カネヤマ果樹園 雑記帳<三代目のブログ>

 今年の稲刈りも、そろそろ終盤でしょうか。
例年、田んぼが黄金色に染まると、鹿教湯辺りからの国道254号線の沿線に、何体もの案山子(かかし)が並ぶ「かかし祭り」が開催されるのですが、今年は中止なのか、いつもの場所にも案山子が見当たりませんでした。

 ちょっぴり残念に思っていたら、9月になって、会社のすぐ近くの道路沿いの田んぼの細い畦道に、自転車に乗った子どもが出現。
 「そんな所で自転車に乗るなんて、危なっかしいなぁ・・・」
ところが、車が近づくと、帽子もトンガリ帽で奇妙な格好。良く見ると、今にも動き出しそうなほどに、自転車に乗って上手にポーズをとった案山子でした。
 「いやぁ、お見事!上手いなぁ・・・!」
これぞ、“リアル案山子”でしょうか(カラスやスズメが騙されたかは分りませんが、人間は見事に騙されました・・・)

 9月20日東京芸術劇場での、読売日響による“オルガンと管弦楽の華麗な響き”と題されたマチネコンサート。
サン=サーンス作曲「交響曲第3番“オルガン付き”」を、是非一度生で聴きたいと思っていました。因みに、手持ちのLPとCDがミュンシュ&BSOと、同じくCDでデュトワ&OSM。60年近く前のミュンシュ盤が、我がイチオシ。
この交響曲は“オルガン付き”の名の通り、壮麗なパイプオルガンが演奏されるので、オルガン常設のホールでないと演奏出来ません。
松本のハーモニーホールにも、パイプ数3000本という県内唯一の立派なコンサートオルガン(第842話参照)が常設されていますが、700席の規模では、フル編成のオーケストラコンサート開催は数年に一度ですので、地元で聴く機会は殆ど皆無。国内でもパイプオルガン常設のホールが随分増えましたので、最近では、フランス系オケの来日公演や国内オケのフレンチ・プログラムなどで、この曲が演奏される機会が首都圏だけでも年に数回と、昔に比べると随分増えたように思います。

 気を付けてコンサート情報をチェックしていたところ、チケットの高い海外オケではなく、読響がマチネで演奏すると知り、しかも会場がパイプ数8000本という国内最大級のパイプオルガン(しかも裏表反転式)を備える東京芸術劇場で、オケが金管パートも定評ある読響ですので、発売日に早速ネット予約で(奥さまに)チケットを取ってもらいました。指揮は下野竜也氏(読響首席客演指揮者)。

