カネヤマ果樹園 雑記帳<三代目のブログ>

 正月三が日も過ぎ、一応松の内ではあったのですが、婿殿の年末年始の病院勤務明けを待って次女一家が正月の帰省。一方、年末からNYから婿殿がコロナ禍の規制解除で漸く来日が叶ったので、二人で白馬のスキー場で年越しをしていた長女夫婦も合流。少し遅めの我が家の新年会を美ヶ原温泉の“鄙の宿”「金宇館」で行いました。
2020年の改装オープン後は、それまで我が家でも法事などで何度も利用させていただいた会食受け入れを止め、宿泊対応のみの対応とした金宇館。従って、我々地元民が金宇館の食事を楽しむためには宿泊するしかありません。また改装後、より決め細やかな対応のためか、それまではご家族だけでの対応でしたが、スタッフとして従業員の方々を雇われたこともあってか、週一の休業日を設定。そのため今回はその休業日と重なってしまい、残念ながら連泊出来ずに僅か一泊だけの宿泊になったのですが、たった一泊であっても美ヶ原温泉の源泉の一つである御母家の湯と金宇館の料理を皆で存分に楽しむことが出来ました。そして結論めいて言わせて貰うならば、その理由は普段より“ゆっくり流れる” 金宇館の時間にある様に思います。

 金宇館は僅か9室だけのこじんまりとした料理旅館ですが、少ないからこそ細部にまで行き届く様な細やかな気配りや目配りがされていて、毎回心癒される時間を過ごすことが出来ます。
今回もそれぞれ一家に一部屋ずつ三部屋を予約してあったので、母屋の二階は我が家の家族だけの滞在(子供連れ可の部屋は本館二階の一部屋だけです)。そのため食事も一階のダイニングではなく、今回もお陰様で二階の8名用の個室ダイニングを我々だけで使わせていただけたので、もし孫娘が食事中に泣いても周囲を気にせず食事をすることが出来ました。

 
チェックイン時間に合わせ、先に松本駅でピックアップした長女夫婦を宿に送り届け、家内の運転する車で遅れて来る次女一家を独りロビーで待ちます。相変わらずの静謐感漂う凛とした佇まいの館内で感じるのは、改装後に初めて宿泊した昨年の印象(第1732&1733話)と同じ。その時に記した内容は・・・、
『(略)さり気なく置かれた野の花の凛とした一輪挿しと小さな彫刻でした。
後で玄関ロビーに置かれた冊子で分かったのは、その彫刻は沢田英男という彫刻家の小さな木彫りの像。殆どがのっぺらぼうで、円空よりも素朴で顔の無い僅か20㎝足らずの小さな像なのですが、静かな祈りにも似た敬虔さを醸し出しているのです。見ていると、汚れを削ぎ落したようなその静謐さに、思わずこうべを垂れずにはおられない様な、そんな気さえして来ます。東京芸大を出てドイツで修行され、彫刻家としての資格(マイスター?)を取得されたとありましたが、その彫られた像は修行僧にも似て、巡礼者か、或いは聖なる修道士か・・・(後で知ったのは、4代目のご主人自身が沢田英男ファンなのだそうです)。
清楚な一輪挿しと共に、館内に“静けさ”を作り出すための小道具として置かれた沢田英男作品。
「金宇館」は騒がしい団体客を受け入れる様な大きな旅館ではありませんが、僅か9組のカップルや家族連れであっても、館内では自然と囁くように声を落としてしまう・・・あくまで勝手な個人的想像ではあるのですが、そんな行動を誘う様な見事な演出です。(略)』。

 ロビーに独り座っていると、季節の花の投げ入れや小さな彫刻に、何だか深呼吸をしたくなるような清々しさを感じます。前回、昨年の滞在は初夏だった故に気が付きませんでしたが、石敷きの小さなギャラリーを兼ねた玄関ロビーは床暖房で暖か。そして不思議なのは、スタッフの方の存在を感じないこと。なのに、何か気になることがあるとすぐに「どうかされましたか?」とさっと脇でサポートしてくれる様な、そんなさり気さ・・・。
小さいからこそ目が届くにしても、不思議な落ち着きと静けさに日頃の喧騒を忘れて、少々大袈裟に言うならば、森の中に佇む静かな湖の様に心の中のざわざわとした波紋が消えて次第に穏やかになっていく・・・様な。
 無事全員のチェックインが済み、私メだけは一旦家に戻り、ワンコたちの食事の面倒を見てから彼らに留守番を頼み、また宿に戻って内風呂「御母家の湯」へ。湯小屋”と呼ぶ浴室棟“として別棟になった総檜造りのお風呂。前回も書きましたが、改装で一番良くなったのがお風呂です。因みに、金宇館の改装工事を請け負われたのが、以前の一戸建ての我が家と同じ地元の滝沢工務店さんなので、これも何かの縁と勝手に思っています。
旅館創業時からの中庭同様に、今では入手が難しい地元の山辺石を使った山肌を模した景観を望む半露天の大浴場(と言っても僅か9部屋の旅館故、それ程湯舟は大きくありませんが)の他にも貸切になる家族風呂もあり、15:00~翌日10:00という、チェックイン後から翌日11時のチェックアウト近くまで深夜も含めずっと入浴が可能。前回もそうでしたが、何故かいつ行っても誰も入浴していないので、一人なら十分以上の大きさです。源泉「御母家の湯」の泉質はアルカリ性単純温泉とか。41℃~42℃くらいか、個人的に好みの少し熱めに感じる温泉が気持ちイイ。
そこで、私メは翌朝もワンコの食事の準備で家に戻らないといけなかったので、早朝4時半から一時間、(当然ですが)独りでお風呂を独占させていただきました。この時は朝5時前から お風呂に入る人なんぞいる訳も無いので写真を撮らせて頂きましたが、冬至を過ぎたとはいえまだ真っ暗でした。
 さて、話を戻し前日夕刻の風呂の後。部屋に戻る前に、この日も城下工業製Sound Warriorの真空アンプと天井に吊り下げられたSonihouseの多面体の無指向性スピーカーSightからJazzが流れるラウンジで、セルフサービスのコーヒーマシンで淹れた丸山珈琲を飲みながら、中庭を眺めつつ暫し休憩。次は夕方6時から、金宇館で一番楽しみな夕食な時間です。

