カネヤマ果樹園 雑記帳<三代目のブログ>

 三連休となった秋のお彼岸の最終日。

 お得意様からご注文いただいた贈答用と親戚への巨峰の出荷発送が、先週と今週で何とか全て終了したので、結果一日だけお休みが取れました。
当初は、会社OBの先輩が所属されている男声合唱団の演奏会が岡谷であり、先輩からチケットをいただいてあったのですが、出荷作業が終わらない可能性もあったので、無駄にしないように男声合唱をやっている義弟に事前にチケットを渡してありました。

 そこで予定が空いたので、伝票発行など手伝ってくれた奥様への慰労も兼ねて、遠出は無理ですが、近間に “プチ旅行”に急遽出掛けることにしました。

 まだ新蕎麦の時期には少し早いだろうことから、思案の結果の行き先は、長野の善光寺とお目当ての長野県信濃美術館。ちょうど、没後100年を記念して『菱田春草展』が10月中旬まで開かれています。
そこで、先ずは善光寺にお参りして、隣接する美術館を見て、出来れば久し振りに蕎麦ならぬ『ふくや』のラーメンを食べて、というコース。
しかも今回は、家内を説得して、少しは旅行気分が出るように車ではなく電車(車中でビール飲まなくっちゃ!)で行くことにしました。
松本からは、特急しなので長野まで。往復の乗車券と4枚セットの信州特急回数券を買えばかなりお得(往復二人分で9040円が4860円)です。
篠ノ井線は、途中スイッチバック(普通列車のみ停車)の姨捨駅周辺(姨捨山伝説と“田毎の月”で有名です)からの刈り入れの進む棚田越しに眼下に千曲川を望む景色は、「日本3大車窓」(個人的には、残雪の八ヶ岳と南アルプスを背景に春の桃源郷を走る中央東線の方がお薦め)に選ばれています。

 JR長野駅で長野電鉄に乗り換えて、「善光寺下」駅から善光寺までは徒歩10分弱。ただ、参道ではないので全く風情は無く、歩くのを厭わない方は、長野駅から真っ直ぐに1.7㎞だそうですので、むしろ参道の中央通りを歩かれた(或いはバスで大門まで行かれて、仁王門から仲見世を山門まで歩かれた)方が、門前町として発展した『仏都長野』の雰囲気が楽しめると思います。

 仏教が幾つかの宗派に分かれる前、7世紀に創建されたという善光寺は無宗派で、また女人禁制のお寺でもなかった(大勧進と共に善光寺を支える大本願は尼寺です)ので、誰でもお参り出来た庶民のお寺。しかし、時の帝は、どうして都から遠く離れたこんな信濃の山の中に、6世紀に百済から献呈された大切な仏さま(現存する日本最古の仏像と言われる、絶対秘仏の阿弥陀三尊像)を安置されたのでしょうか。
“一度は参れ”と言いますが、この日も秋のお彼岸のためか、仲見世から続く参道はビックリするほどの人の波。老若男女の皆さんが善光寺参りに来られていました。
お参りの前に、朝仕事を済ませて慌しく出て来て電車に飛び乗ったために朝食も食べておらず、仲見世通りの御茶屋さんに入って自家製の蒸しおやきと飲み物のセットで先ずは一息。「・・・さかたのおやきの方が美味しいね!」と奥様が小声で一言。
そして、手を清め、お線香の煙で体をお払いしてから、国宝の本堂へ。娘たちや家族全員(+チロルとナナも)の分もまとめてお参りをしました。触ると病気や痛みを身代わりになって和らげてくれるという「びんずる」さんにもお参りです。500円で戒壇巡りもできますが、昔何度か体験済みのため今回はパス。また重要文化財の山門も拝観料500円とのこと。うーん、信心もお金次第なのでしょうか?庶民のお寺さんにしては、何となく違和感を覚えます。
 美術展の内容は次回に回すとして、その後少々遅めの昼食に県町の『ふくや』へ。途中、大門通りのレストランの前で“有機野菜のランチバイキング”に足を止めた奥様を引っぱって「初志貫徹!」。
信州と言えば蕎麦ですが、本場戸隠まで行けばともかく、これまで長野駅周辺で5ヶ所ほど食べましたが、もう一度食べたいと思うような美味しかった店は一つも無く、松本に比べて蕎麦の水準は落ちると思います。しかし、ラーメンは松本よりも長野の方が断然上。そこで、今回もお目当ては久し振りの“夜泣きそば”の「ふくや」です。ここは駐車場が無く、「車で来られた方は妻科店に行ってください」との張り紙。県町店は電車で正解です。
 醤油系のラーメン以外、他につけ麺などの今風のメニューも無く、“夜泣きそば”一本で勝負する至ってシンプルな店。あとはトッピングの追加があるだけで、卵も煮卵ではなく単なるゆで卵です。店はおばちゃん一人のため、券売機があり、ラーメンも水も全てセルフサービス。注文は普通盛り(700円)と大盛り(850円)。
独特の真っ黒いスープで、初めて食べる家内の反応が心配でしたが、ハルピンよりは美味しい(好み)とのことに、先ずは一安心。値段は、以前来た時よりも50円値上げされていました。
スープは、見た目ほど味は濃くは無く、煮込んだ野菜のエキスか、むしろ甘め(家内は砂糖甘いとか)。じっくりと煮込んだチャーシューが美味。ただ、家内は諏訪の『麺や さくら』のあっさりスープの方が好みだそうです。うーん、「さくら」もイイけど、個人的にはこの「ふくや」の醤油ラーメンがイチオシなんですけどね。私メは、大盛りをスープまでしっかりと完食。2年振りくらいでしょうか、満足して松本へ戻るために駅へ向かいました。
【追記】
昔長野に赴任されていたことがある元ボス(時々このブログをご覧頂いており、チェックが入ります)から、「長野の方が松本より蕎麦は旨いと思うが・・・」とお叱りをいただきました。大変失礼しました(でも、駅周辺には無かったのですが・・・。じゃあ今度、松本のお蕎麦もお連れします!)。
そこで教えていただいたのは、長野市は権堂にある『二本松』というお蕎麦屋さん。戸隠系のお蕎麦だそうですが、今度また長野に行く機会があれば、是非権堂まで足を延ばしてみたいと思います。長野での楽しみができました。ありがとうございました。

