カネヤマ果樹園 雑記帳<三代目のブログ>

 今年も一年間、本ブログ「三代目の雑記帳」をご愛読賜り、誠にありがとうございました。

 このブログも丸14年になりました。
アクセス数も年を追う毎に増え、3年前には33万件を越えるアクセスを頂きました。しかし、コロナ禍で非日常的な状態が続いていることから、掲載回数を減らしほぼ三日おきにしたことで一昨年は25万件になったのですが、コロナ禍で在宅の方が多いのか、昨年は実に37万件近いアクセスとなり、今年も35万件を超えるアクセスを頂きました。
もしかすると、今年もコロナ禍でのステイホームが続いた結果なのかもしれませんが、いずれにせよこのページを借りて謹んで御礼申し上げます。誠にありがとうございました。

 今年もコロナ禍での一年間ではありましたが、経済活動を中心に徐々に日常的活動が戻りつつあります。
昨年長女からの勧めもあって、終活で自宅と実家を整理して新居のマンションに移り、今年は丸々新居で過ごした一年間になりました。それまでは城山々系に遮られて、街中へ下らないと見えなかった北アルプスでしたが、新居からは天気さえ良ければ毎日眺められる幸せ。明けの空から夕焼けまで、ピンクに染まるモルゲンロートと、茜色に染まる夕映え背景にして黒々と屏風のように連なる峰々。
朝起きて先ず「今日の山は・・・」に始まる一日。まさに“岳都”松本に暮らす幸せを感じた日々でした。
娘たちは、先ず長女はグリーンカードを取得した婿殿とNYで暮らすべく、本人のビザ取得まで国外にいなければならないとかで一旦日本に帰国し再就職。そして、次女のところは、我々にとっての初孫がここで1歳になるなど、コロナ禍の中で娘たちも変化をしながら日々頑張ってします。
 収束の兆しは見えず、今年もコロナ禍に揺れた2022年。そしてロシアによるウクライナ侵攻で世界中が不安に覆われた2022年。
そうした世情のみならず、個々人にとってもきっと様々なことがあったことでしょう。それが決して良いことばかりではなく、たとえ後悔すべきことがあっても、また悲しみに暮れることが仮にあったとしても 年の節目にあたり切り替えを出来るのが、きっと人間の(ずるくも)良いところだと思いますので、今年の色々な反省をふまえつつ「ヨーシ、来年はもうチョット頑張るゾー!」と、ここでまた心のギヤを入れ替えて新たな年を迎えたいと思います。
 徐々にコロナ禍の中での経済活動が戻りつつある中で、今年は3年ぶりのコンサートや生落語に触れることが出来ました。
来年こそは、そんな今までの“当たり前のこと”が当たり前に出来る、そんな極々平凡な“普通の年”になって欲しいと思います。
来る2023年こそコロナが収束し、当たり前だった“普通”の日々を平穏無事に送れる年であって欲しい。そして、加えてその新年が、皆様にとって「は」、若しくは「も」、或いは「こそ」素晴らしい年であって欲しい。

 来る新年は卯年で干支はウサギですので、是非ウサギの様にジャンプして飛躍出来る年になりますように!皆さま、どうぞ良い年をお迎えください。

                 カネヤマ果樹園一同+ナナ&コユキ💛

 サントリーホールでのベルリン国立歌劇場管弦楽団(シュターツカペレ・ベルリン)の来日公演。二日間で交響曲全曲を演奏するブラームス・チクルス。1&2番、3&4番の組み合わせで、最終日が3番と4番(ブラフォー)の演奏会。当初は音楽監督のダニエル・バレンボイムの予定だったのですが、体調不良により、クリスティアン・ティーレマンに変更。個人的には、むしろその方が楽しみが増しました。というのも、旧東ドイツ系のシュターツカペレ・ベルリンをベルリン生まれのティーレマンが振る方がよりドイツ的なブラームスが聴けると思ったからです。
ベルリン国立歌劇場管弦楽団と日本では呼ばれるシュターツカペレ・ベルリン。学生時代から大好きだったオトマール・スウィトナーがシュターツカペレ・ドレスデンと共にシュターツカペレ・ベルリンを振ったモーツアルトが大好きでした。或る意味、今ではユニバーサルな“世界の”ベルリン・フィルよりも、旧東ドイツ系の二つのシュターツカペレであるドレスデンとベルリンは、共にきっと今でもよりドイツらしい音を伝統的に残しているオーケストラだと思っています。

 サントリーホールは、調べてみたら実に8年振り。8年前に広上淳一が京響を率いた東京凱旋公演での“マライチ”が最初で、その後ドゥダメルが振ったVPOの来日公演を、長女がエル・システマ・ジャパンのボランティアをしていた関係で入手出来たシェラザードを聴いた以来の三回目。
しかし、日経の文化欄に依れば、急激な円安で海外オーケストラの招聘コストが(円ベースで)高騰してしまい、また中国がゼロ・コロナで演奏会などは開催不能だったこともあって、アジアツアーとして数ヶ国で分担することが出来なくなっているため、日本単独での来日公演開催は困難とのこと。サントリーホールは楽友協会と友好協定を結んでいることで、毎年“ジャパンウィーク”として来日してくれるウィーン・フィル以外は著名な海外オーケストラは今後生で聴けなくなるか、運よく聴けてもべらぼうなチケット料金にならざるを得ないのではないか・・・とのことでした。
そうした背景もあって、8年前のVPO同様、今回も長女のお陰で初めて生でシュターツカペレ・ベルリンとティーレマンを聴くことが出来て誠に有難い限りなのですが、今回の急激な円安により確かにこのコンサートも昔のイメージからするとどの席も1.5倍のチケット代という気がします。
 長女は朝から直前までオフィスで仕事ということで、開演30分前にホール前で待ち合わせ。久し振りの夜の演奏会はザワザワとした喧噪もあって、そんなざわめきもコロナ禍故に久し振りで何だか新鮮にさえ感じます。
マスクを着用し、検温、消毒の上で入場。Xmasシーズンに合わせた館内のデコレーションも“音楽会”前の華やいだ雰囲気を演出しています。
二階の真ん中やや左手側に着席。オケ団員入場に伴うWelcomeの拍手も久し振りで懐かしい気さえします。コンマス登場に一段と拍手が高まり、やがて指揮者のクリスティアン・ティーレマンが足早に登場。彼はベルリン出身の生粋のゲルマン人ですので、旧東ドイツの名門オケとの相性もバッチリでしょう。個人的には、オトマール・スウィトナーの後任である現音楽監督ダニエル・バレンボイムが体調不良により途中でティーレマンに指揮者変更というアナウンスがあって、今回のブラームス・チクルスへの期待感はむしろ高まりました。
今回のオケの配置は対抗式で、ステージに向かって第一ヴァイオリンの横にはチェロ、その横にヴィオラと並び、第二ヴァイオリンはステージに向って右手。
 交響曲第3番。
大柄なティーレマンの指揮は、思ったより体全体を使って振っていました。しかも、目の前にいるコンマスなど弦への指示なのか、胸ではなく体の下半身の辺りでの振りが印象的。
映画音楽としても使われた、美しい旋律の第三楽章。コンサートの後で、娘はこの楽章にウットリして、この3番の方が良かったそうですが、
 「三楽章の途中で、ちょっと寝てたでしょ!?」
との仰せに、「えっ、ばれた!?」。どうやら、3時間も寄席の畳敷きの桟敷席に薄い座布団で座っていて、最後苦痛で何度も足を延ばしたり腰をもんだりしたのですが、どうやらそのせいで疲れてしまい、心地良い音楽に一瞬うとうとしたらしく、生まれて初めてコンサートで寝落ちしてしまいました。
ベルリンの壁崩壊に伴い、ドイツ統一により“西欧化”が進んだ旧東ドイツなのでしょうが、オケも2階席から見る範囲で、ゲルマン人だけではなく結構アジア系(日本人?或いは韓国人か中国人?)の団員も多いように見受けられましたが、そこは伝統のなせる業?音色はちゃんと昔懐かしき東ドイツの重厚な響き・・・の様な気がしました。