 奥さまは別件があり、数日前から娘たちの所に先に行っており、私メは日帰りで当日早朝の高速バスで移動して新宿で待ち合わせ。その後、赤坂見附のホテルへ移動し、展望レストランで、下の娘の転職祝いと長女夫婦の結婚三周年のお祝いを兼ねての昼食会の後、彼等を残して、我々は池袋の東京芸術劇場へ向かいました。
 当日のプログラムは、J.S.バッハ「トッカータとフーガ」(ストコフスキー編)、プーランク「オルガン、弦楽、ティンパニのための協奏曲」(オルガンは芸劇オルガニストの小林英之さん、ティンパニが読響首席の岡田全弘さん)、そして休憩をはさみ、サン=サーンス「交響曲第3番“オルガン付き”」という、オルガンにちなんだ構成(この日のコンサートマスターは、元VPOコンマスのダニエル・ゲーテさん)。
有名な「トッカータとフーガ」も、ストコフスキーの編曲版で聴くのは初めて。大編成だと、何だかスケールが大き過ぎて、バッハではないような感じがします。8本並んだコントラバスの分厚い響きが印象的。
初めて聴くプーランク作品。管楽器の代わりに、大型管楽器とも謂えるパイプオルガンが用いられ、何となく宗教音楽的色彩のする作品でした。
この日使われたパイプオルガンは、裏表反転式の中で、仏ガルニエ社製のモダンオルガンとか。過去2回の演奏会の時は、バロック様式のオルガンが正面に鎮座していたと思いますが、今回はフランスの近代モノの作品なので、モダンオルガンが用いられたようです(何故か、仮面ライダーのショッカーを連想してしまいます)。
 今回は一回券発売初日に購入したのに、シーズン会員券先行発売で人気だったのか、S席はもう良い席が無く、A席でしたが、3階席の前から2列目のほぼ真ん中。巨大なオルガンと正対する席で、音響的にも大変良い席でした(ソロを聴くには少し遠いかもしれません)。
このサン=サーンスの交響曲第3番は、循環主題が用いられた2楽章形式で、各楽章2部構成。日本のオケにフランス的なエスプリを求めるのは難しいにしても、とてもガッチリした演奏でした。生で聴く「オルガン付き」は、弱音でのオルガンの重低音もお腹に響いてきます。第2楽章2部冒頭のオルガンも大迫力。後半部は連弾で弾く、ピアノのトレモロも印象的。オルガンに負けじと、読響の金管パートも好演。この曲の大迫力の演奏を初めて生で聴いて、大いに元気をもらった気がしました。
因みに、当日の配布されたパンフレット「読響月刊オーケストラ9月号」の中に、「名曲の深層」と題し「オルガン付き」が取り上げられていて(音楽ライターの佐伯茂樹氏)、『当時フランスの音楽界では、交響曲は辺境国と見做していたドイツのジャンルとして卑下し、パリ高等音楽院の学生が習作として書く程度だったが、普仏戦争で1871年にフランスがプロイセンに負け、その一ヶ月後に祖国の音楽を極めるべく、サン=サーンスは、フランクやフォーレ等と共に「国民音楽協会」を設立し、27年振りとなる、新機軸の交響曲の作曲を目指した』とありました(ロンドン・フィル協会からの依頼により、1886年ロンドンで作曲者本人の指揮で初演)。華麗なオーケストレーションのこの交響曲に、ベートーヴェンやブルックナーのような高貴な精神性が見られないことを以ってあまり評価しない向きもあるようですが、敗戦に意気消沈していた国民に向けた国威発揚が、もしその本質にあるのだとしたら、“元気が出る交響曲”のままで良いのだと納得しました。

 演奏中あろうことか、第1楽章最後の消え入るような弱音部で、それを掻き消すように携帯のアラーム音が・・・。指揮棒が降ろされると、すかさず、一斉に非難の咳払いが会場内を包みました。その怒りで、ホールに妙な一体感が生まれ、逆に引き締まった終楽章になったような気がします。
  
 アンコールは、バッハの「フーガト短調」(小フーガ)。
バッハの原曲にストコフスキー編を重ねたのか、最初オルガンのみで演奏が始まり、途中からオケが被さるように加わって、最後大音量でフィナーレへ。この日の一方の主役であるオルガンとオケ双方を併せた、ユニークな小フーガでした。
アンコール演奏前から、何度もカーテンコールが繰り返され、鳴り止まぬ拍手に、最後コンマスのゲーテさん以下、客席にお辞儀をされて演奏会は終了。

 プログラムは、翌日みなとみらいでも演奏された由。

 以前ご紹介した「槍ヶ岳に沈む夕日」(第856話)を送ってくれたKさんが、その際に、撮影ポイントの近くにあったからと一緒に送ってくれた、薄川の金華橋付近にあるという万葉歌碑の写真。考えてみると、これ、ちょっとおかしい・・・というか、“変”ではないでしょうか。