 都道府県対抗となるスポーツ大会の中で長野県選抜や代表校がトップ争いを出来る競技は、ウィンタースポーツを除けば残念ながらそう多くはありません。勿論、個人競技では時々世界のトップクラスの選手が誕生するのはどの県でもあり得ることですが、ことチームスポーツになるとそうはいきません。そこには競技環境であったり、指導者であったり、歴史や伝統といった色々な要素が必要になります。
長野県において、そんな数少ない競技の一つが駅伝です。元々、地区対抗の実に71回を数える長野県縦断駅伝が戦後間もない1952年から戦後復興のため「若者たちの体力と精神力を養う」ことを目的に開催されていて、今では信州における晩秋の風物詩。過去そうした中からマラソンでのオリンピック選手(伊藤国光、中山竹通)も誕生しています。今では中学生からの男女混合で、近隣市町村同士のチームが編成されています。
そうした土壌があったにせよ、駅伝の強豪県として対抗出来るようになったのは、やはり男子チームの佐久長聖高校の存在が大きいと思います。

 都道府県対抗駅伝は1983年に京都で始まった女子駅伝に比べ男子の歴史は新しく、1996年から広島で開催されていますが、長野県チームが初優勝したのは2004年です。この年は佐久長聖のエース上野裕一郎選手が活躍。以降、長野県は3連覇を含め、全国でダントツの9回の優勝を誇ります。続くのは兵庫の5回。これは何を意味しているか?広島は第1回大会優勝のみ。宮城、岡山に至ってはゼロ。何を言いたいのか・・・?
この都道府県対抗駅伝は、日本国籍の無い留学生選手は出場出来ません。従って、日本人選手のみでの実力勝負。しかも全7区中3人を占める高校生区間(残りは中学生2名、大学・社会人2名)が最重要になるため、高校駅伝の“都大路”での強豪校がある都道府県が優勝候補になるのですが、それが留学生に頼った優勝校だと都道府県対抗では全く効力が発揮できないのです。先述の嘗て“神の領域”云々と自画自賛した高校のある県が全く優勝していないのはそうした背景です。一方で兵庫県が強いのは、留学生ランナーが登場した以降様相は一変しましたが、それまでは西脇工業VS報徳学園の熾烈な県代表争いで“兵庫を制する者は全国を制す”とまで言われていたからです。
片や長野が強いのは、確かにゼロから佐久長聖を強豪校に育て上げた両角前監督(茅野市出身。東海大三高卒で現東海大駅伝部監督)と、その指導を引き継いだ教え子の高見澤現監督(木曽郡大桑村出身)の力が大きいのですが、各地の指導者が連携して小学生の頃から素質のある子供たちの発掘や強化に取り組み、そんな子供たちを佐久長聖に送り込んで来たからです。実業団チームの無い長野県ですので、地元の高校出身の大学生や“ふるさと選手”枠の社会人選手しか選べません。勢い、地元選手を育てるしかないのです。
そうした長野県の状況は女子も同様ですが、私立校である佐久長聖の男子に比べ女子は長い間活躍出来ずにいました。それが、公立高校でありながら県立長野東が長野県の高校教員だった玉城前監督(現日体大男子駅伝部監督)の長年に亘る一貫した指導(長野東の前任校である諏訪実も県内の実力校に育てました)で力をつけ、これまた県内から有望な子供たちが公立校ながら長野東に集まるようになり、やがてその卒業生が大学や社会人で活躍するようになって全体としても力が付いて来ました。玉城前監督の後は、長野東が県立高校故に県教員である信州大学OB(大学時代に選手として全国大学駅伝に出場経験があるそうです)の横打監督がその土壌を引き継ぎ、そして遂に昨年暮の都大路で念願の初優勝。長野東は県立の公立高校で選手全員が地元長野県出身の子供たちで、勿論留学生もいません。そんな高校が、全国から有望選手を集め更に留学生もいる私立高に勝っての全国優勝!これを快挙と言わずして何と言えば良いのでしょうか、まさにアッパレ!の一言でした。

 そして年が明け、コロナ禍で3年ぶりの開催となった都道府県対抗駅伝。先ずは15日に都大路で行われた女子駅伝です。
男子の佐久長聖同様にオール長野東で臨む女子(中学生も高校は長野東に進学するでしょうから)は、直前になって1区にエントリーしていた長野東OGで初のオリンピアン萩谷選手(エディオン所属。佐久市出身)が体調不良でか走れず、高校駅伝で最後逆転のゴールテープを切ったエース村岡選手(松本市出身)に交代。しかし、プレッシャーか或いは気負い過ぎか、途中まで先頭グループで頑張っていたのですが、最後は失速。その後もなかなか挽回出来ず、名城大から日本郵政に進んで今回アンカーを任された和田選手(長野市出身)まで選手は皆頑張ったのですが、結局初の表彰台には届かずに11位に終わりました。でもOGが社会人でも活躍するようになったので、女子チームもいずれは優勝争いをする時が来るだろうと確信しています。
 男子は22日に広島での開催。長野県は全国最多の8回の優勝を誇り、前回3年前にも優勝しているので連覇が掛かります。
正月の実業団のニューイヤー駅伝や箱根駅伝から僅か3週間なので、エントリーはしても結局疾走を見合わせる主力選手も多く、結局選手層の厚さがモノを言います。長野は佐久長聖の高校生と、大学生はOBの木村選手(専修大。松本市出身)と伊藤選手(早大。駒ケ根市出身)、社会人でナント立教大の上野監督(佐久市出身)がエントリー。結局木村選手は箱根同様故障で走れず、箱根を走った伊藤選手が3区、“日本一早い駅伝監督”の上野監督がアンカーの布陣。些か不安を感じましたが、伊藤選手もトップとの差を詰め、佐久長聖の3選手が区間新連発の見事な走り。更に6区中学生もガッツ溢れる走りで最終7区までに50秒近い貯金。後は抜かれなくても良いだけなので、最後2位埼玉の選手には詰められたものの、想定内で上野選手も無理をせずに盤石の走り。
最後のゴール2㎞位手前だったでしょうか、先頭を走るアンカーの上野選手に沿道から大きな声で「後ろとは35秒差、気を抜くな!!」と声を掛けたのは、間違いなく東海大の両角速監督でした。言わずもがな、上野選手の佐久長聖時代の恩師で、その後東海大監督に就任するまでは長野県チームの監督を務めていました。今は東海大監督の立場で、各県チームに選ばれて走る自校の選手の応援や高校生のスカウティングも含め、他大学の監督同様に今回のレースを観戦するという事前報道がありましたが、当日現場にいるので沿道での長野県チームの伝令役を引き受けたのか或いは自主的な声掛けだったのかは分かりませんが、現在の立場上長野県チームには直接関わらずとも“オールナガノ”で支えている感じがして何だか胸が熱くなりました。また、ゴールには当時富士通所属で“駅伝長野”初優勝時のアンカーを務めた現上田西の帯刀監督もチームスタッフとして参加されていました。
上野“監督”も最後まで危な気なく、自チームの持つ大会記録を“1秒”更新しての新記録で9回目の優勝。これまたアッパレ!な“駅伝王国長野”の今シーズンの掉尾を飾る見事な優勝でした。