 後半の4番“ブラフォー”。私の大好きな交響曲の一つで、学生になって2枚目に買ったLPです(因みに、初めて買ったLPは“チャイゴ”)。哀愁のあるメランコリックな第一楽章が何とも言えませんが、この曲で、サガンではありませんがブラームスが大好きになりました。良く云われる様に、とりわけ落ち葉舞う晩秋になると何故かブラームスが聴きたくなります。個人的に一番秋に相応しいと思うのは、弦楽六重奏曲第一番の第二楽章でしょうか。ブラームスの曲はどれも弦の響きが特徴的で、弦楽アンサンブルを聴くとすぐに彼の曲であることが分かります。
そして、シュターツカペレ・ベルリンの深い憂いを湛えた様な、渋く陰影あるサウンドはブラームスに実に良く合っている気がします。何となくこの音色を聴いていると、新婚旅行(40年以上前ですが・・・)で行った11月末のロマンチック街道や出張で何度か行った秋のヨーロッパの暗い雲に覆われた陰鬱な雰囲気の空を思い出します。だからこそ、春の陽光がより輝いて待ち遠しくなるのでしょう。と同様に、短調の暗い曲調の中で出会う長調の明るいメロディーや和音にほっとするのでしょうか。
 短調の第一楽章で始まり、明るい長調の第三楽章の後に、バロック様式の変奏法のパッサカリアを用いた第四楽章は短調で終わります。古典派様式に則った交響曲第一番の生みの苦しみを乗り越え、尊敬するベートーヴェンの呪縛から解き放たれたブラームス。
この交響曲第4番、ブラームス自身の指揮での初演時の評判はイマイチだったそうですが、一週間後にハンス・フォン・ビューローの指揮でも演奏。当時彼の助手をしていた若きリヒャルト・シュトラウスは、父親に宛てた手紙に「まさに天才的」と記していて、因みにこの演奏の中でシュトラウスはトライアングルを担当していたのだそうです。
息苦しくなるような緊迫感が漂う第四楽章。次第に高揚し劇的で圧倒的なフィナーレ。ティーレマンの振り上げたまま静止した手が静かに下ろされて、漸くこちらもフゥ~っと小さく息を吐きながら緊張感を解き、そして場内割れんばかりの万雷の拍手!コロナ禍故、W杯サッカーのピッチ上の様にブラボーの声は掛けられませんが、もしOKなら間違いなく会場のあちこちからブラボーの声が掛かっていたのは間違いありません。
会場内の張り紙や事前の場内アナウンスで、カーテンコール時の写真撮影がOKとのことで、会場あちこちで聴衆の拍手に応えるティーレマンや楽団員を撮影するスマホが見られました(フラッシュ撮影は係の人が注意をしていた様です)。
余談ですが、後日の日経文化欄に依れば、コロナ禍でクラシックの演奏会への集客に苦しむホールもある中、SNS等による拡散での人気アップにつなげるべく、また演奏会後のサイン会や出待ちを我慢してもらうためもあって、その代わりにポップスのコンサートの様にクラシックの演奏会でもカーテンコール時だけは写真撮影を認めるホールが増えたのだとか。個人的には有難い限りで大歓迎!松本も含め日本中に拡がれば良いと思いました。
何度もカーテンコールが掛かりましたが、3番と4番の二つの大曲の後では、例えばハンガリー舞曲など軽過ぎて相応しくないでしょうし、4番の余韻を壊さぬためにもアンコール演奏は不要。その代わり、何度もカーテンに応え、これもビンヤード型のサントリーホールのステージ背後におられるお客さんたちへも彼等の写真撮影に応えるためか、ティーレマンの指示で珍しく全員で回れ右をして後ろの聴衆へもお辞儀をしていました。
最後、団員が下がった後も鳴り止まぬ拍手に応えてティーレマンが登場し、この日のコンサートはお開きになりました。
 華やかなざわめきに包まれるサントリーホールのロビーを出て、まだ冷めやらぬコンサートの余韻に二人で浸りながら、銀杏の街路樹の歩道を歩いて長女の神谷町のマンションへ帰りました。
長女のおかげで、夢の様なティーレマン指揮シュターツカペレ・ベルリンのブラームスを楽しむことが出来ました。本当におかたじけ!

 尾瀬あきら作「どうらく息子」をきっかけに10年ほど前から落語に嵌り、中央図書館のCDライブラリーの落語のCDに始まって、地方落語会でも草分け的存在という月例での「松本落語会」、更には若手二ツ目噺家に依る県文の「まつぶん寄席」の生落語などなど、探してみると松本の様な地方でも意外とそうした生の落語に触れる機会は意外とあったのですが、そこはやっぱり一度は所謂「寄席」で生の落語を聞いてみたい!寄席の雰囲気を肌で感じてみたい!・・・この10年間ずっとそう思っていました。そしてそれは、家内は落語には何の興味も関心も無いので、自分一人の時でないと絶対に無理。
そこで、今回長女の招待でサントリーホールでのシュターツカペレ・ベルリンのコンサートを聴くために、一人で上京した12月8日。コンサートは夕刻開演ですし、それまで娘は仕事なので、この一人の時間を生まれて初めての寄席に使うことにしました。
実は、東博での所蔵全ての国宝を展示するという創立150周年記念の特別展と上京することが決まった時に随分迷った(東博は日時特定での事前予約が必要)のですが、今回展示されるという国宝90点の内、常設の考古作品は勿論、等伯の「松林図屏風」など、多分半分位はこれまで何回かの東博の展示で観ている筈ですし、その内20点という最近は若い女性にも人気だという日本刀には然程興味が無いので、最終的に初寄席を選択するころにしました。

