カネヤマ果樹園 雑記帳<三代目のブログ>

 (前話に引続いて滋賀県大津紀行です)
 翌朝、前夜同様に会議会場ホテルのシャトルバスは乗り残しの恐れがあるので、せっかくここまで来ながら琵琶湖も見ずして帰るのも勿体無いと、JR大津駅近くの宿泊先のホテルを1時間ほど早めに出て、散策がてら湖の畔(ほとり)に立つ会場まで(汗をかかぬよう)ゆっくりと歩いて行くことにしました。3kmちょっとの道程の筈。

 道は緩やかな坂を湖の方に下っていきます。大津は坂の街だそうですが、こうして歩いてみると良く分かります。
京阪の2両連結の路面電車が目の前を通って行きました。
「そうか、これに乗ると京阪三条まで行けるんだ!」
学生時代最初の1年間だけでしたが、山科からの通学で毎日乗った懐かしい電車です。乗ろうか迷って、駅で会場のホテルへの最寄り駅を聞くと「錦駅」だとか。但し徒歩10分とのことに、やっぱりこのまま歩こうと京阪電鉄の浜大津駅を過ぎると、もう目の前が琵琶湖です。

 湖畔には遊歩道が設けられています。
遊覧船が停泊する大津港から始まり、途中、最近オペラ公演で有名なびわ湖ホールや、加藤廣の小説(『明智左馬助の恋』)で読んだ、左馬助が追っ手から逃げて琵琶湖を愛馬で渡ったという入水の場所(この辺りだろうという)の小さな「湖水渡りの碑」を見て、暫し感慨に耽ります。
古くは、ここ大津は天智天皇が飛鳥から一時期都を移し、近江大津宮と呼ばれていました。崩御された後、皇位継承を巡っての壬申の乱が起こり、この大津の戦いで大友皇子(この地で自決)に勝った大海人皇子が即位(天武天皇)して都をまた飛鳥に戻したため、大津京は僅か5年余りでなくなってしまいます。
その後も、この辺りは京の都に近く、琵琶湖から唯一流れ出る瀬田川は宇治川、淀川となって大阪湾に注いでいますし(それで義仲主従は宇治川の合戦に敗れた後、川伝いに大津まで敗走して来たんですね)、また東国や北陸への要衝の地だっただけに、その時々の覇権を巡る幾多の悲しい歴史がこの湖周辺には刻まれていることでしょう。

 旧国名で言えば、ここは近江の国。そして今の静岡県西部は遠江の国。良く似ていますが、それもその筈。その語源は、都に近い湖(近淡海=近江)としての琵琶湖(但し琵琶の形に似ていることが分かったのは、測量技術が発達した江戸時代中期になってからだそうですが)と、片や遠い湖(遠淡海=遠江)である浜名湖に由来するのだとか。今でもその地方は遠州とも呼ばれますが、そこにこの琵琶湖まで関係していたとは知りませんでした。そう言えば、会場のコンベンションホールの名前も“淡海”でしたが、湖(淡水湖)の古語。
もし、諏訪湖がもっと大きかったら(八ヶ岳が富士山とケンカしなければ、という信州人的発想に似ていますが)、信濃が遠江になっていたかもしれませんね・・・?
 湖を眺めていると、自然に
“♪われは湖の子 さすらいの旅しにあればしみじみと・・・”
と口を衝きます。この湖を謳った歌には諏訪湖も関係しています。
三高のボート部時代に「琵琶湖就航の歌」を作詞した小口太郎は、諏訪湖畔の岡谷市湊出身。故郷の湖への望郷の念を、この琵琶湖に重ねたのではないでしょうか?(諏訪湖畔の釜口水門近くの公園にも、小口太郎の像と一緒に「琵琶湖就航の歌」の歌碑が置かれています)

 しかし、琵琶湖は大きいですね。しかも、琵琶の棹の先端にあたるであろう狭い部分の大津でさえこんなに広いのですから。胴の部分は、正に“うみ(淡海)”と呼ぶのが相応しいのだろうと感じました。