カネヤマ果樹園 雑記帳<三代目のブログ>

 10月中旬、出張で金沢でのイベントに参加するため、長野駅から北陸新幹線で金沢へ向かう長女。当日は、その日の内に金沢入りすれば良いとのことだったので、その前に「小布施ワイナリー」で婿殿用にワインを買いたいとのこと。小布施ワインを扱う都内や松本の指定店に行っても品切れの店が多く、コロナ禍故現在試飲は行われてはいないそうですが、製造元のワイナリーに行けば欲しいワインが買える筈との由。それを受けて奥様が、
 「じゃあ、最初に須坂でブドウを買ってから小布施に行って、新栗のモンブランも食べよう!」
との仰せ。
 須坂には毎年ブドウを買いに行くのですが(例えばナガノパープルは須坂の長野県果樹試験場で生み出された新種ですが、須坂中野地区は信州の中でもブドウとリンゴの本場。従って、値段もですが、それ以上に特にブドウは味と見栄えは、同じ長野県で云えばブドウの産地である松本の山辺や塩尻の桔梗ヶ原、また新興の生坂村も、まだまだ須高地区や中野エリアには敵いません。
そこで最初に須坂に在る生産者直売所に寄って、次女の所に送るブドウや自宅用のブドウを購入。ナガノパープルやシャインマスカットの他に、試しにこれまた県の果樹試験場で開発した皮ごと食べられるという新品種「クイーンルージュ」も購入してみました。