 彫られている歌は、万葉集の中でも恋の歌として知られる東歌(巻14)。
 『信濃なる ちくまの川のさざれ石も 君し踏みては 玉と拾わむ』
(信濃の国の ちくまの川の小石でさえ、あなたが踏んだ石ならば、宝玉と思って拾いましょう)
 問題は、この歌碑で「ちくま」を「筑摩」としていること。と言うのも、千曲市(上山田)に万葉公園があって、こちらにも同じ万碑があり、そちらは「千曲」となっています。
しかもこちらは、万葉学者として有名だった故犬養孝先生(阪大名誉教授。昔TVで万葉の和歌に節を付けて浪々と詠んでおられたお爺ちゃん)が訪れ、直筆の万葉仮名で揮ごうされた歌碑が立っているそうです(東歌に詠まれた千曲川が上山田とは必ずしも断定出来ないでしょうが、東日本最大級の森将軍塚古墳も坂城にあるので、小県の上田だけではなく、埴科や更科も古くから大和と関係した土地ではありますね)。
万葉集でも、恋の歌として有名なこの東歌は、万葉仮名では「信濃奈流 知具麻能河泊能・・・」で、確かに「ちくま」と読ませますが、どう考えても千曲川ではないでしょうか。むしろその方が自然だと思います。
と言うのも、筑摩は本来「つかま」であり、日本書紀には「束間」と書かれていて、行宮(天皇の別荘)が置かれるなど、大和朝廷との関わりは古く、天武天皇は束間への遷都まで計画し、調査させたそうです(崩御により中止)。また、筑摩神社や筑摩小学校は、今でも地元では皆「つかま」と古くからの読み方のまま(滋賀県にも筑摩=「つくま」という地名あるそうです)。
「ちくま」と読むようになるのは、明治維新での廃藩置県で「筑摩県」が出来た時、「つかま」とは一般的には読まれにくいので、「ちくま」と読ませたというのが通説です。
奈良時代に完成を見る律令制では、上田の小県(チイサガタ=アガタと言うだけに、科野国における最初のヤマト政権の勢力範囲として、出先機関が置かれた地域であることが想像されます)の郡などと一緒に、筑摩の郡(つかまのこおり)と記載されているので、途中から束間は筑摩と書かれるようにもなっているようです(一時、更科付近まで筑摩の郡に属していたこともあり、一説には千曲に筑摩を当てていた可能性もあるらしいとのこと。但し、その場合も今の千曲川を指す)。
信濃の国府は、後に小県(上田)から筑摩(国府跡は未だ発見されていないが、国司が祭祀をし易いように、国中の神様を一ヶ所に集めて国府の役所近くに祭った総社に通ずることから、松本の惣社付近と推定される)に移りました(但し、国分寺や国分尼寺は小県のまま)が、万葉歌碑まで勝手に持って来るのは如何なものか・・・(第一、天下に聞こえた千曲川とその支流犀川のまた支流である薄川では、詠み手としても枕にはしづらい筈です)。
「いくら松本が好きでも、この歌に筑摩を当てて、無理矢理松本へ持って来ちゃダメでしょ!」
もし犬養先生が生きておられたら、何と仰るか・・・。ちょっと、解釈が強引過ぎるのではないでしょうか?

 どんな経緯で建立されたものかは知りませんが、仮に、どうしても万葉歌碑が松本にも欲しいのなら、同じ東歌(巻14)の中に、
 『信濃なる 須賀の荒野に ほととぎす 鳴く声聞けば 時過ぎにけり』
(信濃の国の 須賀の荒れ野に鳴く ホトトギスの声を聞くと もう時が過ぎ去ったと思うものだ)
という歌があり、この須賀(万葉仮名では芋我と表記)の場所も諸説あるそうですが、平安時代にまとめられた「和名(類聚)抄」では、「筑摩の郡の芋賀の郷」として、「梓川と楢井川(奈良井川)の間の荒野」とあって、松本市の西南エリアが有力視されているようで(他には、下伊那郡下条村の菅野、塩尻市宗賀、上田菅平という説もあり、下条村には万葉歌碑があるとのこと)、実際に松本市内には菅野や新村付近に蘇我という地籍もあることから、むしろこの東歌の歌碑の方が、塩尻を含めた松本平にあっても不思議ではないと思われます。

 何も、無理して万葉歌を持ち出さずとも、歌碑の解説にもある通り、筑摩(つかま)の里には行宮が置かれ、天武天皇が遷都まで計画した程に、ここ松本が古くから開けた魅力的な地であったことだけで十分ではないでしょうか?

 松本をこよなく愛する市民の一人として、そんな歌碑があったとは知りませんでしたし、そんな個人的感想を持ちました。

(*「顛末記」を「日記」と改め、以前からの通し番号にて掲載しています)
 9月中旬の三連休。
少し落ち着いたので、延び延びになっていた、芝生ガーデンの草取りとシーズン最後の芝刈りをすることにしました。その後、奥さまは花壇の草取りと玄関の鉢の手入れもしたいとか。