 以前ご紹介した様に、新居への引っ越しを機に、狭いが故に置くスペースの無いオーディオ機器も整理し、家を建てた時に購入した私にとっての“第三世代”を、実に25年振りに一新しました。
とは言うものの、スピーカーは狭いマンションにはスペースが無いため、シンガポールで自作した長岡式名器“スワン”は泣く泣く手放しましたが(第1704話参照)、社会人になった年に購入した40年も経つTORIOのLS‐202は、その音を気に入っているのでそのままメインスピーカーとして継続。
一方、家新築時にセットで購入したプリメインアンプやMD、CD、カセットディスクプレーヤーは全て処分して、今回唯一新しくオールインワンタイプのMarantzのネットワークCDレシーバーM-CR612に変更しました。
しかも、その時にご紹介した通り、スピーカー接続を従来の一般的なシングルワイヤからこのM-CR612(最新モデル故にバイアンプ接続も可能ですが、LS‐202は古いので対応不可)のもう一つのウリであるスピーカー駆動方式のパラレルBTLドライブに変更した途端、余りの音の激変ぶりに驚き、その音に感激した次第です(第1721話を参照ください)。
なお、M-CR612にはFONO INの端子が無く、また同じDENONですが、今回処分した25年前の他の機器とその時一緒に購入したレコードプレーヤーにもフォノイコライザーが無いので、150枚近くあるLPレコードをこれからも聴くために、今回フォノイコライザーも購入しました。

 さて、このオールインワンタイプのMarantzのネットワークCDレシーバーM-CR612の特徴は、ネットワークとあるようにD&Mグループの「HEOSテクノロジー」を搭載した先進のネットワークオーディオ機能で、所謂ストリーミング(Amazon Music、AWA、Spotifyなど)、インターネットラジオ、AirPlay 2対応が可能。
長女や家内はAmazon MusicやYouTubeミュージックの音楽をこのM-CR612にBluetoothで飛ばして聴いていますが、私メは年金生活者故、これまで愛聴していたのは、せいぜい無料のクラシックマネージャーだけ。むしろこのM-CR612で大いに重宝しているのは、インターネットラジオです。というのも新居のマンションの構造体のせいか、或いは住んでいる場所のせいなのか、以前の一戸建ての時は快適に受信出来ていたFM放送が、このマンションでは聞きものにならぬ程の(特にリビングでは)劣悪な受信状態なので、FM視聴を諦めざるを得ず、その代替としてのインターネットラジオなのです。
M-CR612で受信可能なインターネットラジオ局は「TuneIn」なのですが、このTuneInの世界8万局というデータベースから、ジャンルや地域、言語などをもとに簡単にアクセスを行うことができます。そしてそれをスマホを介してデノン、マランツが開発したネットワークオーディオ再生の総合的再生機能である「HEOS」に登録し、(表示出来る情報量がレシーバーの表示部よりも多い)スマホから聴きたい局を選択しています。
いくら“毎日が日曜日”の年金生活者であっても、まさか8万局も試せる訳でもありませんが、好きなジャンルのクラシック音楽とジャズ音楽のラジオ局を探し、HEOSに登録(HEOSは「お気に入り」に200局登録可能)してあるのが、クラシック音楽ではWCRB BSO Concert Channel(米国ボストン)、WDR 3、Klassik Radio Mozart(以上ドイツ)、 ABC Classic(オーストラリア) など。
Jazz では、Jazz Radio Bcn Jazz 90.1 WGMC (スペイン)、 ABC Jazz(豪) 、 Best Smooth Jazz、 Smooth Jazz Florida(米) など、全部で12局です。
今後も、もし気に入った局が見つかればお気に入りに追加登録をして更に登録局が増えていくかもしれませんが、お気に入り登録が200局まで登録出来るとは言っても、さすがにそこまでは必要無いでしょう。
 クラシックではドイツの局は高音質(192kbs)でしたが、案内がドイツ語。BSOは、古くはミュンシュに始まり、多くはマエストロ・オザワが常任時代に振った音源が多く、更には現在のアンドリス・ネルソンスが振った最近の録音まで。そしてこの局の嬉しいのは、他の曲がジュークボックス的に一楽章だけだったりするのに対し、ちゃんと全曲が通しで流れること。ただ、毎日聴いていると、結構同じ音源が繰り返されているのが“玉に傷”でしょうか。また全曲が流れるのでキチンと向き合って聴かないといけません。むしろ“ながら”的にBGMとして聴くのであれば、ジュークボックス的な局の方が却って気楽です。好みに依りますが、モーツアルトの楽曲は“悲壮感”が無いのでBGMには最適。例えばKlassik Radio Mozartはモーツアルトの曲だけですので、リラックスしてBGMとして聴き流すのに向いています。ただこの局に限りませんが、欧州の局は日本とは昼夜逆転してしまうので、例えば早朝に“モツレク”の「怒りの日」が流れるのは、些か気分的にめげなくもありません・・・。その点、オーストラリアの局であるABC Classicは時差が無いのは有難いのですが、古典派やロマン派に留まらず、現代曲まで色々なジャンルが流れるので、後は個人の嗜好が合うかどうか・・・。
またクラシックに限らず、BGM的に聴くのであればJazz もおススメ。勿論スタンダードからヒュージョン、コンテンポラリーなど、Jazz にも色んなジャンルがあります。Jazz Radio Bcnはスペインの局らしいのですが、割と有名なスタンダードナンバーが多く掛かるので、私メの様な初心者向きです。また色々選曲している中で知った、米国で云う“Smooth Jazz”。謂わば、Jazzのイージーリスニングといったジャンルらしいのですが、ソプラノサックスで知られるケニー・Gがその代表格とか。また、爽やかなアコースティックギターの演奏が気に入って、社会人になってからLPを何枚も買って良く聴いたアール・クルーもそのジャンルの一人とか。
このSmooth Jazz はBGM的にJazzを聴くのであれば最適です。やはり米国の局がおススメで、イチオシはSmooth Jazz Florida で、次にBest Smooth Jazzでしょうか。