 東京で常時落語が聞ける定席の寄席は、現存する最古の寄席で安政4年創業と云われる上野の鈴本演芸場を始め、浅草演芸ホール、池袋演芸場、新宿末広亭の四つと、更にこれに加えて伝統的な大衆芸能の保存と復興のために昭和54年に開設された国立演芸場があります。
鈴本の飲食のみならずアルコールもOKというのには些か惹かれましたが、12月上席(1~10日)の出演者を見て、また松本から上京する際の終着駅である新宿というアクセスの良さも加え、初寄席は「新宿末広亭」に行くことにしました。

 新宿三丁目の伊勢丹の裏(?)の、靖国通りへ抜ける末広通り。居酒屋や飲食店などが軒を連ねる通りに在る、昭和レトロな木造の建物が「新宿末広亭」です。上野鈴本、浅草、池袋と並ぶ東京の定席4つの中で、昭和21年に建てられた唯一の木造建築です。
先述の通り松本からだと終着駅が新宿なので、他よりも末広亭の方が行き易いこともありますが、何より12月上席(1~10日)の昼の部に、私が一番好きな噺家の柳家さん喬師匠を始め、落語協会初の女性真打の三遊亭歌る多、また実力派の桃月庵白酒、更には今年昇進した話題の女性真打である春風亭ぴっかり改め蝶花楼桃花といった真打の師匠たちが登場。今回の上席昼の部のトリは橘家圓太郎師匠とのこと。この顔ぶれが理由となりました。
 長女のマンションに先に家内から頼まれた荷物を届け、急いで新宿に戻り、末広通りの飲食店で軽く昼食を食べてから新宿末広亭へ。
入口で、有難いことにシニア割引の木戸銭2700円を払って(通常は3000円)入場。入場の際はマスク着用で、検温と消毒が必要です。
ホールは椅子席ですが、末広亭は左右の両脇に畳敷きの桟敷が設けられていて、昔の演芸場といった雰囲気を残しています。せっかくですので、高座に向かって右側、上手の桟敷席の二番目で聴くことにしました。
入口で戴いたパンフレットには寄席文字で『落語色物定席 新宿末廣亭』とありますが、これは落語と落語以外の「色物」と呼ばれる芸能を掛ける常設の寄席という意味。そしてこの「色物」というのは、寄席入口に掲示されていた「12月上席昼の部出演者」の看板にもある様に、落語の噺家(講談師も)の名前の上には黒字で「落語」と書かれているのに対し、漫才や大神楽、マジック、紙切りなどは赤色で書かれていることに由来しています。決して“色っぽい”出し物という意味ではありません。
係りの方に聞かれ、せっかくなので寄席の雰囲気を楽しむべく選択した末広亭にしか無い桟敷席。教えて頂いて座布団を受け取り、脱いだ靴を持って畳敷きの桟敷席へ。寄席の高座は(ホールのステージに比べると)思ったよりも狭いのですが、座った上手の前から二番目の桟敷席は高座から4~5m位しか離れておらず、それこそ目の前で演じている感じ。松本でも有名噺家の独演会ともなれば、2000人収容の大きなホールが会場(場合によって一階席のみを使用)になりますが、そうした大きなホールとは臨場感が全く違います。また落語会とも寄席の雰囲気はやはり異なります。何となく、箱物全体に寄席としての一体感がある様な気がします。平日の昼ということもあってか、入りは半分くらいでしょうか、また私メも含め年配のお客さんが殆どで、女性一人で聞きに来られているお客さんもおられます。また高齢のご夫婦が、お互いを労わりつつ二人して聞きに来られているのは、微笑ましくも何とも羨ましい・・・。
 12月上席昼の部は12:00~16:15まで。入場したのが午後1時頃でしたので、前座の開口一番に始まり既に4組が終わっていて、ちょうど三遊亭歌る多師匠の出番から。
以下、その後の演者と演目です(初めて聞くネタもあり、自分で調べた結果ですので、もし間違っていたらスイマセン)。

  三遊亭歌る多    「宗論」
  夢月亭清麻呂    *創作落語(定年後整形手術を希望する夫の噺)
  三増紋之助     *曲ゴマ
  柳家さん喬      「短命」
  鈴々舎馬風     「楽屋外伝」(*今は亡き師匠方の思い出話など)
   (お中入り)
  蝶花楼桃花     「ん廻し」
  笑組         *漫才
  桃月庵白酒     「茗荷宿」
  柳家小団治     「大安売り」(勝ったり負けたり)
  柳家小菊      *都々逸他(演目にある大神楽の代演)
  橘家圓太郎(主任)「試し酒」 

 協会初の女性真打という三遊亭歌る多師匠。今は亡き三遊亭圓歌師匠に弟子入りし、「噺家になりたいなら(芸に打ち込むためには)、愛人になっても構わないが結婚はするな」という師匠の言いつけを守って、今も独身を通しているという歌る多師匠。この「宗論」は師匠の持ちネタのようですが、そこは女性真打の先駆者らしく、元ネタの若旦那をお嬢様に変えて艶っぽく演じられていました。またこの3月に真打に昇進したばかりの春風亭ぴっかり改め蝶花楼桃花師匠。嘗てAKBオーディションの最終審査まで残ったというだけあって、また故円楽師匠休演中に大喜利に出演し話題をさらっただけあって、如何にも華やいだ雰囲気。イイじゃないですか、持って生まれたのですから、大いにウリにすればイイ。
今年の「NHK新人落語大賞」に選ばれたのは初めて女性落語家で、上方の桂二葉さんでしたが、これが見事な本格派。女性落語家は、第一号の歌る多師匠以下、東京だけでも20人を超えるそうですが、これからは性別など関係なく大いに活躍していくことでしょう。
そして、私の一番好きな噺家である柳家さん喬師匠。師匠の生落語は「松本落語」でも聞いていて、あの時は感激の「妾馬」でした。今回はトリではありませんので、各自15分の高座の中で「短命」を演じられましたが、いつものホンワカほのぼのした感じが実にイイ。好きだなぁ・・・、出来ればまた本寸法で聞いてみたいなぁ・・・。「妾馬」や「文七元結」といった人情噺も、「棒鱈」の様な滑稽話もどちらもイイ。権太楼師匠との二人会にいつかは来てみたいものです。
寄席ではトリ以外の出番は持ち時間が15分しかありませんので、好きな師匠の噺を本寸法でじっくりと聞きたい時のために、ナルホド!独演会や二人会があるのだと、今回寄席を聞いてみて初めて理解出来ました。
しかし一方で、今回座ったのが上手の桟敷席の前から二番目でしたので、高座まではホンの4~5m。目の前でさん喬師匠が演じられている感じに何だか夢を見ている様で、「あぁ、これがホンモノの寄席なんだ・・・」と、寄席の良さに溜息しきりでした。
重鎮の馬風師匠、一年前のコロナ入院の後遺症で足腰が弱ってしまってということで、座布団ではなく椅子に座っての高座でしたが、居るだけで絵になります。
中入り後に実力派の桃月庵白酒師匠の「茗荷宿」。そして代演のようでしたが、柳家小菊師匠の三味線。図書館にも「江戸のラブソング」と称した小菊師匠の演ずるCDがありましたが、まさに粋と艶。寄席でないと聞くことの出来ない貴重な演目でした。
12月上席昼の部の主任は橘家圓太郎師匠で、本寸法の「試し酒」を演じられました。小朝師匠のお弟子さんですので、先ほどの蝶花楼桃花師匠の兄弟子になります。「試し酒」での久蔵の五升の酒の飲みっぷりはさすがでした。
 寄席は、いつでも入りたい時に入って、出たい時に出て良いという出入り自由。しかも平日は昼夜入れ替え無し。従って、途中での外出はダメですが、そのままでしたら、12時から夜の8時半までずっと聞いていられます。その意味では、3000円の娯楽としてはお得な庶民のエンターテイメントと言えるでしょう。
私も、休憩をはさみ、サントリーホールへ行くギリギリまで夜の部も聞いて、5時を過ぎてから末広亭を後にしました。
外に出てみると、師走に入って“つるべ落とし”の夕暮れ故、提灯に明かりの灯った末広亭の正面は何とも粋な佇まい。私にとっての初寄席「新宿末廣亭」で、雰囲気も演目も、多いに楽しむことが出来ました。
【注記】
寄席の館内は撮影禁止につき、掲載した内部写真(高座と桟敷席)は「新宿末広亭」紹介記事からお借りしました。