 暫く振りの草取りだったため、芝生の一部にスズメノカタビラ(春先の生えたばかりの頃は、野芝にも似ているので見落とし易いですが、この時期になって穂が出ると一目瞭然)の群生が・・・。昨年は無かったのに、一体どうして・・・?ホームセンターで購入し、目土の代わりに撒いた川砂に種が混入していたのでしょうか?この雑草は、根からしっかり抜かないといけないのですが、これが結構厄介で、二人でほぼ一日掛かりになってしまいました。また、所々芝生が円形に枯れています。家内は、
「(番犬をしてくれていた)チロルがいなくなったから、どこかの犬が来て、オシッコをしたんじゃないの?」
と言います(犬が小用をすると、確かにその部分の芝が枯れるので、芝生の上で犬を遊ばせる時は要注意。その場合は、すぐに水を掛けて洗い流す=薄める必要があります)が、そうであればドーナツ状にはならないので、今年はお盆辺りから降水量が多かった(松本は平年の1.7倍)ために、おそらく通気が悪くて蒸れたのだろうと思います(その場合は、エアレーションが必要かもしれません)。
日本の梅雨時の高温多湿期の蒸れが芝生には良くないと云われていますが、元々雑草(洋芝は牧草)である芝は結構丈夫なので、これまでもそうだったように、来年は多分元に戻るだろうと思います。
二日目に残りの雑草を取ってから、ほぼ二ヶ月振りの芝刈りです。もっと早く定期的にやっていれば、我が家の50㎡程の芝生だと2時間足らずで終わるのですが、些か伸びていたので半日掛かりとなりました。もう秋なので、洋芝と違って、日本芝の姫高麗芝はこれからはそれ程伸びないでしょう(高麗芝は秋には紅葉します)から、今シーズン最後の芝刈りでしょうか。電動芝刈り機で刈った後で、端を芝用のハサミでカットして終了です。
春先になったら(通路等に拡がらないように)、園芸店からのアドバイスで購入したターフカッター(意外と安く1700円)でエッジを切らないといけません。
 芝刈りの間に、花壇の草取りは奥さまにお任せ。
芝刈りが終わってからお手伝いです。雑木林ガーデンの隅に植えてある、西洋アジサイに似たスノーボール(ビバーナム・スノーボール。スイカズラ科)の枯れた花を全部切り落とします。樹下のクリスマスローズには新しい芽がたくさん出ていました。来春が楽しみです。
最後に、夕方になってから芝生と花壇にたっぷり散水して、作業終了。気分も含めて、スッキリしました。
 まだ秋のお彼岸前ですが、今年は残暑も無く、空は既に秋の空。
先日、県外から来られた方が、「長野の空は青いですね」と感慨深げに仰っておられましたが(果たして違いがあるのかどうか、地元民は確信は持てませんが)、澄んだ秋の空でした。

 先月末、諏訪への外出(会議終了後の懇親会設定のため、一旦自宅へ戻り、松本から電車で)の折、ちょうど昼時でしたので、列車時刻の都合上、松本でのランチと相成りました。
既に駅ビル(MIDORI)にいたこともありますが、ここの4階食堂街の「松本からあげセンター」のラーメンが、「意外と美味しいですよ!」と会社の同僚から以前薦められたこともあり、3階の改札フロアで発車時刻を確認してから4階へ向かいました(以前は餃子専門店だった筈の一角が「ご飯屋」という新しい店になっていて、生産者直送という卵かけご飯に興味を惹かれましたが、ここは初志貫徹)。

 結構な混み具合。カウンター席が一杯だったこともあり、恐縮ながらテーブル席へ案内いただきました。
女性お一人様、或いはグループでも、皆さん普通に「からあげ定食」を食べられています。一年程前に初めてランチで入った時には「からあげ定食」を食べましたが、こちらはどのメニューも結構なボリュームです。また、リタイア組と思しき中高年の方々が、独りで、或いは友人と昼から飲んでおられましたが、羨ましい限り。そうしたセットメニューもあって、電車に乗る前とかの“チョイ飲み”にも向いた店のようです。
この店は、最近中信地方を中心に県下に多店舗展開している「豚のさんぽ」グループの唐揚げ専門店で、3年くらい前に駅ビルにオープン(上田にも出店)。
松本市内では、最初に渚ライフサイトに豚生姜焼きの「豚さん食堂」、松本駅お城口を出た横の長屋形式の飲食店街「ヴェルデ」に、焼きトンとハイボールの「豚みむら」(以前、移動の都合で、飲み会開始前に小一時間あったので、こちらで時間調整の“チョイ飲み”をしたことがあり、串は小振りでしたが美味で、価格もリーズナブルでした)や、最近では、中南信ではお馴染みの「焼きたてや」とのコラボで、たこ焼きとハイボールの立ち呑み屋などを矢継ぎ早に展開しています。因みに「豚のさんぽ」グループ一号店は大町とか(系列も不明で、突然現れたような不思議な会社です)。

