カネヤマ果樹園 雑記帳<三代目のブログ>

 ここ数年、漫才だけではなく、空前の落語ブームなのだとか。
ビッコミ・オリジナルでも、落語家修行を描く、尾瀬あきら(代表作に「夏子の酒」)作の「どうらく息子」の連載がされています。
・・・で(とマクラにもなっていませんが)、最近最もチケットが取れない落語家が柳家小三治師匠だそうです。

 以前、新聞のコラムに、若手漫才芸人達の速射砲のような言葉の洪水と、真剣すぎる?芸風に(見る方も緊張を強いられて)疲れてしまうというようなコメントがありました。それに比べ落語は間の芸術であり、小三治師匠の自然体での間の取り方が絶妙で、押し付けではなく、当日の客席に合わせて話(マクラの部分)の内容を変えていて、客は自然に引き込まれていくのだとか。

 そう言えば、昔(今では必ずしもそうではないかもしれませんが)、日本では西欧(特にドイツ)と比べて、定番のベートーベンに対し、ワーグナーの人気が無いのは何故か、というのをクラシック音楽の雑誌(レコード・ジャーナルだったか、音楽の友か?)で読んだ記憶があります。
そして、その理由は「休止符」だというのです。

ベートーベンの音楽と比べ、ワーグナーには「休止符」が少なすぎて、日本人の「好み」に合わない。日本人は、一瞬の「休止符」に安らぎを感ずるが、それがないと不安定と冗長さを助長するのではないか・・・。
というような趣旨だったのではないかと記憶(不確かなため、やや創作気味ですが)しています。確かに、ワーグナーを聴いてみるとナルホド疲れます・・・(音だけでなく劇の映像があれば違うのかもしれませんが)

 先ほどの「落語」と「最近のシャベクリ漫才」、ベートーベンとワーグナーの「休止符」。
やや乱暴に言わせていただければ、「休止符」=「間」であり、日本ではテンポがずれたりして間が合わないことを「間抜け」と称するように、日本人の精神構造には、一瞬の「静寂」を美(=尊ぶ)とする文化があるように思います。そして、それはスポーツでもプレーの連続するサッカーよりも、一球毎に間ができる野球の方が(かつては?)日本で好まれたことも同じ理由だろうと思います(ただ、近年のサッカー人気の要因は、そうした精神構造とは別の、地域密着=“おらが”意識とジャパンの愛国心に結びつけたからであり、この辺がその取り組みの遅れたプロ野球との違いだと思います)。

 最近の若者文化、漫才やラップなどの人気を見ていると、そうした「間」とは無関係なもの(年寄りには理解できなくても)も人気がありますが、「マヌケ」ではなくそれを「カッコイイ=Cool」と感ずる、新しい感性なのでしょう。

 ただ、かの数学者(にしてエッセイスト。数年前の大ベストセラー『国家の品格』と、第二弾とも言うべき近著『日本人の誇り』の著者)藤原正彦先生(ご両親は諏訪地方出身の作家新田二郎と藤原てい)に拠れば、欧米人はこの時期の秋の夜長の虫の音を雑音としか感じられない(注記)のだそうです。それと比べ、例えば本来獣よけの「ししおどし(鹿おどし)」の音と間(ま)でさえ「風流」と感じて庭園に設置(添水=そうず)して楽しんだ日本人の感性を、「マヌケ」にならぬよう是非大切にしたいものです。

 さて、落ちになったかどうかは別として、お後が宜しいようで・・・。

【注記】
同様に、「古池や 蛙飛び込む 水の音」(芭蕉)という有名な句を聞いて、日本人なら誰でも「静寂なる古寺の池にポチャンと飛び込む一匹のカエルと、音も無く拡がるその波紋」を連想しますが、欧米人はこの英訳を聞いて、ドボドボと大量に池に飛び込むカエルの大群(一匹に対し例えば100匹)を想像するのだとか。例えば、子規が蛙を「a fog」と訳したのに対し、人一倍日本を愛し理解したであろう筈のラフカディオ・ハーン=小泉八雲でさえ「fogs」と訳したと言います。ナルホド、民族の精神構造の違いでしょうか。