 10月末、長女がNYから帰国して暫く我が家に帰省していた時に、何を思ったか「これ聴きに行かない?」と言って予約してくれたのが、シュターツカペレ・ベルリン(ベルリン国立歌劇場管弦楽団)のサントリーホールでの来日公演。二日間で交響曲全曲を演奏するブラームス・チクルスの1&2番、3&4番の組み合わせで、「どっちがイイ?」という問いに選んだのが、最終日の3番と4番(ブラフォー)の演奏会でした。
しかし、今年の急激な円安もあって、どの海外オケの公演はどれもバカ高いチケットなのに、「ま、イイから、イイから・・・」。後で、家内曰く、
 「いつも私だけ子供たちの所に行ってるから、気を使ってくれたんダヨ!」
 「・・・おかたじけ!」
斯く言う家内は、先月末には母娘で、混んでいる京都を避けて奈良へ観光旅行に長女と二人で行ってましたし、私メの上京の翌週から“孫の世話”も兼ねて娘たちの所へまた行く予定とか・・・。
羨ましくも「オヤコ」と読む“母娘”には、「父娘」と書いても「オヤコ」とは読めぬ父親は敵わない・・・母娘の絆は強い!と、つくづく感じます。
サントリーホールはマチネではないので、その日は彼女の家に泊めてもらい、翌日は横浜の次女の所に行って、孫の顔を見てから帰る予定。父親からすれば、“夢の様な二日間”・・・です。

 12月8日の当日。いつもとは逆で家内に見送られ、松本駅から新宿経由で長女のマンションの在る神谷町へ。引っ越しの手伝いで松本から荷物を運んだ時は車でしたので、電車(地下鉄)で行くのは初めてです。最寄り駅は日比谷線の神谷町と南北線の六本木一丁目。家内から教えられた通り、新宿駅から地下鉄に乗り換えて神谷町駅へ向かいました。家内から預かって来た荷物を娘のマンションに置いてからまた新宿に戻り、生まれて初めての寄席に行って落語を聞き、夜はコンサート。翌日は次女の住む横浜へ。
出来れば、翌日は東博の国宝展も見たかったのですが、それを見ていると横浜へ行くのが間に合わぬことから事前に断念していました。
そのため、次回以降(機会があるかどうかは不明ですが)の参考に、翌朝、朝早くオフィスに出勤する娘を送り出してから、ウォーキングを兼ねてマンションのある神谷町界隈を歩いてみました。

  先ずは横浜に行く際の乗車駅である南北線の六本木一丁目駅を確認し、それから神谷町駅に戻り、東京タワー方面へ。朝のTVの情報番組の中のお天気コーナーなどで、中継で出て来た芝公園横の「もみじ谷」へ行ってみました。
 東京タワーにはたくさんの観光バスが駐車していて、ちょうど修学旅行と思しき中学生の一団が広場で何か説明を受けていました。
仙台育英高須江監督の「青春は密」と云われた通り、コロナ禍で今までは何もかもダメと言われ、あらゆる行事が中止になる様な我慢を強いられてきた子供たちでしょう。漸く実施出来たのであろう修学旅行に、何だか我が事の様に嬉しくなって暫く彼等を眺めていました。
私メもお上りさん同様に(って、正しく“お上りさん”には違いないのですが)真下から東京タワーを見上げてみました。そう云えば、子供の頃(小学生?)には違いないのですが、東京タワーに昇ったのは一体いつだったんだろう?亡くなったお祖父ちゃんが連れて来てくれた東京旅行の時だったのだろうか・・・?もし今度機会があったら、60年振り位にまた昇ってみたいと思い、暫し真下から東京タワーを見上げていました。
 この東京タワーと増上寺の間に位置し、芝公園と道路を挟んだ谷合の様な場所が「もみじ谷」でした。二代将軍秀忠が江戸城内からモミジを移植し、お江の方様のために紅葉山を築いた場所がその始まりで、明治初期に傾斜のある地形を生かして造られた人工の渓谷で、わが国最初の公園の一つとか。
もみじ谷は都内の紅葉スポットとしても知られていて、イロハモミジやオオモミジなど9種類、約200本のモミジが植えられているそうです。
信州は既に葉が落ちた裸の木々で真冬の様相ですが、東京はまだ秋の紅葉の風情。たった東南へ200キロしか離れていないのに、神谷町や六本木周辺の街路樹、東京都のシンボルツリーでもあるイチョウ(銀杏または公孫樹)は黄色に色づいた木や未だ緑色を残した木もあり、松本がいくら高尾山と同じ標高とはいえ、随分季節の色合いが違うものだと感じた次第です。冬の信州から秋の東京に来て、暫し名残の紅葉を楽しむことが出来ました。

 サッカーのワールドカップは大詰めの熱戦が続いています。
今回のワールドカップでは、ご他聞に漏れず、私メも俄か“サッカーフリーク”として日本代表のサムラブルーを応援し、真夜中、深夜、早朝であってもTV前で応援していた典型的な日本人でした。

