カネヤマ果樹園 雑記帳<三代目のブログ>

 マンションへの引っ越しを機に、以前使っていたTVを最新モデルに買い替えたのですが、リビングのSONYの有機ELは平面スピーカーが搭載されていてこれが結構良い音がするので、今流行りのサウンドバーの追加は不要。しっかりと低音も出ています。
そして、寝室は大きなTVは置けないので、スペース的には40インチ程度が限界。しかし、このサイズでは有機ELは勿論ありませんし、4K液晶モデルもありませんでした。店頭で見比べてみると、有機の高精細さの画面は当然として、液晶の4Kと2Kを見比べると、やはり画素数4倍の差は一目瞭然の違いがありました。そこで、一年前当時4Kの液晶TVで40インチサイズに近かったのがシャープの43インチとパナソニック42インチ、それとヤマダ専用のフナイの43インチと3機種だけでした。
価格で言えばフナイが一番お買い得なので、個人的には寝室で見るならフナイでもイイかと思ったのですが、家内はブランドもですが本来は40インチがMaxの筈なので43インチの大きさに難色。個人的にはフナイは定年前の何度かの米国(西海岸ばかりでしたが)出張時に、ロスの街中で看板を良く見掛けましたし、米国内で一番売れている日本のTVブランドということも知っていましたので然程違和感はありません。ただ、大きさとなると・・・?そうかと言って、40インチの2Kではやはり見劣りがしてしまいます。そこで候補の中で一番小さい42インチのパナのBRAVIAの4Kモデルにしました。このモデルは当時既に製造中止が決まっていて、後継モデルは43インチにサイズアップされることになっていました。そのため、スペック的には最新機種と比べれば多少見劣りする部分はあったのですが、そこは4Kの中でのサイズ優先となりました。

 寝室のTVには、前の家で使っていたホームシアターシステムYAMAHA AVX-S30Wをそのまま接続していましたので、今回のBRAVIAでも使うことにしました。このヤマハのホームシアターシステムは、10年位前に購入したのですが、AVアンプとサテライトスピーカー、サブウーファーの構成で、ヤマハがエア・サラウンドと呼ぶ疑似5.1chで最大210W、サブウーファーが50Wの出力。当時通常価格が5万円位だった筈です。
低音の迫力含め、Movie モードは“映画館並み”と言っても決してオーバーでは無い程良い音がしていました。しかもTVなど接続機器側にデジタル出力があれば、光ファイバーケーブルでのデジタル接続可能というエントリーモデルとしては優れモノで、勿論音質はピュアオーディオを手掛けるヤマハサウンドでした。しかし、当時は未だHDMI接続は無く、イチイチTVとオーディオ側を二つのリモコンで操作しなければならず、その煩わしさで家内は脱落。しかも家内は然程音に拘りも無いため、いつしか使わなく(使えなく)なっていました。
それが、この引っ越しで寝室も新しいTVになったのを機に、BRAVIAの画質には大いに満足なのですが音が余りに貧弱だったために、家内が設定したグーグルホーム接続でAVX-S30Wを使い始めた結果、システムとしての音と画像には十分満足していました。AVX-S30Wも漸くその本領発揮!というところでした。

 入居して一年近くが過ぎた昨年の秋頃。スピーカーの重低音が早朝から夜中まで響いて我慢出来ないという騒音クレームへの注意勧告が管理会社からマンション掲示板に張り出され、定年で勤めておらずほぼ一日中家にいる身としては気になったのですが、それ程大音量で聞いている訳でもないし(しかも我が家で音量的に大きいのは、むしろTVではなく、時折家内が不在の昼間にクラシックやJazz を聴くステレオの方ですがサブウーファーは無いので)、多分ウチでは無いだろうと思っていました。
ところが、10月末の義姪の結婚式があった軽井沢からの帰路、運転中に私の携帯へ電話があり、家内が出ると管理会社から重低音の原因が我が家ではないかとのこと。前日もその日も低音がヒドイと管理会社へ住人の方からクレームがあったのだとか。家内が、前日の朝から当日まで我々は不在だったことを伝えると「じゃ、間違い無くお宅ではありません。すぐにその旨連絡します!」とのことで一件落着したのでした。
しかし、濡れ衣が晴れたとはいえ疑われたのはナントモ気持ちが悪い・・・。
ヤマハのホームシアターシステムには本格的なサブウーファーがあり、大音量では聞いてはいませんが、床置きなので重低音が下に響かないとは言えない・・・のです。
そのため、これまで聞いていた音量を下げて聞いたり、サブウーファーの音量そのものも下げたり(或いはサブウーファーを外してみたりも)したのですが、それだと如何にも物足りない・・・。そんな悶々とする日々が続きました。
色々ネットで調べてみると、一軒家では問題無いが、集合住宅に住んでいる人で「床置きのサブウーファーの低音が階下に響いて問題になることがあったために床置きのサブウーファーは諦めた」、或いは「サブウーファーは使わない」というコメントが幾つか見つかりました。
重低音の原因がクレームをされた日に間違いなく不在だったので、“犯人”が我が家では無いのはハッキリしたとしても、このまま使っていて、もし何気なく映像に気を取られてボリュームを上げてしまい、いつ何時センシティブな階下の住人の方からクレームが来ないとも限らない。かといって毎日音量を気にしながらTVを視るのも、リラックス出来ずに何とも煩わしい・・・。
 その結果、ヤマハは諦めて廃棄処分とし、床置きのサブウーファー付きのサウンドバーの方が音が良いことは一目瞭然なのですが、サブウーファー付では今と変わらないので。今回はサブウーファー一体型のサウンドバーを購入することにしました。
リビングの大型TVならともかく、寝室のTVですので高価なモノは必要ありません。コスパが良い製品を求めて色々調べてみると・・・、ありました。それは、日本の音響メーカーの老舗、デノン(DENON)のサウンドバー DHT‐217です。
大ヒットモデルだった216の後継モデルとして今年発売された新製品で、一本のサウンドバーなのに下向きサブウーファーを2本搭載して新たに最新の立体音響技術であるDolby Atomosを搭載するなどバージョンアップされていて、価格もアップしてはいますがそれでも3万円弱に抑えられた高コスパモデルです。勿論TV側にARC/eARC端子があれば、HDMI接続でTV側のリモコン一つで使えるので便利です(但しサウンドバー側のモード切替えにはTVリモコンは対応していません)。
AV専門誌のレビューに依ると、『スピーカーは3ウェイ6スピーカーの2.1ch構成。内訳は前面中央に90×45mmの楕円形ミッドレンジを2基、前面両端に25mm径ツイーターを2基、底面に75mm径のサブウーファーを2基となる。サイズは従来機とほぼ同じで、幅890×奥行120×高さ67mm。高さが1mm高くなっているのは、インシュレーターを1mm高くしたため。サブウーファー下の空間を拡大し、音の抜けを良くした』とのこと。
勿論、一本で10万円するような高級機もあれば、独立したサブウーファー付きでより迫力ある音響を楽しめるシステムもあるのですが、DENONのDHT‐217は価格帯が3万円ながら他社の上位機種並みのスペックで、少なくともこの価格帯でDolby Atomosを搭載しているモデルは他にありません。
モードはMovie、Musicの他に、夜間視聴用にダイナミックレンジを落としたNight モードが選択できるのも有難いところ。またPureモードもあるので、Bluetooth接続で音楽用スピーカーとしても活用出来ますので、そのコスパは半端ありません。
因みに、我が家のステレオの方のレシーバーMR-612 はマランツ、今回のサウンドバーはDENONですが、2002年に旧「日本コロムビア」のオーディオ機器部門(元々は電音からのデンオンでしたが、アルファベット表記の英語読みでデノンに変更。ダットサンのDATSUNが“ダッツン”となったのと同じです)と、元々フィリップスのオーディオ部門だった「日本マランツ」が経営統合して誕生した川崎市に本社を置く企業グループで、現在は米国資本。どちらも老舗のピュア・オーディオメーカー。
従って、音には定評のあるDENONのサウンドバーですので安心です。サブウーファーは一体型で、床置きではありませんので低音が床に直接響くこともありません。低音を実感するためにはそれなりの音量が必要にはなりますが、結構低音も出ている感じがしますし、音源にも拠りますがDolby Atomosが搭載されていて立体的にも聞こえるので、サウンド的にも大いに満足でした。