 それから隣町の小布施へ。先に一番の老舗の和菓子店、文化8年(1808年)創業という「桜井甘精堂」の洋菓子部門である「栗の木テラス」で、この時期の目玉「新栗モンブラン」を食べるべく順番待ち。我々は15番目とのことですが、10組ずつくらいが着席出来るようで、二巡目という感じでしょうか。近くの「小布施堂」の和風の新栗菓子「朱雀」は毎年大行列だったのですが、今では事前予約でしか食べられない程の大人気なのだとか。私たちも一度食べてみました(第797話参照)が、我々はどちらかというと「栗の木テラス」のモンブランの方が好み(第903話)。とは言っても新栗の季節の小布施は観光シーズンのピークですので、平日でも混んでいて、毎年機会があると須坂にはブドウ購入で立ち寄っても、なかなか小布施には足が向きませんでした。今回は娘の「小布施ワイナリー」というリクエストがあったからですが、小布施まで足を延ばしたのは実に8年振りでした。
順番を待つ間に、「桜井甘精堂」と「小布施堂」で、長女も家内も会社のお仲間や次女の所へのお土産の栗菓子を購入。それにしてもこの日は平日なのですが、小布施の街は新栗を目当てか、老いも若きも女性の観光客の皆さんで溢れていて、私メが(田舎臭くて)地元民に見えたのか、関西からのオバさま方らしき一団から「北斎館」への道を聞かれました。
 「あ、それならあちらに看板がありましたよ。私たちも観光客ですけど・・・。」
(後で娘から「そんなこと付け加えなくてイイ!」と窘められましたので、些か嫌味ぽかったかと反省しました・・・)
私たちは買い物をするために「桜井甘精堂」の本店に車を駐車したのですが、そこでお菓子を購入した際に「栗の木テラス」に行くなら駐車したままで構わないとのこと。「栗の木テラス」にも専用の駐車場が歩いて直ぐの所にあるのですが、お言葉に甘え有難くそのまま駐車させていただいて「栗の木テラス」へ向かいました。道を挟んで本店の対面に「桜井甘精堂」の和食と甘味処「泉石亭」があり、その少し先の風見鶏の付いた尖塔のある洋館が「栗の木テラス」です。
モンブランのケーキ一つなら30分くらいかと思いきや、家内曰く、
 「ここは紅茶がおススメで、淹れ立ての紅茶をポットで出してくれるので、何杯も飲めるから結構時間が掛かるかも・・・」
とのこと。
実際、二巡目が呼ばれるのに一時間近くを要しました。しかも、グループが特に関西系の些かお年を召された“女子会”の皆さまだと、我々が呼ばれてもずっとお喋りに花(失礼ながら、秋の“枯れ尾花”?)を咲かされておられましたので、例え平日であっても並ぶ時はそれなりの覚悟が必要かと存じます。因みに、モンブランは(勿論以外のケーキ類も)洋菓子類の販売カウンターでテイクアウトが可能ですので、店内で食べなければ並ばずに購入可能です。外で並んでいると、「これは何の行列ですか?」と聞かれ、「それなら」と自分たちも並んだり、テイクアウトしたりする方々もおられました。中には行列慣れした関西弁のオバさま方は、
 「そしたら、またお皿に載せてもろうて、どこかで食べよか?」
と、本当に大き目のお皿を手にして中に入って行かれました。サスガです・・・。
ただ個人的に思ったのは、都会の行列店であるように、順番待ちする際に携帯番号も記入させて、順番になったら店側がそのお客さんの携帯へ連絡すれば(狭い歩道まで塞いで)行列しなくても良いのに・・・ということでした。
勿論、その分人手と時間は掛かりますが、県内で一番面積の狭い(人口密度は高い)自治体でコンパクトな小布施町ですので、並んでいなくても徒歩範囲内で直ぐに戻られる筈。行列は「桜井甘精堂」に限りませんので、そうした工夫も栗で町おこしをしてきた小布施全体でのおもてなしの筈・・・。
 新栗を使ったモンブランは520円。ポットでサーブされる紅茶が600円~700円台。注文を受けてから紅茶を淹れるのに結構時間が掛かる様です。それぞれモンブランと家内と娘がお好みの紅茶(アールグレイとウバとか)、私はコーヒーを注文。コーヒーもポットに入って。2杯分は優にありましたので、650円だったか、値段のわりにはお得感がありました。待ち時間含め、入店から我々も40分程。新栗のモンブランと共にゆったりとした時間を過ごすことが出来ました。「小布施堂」の朱雀は今では1800円とのことですが一人では食べきれない程大きいので、男性の私メは正直途中で飽きてしまいますので、付き合うのなら(別に無理して食べなくても良いのでしょうが)むしろ「桜井甘精堂」のモンブランの方が有難い。
 続いて車で5分足らずの「小布施ワイナリー」へ。
娘は今までお店で完売していて買えなかったという念願の婿殿用のワインを、赤白合わせて4本購入することが出来た様です(我々が車で持ち帰ります)。因みに、小布施ワインは、20年以上も前でしょうか、ANAの国際線ファーストクラスで提供されるワインに採用されて話題になりました。小さなワイナリーで、アクセス道路も狭く、駐車場も数台しか停められません。県外からもファンの方が来られてはいましたが、行かれる際は覚悟が必要でしょう。
その後まだ時間に余裕があったので、私メの希望でこれまた8年振り(第798話)の「小布施ミュージアム」の「中島千波館」へ寄ることにしました。桜の絵で有名な現代を代表する日本画家、東京芸大名誉教授でもある中島千波画伯の作品を常設展示する町立美術館です。ちょうど開館30周年記念として記念展が開催されていました。
 今回展示されていたのは、「日本三大桜」の一つ、岐阜県根尾谷の「淡墨桜」を描いた代表作「樹霊淡墨桜」や数年前の作品である人物画「無明」。また芸大の学生時代のデッサンや若冲の鶏や速水御舟の牡丹の模写など(当然とはいえ、これまた見事)。そして、桜とは対照的に、「小布施堂」本店の中庭に生えている枝ぶりの良いモミジを気に入って2010年に描いたという「秋季紅葉図」など、画伯の代名詞である春の桜だけではなく、秋に相応しい屏風も展示されていて、“食欲の秋”に加え“芸術の秋”も楽しむことが出来ましたし、初めて画伯の絵に接した娘もとても気に入ってくれたようです。
 豊穣の秋、新栗とワインと中島千波の日本画。信州小布施の秋を楽しむことが出来ました。それにしても、江戸時代から幕府の直轄地として、将軍家に栗を献上していた小布施。そのため、厳選された栗が将軍に献上するまでは落ちた栗を拾うことさえ許されなかったのだとか。それを皮肉って、小布施に縁のあった小林一茶(有名な「痩せ蛙」の句も小布施で詠んだとか)が詠んだという一句、
 「 拾われぬ 栗の見事よ 大きさよ 」
江戸時代から、その一茶だけではなく、葛飾北斎が地元の豪商高井鴻山を何度も訪ね、龍の肉筆画を小布施の寺院の天井に残すなど歴史ある処ではあるのですが、近年そうした文化遺産も活かしつつ、栗で(江戸時代から続く老舗の栗菓子店等が在ったにせよ、或る意味栗“だけ”で)町おこしをした小布施。
アクセス的には(公共交通網では)決して便の良いロケーションでは無いのにも拘らず、今や年間120万人が訪れるという小さな町のその集客力には、ただただ感嘆符が付く程に感心の一言でした。

 我々、生粋の“松本っ子”や“信州人”が当たり前と思っていても、県外から来られると驚いたり意外だったりすることも多いようです。そんな話題としてお送りします。題して「信州松本“ぶったまゲーション”」。