その組み合わせから “死の組”と言われた一次リーグを突破し、目標達成ならなかった決勝トーナメントの中で、一喜一憂しながら感じたことを、殴り書き的にその時点時点で感じたことを書き連ねてみようと思います。

 先ず、結果の頑張りは勿論評価しているのですが、その過程での番狂わせや、予想外の敗戦、そして日本のサポーターやスタッフの皆さんの至極当然としての行動は、前回大会やラグビーのワールドカップなどでも既に繰り返されて来たのと同じですが、今回全世界に配信された “立つ鳥跡を濁さず”でのスタンドのゴミ拾いとロッカールームの清掃と感謝のメッセージ。
    
(JFA提供無料写真素材から)
また、例え“ビッグマウス”と言われようが、敢えて自分にプレッシャーを掛けてでも有言実行する頼もしい若者と、結果、失敗の責任を感じて一目も憚らず号泣する純な若者たち。
日本代表チームは確かに成長しているし、強くなっている。でもまだ何かが日本人には足りない。最初誰も手を揚げなかったというPK戦。何が足りないのか、彼等を育てて来た日本社会の何が“世界基準”に比して間違っているのか???
俺が俺がでは無い謙虚さ?消極性?目立たぬことが美徳?優劣を決めない小学校のかけっこ競争?皆平等?公平性が大事?出る杭を打つ日本社会?目立つと仲間外れ?同調性が大事?・・・???
もしかすると、“出る杭を潰す教育”を何十年としてきた日本の教育制度により生み出された、当然の帰結ではなかったか???
極力競争をさせず、平等、公平性と言う安易な“ぬるま湯”に浸かってきた結果にすぎないのではないか!?
その上で、その日本全体のシステムの氷山の一角であり、瞬間的事象に過ぎなかったサッカーのワールドカップの日本代表そのものを最終的に批判した上で、その原因と情報分析、自己反省、改善を強いるのはナンセンス。
昔から協調性のみが重要視された村社会、異質を否定し、潰しながら同質性を貴んで来た“島国根性”、日本という国全体のシステム障害、制度疲労。
これからの日本に必要なのは、組織力やチームワーク、真面目さを超越した個の力か・・・???

以上が、クロアチア戦でのPK戦での敗退後に、眠れずに「ナゼだろう!?」という感情のまま、殴り書き的に記した文章です。

 さて、今回のワールドカップで、個人的に一番新鮮だったのは、森保監督が敗戦後のピッチ上で深々とサポーターへの感謝を示したお礼のお辞儀でした。その情景は全世界に配信され、多くの共感を呼びました。曰く・・・、
先ずは、FIFAの公式インスタグラムが試合後に掲載した4枚の写真の一つに森保監督がお辞儀する場面をピックアップし、『日本代表とファンに対して胸が張り裂けるような思いです。W杯に足跡を残してくれてありがとうございました』
また、「ESPN」のサッカー専門ツイッターは、『日本のハジメ・モリヤスがカタールへ応援に駆けつけたファンへ感謝のお辞儀。リスペクト!」と紹介し、ファンからも『「素晴らしい国民と文化だ」、「間違いなく今大会最高の監督とファンだった」の声が上がった』。更に、「ESPN」は英国版公式ツイッターでも『勝利も敗北も名誉あるものと評価した』。
そして、いつもは隣国に辛辣な韓国も「インサイト」は『韓国より先にベスト16敗退の日本……監督の「最後の姿」が切ない』、「ハンギョレ」も『溢れる応援のファンに6秒間、90度で挨拶・・・・・・』。

 こうした世界からの賛辞に対し、もう一方で感じた、どうしようもない程の強烈な違和感・・・。
それは、これまで日本の、或いは日本人の美徳とされて来たものが日本社会から失われつつあるのではないか!?ということでした。
つまり、“一流”大企業による長期に亘るデータ改ざんに依る不正申告、品質問題、考えられないような工場爆発や火災、死亡事故など相次ぐ労災事故・・・。
“Made in Japan”というだけで全世界から信頼性が得られた日本品質、そして出来上がった製品の前に、製造過程を含め企業全体が“安心安全”だった筈の日本。今やその“日本”そのものが劣化しているのではないか!?
慢心?勤続疲労?経年劣化?競争力低下?高齢化?・・・???

 ロシアに依るウクライナ侵攻という、思いもよらなかった世界情勢の変化で全世界に漂う不安感。燃料費の高騰や、日本経済の停滞と日米金利差に依り発生した円安での原材料の輸入価格高騰に伴う各種製品の値上げラッシュ。
こうした日本社会に漂う閉塞感を、今回見事に打ち破ってくれたサムライブルーの若者たち。
「良かった!」、「頑張った!」だけではなく、これを「諦めずにやれば出来る」という良いお手本にして、企業が、我々が、学校が、そして何より政府が中心となって、制度疲労を起こしている日本社会の歪を正すべく、先ずは身近の出来ることから諦めずに変えて行けば良いのではないか!?

 今回のワールドカップの日本代表チームの戦いぶりを見て、それにのめり込んでいた私たち日本人、日本社会全体が「また4年後にガンバレ!」として、今回の彼らの奮闘を一過性のお祭り騒ぎで決して終わらせずに、例え些細なことであっても「じゃあ、今度は自分たちが」に繋げていくことが一番重要ではないかと感じた次第です。

 最後に余談ですが、クロアチア戦にPKで負けはしましたが、先制点を挙げた前田大然選手。松本山雅の豊富な運動量でのサッカーで反町さんに鍛えられ、ピッチ上では今年で引退した田中隼麿選手に怒られながら、驚異的なスプリントで攻守に走り回っていた前田選手。得点は少なくとも、そうした攻守における献身性が評価されての、他有力選手を差し置いての代表FW選出だったと思うのですが、先発したW杯でも無駄だと思えるようなスプリントを繰り返し、GKやDFの持つボールを追い掛け続けた結果が、ドイツ戦での堂安選手のシュートに繋がったとも思います。そうした泥くさい献身を評価してくれたサッカーの神様が、最後にくれたご褒美での得点だったのではないか・・・そんな風に思えた前田大然選手のゴールでした。

そして、最後の最後に、Abema TVの英断にも感謝です!