 以前、日テレ系で水曜日の夜10時から放送されていたドラマ「リバーサルオーケストラ」。
3月15日が最終回だったのですが、嘗ての「のだめカンタービレ」以来(映画では国際ピアノコンクールを舞台にした「蜜蜂と遠雷」がありましたが)久々のクラシック音楽を題材としたTVドラマでしたので、クラシック音楽好きとしては大いに楽しんで視ることが出来ました(酔って本放送の時間には寝てしまうので、結局いつも後でTVerで視聴していましたが・・・)。

 「のだめカンタービレ」が、ストーリーは些かドタバタ喜劇のコメディーだったとしても、クラシック音楽の扱いや演奏は専門的で、いたって真摯に描かれていて、実際の演奏もピアニストのラン・ランなどの一流どころが吹き替えを担当していましたし、海外ロケでもチェコの国立ブルノ・フィルを使うなど本格的でした。

 今回の「リバーサルオーケストラ」は、コメディタッチの演出もところどころ無いではありませんが、全体のストーリーは真面目そのもの。しかも、毎回泣かせる場面もあってストーリーとしても楽しむことが出来ました。
しかし、今のTVドラマが半年間のワン・クールという短さもあって、物語そのものも複雑化は出来ず、割とシンプルなストーリーにならざるを得ないでしょうし、従ってドラマ内で使われる楽曲なども「のだめ」に比べると曲数が限定的で、例えば「のだめ」で使われたリスト「ファウスト交響曲」からの「神秘の合唱」の様なクラシック好きも「えっ、これ何だったっけ?」と唸らされる様な選曲は無かったのですが、ドラマ主題曲が「のだめ」の“ベト7”に対し、「リバーサルオーケストラ」が“チャイ5”だったのは個人的に嬉しい限りでした。
というのも、大学に入学して生まれて初めて買ったLPがチャイコフスキーの5番でしたし、子供たちが社会人として“巣立ち”、我々夫婦二人だけになってから多少の余裕が出来たので、それまでの地元松本でだけではなく上京しても聴くようになった“ナマオケ”で、先ず最初に生で聴きたくて選んだコンサートも、東京芸術劇場での今は亡きロジェヴェン指揮読響の“チャイ5”でした。

 今回のドラマでは神奈川フィルが全面協力とのこと。従って、練習風景含め演奏時の団員が神奈川フィルの方々であるのは当然として、最後の場面での審査員として登場したのが、びわ湖ホール芸術監督を退任し、昨年から神奈川フィルの音楽監督を務める指揮者の沼尻竜典氏と、神奈川フィルのソロコンマスを務める、一見“こわもて”の“石田組”石田泰尚氏であったのも或る意味納得。そして、あの“こけら落とし”会場となった“西さいたま”シンフォニーホールも、神奈川フィルの定演会場である「横浜みなとみらいコンサートホール」であろうことも当然でした。

 今までTVや映画で拝見したことは無かったのですが、主演の門脇麦さんは「のだめ」の上野樹里さん同様に、コメディエンヌとしての才能も大いに評価出来ましたし、またチェロ主席を演じられた瀧内公美さんはこれまで出演されたのが薄幸というか汚れ役?しかなかったそうですが、今回のTV(失礼ながら初めて拝見しました)の中で見せる“への字”風の笑顔がとても素敵で癒されました。
今回の「リバーサルオーケストラ」は、ストーリー展開上、憎まれ役は居ても悪人が誰も居ないのが、或る意味安心して視られた一因かもしれません。

 「リバーサルオーケストラ」を視終わって、何だかまた “ナマオケ”で“チャイ5”を聴きたくなりました。

 毎年開催されている、その年の考古学上の発掘発見成果を発表展示する「発掘された松本」展。これは全国版の「発掘された日本」の或る意味地方版なのですが、今年も「発掘された松本2022」として2月の11日~26日まで開催されたので、その会場に見に行ってきました。会場は、例年同様、街中の「松本市時計博物館」です。

 2022年に松本市内の遺跡で発掘された中で、今回紹介展示されていたのは、松本城の外堀復活に伴う周辺整備で発掘された、三の丸土井尻、南外堀の二件と、弘法山古墳の第4次調査と弘法山の麓に近い地域の古墳時代の大集落と云われる出川南遺跡の第29次発掘調査。そして、松本平の西側、奈良井川西部の古代集落の37年振りの大規模発掘という南栗遺跡発掘調査の5件でした。