 9月に放送された「秘密のケンミンShow 極み」での、“山の民、長野県民の山への愛”は、ナルホド!そう云われてみれば・・・と、感心することしきりでした(後日YouTubeで視聴しました)
それは「長野県民に聞くと、自分の住む場所の標高が誰でも言える」とか、「山への愛がハンパ無い」という内容。
云われてみれば、私メも本ブログ中に「松本は標高592mで、597mの東京の高尾山とほぼ同じ」とか、城山が700mでアルプス公園が770mとか、確かに標高に拘っているのが分かります。
また“山への愛”も、松本平に暮らす人間が常念岳であったり、諏訪であれば八ヶ岳、上田なら浅間山であったり・・・という様に、信州人の誰でもが自分が住む場所から仰ぎ見るそれぞれの“故郷の山”、或いは“心の山”を持っています。 
ただ、標高についていうと、登山者やトレッキング愛好家は誰でも標高に関心を持っている筈です。登山口と登る山の頂きとの標高差がどのくらいかで登りの程度を知ることが出来ますし、また本格的に山を登る人は地図の標高線がちゃんと読めなくてはいけません。
ただ、そうは言っても「自宅のある場所の標高」となると、いくら登山者でもそこまでは・・・でしょうか。確かに、それは長野県内の小学校には、標高と緯度経度が書かれた標識が校門近くに必ず立っていたこともその一因なのかもしれません。
ただ、1000mを超える高原地帯の小学校の子供たちが、理科の沸点を調べる実験で、現実は91度で沸騰したのと教科書に記載された沸点との違いで、先生が「テストでは100度と書きなさい」と云われ怪訝な顔をしたところで終わっていましたが、実際は自分の住む場所と海抜0メートル地点での沸点の違いについて、ちゃんと先生は説明して子供たちもその理由を確認した筈(長野県の先生もそこまでイイ加減ではない)だと思います。
 松本だけではなく、県外や海外、或いは県内でも他の街で暮らした経験を持つ自分も一番感じるのは(それも松本生まれの信州人だからかもしれませんが)、「山を仰ぎ見る視線の違い=山の高さの違い」です。
以前も、ブログに「息苦しい街?松本」(第504話)として同じ内容を書いたので、そちらを参照してください。
    (モルゲンロートに染まる初冠雪の常念岳:10月26日撮影)
 冒頭「ぶったまゲーション」の導入として、「当たり前と思っていても、県外から来られると驚いたり意外だったりすること」と書いている様に、今回の「秘密のケンミンShow 極み」で放送された「標高」についての指摘で、久し振りに長野県民=信州人の特性についてナルホドなぁと得心した次第です。

 9月30日、突然、六代目三遊亭円楽師匠死去のニュースが報じられました。落語家としてはむしろこれから円熟期を迎えるとも云える、まだ72歳という若さでした。
何度も病に倒れ、今回は脳梗塞から今年8月に高座に復帰した円楽師匠。その復帰高座後のインタビューで、今後の落語界に必要なものを問われ、その様子を報じた記事曰く、『円楽は「統一協会」とにやり。「協会を統一するんだよ」と改めて真意を語り、協会を統一すれば、寄席の座組なども柔軟に組めるようになると説明。「協会を1つにして、その中に全部、含む。大阪の漫才師は吉本。それだったら東京の落語家は、そこに入れちゃえばいい。東京落語会」』
如何にも時事ネタ得意の師匠らしい内容ですが、決してブラックジョークではなく、1978年(昭和53年)に当時落語協会の会長だった小さんによる若手の真打大量昇進について、前会長だった圓生が抗議をして袂を分かち、圓生一門が協会を脱退。その大師匠亡き後は協会に復帰する落語家が相次いだ中で、師匠の先代五代目円楽に従って協会には戻らずに円楽一門として独立したまま。そのため円楽一門は立川流同様に、今でも寄席には上がれない日々が続いている中で、「統一教会」ならぬ「統一協会」は、噺家だけではなく落語ファンは誰もが皆願っている筈。実際に、博多などで立川流も上方も協会や所属一門は一切関係無い落語会を立ち上げたという円楽師匠がもし元気だったら、きっと統一に向けて何かしらの仕掛けがされたかもしれないと思うと実に残念でなりません。