 から揚げ定食(税抜780円)にミニラーメンが付いた「デラックス定食」(同980円)などのセットメニューもありましたが、食べ切れる自信が無く、またラーメンをしっかり味わいたい思いもあって、「からせんラーメン」(同680円)を注文。
程無く運ばれて来たラーメン。鶏肉専門店らしく“鶏ラーメン”といった趣。勿論鶏ガラで出汁を採り、チャーシューの代わりに、ホロホロの鶏のつくねが載っています。野菜は、煮キャベツと、カイワレにモヤシ、白髪ネギとイリゴマがトッピング。麺は中太麺。
透き通ったスープは生姜をかなり効かせ、鶏ガラと野菜の甘みが特徴のアッサリスープ。麺が、好みの固茹でなのが個人的には有難い。アッサリで大変優しい味わいです。
多分煮込んだキャベツからだと思いますが、かなりスープに甘味を感じます(定食に添える千切り用に毎日大量に使った残りであろう、ザックリ切ったキャベツの芯が、出汁を採るには良いですが、そのまま茹でた具でも入っているのは些かゲンナリ・・・)。何となくヘルシーに感じる味付けは、女性には好まれるかも知れませんし、また唐揚げや“松本B級グルメ”の山賊焼きと一緒に食べるには、生姜の良く効いたアッサリ系スープは相性が良いのかもしれません。しかし、個人的にはアッサリし過ぎで、また生姜も(“生姜ラーメン”とでも呼べそうな程に)一口目から最後まで気になり、好みの味ではありませんでした(胡椒で多少味が変わるかもしれませんが、普通のテーブル胡椒しかなく、今回胡椒は使わず)。
でも、鳥唐揚げの専門店らしい特徴を出すべく工夫されていて、こういう味のラーメンがあっても良いと思います。

 全体的にメニューの値付けは些か高目の様な気もしますが、ボリューム感はあり、テーブルには“ガリもやし”(寿司店の酢漬けの“ガリ”のモヤシ版)がフリーで置かれ、定食に添えられる千切りキャベツのお替わりは無料サービス。店員の方々もテキパキしていて、店内も活気があります。店頭には惣菜屋さんのような専用カウンターもあり、唐揚げや山賊焼きの持ち帰りも可能。惜しむらくは駅ビル(テナントショップの閉店は夜8時。食堂街も9時だったような・・・)のため、確かラストオーダーが8時と早いこと。
お土産に買って帰る際の“チョイ飲み”には良いかもしれませんね。

 5年前、書店の文庫本の新刊コーナーで何気なく手に取ってハマり、ここで遂に最終巻となる第10巻「天の梯」まで、随分と楽しませてもらった高田郁著「みをつくし料理帖」(時代小説文庫)。
一回目こそ、お盆休み中の晴耕雨読で、(高校野球には目もくれず)一日で読み終えてしまいましたが、その後はじっくりとゆっくりと、ここで計三回半読み返しての“読了”と相成りました。
(以下、もしこれから最終巻を読もうと思われる方は、先入観なく読めるように、ここから先はどうぞ読み飛ばしください)

 澪だけではなく、ご寮さんや佐兵衛も含め、登場人物それぞれが皆辛さを心に抱えつつ、袖擦り合った赤の他人同士が、やがてお互いを慮り、助け合いながら、それぞれ(健坊や太一まで)の進む道を推量出来たのも良かった。
因みに、個人的に今回一番イイなぁ・・・と感じたのは、本筋ではありませんが、第二章の中で、一ヶ月間、澪に僅か十六文の安価な弁当を毎日十個頼んだ江戸城内の貧しい下級武士の徒組の若侍が、最後の支払いの際に、澪に礼を述べる件(追記その2)。藤沢文学にも似た、凛とした清々しさを感じました。
最後は、「ちょっと急ぎ過ぎでは?」、或いは「もうちょっと読者を余韻に浸らせてもイイのでは?」・・・・などと、贅沢な不満も感じないではありませんでしたが、小松原こと小野寺の陰なる助けや、旦那衆の支援もあり、無事「雲外蒼天」を果たし、大阪天神橋を二人して渡る件を以って大団円としたのも良かった。