 せっかくの全国旅行支援なので・・・ということで、11月末に、大混雑の京都を避けて“国のまほろば”奈良へ行くという長女に付いて行ってきました。そして、これまた「せっかくなので・・・」というお義母さんの希望で、12月に入ってから家内が一緒に二泊予定で松本の旅館「翔峰」へ。
義母は足が弱くなってしまったので、遠出は無理。そこで近間の美ヶ原温泉にしたのですが、この「翔峰」はアルピコ(旧松本電鉄)系列の宿泊施設で、オランダ人女性が女将さんに抜擢されて、全国的にも話題にもなりました。一泊二食付きですので、昼食はついていません。そこで、お昼に旅行支援キャンパーンの一環で戴ける観光クーポンを使って、お蕎麦が食べたいとのこと。しかも、せっかくなので旅館内や里山辺(美ヶ原温泉)ではなく、どこか松本市内の蕎麦店でとの希望の由。
 そのため、私メもお昼だけ一緒にお相伴に与(あずか)ることになりました。市内であれば義弟の営むお蕎麦屋さんがあるのですが、母や叔母がまさしくそうなのですが、麺類を除く小麦粉消費全国一という長野県の特に戦前生まれの信州人が希望する様に「蕎麦には必ず天婦羅が付かないとダメ!」なのです。長野県は山国で油分が摂り難かったことが背景の様ですが(第137話参照)、山国で魚介類は無くても、野菜でもキノコでも何でも天婦羅にさえすれば立派な“お御馳走”(信州弁では“おごっそ”と言います)なのです。従って、蕎麦には天麩羅がマストなので、天婦羅の無い義弟の店を始め、そうした蕎麦店は除外。そこで、ネット検索をして、メニューに天婦羅や天ざるがありそうな店を検出し、その中から選んだのは、市街地で近いということもあって、本町通の「そば切りみよ田」。前回、長野駅ビル内の「そば処みよた」(第1775話)は長野市に本社のある日穀製粉の直営店で、松本店も日穀製粉が南松本に工場があることから、以前は同じく直営店だったのですが、その後王滝グループが経営権を取得して名前はそのままで経営している店。パルコ近くに支店も出すなどして、今では観光客の方々に人気の行列店になり、昔より質を落とした(つなぎを増やした)長野の「みよた」より蕎麦の質は遥かに上だと思います。
お酒の肴向けの一品もあって、昼だけ営業の蕎麦屋が多い(昼だけで十分経営可能ということなのでしょう)中では貴重な店で、手打ちそばに加えて県外からの方々が喜びそうな馬刺しや塩イカ(本来とはちょっとレシピが違うのですが)といった郷土食もあります。更には、奈川名物のとうじそば(投汁蕎麦)も松本で食べられる数少ない蕎麦店でもあります。

 さて、開店時間を少し過ぎていたこともあって、着いた時は平日とはいえ既に順番待ち。さすがに人気店です。幸い外に順番待ち用の椅子が出ていたので、足の悪い義母には救い。
20分ちょっと待って入店。我々は二巡目ということですが、蕎麦は他の食事に比べて回転が速いのが(特に熱くないザルなら一層)助かります。せっかちで気の短い江戸っ子に好まれたというのもむべなる哉・・・です。
 注文は、お義母さんが案の定で天婦羅そば、家内が鴨つけそば、私メがさるの大盛り。天婦羅は冷たい天ざると温かい汁蕎麦(かけ)とお皿に別盛りの天婦羅の二種類がありました(別に汁蕎麦に載せた掻き揚げそばもあり)。
小木曽製粉を始め、自社で製粉工場を持つ王滝グループの蕎麦は、御岳の裾野の文字通り王滝村の開田高原を始めとする地元産の蕎麦粉の筈で、二八のそばは細打ちでコシがあり、結構私の好みでしたが、やはり新そばの香りは無く、また更科ではなく田舎風の蕎麦であっても、新そばの時期はやや緑がかって見える筈なのに、今年の新そばは何処で食べても香りもですが色も新そばらしい感じが全くありません。
もしかすると、自分の記憶違いか、或いは個人の(加齢に伴う?)味覚の衰えか、はたまたその年々の栽培環境の違いか、更には温暖化の影響か・・・理由、原因は定かではありませんが、今年の新そば巡りは残念ながらここで諦め、終了することにします。

 前話でご報告した通り、昔からの信州の“そば処”である美麻新行地区。
昔の記憶では、松本から旧美麻村に行くには、白馬方面へのスキーでいつも通る国道148号線の木崎湖畔の海ノ口から入って行く道しか知らなかったのですが、NAVIの指示に従って、長野冬季五輪でメイン会場の長野市とスキーとジャンプ会場となった白馬村とのアクセス改善のために改善整備された所謂“オリンピック道路”の一つ県道31号線を使って、大町市街地の山岳博物館近くを過ぎて北大町から県道にアクセスすればすぐでした。
 「あっ、美麻ってこんなに近かったんだ・・・!」。
この道沿いに、NHKの朝ドラ「おひさま」のロケ地の「中山高原」があります。春は黄色い菜の花、夏は真っ白な蕎麦の花が高原の丘陵一面に咲きドラマの中でも紹介されて有名になり、ロケで使われた水車小屋だったかのセットも残されていて、一躍人気の観光地となりました。
この中山高原は、元々旧大町スキー場だった場所なのだそうです。道理で朝ドラのロケで知るまで、「中山高原」という名前を聞いたことも無かった筈です。その大町スキー場は昭和初期には既にスキー場として開発されたそうで、戦後のスキーブームを受けてこの新行地区の農家はスキー客受け入れの民宿を営んでいて、その民宿のお客さんに提供していた食事が蕎麦だったのだとか。最盛期には実に18軒もの民宿があったそうで、夏は大学生の合宿などで賑わったのだとか。確かに、私も学生時代の合唱団の夏合宿は同じ大北地域である栂池高原の民宿でした。
しかし、スキーブームが去り、また温暖化に因る雪不足で大町スキー場は閉鎖。そのため、新行地区の民宿は廃業せざるを得ず、その内の4軒が宿泊客の食事で蕎麦を振舞っていたことから、蕎麦屋を始めたのだそうです。
元々新行地区は900mという標高の高い地域で、且つ火山灰土の痩せた土地だったために稲作には余り適さず、蕎麦の栽培に適していた土地。そのため、今では“そば処”として知られるこの新行や、同じ中信地域の奈川や唐沢集落などの地域は、どこも嫁入り修行の一つとして、蕎麦打ちは嫁いだお母さんたちの生活のための必須条件でした。そう云えば、松本の人気蕎麦店となった「野麦」。現在は二代目となって、観光客相手の行列店ですが、昔はお婆さんが一人ひっそりと蕎麦を打っていましたが、店名からしてご出身は旧奈川村だったのでしょうか。他にも松本の市街地に「野麦路」という蕎麦屋もあります。因みに、そうした“そば処”程ではありませんが、松本の岡田で生まれ育った私の祖母も、蕎麦は不揃いで短かったとはいえ、自分で黒い“田舎蕎麦”や“おざざ”と呼ぶうどんを打っていました。