 私メが落語に嵌るきっかけとなったのは、2010年から連載が始まった尾瀬おきら氏の落語家修行を描いたコミックス「どうらく息子」でした。そこで初めて落語の面白さを初めて知り、劇中に断片的に登場する古典落語のネタを市の図書館のCDライブラリーで借りて聞き、全体ストーリーを確認する日々。そんな中で初めて聞いた“生落語”が、10年前に地元松本の市民芸術館で開催された「歌丸円楽二人会」だったのです。
その2012年3月の「二人会」当日の出し物は、用事があって当日は先に松本を発たないといけないからと、先に歌丸さんが古典落語の『紺屋高尾』を演じ、円楽さんが桂米朝師匠の自作落語(桂ざこばさんに習ったとか)という『一文笛』。どちらも人情話で、TVの笑点の時とは一味違ったお二人の味のある話芸の世界に浸ることができました。
残念ながら、歌丸師匠も円楽師匠も鬼籍に入られてしまいましたが、その初めての生落語が、その後、地方の落語会として全国でも草分け的存在と知った「松本落語会」や県文で定期的に開催される二ツ目の噺家さんによる「まつぶん寄席」など、上野や新宿に行かずとも、地方の松本でも聞くことが出来る生落語のきっかけになった落語会でした。

 六代目三遊亭円楽師匠。どうぞ安らかにお休みください。そして先に逝かれた歌丸師匠と一緒に、天国でまた「二人会」を演じてください。
謹んでご冥福をお祈りいたします-合掌。

 前回(第1766話)、「今まで赤ちゃん連れで食べに行った中で、温めをお願いする前に声掛けて聞いてくれたお店って初めて!」と、その店、京都四条の「煮野菜 おにかい」のスタッフの方の“気配り、目配り、心配り”の“おもてなし”に感心感激したことを紹介させていただいたのですが、勿論、お願いしても断られるお店の方が多いだろう中で、それこそ“真逆”な印象の店が今回の京都で行った中にも在りましたので、 “敢えて”書かせていただきます。

 人手が無ければ(今の日本で一番高いのは材料費ではなく人件費でしょうから)客対応で忙しくて対応出来ないのはしょうがないとは思いますが、問題はその言い方や態度で客の受ける印象は真逆になります。
それは、感激した「煮野菜おにかい」に行った翌日のランチに予約して行った、八坂神社近くの小路に在る広東料理のお店でした。
こちらも長女推薦の店で、「おにかい」同様に直前ではなく、家内が数週間前に予約したお店です。その際の電話でベビーカーでの赤ちゃん連れであることを事前に伝え、個室は無いのですが電話では受け入れOKをいただいた上での予約済み。その時の電話での応対の感じはとても良かったとそうです。
実際に入店し、娘が可能かどうか伺った離乳食の温めに関しては、女性スタッフの方には如何にも迷惑そうに断られました。
しかも店主が、確かに狭い店内なのは分かりますが、カウンター越しにその女性スタッフに向かって「そんな所にベビーカーを置いたら他のお客さんの邪魔だろ!」と、こちらに聞こえるのも構わずに女性スタッフを叱責しているのです。
料理そのものは広東料理の本場であるシンガポールや香港を思い出すくらいに美味しかったのですが、例えミシュランのお墨付きの店(ビブグルマン獲得店とか)であろうがなかろうが、もう二度と行かないでしょう。
というのも、このお店で個人的にはもっと気分を害した“差別的取り扱い”が(家内や娘たちは気が付かなかったようですが、その後の私たちへの店主の応対とは真逆の余りに露骨だった他のお客さんへの対応が、私の座った席からはハッキリと見えていたので)あったのですが、我々は一見さん故(長女は三度目だそうですが)その内容を書くことは控えます。
もしも、仮に、
 「ウチとこは、常連さんだけで十分やっていけるよって、“一見さんお断り”や!」
とするなら、それでも結構!(毛だらけ・・・)。
また、子連れや赤ちゃん連れで食べる客がもし迷惑ならば、最初から「子供連れお断り」にすればよろし!!
ただ、長女曰く、最初は数年前の京都への長期出張中に、在住の仕事仲間の方に連れて来てもらったそうで、二度目は渡米前の今年の春先、一人での京都旅行中に食べに来たのだとか。
 「前に来た時は、奥さんが店に居て対応してくれたけど、とても感じが良かったんだけどネ・・・」
とのことでした。
もしかすると家内が予約した際の電話対応は奥さまで、今回対応していた女性スタッフは長女が前回来た時に応対されていた奥さんでは無かった由。でも例えそれが誰であれ、客にはお店のスタッフの方の氏素性、ましてや性格は関係ありません。ただ気持ち良く食べたいだけ・・・。