 付録として、いつも通りに今回登場したレシピ紹介の後に、恒例のおりうさんが読者からの質問に答える「瓦版」(版元は坂村堂とか)の中で、いずれ「登場人物それぞれのその後を特別巻として発刊予定」との告知がありました。そして何よりも、何の説明も無く(「付録の番付表もお見落としなく!」というおりうさんの念押しはありましたが)、巻末に二つ折りで付けられた、文政十一年と記された一枚の「料理番付表」。

 大阪に澪たちが戻った文政元年から数えて十年後となる番付表が東西となり、江戸で後を託された政吉が今回登場した「親父泣かせ」を昇華させたのであろう「自然薯尽くし」で「つる家」が、そして大阪では、源斉の暖かな助言を得て「食は、人の天なり」と、医食同源の「病知らず」を完成させたのであろう、清右衛門命名の四ツ橋「みをつくし」が、それぞれ東西の大関を張り、行司役の勧進元が、佐兵衛率いる「一柳改メ天満一兆庵」となっているのも、(特別巻を待たずとも)その後のそれぞれの精進振りが容易に想像出来て、清々しい気分になれたのが何とも心憎い。読後の幸福感が倍加された番付表でした。

 このたった一枚の番付表で、先ほどの些かの不満も鮮やかに払拭されて、「ウーン、やられた!」・・・お見事です。
【追記】
きっと一年後くらいでしょうか?特別巻も楽しみにしています。
その前に、関西の友人が「こっちも凄くイイよ!」と勧めてくれた「銀二貫」を、TVでは少し見ましたが、「みをつくし」も終わったのでちゃんと読んでみようかな・・・西の番付表にさりげなく、小結に西天満「井川屋」が、前頭には船越町「真帆屋」の名前もありましたし・・・。
付録の番付表・・・「よう考えはりましたなぁ」。ご寮さんの声が聞こえて来そうです。
【追記その2】
*ルール違反ですが、今回が最後に尽き、その部分を掲載させていただきます
 このひと月、そなたの弁当でどれほど慰められ、励まされたか知れない、と丁寧に礼を伝える。
「同じ内容に見えながら、(略)細かな工夫が凝らしてあった。徒組は皆そろって貧しいが、貧しいからからこそ、このような心のこもった旨い弁当の味わいは身にも胸にも沁みた。城内では色々な者から入手先を問われたが、我らは一切、明かさなかった。もしかすると大きな商いに結び付いたかもしれず、それは申し訳ないと思うが」(略)
「持ち帰り専用の弁当屋、という商いの道もあるだろうが、そなたの行くべき道ではない、と我らは思ったのだ。冷めてもなお、これほどまでに旨い。そなたの料理は器に装われ、湯気の立っている方がおそらく、もっと似合う。いつか、そうした料理を口にしてみたい。我らはそれを楽しみにさせてもらう」(「天の梯-第二章 親父泣かせ」119~120頁より)

 いよいよ動けなくなり、その後何度も「あぁ、もうダメかも」と思わせながら、その後また通常の呼吸に戻って、時に悲しそうに泣きながらも一週間頑張っていたチロル。ただ体を撫でてあげるだけで、何もしてあげられませんでした。ナナも、どうして良いのか分らず、いつものようにじゃれることもなく、大人しく、ただ茫然と眺めているだけでした。
その間、私は(休肝日の)一日だけでしたが、その後は「酒飲みは信用出来ない」と、家内が夜中ずっと添い寝をしてあげていました。

 そして、先週末の明け方、とうとう眠るように息を引き取りました。
足腰が立たなくなってからも、体を支えてあげて数メートル歩くだけでしたが、亡くなる前日まで毎朝抱きながら散歩に行っていました。そして、ナナだけの散歩になったこの数日間。散歩用のリードなどを準備しながら、
「そうか、チロルはもう居ないんだ・・・」
と、今改めてその喪失感に襲われています。