 毎朝のチロルとナナの散歩コース。
 或るお宅の塀際に、庭木としては珍しい山椒の木があり、結構大きな枝ぶりです。初夏、緑の葉が生茂り、夏、花山椒としても使う白い花が咲いた後、今の時期は真っ赤に実が色付いています。

 ギザギザした葉は、初夏の若葉の木の芽田楽などでお馴染み。独特の芳香ですが、好き嫌いが分かれるかもしれませんね。特に子供の頃は、余り好きな香りではなかったかもしれません。

 赤く色付いた3ミリ程の小さな実。赤い果皮を剥くと、黒い実が現れます。この皮がとっても良い香りがします。柑橘系の甘い香りです。それもその筈。山椒はミカン科なんですね。完熟しても同じ香りかどうかは分かりませんが、鰻の蒲焼などでお馴染みの粉山椒とは少し違った果物のような香りに感じます。

 粉山椒には、果皮を剥いた黒い実を使うとばかり思っていたら、Wikipediaに依ると、実ではなくこの果皮を使うのだとか。乾燥させて粉状にするのだそうですが、知りませんでした。

 赤い実を見ていると小さな秋を感じます。山椒も七味を構成する大事な一味です。山椒も、例え小粒でもしっかりと実りの秋を迎えているようです。

 ここ数年、漫才だけではなく、空前の落語ブームなのだとか。
ビッコミ・オリジナルでも、落語家修行を描く、尾瀬あきら(代表作に「夏子の酒」)作の「どうらく息子」の連載がされています。
・・・で(とマクラにもなっていませんが)、最近最もチケットが取れない落語家が柳家小三治師匠だそうです。

 以前、新聞のコラムに、若手漫才芸人達の速射砲のような言葉の洪水と、真剣すぎる?芸風に(見る方も緊張を強いられて)疲れてしまうというようなコメントがありました。それに比べ落語は間の芸術であり、小三治師匠の自然体での間の取り方が絶妙で、押し付けではなく、当日の客席に合わせて話(マクラの部分)の内容を変えていて、客は自然に引き込まれていくのだとか。

 そう言えば、昔(今では必ずしもそうではないかもしれませんが)、日本では西欧(特にドイツ)と比べて、定番のベートーベンに対し、ワーグナーの人気が無いのは何故か、というのをクラシック音楽の雑誌(レコード・ジャーナルだったか、音楽の友か?)で読んだ記憶があります。
そして、その理由は「休止符」だというのです。

ベートーベンの音楽と比べ、ワーグナーには「休止符」が少なすぎて、日本人の「好み」に合わない。日本人は、一瞬の「休止符」に安らぎを感ずるが、それがないと不安定と冗長さを助長するのではないか・・・。
というような趣旨だったのではないかと記憶(不確かなため、やや創作気味ですが)しています。確かに、ワーグナーを聴いてみるとナルホド疲れます・・・(音だけでなく劇の映像があれば違うのかもしれませんが)

 先ほどの「落語」と「最近のシャベクリ漫才」、ベートーベンとワーグナーの「休止符」。
やや乱暴に言わせていただければ、「休止符」=「間」であり、日本ではテンポがずれたりして間が合わないことを「間抜け」と称するように、日本人の精神構造には、一瞬の「静寂」を美(=尊ぶ)とする文化があるように思います。そして、それはスポーツでもプレーの連続するサッカーよりも、一球毎に間ができる野球の方が(かつては?)日本で好まれたことも同じ理由だろうと思います(ただ、近年のサッカー人気の要因は、そうした精神構造とは別の、地域密着=“おらが”意識とジャパンの愛国心に結びつけたからであり、この辺がその取り組みの遅れたプロ野球との違いだと思います)。

 最近の若者文化、漫才やラップなどの人気を見ていると、そうした「間」とは無関係なもの(年寄りには理解できなくても)も人気がありますが、「マヌケ」ではなくそれを「カッコイイ=Cool」と感ずる、新しい感性なのでしょう。

 ただ、かの数学者(にしてエッセイスト。数年前の大ベストセラー『国家の品格』と、第二弾とも言うべき近著『日本人の誇り』の著者)藤原正彦先生(ご両親は諏訪地方出身の作家新田二郎と藤原てい)に拠れば、欧米人はこの時期の秋の夜長の虫の音を雑音としか感じられない(注記)のだそうです。それと比べ、例えば本来獣よけの「ししおどし(鹿おどし)」の音と間(ま)でさえ「風流」と感じて庭園に設置(添水=そうず)して楽しんだ日本人の感性を、「マヌケ」にならぬよう是非大切にしたいものです。

 さて、落ちになったかどうかは別として、お後が宜しいようで・・・。

【注記】
同様に、「古池や 蛙飛び込む 水の音」(芭蕉)という有名な句を聞いて、日本人なら誰でも「静寂なる古寺の池にポチャンと飛び込む一匹のカエルと、音も無く拡がるその波紋」を連想しますが、欧米人はこの英訳を聞いて、ドボドボと大量に池に飛び込むカエルの大群(一匹に対し例えば100匹)を想像するのだとか。例えば、子規が蛙を「a fog」と訳したのに対し、人一倍日本を愛し理解したであろう筈のラフカディオ・ハーン=小泉八雲でさえ「fogs」と訳したと言います。ナルホド、民族の精神構造の違いでしょうか。

 我家の娘たちもそうですが、どうも最近の若い人は、帰省するのに「長野へ帰る」と言うようです。

 それを聞くと、私メはどうしても違和感があり、即座に訂正をします。
「長野じゃなくて、松本でしょうが!“長野”って言うのなら、長野県か、信州って言わなきゃ、長野市になっちゃうジャン!」
(決して、昔から仲の悪い両市の“南北戦争”故の意見ではありません)
      
 全国紙に「長野・松本」と書いてあって、長野市と松本市双方と理解して読んでいくと、長野県松本市の意味だったりします。
例えば、中村勘三郎の復帰公演となった今年の平成中村座(信州大歌舞伎)が7月に松本で行なわれましたが、それを報じる新聞の見出しに同様の記載があり、最初は、
「へぇ、凄いなぁ。今年は長野と松本の両方でやるんだ。長野には北野文芸座があるからなぁ・・・」
と思えば、さに非ず。長野県松本市の意味でした。
「紛らわしいなぁ、もう!」