 外食で得られる(ことを期待して食べに行く)“美味しかったという満足感”は、決して料理の味だけでは無い筈です。
高校の大先輩にして、我がバイブル「居酒屋百名山」の著者である太田和彦氏の云われる良い店の条件、それは・・・“いい酒、いい人、いい肴”。
そしてそれは居酒屋だけに限らず、例え酒は飲まずとも、どの飲食店にも当て嵌まります。

 今回の京都旅行で、唯一自分でやりたかったこと、それは“京都ラーメン”を食べることでした。そして食べに行きたかったのは、“京都ラーメン”発祥の店「新福菜館」と学生時代に時々食べに行った「らんたんラーメン」。
ただ、学生時代から今の様にそれ程ラーメン好きだった訳ではありません。むしろ食べ盛りの貧乏学生としては、当時はまだ全国展開する前の「餃子の王将」に(台所付きの下宿に引っ越して自炊をするまでは)毎度夕食で(エンザーキとか、ジンギスカンといった定食類や天津飯など、どちらかというと麺類よりもご飯物が多かったように思います)お世話になったり、山科の京阪の駅近くに在った“町の食堂”で、生まれて初めてだったガラスケースの中に並べられたおかずを自分で選ぶセルフ方式の食堂で銭湯帰りに食べたり・・・。
(下の写真は、先日松本店で食べてみた「餃子の王将」45年振り?の醤油ラーメンとギョウザです)


因みに入学した1974年、全国展開前で京都のローカルチェーンに過ぎなかった当時の「王将」は、下宿した山科に本社があって、京都市内に10数店舗しか無く、私が通っていたのは、三条京阪から下宿に戻る前に夕食を食べていたので、鴨川近くの河原町三条店か山科店(駅前店)でしたが、長細いカウンターだけの狭い店舗でした。使われていた食器類も、今の様なロゴが入った“ちゃんとした”お皿などではなく、“安っぽい“(≒あくまで実用本位の)ミントグリーンのプラスチック製の食器類で、カウンター越しの細長い厨房に若いスタッフの皆さんが働いていて、「コーテル(ギョウザ)リャンコ!」とか「エンザーキ!(鶏唐揚げ)」とか王将用語?が“元気に”飛び交っていましたっけ(イヤ、懐かしい・・・)。そうした空腹の学生だけではなく、ギョウザは当時から(山科の様な新興住宅街を抱える店では)共働きのお母さん方のテイクアウト需要も多かった様な気がします。
ですので、先述の有名店の「新福菜館」も同じく京都発祥の「天一」も、学生時代には一度も食べたことが無かったのです。
そんな私メがラーメン好きになったのは、多分、会社に入ってから飲んだ後に必ず食べた〆のラーメンの影響なのでしょう(因みに、松本だと駅近くの「ラーメン藤」や支那そばの「生香園」、また諏訪では当時まだ上諏訪駅近くの並木通りの踏切の脇に在った先代の「ハルピンラーメン」が定番で、移転後は笠森小路の「麺屋さくら」に変更。また、長野への出張時に必ず食べたのが、今は無い県庁近くの「ふくや」でした・・・以上、全て醤油ラーメンです)。

 京都での学生時代の麺類について言えば、生まれて初めて県外に出たので信州と関西の“麺文化”の違いに大いに興味をそそられました。
例えば、ざる蕎麦主体の信州蕎麦に対し、こんな食べ方があるのかと驚き初めて食べたニシン蕎麦。また蕎麦よりも関西ではうどんの方が主流という中で、美味しかったのが冨美家の鍋焼きうどん。というのも、それまでお祖母ちゃんが作る自家製の味噌煮込みうどん(お祖母ちゃんは方言で「おざざ」と呼んでいましたが、冷や麦の様に割と細めの麺で、信濃大町では今でも「おざんざ」と呼んでいます)しか食べたことがありませんでしたので、多分印象深かったのでしょうか。
そして、関西ではアイスコーヒーを冷コーと呼ぶ様に、関西で冷やし中華を指す冷麺の世界(東日本で冷麺というと、盛岡冷麺や韓国風の冷麺と間違われそうですが・・・)。その冷麺が、当時の店名を最近になって漸く確認出来た、今は無き「春陽堂」の冷麺(第772話参照)だったのです。
学生時代の京都は、むしろラーメンよりも、自分にとってこうした他の“麺の世界”を拡げてくれた様な気がします。

