カネヤマ果樹園 雑記帳<三代目のブログ>

   尾崎喜八『高原詩抄』より第47編(昭和17年刊行)
       「美ガ原溶岩台地」   

   『 登りついて不意にひらけた眼前の風景に
     しばらくは世界の天井が抜けたかと思う。
     やがて一歩を踏みこんで岩にまたがりながら、
     この高さにおけるこの広がりの把握になおもくるしむ。
     無制限な、おおどかな、荒っぽくて、新鮮な、
     この風景の情緒はただ身にしみるように本源的で、
     尋常の尺度にはまるで桁が外れている。
     秋の雲の砲煙がどんどん上げて、
     空は青と白との眼もさめるだんだら。
     物見石の準平原から和田峠の方へ
     一羽の鷲が流れ矢のように落ちて行った。     』


 松本市内の学校では、小学校5年生で美ヶ原、中学2年生で北アルプス表銀座の燕岳(どうやら最近は学校によっては白馬方面など違う山もあるようです)に集団登山をする慣行です(因みに最終学年で修学旅行)。
私の時は美ヶ原への往路はバスで登り、山本小屋に一泊して(確か皆でカレーを作り、キャンプ・ファイヤーをして・・・。満天の星空の記憶が微かに残ります)帰路に王ヶ鼻から百曲がりを下って三城牧場まで歩く、という行程でした。
娘達も(10年ちょっと前ですが)昔と全く同じように、美ヶ原登山と燕岳登山を経験しました。因みに諏訪出身の家内は、中学生の時に八ヶ岳の主峰赤岳だったそうです。

 冒頭の「美ヶ原溶岩台地」は、東京出身ながら信州をこよなく愛した“山の詩人”尾崎喜八の代表作の一つです。また、彼には「田舎のモーツァルト」という詩があり、いつかその中学校にあるという詩碑を見に行って来ようと思います。因みにその時に音楽室から流れてきた曲は「トルコ行進曲」だったとか。また多田武彦が曲をつけた男声合唱組曲「尾崎喜八の詩から」もあります。そう言えば、娘たちの母校、信大附属松本中学校の校歌も作詞は尾崎喜八だったような・・・。

 さて、文中に「秋の雲の砲煙」とありますので、この詩を書いた時の喜八は、きっと秋の紅葉の時期に、三城牧場からその百曲がりを登って行ったのでしょう。季節は春ですが、別の詩(「松本の春の朝」第72&456話参照)でも、三城へ向かう始発のバスを待つ松本駅前の様子を書いています。

 美ヶ原は、松本からの遠景では台形の上辺しか見えないことから、王ヶ鼻越しにテレビ塔が肉眼でも見えるその向こうに、標高2000m級の広大(南北約10km、東西約8km)な台地が広がるとは想像すら出来ません。
一方、(松本からは)裏側の上田・佐久方面からはなだらかに続く丘陵(と言っても2000m級)が望めます。
因みに、我家からは、城山々系に遮られて北アルプスの峰々は全く望めず、代わりに美ヶ原や鉢伏と言った東山を毎朝眺めています。
(写真は、このところ霞んでいてキレイに見えないので、以前撮った中から、季節は2年前の冬ですが松本駅から駅前大通り越しに見える美ヶ原と、H/Pでも使用している岡田からの秋の東山々系。中央で台形の頭だけ出ているのが美ヶ原です)

 登りついて、突然目の前に広大な台地が開けた時、「世界の天井が抜けた」という表現はまさに至言。そして、2000mの「この高さにおけるこの広がり」は、確かに直には理解できない気がします。
また、実際台地に立ってみると、谷へ「鳥が落ちていく」というのも実感として納得できます(この詩は「美しの塔」に刻まれています)。

 因みに「美ヶ原」というちょっと不思議な名称は、山岳研究のパイオニアと言われる日本山岳会初代会長の木暮理太郎が命名し、日本山岳会の会報に掲載(大正10年=1921年)されて広まったと言います。それまでは、東山とか王ヶ鼻と呼ばれていたそうで、一帯を表す呼称が無かったことになりますので、正に名付け親。

 今では、美ヶ原へは松本からもビーナスライン経由で(冬期間は閉鎖、且つ車の性能が試されるようなかなりの急勾配ではありますが)小一時間で行けてしまいます。

 10月に入り、週末娘のところに上京した家内を夕刻松本駅にナナと一緒に迎えに行くと、上高地か、乗鞍か、或いは美ヶ原か、皆さんトレッキングを楽しんでこられたであろう中高年のツァーの方々や、登山帰りの大きなリュックを背負った若者たちが、たくさん駅のコンコースにいらっしゃいました。
山ではもう紅葉が始まっている頃でしょうか。