 他にも、全国の天気予報で、冬季オリンピック以降「長野」も取り上げられることが多くなったように思いますが、冬は県外の方に「“長野”は雪が降り続いて大変ですね!」と言われることが結構あります。
これが北に寄った長野市の天気なので、県北の豪雪地帯飯山ほどではなくとも、北信の長野地方も日本海側の影響を受けますが、県の真ん中にある松本は北アルプスに遮られていることもあって、どちらかというと太平洋側の影響を受け、冬はそれ程雪も降らず晴天が続きます(寒いですが)・・・なんぞとイチイチ解説しないといけません。

 しかし、若い人たちは「長野」で違和感無いんでしょうかネ?
県庁所在地などと県名が同じ他県の方は、どうされているのでしょうか?
例えば青森県の弘前とか、静岡県の浜松とか、福島県の会津若松とか幾つもありますが、興味がありますね。
「そんなこと、どうでもイイっしょ!」
だから信州人は理屈っぽい!って言われそうですが・・・。

 以前TVを見ていたらタレントの乙葉が登場していて、「私は信州出身なので××」とコメントしていました。
「若いのに、アンタはエライ!」
彼女は、安曇野(北安曇郡の池田町だったかな?)出身。ちゃんと「長野」ではなくて、「信州」を使っていました。うん、こうでなくっちゃ!

 JR松本駅のお城口(東口)側の駅前広場が、現在改装工事中です。

 昔のことになりましたが、当時の一駅一名物運動の際(この辺りの駅では、上諏訪駅は当時話題になったホームに作った温泉で、現在は足湯になっています。そして“ワインの郷”の塩尻駅はホームに植えたブドウ棚。“縄文王国”茅野駅は大きな黒曜石の原石)、松本駅には槍ヶ岳を開山した播隆上人像とそれを囲むように小さな駅前公園が作られたのですが、植えられた10本近いケヤキが成長するにつれムクドリの住処となってしまい、夕方は“ねぐら”を求める数万羽というムクドリの大群の騒音とフン害で問題となり、丸裸に近いくらいまで枝を落とす等の対策も実らず、結局公園は撤去されて、現在駅前全体が再整備されています。

 先日、駅前で用事があり東口に出たところ、駅前大通りへと渡る横断歩道脇に、新しい三角柱の石の塔が建てられていました(以前その場所には、中央東線特急の高速化促進の塔がありました)。
それは、自称「3ガクト」の信州松本の玄関に相応しい時計塔で、それぞれの面に岳都、学都、楽都の揮毫と、またそれぞれのガクトを表現したであろうレリーフ?と時計が埋め込まれているようです。

「岳都」は登山家の田部井淳子さん、「学都」は菅谷現松本市長、「楽都」はマエストロ・オザワと松本縁(ゆかり)の著名人による、それぞれの自筆が彫られています。
透明なカバーで覆われていたので、正式なお披露目はまだ先のようですが、我々市民はともかく、松本を訪れる多くの方々にも「ガクト松本」を認知していただいて、新しい松本駅前のシンボルになると良いですね。

 後輩に「飲みに行きましょう!」と誘われ、このところ松本ばかりで諏訪での飲み会が無かったので、「だったら」と暫く行っていなかった上諏訪の割烹『雫石』へ。

 二人でカウンターに座って、女将さんやマスターと話しながらのひと時。
第481話でご紹介したように、女将さんは釜石のご出身。震災後、二度ほど釜石に帰省して、また来週も行かれるそうです。
故郷の街を襲う津波の映像をTVで見ては号泣していたのが、実際に津波で跡形も無くなった現地を見ても、何だか現実と受け入れられなくて、その場に立つと何故か涙も出なかったのだそうです。
「こうだったんだよぉ!」と女将さんが見せてくれた、自身被災者でもある記者たちが襲い来る津波の中で必死に撮影し執筆したという、地元の新聞社がまとめた震災当日の生々しい写真集(おそらく、先頃発表になった2011新聞協会賞受賞の岩手日報社 写真企画『平成三陸大津波 記者の証言』だと思います)。
きっと女将さんは少しでも現地の実態を知ってもらおうと、店に来るお客さんたちにも見せたのでしょう。既にボロボロになっています。また、これまで店で取り寄せていた釜石の蒲鉾屋さんからは、「全て流されてしまいまいしたが、必ず再開させるのでそれまで待っていてください。」とのハガキが届いたと、嬉しそうに見せてくれました。

 お酒はいつもの諏訪の地酒もありましたが、前回お願いしたようにちゃんと東北の地酒、この日は岩手の銘酒「あさ開」もあったので、迷わずに指名。

 震災後、釜石の妹さんが「震災で、ずっと(生の)お魚を食べてないんだよぉ!」と嘆くのを聞いて、震災までは釜石のご実家から鮮魚を直送してもらっていた「雫石」の女将さんは、早速この諏訪では鮮度が良いと評判の鮮魚売り場でたくさん購入し、保冷便で釜石に送ったのだそうです。

 そうしたら、届いた魚を見た妹さんたちは皆でビックリして、
「久し振りに、みんなで大笑いしたんだよぉ!」
と電話をされてきたのだそうです。
何でも、送られてきた魚の、特に生のイカの鮮度の悪さに驚いたのだとか。
「信州じゃあ、こんなイカを生で食べてるんだねー。姉ちゃんもすっかり“山のヒト”になっちゃたんだねーって、みんなで大笑いしたんだよぉ!」
結局、せっかく女将さんが信州から送った“鮮魚”は、どれも生では食べてもらえずに、煮たり焼いたりされたのだそうです。

「へぇ、そうなんだぁ。」
「あそこでもダメってことは、そんなにヒドイのを日頃僕等は食べてるんだ・・・。」
「でもそのお陰で、久し振りにみんなで笑えたって喜ばれちゃった・・・。」
「ナンだか信州人としては複雑だけど、でもみんなに笑ってもらえて良かったジャン・・・!?」

 この日は、酢で〆た自家製のコハダと焼いた新さんまに、古漬けっぽくなりかけた女将さんお手製の糠漬けのキュウリ(絶品でお代わりしました)と、マスターからお酒には一番合うと薦めていただいた、ワタも一緒のスルメイカの丸干し。
辛口でキレのある「あさ開」の純米と相俟って、「山のヒト」にはどれも絶品だったんですけどぉー!