 インターネットラジオ局「TuneIn」には、8万局が登録されていると云いますので、他ジャンルも含め、他にも色々興味深いインターネットラジオ局が見つかるかもしれません。探す場合は、パソコンで、ジャンル別におススメのインターネットラジオ局とその特徴を紹介している記事がありますので、そうした記事をご希望のラジオ局検索の手助けにすると良いと思います。ただ記事に依っては情報が古く、中には停止してしまっていたり、現在は有料になっている局もありますので注意が必要です。また、残念ながら日本はそうした局が海外に比べ少ないので、そういう意味でもITの世界では残念ながら日本は随分遅れている気がします。

 正月三が日。一応四柱神社へ朝のウォーキングを兼ねて行ってみたのですが、境内どころか縄手通りまで伸びた参拝待ちの行列を見て、三が日での初詣は断念。
この四柱神社は明治7年(1874年)に創建された神社であり、歴史的にはそう古い神社ではありません。しかし、天之御中主神、高皇産霊神、神皇産霊神、天照大神の四柱の神を祭神とすることから名称が付けられているので、そのため商売繁盛、学業成就、家内安全、健康寿命の全てを叶えてくれる神社なので県内の神社の中で最も願いが叶いやすい神社であり、数年前に占い芸人の人がこの四柱神社を最強のパワースポットとして紹介してから、初詣などはとんでもなく混むようになりました。
以前亡き父が地区の氏子総代をしていて大晦日に弐年参りの対応で泊まり込んだり、その縁で娘たちが巫女のバイトをさせていただいたりしたこともあって、我が家では毎年四柱神社に必ず初詣に来ているのですが、昔は元旦でもそれ程混んではいなかったのです。でも地元の方々の信仰を集めるのは良いことですので、混雑するようになった以降は我が家は正月三が日を避けて、その後で深神社と併せて初詣のお参りをするようになりました。

 今年は、娘たちが正月の三が日を過ぎてから帰省して来るので、ささやか乍らそのもてなしの準備もあり、これまた毎年行っている城山放光寺の厄除け詣りが今年は7日と8日でしたので、二日目の8日に朝のウォーキングがてら先ず朝一で放光寺の厄除け詣りを先に済ませ、そこから街中に下って松本城を経て、四柱神社と天神様の深志神社へ初詣に行くことにしました。

 厄除け祈祷が始まる9時過ぎに城山公園を経由して放光寺に到着。いつもは人っ子一人おらず静かな参道も、この日ばかりは縁日の露店が並び賑やかです。まだ早いので参拝待ちの列もそう長くはなく、今年は家族に厄年の人間はいないので、今回は祈祷はせずに参拝を済ませ、六角堂も併せてお参りします。その頃には参拝待ちの列も境内から参道にまで延びていましたので、早めに来て正解でした。
 城山を下り、開智小学校のところに来ると、何やら祭りの行列が・・・。後で分かったのは、松本の新春伝統行事「松本あめ市」の七福神の行列。この後松本城を経由して、この日歩行者天国になる大名町から本町、伊勢町へと繰り出すところでした。
「あめ市」は謙信が信玄に塩を送ったという故事に由来し、越後から“塩の道”千国街道を通って、当時武田領であった松本に塩が到着した(注)ことを祝う「塩市」がその始まりとされ、コロナ禍で3年ぶりの開催とのこと。
「あめ市」二日目のこの日は、松本城の入り口、大名町から女鳥羽川を渡った本町、その本間に交わる伊勢町までの松本の中心街が歩行者天国になっていました。そこで、その大名町から縄手通りを抜け、四柱神社で初詣の参拝を済ませ、天神様の深志神社へ。天神は「あめ市」の会場から離れているせいか、四柱の様な参拝客の行列も無く、ゆっくりとお参りを済ませることが出来ました。
 初詣の帰りに、「あめ市」のホコ天になっている伊勢町を通って帰りましたが、ちょうど「松本あめ市旧車祭」としてクラシックカーの展示がされていて、懐かしくて見入ってしまいました。家内は全く興味が無いらしく、先に行って駅のスタバで待っているとのこと。
クラシックカーと言ってもそんなに古くは無く、展示されていたのは、ランボルギーニなどの昔一世を風靡したスーパーカーやロータスなどの外車や、“ネオ・クラシック”と呼ぶのだそうですが、私が子供の頃の日本車など。中で一番懐かしかったのは、今で色褪せない流麗なデザインの初代ニッサン・シルビア(1960年代)でした。他にも、スバル360は元より、ダットサン2000、トヨタ・パブリカ、少し時代が下がって“ハコスカ”やいすず117クーペなどなど。どれもオーナーの方がずっと大切に維持し、今でもバリバリの現役でちゃんと走れるそうです。個人的に少し残念だったのは、今回の展示の中に日野コンテッサが見られなかったことでしょうか。それにしても、当時の日本車の方が何とも個性的だった様な気がするのは、居並ぶ旧車同様に年を取った齢60を超えたジイサンの単なるノスタルジーなのでしょうか・・・。でも、片やしっかりまだ現役で頑張っているのですから、思わず「エライ!」。
何だか、励ましと元気を分けてもらったような気がしたのは私だけでしょうか・・・。
 快晴の青空の下での久しぶりのホコ天とあって、皆嬉しそうです。本町通では、キッチンカーが集合してのラーメン横丁があったり、クラシックカーの展示や時代行列がなどなど。昔ながらの商店街の子供たちが元気の良い声を張り上げて商売の見習いをするという福だるまの町会毎の屋台や、新橋飴などの昔懐かしい福飴の屋台も並び、この日の午後には恒例の上杉軍と武田軍に分かれての綱引き合戦もあるとか。それにしても、コロナ禍で「あめ市」も三年振りの開催だそうですが、やっぱり賑わいってイイものですね。
この賑わいを見ながら、そうした感慨と共に、私だけではなくきっと多くの市民がコロナ退散を願っただろうと感じた次第です。
【注記】
松本藩の領地であった塩尻は、日本海側から運ばれてくる塩の道の終点、“塩の尻”であったという説があり、隣接する諏訪藩は太平洋側からの塩が運ばれて来ていたとされる。北条氏が太平洋側から武田への塩を止めたのに対し「戦いは戦でするもの」として、謙信が越後の塩を送ったという故事に因む。