 今回の発掘調査で松本城の外堀の形状が、これまで考えられていたV字型(片薬研堀)ではなく底が平面状の箱堀であることが確認されるなど、復元化に向けての成果などはありましたが、今までに比べると今年の展示はあまり目玉の発掘成果が無かったように思います。個人的に関心の高い弘法山古墳も、全体像の確認にはまだまだ時間が掛かりそうです。
今回の一応の目玉展示は、江戸時代の武家屋敷跡から出土した金箔カワラケ。中世の頃から饗宴の場や特別な儀式の際に使用された酒器で、全国的に出土例は少なく、大名クラスの城や居館等で出土している物とのことでした。
 “国宝級の大発見”と云われる奈良の富雄丸山古墳の報道が先日あっただけに、些か期待が大き過ぎたのかもしれませんが、古墳全体の形状確認が目的の弘法山古墳のトレンチなどは少し地味に感じてしまいますが、本来考古学な発掘調査はそうした地味な成果の積み重ねなのでしょう。
でも、一度発掘されていた古墳からも驚くべき出土品があった富雄丸山古墳が好例な様に、日本列島にはまだまだ見つかっていない“魏から邪馬台国女王卑弥呼に贈られた「親魏倭王の金印」”などの様な埋蔵品がどこかに眠っているに違いないのですから、そんな“古代のロマン”を夢見ながら、今後の発掘成果に期待したいと思います。

 唐突な書き出しで恐縮ですが・・・、漸く一ヶ月が経って、何とか心の整理が出来つつあります。

 3月7日、我が家の愛犬ナナが“虹の橋”を渡って行きました。
15歳と11ヶ月、16歳の誕生日を目前にしての旅立ちでした。

そのため、ペットロスもあって、新たにブログ記事を書く気にはなれなかったので、今まではナナが亡くなる前に書き溜めておいたブログ原稿があり、中断後に掲載を再開してからはそれで何とか繋いできたのですが、それも前話で尽きたところ。
そして、亡くなってから一ヶ月も過ぎましたし、昨日がちょうど節目ともなるナナの16歳の誕生日でしたので、ここでナナのことを振り返りながらまたブログを綴ることにしました。
 ナナが亡くなる2週間前から食が細ってご飯を少し残すようになり、1週間前には何となくフラフラして吐き気もあったので、家内が手伝いで東京と横浜の娘たちの所に行っている不在中にまさかのことがあってはいけないと、慌てて掛かり付けの動物病院へ連れて行って、診察の結果そのまま緊急入院。
そして、血管点滴をしながらその後1週間入院。入院中は毎日病院には面会に行っていたのですが、治療の結果「持病である心臓と腎臓の数値は戻って来て、水は自力で立ち上がって自分で飲むようにはなったものの食事は一切食べない」という先生の説明もあり、今後はそのまま入院して血管点滴を継続するか、一旦退院してその後は二日に一度の皮下点滴をしながら治療を継続するという選択肢もあるとのとこ。
そこで家内と娘たちとも相談し、夜も病院にナナを独りにしておくのは可哀想だし、またもうこれ以上痛い思いをさせて、ナナの小さな体に負担を掛けるのは止めようと決断。
そして、その旨を動物病院に伝え、その日だけは皮下点滴をしてもらっていましたのでそれを最後に、ナナを退院させて家に連れて帰り、家内と私で夜も代わる代わるナナの傍らで4日間見守っていました。
娘たちからも帰省しようかとの申し出もあったのですが、特に次女の婿殿は今まで取ったことも無いという有給を取って自分が孫娘の面倒を見ているから、ナナに最後のお別れをして来たらどうかと勧めてくれたとか・・・。
しかし二人共帰省はせず、家内とのLINEのビデオ通話で定期的にナナの様子を確認しながら、都度お互いに涙にくれていた様です(“貰い泣き”をしたくないので、私はLINEには参加しませんでした)。
コユキも、いつもと違うナナの様子に何か異変を感じたのでしょう。普段はペットベッドでナナにくっ付いて寝ているのが、ナナの邪魔をしてはいけないと思ったのか、時折気になるのか様子を見には行くのですが、一緒には寝ずに少し離れたソファーに跳び乗って健気にじっと静かにしていました。
          (この写真は3月4日の様子です)
そんな日が続いた、退院させて4日目の3月7日。もう立たせてあげないと、水を飲むために自力では立ち上がることも出来なくなっていました。
その日は松本も快晴で、4月並みの春の様な暖かさ。天気が良かったので、お昼前に、この日もナナを抱いてコユキと一緒にいつものコースを散歩しました。
退院後、ナナはマナーウェアを常時付けてはいたのですが、お尻が汚れていたので、家に戻ってからお風呂場の温かいシャワーでお尻をキレイに洗ってあげました。
その後温風でしっかり乾かしてから、家内と代わる代わるベッドで寝ているナナを撫でながら様子をみていました。
そして、家内がベッドからナナを抱き上げて、ソファーに座ってずっと抱いていました。すると次第に呼吸が小さくなり、やがて静かに呼吸が止まりました。最後は家内の腕の中で、穏やかに、静かに“虹の橋”を渡って行きました。午後3時40分でした。
 ペット火葬をお願いするために松本市の葬祭センターに連絡すると、4日後の11日まで予約で一杯とのこと。「えっ、どうしよう?」と一瞬途方にくれたのですが、電話口の係の方が、
 「松本広域連合なので、安曇野市でも受け付けてくれますよ!聞いてみられたらどうですか?」
と教えてくれ、すぐに安曇野市の葬祭センターに電話したところ、幸いにも翌日の午前中に対応可能とのこと。しかも安曇野市民だけではなく、松本市民も松本市からの補助があるので双方同料金で対応してくれているのだそうです。また、化繊でなければタオル等で包んであげて、数輪であれば周りに花や少しであればドッグフードを置いてあげても構わないとのこと。
そこで綿100%のタオルで包み、ちょうど満開だった我が家の蘭の花を6輪切って、ナナの周りに飾ってあげました。
翌朝、お留守番をするコユキと棲家にも最後のお別れをして、ナナを豊科にある安曇野市の葬祭センターへ連れて行き、火葬にしていただきました。
チロルの火葬の時は「自分も見送りたい」と東京から戻って来た長女ですが、今回は仕事で戻れませんでしたので、都度LINEで様子を娘たちにも知らせながら我々だけで見送ってあげることにしました。
ここは父方の叔母の葬儀の際に一度来たことがありますが、松本市からも近く、旧四賀村との境の豊科の山の中にあって施設も新しく、広々としていて周囲を赤松林に囲まれた静かな環境。指定された時間に行くと、ペット火葬の場所で職員の方が我々を待っていてくださり、そこでナナへの最後の見送りをしてからロビーで受付をし、ナナが天国へ上って行く間から収骨まで実に丁寧に対応いただきました。
 ナナは、3年前に人間でいう“心臓弁膜症”で肺水腫となり、一度余命宣告されています。その時は全く食べてくれず、色々な人から聞いた“あの手この手”で、例えば馬刺しに薬を隠して食べさせようとしても結局失敗。一度はもうダメかもしれないと覚悟を決めたのですが、その後我が家に来た保護犬のコユキのお陰もあって、掛かり付けの動物病院の先生も驚く程に奇跡的に回復。以降は定期検査と毎食事時の投薬は欠かせませんでしたが、その後3年間命を長らえて、以降、車での移動可能な範囲とはいえ、ナナとコユキと一緒に箱根、京都、金沢、飛騨高山と下呂、山中湖、琵琶湖、軽井沢などなど・・・、皆で一緒に旅行することも出来、お陰でたくさんの思い出を作ることも出来ました。
(写真はナナとの最後になった京都旅行と3年前の箱根や伊勢旅行などです)