 9月13日。巨匠ブルーノ=レオナルド・ゲルバーによるピアノ・リサイタルとして、ベートーベンの『熱情』、『悲愴』、『月光』の3大ソナタに『ワルトシュタイン』を加えた“4大ピアノソナタ”を一夜に演奏するという、初秋を飾る何とも贅沢なコンサートが開かれ、家内と二人で聴きに行って来ました。
10月のDSOやOEKに行くため、6月のタリス・スコラーズは我慢したので、久し振りの演奏会です(後述の地震による改修で結局OEKは中止)。
今回は、ハーモニーメイト創立25周年の記念演奏会の一環なのですが、ハーモニーホール(音文)の地震損傷に伴う改修工事で、中止を余儀なくされた記念演奏会(アンサンブル Of トウキョウ)もある中で、幸いにも長野県松本文化会館(県文)に会場を変更して実施されました。

 当日まで同じ市営の市民芸術館とばかり思い込んでいたら、妹から「今日は県文だよ!」とメールで言われ、調べてみると確かに・・・。
「えっ、うっそー!一体何を見てそう思っていたんだろう?」
お陰で遅れずに聴くことができました。しかし、県文は2000席を超える大ホール。片や音文は800席。市民芸術館(1800席)でも大きいのに、客足は大丈夫でしょうか。

 夕刻6時半の開場時刻前に着くと、既に1階ロビーは2階の客席入り口まで続く長蛇の列。あぁ良かった、ヤレヤレです。結局、開演までに6割方は埋まったようです。音文の指定席から全席自由への変更で、我々はガラガラの2階席(4階建てのホール構造上は3階)の最前列へ。ここなら運指も良く見えます。7時開演(写真は開場直後の2階席から)。 

 前半は「月光」と「ワルトシュタイン」、休憩を挟んで後半に「悲愴」と「熱情」のオール・ベートーベン・プロ。
先ず月光のお馴染みのメロディーが紡ぎ出されます。ワルトシュタインの骨太の構成力。悲愴の有名な第2楽章のアダージョ。美しく甘いメロディーに心が洗われていくようです。そして、熱情の圧倒的なコーダへ。あっと言う間の2時間でした。

 正直言えば、時折ミスタッチや、特に前半は音が濁っている部分もあったように思います。でも、若い頃のように重箱の隅を突いて鬼の首を取ったような粗探しは止めて、音を聞くのではなくもっと大局的に音楽を聴くようにしてからは、小さなミスを余り気にせずに全体の演奏を楽しめるようになりました(そうじゃないと、聴いたことはありませんが、自ら公言されているフジコ・ヘミングなんて聴けないでしょう)。勿論演奏全体の質が悪ければ、「何をか言わんや」ですが・・・。
ただ、2階席だったせいか、時々金属音のような共鳴音が聞こえたような気がしましたが、気(耳?)のせいだったのでしょうか?演奏前と休憩中には、ちゃんと調律をしていたのですが・・・?
やっぱり、器楽ソロは箱の小さなハーモニーホールの方が向いているのかもしれません。

 ベルガーさんは、ご本人が「許されるならベートーベンだけを弾いていたい!」と言う通りに、“ベートーベン弾き”としてつとに有名ですが、確かもう70歳の筈。しかし、弱音を含めた音のみずみずしさと低音部を中心とした圧倒的なスケール感。
開演前にパンフレットを見ながら、「ねぇ、この人、何だかマイケル・ジャクソンに似てない?」とブツブツ言っていた家内が、休憩中に隣で「すごく淡々と弾くんだね・・・。」
お体のこともあるのかもしれませんが、確かに、感情移入にせよ、バイオリンを含めた最近の演奏者のように大袈裟なほど上体を動かしたり、揺らせたりという仕草は全く無く、淡々と弾いている(ように見える)のに、その指先からは正に紡ぐ様に音楽が溢れ出て来ます。イイなぁ。
 
 満席にはなりませんでしたが聴衆からの大きな拍手に、ステージへの入退場同様に補助者に支えられながら、小児麻痺での不自由な体を舞台袖まで再度運ばれて顔を出され、カーテンコールに応えてくれました。
カーテンコールでさえそうですから、勿論アンコール曲は無し。家内が残念そうに「アンコール、やらないんだね。」
「イイじゃ、ありませんか!松本まで来てくれて、あの体で、あの歳で、一度に4曲もソナタを弾いてくれたんだから・・・。」

 月光ソナタを聴いた今宵は、中秋の名月の翌日。夜9時を過ぎて会場を出ると、群雲(むらくも)の中を十六夜の月が東山から昇っていました。
心も“まあるく”なって、幸せな気分で会場を後にします。

 ♪音楽会のあとは 誰ともおしゃべりしたくない・・・(大中恩作曲 女声合唱組曲『愛の風船』)

 ・・・そんな余韻を打ち消すように、
「お腹すいたネー、ナニか食べて行こうかぁ?」
どうやら、幸せになると人間お腹が空くようです。
「ウン、じゃあ早く行こ!」

 (前話に引続いて滋賀県大津紀行です)
 翌朝、前夜同様に会議会場ホテルのシャトルバスは乗り残しの恐れがあるので、せっかくここまで来ながら琵琶湖も見ずして帰るのも勿体無いと、JR大津駅近くの宿泊先のホテルを1時間ほど早めに出て、散策がてら湖の畔(ほとり)に立つ会場まで(汗をかかぬよう)ゆっくりと歩いて行くことにしました。3kmちょっとの道程の筈。

 道は緩やかな坂を湖の方に下っていきます。大津は坂の街だそうですが、こうして歩いてみると良く分かります。
京阪の2両連結の路面電車が目の前を通って行きました。
「そうか、これに乗ると京阪三条まで行けるんだ!」
学生時代最初の1年間だけでしたが、山科からの通学で毎日乗った懐かしい電車です。乗ろうか迷って、駅で会場のホテルへの最寄り駅を聞くと「錦駅」だとか。但し徒歩10分とのことに、やっぱりこのまま歩こうと京阪電鉄の浜大津駅を過ぎると、もう目の前が琵琶湖です。

 湖畔には遊歩道が設けられています。
遊覧船が停泊する大津港から始まり、途中、最近オペラ公演で有名なびわ湖ホールや、加藤廣の小説(『明智左馬助の恋』)で読んだ、左馬助が追っ手から逃げて琵琶湖を愛馬で渡ったという入水の場所(この辺りだろうという)の小さな「湖水渡りの碑」を見て、暫し感慨に耽ります。
古くは、ここ大津は天智天皇が飛鳥から一時期都を移し、近江大津宮と呼ばれていました。崩御された後、皇位継承を巡っての壬申の乱が起こり、この大津の戦いで大友皇子(この地で自決)に勝った大海人皇子が即位(天武天皇)して都をまた飛鳥に戻したため、大津京は僅か5年余りでなくなってしまいます。
その後も、この辺りは京の都に近く、琵琶湖から唯一流れ出る瀬田川は宇治川、淀川となって大阪湾に注いでいますし(それで義仲主従は宇治川の合戦に敗れた後、川伝いに大津まで敗走して来たんですね)、また東国や北陸への要衝の地だっただけに、その時々の覇権を巡る幾多の悲しい歴史がこの湖周辺には刻まれていることでしょう。