 さて、肝心の京都でのラーメン。和食のベースとなる出汁文化発祥の地とも云える京都ですが、必ずしもラーメンについては“然に非ず”。
所謂“京都ラーメン”と呼ばれるのは、1938年に京都駅付近で中国浙江省出身の徐永俤さんが始めた屋台が発祥で、その後徐さんが京都駅東の塩小路高倉に現在の「新福菜館」を出店したのがそのルーツと云われています。鶏ガラと豚骨をベースに、たまり醤油の様な濃い口の醤油で調味したラーメンで、色はかなり黒いのですが、実際に食すと見た目よりもあっさりしていて、クセになる味。しかも、在日華僑の繋がりを活かして、徐さんは創業時に全国から色々取り寄せて試行錯誤の上に漸く理想の醤油に辿り着いたのだとか。
そんな“京都ラーメン”のルーツが「新福菜館」であって、「これを食べずして京都のラーメンを語ることなかれ」。遅まきながら3年前に初めて食べて感激(第1407話)し、前回食べなかったこれまた名物のヤキメシと一緒にもう一度!というのが今回の目的でした。
 片や、学生時代に食べに行ったのが、熊野神社近くの東大路にある京大病院対面にあった「らんたんラーメン」です。
店名がどうしても思出せなくて、ネットで調べても分からず、以前朝のウォーキングで哲学の道を歩くのに岡崎から東大路を上がって行ったのですが、それらしき店が無く、もう無くなったのかもしれないと半ば諦めていました。
ところが、久し振りに記憶力の良い学生時代の友人とのメールでのやり取りの中で、「あぁその店なら」と友人が店名を覚えていて、幸いにも先述の「春陽堂」同様に確認出来た次第。
ただ、その店の名前とラーメンの味は覚えていないのに、ある時、気に入らない客(むしろ客の態度の方に問題があって、その客は私メではありませんが、多分その場面に居合わせてビビった記憶あり)を叱りつける大将のハイトーンボイス(合唱団にいたせいで声が気になったのか、良質のハイバリトンでした)が何故か記憶に残っているのです。それと、貧乏学生用の肉無しラーメンとラーメンライスの麦飯。記憶が定かでは無いのですが、毎回では勿論無かったと思いますが、時に肉無しラーメンにチャーシューが麺の下に隠れていた様な気がするのですが・・・(果たしてそれが事実か、或いは“過去は全て美しい”と思うが故の全くの記憶違いなのか???)。

 以上の様に、今回の京都行で食べたかった、自分にとって思い入れのある二つのラーメン。京都ラーメン発祥の店と、記憶では唯一学生時代に親しんだ或る意味自分にとっての“青春のラーメン”。
しかし、何だかんだで予定が狂い、結局今回は行けずに終わりました。そのため、自分にとっては“幻のラーメン”のまま。むしろ、もしかすると“幻”のまま、思い出は思い出のままで取っておいた方が美しい(=美味しい)のでしょうか・・・?

 今回の京都旅行は三泊だったのですが、孫を連れて来た次女を京都駅に送ったり、オンライン会議が入らない間に長女と出掛けたりという感じで、観光という意味では、金閣寺にお守りをお返しに行った以外は宿周辺をウォーキングがてら散策したくらいでした。
本当はこの時期、9月に入ってもまだ納涼の飾り付けがされているという東福寺と、枯山水の庭が素晴らしいという塔頭の光明院へも行きたかったし、そろそろ見頃を迎えるであろう御所の隣の“萩の寺”梨の木神社へも行きたかったのですが、どちらも果たせず。

 そのため滞在場所が岡崎なので、朝のウォーキングで岡崎公園から平安神宮、そして永観堂から南禅寺、或いは疎水沿いに哲学の道を歩いたり、疎水方向を逆方向に川端通から鴨川に沿って川岸を歩いたり。
或いは午後の空き時間に粟田神社の横から青蓮院から知恩院を経て、円山公園から八坂神社まで歩いたり・・・。
昨年までに、せめて親が出来ることの願掛けをしたそれぞれのお寺さんや神様には全てお礼参りで参拝済み。ただ、ウォーキングの途中にある浄土宗の我が家の総本山でもある知恩院へは今回も先祖供養のお参りし、また京の産土神である八坂神社へも今回の入洛のご挨拶を兼ねて参拝したのみでした。
 広大な円山公園。枝垂桜が有名ですが、何となく横山大観の「夜桜」を思い浮かべます。また近くに祇園祭の山鉾の形をしたコンクリート製の塔の様な建物があり、ずっと不思議に思っていましたが、これは大倉財閥の創始者が建てた「祇園閣」という昭和初期の建物で、時の男爵だった翁が自身の卒寿(90歳)などの記念として「祇園祭でしか目にできない山鉾を、一年中見られるように」と建てた塔だそうです。高さが36mあり、遠くからでも目立ちます。秋には特別公開されるそうですので、機会があったら一度見てみたいものです。そして、先述の大観の「夜桜」は、時の大倉財閥総帥(先述の創始者の長男で大倉財閥二代目)から依頼を受けて描いたものなのだとか。ナルホド、“千年の都”京都は遥かに奥が深い・・・。