 18年前、新築の我が家の玄関に、生まれてすぐに捨てられていたチロルです。
朝4時過ぎ、学校行事の集合時間に長女を送って行こうと玄関を開けると、置かれた段ボール箱の中で、そぼ降る雨に濡れて体が冷たくなりかけた子犬がいました。家内と次女が必死に体を温めて、やがて回復し、その後元気に家の中を駆け回るようになりました。
そして、娘が名付けた名前は“チロル”。
てっきり、子犬の頃はセントバーナードのような模様だったので、「少女ハイジ」のチロル地方からの連想とばかり勝手に思い込んでいたのですが、後年聞いた時に娘が教えてくれたその理由。
「安いけど、皆に好かれているチロルチョコ」からの“チロル”とか。血統書も無い、捨てられていた雑種の子犬の行く末を思いやっての命名だったのでしょう。次女は当時小学三年生だったと思いますが、子供ながらのセンスに、その時は感じ入ったものでした。

 臆病で、警戒心が強く、外の庭に来るネコや鳥、はたまた風に揺れるお祭りのしめ縄にまで吠えていたチロルです。
花火の音や雷が怖くて、雷が鳴ると、家内から禁じられている二階に上がって来て、私の足に体を摺り寄せて離れなかったチロルです。
イタズラをして叱られると、罰が悪そうに伏せのポーズで、上目がちに「ヨシ!」と言うのをじっと待っていたチロルです。そのOKサインがなかなか出ないと、催促するように前足で突いてOKをねだったチロルです。
朝の散歩が大好きで、休みの日など寝坊をしていると、明るくなってから、禁じられている二階へそっと上がって来ては、(家内を起こさぬよう)吠えずに前足で私の体を何度も突いて起こしてくれたチロルです。
シャンプーが大嫌いで、洗う間、風呂場を何十周もしていたチロルです。
車に乗るのが大好きで、車に載せてあげると喜んで、窓から顔をのぞかせていたのに、最後は残念ながら車には載せてあげられませんでした。

 18才の天寿を全うし、天に召されていきました。
チロルにとって、幸せな一生だったかどうかは彼女次第ですが、少なくとも私たち家族には、十二分にたくさんの幸せを運んで来てくれました。

 ありがとう、チロル。もう頑張らなくてイイからね。サヨナラ・・・。

 昔、子供たちが生まれた頃、外出の際に使ったり、家の中でも移動するのに使ったりして重宝した、自然素材で編んだ乳幼児を寝かせて運ぶカゴ(パンを入れるカゴの大型版のイメージでしょうか?)。

 チロルが腰を支えて立たせてあげないと自由に起き上がれなくなって、家内が、ホンの数日かも知れないけど、いずれ寝たきりで動けなくなったら夜が心配なので、2階の寝室に連れて行って様子を見守りたいとのこと。
「昔使った、赤ちゃん用のカゴがあればイイね」
と言うので、松本駅前のアリオに「赤ちゃん本舗」が入っていることから、先日アリオに行ったついでに探してみましたが、見つかりませんでした。
店員の方に家内が聞くと、「お孫さんへのプレゼント用ですか?」
そりゃ、(中年夫婦を見れば)そうだよなぁ・・・と思いつつ、(愛犬用とも言えずに)「えぇ、まぁ・・・」。
見せてくれたのは、近代的な機能が盛り込まれた商品でしたが、帯にも襷にも長過ぎ・・・でしょうか?

 「もう、あんな前時代的なモノは売っていないんじゃないの・・・?」
 「あら、そうかしら?シンプルで、安全で、あれが一番使い易いのに・・・」
もしかしたら、松本の「みすず細工」のような竹細工や、民芸店などにあるのでしょうか?

 そこで、それでも・・・と思い、ネットで適当に単語を並べて検索してみたら・・・ありました!
「ベビー・キャリー・バスケット」・・・おお、ナルホド!
“Baby Carry Basket”とは、その名の通りです。
中国製でしたが、何でもトウモロコシの皮で編んだというカゴで、こちらの意図を先読みするように「ペット・バスケットとしてもご利用いただけます」との宣伝文句も。おお、ナルホド!今でも買えるんだ・・・。
「やっぱり、いるんだなぁ、同じこと考える人が。ニーズはあるんだ!」
と妙に感激、感心しました。
 やっぱりシンプルが一番。自然素材ですので(中国製とは云え、多分)安心です。
長さ70㎝程度の大きさで、値段は2千円から9千円くらいまで(何が価格差なのか、写真だけでは良く分りません)。そこで、家内は一番大きなのを注文したとのこと。
後日届いたバスケット。確かに、昔子供用に使ったのとほぼ同じでした。