 旧国名で言えば、ここは近江の国。そして今の静岡県西部は遠江の国。良く似ていますが、それもその筈。その語源は、都に近い湖(近淡海=近江)としての琵琶湖(但し琵琶の形に似ていることが分かったのは、測量技術が発達した江戸時代中期になってからだそうですが)と、片や遠い湖(遠淡海=遠江)である浜名湖に由来するのだとか。今でもその地方は遠州とも呼ばれますが、そこにこの琵琶湖まで関係していたとは知りませんでした。そう言えば、会場のコンベンションホールの名前も“淡海”でしたが、湖(淡水湖)の古語。
もし、諏訪湖がもっと大きかったら(八ヶ岳が富士山とケンカしなければ、という信州人的発想に似ていますが)、信濃が遠江になっていたかもしれませんね・・・?
 湖を眺めていると、自然に
“♪われは湖の子 さすらいの旅しにあればしみじみと・・・”
と口を衝きます。この湖を謳った歌には諏訪湖も関係しています。
三高のボート部時代に「琵琶湖就航の歌」を作詞した小口太郎は、諏訪湖畔の岡谷市湊出身。故郷の湖への望郷の念を、この琵琶湖に重ねたのではないでしょうか?(諏訪湖畔の釜口水門近くの公園にも、小口太郎の像と一緒に「琵琶湖就航の歌」の歌碑が置かれています)

 しかし、琵琶湖は大きいですね。しかも、琵琶の棹の先端にあたるであろう狭い部分の大津でさえこんなに広いのですから。胴の部分は、正に“うみ(淡海)”と呼ぶのが相応しいのだろうと感じました。

 先週、滋賀県の大津で仕事の関係の全国会議があり、二日間出張して来きました。名古屋までの中央西線の特急「しなの」の都合で、大津には2時間近く早めに到着するため、会場周辺を調べて集合時間まで1時間ほどのプチ観光に行ってきました。

 その場所は、義仲寺(ぎちゅうじ)。
琵琶湖の畔(ほとり)に聳える会場の大津プリンスホテルから徒歩7分程度とのこと。その名の通り(最初「よしなかでら」と読みました)、宇治川の合戦に敗れ、ここ粟津ヶ原(現大津市)で非業の最期を遂げた源(木曽)義仲のお墓と、後年その義仲を慕ったという松尾芭蕉のお墓があります。また境内の庵、翁堂の天井画は最近若い人を中心に人気の伊藤若冲とか。境内は国の史跡に登録されています。
近くまで来ていながら、県歌“信濃の国”にも謳われる旭将軍木曽義仲の墓前を素通りしては、信州人としての義理を欠きましょう。

 ホテルからの大体の方角を頭に入れて行ったつもりが、見当違いか、中々それらしき場所が見当たらず、たまたま通り掛かったご住職にお聞きしたところ、ご親切にもその方向に行かれるようで、途中までご一緒いただきました。旧東海道まで連れて行ってくださり、
「このまま真っ直ぐに行かはったら、すぐ道沿いに在りますよって。」
丁重にお礼を申し上げて、更に歩を進めます。ところどころ旧街道らしい風情ある建物が見受けられました。今では車の行きかう幹線道路から外れたこの道を、往時はひっきりなしに旅人らが歩いていたことでしょう。“行きかう年もまた旅人なり”でしょうか。
 義仲寺は思いの外小さなお寺で、ひっそりと佇んでいました。
入り口横の地蔵堂には、地元の人に慕われたという小さな石の巴地蔵が居られます。入り口で拝観料200円をお支払いして、参拝客も居ない境内に入ります。後年尼僧となり、その卑しからぬ様子に名を問われ「名も無き女性(にょしょう)にて」と、義仲公のお墓の横に草庵を建て日々その菩提を弔ったという言い伝えで、その後この寺開廟の元となった巴御前を偲ぶ小さな巴塚(巴御前自身は90歳近くまで長生きされたそうで、木曽の旧日義村のお寺にお墓があったような気がします)、義仲公のお墓(木曽塚)、そしてここの庵にも何度か滞在し、旅先での遺言で義仲公のお墓の傍らに葬って欲しいという芭蕉のお墓と芭蕉翁を偲ぶ翁堂。そのお堂の天井の若冲の四季花卉画は、色落ちなどの傷みが激しいため別に保存され、現在はデジタル復元されたという複製画が飾られていました。そして境内には、芭蕉の有名な辞世の句や、俳聖を慕う門人を始めとする幾つもの句碑が狭い境内の至る所に建てられていて、その数20余り。この地で詠まれた句で有名なのは、翁を無名庵に訪ねた弟子又玄の、『木曽殿と 背中合わせの 寒さかな』だそうです。
 頼朝の平家討伐に呼応して木曽で挙兵し、牛の角に松明を縛って突進させたという逸話で有名な倶利伽羅峠の戦で平家の大軍を打ち破り、京の都から平家一門を追放しながら、後白河法皇に疎まれて同じ源氏の義経等の鎌倉方と戦わざるを得なかった義仲。
信濃の田舎モノ故か必ずしも都の人々には好かれず、また敗者故か義仲寺の侘しき佇まいに、芭蕉も偲んだであろう栄枯盛衰を想います。私も、それぞれのお墓にお参りをさせていただきました。
 

 長女と違って、次女は誰に似たのか、割と“食わず嫌い”のところがあります。
例えば、寿司ネタでは、家内同様ヒカリモノは絶対に食べませんし(美味しいのに)、トロやサーモンやイクラは大好きなのに、平目などの白身やウニも食べません(何だかお子ちゃまネタばかりですなぁ)。
魚介類では、酢牡蠣もダメですし、鰻は良く父が土用の丑やお祭りの客呼びびなどに「本間」の鰻(諏訪湖畔の岡谷や諏訪と比べて、松本には美味しい鰻屋さんが無く、お薦めできるのはテークアウト専門ですが本間くらい)を買ってくる時は、わざわざ次女用には山女の甘露煮を買ってきたものです。