 因みに「科野」と呼ばれていた奈良時代、信濃の国は朝廷への税として麻が納められるなど、「信濃布」と呼ばれた麻の産地で、この美麻や麻績という地名はその名残でもあるのですが、会社員時代に美麻出身の部下が職場に居て、平成の合併で美麻村が大町市との合併を選んだ時に、
 「地名だって文化財なんだから、美麻なんていう、それこそ文字通り美しくて歴史ある名前が消えちゃうのは何とも勿体無い!」
と、住む人たちの事情も知らずに憤慨して話したことがあったのですが、当時村会議員をされていたという彼のお父上のお話として、地元でも賛否両論あったのだと聞きました。
勿論、その地に住む方々の住民サービス向上は重要ですし、住民でもない赤の他人が「あぁでもない、こうでもない」と言う必要は全く無いのかもしれません。しかし、以前旧中山道の鳥居峠を歩いた時に、合併せずに自立を選んだ藪原(木祖村)と片や塩尻市と合併した奈良井(漆器の平沢とで旧楢川村)と、鳥居峠を挟んで、旧街道の道そのものだけではなく、標識や休憩所などの整備の余りの差に愕然としたこと(第1353話)を思い出すと、果たして住む人たちにとって一体どちらが良かったのか正直良く分からなくなります。

 さて、前回食べられなかった美麻新行地区の「山品」。お店には平日の水曜日で12時半前に着いたにも拘らず、既にその日打った蕎麦が足りなくなりそうなので受付終了とのことで、全くの徒労に終わりました。
そこで、人間ダメと言われれば余計食べたくなるのが道理で、(奥さまの強い決意もあって)リベンジで翌週また行くことにしました。
恐らく週末は前回以上に混むでしょうから、行ったのは平日で今回は火曜日。「山品」の開店時間の11時に合わせて行くことにしました。
準備に多少手間取り出発するのが少し遅くなってしまい、到着したのは11時20分。既に車は何台も駐車していて、この日も地元ナンバーよりも県外車などの方が多かったのですが、今回は順番待ちの行列も無くすぐに座敷に通されました。
昔はお婆さん一人で切り盛りされていた筈ですが、地元民だけではなく、最近では観光客がわんさか訪れる人気店になったためか、そば打ちは息子さんに任せ、お婆さんだけではなく地元のお母さん方が何人もで接客に当たられていました。注文を取りに来られたお母さんに、
 「先週の水曜日に来たら、受付終了で食べれなかったんです。今日、漸くいただけます!」
と言うと、
 「あぁ、その日私はお休みを貰ってたんですけど、何だかお客さんが凄かったみたいですね。でも今日は空いてますから、全然大丈夫ですよ!」
「山品」は個人経営のお蕎麦屋さんですが、地元のお母さん方が対応されているのが、何となく富士見町乙事の「おっこと亭」を思い出しました。
 「山品」は昔の民宿の名残が感じられ、茅葺(今はトタン屋根で覆われています)の古民家を使って、ふすまの座敷を何部屋も繋げた畳敷きの座敷に10卓程の座卓が置かれています。昔からの蕎麦処として知られた美麻地区の新行ですので、所狭しと有名人の方々の色紙が記念に飾られていました。
冷たいざるそばだけでなく、暖かい汁蕎麦も、山菜やキノコに月見、はたまたニシンまで何種類もあり、蕎麦以外にも季節柄でキノコやそばがき、そして信州らしいイナゴや蜂の子などの一品もあるようです。
我々は、地粉というもり(蕎麦)の竹で編んだざるでの大盛り(1000円)と家内はせいろの(普通)盛り(800円)、それに一方の名物と言う蕎麦粉の薄焼き(800円)も注文。
湯呑茶碗と小鉢の漬物が運ばれてきて、蕎麦茶は座敷のサーバーからセルフサービスで「ご自由にどうぞ」とのこと。
自家製の漬物は、家内は有明に比べてこちらの方が美味しいとのことでしたが、私は有明の方が好みでしょうか。野沢菜漬けといえば、昔母も連れて行った唐沢集落で、大皿で出してくれたべっこう色の野沢菜漬けは本当に美味でした。
二八という蕎麦は細打ちで、コシもあって美味しいのですが、やはり期待したほどの香りはありません。新そばって昔からこんなモノだったのでしょうか…?(過去の思い出が美しいのと同様で、どうやら自分の過去の記憶が美化しているのかもしれせん)。
うす焼きは、それこそガレットの様なイメージかと思いきや、決して薄くはなく結構な厚み。刻みネギを混ぜた砂糖味噌が、それこそお祖母ちゃんの味で、素朴ではありますが何とも昔懐かしい田舎の味なのです。そこで、二人共思わず、
 「美味しいネ!」
 「うん、旨いなぁ!」
と、念願だった蕎麦よりもむしろこの薄焼きに感激したのでした。そばがきもメニューにはありましたが、蕎麦と共にどうやらこのうす焼きがここ「山品」の名物というのも納得の美味しさでした。
後から来られた5人連れのお年寄りのグループは、きっと顔見知りのご近所の皆さんなのでしょう。「この前は悪かったいね!」などとお婆さんと世間話をしながら、注文で選んだのが全員温かい汁蕎麦でニシンとキノコというのが、美麻地区には多分山を下りないと蕎麦屋以外には他の飲食店が無いのかもしれません。恐らく今まで暑い夏はざる蕎麦ばかりで、冷たい蕎麦はもう食べ飽きたので、(寒くなった秋には)たまには違った温かいメニューも食べたい!という様な感じで、何とも可笑しく感じました。
そばは二八のみでしたが、帰りにお婆さんにお聞きすると。12月に入ったら十割も始めるとのこと。
 「新そばの時期は二八でも十分美味しいでね。雪が降ったらお客さんも空くで、二八の他に十割も始めるで・・・。雪が降ったら、また来てください。」
 池田町から北は北安曇郡です。真冬にスキーに行くと、明科や穂高の南安曇郡から松川や池田の北安曇に入ると、本当に一気に雪の量が多くなります。更に青木湖を過ぎて佐野坂を超えると、まさに雪国になります。
白馬から後立山連峰は既に真っ白。この美麻新行にも雪が舞い降りるとは、きっと間もなくなのでしょう。