 以前チロルが亡くなった時に、昼間独りになる母の話し相手にと飼っていたナナが一緒に居てくれたおかげで、ペットロスも多少は救われたのですが、それでも或る日、朝のワンコの散歩仲間の年配の女性の方がご自身の体験からと、
 「“ペットロス”を我慢しないで、大いに悲しんであげればイイんです。それも亡くなったワンちゃんへの供養ですから!」
と云われて気持ちが救われ、散歩中の家内がその場で号泣していたことを思い出します。
ですので、ナナが亡くなった後も、コユキが居てくれるものの、今回もペットロスを我慢せずに、毎日ナナを思い出しては涙に暮れています。でも、チロルの時と同様に、それもナナへの供養と大いに悲しんであげたいと思っています。
余談ですが、独り取り残されたコユキも“犬ながらに”分かるのか、元気がありません。
朝、先に起きてリビングへ行っていたナナや、散歩から帰って先に足を拭いてリビングにいるナナの所に、いつもダァーっと走り寄って行くコユキでしたが、ナナがいなくなるとそれもありませんし、まるで“赤ちゃん返り”の様に家内に甘える様になりました。
コユキは3年前にブリーダーから“不要犬”として捨てられ、保護されたのが“推定8歳”の時。それまでは声帯まで切られ、ただ繁殖させるための“商売道具”として、人間に甘えることなど出来なかったのですから、保護されるまでの8年分を取り戻すまで、そしてこれからは更にナナの分までコユキを大いに可愛がって甘えさせてあげればイイと思っています。コユキもここで(埼玉県の保健所に保護されたという4月12日を誕生日として登録しています)11歳になりました。

 ナナが亡くなってから漸く一ヶ月が過ぎました。そして、昨日4月16日がナナの16歳の誕生日でした。
従って、まだ喪が明けぬ、人間で云えば“四十九”前ですが、“虹の橋”を渡ったナナは、きっと天国でチロルに会ってチロルと一緒に我が家を見守ってくれていると思います。
“虹の橋”とは、米国の或る詩人が書いた『この世を去ったペットたちは、天国の手前の草原に行く。そこで仲間と楽しく遊び回る。しかし、たった一つ気がかりなのが、残してきた飼い主のこと。一匹の目に、草原に向かってくる人影が映る。その姿を認めるなり、そのペットは全力で駆けていき、その人に飛びついてキスをする。飼い主はこうしてペットと再会し、一緒に虹の橋を渡って行く』という散文詩『 Rainbow Bridge 』が、その“虹の橋”の大元なのだそうです。
因みに、ペットが先に単独で「虹の橋を渡る」となると、実際の元々のストーリーとは異なるのですが、そんな原作との違いよりも、愛するペットが“虹の橋”を渡って“ちゃんと”「天国へ旅立って行った」というイメージの方が、恐らく多くの飼い主の人たちに優先されて定着したのだろうと云われています。
また、同じく米国には“ Rainbow Baby ”という言葉があり、このレインボーベイビーとは、死産や流産などで子供を失ったことがあるご家族に生まれてきてくれた赤ちゃんを指すのだとか。
その意味では、“虹の橋”を渡って行ったチロルの時に私たちの傍らにいてくれたナナ。そして今回はナナが“虹の橋”を渡った後に残ったコユキが、さしずめ我が家にとっての“ Rainbow Dog ”なのでしょうか。

 ありがとう、ナナ。本当に良く頑張ったよね。もう苦しまずにゆっくり休んでね。ウチに来てくれて16年間、本当に、本当にありがとう。

 ナナのお陰で、たくさんの思い出を作ることが出来ました。
さすがはチャンピオン犬の孫という血筋か、或いはチベット原産で元々清朝の宮廷犬だったシーズー(獅子狗)という犬種故の“我関せず”という“孤高”の性格なのか、ナナは人や他の犬に吠えたことが無く(唯一、先住犬のチロルの真似をして、ご飯を催促する時のみ)、本当に手が掛からないワンコでした。だからこそ先住犬だったチロルや、また3年前に我が家にやって来た保護犬のコユキとも何のトラブルも無く、一緒に暮らせたのだろうと思います。
 ナナ、16年間本当にありがとう。じゃあ、チロルに宜しくね 💛

2023年3月7日15時40分 ナナ永眠 15歳11ヶ月

 今回の京都滞在中、学生時代の“思い出の味”だった「らんたんラーメン」を45年ぶりに食べに行けたものの、京都のラーメン店でもう一軒行きたかった京都駅近くの塩小路高倉に在る「新福菜館」へは、ホテルの在る岡崎から一人でバスや電車に乗って行くのが面倒臭くなり、結局は行きませんでした。

 四泊五日での京都旅行の最終日は、朝早めに京都を出て東海道を東へ450㎞。東京で娘をピックアップするため、この日は東京の港区に在る長女のマンションに一泊して翌日一緒に松本へ帰ることにしていました。
都心でも降雪予報が出ていて、そのために首都高での一部計画的通行止めの区間がありましたが、結果は降雨で道路は特に問題も無く、無事に娘のマンションに到着したその日の夕食。
彼女はこの日重要な会食予定があり、家内はマンション近くのお気に入りというベーカリーでまとめ買いをして来たパンで十分とのこと。私メは夕食のパンにイマイチ食指が動かず、運転疲れはありましたが、
 「じゃあ、どこか近所で何か食べて来ようかな・・・」
すると、娘曰く、
 「麻布十番に新福菜館があるけど・・・」
というナントモ耳よりな情報が・・・。
 「えっ!?あの京都の、ラーメンの、新福菜館??」
と、思わずそこでバカな質問をしてしまいましたが、間違いなくその“京都のラーメンの「新福菜館」”が麻布十番に出店しているのだそうです。
麻布台にはロシア大使館があるのですが、余談ながら日本の警察が24時間周辺警備をしていて、特にウクライナ侵攻後は警備が強化された由。お巡りさんたちが常時いてくれるだけで周辺の治安にも好影響があるでしょうから、親としては安心感があります。(因みに今、この周辺は麻布台ヒルズの建設工事も終盤で、まさにカオスとも謂える様な凄まじい状態ですが・・・)
麻布台からは、そのロシア大使館の横の狸穴坂を下って徒歩10分とのこと。そこで、京都では行くのを諦めて食べられなかったあの「新福菜館」へ、ナントこの東京で食べに行くことになりました。

