カネヤマ果樹園 雑記帳<三代目のブログ>

 正月三が日。一応四柱神社へ朝のウォーキングを兼ねて行ってみたのですが、境内どころか縄手通りまで伸びた参拝待ちの行列を見て、三が日での初詣は断念。
この四柱神社は明治7年(1874年)に創建された神社であり、歴史的にはそう古い神社ではありません。しかし、天之御中主神、高皇産霊神、神皇産霊神、天照大神の四柱の神を祭神とすることから名称が付けられているので、そのため商売繁盛、学業成就、家内安全、健康寿命の全てを叶えてくれる神社なので県内の神社の中で最も願いが叶いやすい神社であり、数年前に占い芸人の人がこの四柱神社を最強のパワースポットとして紹介してから、初詣などはとんでもなく混むようになりました。
以前亡き父が地区の氏子総代をしていて大晦日に弐年参りの対応で泊まり込んだり、その縁で娘たちが巫女のバイトをさせていただいたりしたこともあって、我が家では毎年四柱神社に必ず初詣に来ているのですが、昔は元旦でもそれ程混んではいなかったのです。でも地元の方々の信仰を集めるのは良いことですので、混雑するようになった以降は我が家は正月三が日を避けて、その後で深神社と併せて初詣のお参りをするようになりました。

 今年は、娘たちが正月の三が日を過ぎてから帰省して来るので、ささやか乍らそのもてなしの準備もあり、これまた毎年行っている城山放光寺の厄除け詣りが今年は7日と8日でしたので、二日目の8日に朝のウォーキングがてら先ず朝一で放光寺の厄除け詣りを先に済ませ、そこから街中に下って松本城を経て、四柱神社と天神様の深志神社へ初詣に行くことにしました。

 厄除け祈祷が始まる9時過ぎに城山公園を経由して放光寺に到着。いつもは人っ子一人おらず静かな参道も、この日ばかりは縁日の露店が並び賑やかです。まだ早いので参拝待ちの列もそう長くはなく、今年は家族に厄年の人間はいないので、今回は祈祷はせずに参拝を済ませ、六角堂も併せてお参りします。その頃には参拝待ちの列も境内から参道にまで延びていましたので、早めに来て正解でした。
 城山を下り、開智小学校のところに来ると、何やら祭りの行列が・・・。後で分かったのは、松本の新春伝統行事「松本あめ市」の七福神の行列。この後松本城を経由して、この日歩行者天国になる大名町から本町、伊勢町へと繰り出すところでした。
「あめ市」は謙信が信玄に塩を送ったという故事に由来し、越後から“塩の道”千国街道を通って、当時武田領であった松本に塩が到着した(注)ことを祝う「塩市」がその始まりとされ、コロナ禍で3年ぶりの開催とのこと。
「あめ市」二日目のこの日は、松本城の入り口、大名町から女鳥羽川を渡った本町、その本間に交わる伊勢町までの松本の中心街が歩行者天国になっていました。そこで、その大名町から縄手通りを抜け、四柱神社で初詣の参拝を済ませ、天神様の深志神社へ。天神は「あめ市」の会場から離れているせいか、四柱の様な参拝客の行列も無く、ゆっくりとお参りを済ませることが出来ました。
 初詣の帰りに、「あめ市」のホコ天になっている伊勢町を通って帰りましたが、ちょうど「松本あめ市旧車祭」としてクラシックカーの展示がされていて、懐かしくて見入ってしまいました。家内は全く興味が無いらしく、先に行って駅のスタバで待っているとのこと。
クラシックカーと言ってもそんなに古くは無く、展示されていたのは、ランボルギーニなどの昔一世を風靡したスーパーカーやロータスなどの外車や、“ネオ・クラシック”と呼ぶのだそうですが、私が子供の頃の日本車など。中で一番懐かしかったのは、今で色褪せない流麗なデザインの初代ニッサン・シルビア(1960年代)でした。他にも、スバル360は元より、ダットサン2000、トヨタ・パブリカ、少し時代が下がって“ハコスカ”やいすず117クーペなどなど。どれもオーナーの方がずっと大切に維持し、今でもバリバリの現役でちゃんと走れるそうです。個人的に少し残念だったのは、今回の展示の中に日野コンテッサが見られなかったことでしょうか。それにしても、当時の日本車の方が何とも個性的だった様な気がするのは、居並ぶ旧車同様に年を取った齢60を超えたジイサンの単なるノスタルジーなのでしょうか・・・。でも、片やしっかりまだ現役で頑張っているのですから、思わず「エライ!」。
何だか、励ましと元気を分けてもらったような気がしたのは私だけでしょうか・・・。
 快晴の青空の下での久しぶりのホコ天とあって、皆嬉しそうです。本町通では、キッチンカーが集合してのラーメン横丁があったり、クラシックカーの展示や時代行列がなどなど。昔ながらの商店街の子供たちが元気の良い声を張り上げて商売の見習いをするという福だるまの町会毎の屋台や、新橋飴などの昔懐かしい福飴の屋台も並び、この日の午後には恒例の上杉軍と武田軍に分かれての綱引き合戦もあるとか。それにしても、コロナ禍で「あめ市」も三年振りの開催だそうですが、やっぱり賑わいってイイものですね。
この賑わいを見ながら、そうした感慨と共に、私だけではなくきっと多くの市民がコロナ退散を願っただろうと感じた次第です。
【注記】
松本藩の領地であった塩尻は、日本海側から運ばれてくる塩の道の終点、“塩の尻”であったという説があり、隣接する諏訪藩は太平洋側からの塩が運ばれて来ていたとされる。北条氏が太平洋側から武田への塩を止めたのに対し「戦いは戦でするもの」として、謙信が越後の塩を送ったという故事に因む。

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