 奥さまが、「何となくカツカレーが食べたーい!」との仰せ。
これまでも家で日本的なカレーを作った際は、時々スーパーの総菜売り場のロースカツを買って来てカツカレーにして食べていましたが、今回はどこか外の食堂で食べたいとのこと。
個人的に、日本人の“国民食”とも云われるカレーは、味噌汁や漬物、煮物(の味付け)などと同様に家庭料理の代表格で、ポークでもチキンでもビーフでもなく(例えそれがちくわであったとしても)、ましてや旨い不味いでも辛い甘いでも、はたまた濃い薄いでもない、それぞれがその家庭の味。従って、カレーをどこかの食堂など「外食で食べる」という選択肢はこれまで私にはありませんでした(仮に、もし何も選ぶモノが無い食堂があったとしたら、その時には一番無難なカレーを選ぶかもしれませんが・・・)。
片やシンガポールで大好物だった(北)インド料理は、そうしたある意味“日本式”のカレーとは全くの別物。ですので、カレーでは無く飽くまで“インドカリー”なのです(本来は具材やスパイスの違いにより、○○マサラ・・・云々で、〇〇カリーとも言わないのでしょうが、シンガポールでもメニュー表に英語で書かれた○○マサラという名称を見ても聞いても分からないので、フロアスタッフのインド人のおじさんに、プロウン、マトン、ベジタブルなどその日食べたい具材と辛さを伝え、後は全部お任せで注文していました。出張したバンガロールやムンバイでも毎日インド料理を食べましたが、シンガポールのその馴染み店の方が遥かに美味しかったです。あぁ、今は無き「モティ・マハール」。決して高級店ではなかったのですが、本当に旨かった!しかも安くて、自腹で接待しなくてはいけない時は、シンガポールではコスパの良いインド料理かベトナム料理が選択肢でしたので、出張者も時々連れて行きましたが、極端に言うと場末の店風だったので、半分は感激し半分は「こんな店に連れてきて!」と怒っていました。確かに赴任者も含め、日本人客はあまりおらず客層は欧米人が殆どでした)。