 「たった三泊じゃ、短かったね・・・」
家内ではありませんが、やはり三泊では当初の目的すら果たせず・・・。色んな思いの交錯する京都では、もっと長く滞在しないとその都度の目的があってもなかなか達成するのは(≒満足感を得るのは)難しそうです。

 今回の京都旅行での食事場所の選定は、事前に母娘(おやこと読みます)で相談して選んだ店ばかり。私メの選択は(希望などの意見も)一切入っておりません(「父娘」は「おやこ」とは読みませんから・・・)。
まぁ、それぞれ美味しかったし、他にも個室が取れずに孫を連れて行けないというので、私メが(「じゃあ、しょうがない」と言いつつ、確信犯的に)ホテルに残って孫の面倒を見ることにして(お陰で、腕は痺れましたが、小一時間孫娘と幸せな時間をジィジは過ごすことが出来ました)、母娘三人で食べに行った「瓢亭」の朝粥コースなど私メが食べていないモノもあるのですが、今回行った中で我々家族が感心感激したお店が一軒ありました。

 それは長女が選んだ、河原町四条の一筋北の小路を東に入って、狭い階段を二階に上がったお店。その名も「煮野菜 おにかい」。
店の紹介ページに依ると、『おにかいでは「旬の京野菜を美味しく食べよう」をコンセプトに、カウンターど真ん中に置かれた自慢の大鍋でその日届いた野菜たちをコトコト煮たり、さっと炊いたり、湯がいたり…。
京都乙訓の里 向日にある五十棲農園から採れる安心安全の旬の京野菜たちを中心に、近隣の農家さんとも連携し作っている新鮮なお野菜たちを美味しく召し上がっていってください。』とのこと。
つまり野菜中心で女性に優しく、また長女に依れば、飲兵衛の私メ向きにお酒の品揃えも豊富とか(男性陣は「なんだ、野菜かよ!?」と思うかもしれませんが、決して然に非ず!)。

 狭い階段を昇りドアを開けると、想像以上に開放的で広い店内。オープンキッチンを取り囲むように板のカウンターがあり、周囲には仕切られた大小の個室風のスペースがあります。店内全体が古材の様な感じの板材が使われていて、まだ新しい店でも古民家に居る様な歴史を感じさせる佇まいを演出しています。
そして皆さん若いスタッフですが、ハキハキとしていて気持ちがイイ。
人気店なので予約必須という長女の勧めもあって、事前に家内が早めに個室を予約していたこともあり、通していただいたのは単に板壁で横と仕切られたスペースではなく、ベビーカーでの赤ちゃん連れを伝えていたこともあってか、スペースへの段差もあってより個室に近い感じ。ベビーカーを置くスペースも十分で、ベンチシートも平らな板の間の様で、赤ちゃんを寝かせたりするにも便利。ここならば、もし泣いても他のお客さんへの迷惑も最低限で済みそうです(結果的には、食事中は全く泣かずにイイ子にしていましたが・・・)。
次女が孫用の離乳食を準備しだしたところ、それを目に留めたスタッフが(しかも若い男性スタッフです)「温めましょうか?」と声を掛けてくれたのです。
娘が恐縮してお願いし、持って来ていただくと、「このくらいの温度で大丈夫ですか?」と確認。他にも準備したモノと二種類共温めてくださいました。
娘曰く、
 「今まで赤ちゃん連れで食べに行った中で、温めをお願いする前に声掛けて聞いてくれたお店って初めて!」
勿論、お願いしても断られるお店の方が多いだろう中で、お店の方から気を利かせて「温めましょう!」と声を掛けてくれるなんて、と大感激の様子。
他にも、オーダーや配膳、店内の案内など、声掛け一つとっても、気配り、目配り、心配りが決して押しつけがましくも無く、また芝居がかった感じもせず、極自然な振る舞いで行われている感じで、そんな自然な“おもてなし”に一同感激しました。

 勿論、契約農家から届くという新鮮な野菜も美味。
頼んだのは、九条ネギとシラス、マグロのレアカツ、トウモロコシの天婦羅、炊き込みご飯などなど・・・。
日本酒も京都や滋賀の地酒など10種類ほど揃えられていましたし、料理もどれも新鮮で調理も工夫されていて美味しかったのですが、それ以上に若いスタッフの皆さんの“おもてなし”に感心感激した次第です。