 「ごちそうさまでした。十割とうす焼きを食べにまた来ます!」

 信州の秋と云えば“新そば”の季節でもあります。
残念ながら、全国有数な規模で期間中16万人もの人が集まるという人気の「信州・松本そば祭り」は、コロナ禍で今年も中止になりました。
(「松本そば祭り」は、どちらかというと各地の有名店ではなく、全国各地の蕎麦俱楽部といった蕎麦打ちの愛好家の皆さんの出店が殆どなので、我々はこれまで一度も行ったことはありません)
思うに、もう少し工夫すれば何とか実施するための方法(例えば、従来の松本城公園だけではなく、あがたの森公園や中町通りをホコ天にしての分散開催。もしくは今年だけ広大なアルプス公園や県下最大という都市公園の信州スカイパークでの臨時開催。またチケットの事前予約などに拠る人数制限等々)はあったようにも思うのですが、長野県民は或る意味“クソ真面目”過ぎるのか、県内では他にも大きなイベントが中止になりました。
例えば、7年に一度の御柱も基本的に地元の氏子のみでしたし、温暖化で最近では殆ど見られない御神渡りに比べ、毎年必ず実施され、打ち上げのその数が実に3万発という諏訪湖の花火大会は諏訪にとって(特に観光業にとって)最大の観光イベントの筈なのですが、片や大曲や長岡の花火大会などはちゃんと実施したのに、諏訪はあっさりと早々に中止を決めてしまいました。代わって行われた毎晩10分間500発の打ち上げなど、今までも7月末から新作花火までの期間中毎年実施していたことです。まるで、コロナ禍での実施に色々苦労するくらいなら(嘗て“東洋のスイス”と呼ばれて精密工業が盛んでしたが、その拠点がある自治体は法人からの事業税で潤うので何もしなくても良かった過去があり、複線化には地域の説得が大変だからと何も努力せず、結果いまだ諏訪だけが単線のままの中央東線と同様です。そのクセ、上諏訪駅に特急が停車しないと文句だけは言う諏訪市長:是非、第1413話を参照ください。諏訪には会社員時代大変お世話になっただけに頑張って盛り上がって欲しいのに、ホント情けなくて考える度に涙が出ます)むしろやらない方が楽と判断したとしか傍から見ていて思えないのです。ホント、勿体無い・・・。

 話が横道に逸れてしまいました。閑話休題で、この時期楽しみな“新そば”。例えば、地元では蕎麦の栽培で知られる旧奈川村(とうじそば発祥の地)は、地元の新そば祭りが終わらないと、奈川産の新蕎麦は出荷しないのだとか。そのため産地によって、或いは店によって、新そばが食べられるタイミングが異なるのです。目印は店舗に掲げられる“新そば”と書かれた幟や「新そば始めました」というポスターです。

10月中旬、ウォーキングを兼ねて昼前に市内の何軒かの蕎麦屋を廻ってみました。店内はわかりませんが、店の外に「新そば」の幟が立てられたりやポスターが貼られていたのはチェーン店と二軒だけ。松本市内の蕎麦屋さんでは新そばは未だの様でした。また週末だったこともあり、“新そば”には関係なく人気店はどこも観光客の皆さんで行列。地元民としては並ぶ気がしません。そこで、“新そば”の貼紙があり、蕎麦以外の料理もある割烹料理店が全然混んではいなかったので入店。そちらは地元の契約農家からの塩尻片丘産の新そばとのことだったのですが、新そばとしては香りが全く無くちょっとガッカリでした。
 地元のタブロイド紙に依れば、旧奈川村や山形村の唐沢集落、旧美麻村の新行地区といった地元のそば処は、10月下旬から11月上旬に掛けて“新そばまつり”とのこと。その間は混むでしょうから、そこで“新そば祭り”が既に終わっていた美麻の新行に、11月9日の平日に行ってみました。そこで、せっかくの“ついで”なので、久し振りに途中の池田町の「安曇野翁」に寄ってから行くことにしました。こちらは木曽の「時香忘」(休業中?)と共に、我が家では県外からのお客さんが来られたら観光がてら案内する店です。但し、奈良井宿観光の後の「時香忘」と違って、「翁」は天気が良くて北アルプスが見える時でないと魅力が半減してしまいます。この日は、秋晴れが続いていて遠く白馬方面までクッキリと絶景が拡がっています。これなら観光で来られても、順番を待つ間も飽きずに山を見ていられます。
開店の11時を少し過ぎていたせいか、ちょうど一巡目が食べ終わる頃で、小上がりではなく、山の絶景が拡がる窓側の席に待つことなく案内いただきました。お聞きすると、北海道と茨城の常陸産は新そばに変わったそうですが、まだ地元の安曇野産の新そばは入荷していないとのこと(その時々で、各地の蕎麦粉をブレンドして使っているそうです)。そのためか、二八のざるは(特に二八好みの私メにとっては)相変わらずの美味しさでしたが、確かに新そばとしては香りがイマイチでした。
 そこから美麻新行地区に向かいます。平成の合併で大町市となった旧美麻村。“美麻”という文化財の様な歴史的な地名が、この先もずっと消えて終わない様に願います。
お目当ての蕎麦店には12時20分頃到着したのですが、ナント「受付終了」の文字・・・。店主のお婆さんが、
 「朝から頑張って打ったんだけど、もう足りなくなってしまって、せっかく来てもらっただに、ホント申し訳ないネェ・・・」
と、こちらが恐縮する程。残念でしたが止むを得ません。駐車場には、地元ナンバーに混じって県外車がビッシリでした。昔の美麻は、地元ではそば処と知られていても、ここまで凄くはなかったのですが、余りの人気ぶりにビックリでした。
 そこで、「安曇野翁」に拠ると地元産の新そばは未だとのことでしたが、せっかくですので帰路は有明の山麓線を走って、もし“新そば”の幟が出ている店があったら寄って帰ることにしました。グルメ検索的には有名店もある様ですが、電話してみるとそちらも売り切れの由。そこで走りながら目に付いた蕎麦店に入ることにしましたが、水曜日のためか、昔来たことがある「天満沢」を始め結構定休日の店が多く、結局入ったのは「富士尾山荘」という、山麓線沿いの温泉宿を兼ねている店で、暖簾に「元祖そば」とありましたが有明山麓では結構古くからの食堂民宿の様でした。
時間が1時半頃だったせいか、広い店内は我々だけ。温泉宿併設のせいか、蕎麦だけではなく丼物など他にも色々メニューがありました。
我々はそば一択なので、私メはざるの大盛りで奥様は中盛りにしました。品書きなどに拠ると、蕎麦は九一とのことでしたが、さすがに「翁」に比べると味やのど越しはともかく、こちらの店には「新そば」の幟は出ていたのですが、やはり蕎麦の香りはしません。
 「うーん、新そばってこんなに香りがしないのかなぁ・・・?」
でも、付け合わせの小鉢の自家製の野沢菜漬けが美味しかった!新漬けだと思うのですが、塩味だけではなく甘みもあって、我が家のお祖母ちゃんの野沢菜漬けを思い出しました。宿屋も含め、ご家族で切り盛りされているのでしょう。厨房から聞こえて来る女将さんとお嫁さんの会話もほのぼのと微笑ましくて、何だかほっこり・・・ごちそうさまでした!
【追記】
LINEで報告したら娘たちからは食べ過ぎと呆れられましたが、二人共さすがにお腹一杯だったので、その日の夕食はスキップしました。