 閑話休題。そこで、松本市内の飲食店を調べてみた結果(勿論、松本にもココ壱番屋といったカレーチェーン店もあるのですが)、“町の食堂”や“町の洋食屋さん”が「カツカレー」の対象となる感じの中で、我々が選んだのは日の出町のイオンモールの対面にある「キッチン南海」でした。
この「キッチン南海」は、有名な東京神田神保町(じんぼうちょう)の本店で2年間修業したというマスターが地元に戻り、暖簾分けをしてもらう形で昭和50年(1975年)に創業したカレーとトンカツの専門店です。
昭和50年というと、私メの高校卒業年ですので、高校時代に私が食べたカレー店の今は無き「たくま」や「デリー」といった松本のカレー専門店よりも新しく、私はこれまで名前は聞いていても食べに行ったことはありませんでした。
こちらのマスターは神田の本店の親族ということで、都内中心に数ある暖簾分けのお店の中で関東圏以外では唯一のお店だそうで、お店を彩る緑色は神保町・本店の創業者が当時のプロ野球球団「南海ホークス」のファンであったことに由来するのだとか。因みに神田神保町の本店は1966年に創業し、2020年6月に店舗の老朽化により惜しまれつつ閉店。しかし、20年以上本店で料理長を務めた方が二年前に本店のあった場所から数分歩いた所に「キッチン南海 神保町店」を再開し、現在も切り盛りされているそうです。そして、この料理長さんはナント松本市のご出身だそうですので、余程「キッチン南海」は松本市に縁があるんですね。
「キッチン南海 松本」は、L字型に配置されたカウンターに7席と4人がけのテーブルが5卓あり、すべての座席を合わせると27席。オープンキッチンでご主人が黙々と調理をされ、片やホールでは元気の良い女将さんがテキパキと動き回っていらっしゃいます。驚くべきは、女将さんの記憶力の素晴らしさ。注文票は無く、20数人分のオーダーを一切メモも取らず、客に「〇〇でしたっけ?」などと確認することも無く、ご自身の記憶力だけで配膳と精算をされています。逆に“ボケる”暇も無いくらい忙しいのでしょう。それにしても拍手を送りたくなる程で、「お見事!」の一言に尽きます。
我々は、イオンシネマで朝一からの映画「Dr.コトー診療所」を見た後、11時40過ぎに入店。もう食べ終わった方がおられたようで、ちょうど空いたテーブルを片付けていただいて、すぐに座ることが出来ました。その後も続々とお客さんが来られ、了承を得ての相席になるテーブルもあるなど常に満席状態で、人気の程が伺えます。
 キッチン南海は勿論カレーが有名なのですが、カレー以外にもトンカツやビフカツ、エビフライ、更には生姜焼きといった定食類もあり、“町の洋食屋さん”といった感じで、実際“たまには・・・”といった感じで、カレー以外の定食を注文される常連さんと思しきお客さんもおられます。
しかし我々は、私メが王道のカツカレー(850円)で奥さまはロースカツカレー(1100円)を選択。有難いことにカツカレーにもサービスで豚汁が付いて来ます。
カツカレーに載っているトンカツは、普通の数センチ巾での縦だけではなく横半分にもカットされていて、一切れが一口大で実に食べ易い。カツカレーのトンカツは薄めのトンカツなのですが、これが驚く程柔らかい。お互いにシェアしましたが、ロースカツは普通のカツの3倍以上の厚さ。カレー皿に長野県産のコシヒカリのご飯と千切りキャベツにカツが載せられてカレーが掛けられているのですが、カレーの量がたっぷり。福神漬けも添えられていて、足りなければテーブルに瓶に入った福神漬けが置かれていますし(ラッキョウ漬けは残念ながらカウンターにしかありませんでした)、カツ用に必要なら辛子の小瓶も置いてあります。
カレーのご飯が想像以上に多かったのですが、たっぷりのカレーのおかげで最後のワンスプーンまでしっかりカレーと一緒に食べることが出来ました。家内は全部ご飯を食べきれず、「最初からご飯を小盛にして貰えば無駄にならずに良かったのに」と反省しきり。
カレーの味は、ターメリックかガラムマサラか、個人的には何かのスパイスが足りない感じがしましたが、これは普段家庭のカレーが昔からジャワカレーとバーモントカレー(若しくはディナーカレー)のブレンドなので、その“標準的な味”に慣れ過ぎているのかもしれません。ただ、神保町のカレーはかなり黒っぽかった筈ですが、松本はそれとも違う感じでした。
サービスの豚汁は、豚肉が入ったお味噌汁といった感じで、野菜が実に具沢山。家内ではありませんが、これだけでお腹が一杯になりそうです。
 久しぶりに外食で食べたカツカレー。美味しくて十分に満足ではありましたが、やっぱりカレーは自分の舌の記憶が強過ぎるのか、日本的なカレーとは違う料理であるインドカリーは別として、結局慣れ親しんだ自分の家庭の味が一番なのだろうと感じた次第です。

 12月23日、クリスマスイブの前日。松本市音楽文化ホール(ザ・ハーモニーホール松本。地元での略称は“音文”で現キッセイ文化ホールが県立故に“県文”)で鈴木雅人指揮バッハコレギウムジャパン(BCJ)のヘンデルのオラトリオ「Messiah(救世主)」の全曲演奏会が開催されました。
本来であれば、“聖夜のメサイア”として毎年24日のクリスマスイブにサントリーホールで演奏され、その前日は例年軽井沢の大賀ホールで演奏される名物コンサートです。それが今年、松本で23日に演奏会があり、翌日は松本と同じ顔触れで“聖夜のメサイア”でのサントリーホールとのこと。調べてみたら、今年の軽井沢は既に12月11日にご子息の鈴木優人指揮でソリストも異なるメンバーで実施されていました。謂わば23日の演奏会を今年は軽井沢から松本が奪い取った感じです。

 今まで、BCJのメサイアを一度は聞きたいと思いながら、12月23日だと雪の三才山峠越えになることにビビッて、今まで軽井沢には聴きに行けてはいませんでした。と言うのも、定年前の4年間は上田の子会社に車で毎日通勤したのですが、冬は降雪でトラックが立ち往生するなどして、大渋滞や何時間もの通行止めになったことがありましたから。それが、今年はナント峠越えせずにこの松本での開催と知り、ハーモニーメイトに再登録をして勇んでチケットを購入した次第です。

 コロナ禍の前から、松本の音文(ザ・ハーモニーホール)もディレクターが定年で交代してから、聴きたいと思える企画(派手さはなくとも、渋くて味がある様な。或いはいずれ世界的になるだろう期待の新鋭を先取りする様なコンサート)が無くなり、それまで長年ずっと継続してきた会員(ハーモニーメイト)を企画へのささやかな抗議の気持ちもあって辞め、更にその後のコロナ禍が輪を掛けてコンサートそのものが開催されなくなったことも手伝い、東京どころか地元の松本でさえも生の演奏を聴きに行くことが無くなっていました。

 この日は大雪の日本海側の影響で北アルプスを雪雲が越えて来たのか、朝一面の銀世界でしたが、積雪の量は大したことは無く1㎝程。でもXmasのメサイアに相応しく、松本はホワイトクリスマスになりました。
演奏によっては2時間半近くにもなるオラトリオ・メサイア。全体は三部構成で、二部の最後が有名なハレルヤ・コーラスで、全体の最後はアーメンコーラスで締め括くられます。
私が持っている二枚組のCDはシンガポール赴任中に現地のCDショップで購入したものですが、G・ショルティ指揮のシカゴ交響楽団・合唱団で、ソリストにソプラノのキリ・テ・カナワなど、当時の超一流演奏者ではあるのですが、録音された当時はどのメサイアも著名な交響楽団に依る大編成での演奏が主流でした。しかし、その後の音楽史的研究で、作曲されたバロック時代にはそんな大編成のオーケストラも、その後様々な改良が施される近代楽器(モダン楽器)も存在していないので、その時代の実際の演奏は、今回のBCJの様な当時のバロック様式での小編成の楽団で、且つ使われている楽器も古楽器(ピリオド楽器と呼ばれる当時のオリジナル楽器:例えば現在の様な金管楽器ではなく、木製のフルートやナチュラルトランペットやナチュラルホルンと呼ばれるシンプルな楽器、他にバロック特有のリコーダーやリュートと呼ばれるマンドリンに似た弦楽器など)だった筈・・・という研究成果を踏まえた演奏や録音が多くなりました。