 でも、それがどうしたことでしょう!(どこかで聞いた言い回し)。
成田に引っ越して、表参道のお寿司屋さんに家内と何度か行った時に、試しに食べた平目が美味しかったとお代わりをしたり、信じられないことに酢牡蠣(岩牡蠣)を自分から頼んだり・・・と。

 この前は、休みの日に会社の友達と一緒に成田表参道の有名な老舗の鰻屋さん(おそらく「川豊」本店のことだと思います)に食べに行くことになったらしく、止む無く(メニューには鰻しかありませんので)お付き合いで鰻重の並(1800円だったとか。安い!)を頼むと、それが「今までに食べた鰻とは全く違って、とろける様に美味しかったんだヨ!」とのこと。
家内からの言伝に「今度成田に来た時に、一緒に鰻を食べに行こ!」とのこと。はぁ、変われば変わるモノ・・・です。今まで次女が鰻を好きじゃないので、食べに行くのを遠慮していたのに・・・。でも、お友達のお陰で、成田に行く楽しみが増えました(写真は、今年5月下旬に成田に行った時に撮った「川豊本店」。第478話参照)。
 鰻にしても寿司にしても、今までは単純に美味しいモノを食べていなくて、ここで本当に新鮮で美味しいものを食べたから、と言うことかもしれませんが、でも良いことだと思います。
好き嫌いは、食わず嫌いではなく、先ず本当に良いモノを食べて判断すべきです。最初に良いモノで判断しないと、一生勘違いのままで終わってしまうかもしれません。その上で嫌いならまたそれも良し・・・。

 しかし、イイなぁ。成田の鰻食べたいなぁ・・・(但し産地は、前回成田山に行った時に店頭を見たら、印旛沼ではなく浜名湖産のようでしたが)。それに、成田に行ったらお寿司(季節にも因るとは思いますが、マイワシが絶品でした)も食べたいしなぁ・・・。
・・・と生唾ゴックンですが、いつになったら行けることやら。

 第500話で書いたように、6月30日に松本市を襲った震度5強の直下型地震により、天井改修が必要となり、2013年3月まで閉鎖されることになった松本市音楽文化会館(ザ・ハーモニーホール。略称“音文”)の大ホール。

 今年度計画されていたコンサートも、残念ながら幾つかは中止になったりしています。その内、ハーモニーメイト主催で、既にチケット購入済みのブルーノ・ベルガーのピアノリサイタルは、会場を松本市民芸術館に会場を変更し、指定席から全席自由席で実施されることになりましたが、一番楽しみにしていたOEKの第6回松本公演は、OEK側が多分別日程でのスケジュール調整が不可能だったのでしょう。オーケストラコンサートは中止(被害の無かった小ホールで、団員による木管五重奏の演奏会に変更)となってしまいました。本当に残念です。
また3回目となる2月の松本バッハ祝祭アンサンブルは、磯山教授の事前講演と合わせて小ホールで昼夜2回公演。そして、ハーモニーメイト創立25周年の記念演奏会の一つだった、アンサンブル of トウキョウは残念ながら中止となりました。
      
 定評のあった“残響2秒”を再現するために、音響テストを繰り返しながらの改修に来年度一杯まで時間がかかるだけに、今年と来年の松本は、ちょっぴり寂しい“音楽の秋”になりそうです。

 さて減ってしまった演奏会の中で、来週火曜日の9月13日。馬蹄形劇場の市民芸術館に会場を移して、ハーモニーメイト創立25周年記念演奏会としての、巨匠ブルーノ=レオナルド・ベルガーのピアノリサイタルで、ワルトシュタインを加えたベートーベンの“4大”ソナタを聴きに行ってきます。
こんな地方都市へ良くぞ招聘できたものと感心します。大変ありがたいのですが、座席数が二倍になりましたので、ちゃんと埋まってくれるかなぁ・・・。もしガラガラだったら、奏者に対して失礼だしなぁ・・・。

 私にとってのコンサートシーズンの“幕開け”です。
今シーズンは、続いて10月の佐渡裕&DSOと、2月のバッハで終わり・・・かな。

 先日、家から車で5分ほどのいつものお寿司屋さん『王滝』総本店へ。
成田表参道のお寿司屋さん『江戸ッ子寿司』(第478話)に伺って、その鮮度と値段に感動し、以来他で寿司を食べる気がしなくなり、少し足が遠のいてしまいました。
でも、成田には当分行けそうも無いので、たまたま割引期間中でもあり、久し振りに行ってみることに。ここは、魚が幾つかの漁港から直送されて来るので、松本にしてはネタが新鮮です。また卵焼きはナカナカの逸品です。
花金の8時過ぎでしたが思いの外すいていて、待つことなくカウンターへ。
      
 ふわっと握ってくれるからと、家内のお気に入りの板さんとは今回は残念ながら別の方でしたが、カウンターでのその板さんとのやり取り。

 ツマミやお寿司を食べながら、生ビールの後に、いつもは常備の大雪渓か、天狗舞か、黒龍辺りの純米酒を頼むのですが(リストには、他に久保田も百寿から万寿まで)、今回オーダーしたのは、震災もあって特別に用意されたであろう被災地宮城県石巻は『墨廼江』の特別純米。
チビリチビリと味わいながら飲んでいると、酒好きと思われたのでしょう。ご年配の板さんも日本酒が好きらしく、いきなり「先ずは黙って、この酒を飲んでみてください」と、カウンターの中からお猪口で一杯勧めてくださいました。

 飲むと、切れもありながら、ふくよかで旨みを感じます。
「ウン、美味しいですね!」
「今まで、私も色々な地酒を試してみましたが、これが一番旨いと思います。」
と言われて教えていただいたのは、讃岐うどんで有名な香川県の地酒で『凱陣』(がいじん)という銘柄とのこと。
不勉強ながら、四国では高知の司牡丹くらいしか知らず、初めて聞く銘柄でした。いやぁ、確かに旨いなぁ!

 その後、板さんと暫し地酒談義です。
私は、有名銘柄を別とすれば、県内の地酒くらいしか知りませんでしたが、板さんは地元の銘柄は勿論のこと全国の地酒のことも良くご存知でした。

 戦後の物資不足の名残である、醸造用アルコールを添加する醸造酒を、工業的に四季醸造で大量製造してきたナショナルブランドとは異なり、全国津々浦々、各地の水や土の違いなどの四季折々の自然が育んだ、例え小さな蔵でもまだまだ本当に美味しい地酒があるんですね。

 全国的には未だそれ程知られていない地方の銘酒。そんなお酒に出会うと、その酒を育んだ風土と、造った人たちの拘りと誇りを想い、お酒を通じて想像するこちらも何だか幸せな気分になります。「夏子の酒」的には“和醸良酒”でしたっけ・・・。

 素敵なお酒でした。教えていただいたばかりか、一杯試飲させてくださった板さんにも敬意を表し、『凱陣』に乾杯!