 雨の中、Googleマップを頼りに辿り着いたその場所は、幹線道路には面しているものの、首都高の高架下のすぐ近くで周囲に他には店は無く、あまり目立たない場所。しかもL字型のカウンターと二人掛けのテーブルが3卓あるくらいの10席ちょっとの狭い店内で、京都の本店の1/5くらいの広さでしょうか。夕方6時くらいでしたが、この日は都心での降雪予報で前日から早めの帰宅を促していたせいか店内は空いていて、先客の二組のお客さんがおられましたがカウンターは私一人だけ。外の券売機が故障中とのことで、店内で現金引換えでの注文。

今回は夕飯ということもあり、前回3年前の京都では食べなかったもう一つの「新福菜館」名物の念願のチャーハンも食べるべく、中華そば(並)+焼きめし(小)のセット(1150円)をオーダーしました。併せて、この日の長距離ドライブへの自分への慰労に生ビールも追加して、
 「長時間の運転、お疲れさま!」
先ずは焼きめしから戴きます。ラーメンと共に新福菜館名物のヤキメシ(何となくビジュアル的には中華風に炒飯と呼びたくなります)。ラーメン用の黒い醤油ダレを使うのか、新福菜館のラーメンスープと同じで真っ黒なヤキメシです。でもラーメン同様でコクはありますが、決してしょっぱくはありません。炒めるが故に香ばしさがより一層増した感じです。今回は中華そばを「並」にしたので、ヤキメシはセットメニューの中の「小」にしたのですが、これでも十分な量があります。
 続いてお待ちかねのラーメン。あぁ、念願の新福菜館の中華そばです。
以前、新福菜館本店の直営店は府立医大前だけと聞いたことがあるので、こちらの麻布十番店は直営店ではないのかもしれませんが、京都で食べられなかった新福菜館のラーメンが、まさかこの東京で食べられるなんて!・・・この日、京都から東京まで450㎞の長距離運転へのご褒美でしょうか?・・・。
新福菜館の「中華そば」と云えば、何と言ってもこの真っ黒なスープが特徴です。創業者である中国浙江省出身の徐永俤さんが日本全国を探し回ったという濃い口醤油がベースのタレと、豚骨と鶏ガラで取った出汁のスープは濃過ぎず、決してしょっぱく(塩辛く)もなく、焦がし醤油の様な旨味とコクがあります。
1938年(昭和13年)に徐さんが京都で屋台で創業し、戦時中の1944年には現在の本店の在る場所に店舗を構えたという新福菜館。
その“京都ラーメン”の元祖らしく、トッピングされた山盛りの九条ネギと、その下にシャキシャキの茹でモヤシ。更にシナチク、そして柔らかな薄切りのバラチャーシューが「並」でも結構な枚数添えられていて、これまた新福菜館の名物です。そしてスープに絡む中太のストレート麺。3年ぶりの舌の記憶ですが、まさしく京都の新福菜館の味でした。
カウンターに囲まれた厨房では、スタッフの方がオーダーされたラーメンを調理する以外の時間も、事前にその日の必要量を常備するためなのか、一心に中華鍋を振ってヤキメシを調理していて、また自動のスライサーで柔らかく煮たチャーシューの塊が次々にカットされていました。
3年前に初めて食べた本店で、普通の大盛りのつもりで「特大」を頼み、麺の量が3玉は優にありそうな程に多過ぎて、チャーシューや具材とスープは食べ切ったものの、申し訳なくも麺は全部食べ切れずに結局残してしまったのですが、今回はしっかりとスープも全部飲み干して(勿論生ビールもですが)、焼きめしと中華そばのセットメニューでお腹も満腹になって、氷雨が降り続く中、また狸穴坂を上って娘のマンションに戻りました。

 京都では食べられなかった「新福菜館」の中華そば。それがここ東京の麻布で食べられるなんて・・・。しかし、いくら“狸穴”とはいえ、まさか狸に化かされた訳でもあるまい・・・・と。

【追記】東京でラーメンもう一杯・・・『八王子ラーメン』
 翌朝、車で松本へ帰る途中、10時過ぎまで前日からの中央道の降雪に由る通行止めが解除されなかったので、中央道石川PAで朝食を兼ねて一時間程の時間調整です。
家内はドトールでパンとコーヒー。娘と私メは、普段はあまり立ち寄ることの無いせっかくの石川PAですので、朝食代わりに「八王子ラーメン」です。
 「えっ、二人共朝からラーメン食べるの!?」
 「イヤイヤあるでしょ、朝ラー!」
 「うん、あるある!」
ご当地ラーメンの一つである“八王子ラーメン”・・・その特徴は、醤油ベースのスープで、そのスープが冷めるのを避けるために使うラードが麺に絡んで旨みを引き立て、アクセントにみじん切りにしたタマネギのシャキシャキとした食感と甘みが特徴・・・とのこと。
地元のラーメン店が普及のために「八麺会」なる団体を作り、八王子ラーメンの定義として、『醤油ベースのタレ、表面を油が覆っている、きざみ玉葱を具として使用していること』という三つのルールを定め、この石川PAの店もその「八麺会」の会員とのことでした。
味はアッサリとした甘さを感じる醤油味のスープに中細の縮み麺。たっぷりの刻み玉ネギに厚手のバラチャーシューが二枚(ちょっと脂身が多過ぎて、娘は食べられず)とメンマ、そして普通のネギと海苔がトッピング。
人によっては(特に女性は?)ラードが気になる方がいるかもしれませんし、いくらバラチャーシューとはいえ(やはり女性にとっては?)ちょっと脂身が多過ぎでしょうか。また特徴の刻み玉ネギは食感だけで、あまり味のアクセントとしては感じませんでした。でも、高速道路のSAやPAで食べられるラーメンとしては十分に合格点ではないでしょうか。
ただ、何故か我々の注文した内の一杯は刻み玉ネギを入れ忘れ。こちらの指摘で初めてトッピングされたのは、ご愛敬とはいえ些か減点でしたが・・・。
ご馳走さまでした。

