カネヤマ果樹園 雑記帳<三代目のブログ>

 これまでのコロナ禍報道を見るにつけ、強制力のない緊急事態宣言をずっと批判し続けてきたマスコミ。また、人海戦術での対応が手間取り、すぐに振り込まれない給付支援金に対して政府を批判する人々。しかし、「ちょっと待てよ!!」と言いたくなります。
前回のブログ(1544&1543話)に、いみじくも私も書いたのですが、
『強制力・罰則の無い緊急事態宣言をザル法と蔑む識者や報道も目に付きますが、国家総動員法以降の反省で、国家に出来るだけ権力を持たせないことを我々国民が選んだ以上、この国は民度を以って一人ひとりがすべきことをするしかないのだと思います。』
(その自国第一主義の極地としての中華思想に凝り固まった、相変わらずの自分勝手な振舞はともかくとして)中国が世界に先駆けて一早く感染拡大を防止したのは、或る意味共産党の独裁国家であり監視社会であるから。中国の様に、人権を無視し、強制力を持ってしかウイルスを排除できないとすれば、この緊急事態を機に世界は全て独裁国家になるべきなのか?

 そして、いわゆるマイナンバーの「国民総背番号制度」導入に際し、当時はプライバシーが侵害される恐れがあるとして野党が反対し、マスコミも煽った結果、たった16%しか普及していないマイナンバー。その結果、個人と世帯、銀行口座やクレジットカード情報などがオンライン化されていない以上、人海戦術で対応せざるを得ず、決済までに時間が掛かるのは当然のこと。

 民主主義が保障する「権利と義務」。権利を得るためには応分の義務を果たす必要がある・・・この当たり前のことを、殊更に自分の権利を主張する前に、我々はもう一度その原則に立ち返るべきではないか。もしそれが出来なければ、権利が保障されずに義務だけを強いる状態(社会→国家)になるかもしれないことを歴史が証明しています。そうならないための民度が、今こそ我々一人ひとりに求められているのです。

 同様の主張を「東洋経済」で見つけましたので、抜粋します。
(このブログを掲載しているサイトではアクティブにならないかもしれませんが、参考に今回もURLを貼付しておきます)
https://news.infoseek.co.jp/article/toyokeizai_20200526_352607/

 『日本は新型コロナにかかわる人口対比の死者数がアメリカや欧州諸国に比べて圧倒的に少ない。ところがこの間、ネット上には「ロックダウンをしていない日本は危ない」「PCR検査が不十分な日本はもう終わった」などという記事があふれた。日本よりもずっと人口対比の死者数を多く出している国の対策と比較して「日本はダメだ」という記事のオンパレードだ。
最近のメディアと読者、国家との関係には危ういものを感じる。国に対してコロナ対策が緩すぎるとして、ロックダウンを求めたり、PCR検査を国民全員に行って陽性者の「隔離」をせよと提案したり、国民を監視する海外の政策を推奨したりすることだ。
権力の乱用を防ぐための政府批判はもちろん活発に行うべきだ。たとえば、税金の無駄遣いと思えるアベノマスク、政権寄りの検察官の定年延長を可能にする検察庁法改正案への批判などだ。しかし、政府に対し極端な私権制限を要請するメディアや一部の学者たちと、それに同調する人々の動きには賛成できず、危険なことだと考えている。』

 『重要なのは患者の治療であるのに、なぜか検査が国民の一大テーマになってしまったのは、テレビの影響力が大きいようだ。コメンテーターがコロナ危機を戦争に例えて、旧日本軍と同様に負けるなどと叫んでいるが、こうした煽動こそ危険だ。太平洋戦争前夜にマスコミが積極的に国民の不安と不満を醸成していった状況に似ている。
「マスコミに煽られ、いったん燃え上がってしまうと熱狂そのものが権威を持ちはじめ、不動のもののように人々を引っ張ってゆき、流してきました」(半藤一利著『昭和史』平凡社)。
煽動の甲斐あってか、一部の経済学者たちが国民全員を対象に新型コロナに感染しているかどうかのPCR検査を行って、「陽性であれば隔離・治療へ」「継続的な陰性は社会活動・経済活動へ」との提言を出している。内容を読むと、個人の意思や選択権などないか、あっても簡単に従わせることができるという傲慢な前提が置かれている。国家規模のGDP(国内総生産)の維持が重視され、国家経済のために「国家総動員法」と同じ発想で出している提案なのだ。』

 『あえていうが、安倍政権に強力なリーダーシップなど求めない。求めるのは情報開示である。新型コロナウイルス感染症専門家会議のどのような議論を経て対策が決められたのか、開示が不十分な点は気になる。一方で、専門家会議が「新しい生活様式」といった大仰な言葉で、日常生活の各場面に及ぶ指導を列挙するのは行きすぎだ。
専門家会議の議事録をどんどん公開し、それを受けて、個々人が必要だと思う感染防止策を実施し、経済活動の再開の仕方を工夫していくというのが民主主義下のコロナ対策の望ましい姿である。
そして、ほかの人の判断の自由も尊重するべきだ。「自粛警察のターゲットにならないように注意しよう」というアドバイスも散見されるが、それは本来順序が逆だ。意見の異なる人への嫌がらせやいじめは、それをする人のほうが戒められるべきだ。』
(※5月25日発売の週刊東洋経済のコラムに加筆しました。大崎 明子:東洋経済 解説部コラムニスト』)