 昔、上諏訪駅近くの並木通りにあった『ハルピンラーメン』。
当時から繁盛店で、シンガポールから帰任してみると、諏訪のインター近くに拡張移転していて、残念ながらその後は食べる機会がなくなってしまいました。
 昔の一時期でしたが、松本駅前にも小さな支店があって、一度家内を連れていったところ、肝心の味よりも油まみれのカウンターに「もうハルピンには二度と来ない!」と冷たく絶好宣言。以来、どんなに誘ってもダメで諦めていました。その味も必ずしもお好みではなかった由。

 醤油とも味噌とも違う、ニンニクが良く効いた甘辛の独特の熟成スープと大きなチャーシュー。あぁ、旨かった(筈です)よなぁ・・・と私メにとっては“幻のラーメン”でした。

 先日、家内が茅野の実家で午後用事があり、夕刻まで掛かりそうとのこと。車で上諏訪まで来ると時間の無駄なので、電車で一駅の茅野駅で待ち合わせ。すると、「どこかで食べて行こうか?」ということで、茅野や諏訪の有名店(例えば、茅野の「から木」は事前予約が無いと無理ですが、下諏訪の鰻の老舗「小林」が諏訪インター近くに出店しています)を幾つか挙げるも、緊縮財政とかで全て却下!「ホンじゃあ、ラーメンくらいしか無かと!」。そう言えば、インター近くには博多ラーメンの「一風堂」もありました。
そこで、豚骨系はお好みではなく、また「麺屋さくら」は行ったばかりだったので、恐る恐る「ハルピン」の名を出したところ、「行ってもイイわよ」との思いもかけぬご発言。「うっそー!?」
では、早速気が変わらぬ内にと車で向かうことに。インター近くの諏訪市中洲通りの飯島に移転先の店があります(下諏訪にも支店があるのですが、職場のメンバーの話では、メニューが少々異なるので、「行くなら絶対に中州です!」とのこと)。
聞けば、“未だに”(感心しますが)定期的に集まっている女子高時代の4人組の“会合”(所謂女子会でしょうか?)の中で、「諏訪のラーメンではハルピンがイチバン!」と勧められたからとのこと。
「ホウ・・・ヒトの言うことは聞かぬのに、友達の言うことは聞くんだ・・・」
持つべきモノは友ですなぁ。
「だって、友達には下心が無いもの」・・・ふ~ん、ナルホドですなぁ。
確かに、何とかハルピンに食べに行こうと手を変え品を変え画策しましたもの(全く効果はありませんでしたが)。
 
 水曜日の夕刻7時頃でしたが、行列覚悟で行ったら予想外に空いていてすぐに座れました。L字のカウンター席ばかりで、15席弱ほどでしょうか。窓側には椅子がずらっと並んでいますので、混む時は店内で行列待ちの筈。

 注文は、王道のハルピンラーメンの大盛りと普通盛りに、餃子一人前。
ニンニクをベースに何年も寝かせて熟成させたという秘伝のタレとか。トッピングは、モヤシとシナチクに海苔(味玉は別オーダー)。そしてモモ肉を使った大きなチャーシューですが、昔はもっと大きかった(イメージでは倍の大きさ)ですね。
最初のスープの一口は魚介系の味がしましたが、懐かしい甘辛い独特のスープで、見た目ほどこってりではありません。腰のある細い縮れ麺に良く絡みます。久し振りの味ですが、並木にあった頃(と言っても四半世紀近くも前ですが)とは、何となくホンの一味ですが、何かが違うような・・・。もしかしたら昔はいつも飲んだ後に食べていたせいかもしれませんし、上手く言えないのですが、もう少しスープが“尖って”いて、良い意味でもう一癖あったような気がします。
でも、久し振りで美味しかったです。スープまでしっかりと完食しました。

 家内は、スープが塩辛過ぎて、「麺屋さくら」のあっさり醤油系の屋台ラーメンの方が好みだそうです。やっぱり!もう来れないかも・・・?
でも、ネットから取り寄せも可能との事ですので、今度は家で作ってみようかな。

 ハルピンラーメン・・・終戦で満州から引き上げて来られたご夫婦が、諏訪の街で屋台を引いて始めたラーメン。その味に感激した町の素封家婦人が出資をして、並木に店を出したのが始まりとか。
ご夫婦には跡継ぎが無く、別の人に店を譲り、移転したのが現在のハルピン。でも、その際一つだけレシピの調味料を教えなかったという真(まこと)しやかな噂、“伝説”があります。
昔とスープが少し違わない?という疑問を、恐らく正当化するために勝手に一人歩きした話でしょうし、実際は実の息子さん(お孫さん?)等がやってらっしゃるのかもしれませんし、その真偽の程は・・・???
でもさぁ、何となく昔と一味違わない?

 我々、生粋の“松本っ子”が当たり前と思っていても、県外から来られると、驚いたり意外だったりすることも多いようです。そんな話題としてお送りします。題して「信州松本“ぶったまゲーション”」。

 会社の同期の友人が、昔良く文句を言っていました。
『東北の人たちは、自分達が方言をしゃべっていると認識して申し訳なさそうに話しているから許せるけど、信州人は標準語だと信じて方言をしゃべるから許せない!』(斯く言う彼は関西弁)

 確かに、私も県外に出るまで方言と知らず、標準語(正しくは共通語)だと思って使って恥をかいたことがありました。
長野県は、全体のイントネーションが共通語と余り変わらないため、自分達の言葉そのものが共通語だと勘違いしてしまうようです。
   
 曰く「ずく、つもい、てきない、うつかる、ぶちゃる、まえで、おつくべ」・・・などなど。お分かりになりませんよね・・・?(注記)
さすがに、「・・・でしょう」とか「・・・だろう」というのを「・・・ずら」とか、「・・・だよ」を「・・・だじ」と言うのは、信州人も方言と認識していると思います。
学生時代、京都から帰省して来て松本駅のホームに降り立って、赤いほっぺの女子高生たちが「うそずらぁ」と話しているのを聞くと、「あぁ、松本に帰って来たなぁ!」と感じたものでした。
(ただ、最近の若い人たちは殆ど共通語で、あまり方言を使っていないような気もします)