         (音文の写真は今年の撮影ではありません)
 開演が夕刻6時半で開場は5時半。その時間をちょっと過ぎて会場のザ・ハーモニーホール松本( 音文)に着いたのですが、既に駐車場には多くの車が停まっていました。
コロナ禍で、音文でのコンサートも3年振り。教会の様な大きな三角屋根と周りを取り囲む旧鐘紡時代からの大きなヒマラヤスギが、クリスマスシーズンのメサイアに相応しい気がします。しかもホールの内部も正面に県内唯一のパイプオルガンもあって、こちらも教会の様な雰囲気。そんな会場の環境も手伝って、「やっぱり、年末には第九よりもメサイアでしょ!」と一人得心。
ただ、残念ながら先日のサントリーホールとは異なり、この日のカーテンコールでの写真撮影OKという張り紙もアナウンスも無し。地方はまだ都会のそうした趨勢に付いていけていない様で残念です。

 遠来のBCJメンバーの入場を拍手で迎えます。楽団、合唱団共に20人程。ソリストはソプラノがプラハ出身の女性で、アルトを英国出身男のカウンターテナーの男性が担当。テナーとバスは日本人。このソリストが翌日のサントリーホールも出演します。
片や2000席に対し、音文は700席ちょっと。音響の良いこのホールならどこで聴いてもサントリーホールのS席と一緒。実に恵まれた環境です。
 我が国のバロックアンサンブルの最高峰バッハコレギウムジャパン。コンサートマスター(ミストレスでは無くマスターとの記載)はブリュッヘンの創設したオランダの「18世紀オーケストラ」のメンバーでもあったという、我が国のバロックヴァイオリンの第一人者若松夏美さん。そして、今回のコンサートのナチュラルトランペットには、同楽器の世界の第一人者と云われるジャン=フランソワ・マドゥフさん。他にも松本バッハでもお馴染みだったオルガンの大塚直哉さんや、モダン・バロックチェロ双方を演奏する上村文乃さんといった顔触れも。
 冒頭、初めての体験でしたが、最初にバスのソリストがステージ中央に進み出て、「偉大なる出来事を歌おう(MAJORA CANAMUS)」(ウェルギリウス「牧歌」第4巻)という朗々とした朗読があって、それから第一部の演奏が開始されました。
カウントの違いによりますが、三部構成からなる全50曲前後の器楽合奏、各レチタティーヴォとアリア、そして合唱。
テノールのアリア“Ev'ry valley”、続く合唱“And the glory of the Lord”など耳に馴染みのある曲が次から次へと演奏されていきます。
驚くべきは合唱の素晴らしさ。僅か19人、各パート5人足らずなのに取り分け分厚いバスの低音に支えられた見事なハーモニー。
そしてソリストも、ソプラノの有名なアリア“Rejoice greatly, O daughter of Zion”を始め、ハナ・ブラシコヴァさんの水晶にも喩えられるという程の透明感の素晴らしさ!ビブラートの無い、その澄み切った歌声はオペラには向かなくても、バロックなどの中世音楽にはまさにドンピシャ!またバスの大西宇宙さんも艶のある輝かしい響きは見事!でした。
これまで、フィリップ・ヘレヴェッへ指揮シャンゼリゼ管弦楽団とコレギウム・ヴォカーレの“モツレク”や松本バッハ祝祭管の「ロ短調ミサ」など幾つか生で聴いた合唱曲の中で、今回のBCJのメサイアが最高でした。
第一部が拍手に包まれて終了して休憩。通常は第二部と三部は通して演奏される筈ですが、この日はコロナ禍対応での換気のためか、第二部終曲のハレルヤ・コーラスでも休憩。そのため、通常では無い拍手をもって第二部も終わることが出来ました。ハレルヤもですが、第三部のバスのアリア“The trumpet shall sound”では勇壮なトランペットが鳴り響きます。バロック音楽ではトランペットが神を表すのだそうですが、バルブで音階を分ける近代のトランペットと違って、ナチュラルトランペットは唇の形だけで音階を作る(リッピング)という難しい楽器。それをマドゥフさんが名人芸で高らかに鳴らします。
そして終曲の合唱“Worthy is the Lamb”に続き最後のアーメン・コーラスへ。ハレルヤ同様にソリスト全員も合唱に加わり感動のフィナーレ。ハーモニーホールの教会の様な雰囲気と音響の良さも手伝って、見事なメサイア。
本当は禁止だったであろうブラボー!が幾つも掛かったのも「むべなるかな!」と思わせてくれる圧巻の演奏に、何度もカーテンコールが繰り返されます。しかし、何度繰り返しても飽き足らない程の感動でした。その何度も続くカーテンコールに、まさかあるとは思わなかったアンコールが・・・。
「えっ!?」と驚いている内に始まったのは、Xmasに相応しく『牧人羊を(The first noel)』を合唱団だけのアカペラで。ピアニシモのハミングから始まった、素敵なアレンジの透明感溢れたハーモニー。会場外に拡がる雪化粧した松本のXmasに相応しい、思い掛けない、とても素敵なクリスマスプレゼントでした。