 今回の京都滞在中も、以前“京都グルメ”通の長女に家内が連れて行ってもらったという先斗町の人気のおばんざいの居酒屋とか、滞在した岡崎に在る老舗の和食店とかにも行ったのですが、今回一番の“京都グルメ”だと感じたのは、ランチで行った奥さま念願の「半兵衛麩」でした。
この「半兵衛麩」は元禄2年(1689年)に初代玉置半兵衛が宮中で覚えた技で麸屋を始めたという麩と湯葉の専門店で、創業330年とか。
因みに元禄時代は第5代将軍“犬公方”綱吉の頃で、“忠臣蔵”の討ち入りが元禄の15年です。
京都では「この前の戦争というと応仁の乱を指す」という、まことしやかな“都市伝説”があり、「たったの100年じゃ京都では老舗とは言えない」そうですが、そんな京都でも流石にこの「半兵衛麩」は間違いなく老舗でしょう。


「半兵衛麩 本店」は鴨川に架かる五条大橋の東南側(住所は東山区問屋町通五条下る) にある近代的なビル。そこの3階にカフェ「ふふふあん」(英語表記が“ Fu Fu Fu and ”とか、なかなか粋ですね)もあって、半兵衛麸の生麸と生湯葉を一緒に食べられるあんかけご飯などがランチで人気なのだそうですが、予約は取らず先着順とのこと。またこちらはカジュアルに生麩をや湯葉を現代風にアレンジして、その利用を広めることが狙いの由。
奥さま的には、「半兵衛麩」でしか食べられない伝統的な生麩料理が食べたいとのこと。そのため、カジュアルな「ふふふあん」ではなく、京町家をリノベーションしたという「茶房」でランチの予約のみ、しかもメニュー一種類という、生麩と湯葉のコース料理の「むし養い」がどうしても食べたいとの仰せ。
「半兵衛麩」のH/Pに由ると、「むし養い」とは京言葉で、「お腹の虫を養う軽い食事」とのこと。そのため奥さまは、数週間前にその「むし養い」をちゃんと予約してありました。
京都名物の生麩を、以前娘が京都からのお土産に買って来てくれて、家での夕食時に一品として、生麩を切って炙り、柚子味噌や自家製の山椒味噌があったので味噌田楽にしていただきましたが、もっちりと柔らかく、弾力のある食感で美味しかった記憶があります。特に女性陣には好評でした。また作る側としても、豆腐田楽の様に“水切り”をしなくても良いので楽でした。
「半兵衛麩」本店ビルは、一階に生麩や湯葉の販売店舗、二階はギャラリー、そして三階にカフェ「ふふあん」があるのですが、「むし養い」を戴く茶房は本店ビルの南隣にあり、築120年という京町家の玄関を潜って二階に上がり、元々店舗として使用していた建物をリノベーションして、昨年茶房としてリニューアルしたのだとか。こちらはランチのみの営業です。
幾つか区切られた趣のある部屋で数組ずつ、ランチ限定の「むし養い」(税込み 4,400円/人)として、懐石料理のコースの様な「京麸・京ゆばづくしの料理」を頂きます。「むし養い」というのは、京都で云う“お腹の虫を養う軽い食事”で「おなかが空いた時に、軽く戴くもの」。
雅な“みやこ”と田舎の信州を比べては失礼かもしれませんが、云わば信州で云う“おこひる”でしょうか。信州では、子供の頃に稲刈りやリンゴ取りなどの一家総出の農作業での休憩時に食べた間食を信州(少なくとも松本地方)の方言で“お小昼”(おこひる)と云いますが、農作業は肉体労働ですから、農家の定番の煮物や漬物、菓子類や時にお焼きなど、一般的な“おやつ”よりも品数も多くヘビーなイメージで、子供の頃に田んぼやリンゴ園で食べた記憶があります。

 その懐石料理風の「むし養い」のコース内容。
店舗で販売するだけではなく、「生麩と湯葉料理の奥深さを知ってもらうために」と、一品一品が十二分に吟味された上で「茶房」で提供される様になって35年間。今でもその料理内容は殆ど変わっていないのだそうです。
最初に先附として、お盆の左側に、生麩のしぐれ煮、たっぷりのすりゴマが掛かった焼き麩とキュウリの酢の物、ゆば豆腐。その右側の笹の葉が敷かれた漆器の中に、左から時計回りに生麩の三色の田楽、漬物、ご飯、山椒の味つけの生麩、利久坊、光琳梅、花麩饅頭とのこと。
京都ならではの精進料理にも似て、生麩のしぐれ煮は、まるで佃煮の浅利のしぐれ煮の様ですし、酢の物も味付けが素晴らしい。ご飯のお供にぴったりです。
続いて、汲み上げ湯葉。更に箸休めで、揚げ煎餅の様なゆばの唐揚げの後、生麩と湯葉のみぞれのお椀。そして、よもぎ麩の白味噌仕立。この白味噌仕立が如何にも京都風で、家内は気に入ったそうですが私にはちょっと甘いかな。
最後に、甘味と水菓子として、麩チョコ3種(撮り忘れて写真無し)と京都の水尾名産という柚子を使ったゼリーまで。
麩と湯葉だけでここまで色々多彩な料理になるとは驚きです。「むし養い」という“お小昼”で、しかもランチとしては結構な値段ですが、その満足感は正に“お値段以上”と云っても全く過言ではありませんでした。しかも、心ばかりかお腹も一杯で、イヤ、びっくり。信州の“お小昼”以上のボリュームでした。これも “いけず”と云われる京都流の謙遜なのでしょうか?
本店のカフェの、生麩と湯葉の活用性を拡げるためにと現代風にアレンジされたカジュアルなランチも良いのでしょうが、事前予約のみの「むし養い」は、確かに一見(一食?)の価値あり!
むしろ、「今度京都に来たら、また食べに来よう!」と思わせてくれる、そんな逸品でした。しかも、使われている器も、そして室内を始め館内至る所に置かれた調度品や美術品も歴史と共にそれぞれ味わいがあり、創業三百年を超える老舗の趣が自然と感じられるのです。さすがは京都、奥が深い・・・。
余談ですが、奥さまのOKを得て、ランチに瓶のビールを戴いたのですが、驚いたのはその瓶ビール袴(瓶を入れる漆器)に椿の葉が一枚置かれていたこと。これは瓶を袴に戻す際にカタンという音がしない様に、クッション代わりに敷いているのでしょう。しかもそれがツバキの葉とは・・・。この “単なる葉っぱ”一枚が如何にも京都の老舗らしく、何とも粋で風流な感じがしました。
仲居さんに見送られ茶房を後にして、本店の一階の売り場へ戻り、家内がお世話になった方へのお返しにお送りすべく生麩のセットを注文。併せて、「むし養い」の中での生麩のしぐれ煮、たっぷりのすりゴマが掛かった焼き麩とキュウリの酢の物が美味しかったので、自分たちのお土産にと売り場を探したのですが、しぐれ煮があり日持ちもしそうだったので、三種類あった中から、コースに出たのと同じ生姜味を買って帰りました。
 岡崎へ帰る途中、鴨川の川端通りの五条と四条の中間位の所に「ゑびす神社」があるので参拝。京都ゑびす神社は「京のえべっさん」の名で親しまれる「日本三大えびす」の一つ。私は学生時代も含め初めてでしたが、家内は以前長女と一緒にお参りしたことがあるのだとか。決して大きくはなく、京都の花街の中にひっそりと鎮座し、商売繁盛、家運隆盛、旅行安全のご利益で信仰されています。私たちも娘や婿さんたちのビジネスや仕事の成功などをお祈りしました。
そして、境内の二の鳥居を見上げると、ゑびす様の顔と福箕があります。この福箕にお賽銭を投げ入れる事が出来れば願いが叶うと言われているそうなのでトライ。自分と、ちっとも入りそうもない家内の分も合わせて、二枚の硬貨をそれぞれ二回目と六回目の“試技”で、何とか無事に福箕の中にちゃんと載せることが出来ました。
 「ヤッタね!!皆にイイことがあります様に!」
 「今度来た時に、また半兵衛麩が食べられます様に!」
 「ん?・・・」