 昔、採用担当をしていた頃、体育館でのその年の入社式のリハーサルでのこと。総務の先輩が県外出身者の方が多かった新入社員たちに向かって、「皆さん、もう少し“前で”に来てください!」
すると、新入社員諸君がザワザワと・・・。
「おい、“マエデ”って何だ?」
「多分、前に出ろってことじゃない?」
後ろで黙って聞いていて、「うん、なかなかイイ線!」
その先輩は、勿論“前で”が方言とは知らずに使ったのは言うまでもありません。
 また、その昔新製品が誕生し、そのテクニカルマニュアルを作って専門業者に翻訳に出したら、担当者が「ネジがキツイ」場合のことを「つもい」と書いてあったため、外部の翻訳者が専門用語だと勘違いをしてそのままアルファベットで「TSUMOI」と訳した、という笑い話もありました。

 日本の共通語は、明治新政府がそれまでの都だった京言葉や、首都となった東京の江戸弁(下町言葉)などではなく、いちばんクセの無い山の手の中流武士の言葉を当時の標準語として採用した、というのが通説のようですが・・・。

 昔、明治政府がクセの少ない信州弁を標準語に採用したという話を真(まこと)しやかに聞きました。それが証拠に昔NHKのアナウンサーには長野県出身者が多かった、などと・・・どうやら違うようです。
【注記】
ずく=億劫がらずにすること(例えば、ちょっとしたことをするのに「小ずくがある」とか、逆に面倒臭がる人のことを「ずく無し」とか)、
つもい=きつい、てきない=疲れた、うつかる=(壁などに)もたれる、ぶちゃる=捨てる、まえで=前、おつくべ=正座、おざざ=うどん、もうらしい=惨めったらしい、まてい=丁寧、・・・などなど。
語尾の「ずら」は隣県の静岡県と共通。また走ることを「とぶ」と言うのも静岡県と同様です。例えば、信州では「かけっこ」のことを「とびっくら」とも。
県外からの転校生が、先生から「とべ!」と言われて、その場でピョンピョン飛び跳ねた、という可哀想な笑い話は恐らく枚挙にいとまがないでしょう。
但し、信州は盆地が多くそれぞれが独立しているため、地方により方言も異なるようです。例えば、語尾に「に」や「ね」が残る伊那谷は、平家の落人の「平安ことば」の名残とも言われています。

 第497話でご紹介した、平松洋子女史の食のエッセイ『おとなの味』。
その中で、「子供の頃食べてちっとも美味しいと思わなかったのが、大人になってみると、時々ふと食べたくなることがある。」というような件(くだり)があり、「確かにそうだなぁ」と頷きながら、私の頭に浮かんだモノ-それは、今は亡き明治生まれの祖母が作ってくれた「身欠きニシンの味噌煮」でした。

 父や祖父と一緒にリンゴ園で朝から晩まで作業する母に代わって、祖母が食事の支度をしていましたが、その中で作ったであろう身欠きニシン。
長い時間水に漬けて戻し、5cmほどの大きさに切って、味噌と砂糖でじっくりと弱火で甘辛く煮付けたもの。我家では醤油ではなく、決まって味噌味でした。もしかしたら、生姜も臭み消しに入れていたのかもしれません。小さかった頃はまだ茅葺屋根の大きな家で、煤けた台所の囲炉裏に掛かった大きな鉄鍋が思い出されます。
ただ、身欠きニシンは小骨が多く硬くて食べ辛いし、子供心には決して美味しいとも思わず、よっぽど「味りん干し」(さんまかなぁ?)の方が子供は好きだった(但し早く食べないとすぐに硬くなってしまいます)ように思います。

 でも、年をとってみると、噛むほどに旨みを閉じ込めた身欠きニシンが、何十年も前のおぼろげな舌の記憶と共に、
「美味しかったなぁ・・・」
と呼び起こされて、無性に食べたくなる時があります。一日の農作業を終えて、それを肴に晩酌をしていたであろう祖父や父を想うと、
「きっとお酒にも合うんだろうなぁ・・・。自分で作ってみようかなぁ・・・?」

 ところが、そんな雰囲気を察したのか(きっとブツブツ言ってたんでしょうね)、何も言わないのに家内が珍しく身欠きニシン(硬いのではなく、水で戻さなくも良い柔らかな生干し)を一尾分買って来て、Cock Padを参考に味噌味での煮付けに挑戦してくれました。ありがたや。

 味噌と味りんにお砂糖を少し加え、生姜を二欠片。コトコト煮詰めます。
待つこと暫し・・・。
「まだ早いかもしれないけど、ちょっと味見してみてヨ」(家内は今まで食べたことなし)
うーん、何だかお店で食べるように洗練されていて、お婆ちゃんのそれはもっと田舎っぽい味だったような気がします。
多分、昔は自家製(年末になると地区毎に農家の叔母ちゃんたちが総出で、皆家で作った大豆を持ち寄っては、多分蒸さずに煮て潰し、たくさんの味噌玉を作っていました)の田舎味噌だったのが、家内はこのところ(以前味噌汁を誉めたので)割りと高級な無添加の赤味噌を使っているのが違うかもしれません。
でも、美味しかったです。いや、カタジケナイ。でも、一尾ってこれしかないんだ。勿体無いので、お酒の肴として小出しに大事に食べています。
・・・とすると、お婆ちゃんは大きな鉄鍋に一杯作っていましたが、一体何尾分の身欠きニシンを戻していたのでしょうか?今では高級魚で結構な値段ですが、その昔はニシンを畑の肥料にしたほどたくさん獲れたそうですから、あの頃はまだ安かったんでしょうね。
      
 しかし考えてみれば、今や家庭の味もCock Pad から。うーん、“昭和も遠くなりにけり”でしょうか。

 そして、初挑戦での好評に気を良くしてか、はたまた大事に大事にチビチビと食べる私メを憐れんでか、その後も何度か作ってくれました。
いつもCock Padレシピの味噌味です。でも、最初の頃感じたような個々の調味料の“尖った角”が取れ、大分馴染んできて、何となく昔の“お婆ちゃんの味”に似てきたような気がします。これが我が家の“平成の味”になりました。

 今回も、やはり水で戻さなくても良い生干しですが、二尾分をまとめて作ってくれました。ムフ、大事に食べよ!っと。