 紛れも無く、現代最高峰のバッハコレギウムジャパンの「オラトリオMESSIAH」。この松本で聴くことが出来た喜びと、毎年絶対に聴きたくなる様な中毒性の麻薬にも似た興奮と・・・。何とも幸せな満足感に包まれた最高のXmasでした。
【追記】
最高だったBCJのメサイア演奏会。惜しむらくは、開演時間の6時半が遅かったのではないか?・・・ということでしょうか。主催者側が、演奏終了後「コロナ禍故、指示されたブロック毎の退場を!」と呼び掛けても、それを無視した退場者多数!休憩やカーテンコールを含めれば、開演から3時間で夜の9時半近くなっていました。
我々の様に車で僅か10分程で帰宅出来る地元客は全然構いませんが、長野ナンバーや諏訪ナンバーなど、県内各地からこのXmasの機会に開催されるBCJのメサイアを楽しみに遠路はるばる来られた方々や、中には県外からも来られた(群馬ナンバーや山梨ナンバーの車も見受けられました)方もおられる中で、これから2時間近く掛けて帰らなければならないお客さんは一秒でも早く出たい筈。そうしたことを事前に考えれば、もっと早い開演時間の設定が望ましいだろうことは十二分に予測出来たのではないでしょうか。
因みに、12月11日に開催された、軽井沢大賀ホールの鈴木優人指揮でのBCJの「メサイア」は、 開場14:30、開演15:00、終演予定18:00、また松本と同じメンバーで翌日サントリーホールで開催される“聖夜のメサイア”は 16:00開演(15:20開場/19:10終演予定)でした。
片や、新幹線でも移動可能な軽井沢と広く首都圏から集まるであろうサントリーホール。新宿からの移動だけでも3時間余りを有し、リハーサル時間の確保によっては、出演者が前後に泊まらざるを得ない松本との差はあるにせよ、アナウンスを無視してぞろぞろ帰られる方々を見ながら、主催者側はもっと熟考すべき時間設定だったのではないかと、感じた次第です。

 先月上旬のことですが、週末のウォーキングでまた城山公園経由で「城山遊歩道」を往復する“城山トレイル”へ。

いつもは公園を横切って直接「城山遊歩道」の登り口へ直行するのですが、今回公園の芝生の広場を歩いていると上部の方に石碑が建っていて、そこには「標高六百六拾五.七米」という風に漢字で城山の標高が彫られていました。
“山の民”或いは“山岳民族”信州人(第1771話)の一員として、私メもご多分に漏れず登山やウォーキング、周囲の山の紹介などで度々その場所の標高をご紹介しているのですが、里山を含めた山と違って、城山公園やアルプス公園などは市のH/Pにも標高の記載が無かったりするため、YAMAPなどでのトレッキング記事などを色々検索して漸く見つかるという場所も少なくは無いのですが、良く“自分の足”で探してみれば、“灯台下暗し”で「ナンダ、現場にはちゃんと標高を記した標識が有ったんじゃないか!」と感激した次第です。
この日も快晴で、すっかり葉が落ちたナラやコナラの林の中を登り、鳥居山の東屋で北アルプスの峰々を眺めてから、またその遊歩道を戻ります。
途中、我々の様に往復この遊歩道を歩かれている方や、またまさにトレイルランで走っている若者もおられ、この城山遊歩道が市街地から近い(自宅が遠くても、車で来られて城山公園やアルプス公園の駐車場からすぐ)ので、手軽な“ミニ・トレッキング”コースとして市民に人気で親しまれているのが良く分かります。
 「さすが、信州には公園にも標高を示す標識がちゃんとあったんだ!」
と“山の民”なりに感心(自己満足?)した次第。

 ところが、先日久し振りに上京して麻布台にある長女のマンションに停めてもらい、翌朝周囲の確認がてら一人で朝のウォーキングをしたのですが、その時に「港区立麻布台小学校」の前の歩道を歩いていると、正門横に「海抜27.9m」と刻印されたパネルが填められていました。海に近い所は、「海抜ゼロメートル地帯」と云う様に、高波や津波のリスクなどに備えるためにも、海からの高さということをより意識した方が良いのでしょう。
因みにこの場所を含む港区麻布台一丁は、御三家である旧紀州藩徳川家の江戸屋敷跡だったそうですが、それにしても東京の港区の歴史ある公立小学校もちゃんと海抜と言う表記ですが、ちゃんと海からの高さ(=標高:注)を明示しているではありませんか!
 「ナンダ、東京の小学校にだってちゃんと標高が表示されてんじゃん!」
TVではまるで長野県の学校だけが標高を表示しているかの様に印象付けていましたが、実際は決して長野県の学校だけではない(麻布台小学校は海抜表示でしたが)のではないでしょうか・・・。
東京の、しかも御三家の江戸屋敷があったと場所だという一等地であろう港区麻布台を歩きながら、そんなことを思った次第です。
【注記】
国土地理院のH/Pなどに依ると、
『標高とは、東京湾の平均海面を0mとし、そこから測って土地の高さを表し、海抜は、近隣の海面を0mとして、そこからの高さを測ったもの。
従って、海抜と標高の違いは、基準となる海面が東京湾か近隣の海か、ということ。しかし、同じ場所にも係わらず、海抜と標高で違う数字が表記されていると混乱してしまうため、離島など一部の地域を除いて、標高も海抜も東京湾を基準にしている。標高は山など土地の高さを表す時に用いられ、海抜は津波などの災害対策に主に活用されるため、海に近い地域の方は海抜表記の方が目にする機会が多い。』
とのこと。

 新年 明けましておめでとうございます。
2023年、信州松本より謹んで新春のお慶びを申し上げます。

 松本では、穏やかな年の瀬から正月を迎えています。
今年最初に掲載した写真は、松本城と2023年元旦、今年の初日の出です。先ずは、初日の出に今年一年の平穏無事を祈ります、以前の沢村だと、美ヶ原と鉢伏の間の谷あいである入山辺の辺りから7時20分過ぎには日が上ったのですが、渚の辺りからは少し南側の鉢伏山の尾根筋から7時35分過ぎに初日の出が顔を出します。同じ松本でも、3㎞離れただけで随分違うものだと思いました。
 昨年は、三年目となるコロナ禍とロシアのウクライナ侵攻で世界中が翻弄された一年でした。年が明けて、2023年の今年は卯年ですので、ウサギの如くジャンプをして飛躍が出来る年になり、コロナ禍や様々な世情不安を是非とも跳び越えて行って欲しいと思います。
 今年一年の皆さまのご多幸を、ここ信州松本より謹んでお祈り申し上げます。コロナ禍が今年こそ収束し、どうか穏やかな“普通の”日常が戻って、依然と変わらない“普通の年”になりますように。

 本年も、どうぞ宜しくお願いいたします。

                 カネヤマ果樹園一同+ナナ&コユキ💛