 学生時代を過ごした京都へ来て、個人的に食べたいと思うのはラーメンです。
私メは醤油ラーメン派で、しかもどちらかというとこってりとした豚骨醤油よりも、所謂「東京ラーメン」に代表される様な鶏ガラベースのアッサリ系の方が好み。そんな人間が京都で真っ先に食べたいと思うのは、所謂“京都ラーメン”を代表する「新福菜館」。そしてもう一つが学生時代に食べに行った唯一のラーメン屋さんで、熊野神社近くの東大路にある京大病院対面の「らんたんラーメン」です。
但し、45 年前の「らんたんラーメン」で覚えているのは、その味よりもむしろ大将、ラーメン屋のオヤジさん・・・なのです。

 45年前の「らんたんラーメン」の記憶・・・。
それは、学生時代に何度か食べに行ったある時、気に入らない客を叱りつける大将のハイトーンボイス(合唱団にいたせいで声が気になったのか、大変良質なハイバリトン!)が何故か記憶に残っているのです(その客は勿論私メではありませんが、おそらく客の態度にむしろ問題があったのだと思いますが、その場面に居合わせてビビった記憶あり)。それと、メニューの中の貧乏学生用?の肉無しラーメンとラーメンライスの麦飯の存在でした。
記憶が定かでは無いのですが、また勿論毎回では無かったとも思いますが、貧乏学生にはオヤジさんの優しさで、余裕が無くて肉無しラーメンを頼むと、時に(何も言わずに)チャーシューが麺の下に隠れていたことがあった様な気がするのです・・・(果たしてそれが事実だったのか、或いは“過去は全て美しい”と思いたいが故の、自分自身で勝手に美化しただけの“作り話”で、全くの記憶違いなのか・・・???)。
でも、そんな不確かな記憶を補うべく、「らんたんラーメン」の場所を確認するためにネット検索をしていると、私メと同じ様にオヤジさんの優しさにまつわる思い出を書かれていた記事を発見したのです。それは・・・(恐縮乍ら、編集せずにその原文のまま掲載させていただきます)、
『22年前わしが新婚当時、妊娠7ヶ月でおなかの大きくなった嫁が夜中に腹をすかせたというので、ちょうど通りかかったここのラーメン屋に立ち寄った。わしはあまり腹がすいてなかったので、一人前だけ注文し、嫁に食わせていたら、しばらくたってなんともう一人前出てきた。間違いではと思っていたらそのとき、あのおっちゃんが「気にせんと食べとき、おごりや」といってくれたのです。きっと、貧乏な若夫婦に見えたのでしょう。
やさしいおっちゃんの心遣いを無にしないようにおおきにといって食べた。うれしかったよ。
当時の味は、割と濃い目のしょうゆ味でしっかりと出汁も出てお美味しかったような気がする。
おっちゃんとオバちゃんはいつも店でラーメン作りながら喧嘩してましたが・・・。』
ですので、もしかすると私メの学生時代の思い出もあながち記憶違いではなかったのかもしれません。

 学生時代を過ごした京都で、個人的にそんな思い入れのある「らんたんラーメン」。記憶では京都での学生時代に唯一親しんだ、或る意味自分にとっての“青春のラーメン”です(醤油派である私メの好みではありませんが、やはり京都で学生時代を過ごした後輩が絶賛していた「天一」は、私の学生時代はまだそれ程有名では無かった様に思います)。
家内はラーメンが好きではないので、京都に行ってもなかなかその機会が無かったのですが、唯一の機会だったのが3年前。「伊勢丹でスイーツを食べたい」という家内とは別行動になり、念願だった「新福菜館」の本店に食べに行きました。しかし昨年の京都では、長女がリモートでの急な会議が入ったために家内と一緒に行けなくなり、既に二人分予約済みという奥さまの「マドラグ」希望に負けて、予定では「新福菜館」でのリベンジ(前回スペシャルを頼んで完食出来ず)か、或いは味の比較すべく隣の「第一旭」へ行こうかと悩んでいた私メが何故か代わりに行かされることになったため、残念ながら雪辱なりませんでした。
ところが、今回の滞在中に家内が岡崎に在るドイツパンの店「ベッカライペルケオ」で買って来たパンを昼食に食べたいというので、私メは一人でランチを食べるべく、遂に45年ぶりに「らんたんラーメン」へ行くことにしました。
というのも、岡崎からは京都駅近くの「新福菜館」や「第一旭」へはバスか電車(地下鉄か京阪)でないと無理ですが、熊野神社(東大路丸太町)なら歩いて行くことが出来ます。

