カネヤマ果樹園 雑記帳<三代目のブログ>

 日本にとっても熱き17日間だった、平昌オリンピックが熱戦に幕を下ろしました。
銀メダルの柔道選手やレスリング選手の謝罪に「頑張ったんだから、謝る必要なんてない!」との声が挙がったリオでのマスコミ報道を契機に潮目が変わり、それまでの様にマスコミが勝手に煽った後での“掌返し”報道が減った様な気がします。
今回も、皆頑張った!本当に「お疲れ様でした。感動をありがとう!」でしたね。

 こうした中で、個人的に一番感動したのは、やはり小平奈緒選手が女子500mの時レース後に韓国の李相花(イ・サンファ)を抱き寄せてお互いの健闘を称え合った場面でした。それを見た客席で応援していた小平選手の父上も、 「おっ、イイじゃん、イイじゃん!サンファと奈緒が・・・」
と、金メダルの瞬間よりもこの場面を一番喜んでいた様に感じられました。お互いファーストネームで呼び合う友人として、双方の家庭にもお互い招待するほどの中だったとか。
小さい時から、スケートの大会に出掛ける娘に両親は「ちゃんと挨拶をしなさい!」。そして勝ち負けよりも「(自分から話しかけて)友達を作って来なさい!」と口うるさく言っていたといいます。正に“この親にしてこの子あり”。
小平選手が練習へ取り組む態度を変えたキッカケは、オランダ留学中に「神様からもらった時間を大切にしなさい!」と送られて来た父親からの言葉だったとか。「素敵なお父様ですね!」というインタビュアーの言葉に、照れ臭いのか、「イエ・・・」とはにかむ小平選手。「あぁ、普通の父親と娘なんだ」と、何とも微笑ましく感じました。

 信州大学卒業時就職口が無く、「長野の選手が、地元長野で働けないのはおかしい!」と、リハビリ先だった縁で理事長が判断して採用を決めたという松本市の相澤病院。「神様のカルテ」のモデルであり、救命救急センターにも指定されている地域の中核病院でもあります。確かに(どこも小平選手を採用しなかったという)最終結果はそうなのですが、必ずしも皆無だった訳ではなく、経緯には多少説明が必要だと思います。
小平選手は、中学時代から遠く離れた宮田村のスケートクラブの新谷コーチ(お嬢様である志保美さんも、2010年バンクーバー五輪のスピードスケート500mに出場した日本のトップスケーター)に指導を仰ぐために毎日伊那谷まで通い、高校でもその指導を継続するためにスケートクラブの無い伊那谷の高校に進学します。同様に、大学も結城コーチの指導を仰ぐために、当時は全く強豪校でもなかったのですが、同コーチの所属する地元の信州大学に進学。既に日本のトップスケーターでもあった高校卒業時や大学卒業時も、あくまでその結城先生の指導を継続するために、地元の諏訪や山梨の実業団の強豪チームからの誘いも断ります。実業団には監督やコーチなど、それぞれ専属で指導する体制が出来上がっており、一人だけ個別、或いは外部の指導を受けることは組織上許されなかったでしょう。実際、同じ茅野市出身で先輩スケーターである吉井小百合選手(同じくバンクーバー五輪女子500m5位)は地元下諏訪の日電産サンキョー所属でした(そのサンキョーも、ソチでの日本スピードスケート惨敗を受け、小平選手とほぼ同時期にスケート王国オランダに渡り集団指導を受けていて、その時の現地コーチが現日本チームのヨハン・デビットコーチであり、それが縁でその後に日本ナショナルチームに招聘されますので、サンキョーもそうした意味で先進的なチームだと言えます)。
 信大卒業時、結城先生から私がいた会社にも問い合わせがありました。私は当時人事部で採用を担当していた訳ではありませんが、採用を担当していた別の部長から「採用は無理ですよね?」と念押しでの相談を受け、「うん、ウチじゃ無理だよね・・・」と応えた記憶があります。当時も会社にはパラリンピックに出る社員もいましたが、全員普通に業務をした後の就業時間外や休日に練習する完全なアマチュアリズム。所謂実業団スポーツとは一線を画していたからです。従って、その後彼女が企業スポーツとは全く無縁の相澤病院の所属になったと知り、少なからず胸を撫で下ろした記憶があります。
そんな経過もあって、その時の些かの後ろめたさもあってか、その後の彼女の活躍が地元で報道される度に「良かったなぁ・・・」と人並み以上に喜んでいました。ですから、今回の金メダルは何よりの感動でした。

 1956年のコルチナ・ダンペッツォでの猪谷千春さんのアルペン銀メダルは奇跡の別格として、1972年の札幌“日の丸飛行隊”の表彰台独占まで、金メダルどころか一つもメダルの無かった冬季オリンピックでの日本チーム。
女子選手では、1960年スコーバレーのスピードスケートに出場した長野県南牧村出身者でもある長久保初枝さん(500、1000mで5位。3000mは4位と全て入賞し、メダルまでもあと一歩)が草分け。
長野県出身者のメダリストは、1992年のアルベービル、94年リレハンメルのノルディック複合の団体連続金メダル、リレハンメル個人銀メダルの河野孝典さんが初(ラージヒルで西方仁也さんが団体銀)。そして、今回の小平さんが、長野県出身者として個人での初めての金メダルだそうです。

 翌日TVの「ミヤネヤ」で、金メダル確定後すぐに配られた地元紙の号外に、
 「早過ぎる!絶対にレース前から準備してたんだろっ!」。
 「イイじゃん!何がイケナイ訳?」
と、個人的に突っ込みたくなりました。
実際、翌日出身市茅野市役所に飾られた「祝!金メダル」の垂れ幕(注:懸垂幕)は、レース前から金メダルを確信して作成済みだったとか。
それだけの絶対女王。しかし、支援者の皆さんや地元の期待も一身に背負って、勝って当然を実践することがどれほど大変だったのか・・・(家内の実家も茅野市ですので、南大塩公民館や茅野北部中学などがTVの全国ニュースに登場したのは実に感慨深いものがありました)。
その意味で、パーフェクトだった宮原知子選手。大怪我を乗り越え、最後に大技を繰り出した平野歩夢選手。痛み止めを飲んでいることなど微塵も感じさせなかった羽生結弦選手。確かに悔し涙もたくさんあったけれど、笑顔だった岩淵麗楽選手や坂本花織選手・・・。みんな凄い、アッパレ若造!ですね。

 リンクにたくさん投げ込まれたプーさんについて聞かれた羽生選手。
 「プーさんは、森に帰します」。
“そだねー”・・・でしょうか。
【注記】
小平選手のメダル獲得を祝して掲げられた、所属先のある松本市役所と(奥さまに実家に行った時に撮って来てもらった)出身地である茅野市役所の懸垂幕です。やったね!オメデトウ

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