はまだ全国展開する前の「餃子の王将」に(台所付きの下宿に引っ越して自炊をするまでは)毎度夕食で(エンザーキとか、ジンギスカンといった定食類や天津飯など、どちらかというと麺類よりもご飯物が多かったように思います)お世話になったり、山科の京阪の駅近くに在った“町の食堂”で、生まれて初めてだったガラスケースの中に並べられたおかずを自分で選ぶセルフ方式の食堂で銭湯帰りに食べたり・・・。
(下の写真は、先日松本店で食べてみた「餃子の王将」45年振り?の醤油ラーメンとギョウザです)


因みに入学した1974年、全国展開前で京都のローカルチェーンに過ぎなかった当時の「王将」は、下宿した山科に本社があって、京都市内に10数店舗しか無く、私が通っていたのは、三条京阪から下宿に戻る前に夕食を食べていたので、鴨川近くの河原町三条店か山科店(駅前店)でしたが、長細いカウンターだけの狭い店舗でした。使われていた食器類も、今の様なロゴが入った“ちゃんとした”お皿などではなく、“安っぽい“(≒あくまで実用本位の)ミントグリーンのプラスチック製の食器類で、カウンター越しの細長い厨房に若いスタッフの皆さんが働いていて、「コーテル(ギョウザ)リャンコ!」とか「エンザーキ!(鶏唐揚げ)」とか王将用語?が“元気に”飛び交っていましたっけ(イヤ、懐かしい・・・)。そうした空腹の学生だけではなく、ギョウザは当時から(山科の様な新興住宅街を抱える店では)共働きのお母さん方のテイクアウト需要も多かった様な気がします。
ですので、先述の有名店の「新福菜館」も同じく京都発祥の「天一」も、学生時代には一度も食べたことが無かったのです。
そんな私メがラーメン好きになったのは、多分、会社に入ってから飲んだ後に必ず食べた〆のラーメンの影響なのでしょう(因みに、松本だと駅近くの「ラーメン藤」や支那そばの「生香園」、また諏訪では当時まだ上諏訪駅近くの並木通りの踏切の脇に在った先代の「ハルピンラーメン」が定番で、移転後は笠森小路の「麺屋さくら」に変更。また、長野への出張時に必ず食べたのが、今は無い県庁近くの「ふくや」でした・・・以上、全て醤油ラーメンです)。

 京都での学生時代の麺類について言えば、生まれて初めて県外に出たので信州と関西の“麺文化”の違いに大いに興味をそそられました。
例えば、ざる蕎麦主体の信州蕎麦に対し、こんな食べ方があるのかと驚き初めて食べたニシン蕎麦。また蕎麦よりも関西ではうどんの方が主流という中で、美味しかったのが冨美家の鍋焼きうどん。というのも、それまでお祖母ちゃんが作る自家製の味噌煮込みうどん(お祖母ちゃんは方言で「おざざ」と呼んでいましたが、冷や麦の様に割と細めの麺で、信濃大町では今でも「おざんざ」と呼んでいます)しか食べたことがありませんでしたので、多分印象深かったのでしょうか。
そして、関西ではアイスコーヒーを冷コーと呼ぶ様に、関西で冷やし中華を指す冷麺の世界(東日本で冷麺というと、盛岡冷麺や韓国風の冷麺と間違われそうですが・・・)。その冷麺が、当時の店名を最近になって漸く確認出来た、今は無き「春陽堂」の冷麺(第772話参照)だったのです。
学生時代の京都は、むしろラーメンよりも、自分にとってこうした他の“麺の世界”を拡げてくれた様な気がします。

 さて、肝心の京都でのラーメン。和食のベースとなる出汁文化発祥の地とも云える京都ですが、必ずしもラーメンについては“然に非ず”。
所謂“京都ラーメン”と呼ばれるのは、1938年に京都駅付近で中国浙江省出身の徐永俤さんが始めた屋台が発祥で、その後徐さんが京都駅東の塩小路高倉に現在の「新福菜館」を出店したのがそのルーツと云われています。鶏ガラと豚骨をベースに、たまり醤油の様な濃い口の醤油で調味したラーメンで、色はかなり黒いのですが、実際に食すと見た目よりもあっさりしていて、クセになる味。しかも、在日華僑の繋がりを活かして、徐さんは創業時に全国から色々取り寄せて試行錯誤の上に漸く理想の醤油に辿り着いたのだとか。
そんな“京都ラーメン”のルーツが「新福菜館」であって、「これを食べずして京都のラーメンを語ることなかれ」。遅まきながら3年前に初めて食べて感激(第1407話)し、前回食べなかったこれまた名物のヤキメシと一緒にもう一度!というのが今回の目的でした。
 片や、学生時代に食べに行ったのが、熊野神社近くの東大路にある京大病院対面にあった「らんたんラーメン」です。
店名がどうしても思出せなくて、ネットで調べても分からず、以前朝のウォーキングで哲学の道を歩くのに岡崎から東大路を上がって行ったのですが、それらしき店が無く、もう無くなったのかもしれないと半ば諦めていました。
ところが、久し振りに記憶力の良い学生時代の友人とのメールでのやり取りの中で、「あぁその店なら」と友人が店名を覚えていて、幸いにも先述の「春陽堂」同様に確認出来た次第。
ただ、その店の名前とラーメンの味は覚えていないのに、ある時、気に入らない客(むしろ客の態度の方に問題があって、その客は私メではありませんが、多分その場面に居合わせてビビった記憶あり)を叱りつける大将のハイトーンボイス(合唱団にいたせいで声が気になったのか、良質のハイバリトンでした)が何故か記憶に残っているのです。それと、貧乏学生用の肉無しラーメンとラーメンライスの麦飯。記憶が定かでは無いのですが、毎回では勿論無かったと思いますが、時に肉無しラーメンにチャーシューが麺の下に隠れていた様な気がするのですが・・・(果たしてそれが事実か、或いは“過去は全て美しい”と思うが故の全くの記憶違いなのか???)。

 以上の様に、今回の京都行で食べたかった、自分にとって思い入れのある二つのラーメン。京都ラーメン発祥の店と、記憶では唯一学生時代に親しんだ或る意味自分にとっての“青春のラーメン”。
しかし、何だかんだで予定が狂い、結局今回は行けずに終わりました。そのため、自分にとっては“幻のラーメン”のまま。むしろ、もしかすると“幻”のまま、思い出は思い出のままで取っておいた方が美しい(=美味しい)のでしょうか・・・?