 観光目的だと、東山で「哲学の道」を歩いても東大路を歩くということはあまりありません。ですので、東大路丸太町界隈を歩くのは、もしかすると学生時代以来なのかもしれません。しかも、何となくこの辺りから先の百万遍付近は学生時代から避けていたのかもしれません・・・。
(ま、それはそれとして・・・)熊野神社のある東大路と丸太町の交差点(東山丸太町)を50m程上がった所、京大病院の対面に色褪せたビニールの軒先テントと赤い提灯が目印。45年ぶりに目指すその「らんたんラーメン」がありました。
狭い店内は、記憶にあるカウンターとテーブル席が幾つか。1時近かったとはいえ、まだランチタイムなのにお客さんはカウンター席に二人だけ。カウンターを挟んだ厨房には女性スタッフが二人。どうやら娘さんとバイトのスタッフの方の様です。厨房の中では、グツグツと湯が煮えている古そうな大きな鉄釜が印象的。またシンボルの“らんたん”が今でも店内の照明に使われている様です。
45年も経てば、値段が違って当然。ラーメンの並みが750円、今でもあったニクナシが600円(当時は250円位だったでしょうか)。今回はせっかくの機会なので“清水の舞台”からちょこっと飛び降りて、学生時代には絶対に頼めなかったチャーシュー麺930円をオーダー。併せて(この年でちゃんと完食出来るのかも良く考えずに)勢いで「らんたんラーメン」と云えば・・・で、名物?の麦めしの小120円もオーダーしてしまいました。
きっとオヤジさん仕込みなのでしょう、手際良くあっという間に自家製麵が茹でられ、丼にもやしと青ネギとメンマが添えられてカウンターへ。
京都ラーメンの特徴なのか、「らんたんラーメン」も「新福菜館」と同じ様に、並みのラーメンでも薄切りチャーシューが結構な枚数載っているのですが、チャーシュー麺ともなると数えきれない程。更にその上のスペシャルまであります。
先ずはスープを一口。
 「う~ん、こんな味だったっけなぁ・・・??」
豚骨と鶏ガラで出汁を取ったと思われる、薄口醤油の様なアッサリと透き通ったスープは、昔はもう少し色が濃くて塩味も勝っていた気がするのですが、昆布や野菜なども使われているのか、この日のスープはかなり甘目に感じます。
45年も経てば、また代替わりをすれば、その時代時代に合わせて味も工夫されて変化していくのでしょう。チャーシュー麺は、一体何枚あるのか途中で数えるのを止めたモモ肉の薄切りのチャーシューや、優しい味付けのメンマとシャキシャキしたネギとモヤシも良いアクセントで、自家製麺という中細の縮れ麺に良く合っています。
そして、黄色い沢庵漬けが二枚添えられた麦めし。
 「そういえば、昔も沢庵漬けが載ってたっけ・・・」
多分、麦そのものは当時よりも量が少なくて、殆ど普通のご飯の様な気もしましたが、それでも多少パサつくあの麦の独特な食感もあって、何だか懐かしくて涙が出そうでした。でも考えてみると、会社勤めの頃に新宿への出張時のランチタイムに、新宿サブナードに在った「根岸」の牛タンと麦めしを食べても、特段麦めしに何の懐かしさも感じなかったのに不思議です。それは、単に“思い出の味”というのではなく、むしろ45年前の“思い出”そのものを一緒に味わっているからなのかもしれません。そんな“思い出の味”を今回45年ぶりにじっくりと味わうことが出来ました。
もし今の好みを聞かれれば、個人的には「新福菜館」の方に軍配を挙げるかもしれませんが、45年ぶりの「らんたんラーメン」に加味された“思い出”というスパイスが、より一層その味を引き立ててくれている様でした。
食べ終わって出掛けに、
 「今日は学生時代以来なんです。オヤジさんはお元気ですか?」
 「ハイ、元気にしてます!ありがとうございます」
 「そうですか、そりゃ良かった・・・どうも、ごちそう様でした!」
ラーメンの暖かさか、何だか体も芯からほっこりして45年ぶりの「らんたんラーメン」を後にしました。

 先に出町柳の喫茶店「マキ」でモーニングを食べてからまた戻って下賀茂神社を参拝した帰りに、今度は出町柳商店街の豆餅が有名な「ふたば」へ。喫茶店に入る前から、遠目にも出町柳の商店街で既に行列になっているが見えたのですが、下賀茂神社からの帰りがけに奥さまが、
 「せっかくここまで来たから、ふたばの豆餅買って帰ろうかな・・・」
 「イヤ、だってあの行列だよ!」
というのも、その時間には店の前の通路に既に三重の行列が出来ていて、「行列担当」と書いたゼッケンを胸に付けた専門の店員さんが「最後尾」の札を示しながら、両隣の店先や商店街の通路の邪魔にならぬ様に行列の整理をしていました。

この「ふたば」、元々は石川県の加賀出身の創業者が、地元の豆餅を京都でも根付かせようと明治32年(1899年)に始めたのだとか。そうすると、創業124年ですので、いくら人気店でも京都では老舗としてはまだ認めて貰えないのでしょうか・・・。“百万石”の古都金沢も和菓子が有名なので、むしろ金沢の豆餅の方がもしかすると本家本元なのでは?(京都じゃなくて金沢で買ったらよろし!)などと個人的には思ってしまいますが・・・。
家内の松本のお友達のご子息が府立医大でお医者さんをされていて、何度も京都に来られているので“京都通”で色々詳しく、家内はコロナ禍前までは毎年そのお友達と一緒に京都旅行に来ていて、その時にこの「ふたば」にも一緒に買いに来たことがあるのだとか。
 「ふたばには店員さんがたくさんいて、皆手分けして同時に注文をさばいているので、見た目の行列の印象より意外と短い時間で買えるんだよ!」
確かに店頭からも、中でたくさんの店員さんが手際よく手仕事で豆餅など作っているのが見え、また同じようにたくさんの店員さんがテキパキと客の注文をさばいていきます。そのため、次から次へと順番が進んでいきます。ま、他に何か予定がある訳でもないので意を決して三重の行列の最後尾に並ぶと、確かに思った程は待たずに我々の順番になりました。
こちらの名物は何といっても「名代豆餅」とのこと。残念ながら大福は既に売り切れていましたので、名物の豆餅(220円)の他に、よもぎの草餅を使った田舎大福(240円)と桜餅(280円だったかな?関西故に当然道明寺です)も二つずつ購入。どれも一つが200円ちょっと。京都市内は和菓子店も多く、そうした中で売られている大福に比べ、仮に値段が同じ位であっても、こちらの「ふたば」の豆餅や大福の大きさは一回りも二回りも大きい様な気がしますので、味は勿論ですが、きっとコスパが良いのもその人気の理由なのでしょう。
 帰り道の鴨川縁を歩きながら、途中ベンチで食べようかとも思いましたが、ブランチ代わりの「マキ」のモーニングで二人共お腹が一杯だったので、ふたばの豆餅はホテルに持ち帰って、後で食べました。
豆餅も田舎大福も、包んでいる餅がまるで「ぎゅうひ」(求肥)の様に本当に柔らかです。豆餅は北海道産の小豆のこし餡と、こし餡を包んだ餅の皮越しに見えるブツブツした豆(赤エンドウ)が特徴。少し塩が効いたこの豆がこし餡の甘みを更に引き立たせています。また道明寺は塩漬けの大判の桜の葉が贅沢に二枚使いで、しつかりと包まれています。
どれも食べ応えがあり、「生菓子故当日中にお召し上がりください」との注意書きもありますが、半分は翌日になって食べたのですが、決して固くならず十分に美味しく戴けました。
ナルホド、一度食べただけでも人気の理由が分かった気がしました。