 9月上旬の京都観光。夏の終わりから初秋というこの時期だと、例えばたくさんの風鈴や風車などで納涼の飾り付けがされているというモミジで有名な東福寺や、その塔頭寺院で昭和になっての作庭ですが枯山水の庭園で知られる光明院、もしくは岡崎周辺ではまだハスの花が咲いているかもしれない平安神宮(因みに風鈴も飾られた様ですが、8月一杯で終了していました)の神苑(こちらは入園料が必要です)など、事前にチェックした中でこの時期であればここへという寺社仏閣もあったのですが、結局今回の京都行で唯一拝観したのは金閣寺でした。

 「鹿苑寺金閣」。京都への修学旅行やインバウンドの外国人観光客の皆さんが必ず訪れるであろう、京都観光での定番中の定番。京都での学生時代、高校時代の友人が京都へ遊びに来た時に訪ねた様な気もするのですが、それにしても俗っぽすぎて今回が45年振りの金閣寺ですし、家内に至ってはまさに半世紀前の修学旅行以来とか。
ではなぜ金閣寺か?今回は、これまで娘たちの京都の寺社仏閣のお守りやお札をお返ししながらのお礼参りを兼ねて参拝してきた中で、清水寺や八坂神社、下賀茂神社などは家内が既にお礼参りを済ませているのですが、唯一金閣寺だけがまだだったのです。

 岡崎からは、丸太町通りから西大路を上がって直接金閣寺道まで乗り換えずに行ける市バスの路線があったので、それに乗り向かいました。
バスを降りると、金閣寺道の両側は往く人、帰る人の波が続いています。そしてその殆どが学生さんで、修学旅行の皆さんです。今でも金閣寺は、銀閣寺に平安神宮や清水寺と並んで京都での修学旅行のメッカなのでしょう。
受付で拝観料を払い、以前頂いたお守りの供養のことを伺うと、境内にも返却する箱があるそうですが、「宜しければ、こちらでお預かりします。」とのことで、有難くこれまでのお礼を添えてお返しし、供養のお願いをさせていただきました。

 境内はそれこそ、学生服とセーラー服で溢れていました。でも昔と違うのは、娘たちの頃にはもうそうなっていた様ですが、大型バスで移動してバスガイドさんを先頭にクラス毎の集団でぞろぞろ行動するのではなく、何人かずつでのグループ毎に計画を練って行動している点。しかも安全を考えてか、各グループに付き添いの先生やボランティアの方か大人が必ず付き添っています。中には、まとまって観光バスで来て、拝観時にグループ毎で行動する学校もある様です。我々が伺った午前の時間帯は、どうやら高校生ではなく中学生の一団が多かったように思います。それにしても、昨年までのコロナ禍の2年間は修学旅行を諦めざるを得なかった子供たちが殆どでしょうから、本来に近い形で京都に修学旅行で来られているこの子供たちは本当に良かったと思います。
 40年振りの金閣の鹿苑寺。臨済宗相国寺派。「そうか、禅宗のお寺だったんだ・・・」と改めて認識。鎌倉時代から室町時代に掛けて隆盛を振るった禅宗の、鎌倉と共にその中心である京都五山。
しかし金閣寺は元々義満の別荘であったとしても、あまりに豪華すぎて禅宗のイメージは湧いてこないのかもしれません。その意味では、慈照寺銀閣の方が、ワビサビ的には禅宗としては好ましいように感じます。三島由紀夫が描いた、美し過ぎるが故に「焼かねばならぬ」とした若い学僧の気持ちも、何だか分からないでもありません。
40年振りに来て庭園を一周しながら、昭和62年に金箔が張り替えられたという眩いばかりの舎利殿を眺めてみると、溜息が漏れる程に確かに美しい・・・。
やはり金閣は、臨済宗の鹿苑寺としてではなく、室町時代足利氏華やかなりし頃の北山文化の象徴として観た方が良いのだろうと思います。
 また久し振りの金閣寺を拝観して感じたのは、確か銀閣寺は銀閣と呼ばれる観音殿以外の、書院や東求堂などの慈照寺の建物も拝観できたと思いますが(これまた40年以上も行っていませんので不確かですが)、金閣寺は庭園を順路に沿って一周して拝観終了で、ゆっくり写真を撮りながら巡っても30分も掛かりません。その意味では、予めコースが決まっていて、例えば団体行動で時間通りに移動し到着しなければならない昼食場所等を考えると、修学旅行などの集団での観光には、京都では平安神宮(神苑には入らず拝観料不要の本殿参拝のみ)と共に相応しいのだろうと、久し振りの金閣寺を修学旅行生に混じって拝観しながら感じた次第・・・。