 チロルが嫌がらずに中で静かに寝てくれるといいのですが・・・。

 結局、一度試しに使ったきり。形状から、丸まって寝ないといけないので、ダランと寝たきりになってからは、むしろ却って寝にくいようです。

 そして今日、チロルの棺になりました。

 京都が発祥の「餃子の王将」。
確か山科に本部があり、当時も市内に何店舗も展開していて、学生時代は良くお世話になりました。付け合せに千切りキャベツが添えられえていた、ジンギスカンや鶏唐揚げ定食。確かパーローとかエンザーキと注文を通すのに店内で呼称していたような・・・。それに、ニラレバが好きになったのも、ここのお陰かもしれません。当時(もう40年近く前になります)は、定食が200円台、餃子は一人前120円か130円だったような気がします。本当に貧乏学生の味方でした(一番安かったジンギスカン定食など、「何の肉か分らん」などと陰口を叩かれながらも、良く食べました)。
そのため社会人になってからも、出張で京都に行く機会があると、懐かしくて京都駅周辺を探しましたが、その時は残念ながら見つかりませんでした。

 その後、創業者一族から独立したという「大阪王将」との“のれん騒動”等もあり、県内で初めて長野駅ビル内に「大阪王将」が出店し、何年か前に外出した際に、「王将」の文字に惹かれて入ってみましたが、餃子もニラレバも、記憶にある「王将」の味ではありませんでした。そのため、庄内にも松本最初の「大阪王将」が出来ましたが、一度も行ったことはありません。

 新盆のお参りに来ていただいた知り合いの方から、島内に「餃子の王将」が出来たと教えていただきました(何度も、「大阪王将」じゃないですよネ!」と、念押し確認)。
ネットで調べてみると、何と、松本駅前のアリオのレストラン街にも「餃子の王将」の直営店が既に出店済みで、その後開店した島内の店はフランチャイズとのこと。知りませんでした。そうと分れば、やはり懐かしくて、アリオの直営店の方に行ってみることにしました。

 夕刻の打ち合わせで外出した後で、駅前のアリオへ立ち寄り、いざ王将へ。
メニューは昔とは違うようですが、懐かしいロゴが目立ちます。7階の食堂街にある店舗は、平日ということもあり、それ程の混みようではありませんでしたが、学生さんグループなど、客層はやはり若い方が多いようです。
(この食堂街に来たのは。おそらく10数年振りだと思いますが、浅間温泉に本店のある豆腐料理の「まるゐ」や蕎麦の「砂場」が、30年近く今でもテナントとして店を続けているのは立派の一言)
早速、私メはニラレバと餃子の定食セット(+生ビール)を注文。奥さまは、野菜炒め単品と餃子。
暫し待つ間に店内を観察。昔(京都)の店舗はカウンター席ばかりで、その場で調理していた厨房が目の前にありましたが、今ではテーブル席がむしろ多く、昔に比べはるかに清潔です。でも、目の前で調理する分、中華鍋を炒める音や注文を復唱する声が飛び交い、昔の店の方が活気はあったかも・・・。でも店員さんはテキパキしていて、何となく昔の雰囲気も感じられました(事件もありましたが、会社は頑張っているようで何より)。
 餃子は一人前6個で220円。今の時代でも十分に安い方でしょう。
スープとキムチが付け合せで付いた定食セットで900円ちょっとでしたので、ニラレバ定食とすれば700円程度でしょうか。
ニラレバは、昔の味の記憶が無く、些か塩味がキツ目に感じました(若者には良いかもしれません)。でもニラやもやしなどの野菜はシャキシャキしています。レバーも、昔は(もっとシンプルで)そこまで手を掛けていなかったように思いますが、下味を付け、片栗粉を塗してさっと揚げてあり、柔らかくてジューシー。
餃子は・・・そう、この味です。学生時代と変わっていません(舌の記憶では)。学生時代を懐かしく思い出しました(当時は、薄緑色/青磁色?の安っぽいお皿でしたが、さすがに変わっています)。
奥さまは、独特のシーズニングの効いた餃子を含め、子供の頃から親しんだテンホウの方が好みだそうですが、王将の餃子も高評価で何より(また来れそうです)。
ただ、今でも価格含め十分庶民的ですが、さすがにメニューにはジンギスカン定食などはありませんでした。

 地元松本でも、「餃子の王将」が楽しめるようになりました。