カネヤマ果樹園 雑記帳<三代目のブログ>

 先週、滋賀県の大津で仕事の関係の全国会議があり、二日間出張して来きました。名古屋までの中央西線の特急「しなの」の都合で、大津には2時間近く早めに到着するため、会場周辺を調べて集合時間まで1時間ほどのプチ観光に行ってきました。

 その場所は、義仲寺(ぎちゅうじ)。
琵琶湖の畔(ほとり)に聳える会場の大津プリンスホテルから徒歩7分程度とのこと。その名の通り(最初「よしなかでら」と読みました)、宇治川の合戦に敗れ、ここ粟津ヶ原(現大津市)で非業の最期を遂げた源(木曽)義仲のお墓と、後年その義仲を慕ったという松尾芭蕉のお墓があります。また境内の庵、翁堂の天井画は最近若い人を中心に人気の伊藤若冲とか。境内は国の史跡に登録されています。
近くまで来ていながら、県歌“信濃の国”にも謳われる旭将軍木曽義仲の墓前を素通りしては、信州人としての義理を欠きましょう。

 ホテルからの大体の方角を頭に入れて行ったつもりが、見当違いか、中々それらしき場所が見当たらず、たまたま通り掛かったご住職にお聞きしたところ、ご親切にもその方向に行かれるようで、途中までご一緒いただきました。旧東海道まで連れて行ってくださり、
「このまま真っ直ぐに行かはったら、すぐ道沿いに在りますよって。」
丁重にお礼を申し上げて、更に歩を進めます。ところどころ旧街道らしい風情ある建物が見受けられました。今では車の行きかう幹線道路から外れたこの道を、往時はひっきりなしに旅人らが歩いていたことでしょう。“行きかう年もまた旅人なり”でしょうか。
 義仲寺は思いの外小さなお寺で、ひっそりと佇んでいました。
入り口横の地蔵堂には、地元の人に慕われたという小さな石の巴地蔵が居られます。入り口で拝観料200円をお支払いして、参拝客も居ない境内に入ります。後年尼僧となり、その卑しからぬ様子に名を問われ「名も無き女性(にょしょう)にて」と、義仲公のお墓の横に草庵を建て日々その菩提を弔ったという言い伝えで、その後この寺開廟の元となった巴御前を偲ぶ小さな巴塚(巴御前自身は90歳近くまで長生きされたそうで、木曽の旧日義村のお寺にお墓があったような気がします)、義仲公のお墓(木曽塚)、そしてここの庵にも何度か滞在し、旅先での遺言で義仲公のお墓の傍らに葬って欲しいという芭蕉のお墓と芭蕉翁を偲ぶ翁堂。そのお堂の天井の若冲の四季花卉画は、色落ちなどの傷みが激しいため別に保存され、現在はデジタル復元されたという複製画が飾られていました。そして境内には、芭蕉の有名な辞世の句や、俳聖を慕う門人を始めとする幾つもの句碑が狭い境内の至る所に建てられていて、その数20余り。この地で詠まれた句で有名なのは、翁を無名庵に訪ねた弟子又玄の、『木曽殿と 背中合わせの 寒さかな』だそうです。
 頼朝の平家討伐に呼応して木曽で挙兵し、牛の角に松明を縛って突進させたという逸話で有名な倶利伽羅峠の戦で平家の大軍を打ち破り、京の都から平家一門を追放しながら、後白河法皇に疎まれて同じ源氏の義経等の鎌倉方と戦わざるを得なかった義仲。
信濃の田舎モノ故か必ずしも都の人々には好かれず、また敗者故か義仲寺の侘しき佇まいに、芭蕉も偲んだであろう栄枯盛衰を想います。私も、それぞれのお墓にお参りをさせていただきました。